2017/06/16

「あの頃」と腕時計

先日、とあるSEIKOの腕時計を買った。実はその数ヶ月前にも腕時計を買っていたのだが、先日買ったその腕時計の優美な外観に惚れてしまい、買いたい衝動を我慢できずに買ってしまった。

そのシンプルな、バーインデックスの三針時計は、光のあたる角度によって色々な表情をつくる。昼間の明るい時は、きらっきらっと反射するのだが、夜になれば、街灯のほのかな光を浴びるとたちまち、何とも言えない色気を醸し出すのだ。

そんな腕時計を見ていてふとなんとなく、これがいつ作られたのかが気になった。調べてみると、それは私がちょうど二十歳を迎えた年のときだった。

二十歳、というと、ちょうど大学生のときだ。その頃のことを思い出した。地方の高校から進学して1年。まだまだ垢抜けず、「都心の大学生」像に適合できるようなファッショナブルな装いひとつできやしない自分がそこにいた頃だった。あの頃は自分の、なんというかありとあらゆることに悶々としていた時だったように思う。アルバイト先の、かわいい女の子にどぎまぎしながら、なんとかそれっぽく取り繕うものの、結局うまくいかない、そんな日々を送っていた時だった。

あれから時を経た今、その二十歳という頃を思い返してみると、ただただ「よくここまで来れたなあ」などと思えてしまう。就職が決まった時のことや、一人暮らしを始めたときのことなど、「二十歳から更なる大人へ」と階段を登っていく自分を、その腕時計の製造年を知った時、思い返してしまった。

いまはすっかり、落ち着いたように思う。あの頃の「垢」も、今となっては良い、でもこっ恥ずかしい「思い出」である。

さて、そしてこれから自分はこの腕時計とともにどこへ向かっていくのだろう。この相棒を見ているとちょっとだけ、これから先が気になってしまう。
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2017/01/20

外見は中身の一番外側である ― 『メンズファッションの解剖図鑑』

メンズファッションの解剖図鑑
MB
エクスナレッジ (2016-12-03)
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こういう本はおそらく、いままでになかったと思う。

男のおしゃれをロジカルに書いた本だ。「おしゃれとは何か」「おしゃれと感じる理由は何か」を論理的に解説している。そして重要なのは「人は何をおしゃれと感じるのか」をきちんと説明できている点だ。

著者は言う。日本の男のおしゃれは、いわゆる「アメカジ」ではなく、ドレスライク寄りなコーデにすることで生まれるのだと。言われてみれば確かにそうだ。街中でおしゃれだと感じる男は、ほとんどこのドレスライクなファッションをしているのだ。

靴の選び方、アウター、ボトムスの選び方、考え方まで、具体的に例を挙げながら解説してくれているので、非常に参考になる。

極め付きは、著者の「おしゃれ」に対する考え方だ。中身を磨くよりも、外見を磨いた方が遥かに簡単であること、そして遥かに簡単に自信がつくことをコラムの中で論じている。

長らくの間、この国の男たちを縛ってきた考え方のひとつと言えるのが「男は外見じゃない」「男は中身だ」的な発想である。

私はこの考え方が大嫌いだ。なぜ、男がおしゃれに気を使ってはいけないのだろう?人が真っ先に人を判断する材料は、他ならぬ「外見」だというのに。

最近わたしが感銘を受けたのは、「外見は中身の一番外側である」という言葉だ。非常なまでに言い得て妙だと思う。中身が良いのなら、それが外ににじみ出てもいいであろうに、それがないのはちと変だ。にもかかわらず、外見はだらしなくても「わたしは中身に自信があるのです」などと弁明されても腑に落ちないのは私だけではなかろう。

ちなみに、わたしは男のファッションの基本は、「スーツをきちんと着られる」ことから始まると考えている。なぜスーツなのかというと、これが現代の男子にとって、最もフォーマルな服装であり、女性からもっとも支持されている服装であり、「男のおしゃれ」のコンセプトはすべてこの「スーツ」という服の中に込められていると思うからだ。

逆に言えば、スーツをきちんと着こなせられれば、私服はそのフォーマルな「スーツ」をカジュアルに着られるようなコーデにすればいいだけの話なのである。だから、大人の男のおしゃれは、スーツから始まり、スーツで終わると言っても過言ではないはずだ。

いずれにせよ、おしゃれであるというのはどんな時においても有利に働いてくれる。仕事でも恋愛でもオフでも、である。なぜなら、おしゃれは自分に自信を持たせてくれるからだ。

わたしはおしゃれをするのが大好きだ。している時の自分は、本当に自信が持てる。そして人の目を気にするようになるので、変なことやカッコ悪いことはしなくなるし、背筋もピンとしようとする。結果、ますます良く見られるようになるという、相乗効果が期待できる。

男のおしゃれは大いに歓迎されるべきなのだ。
2016/05/02

「武器」としてのミニマリズム

最近のわたしにとってのブームは、「ミニマリズム」だ。部屋の中や、職場の机の上、外出時の持ち物など、ありとあらゆる無駄な「モノ」をそぎ落とし、身軽かつ快適な生活を維持する生き方を言う。

今ではいろいろな雑誌や書籍で、この「ミニマリズム」(少し前の言い方だと「断捨離」だが)が取り上げられている。

きっかけは、『ぼくたちに、もうモノは必要ない』(佐々木典士著)を読んでからだ。この本では、部屋の中にある無駄なモノをいかにそぎ落としていくか、モノを減らすことでなぜ快適な人生を送れるのかが書かれている。

もともと、わたしは部屋や職場の机はきれいにしてきた方だと思っているが、この本と『「超整理法』(野口悠紀雄著)を読んで、よりモノを減らす方向へ動くようになった。

本や雑誌は読んだらすぐ売るようになった。ダンボール箱をひとつ用意し、読み終わったら、そこへどんどん詰めていく。いっぱいになったら、中古本の買取業者に来てもらい、売り渡してしまう。基本的に、一度読んだ本を再読することはしない人間なので、売っても後悔することはない。あとで読みたくなったら、Amazonの中古本販売で買い直せばいいのだから。

食器も捨てた。あるのはフライパンと水切り器くらいだ。一人暮らしをしているので、フライパンひとつで調理器&食器になってしまう。洗い物もプライパンと水切り器だけ。箸やコップは使い捨て(100円ショップで割り箸&紙コップを調達)だ。何も困ることはない。

服も捨てた。ユニクロで白シャツとズボン、靴下を購入している。毎回同じだから、服選びで悩むことはない。靴下は色と種類が全部同じなので、「靴下の相方探し」などしなくてよい。また、ユニクロは基本的にどこにでもあるので、必要なときにいつでも服を買いに行ける素晴らしさがある。

カーペットも掃除機も捨てた。あるのは、クイックルワイパーと科学雑巾だけ。いままで、掃除機をかけることが億劫で仕方なかったが、いまは週に一回、休日にモップがけしている。いままできちんと掃除していなかったところも掃除をするようになった。カーペットだとこうはいかない。基本的に掃除機では吸い取れないほこりなども付着してしまうからだ。いまの掃除スタイルに変えて本当に良かった。

職場では、自分向けの業務マニュアルはすべてデジタル化した。いままで、自分専用のパイプファイルを用意して、そこに紙で綴じていたのだが、このやり方だと、書類は溜まっていく一方だ。新しい仕事を覚えていくたびに、メモやマニュアル類が増えていくのは、うっとうしいし、必要な書類を探すのにも時間がかかる。しかし、いまは紙をPDF化させ、USBメモリにひたすら、書類作成日時順に突っ込んでいくだけ。フォルダを作成し、事細かに分類するやり方は一切やめた。

ちなみに、この分類せずに時間順で保管していくやり方は『「超」整理法』から学んだ。こうすることで、よく使ったり、更新したりするファイルがひと目でわかるようになった。見たいメモや書類は検索機能を使うことですぐにアクセスできる。そしてなんといっても良いのが、紙の時のように、まったくかさばらないこと。これで、パイプファイル保管とは永遠におさらばだ。

ところで先日、旅行に行ったのだが、そのとき気をつけたのが、持っていくものをミニマルにすることだった。手提げカバンは持たず、軽量小型のスーツケースひとつに衣類とその他必要な小物を入れるだけに留めた。それでもスーツケースの中をいっぱにはせず、空きのスペースを2割作ることにした。こうしておけば、旅先で何か購入しても、そこへ入れられるからだ。

目的地の駅に着いたら、スーツケースはコインロッカーに預けてしまい、スマホと財布だけの身軽な状態で旅先を楽しんだ。もはや、スマホと財布さえあれば、どこへでも安心して行ける時代だ。その結果、持ち物に煩わされることが一切なく、実に快適な旅だった。

そう。ミニマリズムは、遊びすらも快適にさせてしまうのだ。

ミニマリズムは人生において、ぜひとも自分のものにしておくべき「武器」のひとつだと思う。こうした発想や考え方があるかないかで、生活の質、ひいては精神状態が大きく違うからだ。

もともと、わたしはこういう考え方が好きだったのかもしれない。だから、そういう意味で、ミニマリズムはその人の性格との相性が重要になってくるのだろう。しかし、何度も言うが、ミニマリズムは強力な「武器」だ。味方につけるべき発想だ。
2016/05/01

個体主義と選挙権

NHKが放送した、『世界のいま』(5月1日付)を見た。18歳選挙権の特集で、各国の20歳未満の若者たちが選挙に対し、どのような考えを持っているか、その現状が出ていた。

見ていると、大半の日本の20歳未満とは比べ物にならないであろうくらいに、選挙を大真面目に考えているようだった。下手をすると、大方の20代後半の日本の若者すら、こんなことは言えないし考えてもいないであろうことを、自分のことのように話している外国の若者たちに驚かされた。それくらい、彼らにとって選挙は身近なことで、自分に直接関わることだという意識が強いのだろう。

では、なぜ彼らはそのような意識を持てるのだろうか。その放送を見ていると、ずいぶんと若い時(12歳くらい)からどうやら、政治や選挙についての授業を熱心にやっているかららしい。しかも、日本の学校でやる「公民」のような、至極退屈な授業スタイルではなく、ディスカッション型だ。自分の意見をしっかり述べ、相手の意見もしっかり聞く。基本的に先生は政治や選挙に関する基礎知識しか教えないようで、あとはそれを土台に自分はどのような考えを政治や選挙に対して持っているのかを語り合うようだった。「忌憚のない」とは、まさにこういうことだろう。

日本の学校でも最近はこういう授業をやるようにはなってきているが、それでもこの放送で見たようなものの比ではない。なんとなく、というか、漠然とした、というか、そういった当り障りのないことしかやらない。

選挙権を18歳から持てるようにすることで、何か変わるかといえば、私は何も変わらないと思っている。なぜなら、10代よりも思慮分別がついているであろう20代ですら、選挙権の行使率は低いからだ。

選挙権の問題は、年齢ではなく、風土やお国柄といった問題の方が、影響しているのではないか。そもそも、日本では公的に認められた権利を「行使する」ことに関心がなかったり、ためらいがあったりする。

例えば、サービス残業が平然と存在しているのも、法的根拠をもとにして「残業代を請求する権利」を行使しようとしないのが一因になっている。セクハラやパワハラがひどくても、なにもせずに泣き寝入りしてしまうというのも同様だ。

「自分個人から何かを積極的にやろうとする」こと自体に、なんらからのストップがかかりやすい要因があるのだろう。

昔、大学生だった頃、教わっていた教授から「日本人は欧米人などと比べられて、よく集団主義だなどと言われるが、そうではなく“個体主義”なのだ」と言われたことがある。

「個人主義」ではなく、「個体主義」である。その先生に言わせると、「個人主義」は、あくまでも一人の人間が「集団」ではなく「個」として「動く」ことが「個人主義」なのだが、「個体主義」は、一人の人間が「集団」として動くことは好まず嫌がり、かといって「一個人」として何か積極的に行動することができず、またその個人の責任で活動することができるかというとそれもできず、ただただ、一人ひとりが「個“体”」のように存在し、「個“人”」として、自ら動くことはせず、したがらない。そういった状態を先生は「個体主義」と呼んでいた。

なるほどとわたしは思った。日本人は集団主義のように見えるが、内実、集団で動くことを嫌がっているのだから、集団主義の信奉者ではないのだ。より正確に捉えるならば、先に言った、「個体主義」なのだ。

いまの子たちを見ていると、より「個体主義」化しているように見える。あくまでも「個人」として存在したがらず、「個体」という、いわば「モノ」化することで、自らを「秘匿させたい」傾向が強いのではないか。動画サイトなどでよく見かける「顔だけ映さない自分」の動画は、まさにそういった心理の表れのようだ。

選挙権の行使は、「個体主義」とは相反するものだ。こうした「個体主義」が広くこの国に根付いている以上、「18歳から選挙権を」などといっても、あまり意味がないように思う。
2016/03/05

すごくないことをすごい感じにする技 ―― 『団子売』歌舞伎座

今月の歌舞伎座は雀右衛門襲名口上がメインのようだが、私のお目当ては昼の部最後の『団子売』である。

この演目、舞踊なのだが、そもそも団子売をする夫婦の睦まじさのようなものを踊りで描くという、なんだかよくわからない話なのだ。

だが、この夫婦、軽快なテンポで持参した臼と杵で団子をこしらえ、最後のほうではお面で楽しく踊るのである。

歌舞伎ではよく、こういう(言い方は悪いが)どうでもいいテーマや風景を舞踊化してしまうことが多い。

何気ない日常、ありふれた普通なもののある一面を切り取って、それを「美」に変える――これが歌舞伎のすごい所なのだと思う。

他の演劇にこういった「美化作用」はあるのだろうか。おそらく、歌舞伎だけのものなのではないだろうか。

歌舞伎から学ぶべきことの一つは、こういった「ありふれた光景をすごい感じに仕立てあげる」ことだと思う。

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