2017/11/26

安室奈美恵と、自分のこと。

11月23日NHK放送の、『安室奈美恵「告白」』を見た。安室の引退について、彼女のこれまでの活躍を振り返りながら迫った番組だ。

この放送の約一ヶ月前に、安室が歌手の引退を表明した。

ものすごく驚いた。と同時に、自分が幼かった頃から聞いていた安室の曲を、その当時の自分のこととともに思い出した。

安室奈美恵は、私が生まれて初めて覚えた最初の女性歌手だった。その頃はまだ、『ポンキッキーズ』に安室奈美恵と鈴木蘭々とが、アシスタントのような位置づけで番組に出演していた頃だった。『ポンキッキーズ』が好きだった私は、その番組に毎回安室が出演していたので、幼くも、彼女になんとなく親近感を持っていたのを覚えている。

彼女の曲の中で、初めて印象に残ったのは『Chase the Chance』だった。当時は幼かったので、曲名が分からなかったが、サビだけはしっかり覚えていた。それから幾年も、サビだけは口ずさめるものの、曲名と歌手が分からないというモヤモヤが長い間ずっと続いていた。そしてこの曲がリリースされて約14年後、とある機会にこれを聞き、「あの曲、安室の曲だったのか」と衝撃を受けた。ようやく歌い手とその曲名が分かった時の嬉しさは何とも言えなかった。以来、一人カラオケをする時は、よくこの歌を歌うようになった。

90年半ばから終わりまで、安室はとにかく絶頂期だった。小室哲哉とともにキャッチーなメロディーと歌声を披露してくれる彼女は、J-POP華の時代を代表するのに相応しい人だった。

大学生になってからも安室奈美恵の曲はよく聞いていた。とは言っても、90年代に発表した曲がほとんどではあったけれども。しかし、安室奈美恵本人のことが大好きだったし、自分にとってはなんとなく、(大変不遜ではあるのだが)「自分に縁のある人」のような感覚を持っていた。別に彼女のコンサートに行ったことなど一度もないのに、である。それでも、なぜか「親近感」という、(無論「親」しい関係でも「近」しい関係でも当然ないのだが)不思議な感覚を持てた唯一の女性歌手が、宇多田ヒカルでも浜崎あゆみでもなく、安室奈美恵だった。

ところが、ある時から彼女が歌番組に出演するのを見かけなくなるようになった。昔はよくテレビで見ていた安室奈美恵が、いつしかテレビから遠い存在になっていった。だから、2016年のオリンピックテーマソングで安室奈美恵が歌ったときにテレビで見かけたのは、自分にとってちょっとした驚きだった。

そしてこの約一年後、安室が歌手引退を発表した。

これを聞いて、自分が幼かった頃から聞いていた安室奈美恵の曲を一気に思い出してしまった。もう、安室を目にすることはないのだ、という悲しさを伴いながら。

「平成」という時代は、もうあと数年で終わるという。自分にとって安室奈美恵は、「平成」という一時代すべての音楽を象徴する歌手だった。少なくとも私にとって、「平成の曲」は「安室奈美恵の曲」であり、「平成の歌手」は「安室奈美恵」その人だった。

本当に今までありがとうございました、というのが今の私の気持ちである。自分にとって、どこまでもどこまでも身近な曲は、安室奈美恵の曲でしかなかった。しかし、もう彼女のことを見られる機会はないのだろう。本当に残念ではあるのだが、むしろ、非常にきれいな形で職を退く彼女のことが、ますます好きになってしまった。

私にとって「伝説」的な、でも「身近」でもいてくれた歌手・安室奈美恵さんに、心から御礼を申し上げます。これまで本当に、ありがとうございました。
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2017/11/11

「結婚すること」と「結婚生活を維持すること」は違う

ここ最近、私の周りで「○○さんが結婚した」という話を聞く機会が増えてきた。

わたしは結婚していない。そういう話を聞いてまったく焦りがない、と言えば嘘になるが、さりとて「自分も乗り遅れまい」などと思ったりもしない。

それはまだまだ独身で遊びたいという気持ちがあるからでもあるし、今後自分の仕事がどうなるかもわからない以上、結婚して身を固めるということに抵抗があるからでもある。

でもそれよりも気にしていることがある。それは、「結婚生活を維持する」ことが今の自分にとって重荷だということだ。こういうと「今時の○○は~」論を投げつけられそうだが、事実なのだから仕方がない。

わたしは「結婚すること」と「結婚生活を維持すること」は、まったく別のことだと考えている。結婚したことのない者が、このようなことを言っても説得力に欠けると思うが、これは本やテレビや自分の周囲で聞いた話などから自分で出した結論である。

だいたい、結婚してうまくいかない(うまくいかなかった)人は、この両者を一緒くたにしているように見受けられる。しかし、よく考えてみれば、「結婚する」だけなら、婚姻届を役所に出せば達成できる話で、それを「ずっと続ける(維持する)」のとは次元が違うということくらい、結婚しなくても想像で分かってしまう。

「結婚した」状態を続けるというのは、仕事に行っている間以外は基本的に配偶者とずっといるということだ。だが、「ずっといる」という状態はなかなか辛い。始めのうちはいいのかもしれないが、お互いがお互いをよく知り合ってきた頃から段々、それぞれ「ひとりになりたい」願望がむくむくと出てくるのではないか。

配偶者とはいえ、所詮は「法で規定された人間関係」でしかない。つまり、「他人」でしかないのだ。独身者でもこれだけのことは確実に言えるが、他人とずっと一緒にいるというのはかなり疲れるものだ。よほど「ひとりぼっちは寂しいし嫌だ」と感じる人以外、苦痛でしかない。

こういうと非常に冷淡に聞こえるが、例えばいくら仲が良いとはいえ、ずっとその人といれば、段々一緒にいることがストレスになるはずだ。それは、自分のプライベートがなくなることで精神的に窮屈になるからである。会社という組織が嫌いになりやすい原因のひとつも、結局はここから来ている。

最初にその人のことがどれほど好きだったかというのは関係ない。人間に限らず、どんなに好きなものでも毎日だったり、四六時中だったりでそれとくっついていれば、段々嫌気が差してくる経験は誰にでもあるはずではないか。それと一緒だ。

大方、結婚で失敗するタイプの人は、「結婚すること」と「結婚生活を維持すること」を同じ土俵にのせて考えてしまうから、配偶者とトラブルを起こして行き詰まるのだと思う。

人間関係をうまくさせたいのであれば、しっかりと他人と「距離」をもつことだ。平日から一緒になる時間が多いと思ったら、休日は積極的に個人行動の時間をつくる。逆に、仕事が忙しくて平日はほとんど一緒にいられないのであれば、休日は一緒にいる時間を積極的にもつ。これだけでいい。

そしてもうひとつ、結婚に限らず、人間関係で面倒くさくならないようにする(うまくさせる、ではない。念のため。)コツは、常に「自分と他人は違う」ということを意識することである。上司や部下、先輩や後輩で自分と合わない人がいても「まあ、コイツはこうなんだろうな」くらいの感覚で、それもちょい上から目線のような感覚で、他人を見ていればいい。それが一番楽な人間関係だと思う。

結婚、というものを否定するつもりは毛頭ない。ただ、結婚に何か大きなことを期待するのは間違いだと思うし、そう期待する人もわたしは嫌いだ。そのように期待するから、「結婚とは、結婚することそのもの」ということにしか目がいかず、「結婚生活を維持すること」に想像が及ばず失敗するのだ。

大切なことは、「結婚すること」よりも「結婚生活を維持すること」。そのためには配偶者であろうとも「他人」として見て、しっかりとした「距離」をもつことなのだ。
2017/06/16

「あの頃」と腕時計

先日、とあるSEIKOの腕時計を買った。実はその数ヶ月前にも腕時計を買っていたのだが、先日買ったその腕時計の優美な外観に惚れてしまい、買いたい衝動を我慢できずに買ってしまった。

そのシンプルな、バーインデックスの三針時計は、光のあたる角度によって色々な表情をつくる。昼間の明るい時は、きらっきらっと反射するのだが、夜になれば、街灯のほのかな光を浴びるとたちまち、何とも言えない色気を醸し出すのだ。

そんな腕時計を見ていてふとなんとなく、これがいつ作られたのかが気になった。調べてみると、それは私がちょうど二十歳を迎えた年のときだった。

二十歳、というと、ちょうど大学生のときだ。その頃のことを思い出した。地方の高校から進学して1年。まだまだ垢抜けず、「都心の大学生」像に適合できるようなファッショナブルな装いひとつできやしない自分がそこにいた頃だった。あの頃は自分の、なんというかありとあらゆることに悶々としていた時だったように思う。アルバイト先の、かわいい女の子にどぎまぎしながら、なんとかそれっぽく取り繕うものの、結局うまくいかない、そんな日々を送っていた時だった。

あれから時を経た今、その二十歳という頃を思い返してみると、ただただ「よくここまで来れたなあ」などと思えてしまう。就職が決まった時のことや、一人暮らしを始めたときのことなど、「二十歳から更なる大人へ」と階段を登っていく自分を、その腕時計の製造年を知った時、思い返してしまった。

いまはすっかり、落ち着いたように思う。あの頃の「垢」も、今となっては良い、でもこっ恥ずかしい「思い出」である。

さて、そしてこれから自分はこの腕時計とともにどこへ向かっていくのだろう。この相棒を見ているとちょっとだけ、これから先が気になってしまう。
2017/01/20

外見は中身の一番外側である ― 『メンズファッションの解剖図鑑』

メンズファッションの解剖図鑑
MB
エクスナレッジ (2016-12-03)
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こういう本はおそらく、いままでになかったと思う。

男のおしゃれをロジカルに書いた本だ。「おしゃれとは何か」「おしゃれと感じる理由は何か」を論理的に解説している。そして重要なのは「人は何をおしゃれと感じるのか」をきちんと説明できている点だ。

著者は言う。日本の男のおしゃれは、いわゆる「アメカジ」ではなく、ドレスライク寄りなコーデにすることで生まれるのだと。言われてみれば確かにそうだ。街中でおしゃれだと感じる男は、ほとんどこのドレスライクなファッションをしているのだ。

靴の選び方、アウター、ボトムスの選び方、考え方まで、具体的に例を挙げながら解説してくれているので、非常に参考になる。

極め付きは、著者の「おしゃれ」に対する考え方だ。中身を磨くよりも、外見を磨いた方が遥かに簡単であること、そして遥かに簡単に自信がつくことをコラムの中で論じている。

長らくの間、この国の男たちを縛ってきた考え方のひとつと言えるのが「男は外見じゃない」「男は中身だ」的な発想である。

私はこの考え方が大嫌いだ。なぜ、男がおしゃれに気を使ってはいけないのだろう?人が真っ先に人を判断する材料は、他ならぬ「外見」だというのに。

最近わたしが感銘を受けたのは、「外見は中身の一番外側である」という言葉だ。非常なまでに言い得て妙だと思う。中身が良いのなら、それが外ににじみ出てもいいであろうに、それがないのはちと変だ。にもかかわらず、外見はだらしなくても「わたしは中身に自信があるのです」などと弁明されても腑に落ちないのは私だけではなかろう。

ちなみに、わたしは男のファッションの基本は、「スーツをきちんと着られる」ことから始まると考えている。なぜスーツなのかというと、これが現代の男子にとって、最もフォーマルな服装であり、女性からもっとも支持されている服装であり、「男のおしゃれ」のコンセプトはすべてこの「スーツ」という服の中に込められていると思うからだ。

逆に言えば、スーツをきちんと着こなせられれば、私服はそのフォーマルな「スーツ」をカジュアルに着られるようなコーデにすればいいだけの話なのである。だから、大人の男のおしゃれは、スーツから始まり、スーツで終わると言っても過言ではないはずだ。

いずれにせよ、おしゃれであるというのはどんな時においても有利に働いてくれる。仕事でも恋愛でもオフでも、である。なぜなら、おしゃれは自分に自信を持たせてくれるからだ。

わたしはおしゃれをするのが大好きだ。している時の自分は、本当に自信が持てる。そして人の目を気にするようになるので、変なことやカッコ悪いことはしなくなるし、背筋もピンとしようとする。結果、ますます良く見られるようになるという、相乗効果が期待できる。

男のおしゃれは大いに歓迎されるべきなのだ。
2016/05/02

「武器」としてのミニマリズム

最近のわたしにとってのブームは、「ミニマリズム」だ。部屋の中や、職場の机の上、外出時の持ち物など、ありとあらゆる無駄な「モノ」をそぎ落とし、身軽かつ快適な生活を維持する生き方を言う。

今ではいろいろな雑誌や書籍で、この「ミニマリズム」(少し前の言い方だと「断捨離」だが)が取り上げられている。

きっかけは、『ぼくたちに、もうモノは必要ない』(佐々木典士著)を読んでからだ。この本では、部屋の中にある無駄なモノをいかにそぎ落としていくか、モノを減らすことでなぜ快適な人生を送れるのかが書かれている。

もともと、わたしは部屋や職場の机はきれいにしてきた方だと思っているが、この本と『「超整理法』(野口悠紀雄著)を読んで、よりモノを減らす方向へ動くようになった。

本や雑誌は読んだらすぐ売るようになった。ダンボール箱をひとつ用意し、読み終わったら、そこへどんどん詰めていく。いっぱいになったら、中古本の買取業者に来てもらい、売り渡してしまう。基本的に、一度読んだ本を再読することはしない人間なので、売っても後悔することはない。あとで読みたくなったら、Amazonの中古本販売で買い直せばいいのだから。

食器も捨てた。あるのはフライパンと水切り器くらいだ。一人暮らしをしているので、フライパンひとつで調理器&食器になってしまう。洗い物もプライパンと水切り器だけ。箸やコップは使い捨て(100円ショップで割り箸&紙コップを調達)だ。何も困ることはない。

服も捨てた。ユニクロで白シャツとズボン、靴下を購入している。毎回同じだから、服選びで悩むことはない。靴下は色と種類が全部同じなので、「靴下の相方探し」などしなくてよい。また、ユニクロは基本的にどこにでもあるので、必要なときにいつでも服を買いに行ける素晴らしさがある。

カーペットも掃除機も捨てた。あるのは、クイックルワイパーと科学雑巾だけ。いままで、掃除機をかけることが億劫で仕方なかったが、いまは週に一回、休日にモップがけしている。いままできちんと掃除していなかったところも掃除をするようになった。カーペットだとこうはいかない。基本的に掃除機では吸い取れないほこりなども付着してしまうからだ。いまの掃除スタイルに変えて本当に良かった。

職場では、自分向けの業務マニュアルはすべてデジタル化した。いままで、自分専用のパイプファイルを用意して、そこに紙で綴じていたのだが、このやり方だと、書類は溜まっていく一方だ。新しい仕事を覚えていくたびに、メモやマニュアル類が増えていくのは、うっとうしいし、必要な書類を探すのにも時間がかかる。しかし、いまは紙をPDF化させ、USBメモリにひたすら、書類作成日時順に突っ込んでいくだけ。フォルダを作成し、事細かに分類するやり方は一切やめた。

ちなみに、この分類せずに時間順で保管していくやり方は『「超」整理法』から学んだ。こうすることで、よく使ったり、更新したりするファイルがひと目でわかるようになった。見たいメモや書類は検索機能を使うことですぐにアクセスできる。そしてなんといっても良いのが、紙の時のように、まったくかさばらないこと。これで、パイプファイル保管とは永遠におさらばだ。

ところで先日、旅行に行ったのだが、そのとき気をつけたのが、持っていくものをミニマルにすることだった。手提げカバンは持たず、軽量小型のスーツケースひとつに衣類とその他必要な小物を入れるだけに留めた。それでもスーツケースの中をいっぱにはせず、空きのスペースを2割作ることにした。こうしておけば、旅先で何か購入しても、そこへ入れられるからだ。

目的地の駅に着いたら、スーツケースはコインロッカーに預けてしまい、スマホと財布だけの身軽な状態で旅先を楽しんだ。もはや、スマホと財布さえあれば、どこへでも安心して行ける時代だ。その結果、持ち物に煩わされることが一切なく、実に快適な旅だった。

そう。ミニマリズムは、遊びすらも快適にさせてしまうのだ。

ミニマリズムは人生において、ぜひとも自分のものにしておくべき「武器」のひとつだと思う。こうした発想や考え方があるかないかで、生活の質、ひいては精神状態が大きく違うからだ。

もともと、わたしはこういう考え方が好きだったのかもしれない。だから、そういう意味で、ミニマリズムはその人の性格との相性が重要になってくるのだろう。しかし、何度も言うが、ミニマリズムは強力な「武器」だ。味方につけるべき発想だ。
2016/05/01

個体主義と選挙権

NHKが放送した、『世界のいま』(5月1日付)を見た。18歳選挙権の特集で、各国の20歳未満の若者たちが選挙に対し、どのような考えを持っているか、その現状が出ていた。

見ていると、大半の日本の20歳未満とは比べ物にならないであろうくらいに、選挙を大真面目に考えているようだった。下手をすると、大方の20代後半の日本の若者すら、こんなことは言えないし考えてもいないであろうことを、自分のことのように話している外国の若者たちに驚かされた。それくらい、彼らにとって選挙は身近なことで、自分に直接関わることだという意識が強いのだろう。

では、なぜ彼らはそのような意識を持てるのだろうか。その放送を見ていると、ずいぶんと若い時(12歳くらい)からどうやら、政治や選挙についての授業を熱心にやっているかららしい。しかも、日本の学校でやる「公民」のような、至極退屈な授業スタイルではなく、ディスカッション型だ。自分の意見をしっかり述べ、相手の意見もしっかり聞く。基本的に先生は政治や選挙に関する基礎知識しか教えないようで、あとはそれを土台に自分はどのような考えを政治や選挙に対して持っているのかを語り合うようだった。「忌憚のない」とは、まさにこういうことだろう。

日本の学校でも最近はこういう授業をやるようにはなってきているが、それでもこの放送で見たようなものの比ではない。なんとなく、というか、漠然とした、というか、そういった当り障りのないことしかやらない。

選挙権を18歳から持てるようにすることで、何か変わるかといえば、私は何も変わらないと思っている。なぜなら、10代よりも思慮分別がついているであろう20代ですら、選挙権の行使率は低いからだ。

選挙権の問題は、年齢ではなく、風土やお国柄といった問題の方が、影響しているのではないか。そもそも、日本では公的に認められた権利を「行使する」ことに関心がなかったり、ためらいがあったりする。

例えば、サービス残業が平然と存在しているのも、法的根拠をもとにして「残業代を請求する権利」を行使しようとしないのが一因になっている。セクハラやパワハラがひどくても、なにもせずに泣き寝入りしてしまうというのも同様だ。

「自分個人から何かを積極的にやろうとする」こと自体に、なんらからのストップがかかりやすい要因があるのだろう。

昔、大学生だった頃、教わっていた教授から「日本人は欧米人などと比べられて、よく集団主義だなどと言われるが、そうではなく“個体主義”なのだ」と言われたことがある。

「個人主義」ではなく、「個体主義」である。その先生に言わせると、「個人主義」は、あくまでも一人の人間が「集団」ではなく「個」として「動く」ことが「個人主義」なのだが、「個体主義」は、一人の人間が「集団」として動くことは好まず嫌がり、かといって「一個人」として何か積極的に行動することができず、またその個人の責任で活動することができるかというとそれもできず、ただただ、一人ひとりが「個“体”」のように存在し、「個“人”」として、自ら動くことはせず、したがらない。そういった状態を先生は「個体主義」と呼んでいた。

なるほどとわたしは思った。日本人は集団主義のように見えるが、内実、集団で動くことを嫌がっているのだから、集団主義の信奉者ではないのだ。より正確に捉えるならば、先に言った、「個体主義」なのだ。

いまの子たちを見ていると、より「個体主義」化しているように見える。あくまでも「個人」として存在したがらず、「個体」という、いわば「モノ」化することで、自らを「秘匿させたい」傾向が強いのではないか。動画サイトなどでよく見かける「顔だけ映さない自分」の動画は、まさにそういった心理の表れのようだ。

選挙権の行使は、「個体主義」とは相反するものだ。こうした「個体主義」が広くこの国に根付いている以上、「18歳から選挙権を」などといっても、あまり意味がないように思う。
2016/03/05

すごくないことをすごい感じにする技 ―― 『団子売』歌舞伎座

今月の歌舞伎座は雀右衛門襲名口上がメインのようだが、私のお目当ては昼の部最後の『団子売』である。

この演目、舞踊なのだが、そもそも団子売をする夫婦の睦まじさのようなものを踊りで描くという、なんだかよくわからない話なのだ。

だが、この夫婦、軽快なテンポで持参した臼と杵で団子をこしらえ、最後のほうではお面で楽しく踊るのである。

歌舞伎ではよく、こういう(言い方は悪いが)どうでもいいテーマや風景を舞踊化してしまうことが多い。

何気ない日常、ありふれた普通なもののある一面を切り取って、それを「美」に変える――これが歌舞伎のすごい所なのだと思う。

他の演劇にこういった「美化作用」はあるのだろうか。おそらく、歌舞伎だけのものなのではないだろうか。

歌舞伎から学ぶべきことの一つは、こういった「ありふれた光景をすごい感じに仕立てあげる」ことだと思う。

2015/01/08

「守るべきもの」がない人たち ― 『石川五右衛門』(新橋演舞場)を見て

正月早々一日で、昼は歌舞伎座、夜は新橋演舞場、というスケジュールで観劇した。観劇時間はトータルで8時間。めちゃくちゃ充実した一日を過ごせたが、腰とお尻が痛いわ痛いわで大変だった。

何といっても、海老蔵の歌舞伎だ。見ないわけには行かない・・・ということで、私は3日に観に行ったのだが、その日は偶然にも、テレビで『市川海老蔵にござりまする』という海老蔵の特集も放映されていた(もちろん、録画して後で見た)。何だかんだ言っても、やっぱり海老蔵は人気なのである。

さて、『石川五右衛門』の感想だが、まず、ストーリーが無茶苦茶である。もう何でもありじゃねえか、とツッコミを入れたくなる。が、やっぱり面白い。見ていて全然飽きない。「おっ、ここでいっちゃう?!」「キター!!」「よおし!いっちまええ!」などと私は一人で盛り上がっていた。

以前の記事でも書いたが、歌舞伎というのはストーリーよりも、「歌舞伎」という名の「演出」が最大のウリであり魅力なのだ。だから、たとえストーリーに無理・矛盾があっても、正直、「まあ、歌舞伎ってそんなもんだよね」程度で腑に落ちてしまうのである。現代のテレビドラマに「論理性」や「整合性」は求めても、歌舞伎には求めようがないのだ。

ところで、歌舞伎には、「粋な人」たちというのがよく出てくる。

粋――ここで辞書的な定義を述べても仕方ないが、簡単に言ってしまえば「内面(気遣いや思いやり)も外面(身なりや外見)も格好いいこと」といったところだろうか。

そういう「粋な人」たちというのは、何というか、人生において「守るべきもの」がない。言い換えれば、何かに己の人生を縛られていない。どこから小突かれることもない。

一方、現代人には「守るべきもの」が多すぎる。職、地位、家庭、お金、住宅、自分の時間――どれか一つでも不安定だと我々は毎日鬱々と生きざるを得なくなってしまう。

歌舞伎に出てくる格好いい人たちは、なぜ「粋」でいられるのか――それは結局、「守るべきもの」がないからだと思う。彼らには、間違ったり失敗したりしても、これといったダメージがない。劇場で会う彼らは、いつも飄々としていて、自由奔放で、それでいて皆からの人気者だ。羨ましい限りではないか。

人は、「守るべきもの」が多すぎると、つまらなくなる。守ってばかりで攻められないから、どんどん萎縮していくのだろう。守るべきものを多く抱えて人生を生きるというのは、文字通り、保「守」的に生きることに等しい。そこには、良い意味での「スリル」がないし、「野望」もない。「アヴァンチュール」なんて言葉とも無縁な世界だ。あるのは、先への不安と怯えだけである。こうなってしまっては、もはや「粋」の反対、「野暮」よりも深刻な、ある種の「病気」だとさえ思えてしまう。

わたしが歌舞伎観劇をやめられない大きな理由のひとつは、この「守るべきものがない、歌舞伎の粋な人たち」の豪快さにあるのかもしれない。「粋」に生きるのがあまりにも難しくなった現代人には持っていない独特の魅力を、「彼ら」はしっかりと握りしめているのだから。
2015/01/04

【歌舞伎座】壽初春大歌舞伎【昼の部】



2015年1月3日。七之助と玉三郎見たさで観に行った、初春の歌舞伎座、昼の部。相変わらずの感想だが、「ああ、綺麗だなあ」の一言に尽きる。

まずは『金閣寺』より、七之助の時姫。本当にイジらしい。わたしは、オペラグラス越しでボーっと「彼女」を眺めていた。

続いて『蜘蛛の拍子舞』より、玉三郎の女郎蜘蛛の精。本当にスゴイ隈取だ。あんなのが夜中に出てきたら、腰を抜かすのは必至だろう。それにしてもまあ、よくあんな恐ろしい隈取を考えついたものだ。昔の人はスゴかった。

最後は『一本刀土俵入』より、魁春のお蔦と幸四郎の茂兵衛。この作品、正直な所、新歌舞伎とあって期待はしていなかったのだが、見終わる頃には涙が出そうになってしまった。この二人の演技に、すっかりはまってしまい、終わり際、もはや魁春が「お蔦」に、幸四郎が「茂兵衛」にしか見えなくなっていた。と同時に、「“一本刀”“土俵入”ってそういうことだったのね」と一人で納得。

――ここでいつも思うことなのだが、歌舞伎というのは、「ストーリー」よりも役者を含めた「演出」を楽しむ芸能なのではないか。

隈取という演出、男が「女」になりきるという演出、見得という独特なストップモーションの演出、花道という演出、ツケ打ちという演出、鳴物(BGM)という演出、廻り舞台という演出――この演劇を「歌舞伎」にしているのは、こうした演出「たち」だ。

演出が印象深いと、極端な話、ストーリーなんてどうでも良くなる。歌舞伎には似たようなストーリーの演目が少なくないが、それぞれ演出の仕方や仕掛け方が違っているので、たくさん見ようとも飽きない。

同じ演目でも、演じる役者が変われば、それだけで違う演出になってしまう。また、美術や照明を担当する人も変われば、然りだ。これだから歌舞伎はヤメラレナイ。
2014/12/28

大いに「無駄遣い」をしよう ― 『迷ったら、二つとも買え! 』

迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)
(2013/06/13)
島地勝彦

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お金の貯め方、稼ぎ方の本はゴマンとあるが、お金の「遣い方」の本というのは、ほとんど見かけない。本書は、その数少ない「お金の遣い方」本の一つだ。

とはいっても、本書は具体的なテクニックを伝授してくれるわけではない。いわば、「心得帖」のようなものだ。

まず、目次が面白い。第1章「「無駄遣い」のススメ」、第2章「「無駄遣い」はセンスを磨く」、第3章「「無駄遣い」は教養を高める」等々。ちなみに、ここでいう「無駄遣い」とは、一見すると「何でそんな物に?」と思えるようなことに大金をはたくことを指している。それは、「人生の肥やしとなる無駄遣い」のことである。パチンコやギャンブルなどに金を費やす「無駄遣い」とは違うのだ。

では、「人生の肥やしとなる無駄遣い」とは何だろうか?

著者はその点について、明確な定義付けはしていないようだが、本書を読み進めていくと、ひとつの傾向が見えてくる。それは「大金をはたいて心に残る体験を買うこと」のようだ。

「ある物やあるサービスを受ける時、それが高くても、後々までその余韻に浸れる体験ができるのであれば、それは絶対金を惜しむな」が、著者のモットーなのだろう。そして、こうしたモットーをもとに金を遣って生きていくことが、己の心を豊かにしてくれる――私も大賛成である。仮に買って失敗したとしても、それは「次につなげるための“授業料”を払ったんだ」と考えてしまえば良いのだ。

その一方で、吝嗇な人間というのも存在する。金が懐に入ったとたん、すぐにその大部分を貯金に回し、後はなるべく出費を抑えた生活をする者のことだ。本当に必要な時でさえも、金を出し惜しみする。

私の周りにもそのような人種がいるが、見ていて内心、「コイツには近づきたくないな」と思ってしまう。ひたすら金を得たら貯めこむ人間に、私はどうも魅力を感じない。

なぜだろう? 一つは、いわゆる「金の亡者」に見えるからだが、もう一つは「この人の中には、“面白い話の引き出し”が少ないのでは?」と感じるからだ。金を遣えば、様々な面白い体験ができるというのに、それを放棄してひたすら金ばかり集める姿は、醜悪にしか映らない。

無論、使う額は自分の身の丈に合った額を使うというのが大前提である。これは著者も同じことを本書で述べていた。しかし、吝嗇家はそれすらもしない。「金を遣う」ことは、「金を手放す」ことだと考えているのだろうが、それは違う。「人生の肥やしとなる無駄遣い」は、むしろ「金に命を吹き込んであげる」ことに等しい。いわゆる「生きた金の遣い方」というヤツだ。生きた金は必ず、それを使った自分のもとに「生きた形」で返ってくる。

今は「節約することが当たり前」のような時代だ。だが、節約ばかりしたところで、何が面白いのだろうか? 節約のし過ぎは、生きる活力も、自分の心の糧も節約してしまうハメになる。それでは、何のために金を貯めているのか分からない。「老後のため」などという漠然とした思いから貯めているようなら、それは金を「飼い殺し」にしているようなものではないか。そのような人は、その「老後」が来たとしても、「老後のため」などといって金を貯め続けそうで怖い。

特に若い内は、どんどん金を使った方が良い。老人と違って、金で買った素晴らしい体験をグッと吸収しやすいし、何よりも生きた金の遣い方を身につけることができる。これが年を取ってからだと、何かと億劫になるし、新しいことに対して保守的になっている可能性も高い。これだけならまだしも、最悪、「何に」遣ったらいいのか分からないなどという状態に至っているかもしれないのだ。

ちなみに以前、『カネ遣いという教養』という本を紹介したが、こちらよりも本書の方が読んでいて納得できることが多かったし、面白かった。
2014/12/21

むしろ「ありのままでない」を大事にしたい ― 『アナと雪の女王』

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(2014/07/16)
クリステン・ベル、イディナ・メンゼル 他

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これだけブームになったのだから、やはり見てみたい気持ちがあって、手にとった。

この映画のテーマは、ずばり「ありのまま」だそうなので、私もそれに倣い、「ありのまま」の感想を言おう。面白かった。

実はありのままに言うと、私はディズニー全般が好きではない。何というか、あのワチャワチャ感がどうもダメなのだ。それでもこの映画を手にとったのは、世間がこの映画でこれだけ盛り上がったからだ。最盛期、その動向を横目で見ながらも、「いや、きっと面白いのだろう。ここはひとつ、私もありのままで行こう」と思い立ち、(特段好きでもない)ディズニーワールドに浸ってみたのだ。

それはさておき、この映画には先程の「ありのまま」以外にも、これと似たワードがチラついている。例えば、「真実の◯◯」とか「本当の◯◯」とか、である。「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」etc etc。こういう言葉を耳にすると、どうも私はボリボリ頭や背中を掻きたくなる。何というか、こう、ボリボリボリボリしたくなっちゃうのだ。

なぜ、ボリボリしたくなっちゃうのかというと、なんか胡散臭いからである。「ん~、なんだかなぁ~」という気分になり、気が付くと体をボリボリしている、というわけだ。

「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」といった言葉は、ややもすれば、ただただその言葉だけで終わるような代物だったりするのではないだろうか?

そして、「真実の~」「本当の~」「ありのままの~」と感じているものは案外、自分の「後付け」で、「とりあえず」「そのように認識した」ものではないか?とも思う。

私が映画を見ていて気になったのが以下の展開だ。王女・アナが、最初に出会ったイケメン王子・ハンスを好きになり、彼女はその気持ちを「真実の愛」と思い込む。ところが、物語が進んでいくにつれ、彼女の姉のエルサを一緒に探してくれたフツメン・クリストフのことを好きになり、最後は彼とキスをする。最初出会った時は、別に何とも思われてはいなかったであろう(むしろ、どこか煙たがられていたような)男を、である。そして物語の最後の方で、クリストフとの関係が「真実の愛」ということになっているのだ。

結局、アナにとって「真実の愛」は、「最初から」どこかに「あった」ものではなく、「これが真実の愛“だった”」という、いわば「後付け」のような認識によって、出てきたものだったのである。

――という解釈をしてみて、そこから直ちに教訓めいたものを引き出そうとするのは、野暮ったい。それでもあえて引き出してみるとするならば、それは「「本当の~」とか「ありのままの~」とかいうのにこだわっちゃうのは、危ないんじゃないの?」といったところだろうか。それが特に、「本当の私」とか「ありのままの自分」などといった、モヤモヤ感たっぷりなものになればなるほど、である。

そう考えると、「本当」とか「真実」とか「ありのまま」というのは、「後付け」のような認識から出てきたりするから、案外いい加減なものなのかもしれない。それは、「天職」(=「本当にやりたい仕事」とでも言い換えられるだろうか)とやらを探していた人が、最初は好きでもなかった仕事を色々やっていく内に、その中から「そうか、これが自分の天職だったんだ!」などという感覚を「勝手に」感じ取るのに似ている。これだって要は「後付け」である。

でも、別にいい加減でいいのだと思う。誰だって、最初は「本当」というものが、「本当でないもの」に先行していると考えたくなるのだ。そしてその内、「本当」というものは、「本当でないもの」に先行しているのではなく、実は「本当でない」と考えていたものの中に、自分の思う「本当」があったと「思い込む」ようになるのだ。「思い込む」、すなわち「後付けでそのように解釈する」のである。

だから、「ありのままの自分」とやらも、案外、「ありのままでない自分」の中にあったりするんじゃないか。そう考えると、「ありのままでない自分」こそ大事にしてやらないと、「ありのままの自分」を探していた人は、「ありのままの自分」を見つけられないかもしれない。
2014/10/26

思い出に残る落語 ― 芸術祭寄席に行ってきた

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思い出に残る落語だった。おそらく、今日のようなトリの落語を観るのは、これが最初で最後だと思う。

――いよいよ、最後の落語となった。前座がめくり(噺家の名前がかかれた紙)をめくると、出てきた名前は「柳家小三治」の五文字。本日の大主役である。姿を現すと、すかさず「待ってました!」の声が掛かった。

この日、小三治は何と弟子の前座から服を、同じく弟子でこの落語会にも出た柳家喜多八から羽織を借りて出てきた。当人曰く、「忘れた」らしい。もう既にやることが落語になっている。そうか。きっとこういう人でないと、人間国宝にはなれないのだろう。

そんな小三治が、大方まくらを語ると、羽織を脱ぎ始めた。が、なぜか脱ぎっぱなしにして自分の後ろには置かず、きちんと畳み始めた。こんな噺家、正直初めてである。会場からは、予想外の行動に笑いが起こる。

畳みながら喋り始めた。「前座の時、よくこれをやりました」「入門して、最初にやる修行の一つが、羽織を畳むことなんです」少々俯き加減で、そう語っていた。

かと思いきや、しばらく経つと今度は、別の前座時代の話が始まった。「よく、師匠からは『芸は盗むものだ』『見て覚えろ』と言われました。今は世の中が、何か言われないと行動できなくなっているでしょ? マニュアル通りに行動するようになってしまっている」無論、小三治だから、こんな若干辛気臭い話でも笑いを取っていく。

長いまくらが終わって始まったのは、「長短」という噺。気の長い人と気の短い人ふたりが出てきて、滑稽なやりとりをするという筋だ。

一通り語り終え、小三治はお辞儀をした。客は皆、ここで「ああ、もう終わりか」と思ったに違いない。私もその一人だった。拍手に包まれ、終わりのお囃子が始まると、突然彼は、お囃子をやる前座に向かって、「ちょっと待って」と止めさせた。客席に向かい「もう少しお付き合いを」と告げたのだ。再び拍手に包まれる。

ここからまた、彼は自分の前座時代の話を始めた。前座の身分でやってはいけない噺をやって、師匠に怒られた話、さきほどやった噺(「長短」)が、前座時代は得意中の得意だったが、今は苦手だという話――。

聞いていて、私はふと思った。やたらと前座時代の話が多いのである。小三治の中で、この前座時代を振り返りたい何かがあるのだろうか。

聞きながら考えていた時、ピンと来た。そう言えば、今日は前座から服を借りていた。もしかしたら、その服を着たことが、自分が前座だった時と重ね合わさっていたのではないか、と。だとすると、今日「長短」という噺をしたのも、それは自分の前座時代を敢えて振り返るためにやったのではないか――

どれもこれも、すべて私の憶測に過ぎない。が、どうにもこうにも、そう思えて仕方がなかった。この「長短」という噺、得意中の得意だったのは昔のことで、小三治は今、「苦手だ」と言う。ではなぜ、その噺を「わざわざ」したのかと考えると、前座時代を思い返したい何かが小三治の中にあったのではないか、としか感じられないのである。

語っている姿は、どこか寂しそうで、どこか感慨深そうだった。私には、そう見えた。「人間国宝」という、芸事の頂点に立った人が、である。否、頂点に立ったからこそ、逆に寂しいのかもしれない。何かを思い煩わざるを得ないのかもしれない。

この間、小三治が人間国宝になった時の会見記事を読んだ。「噺家が人間国宝になると、それまでの入場料が、“拝観料”に変わるのですね」などと言っていたのが、ものすごく印象深かった。言わずもがな、これは一噺家の視点から見た、「人間国宝」という制度に対する皮肉だ。

もしかしたら、この人は己が人間国宝になったことを、心の底から喜んではいないのかもしれない――小三治の「後まくら」とでも言うべき話を聞いていた時、ふとそう感じた。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがある。おそらく、小三治のような人を指す言葉なのだろう。苦手な「長短」をやったのも、前座だった時の気持ちを見つめ直したかったからなのかもしれない。人間国宝になった自分を戒めるためだったのかもしれない。

この「後まくら」に笑いはなかった。あったのは、ただひたすら「芸に打ち込む独りの噺家」の姿だった。それが、私の中では忘れられない。

「ああ、いい“落ち”だったな」と思った。笑いという“落ち”のない、思い出に残る“落語”だった。
2014/10/25

本当に格好良い生き方 ― 『知的生活の方法』

知的生活の方法 (講談社現代新書)知的生活の方法 (講談社現代新書)
(1976/04/23)
渡部 昇一

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私は、知的でない人や知性を感じさせない人が本当に嫌いである。無論、私自身もそのような人間にならないように心掛けているし、そのための努力なら、決して惜しまない。

大学を卒業して以降、こうした思いが私の中でより強まっている。というのも会社にいると、意味のない雑事に巻き込まれたり、どうでもいいような人間の相手をしてやらなければならなかったり、くだらないことに頭を悩ませなければならなかったり、といったことが続くからである。

そしていつからだろうか、「こんなことが続けば、自分の知的体力や好奇心が衰えていくのではないか?」という思いを抱くようになった。私にはそんな状態が耐えられないし、考えるだけでもゾッとする。

本書を取り上げたのは、そういう日頃の思いからである。私はこの本を大学生の時に借りて初めて読んだが、今回買って新たに読むことにした。

別にどうということもない、読書論やら勉強法やら人生論やらが合体したエッセイである。だが、それでも「わざわざ」買い直したのは、中身が興味深いからという理由はもちろん、本棚に飾っておくだけでも、今後知的生活を送ろうと決心した自分に対する「戒め」になるから、という理由もあるのだ。

大学卒業以降、この本の教えを「信仰」し、あるいは実践していることは、主に次の2つである。

・「金で時間を買う」という発想を持つ
・本代は身銭を切る(本代をケチらない)

大学時代の私は、ロクに金を持っていなかったので、上2つの教えに感銘を受けつつも、実行は容易でなかった。しかし、社会人ともなれば金が入る。そこですぐにこれらを実行するようになった。

そしてこれらに加えてもう1つ、意識していることがある。それは、「大学図書館を積極的に利用すること」だ。

無論、「タダで本が読めるから」という理由から利用しているのではない(それだと先と矛盾してしまう)。そうではなく、「知的空間」たる「大学図書館」に、己の身体を置くことが、自らの知性を活性化させることに繋がる、ということを経験的に知っているからである。

本当に幸いながら、私の勤務地は、自分の母校のすぐ近くにある。だから退社後、あるいは休日に定期券を利用して、無料で且つすぐに大学図書館へ足を運べるのだ。私の場合、「知的生活」を快適に送るための土壌が整っていたのである。

以上3つ、「知的生活」を送るための条件を挙げてみたが、最後に1つ、本書に出てくる好きな「気概」を書いておこう。

しかし無理をしてでも本を買い続けるということをしていない人が、知的に活発な生活をしている例はほとんど知らない。新聞や週刊誌ならすぐ読めるけれども、本はすぐよめるものではない。特によい本は、いつになったら読めるかわからないことがある。そんな本のために豊かでもない財布から、なけなしの金を出すということは異常である。その金でレストランに入ればおいしいビフテキが食えるし、ガールフレンドと映画に行って食事をし、コーヒーも飲めるのだ。そういうことをするのに金を使うのが日常的ということであり、そうしないで、すぐには読めそうもない高価な本を買って、すき腹をラーメンで抑えるというのが知的生活への出発点と言ってよい。知的生活というのは日常的な発想に従わない点で、そもそも出発点からして異常な要素があるのである。(p.78)

初めてこの箇所を読んだ時、強烈なインパクトを受けた。要するに、自らの生活を進んで「日常的」(庶民的)なものにしない、ということなのだ。知的生活を送るというのは、ある部分において自ら「孤高」でなければならないし、ある部分で「栄華の巷低く見て」の精神がなければならないのだと思う。

それではなぜ、私はかくも、日々の生活ひいては生きるという上で、「知的であること」に拘るのだろうか。

それは、「人から尊敬されたいから」とか「女性にモテるから」とか「収入が上がりやすくなるから」といった、よくありがちな思いからではない(無論、まったく微塵もそういう気持ちがない、と言ったらウソになるが)。突き詰めて考えていった結果、それが結局、私にとって、絶対に守るべき究極の「道楽」であり「尊厳」だからだと思う。「知的生活」も含めて、「知」そのものが、私には「道楽」であり「尊厳」なのだ。だから冒頭でも述べた通り、「知」あるいは、「知」がある環境に対し、かくも必死になるのである。

知的生活――なんと、格好良い響きを放つ言葉だろう。誰が何と言おうと、私は息絶えるまで、これを全力で続ける。
2014/09/25

趣味も「積み重ね」が大事 ― 『趣味力』

趣味力 (生活人新書)趣味力 (生活人新書)
(2003/04/11)
秋元 康

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わたしは、歌舞伎や文楽や能といった伝統芸能を観るのが趣味のひとつなのだが、こういったものと接していると、つくづく「趣味も結局、“積み重ね”がモノを言うんだな」と感じる。

ここで言う「積み重ね」とは、芝居を何度も観ることや、芝居関係の書籍を読むことや、芝居周辺の情報を集めることなど、要するに知識や体験の「蓄積」のことだ。こういった「蓄積」が、自分の「見方」「感じ方」を変化させてくれて、鑑賞をより面白くしてくれる。

そういう意味で、あることを自分にとって“心から楽しめる”趣味にしようと思ったら、それ相応の時間がかかると考えたほうがいい。だから、著者も「「定年になってから」ではなく、今、始めよう」「一生をかけて一生モノの趣味を探す」と言う。

「勉強や仕事というのは、積み重ねが大事だ」とはよく聞くが、これは何も勉強や仕事に限ったことではなく、趣味についても同じことが言えるのではないか。だから、若いうちから(若くなければ、それこそ著者の言う通り、「今」から)趣味を耕しておいたほうが、それだけ「積み重ね」ができるのだから、お得だ。

それから、趣味が長続きするかどうかというのは、趣味にしている対象に、自分が「欲」を持っているかどうか(「◯◯をもっと知りたい」「☓☓について知識を集めたい」「□□ができるようになりたい」など)である。このことについても、著者は「大事なのは「できるようになりたい」という気持ち」だと言っている。

そう考えると、テレビゲームで遊ぶことやアニメ鑑賞は、それはそれで趣味になるだろうが、「継続性」や「持続性」という点で見たら、長続きはしづらいのではないだろうか。というのも、それについて知ることのできる範囲が、どうしても、そのゲーム、アニメ内で「話」や「世界」だけで完結してしまうため、限定されるからだ。そこからさらに「横」に広がったり、「時」を遡ったり、といった「幅」が持ちづらいのである。(無論、テレビゲームやアニメ鑑賞という趣味を否定するつもりは、毛頭ない)。

とはいっても、趣味は趣味。気楽に考えればいいと思う。本書はタイトルが「趣味力」だが、趣味に「力」だなんて大袈裟すぎる。「力」は抜こう。趣味は「力」を入れるためにあるのではなく、楽しむためにあるのだから。
2014/09/05

落語「入門」ではないけれど ― 『21世紀の落語入門』

21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)
(2012/05/30)
小谷野 敦

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昔から、けっこうこの著者の本は読んできたが、彼の書いた本で、こんなにもよく頷けたのは正直初めてだ。

タイトルには「落語入門」と打ってあるが、実は著者の落語論である。だから、落語を初めて聴こうとする人は、このタイトルを信用しないほうがいい。だが、落語好きには、大いに薦められる本だと思う。

さて、私が頷けた項を、目次からいくつか抜き出してみる。

①「テープで聴くならスタジオ録音より客がいるものを」

なぜなら、客の笑い声が入っているからだ、と著者は言う。まったくその通りだ。落語において、周りの人の笑い声というのは、重要な要素だ。「その噺の、笑いのツボが知れるから」というのはもちろん、笑い声自体が「落語」の雰囲気も作っているからである。

ほとんどの人が、落語に対して「落語は笑い話である」というイメージを持っていると思う。事実、ほとんどその通りで(そうではない噺もあるが)、だから、客のいないスタジオ録音(=笑い声がない録音)は、「落語」の醍醐味を削ってしまうことになりかねない。

そして、著者の言い分に付け加えさせてもらうと、私は「CDよりもDVDの方がおすすめ」だと思っている。CDでも、もちろん笑えるが、演者が話している姿を見られれば、そのおもしろさも増す(個人的な経験から言わせてもらうが)。というのも落語は、決してことばだけで笑わせているのではなく、表情や身振り手振りでも笑わせているからだ。

②「寄席は行かずともよい」「寄席礼賛の風潮に流されない」

Amazonでのレビューを見ると、この考えに対して、どうも反発が強いようである。しかし、私は著者のこの意見には賛成である。なぜなら、寄席に行っても7割ほどの演者が、ひどい場合は前座からトリまで、つまらないということがよくあるからだ。

③「初心者は、存命の落語家より過去の名人から」

②の続きになるが、だから過去の名人のものを聴け、というのが著者の主張だ。これもまったく御意である。結局、昔の名人の落語の方が、「ハズレ」に遭遇する確率がグッと低くなるし、聞いていて良い勉強にもなる(特に、三代目志ん朝のマクラ)。おもしろいから、聴いているこっちは夢中になる。だが寄席の場合、ヘタな落語に遭遇しまくると、初心者はひどい場合、落語そのものが嫌いになる可能性が高い。だから、初めての人は、昔の名人の落語から聴いたほうが良いのだ(ちなみに、著者は初心者は志ん朝から聴け、と言っているが、これも私と同意見である)。


ところで、読んでいて気になったのが、著者が「◯◯(落語はもちろん、スポーツや演劇、コンサートなど)は、CDやDVDで聴いたり見たりするのではなく、生で鑑賞すべきだ。そうでなければ、鑑賞したことにはならない」といった「現場主義」を批判していたことだ。この「現場主義」は結局、都会やその近辺に住んでいて、すぐにそういった「現場」へ行ける者の、勝手な言い分にすぎないのだと、彼は言っているが、なるほどと思った。言われてみれば確かにその通りかもしれない。

ただし、わたしの場合、演劇だけは、「現場」に拘っている。それ以外は、正直どっちでもいい。たとえば歌舞伎や能だと、生の「あの音」や「あの雰囲気」が、わたしはたまらなく好きだからである。歌舞伎のDVDをもっているが、いくら見ても、やはり「生」の魅力には絶対に勝てない。逆に落語は、「生」でもDVDでも、ほとんど同じように感じてしまう。

こういった感覚は、専ら個人の好みに帰する話だから、とやかく言うことではないが、ただ「現場で鑑賞、というだけが、すべてではない」という著者の意見は、それまでそれなりに「現場主義」に毒されていたわたしには、新鮮に映った。
2014/07/22

それを「仕事にする」ということ

なにかを「仕事にする」というのは、その「なにか」とそのなにかの「周辺」に対して、色々と気にしたり配慮したり「しなければならなくなる」ということだと思う。そして、それをきちんと「こなす」ことによって、その対価である金がもらえる、というのが仕事の基本的な「仕組み」である。

この、「しなければならならなくなる」というのが仕事のミソである。「してもいいし、しなくてもいい」あるいは、「~する自由がある」ということではない。つまり、「義務」になる、ということだ。

好きなこと、あるいは趣味を仕事にする(したい)という考えは、誰しも最低一度は持つと思う。かく言うわたしもそうだった。しかし、わたしはそうしなかった。なぜなら、自分の好きなこと、あるいは趣味という領域に、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくなかったからだ。そして持ち込んだら最後、そうした義務が原因で、それを嫌いになってしまうのではないか、と思ったからである。

無論、好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人もたくさんいる。そうなれば理想だし、幸せなことだ。しかし残念ながら、わたしにはそれを実行してみるための具体的なプランというか明確な考えというか、そういうものを持ち合わせていなかった。

だが、それよりも気にしていたのは、さきほども言った通り、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくない、という点だった。それによって、自分の中の「好きだ」という気持ちを失いたくなかったのである。

早い話、「趣味は趣味、仕事は仕事」と分けて考えよう、と思ったのだ。

趣味である利点は、それに対する自分のスタンスを好き勝手に設定できる、というところである。その出来不出来や巧拙はどうだっていいし、対象である趣味に対して好き勝手な理想や妄想を抱いたっていい。とにかく自由だ。「思う存分、好きなだけ」というスタンスを取れるのが、趣味のいいところである。

一方、「仕事にする」というのは、要するに、こうした利点を手放すということだ。手放す、すなわち「自分の自由にはいかなくなる」という状態を引き受ける。その代わり、その価値を認めた人から対価として金をもらう。それが、なにかを「仕事にする」ということだ。

好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人たちというのは、こうした暗黙の事実に対して覚悟を決めた人たちである。他方(情けないが)、わたしにはそうした覚悟がなかった。というか、ハナから「そんなことになるくらいなら・・・」と思っていた。

こういうことを学校で教えたら、それはそれでひとつの「職業訓練」になるかもしれない。

なにかを「仕事にする」というのは、本当に重たいことだ。ある意味で、それと今後(ほぼ)ずっと「寝食を共にする」ようなことになるのだから。
2014/07/19

【歌舞伎座】七月大歌舞伎(昼の部)

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今月の歌舞伎座はメンツとコンテンツが超豪華だ。海老蔵に、玉三郎に、中車(香川照之)。そして『浪花鑑』の通し狂言である。

というわけで、わたしは2階東の桟敷席でたっぷりと鑑賞させてもらった。できることなら、大向こうもやっちゃいたいくらいの気分だったが、それはよろしくない。だから、我慢して拍手。声援ならぬ“手援”である。

さて感想だが、個人的に見どころだなぁと感じたのは、玉三郎のお辰だ。追っ手から追われ身の磯之丞を守りたい一心で、焼けた鉄弓を顔面に押し付けて、わざと顔を醜くするという場面は、観ていて思わずジーンと来てしまった。他人のために、自らの身体を犠牲にしたのである。しかもその時の義太夫の語りがまた、なんとも味があって、たまらない。

そんなお辰っつぁん、舞台から立ち去ろうと花道を駆けていこうとすると、心配したお梶さん(団七こと海老蔵の奥さん役の人)が、サっと寄ってきて、「でもお辰さん、そんな顔になってしまって、徳兵衛さんに嫌われますまいな?」徳兵衛とは、お辰っつぁんの旦那さまのこと。それに対しお辰っつぁん、「こちの人が好くのはここじゃない。(心臓のあたりをポンと叩いて)ここでござんす!」と言い返す。

かっけえ・・・。ただそれだけだった。そのまま、花道をパァーと駆け足で駆けて行ってしまったお辰さん。かっこよすぎだった。もう、ただただ拍手した。拍手せずにはいられなかった。

お次は、本日一番期待していた市川中車こと香川照之。だが残念なことに、どう頑張っても、彼は「市川中車」ではなく「香川照之」になっていた。海老蔵との絡みの時も、完全に、あの「俳優・香川照之」となってしまっていたように思う。「あれ、これって歌舞伎だよね?」と言いたくなるくらい、中車は「中車」でなくて「香川照之」であった。

このとき感じたのは、テレビで大活躍している人気俳優だからといって、その人が「歌舞伎役者」として歌舞伎を「やれる」かというと、必ずしもそうではないのだな、ということ。無論、香川は「中車」を襲名している以上、「歌舞伎役者」であることは事実だ。しかし、歌舞伎を「やれる」から「歌舞伎役者」として客から認識されるわけで、「歌舞伎役者」として名乗りを上げたから、「歌舞伎役者」として客から認識されるわけではない。わたしには、どうしても彼が「俳優・香川照之」にしか見えなかった。

最後に、気付いたことをひとつ。歌舞伎をきちんと鑑賞するには、相応の体力と精神力が必要だ、ということ。これは毎度実感していたことではあったが、今日の帰り際、近くにいたおばちゃんたちが「歌舞伎って見る方にも体力が必要よね」などと話していたのが、いまでも頭の中に残っている。
2014/07/19

おもしろい人

(他人から見て)おもしろい人、というのは、(他人から見て)おもしろい生き方をしている人のことだと思う。おもしろい生き方をしているから、その人自身がおもしろいのだと思う。

では、おもしろい生き方をする、とはどういうことだろうか?

ここでは、「おもしろい生き方とは、◯◯する生き方だ!」という肯定形で事例を挙げることはせず、あえて否定形を用いて話を進めてみることとする。

「ベタなこと」をしない。

おもしろい生き方をしている人は、いわゆる「ベタなこと」をしていない人だ。つまり、「普通」ではないのである。たとえば、の話であるが(あくまでも「たとえば」である)、「趣味は何ですか?」と聞かれた時に、相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味を言ってきたら、その人はおもしろくない。「ああ、“ベタ”だな」と思ってしまう。

別に、「それ」を趣味に持つことが「悪い」「いけない」とは決して思わない。だが、「おもしろいな」とも思わない。

それはなぜだろうか? 理由は至って単純で、「趣味は何ですか?」と聞いてきた相手の心を“グサリ”と刺さない回答だからである。言い換えれば、極めて“安全な”答えだからである。

無論、何を趣味にしようが、それはその人の自由である。他人がああだこうだと、とやかく言えることではない。そんなものは、とうに分かりきったことだ。しかし、他人から「この人、おもしろいな」と思われる人、別の表現をするならば、他人が「気になってしまう」人、さらに言い方を変えるならば、他人の心に「後味」として残り続ける人、というのは、例外なく「ベタ」でない人であり、「ベタなこと」をしていない人である。

相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味をしているのは、「ベタ」である。「ベタ」は、どこまでいっても「ベタ」でしかない。どこまでいっても「ベタ」でしかないから、その人に「おもしろさ」が感じられないのだ。

「他の人と同じでいようとする」のは、自分で自分を「ベタ」化させることである。それは、自分で自分を「おもしろくなく」させていることと同義である。

「イケメン」になろうとしない。

「イケメン」になっている人は、つまらない。なぜなら、「イケメン」になっている時点で、人を意識してしまっているからだ。

人は、人を意識し始めると、「安全な人」になりやすい。「安全な人」とは、他人を気にするばかり、いちいち自身の行動を自身でチェックして評価し、自らの「カッコ悪いところ」を紡いでおこうとする人のことだ。

つまり、「テイの良い」人になってしまっている、ということだ。「テイの良い」人ということで、それを(カギカッコ付きで)「イケメン」と表現したわけである。

「イケメン」というのは、「見てくれ」が良い。それは、人を意識しているからだ。意識しているから、「見てくれ」を良くなるのは当然である。

が、しかし、そういう人を見ていて「おもしろい生き方をしているな~」と思うことはない。「テイが良い」から、逆に「掴みどころ」(その人を、その人たらしめている“なにか”)がないのだ。一方、「イケメン」の反対に位置する人というのは、「テイ」を気にしていないから、色々なことに手を出す。もちろん、色々やって失敗もしているからカッコ悪いのだが、決して「安全な人」であろうとはしない。「安全な人」でないから、「掴みどころ」がいっぱいあるのだ。だから、「おもしろい」のである。

満足していない。

もちろん、いい意味で「満足していない」ということだ。いい意味で「満足していない」から、常に「おもしろい」ものを探し続けているのである。それも、懲りずにずっとだ。そうやってずっと探し続けているからこそ、というよりも、探している過程で「おもしろい」ものと遭遇するからこそ、その人はほぼ自動的に「おもしろい生き方をしている」ことになるのである。

逆に言えば、「満足している」のは、「おもしろくない」人なのだ。「満足している」というのは、「現状で足を留めている」ということだ。動かない人で、おもしろい人などひとりもいない。

「おもしろい」ものが、自分の元へ自ら足を運んできてくれる、なんてことはない。自分から「ヤツら」を探しに行かない限り、「ヤツら」は決して見つからない。「おもしろい」とは、そういう性質のものである。

以上、「おもしろい人」についての小論である。
2014/07/16

「分析」されることが大好きな日本人 ― 『日本辺境論』

日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
(2009/11)
内田 樹

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とりあえず、手近にある新刊で読みたい思う本がなくなった。ということで、いつものごとく、既刊を振り返ることにしよう。

前から気にはなっていたが、読んでいなかった本のひとつ――それが、この『日本辺境論』だ。なぜこれを読もうと思ったのかというと、なんでも、丸山眞男の論考が本書と絡んでいるとのことだからである。それで興味をもった次第。

さて、読んでいて早々、気になる箇所にぶつかったのでそこを引用する。

ご存じのように、「日本文化論」は大量に書かれています。世界的に観ても、自国文化論の類がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的でしょう。「こんなに日本文化論が好きなのは日本人だけである」とよく言われます。それは本当です。その理由は実は簡単なんです。私たちはどれほどすぐれた日本文化論を読んでも、すぐに忘れて、次の日本文化論に飛びついてしまうからです。(p.22)

たしかに、我が国では掃いて捨てるほどの「日本文化論」がある。表現されるメディアは問わず、学術的考察をした本から、一般人の書くブログまで。もちろん、当ブログも例外ではない(過去にその類の記事は結構書いてきた)。

これと形が似た現象がある。それが、「占い」だ。我が国では、様々な形の占いが、様々なメディアに登場している。性格占い、血液型占い、運勢占い、恋愛占い、姓名占い、などなど。そういえば、昨今は就活時にも「自己分析」とかいう(一歩間違えれば)占いくさいことをやっているではないか。

我が国でいう「占い」とは、だいたいの場合、「分析」と言い換えても差支えがないように思う。日本文化論も、結局は日本という国の「分析」である。この国(の人たち)は、自らを「分析」することが大好きなのだ。では、なぜ大好きなのか。それは、分析された時の、あの「あっ、それ、当たってるかも」という、“あの感覚”が快感なのではないだろうか。とりあえず、他者から「あなたは、◯◯なところがあるのではないですか?」と言われ、それに対して思い当たるフシがあった時、その「合致した」という感覚が、楽しいからではないだろうか。

こんなことを考えつつ、さらに本書を読み進めていくと、また気になる箇所に遭遇する。

私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません(あら、いきなり結論を書いてしまいました)。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。(p.23)

これはおもしろい考えだ。「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰する」ことが、われわれの「宿命」なのだそうである。そしてそれは、「「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在し」ないのだという。

ところで、これもさっきの「占い」の話と形が似ていないだろうか。「占い」も結局は、「問い」から始まる。「自分ってどんな性格なんだろう?」とか「自分ってどんな人生を歩むことになりそうなのか?」とか、そんな「問い」から「占い」が始まることが多い。

だが、そんな問いから始まった占いも、時間が経つと、われわれはすぐに占われた結果を忘れる。忘れるからこそ、また占いに目が行く。そしてまた忘れる――我が国における「占い」とは、この繰り返しであり、だからこんなにも、ありとあらゆるところで「占い」が何度も何度も登場する、いや、「回帰」するのではないか。それも「組織的」に、である。

わたしが思うに、要は日本文化論というのは、ある種の「占い」なのだ。日本文化論というのは、おかしなことに、「日本文化とはなにか?」という問いに対して、きっちりとした裏付けのある回答を出すことに主眼が置かれるのではない。ただただ「日本文化とはなにか?」という問いに対し、日本(あるいは日本人)に対する「印象」を、ただただ言葉にしてみて、「ああ、合ってる合ってる」とか「たしかに、そうかも」とか「それ、すごく言えてる」といったような、その日本文化論とその読者との間に起きた、「合致感」を楽しむために、存在しているようなものなのだと思う。

だから当然、日本文化論というジャンルにおいて、論考の「堆積」という現象は起こりにくい。その代わり、日本文化論という空間において、いくつもの論が、ただただ同一平面上に並んでいるだけなのではないか。「堆積」したものは、その性質上、「下から上へ」と「登っていく」ことで、当該の現象を把握され得るが、同一平面上に併存している場合、それはただAという論に行ったり、Bという論に行ったり、Cという論に行ったり、はたまた戻ってAに行ったり・・・という「回帰性」が拭い去れないのである。

上記、引用した2箇所は、「日本人はきょろきょろする」という項から引っ張ってきたものだが、そう、この「回帰」という言葉は、言い換えるなら「きょろきょろする」というのとほとんど同義なのである。

最近、「リア充」とは別に、「キョロ充」なる言葉も人口に膾炙していて、そういう人をバカにするのが、ネット上(特に2ch)では通例になっているが、いままで述べてきたとおり、日本人からこうした「回帰性」が取り除かれない以上、われわれは(ほとんど)みな「キョロ充」であると言っていい。要するに、きょろきょろと辺りを見回して、自分と近しい者と一緒になろうとするのは、「日本人」である以上、もはや「そんなの、当たり前じゃないか」程度の行動だと思う。

では、なぜ「キョロ充」が蔑視の言葉として、こんなにも広まっているのか? それはおそらく、「キョロ充」を蔑視する者の中にある「キョロ充的側面」を、他者にも見出した時、いわゆる「同族嫌悪」なるものに襲われるからではないだろうか。「オレ、こんなヤツと同じところがあるなんてイヤだ」という強い思いは、その他人を否定することで、その他人と同じものを持つ自分の「嫌いなところ」を、「とりあえず」解消したことになるからではないだろうか(だが、実際は解消できていないのだが)。

さて、この「回帰」という言葉、これをもっと「言い得て妙」に仕立てているのが、次の箇所だ。

(日本文化論は)数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文々が別のより新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある。より、正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある。(p.23-24)

「変化の仕方が変化しない」――これは本当にすごい見方だ。何せ、何百年もこの国において支配的な「無常観」という一思想が、唯一(といっていいほど)見落としていた「変化の仕方が変化しない」という事実を、本書が「変化しないものもあるんだよ」と、こんなにも分かりやすい言葉で指摘してしまっているのだから。

「変化の仕方が変化しない」というと、私の中ですぐに思い起こされるのが、「◯◯ブーム」なる現象である。我が国では、本当にまあ、ありとあらゆるところで「ブーム」が起きる。なんだかよくわからない、47都道府県それぞれのオリジナルキャラクターブームとか、「理系の女性(山登りする女性、森に出かける女性、歴史好きの女性、でもなんでもいい)が、いま熱い!」的なブーム、そしてちょっと前には、「漢字ブーム」がどうのこうのとか(そもそも、「漢字」が「ブーム」っていうのがよくわかないが)、もはや「ブーム」という一過性ではなくなった「黒縁メガネ」ブームとか、とにかく色々と「ブーム」が起きる。この国では。

しかし、唐突に起きたように見えるこれらのブームも、よくよく観察してみれば、「変化の仕方が変化しない」ことに気がつく。たとえば、さっき述べたキャラクターブームも、もとをただせば「アニメ的」なものを愛でる文化というか国柄というか、そういうものが以前から長く続いていて、それがただ「都道府県のオリジナルキャラクター」という「別の形」として現れただけであって、「アニメ的」なものから「アニメ的じゃない」ものを愛でるようになった、というような変化はしていない。つまり、「変化の仕方は変化し」ていないのである。

「◯◯な女性」ブームについても、そもそも「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」という前提みたいなものがまずあって(というか作って)、そこから「「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」からブームになる」という論理を導き出すことで、変化(ブーム)を起こすという「仕方」も、「◯◯な女性」ブームの「変化」の「仕方」としては、ずっと変化していない。

誤解をおそれずに要約するならば、我が国での「ブーム」の起こり方とは、まず「◯◯というのは今までになかった!」といったような論理を(真偽の程などいざ知らず)、あたかも「(新)事実」であるかのように、それも唐突に大衆の前に持ち出し、その後に「だからすごい!」「乗り遅れると損をする!」「だからみんなで◯◯しよう!」といった結論を唱える、といったものなのだ。で、こうした「変化」(ブーム)の「仕方」(起こり方)は、もうずっと「変化」していない。というか、本当にブームかどうかなんて別にどうでもよくて、まず「◯◯はブームである」という宣言を(大きなメディアが)すること自体が、ひとつの「ブーム」であるといったところだろうか。

こうした「変化の仕方が変化しない」という「回帰性」そのものについて、良い・悪いを言うのは簡単なことだが、それらを抜きにして、こうした現象が今までにほとんど省みられることがなかったという事実があるのは、(さきほども述べたように)「分析」好きな国民性であるだけに、なんとも「皮肉」なことだったと思う。結局のところ、「分析」した“結果”や“方法”がどれだけ秀逸であるかを確認することよりも、「分析」することそのものや、「分析」した結果をみんなで楽しみ、共感することの方に、どうやら重きが置かれたらしい。

――話が長くなったので、ここまで。
2014/07/15

「逃げる」ことは、悪いことではない。

「嫌なことから逃げてはいけない」とは、幼いころからよく言われ、またよく聞く言葉だ。世間では、逃げないこと=善、逃げること=悪、という等式が普遍的価値観のように流通している。某アニメの主人公が幾度も放つ「逃げちゃダメだ」という有名なセリフは、われわれのそんな一般的価値観を映し出しているように思える。

しかし、冷静に考えると、嫌なこと、つらいことから「逃げてはいけない」「逃げられない」状況に自分を置いておく、というのは必ずしも当人にとって精神的成長につながるといったプラスに働くことばかりではない。いざというときに、「逃げられる場所」=安心できる場所や拠り所がないというのは、本当のところ、かなり危険なのではないかと思う。

よく、「日本人は真面目で勤勉だ」などというセリフを聞くが、これは見方を変えれば「“逃げる”のがヘタだ」とも受け取れるのではないか。一般的に、真面目で勤勉なタイプの人ほど、禁欲的でキツいことを「修行」などと無理に肯定的に捉えてしまいがちで、そういう人は「逃げる」ことを無条件で指弾する。だから、「逃げる」ことがヘタになるのは、言うまでもない。

いまや当たり前のように耳にするようになった、社会人のうつ病は、こうした「逃げ方の不得手」から、だったり、「逃げられる場所」の確保不能という状況から来ていたりすることが大いに考えられる。

仕事を抱え込みすぎて(振られすぎて)、納期の呪縛から逃げられず、うつ病になる。あるいは、周囲の人間が、ろくに仕事のサポートをしてくれず、頼れる人がいなくてうつ病になる、といった状況だ。いずれの場合も、自分自身や周囲において「嫌になったら、逃げていい」という考え方が成り立っていないことによっていたりする。

原則として、心身に危険(例えば、病気になりそうな予感がしたり、病気の状態がずっと続いている、など)を感じたら、堂々と逃げていい。あるいは、少しでもいいから自分の悩みを聞いてくれそうな上司に、こっそりと心の内を打ち明ける、などの対処が必要だ。こうした、心身にかかる過度の負荷から「逃げる」というのは、今の時代、ひとつの「教養」である。

「連日残業で疲れたので、今日はすぐに上がる」というのも、見方を変えれば、自分の体を危険から「逃してやる」行為だと取れるだろう。こういう、ちょっとした「逃げ」でもいい。とにかく「逃げる」ことを悪と決め込んだり、避けたりしないことだ。

そういう意味で、会社を休んで趣味にひたすら没頭する、あるいは(他人に迷惑をかけない程度で)一人で楽しい妄想に浸る、というのも、いい意味で「現実逃避」となるから、もっと推奨されてよいと思う。常に向き合っていなければならない「現実」に対し、何らかの「危険」を感じるからこそ、われわれはそれから「逃避」するのだ。なにかと悪い意味で使われることの多い「現実逃避」という言葉も、捉え方を変えれば、自分の身を守る「対処法」ともなるのである。

なにかと病みやすい現代において、「逃げる」ことの優位性はもっと考慮されていいのではないだろうか。
2014/07/11

「深夜ラジオ」的な個人ブログ

ここ最近、何も書いていなかったので、以前からなんとなく「ブログ」というものに対して感じていたことを書こうと思う(とはいっても、これからする話は、正直なところ「わかる人には本当によくわかるが、分からない人にはまったくピンと来ない話」になると思う)。

いい感じの「個人ブログ」(全然有名でもなんでもない、ごく普通の一般人が書いたブログ)というのは、どことなく「深夜ラジオ」的なものを感じる。

なにかこう、ダラダラと話をするのだが、決してつまらなくない。むしろ、それを聞き終わった後、妙にその後も話の中身が頭の片隅にあったりする――いい感じの「個人ブログ」には、そんな香りが、僕にはするのだ。

無論、すべての個人ブログに対してそう感じるわけではない。むしろ、そう感じる個人ブログは多くないだろう。だが、個人ブログの中で、なにか独特の「味」があるようなブログというのは、漏れなく「深夜ラジオ」感を漂わせている。

「深夜ラジオ」感を漂わせているためか、そういうブログは、どうも、しんとした雰囲気の中で一人静かに読んでみたくなる気がする。決して、喧騒な街中とか賑やかなカフェとかで読もうとは思わない。そう、夜も更けてきた頃、部屋でひとりになったとき、読みたくなる。

僕は最近、このブログをそんな雰囲気のブログにしたいと感じている。決して目立つことなく、人入りが少ないものの、このブログになんとなく気が惹かれる人たちだけが、個々人で僕の文章をひっそりと読んでもらって、お互い、感想とか意見とかも共有しない、ただただ己が感じたこと、思ったことだけを、己の中だけにとどめておいて、ふとした時に、まあちょっと他人に話してみようかなぐらいの、そんなものを提供できるような「深夜ラジオ」的なブログにしたいと思っている。

というのも、よくゴールデンタイムのテレビとかで耳にする「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」的なノリが、なんか嫌なのだ。偽善臭さと胡散臭さを感じるのは言うまでもなく、なぜ「みんな」で「共」にしなければならないのか、という点が、よくわからないし、納得できないからだ。

何かを観たり読んだりして、それに対しどんな感想を持とうが、それはその人の勝手である。「感想」というのは、安易に他人と「共」にしてしまうと、「感想」ではなくなると思う。それはもう、「みんながそう感じているのだから、そう感じない人がおかしい」みたいな、アホらしくて意味のない一体感ではないか。

話は逸れるが(もうすでに逸れてはいるが)、いまの若い人たちがすごく恐れているもののひとつに「ひとりぼっちになること」あるいは「浮くこと」が挙げられる。これは、突き詰めて考えれば、「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」という「ゴールデンタイムのテレビ」的なノリに合わせられないヤツは存在を認めない、許さないという暗黙の雰囲気が横たわっているからだろう。

一方、「深夜ラジオ」的なノリは、その正反対を行く。「勝手に個々人で楽しめばいい」「ワイワイ騒がず、ひっそりと」「大勢で、よりも、むしろひとりで、を推奨」が「深夜ラジオ」的なノリだ。私は好きだ、こういうの。なんというか、「いい大人な感じ」がしてたまらない。

新規にブログを立ち上げると、どうしてもアクセス数が気になって、なんかこう、意味もなくハイな感じの文体で、意味のない記事を乱発したりしてしまうかもしれないが、どうせそんなの、後でボロが出るのだ。後で読み返してみたとき、「あれ、なんか違うな」という感じに襲われるだろう。

そういう人には、無理せず、「深夜ラジオ」的なブログを目指してみたらどうだろう、と言いたい。人入りは少ないし、パッとしないから一見つまらなく見えてしまうが、やっていく内にだんだん楽しくなると思う。

いい感じの個人ブログと、深夜ラジオの共通点は、どちらも「ローカル感、マイナー感の“積み重ね”がある」という点に尽きる。大衆受けは決してせずとも、でもネタをちょっとずつちょっとずつ積み重ねてきたから、それがいい感じに醸しだされている、といった感じだろうか。だから、どちらも何とも言えない「魅力」があるのだ。

「深夜ラジオ」的なブログ――これが、個人ブログの理想だと思う。
2014/06/10

先送りできることは、どんどん先送りしていい

「先送り」というのは、なにかと悪者にされている。

「仕事を先送りするな」「意思決定を先送りするな」「勉強を先送りするな」「嫌なことを先送りするな」――「先送り」とくっつくのは、ほとんどいつも「するな」という言葉であり、「しろ」「すべき」とくっつくことはほぼ皆無である。

しかし、だ。なぜ、先送りするのが、無条件で「いけないこと」のように扱われているのだろうか? 先送りして、特段支障がなければ別に先送りしたって良いではないか。

わたしは、仕事をしているとき、今日やろうと思っていたことを次の日以降に先送りすることがよくある。理由は、ただひとつ。仕事は、一度手をつけてしまうと「キリがない」からだ。「キリがない」からこそ、それが行き過ぎると「残業」になってしまうのである。

色々な仕事を同時並行で進めていかなければならない状況下で、急なトラブルや仕事の注文が入ってしまうことはよくあることだ。そして否が応でも、結局それらに対応しなければならない(場合によってはつきっきりで)。

無視することはできない。かといって、そればかりやっていられるわけでもない。つまり、仕事というのは、ダブルバインド状態な中で行われやすいわけだ。そう聞くと、マジメな人は「そうならないために、早め早めに手を打って・・・」「きちんと計画を立てて、段取りよくやらないと・・・」などと思うかもしれない。だが、それができるなら、誰も苦労しないだろう。そうしたくても、できないからこそ、みんな仕事で苦労したりストレスを抱えたりするのだ。

こうした、カオスな状況でいかに仕事をさばいていくか。

それが、「先送りできるものは徹底的に先送りする」というやり方である。「誰かにせっつかれたらやる」というのも、アリだろう。

こう言うと、非常に無責任な仕事処理に見えるかもしれない。だが、仕事というのは、結局、やっている過程でなく、結果で評価されるものだ。結果さえ良ければそれでいいのである。それに一々、過程まで事細かに観察し評価してくるようなヒマな上司や先輩など、まずいないので、気にする必要などない。

営業はともかく、事務方仕事の大半は「どうでもいいような資料」の作成だったりするのが現状だ。取締役や上司がたかだか一瞥する程度や、数日経ったら捨てられてしまうような資料のために、自分の貴重な時間を削って残業するのは実にバカらしい。場合によっては、徹夜で作成なんてこともあったりするので、始末に終えない。こんなことが続ければ、それこそ体を壊したりうつ病になって出社できなくなったり、なんてことも起きてしまう。

そうならないためにも、とにかく先送りできるものは先送りするに限る。日本の教育では、幼い頃から「先送り=悪」という価値観を刷り込ませてくるが、これは社会人にとっては単なる「危険思想」にすぎない。先送りできるものは、徹底的に先送りし、怒られたり文句を言われたりしたら適当に受け流すか、とりあえずちゃちゃっと片付ければいいのだ。そんな非難をバカ正直に、真っ向から受け止めていたら自分がパンクしてしまうのだから。
2014/05/18

私の愛する「古典」

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
(1961/11/20)
丸山 真男

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『日本の思想』――この本だけは、私にとってどうしても手放せない本だ。

大学生だった当時、この本を扱って授業をしていた先生がいた。実に面白い授業だった。社会人の今でも、またもう一度、あの授業を受けたいと思っているくらいだ。

授業もさることながら、わたしは本書の著者である丸山眞男に惹かれた。彼の強靭かつ鋭利な知性と知識量、秀逸な言語表現、「なるほど、そういう見方があるのか」と舌を巻いてしまうユニークな視座――わたしにとって、唯一尊敬、いや崇拝に値する「日本の」大学教授である。

「なんともオーバーな言い方だ」と思われるかもしれない。事実、オーバーな表現できる人だったので、賞賛と同時に多くの反感と非難を浴びた人でもあった。おそらく、「日本の」大学教授で、ここまで多数の賛否両論のある人は後にも先にも丸山眞男だけなのではないかとさえ、わたしは思っている。

彼をあまねく天下に知らしめたのは、おそらく本書だろう。とはいっても、丸山の本来の仕事は、日本の政治思想史の研究だった。しかし皮肉なことに、本書には、その「片鱗」程度の論文と講演録しか入っていない。それでも、「丸山眞男」といったら『日本の思想』だよね、と彷彿させる――そんな本なのだ、本書は。

新刊書に飽きてきた今日この頃、わたしはいま再び、この『日本の思想』を読んでいる。相変わらず文章表現が難解に感じる。再読なのに、「一読」ではなかなか文意が取れない箇所が多々ある。それでもゆっくりと、そしてじっくりと読み解いていけば、「なるほど、そういうことか」と理解できる。

わたしが社会人になって会社員生活を送る傍ら、日々実感するのが、「人間はイメージを頼りにして物事を判断する」という丸山の考えだ。

会社(というか、あらゆる組織や集団すべてに言えることだろうが)では、一度でも「アイツって◯◯だからな~」とか「あの人って☓☓な感じだよね~」といったイメージができ上がると、人は皆、そのイメージをもとにその人に接するようになる。別に、本当に当人がそのイメージ通りなのかどうかに関わらず、である。

「そんなの当たり前だ」と思われるかもしれない。しかし、「当たり前だ」と言いつつ、こうした事実を受け入れたくない人は、少なくないはずだ。「オレ、本当はそういう人間じゃないんだけどな」とか「わたしって実はそんなことないんだけど」といった、周囲のイメージと自分の認識とのズレに、程度に差こそあれ、思い悩んだり考えこんでしまったり、という人が多いのではないか。

わたしはあるときから、この丸山の考えを「応用」してみたらどうか、と思うようになった。つまり、人がイメージで物事や人を判断する、というのであれば、自らを自らが作った「イメージ」でまとわせ、そのイメージを、うまく周囲が持つ自分のイメージと合致させ、会社という世知辛い場を凌いでいく、ということをやってみたのである。メディアでよく耳にする、「なりたい自分になる」というアレだ。結果、自己評価ではあるが、「なかなかうまくいっている」と思っている。わたしは、丸山からヒントをもらい、イメージとしての「なりたい自分」とやらに「なってみた」のだ!

と、そんなことはさておき、こうした「当たり前」とされていることを、改めて「きちんと厳密に言葉にする」というのは実はすごく難しい。なぜなら、「当たり前」であるがゆえに、それを「当たり前」として片付けてしまうことで、その「当たり前」を「きちんと」認識しようとしなくなるからである。丸山眞男の魅力の一つは、こうした「当たり前」を「きちんと厳密に言葉にする」ところなのだ。

本書は今日、もう「古典」と呼んで差し支えないだろう。岩波新書の名著ベスト5に、確実にランクインする一冊だと思う。佐藤優が『人間の叡智』(文春新書)で、「自分の中に、最低でも2つの古典を持て」と言っているが、幸いにも私は本書によって、ひとつ「古典」が持てたのである。
2014/05/05

能を、見た。

能と歌舞伎には、共通点がたくさんある。が、豪華絢爛で熱気ある歌舞伎と比べ、能は本当に「冷静」だ。共通点は多いものの、両者最大の違いは、この「温度差」ではないだろうか。

まず、能楽師たちの登場の仕方が異様である。彼らは摺り足で、ものすごくゆっくり歩く。本当に、本当にゆっくりだ。まるで足腰悪そうな老人のようである。しかし、歌舞伎役者が花道から颯爽と登場してきた時の、胸躍る感じが、わたしにはこの、能楽師たちの登場の仕方にも同様に感じるのである。

なぜだろう? これが能という「芝居」(否、わたしには一種の「儀式」のようにも見えるのだが)のおもしろいところだ。理由を考えてみるに、それはこの登場の仕方が現代人にとっては「異様」に見えるからではないか。何せ、舞台への「登場」である。普通ならば、どこかわっと出てみたい、そして喝采を浴びたいという気持ちが、何かを演じる者の気持ちにはあると思う。また、彼らを見る観客たちも、無意識にそういう登場の仕方をするのではないか、と期待していたりもする。

しかし、能はそんな気持ちを押し殺すかのように、わっとは出ず、むしろ正反対の登場の仕方をするのだ。揚幕がゆっくりと上がり、そこから無表情な男たちが、摺り足でぬっと現われるその光景――テレビドラマを始めとした現代劇にどっぷりと浸った今の人間たちにとって、これがどうして異様に映らないことがあろうか。

だが、この「異様」も一度慣れてしまうと、今度はとたんに「退屈」へと変わってしまいやすい。能は、そのあらゆる所作やセリフがどれもこれも「異様」である。が、この「異様」は「退屈」と隣合わせなのだ。事実、わたしは慣れてしまい、今回の芝居でもウトウトすることがあった。

能は、能自身が現代人へ「すり寄ってくれる」ような芝居ではない。われわれ現代人が、能を理解してみようという気持ちがない限り、おそらく一向に理解不能なものなのだ。その点、歌舞伎はまだ「親身」だ。ミュージカルな要素が強い分、こちらが特段の知識がなくても、なんとか楽しめる(それでも所詮は「なんとか」という程度のものだが)。しかし、能にその理屈は通用しない。能は「親身」ではないのだ。こちらから、能に対してアプローチしない限り、能はわからないのである。

とはいうものの、では本を読んで、ちょっと話のあらすじを知った程度で楽しめるものか、といったら、実はそうではない。歌舞伎はそれで十分楽しめるが、能はそうはいかない。これはまあ歌舞伎にも言えることではあるが、能は何度も「根気強く」見て、ようやく「ああ、そういうことか」となれるのだ。関連の書籍を読んでおくのは当然として、それにプラス「何度も何度も、根気強く見る」という態度が、能を楽しむためには必要なのだ。

なんとも、まあ「面倒な」芝居だろう――そう思われるだろうが、そういう感覚になって当然である。実際のところ、「面倒」な芝居である。それもそのはず、なんだかよくわからない登場の仕方をして、なんだかよくわからにセリフを口にして、なんだかよくわからない舞をして、なんだかよくわからないストーリーで・・・というのが、能の事実なのだから。

しかし、だ。では、なぜこんな「面倒」なものが、600年以上も続いているのだろうか?

それは、遥か昔に成立した能の「権威」のおかげだろうか? いや、違う。いくら権威があろうとも、所詮そこに「含蓄」がなければ、どこかの時点で滅んでいるはずだ。長きにわたって支持されている以上、そこにはなにか人を惹きつけるものがある、と考えるほうが自然ではないか。

実は昨日、わたしはその「含蓄」とやらに、ちょっと触れることができたような気がするのである。それは、観世能楽堂で「海士」を見ていたときのことだ。正直なところ、話の筋はもうほとんど覚えていない。だが、龍女となったシテが、舞を舞っていたとき、その姿を見て、ピンと来るものがあったのである。そのときのことをうまく言葉にすることができないのだが、それでもなぜか、彼女の姿を見て「ああ、そういうことか」となったのだ。

能の魅力、だったのだろうか、それと思しきものに邂逅できた瞬間だった。
2014/05/03

【歌舞伎座】團菊祭五月大歌舞伎(夜の部)

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團菊祭とあってか、それとも父・團十郎の後を受け継ぐ海老蔵が出演ということあってか、今月の昼の部のチケットはどうやらもう、売り切れのようだ。とはいっても、夜の部は不人気(?)らしく、まだチケットも残っている。

今回、私は夜の部を観に行った。一番楽しみにしていたのが、「春興鏡獅子」だ。

しかし、である。前半の小姓・弥生こと菊之助の舞踊は、色っぽくてものすごく魅了されてしまったのだが、胡蝶がなんとも興醒めな演出だった。というのも、魅惑に満ちた二匹の蝶が、なんと「成人」(成虫?)なのである。

DVD「鏡獅子」(主演・5代目坂東玉三郎)に親しんでいた私からすると、胡蝶は「成人」ではなく、子供(子役)こそが似つかわしいと感じる。シネマ歌舞伎「春興鏡獅子」でも、亡き18代目勘三郎が演じた時は、胡蝶は子供だったのだ。

第一、あんな真っ赤な着物を「成人」(「女形」というべきだろうが、果たしてあれが「女形」と言い切れるかどうかも怪しかった)が着ても、野暮にしか見えない。「鏡獅子」ファンからすると、これはなかなかショッキングな「事件」である。

ちなみに、この「鏡獅子」という芝居、なぜ私は好きなのかというと、演出上のコントラストが素晴らしいからである。まず、勇猛な獅子と、可憐な胡蝶という登場人物のコントラスト。そして、手弱女たる弥生の舞い(前半)と、益荒男のような獅子の踊り(後半)という舞踊のコントラスト。こうしたコントラストが良いのだ。そしてあの胡蝶が、小さくて、かわいくて、子供らしさが溢れているからこそ、後半の獅子の踊り(特に毛振り)が大きく映えて見えるのである。

それが今回、「成人」での演出ということなのだが、どうにもこうにも違和感があって、見ていて「なんだかなぁ」という感じだった。

ところで実はもう一つ、残念な演出があって、それが最後の見せ場の「毛振り」だ。この芝居最大のポイントなのだが、菊之助は疲れていたのか(?)、豪快であるはずの毛振りが、どうも豪快ではなかった。毛振りがだんだんと速くなっていって、最後はもう全身全霊で、体を吹っ飛ばすくらいの勢いで振りきって幕を閉じる、という「はず」なのだが、今回の菊之助の毛振り、それがなかったのだ。振りがだんだん速くなる、ということがなく、「常速」のまま幕となってしまった。ここは「安全運転」などやめて、「危険運転」を貫いてほしかった、というのがファンとして想いだ。

さて、批判ばかり書いてしまったが、夜の部にももちろん見どころはある。なんといっても、今回は團菊祭ということで、海老蔵が久々に歌舞伎座に戻ってきた。期待大なのは、やはり海老蔵なのだ。

夜の部が不人気なのは、海老蔵が「幡随長兵衛」に出るからなのかもしれない。が、あの侠客・長兵衛は、海老蔵の「ちょいワル」な雰囲気と本当にピッタリでサマだ。煙管の吸い方も、目を瞑りながら、なにか悟ったのような感じが粋で美しい。そして、これから敵陣に単身で乗り込もうとするところを、女房と息子にとめられるも、それを冷静に、かつ哀愁漂わせながら説得する姿も、思わず男のわたしも見惚れてしまったくらいだ。

「幡随長兵衛」を見ていたのか、それとも「幡随海老蔵」を見ていたのか――そんな心地だった。30代という若さで、あれだけの貫録が出せるからこそ、海老蔵はやっぱり魅力的なのである。
2014/04/29

【観世能楽堂】『古典への誘い』を鑑賞した。

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おおよそ一ヶ月前であるが、観世能楽堂で海老蔵の「古典への誘い」を見た。

能楽堂というのは、会場内がすごく小さいので、ちょっとの人ですぐいっぱいになる。今回も例に違わず、観世能楽堂に海老蔵が来るということで満員だった。

始めに、場内が急に暗くなったと思ったら、会場後方の入り口から海老蔵がグレーのスーツ姿で入ってきた。衣裳も化粧も身につけていない、「生の」海老蔵を見たのはその日が初めてである。

格好良かった。ただ、その一言だけだ。それ以上の言葉はもう、いらない人だった。会場内は、女性で7割くらい占めていたように思うが、女性が多く集まるのは当然のように思えた。こんな粋で格好いい男が、能楽堂という厳かな場所で舞踊を披露してくれるのだから。女性も負けじ劣らず、着物姿で美しかった。

始めるにあたってのオープニングトークということで、海老蔵は能と歌舞伎の魅力、歴史を語った。このあたりのことは、能楽堂に集う者たちにとって、もはや不要ではないかとさえ思えるような内容だったが、それでも海老蔵の口から語られると、改めて「何か高尚なものを勉強した」という気分に浸れてしまった。よく「何を語るか、ではなく、誰が語るかが、人を魅了するときに大事な点である」などといったことを耳にするが、まさにその通りだった。

今回の演目は、半能「石橋」と歌舞伎「連獅子」である。なぜ、数ある演目の中からこの2つが選ばれたのだろう? 思うに、どちらも役者の動きに明確な緩急があって人を惹きつけ、鳴物も素晴らしいからではないか。それに、どちらも獅子が出てくる。獅子の面をつけた能楽師と、獅子の隈取をした歌舞伎役者。両者ともにその迫力が凄まじい。歌舞伎はともかく、能というと「ゆったりと静かな動きをする芝居」というイメージを持っている者にとって、「能にも、こんな激しい芝居があるのか!」と驚かされるに違いない。

しかし、この企画、実に贅沢だ。いや、贅沢過ぎるといっても過言ではない。なぜなら、能楽堂で能と歌舞伎を一気にやってしまおうという試みなのだから。海老蔵も言っていたが、これが安土桃山の時代ならばありえない。当時、能は貴族階級の芝居であり、歌舞伎は庶民のための芝居だった。そこには、今とは異なる「聖俗」の線引がはっきりとなされていたのである。それを現代の、平成の渋谷で、両方をまとめてやってしまうというのだから、当時の貴族・庶民からしてみれば、まさに「夢の組み合わせ」なのだ。

歌舞伎「連獅子」というと、あの豪快な「毛振り」が有名である。無論、今回もそれが観られたわけだが、能楽堂という舞台と、あの小さな会場のせいなのだろうか、ものすごく盛大な光景として今でも僕の目に焼き付いている。何せ、親獅子(海老蔵)が真っ赤な毛を、そして子獅子(福太郎)が真っ白な毛を、力強く振り回しながら、能楽堂の橋懸かりを渡っていくのだ。

橋懸かりの脇にある松と、舞台後方にある鏡板、そして紅白の牡丹の花――それらを背景に毛を回しながら、魅惑に満ちた獅子がそこに現れる。実に異様ではあったが、同時にそれに目を奪われて恍惚としている自分が座席にいたのである。

舞踊というのは、瞬間の芸術だ。絵画や骨董品のような、「常にそこにあるもの」ではない。一瞬一瞬ですぐに消え去っていく芸術である。しかし、それが何とも言えない、舞踊という芸術の魅力なのだ。決して、ビデオカメラで捉えて収まりきれるような代物ではない。

この日は、本当に優雅な気分に浸れた最高に一日だった。帰りに、渋谷のジュンク堂で『風姿花伝』を買ったくらいだ。終わった頃にはますます、「もっと歌舞伎と能を観なければ損だ」とさえ思うようなっていた。

(※画像は前回公演時のもの)
2014/04/27

「人間臭さ」がないと、何も残らない。

「はてなブックマーク」というサイトがある。私はそこで、いま注目されている記事をパラパラと見るのだが、そこで人気になる記事というのがほとんど、実利的な記事(「~する時に役立つ◯◯トップ5」とか「知らないと損する☓☓の裏ワザ10」とか)である。エッセイとか「◯◯を見た感想」とか、そういう記事はあまり見かけない。

無論、はてなブックマークを使う人たちは実利志向が強いから、というふうにも考えられるだろう。また記事を書く方としても、実利的な記事のほうがウケがよく、PV数も稼げるから結果的にみんな実利的な記事ばかり書き、エッセイ系の記事は書かない(書きたくない)のかもしれない。

こういった傾向というか趣向を見ていると、多くの人が「すぐ役立つ情報(役立ちそうな情報)」をネット記事に求めているのだなと感じる。しかし、私個人の経験からすると、そういう記事(あるいは、そういう記事を提供している側)というのは、その記事を観られた瞬間、もうすでにその記事は「用無し」になってしまっている。その記事が載っているブログやサイトも、次に来る「役立つ記事」が提供されるまでは「用無し」だ。つまり、「役立つ記事」がなければ、何も頭や心に残らない。残るのは、ただ「役立つ情報」とその情報が「自分に提供されたという事実」だけだ。

僕はこういう実利的な記事を読むのがあまり好きではない。エッセイや意見文のような記事のほうが好きだ。実利的な記事が多いはてなブックマークに訪れるのは、わずかな期待を持ちながら、そういったエッセイや意見文のような掲載数の少ない記事を読みたいからである。

しかし、なぜ僕はそういう記事が好きなのだろう? こういうことを書いていてふと頭の中に思い浮かんできたことなのだが、それは、少しカッコ悪い言い方になるが、そういう記事に「人間臭さ」が表れているからなのだと思う。

なんというか、「今日、外でこんなことがあったんだけど、オレはそのときこう感じた」とか、「世間では◯◯は良く言われてるようだけど、でもそれって違うと思う」とか、そういう個人の思いや考えというのは、すごく「人間臭さ」が出ていて、興味が湧いてしまう。そういうものを読んでいるとき、もはやその人の言い分やモノの見方に共感する/しないなんていうのは、すごくどうでもいい瑣末なことなのだ。「ああ、世の中にはこういうふうに考える人がいるんだ」「こんな感じ方をする人がいるんだ」という、ただそれだけのことが知れるだけで僕はすごく楽しいし、おもしろい

いま、ネット上のあらゆるところで「感情論」というものが毛嫌いされているように思う。ちょっとばかり、主張したいことに情が混じると、すぐに相手から「そんなの、ただの感情論だ」という批判に晒される。なんだか、「エビデンス(証拠)がなければ、何を言ってもムダである/信用してはならない」みたいな雰囲気が、どこもかしこにも横たわっている気がする。最近流行りの「統計学で◯◯をウソを見破る」とか「ビッグデータ解析で、本当の☓☓を探る」といった記事や本や企画も、そういった空気が蔓延する中だからこそ、こんなにも支持されているのではないだろうか。

だが、最後に人の頭や心の中に残るもの、残り続けるものというのは、結局、さっき言ったような「人間臭い」ものだと僕は思う。例えば、ありとあらゆる「芸術」と呼ばれるものが、時代を超えて保護され大事にされるのは、そこに遥か昔から変わっていない「人間臭さの極北」があるからではないか。その「人間臭さの極北」に、その時代その時代の人たちが魅了されてきたからこそ、それは「芸術」と呼ばれるまでになり得たのではないか。

僕が、ある人やあるモノに関心を寄せる時というのは、その人やモノから漂う「人間臭さ」感じ取った時である。その人が偉業を成し得た時に、ということもあるが、それはほんの一時的なものにすぎない。その「一時」が「常時」に変わる時というのは、必ずその人の「人間臭さ」に触れた時である。

振り返ってみると、僕が面白いと思った本、そして手元に置いておきたいと感じる本は、やはり「人間臭さ」が滲み出ている本である。くだらないかなあと感じつつも、でも買って読んでしまう「人生論」的な本は、本当に「人間」の「匂い」がする。だからついつい、「人生論なんか読んでもねえ」とは感じつつも買ってしまうのだろう。

読書、ということでさらに言わせてもらうと、僕は本に実利的な情報を求めることがほとんどない。「◯◯ができるようになる方法」とか「すぐに☓☓がわかる本」といったものを買うことはすごく少ない。理由は、やはり頭や心に何も残らないことが多いからだ。◯◯や☓☓ができたり、わかったりしても、ただそれ「だけ」ということで終わってしまう。それ以上の、たとえば自分の中でそれを反芻したり思い返したり、といった「読んだその後に来るもの」がない。

もちろん、実利的な記事や本が悪いなどとは思わない。それを求めている人たちがいる以上、それは確かなニーズを満たしているのだから、これから先も生まれ続けるだろう。しかし、ニーズを満たし得た時点で、それ以上のものは何も生まれない。発展することもない。それが実利というものだ。実利を志向するというのは大変シビアなもので、そのものに明確な「対価」や「効果」がなければ、それはゴミクズ同然の扱い受けてしまうのだ。

「すぐに役立つというのは、すぐに役立たなくなる、ということだ」という逆説的な言葉の意味するところはすなわち、「すぐに役立つ情報を得た時点で、その役立つ情報を提供した側はすぐに用無しとなり、また“すぐに”役立つことが実証されなければ、もはやその情報自体も用無しであり、“すぐに”役立ったとしても、“すぐに”は、すぐ過ぎ去るのだから、すぐに役立たなくなる」ということなのだと思う(以上は、個人的な解釈である)。

もし、読み継がれるに値する記事を作りたいと思うのなら、どこまでも自分の書くものに対して「人間臭さ」を求めたほうがいいのではないか――いま、私はそういう気分である。
2014/04/25

歌舞伎案内のスゴ本――『歌舞伎の愉しみ方』

歌舞伎の愉しみ方 (岩波新書)歌舞伎の愉しみ方 (岩波新書)
(2008/11/20)
山川 静夫

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もうすぐでゴールデンウィーク――ということで、わたしは歌舞伎座と明治座、観世能楽堂でこの連休を過ごそうと考えている。伝統芸能にどっぷりと体を浸らせてもらう予定である。

ところで、伝統芸能というのはよく「敷居が高い」とか「難しそう」といった印象を持たれがちである。実際、その通りだ。敷居は高いし、すぐ観てすぐ楽しめるといったものではない。ある程度は「勉強」が必要だし、イヤホンガイドなしで十分に作品を味わうにはそれこそ歴史の知識、古語の知識、当時の風習・風俗の知識も必要になってくる。決してお気楽に観られるものではない。

とはいっても、歌舞伎、能、文楽など日本には色々な伝統芸能があるが、とりあえずこの3つに絞った上で話をさせてもらうと、この中でもっとも親しみやすいのは歌舞伎だ。なぜなら、歌舞伎が一番具体的で使われる言葉も現代に近いからだ。一方、能は抽象度が高いし、文楽は誰がしゃべっているのかわかりづらく、言葉もほとんどが古語。おまけに東京だとチケットがすごく取りづらい。

というわけで、「だったら、まずは歌舞伎を楽しんでみたい」という人にオススメなのがズバリ本書『歌舞伎の愉しみ方』である。著者は元NHKアナウンサーの山川静夫氏だ。

氏の文章からは、歌舞伎への愛と情熱が本当に滲み出ている。しかし、難しい話などはほとんど出てこない。「まあ、とりあえず歌舞伎、観てみようよ」といった、ゆるくやさしい感じだ。岩波新書だから一見小難しい印象を受けるかもしれないが、まったく小難しくない。

ここで本書から、気になった言葉を一部抜き出しておこう。

最初にこんなことを申し上げたのは、「歌舞伎をこう観なければならない」というきまりは一切ないのを強調したかったからです。(中略)他人の意見に左右されない自分なりの感性の尺度を持つことが、歌舞伎を愉しむ第一のコツかもしれません。(p.2)

よく、「歌舞伎はもともと庶民の娯楽だったのだから・・・」などといって、「だから歌舞伎は高尚でもないし、難しくないのだ」と言う人がいるが、それは昔の話であって、さすがに今の時代は当てはまらない。初対面の人に「趣味は、歌舞伎を見ることです」と言えば、たいていは「すごいですね」とか「高尚な趣味をお持ちなんですね」などと言われることがほとんどだろう。

しかし、氏の言うとおり、そんな歌舞伎だからといって、決して構えて観る必要はない。というのも、なにか「正しい見方」があるわけではないからだ。「歌舞伎のこういう部分は好きだけど、ここはあまり好きじゃない」というのだってアリだし、「この演目は自分にはわからないけど、あまり人気のない◯◯という演目は面白かった」と感じるのもアリだ。要は、「正直」であることが大事なのだと思う。

と、ここまで色々と述べてきたが、やはり最終的には「たくさん歌舞伎を観る」ことこそが、歌舞伎を大いに楽しめるようになる一番の近道だと私は思っている。本で勉強するのは、初めのうちは「ある程度」までに留めておいて、その後はひたすら見まくるのがいい。それも2、3階席ではなく1階席で、である。その方が、よく見えるし、よく「感動できる」のだ。不思議なもので、歌舞伎というのは、行くと毎回なにかしらの新しい「発見」があったりするのである。
2014/04/24

会社という名の「承認欲求地獄」で生き延びる方法

以前、映画『ユダ』の感想を書いた時、私はキャバ嬢の世界を「承認欲求地獄」と表現した。が、キャバ嬢よりももっと身近なところに「承認欲求地獄」は存在している。それが、会社という組織である。

会社では、そこでどのような立場であろうと、自分よりも後に入社してきた者に対しては、「自分はアイツよりも立場が上だ」と思う人がほとんどだ。実際のところ、大した仕事もしておらず、輝かしい業績があるわけでもないのに、である。

このような人たちは、「自分は下の者から敬われて当然である」と考えている。だが、それは何ら「当然」なことではない。仮に「敬われている」のが事実だとしても、それは当人が「魅力的だから」とか「すごいから」ではなく、単に「とりあえず、下から敬って“もらえる”立場にあるから」という場合がほとんどではないだろうか?

しかし、上に行けば行くほど、上の者は自分がもしかしたら「とりあえず、下から敬って“もらえる”立場にあるから」敬われているのではないか、と考えようとしなくなるようだ。本当にひどい場合だと、会社の外でも「大御所ヅラ」する者もいる(いい年した大の大人が店員に横柄な態度を取る、というのはその典型ではないか)。所詮、会社から一歩でも出れば、単なる「中年」や「オジさん」に成り下がるだけなのに、そのことが自覚できないというのは恐ろしい。

結局、会社という組織自体も「承認欲求地獄」で成り立っているのだ。「認められたい」「敬われたい」と思っている人たちが会社には大勢いる。無論、それが競争につながり、結果的にプラスに働くのなら悪くないかもしれない。が、だいたいの場合、そのように思われたいのは自分よりも下の者からなので、大して競争心も生まれなかったりする(というのも現状、日本はまだまだ年功序列の社会だからだ)。

こんな世知辛い「承認欲求地獄」をどうやって、うまく生き延びればよいのだろうか?

もっとも安全かつ効率的かつ効果的な方法がある。それは自分から進んで、相手を「敬って“あげる”側に回ってしまう」というものだ。もちろん、「本当に」敬うのではなく、あくまでも「敬って“あげる”」という上から目線な考えで十分である。もっと簡潔に言えば、「持ち上げて“やる”」のだ。

そういうフリをしていれば、大した努力をせずとも自然と相手からの好感度も評価も上がる。うまく行けば、トントン拍子で出世できるかもしれない。なんら新鮮味のない方法ではあるが、これが一番賢いやり方だと私は思う。

間違っても、「敬われたい」などという「承認欲求地獄」の中に己を沈めさせないことだ。そして、「自分は下の者から敬われて当然である」などとも思わないことだ。下の立場になってみればすぐにわかることだろう。

誰も、あなた(自分)のことなど敬いたくて敬っているわけではないのだから。
2014/04/20

「真面目」は、最強である。

今日のお昼ごろ、たまたまテレビを見ていたら、「驚きの真実!ビッグデータSHOW ~ホントの日本が見えてくる~」(日本テレビ)というのが放送されていた。

「ビッグデータか~。そういえば今話題のワードだよな~」と思い、途中まで見ることにしたのだが、その中で一つ、興味深いデータが出ていた。それが、日本人がツイッター上でよくつぶやく言葉があるらしく、それが「明日こそ本気を出す」である、というもの。

その番組で、ツイッターのつぶやきを分析していた人によると、日本人は、毎日反省し、毎日決意し、でも挫折して、それがこのように、「明日こそ本気を出す」という言葉としてつぶやかれるのだろう、というコメントをしていた。

これを聞いて、「やっぱり日本人はどこまでも真面目なんだなあ」という当たり前の感想が持てたのだが、しかし、おもしろいことに、当の日本人たちは「真面目」に対して、嫌悪感があるのだ。

その証拠は、グーグル先生に尋ねてみると、すぐに出てくる。

試しにグーグルで「真面目」と入力してみると・・・

3.jpg

「真面目」との組み合わせが、「つまらない」「やめたい」「損」「短所」「うつ病」といったネガティブな言葉ばかりだ。

一方、今度は「不真面目」で調べてみると、さらに面白い事実が見えてくる。


5.jpg

「不真面目」だと、なぜか「不真面目を目指す」「不真面目のすすめ」「不真面目になる」「不真面目 頭いい」といった肯定的な捉え方をされている場合が多い。

こうして見ると、毎日反省し、毎日決意し、でも挫折して、「明日こそ本気を出す」という言葉をつぶやく「真面目」さが根っこにはあるのに、でも真面目に見られたくない、あるいは真面目でいたくない、というのが日本人というものなのだろうか?と思いたくなる。

気持ちは真面目である、が、見た目や生き方は真面目でいたくない、不真面目でありたいという矛盾――なぜこんな矛盾が生じるのか、その理由は色々あるだろう。

その一つが、ドラマやアニメに出てくる登場人物(キャラ)の影響があったりするのでは?と、わたしは思っている。

最近のドラマやアニメ(特に戦闘モノ)に出てくる登場人物の中には、「出で立ちがカッコよく、飄々としていて、いつもなんとなく気だるそうにしているが(つまるところ、不真面目)、何かと主人公や主人公の周りの人たちのことを考えてくれていて(つまるところ、真面目。しかし、あまり態度には出さない)、窮地のときに、主人公の力になってくれるが、それが終わるとまたいつも通りに戻る」というタイプのキャラがよくいる(そして物語の、わりと重要な位置にいることが多い)。

みんな密かに、そういうキャラや位置に憧れているんじゃないか?とわたしは思っているのだが、まあ、そんな根拠のない分析はどうでもいい。

しかし、である。本題にまた戻るが、真面目であるというのは、本当は得であり「強い」のだ(これまた明確な根拠を挙げられずに申し上げるが)。

就活を例にとるとわかりやすいかもしれない。業界や社風によるところもあろうが、基本的に新卒は真面目な人や真面目な感じの子が採用されやすい。なぜか? それは自分が会社にいるおじさんの側に回ってみればわかる。真面目な子のほうが扱いやすいし、仕事をまかせるにしても安心できるからである。

この点、やはり不真面目な感じの子(言い方を変えれば、ちょっとチャラい感じの子や、ワルっぽい感じの子)はウケが悪い。ほとんどのおじさんたちは、若かったころと比べてかなり保守的になっている。その企業のカラーに完全に染まりきっているおじさんたちは、自分とは毛色の違う若いヤツを見ると、なにかと警戒しやすい(どの企業も、採用活動に慎重になっている昨今の流れからすれば、この傾向は今後もますます強くなるだろう)。

採用活動時に「人材の多様性」だの「個性の尊重」だのという企業もあるが、所詮はタテマエだ。結局、一緒に仕事をしていて安心でき、且つ扱いやすそうな「真面目な人」を、おじさんたちは好むのである。

これは別に企業に限った話ではない。恋愛でも同じだ。

女性だって、真剣に結婚のことを考え始める時期になると、やはり真面目な男性が一番だと思うだろう。なぜかといえば結局、安定した結婚生活を送るには、相手のこと、家族のこと、仕事のことに真面目である人がパートナーでないと、生活が破綻するからである。「おもしろい」「顔がイケメン」といった要素は、(重要かもしれないが)所詮二の次三の次であり、「あわよくば」程度のものにすぎない。

この点、男性も同じである。異性の容姿を重視するという点では、女性と異なるかもしれないが、結婚相手の条件としては、結婚生活を真面目に考えてくれる女性(つまるところ、真面目な女性)を、やはり男性は好むのだ。

その他、真面目であると、いろいろな面で得をする。たとえば、

・他人から軽く扱われない(真面目な感じの人は、イジられキャラにされにくい)。
・初対面の人には、(少なくとも)悪い印象は与えない。
・仕事人として、「真面目」は最強の武器。なぜなら、真面目であることは、人からの信頼を得やすいから。
・安定した生活を送ることができやすい(真面目に働くというのは、安定した生活を送るために必要な条件だ)。


他にも色々あるだろう。

つまり、真面目とは本来、いいことずくめなのだ。

それがいつからか、この国では「真面目」=「損」という考え方を持つ人が多くなった。

しかし、これは間違いだ。真面目だから損なのではなく、損をする(した)原因を、十把一絡げに「真面目」のせいにしてしまうから、おかしなことになるのである。損する(した)原因が「真面目」さ以外の何かにあるのではないか?――そういった考え方をしてみようとしない己の「不真面目さ」にこそ、損する本当の原因があるのではないだろうか?

いずれにせよ、真面目であるというのは、最強なのだ。
2014/04/09

【歌舞伎座】鳳凰祭四月大歌舞伎(夜の部)

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初めて歌舞伎座の1等席(18000円)に座った。
いままでは、ずっと3階席(6000円)から芝居を見ていたのだが、今回は奮発してみた。

で、気づいたのだが、1等席の舞台正面・花道付近の席というのは、予想以上にものすごい感動と興奮を与えてくれるのだ、ということ。もうこの事実を知ってしまった以上、これからは3階席で見ようなどとは思えなくなってしまった。

まず、今月の夜の部を舞台正面付近の1等席で見れば、1幕目『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』で、吉右衛門の「バカ殿」っぷりが楽しめる。そうかといって、おマヌケな顔した吉右衛門が出てきたと思ったら、彼の横では芝雀の美しい舞踊が披露される。それに狂喜する、ニンマリ顔の吉右衛門。「?」と思ったら、ぜひ歌舞伎座の1等席に座るべし。この演目、コメディーチックな部分があるものの、非常に奥の深い芝居なのである。

ちなみにイヤホンガイドの解説は、おくだ健太郎氏が務めている。個人的に思っていることだが、解説員の中では、氏の解説が一番わかりやすい。解説を入れるタイミングも実に見事で、解説を聞くことにとらわれて演目に集中できなくなる、といったことがまずないのだ。声も聞き取りやすく、この解説を聞くためだけにイヤホンガイドをレンタルするのもアリだと思う。

2幕目は『女伊達(おんなだて)』だ。主役は、萬屋を代表する女形の巨匠・中村時蔵である。この演目は、まさに「歌舞」伎で、文字通り、「歌」と「舞」しかなく、物語の要素はない。しかもすぐに終わる(20分程度?)。が、わたしはこういうのが大好きだ。歌舞伎の醍醐味は、物語の面白さとか理屈よりも、まずは見た目や様式美だと思う。

この2幕目ではイヤホンガイドを聞かないことをオススメしたい。全然耳に入ってこないし、そもそも解説自体いらない気がする。己がいま持っている感性で、素直に、理屈抜きで愉しむほうが健全だ。

3幕目『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』(髪結新三)は、正直に言うと、あまり面白くない。それでも見どころがあって、それがお熊役の中村児太郎である。素直に告白すると、彼の女形にはグッと来てしまった。思わず抱きたくなってしまうくらいに色っぽくていじらしかった。理想の女像である。

しかし、如何せん、出番が少ない。そのため、話題の中心的存在であるにもかかわらず、あまり舞台に出てこないのだ。そこが残念すぎた。


それにしても、歌舞伎というのは不思議なもので、見るたびに何かしらの面白い発見や感動が得られたりする。別に、日本の伝統芸能だから歌舞伎を特別視しているつもりはないが、これは本当に正直な感想だ。だから、高い金を払ってでも歌舞伎を見たくなるのだろう(第一、本当につまらなかったら何回も歌舞伎を見に行くわけがない)。

ちなみに、歌舞伎を見ていると、能も見たくなってくる。というのも、歌舞伎には能に対するオマージュがあり、例えばそれは「松羽目物」などに顕著に表れている。この2つは切っても切れない関係なのだ。

もし、日本の伝統芸能や文化に興味があるのなら、まずは歌舞伎から見るのがいいだろう。歌舞伎から徐々に能や文楽、日本舞踊や落語といった方面を開拓していくと、どれもこれも横のつながりがあるのだ、ということに気付かされる。こういうことが楽しめるようになるためにも、やはり歌舞伎を見ておくことは大変重宝するのだ。
2014/03/09

【3月】これから読む予定の本

丸山眞男集〈第1巻〉一九三六−一九四〇丸山眞男集〈第1巻〉一九三六−一九四〇
(2003/01/10)
丸山 眞男

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今月から毎月一冊ずつ刊行されるという新版『丸山眞男集』(全16巻、別巻1;岩波書店)だ(上記は旧版のもの)。新たに見つかった書簡などが収録されるらしい。1冊3,800円、16巻集めるとおよそ60,000円だ。しかし、ファンとしては買わざるを得ない。

「16巻なんて多すぎる」と思う人もいるだろう。しかし、『小林秀雄全作品』(新潮社)など全28巻、別巻4である。1冊約1,800円で、28巻集めると概算で50,000円だ。値段こそ『丸山』のほうが高いが、集めるとなると『小林』のほうが楽ではないのだ。


なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学 (ハヤカワ文庫 NF 406)なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学 (ハヤカワ文庫 NF 406)
(2014/03/06)
パコ・アンダーヒル

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昨日、池袋のジュンク堂で買った本だ。まさに「これから読む予定の本」である。

ハヤカワNF文庫シリーズは割と好きだが、最近まであまりおもしろそうなタイトルがなくて買っていなかった。というのも、その本のタイトルと目次、小見出しを見れば何を言わんとしているのかすぐに予想がついてしまっていたからだ。

この本は、そうした「予想」をいい意味で裏切ってくれそうなので買ったという次第である。

ところで、ハヤカワNF文庫は目次で小見出しまでは表記していないことが多い。翻訳書だし原書にはそもそも小見出しまで載ってないのだろうから仕方ないが、個人的には翻訳版は小見出しまで載せた編集をしてもらいたいと思う。


ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか? ~日本人が抱く大いなる誤解~ (ワニブックスPLUS新書)ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか? ~日本人が抱く大いなる誤解~ (ワニブックスPLUS新書)
(2014/03/08)
栄 陽子

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Amazonで注文した本だ。こういった教育ルポ的な本は、興味がそそられる。宣伝によると、ハーバード大の入試問題も掲載されているらしい。


青木昌彦の経済学入門: 制度論の地平を拡げる (ちくま新書)青木昌彦の経済学入門: 制度論の地平を拡げる (ちくま新書)
(2014/03/05)
青木 昌彦

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同じくAmazonで買った本。正直に言うと、わたしはそれまで「青木昌彦」なる人を知らなかった。わざわざ、タイトルに人名を冠しているくらいだから有名な人なのだろうと思い、ググってみると、どうやらノーベル経済学賞受賞候補らしい。

で、タイトルが「経済学入門」なわけだが、実際のところ「経済学入門」と言えるほど、経済学の幅広い分野を論じているわけではない(当たり前だが)。素直に、『青木昌彦の制度論』にしたほうが、新書として企画したときのインパクトはありそうな気がする。しかし、商売的には「経済学入門」としたほうが、「意識高いが経済学には疎い」系のビジネスマンにはウケがいいのだろう。


芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)
(2014/03/15)
石割 透

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小さいころから芥川龍之介に憧れていた。今月、岩波文庫から彼の随筆が出るとのことなので、これも読む予定。

2014/03/06

「疲れないようにする」というのは、社会人が絶対に取得すべき「スキル」である

わたしは今、個人的な理由から簿記検定の資格を取得するため、勉強している。簿記の勉強はやっていて嫌いではないし、会社にいるとき大変役立つと思ったからだ。

しかし如何せん、資格取得のための勉強というのは、やっていて疲れやすい。朝早く起きてちょっと勉強。夕方、会社から帰ってきてまた勉強。何時間もやるわけではないにせよ、やはり、モチベーションを維持するのはあまり楽ではない。体のほうもまた然りだ。

というわけで、気持ちの疲れ、体の疲れをためないように、わたしは以下のことを実践している。


1:勉強量は「ちょっとずつ」で、(できるだけ)毎日やるようにする。
2:「飽きた」と感じたら、すぐにその場で勉強をやめ、別のことをする。
3:気分が乗らないときは、思い切って2~3日休む/遊ぶ。
4:夜更かしは絶対にしない。きちんと睡眠(7時間ほど)を取る。



以上4つであるが、これらに共通しているのは、何か目標を達成させる上で、どれも「自分の心身を疲れさせない」ようにしている点だ。


現代日本において、社会人というのは、とにかく疲れやすいように生きてしまっている(生きざるを得ない)ように見える。

朝5~6時起床、満員電車へ乗り込み、8~9時出勤(遅刻厳禁)、社内外の人間関係(面倒くさい人、ウザい人の相手をしなければならないetc)、結論が出ない/どうでもいい会議、ムダに思えるような資料の作成、意味のない残業(退社時間には非常にルーズな空気)、出たくもない飲み会に出席、帰宅ラッシュ――こんな生活をやっていれば、どんなタフマンでも、いずれくたびれて当然ではないだろうか?

ただでさえ疲れやすい毎日なのに、最近流行りの自己啓発書は「勉強しろ」「読書しろ」とやかましい。しかし、そこに書かれている方法は(どちらかというと)、「優等生」のような勉強論であることが多い。そしてそれらは決まって、「疲れやすい」のである。

そういう事実に気づいて以降、わたしは上記の4つを実践している。どれもこれも、自分を「疲れないようにする」ための方法だ。そう、これこそ、社会人が真っ先に取得すべき「スキル」なのだ。

2014/02/23

「事実」は、「信じる」ことからしか生まれない

最近、書店に行くと統計学の本をよく見かける。

そういった本をパラパラめくってみると、「いままでの○○の通説を統計学で覆す」とか「統計学を会社経営に生かす」などといった文言をよく見かける。

まるで、統計学は「万能な学問」のように思える。これさえあれば、物事の真偽や善悪の判断が簡単にできるかのようだ。

しかし、である。統計学にできることは、結局、統計データ(それも、まったくの「事実」とまでは言えない、「事実」に近いと思われるデータ)の提示だけだ。そしてその統計データは、われわれ人間が「信じる」ことをしなければ、まったく生きないのである。

つまり、万能なように思える統計学という科学は、皮肉なことに、人間の「信じたい」という「感情」がなければ、無力なのだ。いくら、相手に「統計データでは○○という結果が出ている」と言っても、その人がそれを信じようとしなければ、たとえデータが「事実」を提示できていたとしても、その人にとっては「事実」になりえていないのである。

そんなバカな話があるか、と思われるかもしれない。しかし、「事実」とは、どこまでいってもそのことを「信じる」行為からしか生まれない。少し堅い言い方をすれば、「事実」はそれを信じるという「感情」を担保に存在できているのである。

無論、わたしは書籍などに掲載される統計データは、きちんと出典が明示されているのであれば、基本的にはそのデータは(完全に、とまでは言えなくとも)「事実」を示していると思っている。しかし(賢明な方ならすでに気づいたと思うが)、この「思っている」というは、まぎれもなく「信じている」の言い換えにすぎない。そしてなぜ、それを「信じる」のかというと、それは結局「統計学を使って出したデータだから」という、トートロジー(循環論)に陥ってしまうのである。

しかし早い話、そんなことはどうだっていいのだ。要するに、「信じ“たい”から信じる」のである。結局、どこまでいっても「信じる」とか「信じたい」とか、そういった「感情」でわれわれは物事の判断や決定を下すのだ。

統計学ブームというと、いかにもわれわれ人間がより理性的/科学的に物事を判断・決定するようになったと見える。だが実際は、理性とか科学とかそんな「高等」な話ではなく、「信じる」だの「信じたい」だのといった、「感情」のレベルにとどまる話なのではないだろうか。
2014/02/19

勉強は必要だと思うよ? ― 『資格を取ると貧乏になります』

資格を取ると貧乏になります (新潮新書)資格を取ると貧乏になります (新潮新書)
(2014/02/15)
佐藤 留美

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個人的にだが、近頃、この本に代表されるような「資格・スキル無意味」論をよく耳にするようになった。「巷にあふれる民間資格・スキルの勉強なんかやってもムダ。結局は実務が一番大切で、それは目の間にある仕事をこなすことなのだ」といった主張だ。

「実務が重要」というのは確かにその通りである。しかし、わたしは巷にある民間資格やスキルは「実務をサポートするための補助知識」あるいは「今こなしている実務をより広い視野で眺めるための“道具”」といったように考えている。だから、「資格・スキルの勉強などやってもムダだし、無意味」といった言い分には賛成しかねる。

もちろん、本業の実務に支障が出るくらい、資格・スキルの勉強をやるのは本末転倒だ。だが、時間と体力が許す限り、こうした勉強はむしろ多いにやるべきではないか?

矛盾するようだが、実はこの著者も前著『なぜ、勉強しても出世できないのか?』で、こう書いている。

ここまで、資格取得に対して否定的な意見ばかり書いてきたが、もちろんすべての資格取得、スキルアップを否定しているわけではない。自分の専門性をより深く追求するための資格取得やスキルアップなら、仕事に差し障りのない範囲であれば、むしろトライすべきだろう。(p.222)

弁護するつもりはないが、彼女も資格・スキルの勉強はまったくダメだとは言っていないのだ(本書を読んでいると誤解しやすいが)。それに、なにも特定の資格・スキルの勉強に限らず、仕事の「幅」や仕事に対する「考え方」を広げたいのなら、勉強はむしろ推奨されて然りだと思う。

よく、なにかにつけて「勉強よりも実務が大事だから~」などと言ってくる人は、一見すると仕事熱心のように見える。だが、実は「実務さえこなしていればそれでいい(=仕事(実務)外のところで、仕事に関係することなど考えなくてよい)」と思っている場合が少なくない。そういう人に限って、実務はできても物の見方には乏しかったり、実務外のこととなると、著しく教養が欠けていたり、思い込みが激しかったりする(以上はわたし個人の経験談)。

実務ばかりこなすということは、その実務「しか」見えなくなる、ということでもある。つまり、視野がせまくなる、ということだ。視野のせまい人に、革新的なアイデアや仕組みなど生めるはずもない。他人とは違った視点で物事を見ることもできない。「もっと効率的に、無駄なくこなす方法はないか?」と探ることもしないだろう(なぜなら、探ることよりも実務をこなすことのほうが「効率的だ」としか思っていないから)。実務ばかりこなすこと/重視することの弊害は、まさにこうした点にあるのである。

そういう弊害が「実務こそすべて」といった考えにあるのなら、それを払拭するために資格やスキル、あるいは読書といった、自分を高める勉強をすることは、むしろ立派なことだ。本業ですぐ「ガス欠」にならない程度に頑張ってみることは大いに必要だと思う。

ということで、本書のタイトルに付け足しするとしたらこうなるだろうか――『資格を取る(勉強ばかりしている)と、(本業で体力がもたずに失敗し、失業して)貧乏になります』――う~ん、ちょっと長過ぎる。。。
2014/02/15

【2月】これから読む予定の本

2月も読みたい本がいっぱいだ。以下、簡単なコメントとともに列挙してみる。


政治の世界 他十篇 (岩波文庫)政治の世界 他十篇 (岩波文庫)
(2014/02/15)
丸山 眞男

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本日発売の本で、いま一番楽しみにしているのがこれだ。わたしは丸山眞男の大ファンで、3月から岩波書店で再発売される『丸山眞男集』(全16巻)も買う予定だ。

ただし、この本、表紙が残念すぎる。丸山ファンからしてみれば、「このダサくて地味な表紙、なんなの?」と首を傾げたくなる。岩波文庫のいつもの表紙スタイルで、写真は丸山本人という構成を期待していたのだが、予想が大きく外れてしまった。




日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)
(2014/02/15)
石破 茂

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これはもう買った本だが、まだ読んではいない。著者が石破茂だから買ったのだ。前作『国防』を読んで面白かったので、また氏の本を読もうと思ったのがきっかけだ。




(021)ブラック企業VSモンスター消費者 (ポプラ新書)(021)ブラック企業VSモンスター消費者 (ポプラ新書)
(2014/02/06)
今野 晴貴、坂倉 昇平 他

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これも買ったが未読である。ブラック企業系の本はいくつも出されているので、基本的にどの本を読んでもいいのだが、一読書人として、また一労働者として、新刊のこういう本は読みたくなってしまうのだ。




経済学大図鑑経済学大図鑑
(2014/01/21)
ナイアル・キシテイニー

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これも購入&ほとんど未読状態の本である。とはいえこの本、本当に素晴らしい。時代順に、経済思想を図とともに理解できるスグレモノだ。そもそも、「経済学」を図鑑にしてしまおう、という発想がすごい。さすがは外国人。日本ではこういう企画、起きないからな~。




絶望の裁判所 (現代新書)絶望の裁判所 (現代新書)
(2014/02/19)
瀬木 比呂志

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最近、司法系の新書や文庫を読むことが多くなった。今月はこの本を読むつもりだ(目次に惹かれれば、だが)。「裁判所というのは、“とりあえず”有罪か無罪かを決める所」というセリフが、映画『それでも僕はやってない』(加瀬亮主演)に出てくるが、これはおそらくこの本の主張とも一致するだろう。
2014/02/09

【国立劇場】2月文楽公演

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文楽観劇日だった昨日、あいにくの大雪とぶつかってしまった。

事前に予約してあるとはいえ、こんな日にわざわざ文楽を観に行く人というのは、相当の物好きと言えるのではないか。

足元は積もった雪でグチャグチャ。空からは粉のような吹雪。国立劇場に行くまでが一苦労である。とはいえ、雪舞い散る中の国立劇場というのは、なんとなく妙な趣と落ち着きがあった。



さて、昨夜鑑賞したのは、第三部(18:15~)の「御所桜堀川夜討」(弁慶上使の段)と「本朝廿四孝」(十種香の段/奥庭狐火の段)だ。上に掲げた宣伝ポスターに写っている八重垣姫の後ろ姿が、非常にいじらしくてかわいい。そして「廿四孝」のイヤホンガイド解説員は、安定の小山観翁氏。しんしんと積もる雪の日の、仄暗い場内で、この渋く淡い翁の声を聞きながら文楽を観るというのは、なかなかの贅沢である。

ところで、文楽を観ていて面白いと思うのが、人形を動かす人たちが、舞台上で堂々と姿を見せているという点だ。もっというと、義太夫や三味線の人たち、黒子も自身の姿を観客に見せているのも面白い。

無論、これは文楽に限ったことではない。歌舞伎や能でも同様である。なぜ、日本の古典芸能は、こういった「裏の人たち」(「表の人たち」は、人形や役者)も、観客に見えるようにしているのだろう?

これが、西洋モノの演劇だと違う。西洋モノの演劇は、こういう「裏の人たち」は、あくまでも「裏」に徹しており、「表」には出てこない。たとえば、劇団四季だと、音楽を奏でる人たちは、舞台上には決して姿を現さないし、黒子のような人たちもいない。それから、昔NHKでやっていた「ざわざわ森のがんこちゃん」とか「ひょっこりひょうたん島」とかは、どちらかというと西洋風の人形劇だが、やはり文楽のように人形遣いの人たちは姿を見せない。



わたしはどちらかというと、こうした日本的な劇の演出方法が好きだ。理由は、西洋劇やその流れを継いだ現代劇にはない、こういった演出が新鮮だからだ。しかしその理由以上の理由があって、それは「裏の人たち」を決して「裏の人たち」のままで“終わらせない”ところ、「裏の人たち」も、劇の立派な“出演者”であり“役者”なのだ、と考えているところ――こうした古の日本の演劇哲学に好感が持てるからなのだ。

もっと言えば、「仲間はずれ」にしない、「差別」をしない、とでも言い換えられるだろうか。

「あなたは役者ですよ。だから、表舞台に出て演じてください」
「あなたは音楽を奏でる人ですよ。だから表舞台には出てこないでください」
「あなたは人形を操る人ですよ。だから舞台上で姿を見せないでください」

こういう考え――いじわるな言い方をすれば、「仲間はずれ」や「差別」――がない、というのが日本の演劇の良いところだと思う。



そういえば、民放のテレビドラマなどで、最後に(あるいは最初に)番組制作に携わったプロデューサーやディレクターの名前(=クレジット)が画面下に流れるが、これが海外ドラマだと、ドラマが終わったあとにクレジット用の場面に移る。もちろん、日本の場合だと番組の尺の都合とか色々理由があってドラマ中にクレジットを流すのだろうが、それでもドラマ中にもうクレジットを流してしまうというのは、よく考えてみると変(?)というか、面白い感じがしないでもない。

これも、大元はやはり、「裏の人たち」に対する敬意の表れ――「裏の人たち」を「仲間はずれ」にしないという考え――から来ているのかもしれない。「ドラマは表舞台で活躍した人たちだけのものじゃない。みんなの力があってこそのものじゃないか」――そういう思いが、古から今に至るまで受け継がれているのだろうか。


――と、いつものごとく話が寄り道ばかりになってしまったが、今日はこのへんで。
2014/01/29

「形」が大好きな日本人

日本人というのは、とにかく「形」というものが好きなのだと思う。


例えば、

1、「ホンネとタテマエ」の「タテマエ」

「ホンネ」とは、自分が本当に思っていること、つまり「中身」である。一方、「タテマエ」とは、本当はそんなことなど思ってもいないが、相手のことを考慮して言う「仮の言葉」のことである。つまり「中身」(=内容)の反対、「形」(=形式)である。

「日本人って、本当にタテマエが多い」なんぞと外国人は言うらしいが、それはなぜかというと結局、その場その場の、言葉という「形」でもって人間関係を円滑にしてしまえるからである。

日本人にとって言葉というのは、良い「形」になっていればいいのだ。なんかもう、意味とか中身とか、定義とか真意とか、そんな小難しいものはどうだっていいのだ。大事なのは、いかにその言葉の「形」が、相手にとって良く見えるか、なのである。

国会の答弁も、首相の演説も、校長先生の朝のスピーチも、卒業式の式辞も、社長の年頭挨拶も、みんなみんな、意味とか中身の面白さとか豊かさなんて、これっぽっちも求めていないのだ。なんかもう、言葉の「形」が「それっぽく」見えていればいいのである。


2、会議用資料

会議用資料は、いまやエクセルで作るのが当たり前だが、このソフトが登場したことにより、「会議用資料の見た目は、キレイでなくてはならん!」という考えがより強くなったように思う。無論、キタナイよりもキレイであるに越したことはない。しかし、キレイさに拘るあまり、大して意味もないグラフだの表だの、あるいは文字の書体だのフォントサイズだのが賑わい、でも肝心の中身が薄っぺらかったり、という会議用資料が少なくない。これはプレゼン用のパワポについても当てはまる。

そう、つまりみんな、見た目のキレイさという「形」が大好きなのだ。中身よりも、「形」のほうが好きなのだ。なぜなら、「キレイ」というのは目に見えて「わかりやすい」からであり、「中身」というのは目には見えづらく「わかりにくい」からである。「形良ければ、すべてよし」ということなのだ。


3、アイドル

ネット上で、ポップミュージックについてのブログ記事を見ていると、「所詮、◯ャニーズなんて顔だけのアイドルじゃん」とか、「◯KB48の歌なんて、素人同然だ」なんて批判をよく見かける。これについては賛否両論あるだろうが、わたしも確かに「昔の歌手のほうが歌唱力は高かったと思うけどなあ~」と感じている。ぶっちゃけ、彼/彼女らの歌声など、「カラオケで、周りから歌がうまいねとよく言われる人」レベルな気がしないでもない。

それでも彼/彼女らがテレビに出続けられるのはどうしてなのだろう?

そう、これも結局、彼/彼女らが歌唱力という「中身」で高い評価を得ているからではなく、顔とかスタイルとか、ステージ上での演出といった「形」が、視聴者にウケているからなのだ。正直なところ、歌なんて「そこそこ良ければいい」のである。重要なのは、彼/彼女らが、目に見える形で視聴者を虜にさせる「形」になっているかどうか、なのだから。


4、歌舞伎


歌舞伎など、もう「キング・オブ・形の文化」と言っても差し支えないのではないか。役者の放つ派手な見得は、もう完全に「形」重視だし、正義の人は赤い隈取を、悪人は青い隈取をするというのも、「形」で物語を理解させようという意図である。「女形」に至っては、字のごとく「女の形」をした男の役者が現れて演じる、ということだから、これもやはり「形」の重視と言える。


5、「かわいい」という言葉

「日本人は、かわいいものが大好きだ」と、よく言われる。わたしもその通りだと思う。

最近のテレビを見ていると、なんかもう「かわいい」という要素がないと、番組が成り立たないのかな?と思えてしまう。かわいいタレント、かわいい女子アナ、かわいい男子(=フェミニンな感じなんだけど、でもイケメンな男子)、番組内のかわいらしい演出(ピンク色を多用したり、テロップの文字を丸文字気味にしたり)等々等々等々等々。

「かわいい」というのは、どこまでいっても、「形」への賞賛の言葉である。決して「中身」への賞賛の言葉ではない(「あの子、かわいいところあるよね~」の「かわいい」すらも、それは「動作」という「目に見える形」のかわいさのことを言っているのである)。

つまり、「かわいい」という言葉が多用されるということは、それだけ「形」というものへの興味・関心が強いということなのだ。


最後になるが、もし外国人に「日本ってどんな国? 一言で言い表してみて」と言われたら、わたしはこう答えるだろう。「“形”ってものが、大好きな国だよ」と。
2014/01/29

「人それぞれ」という言葉は、ずるいと思う。

こちらが何か意見や考えを言うと、すぐに「でも、それって人それぞれじゃん」と反論してくる人がいる。

この「人それぞれ」という反論の仕方、一見すると筋が通っているような気がするが、実はそうではなく、「わたしはあなたの意見など聞きたくありません」と遠回しに言い換えているだけのようにわたしは思える。特に、なにかにつけて“すぐに”そう言ってくる人は、その可能性が高い。

彼らは要するに、「人それぞれ……」の「人」という言葉を「隠れ蓑」にしているだけなのではないか? 本当は、「自分はそんな意見や考え、聞きたくない」という言い分があるのに、「自分は……」を主語にはせず(できず)、「人」などという漠然とした言葉を使うことで、あたかも「自分以外の大勢の人たちも、そんなふうには思っていませんよ」という“ことにしたい”のだと思う。そうやることで、相手の意見や考えを寄せ付けないようにしているのだ。同時に、「自分」というものも守れるのだから、彼らからしてみれば、これは「一石二鳥」な手である。

なにかにつけて“すぐに”「人それぞれ」と言い出す人には、注意したほうがいいと思う。第一、言葉遊びのようだが、「それって人それぞれじゃん」という考えや言い分だって、「人それぞれ」である。

また、自分から“すぐに”そう言い出すことにも気をつけたほうがいい。なぜなら、もしかしたら、相手の意見や考えが「良薬、口に苦し」ということもあるからだ。なんでもかんでも、ちょっと気に食わないことを言われて「そんなの、人それぞれじゃん」と言い返していたら、言われた側は、たとえ有益な情報があったとしても、当人には言わなくなるだろう。まあ、「人それぞれ」至上主義者は結局のところ、「人それぞれ」と言いつつ、「自分」至上主義者なのだから、別に困ることはないのだろうが。

「人それぞれ」――いろいろな意味で非常に「便利な」言葉だが、同時に非常に「ずるい」言葉でもある。
2014/01/18

ブログは、続けていると、やめづらくなるらしい

タイトルでもうこの記事の結論を言ってしまった。しかし、これ以上のタイトルはつけようがないし、考えられないので、以下は詳論である。


わたしがこのブログを始めたのは2011年の1月。このブログ以前にも、似たようなテーマのブログを2~3回立ち上げたことがあったが、そのいずれも今はない。全部閉鎖させてしまった。理由は、思うような記事が書けなかったことと、ほとんどアクセスされなかったことの2点だ。

しかし、数回の失敗を経たせいか(?)、このブログはわたしが今まで立ち上げたものの中で、ものすごく続いている。今年で3歳(?)になったのだ。もちろん、10年以上ブログを書いている人たちからすれば、まだまだ若いブログではある。が、それでもブログの世界というのは、半年でも寿命が持てばいいほうで、ひどい場合、立ち上げたその日に息を引き取るブログもあると聞く。

では、なぜこのブログはこんなにも続いているのだろう? 正直なところ、自分でも不思議なのだが、思いつくままに、その理由を以下に書いてみたい。


①ブログを書けない間は、書けない自分を不快に思うのではなく、「いまはブログをお休みしているんだ」と考えるようになったから。

「マジメ」な人で、ブログを始めた人というのは、ブログを書けない日が続くと、なんとなく罪悪感に苛まれるのではないだろうか? そしてブログを続けられない自分を不快に思い、「いっそブログなどやめてしまえ!」などと考えて、そのままブログ閉鎖へ……なんてことになりやすいと思う。

かつてのわたしもそんな感じだった。ブログを書くネタがない→書けない日が続く→書けない自分を不快に思う→「もうブログなんかやめよう」→ブログ閉鎖、といったパターンで、過去につくったブログは潰れていった。

しかし、あるときから考えが変わった。ブログを書けない間は、「いまはブログをお休みしているんだ」と思うようになったのだ。「お休み」なのだから、これは決してブログを「やめた」ことにはならないし、記事を書けない間は、ブログ以外の趣味を存分に楽しめばいい。そして、書いていない間は、とりあえず「自分の充電期間」と考えれば、書けない自分を不快に思うこともなくなる。

言い方を変えれば、ブログを書くということに対して、もっと「フマジメ」になってみよう、ということだ。


② 書くテーマを「徐々に」増やしていったから。

このブログは当初、書評ブログのつもりで立ち上げた。しかし、ブログをやっていくうちに、だんだんと他にも書きたい(書いてみたい)テーマが増えていった。たとえば、映画のこととか、歌舞伎のこととか、ネット論、ブログ論、その他日常生活で思ったこととかを書きたくなったのだ。

もし、「このブログは、書評ブログなんだから書評以外のことは書かない(書けない)!」と決めてしまえば、その人は「マジメ」な人だと思う。しかし、ブログを続ける上では、そういう「マジメさ」こそが実は命取りになりやすい、ということをわたしは過去の経験で得ている。

だから、そういうときほどブログを書くということに対して、もっと「フマジメ」になろうよ、と思う。

ほとんどの個人ブログは趣味である。仕事ではないのだ。そして、われわれは「専業の作家」ではない。書くテーマなど、出版社から決め「られ」ていない。

犯罪自慢と誹謗中傷以外であれば、基本的にブログには何を書いてもいいのだ。それこそ、「こんなくだらない自分語り書いちゃっていいのか?」というようなものだってアリである。そう、なんでもいいのだ。

ブログは自由である。書くテーマを限定させてしまってはもったいない。書きたいことは、なんでも書いたほうがいい。そのうち、発信していくテーマの中身が深まっていけばベストだ。


③ アクセスカウンターを外したから。

アクセス数がすごく気になってしまう人も、「マジメ」な人である。無論、やはりアクセス数というのはどうしても気になってしまいがちものだから、仕方ないと言えば仕方ない。が、このアクセス数、もっと正確に言えば、アクセスカウンターというのは、ブロガーにとって大きな励みにもなれば、大いに落胆させる装置にもなるということだ。そういう意味で、カウンターは、いわば「諸刃の剣」なのである。

だから、ブログを始めて間もなく、かつ「マジメ」な人には、当分の間、あえてブログにカウンターを設置しないことをおすすめする。そう、純粋に「ブログを書く」ことだけに自分を専念させるため、である。

いま、このブログにはカウンターを設置しているが(まあ、ほっとんどアクセス数など増えないが)、一時期、意図的に設置しなかったことがあった。その理由は上記の通り。結果、設置しなかったことで、「気になっていたもの」がなくなったわけだから、「気にならなくなった」のだ(当たり前の話だが)。

ということで、アクセスカウンターは、ブログ上級者or「フマジメ」人間向け、と考えたほうがいいかもしれない。


○最後に:ブログは、続けていると、やめづらくなるらしい。

ブログというのはおもしろいもので、続けていると、ある時期から「なんかここまで続いていると、なんだかもう、やめようにもやめられないなあ~」とか、「こんなにたくさん記事がたまったんだから、ここでやめちゃうなんてもったいなさすぎる!」といった気持ちになってくるのだ。かく言うわたしは今まさに、そういう気持ちだ。

こうなれば、シメたものだと思う。おそらく、これから先ずっと、死ぬまでブログを続けられるのではないか。ここまで来るともう、アクセス数が少ないとか、書けない日が続いて不快だとか、そういったことが実にどうでもよくなってしまうのだ。ただただ、「自分で立ち上げたブログが今も生きている」という、それだけの事実(奇跡?)に感動してしまうのである。

以上。あまりいい感じの終わり方にはならなかったが、言いたいことは全部言えたから、今日はこの辺で。
2014/01/17

人は結局、遊ぶために生きるのだと思う ― 『男の品格』

男の品格 (PHP文庫)男の品格 (PHP文庫)
(2009/05/02)
川北 義則

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午後22時30分。いま、この記事を書いている時間だ。なんだか急にブログを書きたくなったのだ。

何について書こうかなあと考えている最中、そういえば先週買った本、なかなか良かったっけということを思い出した。

タイトルはずばり『男の品格』である。一時期はやった「品格本」の類だ。そして著者が川北義則ときている。この時点で、なんだかもう内容に察しがついてしまう。だから、こういう「人生論本」は、正直にいうと感想を書きたくない。

しかし、それでも書こうと思ったのは、「そう、そう。そうなんだよなあ~」とうなづける箇所が多かったからだ(無論、人生論本は他の本と比べ、読者を共感させるための様々な「しかけ」がほどこされている点には、十分気をつけなければならないのだが)。

本書のテーマを一言でいうなら、「男子たるもの、よく遊べ」である。よく遊ぶことこそが、その人を充実させ、魅力的にし、幸福にさせるのだと著者は言うのだ。そして、それこそがタイトルにある通り、「男の品格」なのである。

ちなみにわたしは、ある時から「人間が生きる(あるいは、生きようとする)最大の理由は、遊ぶためなんだ」と思うようになった。

もちろん人によっては、そんな陳腐な理由で人は生きるのではない、と反論されるかもしれない。しかし、わたしにはどうしても、「遊ぶ」以外に人が生きる理由は見当たらないのだ。一生懸命に仕事をすることは当然ながら大切だが、しかしそれは所詮、よく遊ぶための「踏み台」にすぎないと思っている。人生はどこまでいっても、遊んでナンボなのだ。

本書の目次から気に入った章を取り出してみよう。


・「一人遊びできる趣味をつくっておく」

完全御意。ちなみにわたしは、遊ぶとなると基本的に一人遊びをするタチである。読書、映画、歌舞伎、ブログ書き、本屋のハシゴ、ファッション、美術鑑賞、大学図書館に引きこもり……思いつくままに挙げれば、このくらいだろうか? なかには人に自慢できる趣味でないものもあるだろうが、それでもわたしはこのいずれをも、自分のなかでは「遊び」だと思っている。

一人遊びの最大の良さは、「他人がいなくてもできる」という点につきる。この点はすごく重要で、なぜなら趣味を楽しもうと思ったときにいつも他人がいないとできないのでは、趣味になりづらいからだ。他人は、常に自分のそばにいてくれはしないのだから。


・「趣味は実践しなければ意味がない」
・「趣味は論じるより味わうものだ」


これも完全御意。趣味を実践せずして、論じるのは本末転倒である。


・「「余裕ができたら……」というのはやめよう」

これまた御意。じゃ、いつやるか? いまでしょ!


・「会社は自分の夢を追う格好の場所だ」

「夢」というと、なんだか仰々しく聞こえるかもしれないが、べつにそんなふうに考える必要などない。それこそ「わたしの夢は、よく遊ぶことです」というのだってアリだ。なにも社会人の夢は、起業や独立といったものだけではないはずである。いずれにせよ、会社で仕事をすることだけが人生ではない。

最後に、気に入った文言を紹介してこのエントリーを閉じよう。

「会社の役に立たない、自分の役にも立たない何かに、熱っぽく取り組む姿勢をもつことが大切である。どんなに忙しくてもだ。「そんなムダなことを……」と思う人は、すでに守りの姿勢に入っている。守りに入った人に、もう上がり目はない」(p.48)

こう言われて気がついた。「そうか。よく遊ぶっていうのは、自分の人生に対して、攻めの姿勢で臨むってことなんだな~」と。


そういう生き方、わたしは大好きだ。
2014/01/12

【新橋演舞場】壽三升景清

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歌舞伎座のすぐ近くに新橋演舞場がある。歌舞伎座と比べたら、外観はすごく地味だ。かといって国立劇場のような上品さが漂うわけではないし、おしゃれなたたずまいでもない。しかし、劇場内のつくりと雰囲気は新橋演舞場が一番だと思っている。あの劇場内、歌舞伎座と国立劇場では醸し出されない、「大人の色気」が広がっているのだ。

だからこそ、なのだが、海老蔵の新春大歌舞伎は新橋演舞場でやるのが最もサマになる。個人的には、どうしても歌舞伎座や国立劇場では頂けないのだ。

演舞場、新春一発目の演目は『壽三枡景清』である。舞台上は、始まる前からすでに定式幕があけられており、そこにあるのはもうひとつの「舞台」とその舞台の幕、しかも大きな伊勢海老が描かれた幕だ。そしてその上には、市川団十郎家の家紋「三升」の描かれた提灯と、演舞場の座紋が描かれた提灯が掲げられている。団十郎家は、明らかに別格である。

演出といい、立ち廻りといい、どれも盛大だった。圧倒される。「こんな演劇、ほかにあるか?」と思わずにはいられない。無論、劇団四季も派手だが、わたしの場合、目が釘付けになったり、圧倒されたりはしない(歌舞伎と劇団四季を比較してウンヌン言うのもおかしな話ではあるが)。

初春大歌舞伎となると、やはり客も一段違ってくる。わたしの隣に座っていた貴婦人(老婦人だったが)は、前日の夜に盛岡から新幹線で駆けつけてきたと言っていた。この演目(『景清』のこと)を観終わったらすぐに浅草公会堂のほうへ移るのだと言い、実に熱心な方だった。

幕間の昼食時、その貴婦人と色々歌舞伎のことについて喋ったのだが、こういう愉しみが味わえるのも歌舞伎のいいところである。歌舞伎は決して、その演目だけで完結するものではないのだ。ウンチクとか逸話とか、あるいは弁当とか劇場内のつくりとか、ふとした歌舞伎漫談だとか、そういった歌舞伎「周辺」に目を向けるのも実に愉しいのである。

演目終了後、席を立つと同時にその貴婦人と別れの挨拶を交わした。「またいつか、どこかで」だったろうか。そんな言葉をかけられた。ああ、こういうのを人は一期一会というのかね。
2014/01/11

【国立劇場】三千両初春駒曳

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国立劇場は、他の劇場に比べて観劇料が安くて良心的だ。金のない若者が歌舞伎を楽しもうと思ったら、まずは国立劇場に行くのがいいと思う。何せ、1等席での観劇料が他の劇場のものと比べてほぼ半額なのだから。

さて、今回の演目、話の筋がわかりづらく、ボーっとしていると、一気にわけがわからなくなる。だから、正月ボケした1月早々に観る歌舞伎としては不適な気がしてしまう。かといって、筋が複雑だから筋書を買ってでも理解したい話かと言えば、そうでもない。

それでもこの歌舞伎の感想を書こうと思った理由は至って単純で、演出が派手でわたし好みだったからだ。特に、釣天井が落下するシーンは本当に迫力があった。天井が落下して罠にかかった者たちが皆、重石をのせた天井の下敷きになってしまうのだ。しかも畳からは何本もの槍が現れる。舞台上は大混乱。観ているこっちも釘付けになってしまう。

ということで、わたしはこの歌舞伎、いつものごとく演出で満足させてもらった。

無論、演出以外にも気に入ったことがあって、それはイヤホンガイドで序幕と二幕目の解説をしてくれた佳山泉氏の声だ。若くて可愛らしい(でも、どこか大人らしい)声で説明してくれたのが印象に残った。演目よりも、むしろ彼女の声のほうが気になってしまったくらいだ。非常に聞き取りやすく、聞き心地のよい声をしている女性である。歌舞伎は、演目だけでなく、イヤホンガイド解説員の声を愉しむという面白さもあったりするのだ。

歌舞伎は、決して演目だけを楽しむものではない、というのが私の持論である。それこそ、劇場内の作りや提灯、座席の配列のされ方などをシゲシゲと観察してみるのも楽しいし(ちなみに東京都内に限っていうと、わたしは新橋演舞場の劇場内が一番好きだ)、イヤホンガイドの人の声を味わうのも楽しい。もちろん、劇場内の売店でグッズを買うのもいいだろう。幕の内弁当を堪能するのも当然アリだ。

そこが歌舞伎と他の演劇の決定的な違いだと思う。劇団四季では、こんな楽しみ方はできないのだから。
2014/01/03

【歌舞伎座】壽初春大歌舞伎《昼の部》

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本日、初春大歌舞伎2日目の観劇。昨日と変わらず、東銀座駅内と3番出口周辺には警察も何名か出動していた。たかが演劇鑑賞とはいえ、わざわざ警察が出てくるのは、歌舞伎くらいなものだろう。明らかに他の演劇とは扱われ方が違う、ということか。

さて、今回の昼の部最大の見ものは、最後の演目『鴛鴦襖恋睦』(おしのふすまこいのむつごと)だと思う。染五郎と橋之助の相撲を、長唄囃子連中の奏でる音――三味線、鼓、横笛の音――とともに見るのは本当に最高だった。日本人なら誰もがその音とともに、相撲中、役者の見せる見得に惹きこまれるに違いない。

3番目の演目「松浦の太鼓」――これはもうセリフばかりの話で、どうにもこうにもピンと来ない。うたた寝すること、何度かあり。というのも、『鴛鴦』のように役者や鳴物に魅せられないからなのだ。その一方、話にボケが多く、会場全体が笑いに包まれることが幾度かあったが、それでもやはりわたしにはおもしろくない。歌舞伎に「笑い」は求めていないのだ。

『鴛鴦』のインパクトがあまりにも強かったせいか、2番目の演目「梶原平三誉石切」(かじわらへいぞうほまれのいしきり)は、見終わった直後は後味が良かったものの、『鴛鴦』終了後には、何も感じなくなってしまった。登場人物に対する感情移入も、いつのまにかなくなってしまっている。ましてや「時平の七笑」(最初の演目)なぞ、もはや内容が頭の中から吹っ飛んでしまっている。

当たり前の話、歌舞伎はストーリーも重要な要素だが、それ以上に重要なのは、役者の話し方や衣装、舞台セットや装置、そして鳴物やツケといったBGMや効果音などだと思う。つまるところ、一見なんということもなさそうなものや、ストーリーに直接影響してこないようなものが、歌舞伎最大の魅力だったりするのである。

おそらく、このことが感情的に(理性的に、ではなく)わかるかどうかが、歌舞伎好きになれるかどうかの大きな分かれ目である気がする。無論、ストーリーがおもしろいものもあるだろう。しかし、テレビドラマなどの現代劇にどっぷり浸った人間が、どうして歌舞伎のような、単調なストーリーに満足できようか。

そんなわけで、これから気が向き次第、歌舞伎のこともこのブログに書いていこうと思う。(とはいっても、歌舞伎の学術的な話やごくごく専門的な話などできないし、ほとんど興味もないので、純粋に劇場内で感じたこと、思ったことをつらつら書いていきたい。)
2014/01/03

【歌舞伎座】壽初春大歌舞伎《夜の部》

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去年の間に行こう行こうとは思っていた新装・歌舞伎座だったが、結局、腰痛とその他もろもろの事情で行けなかった。なので、年明け早々の2日と3日、さっそく足を運んだ次第だ。

2日は昼の部から見るか、夜の部から見るか迷ったが、どうせ1日はぐうたら過ごすのが世の常。そのダラダラは2日の午前ぐらいまで続くだろう。ならば午後から見るか、という戦略(?)でいたので、2日は夜の部から観劇した。続く本日3日、昼の部を見る。


東銀座駅構内で幕の内弁当を買い、出店をプラプラと見物し、いざ本陣・歌舞伎座へ。夜の部は、16時5分からの開場だったが、その前に昼の部を見終えた先客たちがゾロゾロ出てきた。と、そこに現れるは、黒縁メガネをかけた俳優の川原和久。ドラマ『相棒』の伊丹刑事だ。彼の嫁の父親が松本幸四郎なものだから、初日の舞台を見に来たのだろう。


さて、夜の部最初の演目は、『仮名手本忠臣蔵』の九段目「山科閑居」である。一応、名作の誉れ高い一幕ということになっているらしいが、個人的にはどうもピンと来ない。いわゆる、あの「歌舞伎らしさ」がこの演目は乏しいと思うからだ。

しかし、非常にどうでもいいことなのだが、「山科閑居」上演中、イヤホンガイドを務めていた小山觀翁(こやまかんおう)氏の淡く渋~い声が、妙に「山科」の冬景色(セット)と合っていて、いい気分に浸れた。幸せ者だ。夜の部は、小山氏の声とともに「山科」を観劇するだけでも、イヤホンガイドの元手は十分取れるはずだ。


「歌舞伎らしさ」をよしとするなら、次の「乗合船恵方万歳」のほうがまだいいだろう。山なし、落ちなし、意味なし、と言ったら「やおい」になってしまうが、この演目はまさに「やおい」そのものだ(無論、男色なし)。が、それがいいのである。役者はただただ踊り舞い、鳴物は音を劇場内に響びかせる――それでこそ「歌」「舞」伎なんじゃないか、と思う。

「歌」と「舞」こそが歌舞伎の醍醐味だが、それでいくと最後の演目『東慶寺花だより』はつまらない。これは井上ひさし作の新作歌舞伎だが、セリフもほとんど現代語だし、役者の動きにはまったくと言っていいほど「歌舞伎らしさ」がない。これじゃあ、舞台上で演じる時代劇となんら変わりないじゃないかと思うのだが。

無論、歌舞伎業界も古典だけにこだわらずに、新奇性を持ち込もうという画策なのだろうが、それでもわたしはこの新作歌舞伎、どうも好きになれないなあ。


以上、非常に簡単ながら今年の壽初春大歌舞伎夜の部の感想を書いてみた。昼の部のほうはまた、後ほど。
2013/12/30

大金をはたいて、高額な「体験」を買う ― 『カネ遣いという教養』

カネ遣いという教養 (新潮新書)カネ遣いという教養 (新潮新書)
(2013/10/17)
藤原 敬之

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お金の貯め方とか、節約の仕方などを説いた本というのは実に多い。が、お金の使い方、殊に趣味や娯楽といった分野でのお金の使い方を語った本は非常に少ない。本書はその非常に少ない本のひとつである。

わたしは、お金というのは貯めるよりも、むしろ使うことのほうが難しいのではないかと思っている。なぜなら、貯めるのは「貯めるしくみ」を自分で作ってしまえば、あとはほぼ自動的に貯まっていくからだ(銀行がやっている定期積立預金サービスなどがその最たる例である)。

しかし、お金を使うことは、「しくみ」化できない。当たり前の話だが、「どうやって使うか?」「何に使うか?」を考えなければ、お金を使うことはできないのだ。わたしが難しいと感じるのは、この、お金を「どうやって使うか?」「何に使うか?」を考えることである。

著者は、お金を使うには「教養」が不可欠であるという。まったく同感だ。しかし、本書で著者が語っているのは、お金の使い方に関する「教養」ではなく、著者自身の「俺はこんなことに金を使った」という自慢であり、それで終わってしまっている。そこが非常に残念だった。

著者は、箸置きに20万円、メガネに80万円、文房具・オーディオ機器に高級車一台分の金額を費やしたそうである。だからこそ、庶民には得られない「体験」と、そこから得られたお金の使い方に関する「教養」を得ているはずなのだが、いかんせん、それがほとんど語られていなかった。

しかし、本書を注意深く俯瞰してみると、あることに気がつく。それは、この著者が高価なモノを買っていると同時に、高価な「体験」も買っているという点だ。

実は、この「体験」こそが、著者が言いたい「教養」なのではないか、とわたしは思っている。つまり、この世の中には、大金をはたいて所有することで初めてわかることが存在するのであり、その「わかること」を「体験」することが、「教養」ある(≒有意義な)金遣いなのではないか、ということである。

たとえば、いつもは800円ほどのとんかつ定食で昼飯をすましていた人が、2000円以上するとんかつ定食を食べてみたとき、両者のとんかつの味の違いに気づかされるに違いない。高いほうは、肉が柔らかい、とろけるような感触をしている、ソースをかけたら逆にそのとんかつ本来の味を殺してしまう……などといったことに気づくかもしれない。

つまり、その人は2000円以上するとんかつ定食を買ったと同時に、「2000円以上するとんかつとはどのようなものか?(=味、感触、あるいはそれを提供する店の雰囲気など)」という体験も買っているのだ。そして、こうした非日常的な「体験」こそが、「教養」(=その人の中身を充実させるもの)となっていくのである。

最近は、なんでも「コスパ」(コストパフォーマンスの略)を重視する人が増えているように感じる。しかし、低額の金で得られるモノや「体験」など、やはりたかがしれている。高額な金を払うからこそわかること、得られる「体験」がこの世には厳然としてあるのだ。それを知ることは、お金というものに対する立派な「教養」である。
2013/12/22

読書した後は、「考え」なくていい

読書術本とか自己啓発本を読んでいると、ほとんど必ずと言っていいほど「読書した後は、考えるという行為が大事だ」「本を読んだら、その内容について考えなければならない」といったことが書かれてある。

しかし、「考える」という行為は、そんなさらっと簡単に言えるほど簡単にできる行為だろうか? わたしは前からこのことに疑問を感じていた。

わたしは、読書をした後、改まって何かを考えるということはしない。読んでいる最中でさえ、考えるということをしていない。というよりも、読書中に何かを考えていられるほどの余裕は、わたしの頭にはない。

わたしが何かについて考えるときというのは、だいだいの場合、その何かについて不満や不快感をもっているときである。そのことに納得がいかないから、そのことを考えるのだ。

読書をしている最中、あるいは読書をした後というのは、ほとんどの場合、不満も不快感もない。なぜなら読書をしている最中はその本の中身に夢中だし、読書をした後は充実感で満たされるからだ。

無論、本を読んでいて納得がいかないことが出てくると「これはそういうことではなく、○○ということではないのか?」と思うことはある。が、それはあくまでも「思う」程度のものであって、おおまじめにそれについて「考える」などといったことはしない。

何かについて「考える」という行為は、その何かが「切実に」自分と関わってくる場合においてのみ、なされる行為だと思う。逆に言えば、その何かが「切実に」自分と関わってこないのであれば、いちいちその何かについて考えたりなどしない、ということだ。つまり、われわれはそんなに「暇」ではないのである。

たかだか読書をして、そこに書かれてあることが「切実に」自分と関わってくることなど、そうそうあるものではない。自分と「切実に」関わってくるものは、いつでも自分の目の前に立ちはだかる「現実」である。仕事という現実、人間関係という現実、経済事情という現実……その「現実」にぶち当たった時、それを乗り越える「術」として、われわれは初めて「考える」という行為をするのである。

だから、「読書した後は、考えることが大事だ」という言葉を、その通りに、真に受けないほうがいい。まじめな人ほど、読書術本や自己啓発本の著者が言うそのセリフにこだわってしまうかもしれないが、そんなものは無用である。読書をしたあとに、いちいち「考える」などという、大変にエネルギーを使う行動をしていたら、自分の身がもたない。

同様に、「読書をしたら、そこで得たものをアウトプットせよ」などという言葉も無用である。アウトプットなど、所詮は読書後に起きる、「偶然の副産物」程度の存在にすぎない。アウトプットは二の次、三の次なのであり、本来重視しなければならないのは「読書をすること」そのものではないか。

読書後は考えろだの、アウトプットしろだの、最近の読書術本、自己啓発本は特にうるさく言うようになったが、そのせいで読書そのものを楽しめなくなってしまえば本末転倒である。
2013/09/13

お金持ちの、お金に対する感覚

昔、会社の先輩とふとした話から財布についての話になった。


私は財布のブランドとか値段といったものには今も昔も興味がない。ただ、自分の社会的地位や収入に見合った、好きなデザインの財布を使えばいいのではないか、とは考えている。この考えも昔から変わっていない。

ところが、その例の先輩は、私から見て明らかに高額な財布を使っていた。無論、彼の地位や収入がその高価な財布を使うに値するのであれば、別に何とも思わなかっただろう。

しかし、どう贔屓目に見ても彼のステータスと財布は「つり合って」いなかったし、そのくせしばしば「金がない」「いま金欠で・・・」なんてセリフを漏らしてもいた。おまけに妻子持ちにもかかわらず、わたしはなぜ彼がそんな高価な財布を持っていたのか不思議で仕方がなかった。

それからしばらくした後、その先輩のことを徐々に知っていくにつれ、「どうやらこの人は金というものに対して色々な意味でコンプレックスがあるのでは?」と思うようになった。

そうというのも、さっきの財布の件に限らず、時計やら住居やら車やら、なにかと高価なもの、あるいは金のかかるものを所有していて、そうした一連の行為が私には、自らの金のなさを「自分は高価なものを買っている/所有している」から「自分は幸せなのであり、豊かなのだ」という“錯覚”でもって無意識的に(いや、意識的に?)なぐさめているように映ったからである。

私は、金がない(あるいは、金がなくなっていく)本来の理由は、当人の物品に対する金の配分の仕方が「間違って」いるからであり、それを「正し」てやりさえすれば、それほど金に困ることはないだろうと思うのだが、おかしなことに、彼の場合、自らの金のなさを「自らの金のなさを作っている原因(=高額な物品の購買と所有)」でもって慰撫していたのである。

ここに、自らが生み出した不幸を逆説的な形でもってなぐさめ、それが「うまく」いった場合には、「自分は幸せなのであり、豊かなのだ」と悦に浸ることすらできるという「事実」があると知り、わたしはひどく驚いた。なるほど、こういう「事実」がある以上、やはり彼は「シアワセ」なのかもしれない。

――と、彼に対する皮肉(イヤミ?)はこのくらいにしておくとして、ここでわたしが本当に言いたいのは、そういうことではない。結局、お金の使い方ひとつにも(いや、お金を扱うからこそ)、それ相応の「哲学」というものが必要なのではないか、ということである。



自分の好きなものや、「これには価値がある」と思うものに対して、お金を払うという行為を、わたしは一切否定するつもりなどないし、普通のことだと思っている。

だが、お金を払って所有したそれが、果たして本当に「今の自分」(何度も言うように、地位や収入や社会的立場など)と「つり合って」いるのかどうか、という点まで考えなければ、結局そのモノに自分が「所有させてもらっている」だけで終わってしまうと思うのである。

よく「お金がない」「金欠だ」と言う人は、ただ単にお金がない(=モノとしての紙幣がない)だけなのではない。そういう人は初めからお金を「持っていた」のではなく、お金に「持たされていた」だけなのであり、(不幸なことに)そのことに気づいていない人でもあるのだ。



彼(女)には、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」というリアルな感覚が乏しい。だから何かと消費に走るのだろう。もし、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が強ければ、「お金を使うとはどういうことか」「お金を使った結果どうなるのか」「そのモノをお金で買うことで何が起きるのか」ということまで、頭が働くはずである(端的に言えば、「無駄遣いをしない」ということだ)。

逆の見方をすれば、「今の自分」と「つり合わない」モノを買うということは、このように頭が働いていないということであり、もっと言えば「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が強烈なまでに薄いということである。

本当のお金持ちは、急にお金持ちになった、いわゆる「成金」とは違って、お金をたくさん持っているからという理由で不相応な豪遊などしない。彼らは、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が非常なまでに鋭敏だからこそ、「お金持ち」なのであり、また「お金持ち」として居続けられるのだ(もっと砕けた言い方をすれば、彼らは「お金を大事にする」ということである)。

一方、「成金」は、成金になった後で急に失敗するケースが多いように映る。彼らは「お金持ち」で居続けることができない。というのも、彼らの場合「お金持ちになった」という事実と感覚ばかりが先行してしまい、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が所詮は、二の次三の次程度のものでしかなくなっているからである。

もしも、お金持ちになりたいと思うのであれば、“まずは”徹底的に「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚を持ち、それを忘れないことから始めればよい。そして、例のわたしの先輩のように、今の自分が持っている金の少なさを「自らの金の少なさを作っている原因(=高額な物品の購買と所有)」でもって慰めるといった行動に走らないようにすることだろう。
2013/08/18

仕事よりも大事なものがある、と思いたい ― 『超思考』

超思考 (幻冬舎文庫)超思考 (幻冬舎文庫)
(2013/08/01)
北野 武

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仕事に「やりがい」を求めようとする人は多いと思う。こうした態度は至極「自然な態度」であろう。

仕事とは本来、金を得るためにするものだが、人が人から金を得ようとする時、そこには必ず、当人たちの金に対する「必死さ」がにじみ出る。それは何とも言えない「殺伐とした雰囲気」だ。

仕事に「やりがい」を求めようとする人、求めたがる人は、言い換えれば、この「殺伐とした雰囲気」をなんとか打ち破りたいと願う人である。この、嫌悪すべき「悪臭」をどうにかして「やりがい」という名の気持ちよい「香り」に変えたいと思う人である。こうした感情は、誰にでも芽生えるのではないか。

しかし、タケシはそんな甘ったるい考えを一蹴する。

けれど、昔も今も変わらないことがある。苦労をしなければ、仕事にやりがいなんて見つけられるわけがないのだ。(中略)
仕事の本当の面白さとか、やりがいというものは、何年も辛抱して続けて、ようやく見つかるかどうかというものだろう。(中略)
その仕事のやりがいを金で買おうとしてはいけない。自分に合った仕事を探すというのがそもそもの間違いだ。そんなものはない。(中略)仕事を自分に合わせるのではなく、自分を仕事に合わせるのだ。(p.78-79)

これは真実である。皮肉なことだが、結局のところ、「殺伐とした雰囲気」という「悪臭」の中にしか「やりがい」という名の「香り」は存在しないのだ。そしてそれは、その中でもがいて、苦しんで、ようやく見つけ出せるかどうか、という「代物」なのである。

今、就職活動する学生たちを見ていると、みな一様に、就職希望先の仕事に対して「やりがい」を見つけようとしている。まだ、「殺伐とした雰囲気」の中にすら入り込んでもいないのに、である。

わたしはそういう彼らを見て、多少の哀れみを感じるが、他方、それがある意味で人として「自然な態度」なのではないか、とも思っている。誰も、好き好んで「悪臭」の中に身を寄せたいなどと思うはずはないだろうし、できることなら気持ちよい「香り」に浸っていたいだろうから。

そうであってもしかし、タケシの言はどこまで行ってもマコトなのである。それが真実であり、現実なのだ。

――と、かく言う当方も現在、おのれの仕事に「やりがい」など微塵も感じない。無論、これからそういったものが見えてくるのかもしれない。もし、「やりがい」なるものを見つけ出したいと切に願うのならば、このまま辛抱して仕事を続ける以外に術はない(それでも見つかるかどうか、保証はまったくどこにもないが)。

しかしわたしは、仕事に「やりがい」があるかどうかが、「充実した人生」を送れるかどうかの指標となる、などと考えるのはやめたい。そうではなく、仕事に「豊かな人生を送りたい」とか「生きがいのある毎日を送りたい」などといった願望を託すのではなく、趣味に託してはどうか、ということである。

人生、仕事よりも大事なものがある、と思いたい。

無論、仕事の出来不出来がその人の生活の質を決め、また社会的地位も決めるのだから、仕事をおろそかにすることなどできない。しかし、それはあくまでも「パンのために働く」ことを前提とした考えである。

だがある先人は、「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉を残した。これをわたしは、「人生、楽しく生きよ」と解釈してみたい。

仕事よりも大事なもの――ここでは、「楽しく生きる」ための何か、とでも定義しておこう。それは、ある人にとっては趣味であり、またある人にとっては家族であり、恋人であり・・・と多様である。そうした「楽しく生きる」という想いを、仕事に託すのは間違いだと思う。なぜなら、仕事はどこまで行っても「楽しく生きる」ということからは程遠い概念として存在するものだからである(「労働」「勤労」「労務」「職労」――「働く」を意味する「労」の別の意味を考えてみれば、おのずとそれが分かる)。

長く頑張ってみない限り、「やりがい」なるものが見つかるどうかわからない仕事とかというものに、自分の人生の多くをかけてしまうという生き方――そこに「楽しく生きる」という想いは少しもないような気がしてならない。

もう一度言う。

人生、仕事よりも大事なものがある、と思いたい。
2013/08/10

病は「治らない」 ―― 『養生の実技』

養生の実技―つよいカラダでなく (角川oneテーマ21)養生の実技―つよいカラダでなく (角川oneテーマ21)
(2004/12/17)
五木 寛之

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ひどい腰痛になった。

4月からの新生活、なれない環境で仕事を始めたせいか、それらが5月にどっと出て腰を痛めてしまったのだと思う。腰痛は、初めてぎっくり腰になった15の時以来だ。

腰は「体(肉月)の要」と書くが、まったくその通りで、腰が痛いと何のやる気も起きなくなる。そのせいもあって、しばらくの間、ほとんどブログを書く気になれなかったのだ。

そして8月現在、3ヶ月間続いた腰痛もいまではだいぶ痛みが引いてくれた。まだ完全に、ではないが、以前と比べたらグッと楽になった。



ところで、なぜこの本を取り上げたのかというと、五木が腰痛についてのエッセイを書いているからだ。

五木は14の時に腰を痛めて以来、ずっと腰痛と付き合ってきたらしい。40~50代の頃は、腰が痛くなかったときはなかったと思うと述べている。

そんな彼が腰痛について悩み抜いた結果、「腰痛は治らない」という結論に至ったそうである。彼によると、たとえ腰の痛みが引いたとしても、それは「治った」のではなく「治まった」だけなのであり、またいつか必ずぶり返すときが来ると言う。だから、腰痛に「完治」はない、が五木の持論だそうだ。

腰痛にひどく苦しめられていた間、わたしはこれを読んでかなり落ち込んだ。俺の腰はもう治らないのか、と落胆した。おまけに、接骨院に通っていたとき、そこの先生に「あなたの骨は腰に負担をかけやすい形になっている」「このままではまた腰痛に苦しむだろう」などと「脅され」た。

そのせいだと思うのだが、変なときに腰が変に痛む「心因性腰痛」にも、私はなってしまった。これは、痛む場所が一定ではない(痛む場所が移動する)、痛みや痛み方が時間帯によって変わるといった特徴があるのだが、これにも患わされたのだ。おまけに、足がチクチク痛んだり、歯茎がジリジリしたりと、腰以外の場所にも痛みが出てしまった。

五木も本書の中で言っているが、腰痛は気持ちでなる、というのは確かである。「病は気から」ということわざはまさにその通りだと、今回の腰痛で改めて思い知らされた。



しかし、である。わたしはどうも、五木の考えや整骨院の先生の言を、あまりにも真に受けすぎてしまったのではないか、とも今は思っている。

彼らの言い分は、「腰痛は治らない」という点において共通している(少なくとも、わたしにとっては)。だが、それを言ったら腰痛に限らず、ありとあらゆる病が「治らない」ということになりはしないだろうか。

ひとつ例を挙げれば、風邪がそうである。風邪は五木の言う通り、「治る」のではなく「治まる」ものだろう。なぜなら、結局風邪も、またあるとき(たいていの場合、体調に対して油断しているとき)になって、ひょっこりと顔を出すからである。

ガンもそうだ。ガンの摘出手術に成功したといっても、またあるときになって、ガンが再発、そのまま死亡したという話は当たり前のように耳にする。

ちょっとした風邪から、ガンという大きな病気まで、ありとあらゆる病は「治ら」ずに「治まる」だけなのだという五木の考えは、なるほど、確かにその通りだろう。



問題は、こうした考えをどう受け止めるか、である。

わたしは当初、五木のこの考えを知ってひどく悩んだ。特に、なんとかこの腰痛の苦しみから逃れたい一心だったため、気持ちのへこみ具合は本当にひどかった。

しかし、痛みと格闘する日々が続いていくうちに、「でも、べつにそれでいいのではないか」「というよりも、それはそれでしかたないのではないか」と開き直れるようになった。

べつに、なにか怪しいポジティブシンキングを実行したわけではない。なんというか、腰痛以外の病気について自分なりに考えてみた結果、「決して腰痛だけが『治らない』わけではない」ということに改めて気づいたからである。

そう考えられるようになってから、自分なりに自分の腰痛を「研究」し、行き着いた先が「マッケンジー体操」という腰痛体操だった。この体操は、ただ腰を反らせるだけの簡単な体操なのだが、これを自分なりにアレンジし、毎日朝晩実行した。「腰痛なのに腰を反らせるだけで腰がよくなるなんて考えられないけど、どうせこのままでいても腰は痛いままだし、いまさら腰の痛みがひとつやふたつ増えたところで、どうってことないや」――こんなふうに考えられるようになったのもつい2週間ほど前である。

そしていま、しつこかった痛みがだいぶ改善された。とはいってもまだちょっと痛みは出るものの、これもあとは時間の問題だろうといまは考えている。



――と、ここまであまりまとまりのない文章を書いてきたが、要は腰痛に限らず、病についてはある程度、「覚悟を決める」しかない、というのがいまわたしの思うところである。病は、それにかかるにせよ、治るにせよ、「なるようになる」ものでしかないのではないか。

老化は、この世に生まれた時に初めてかかる「病」である。アンチエイジングブームが続いて久しいが、老化こそ「治る」のではなく「治まる」ものだろう。問題は、老化することに対して「覚悟を決める」ことではないか。わたしは、これが最大のアンチエイジングだと思う(とはいっても、正確には「アンチ」(対抗する)ではない)。

とにもかくにも、「究極の健康法」とか「これをやっていればずっと健康でいられる」なんてものは、わたしに言わせれば、存在しない。人間は、生まれたときからすでに「不健康」と永遠の伴侶の関係にあるのだ。何度でもいうが、問題はそれを覚悟すること、そして「そもそも人間なんて不健康から逃れられないのだから・・・」と開き直れるかどうか、にあるのだ。

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