2017/01/20

外見は中身の一番外側である ― 『メンズファッションの解剖図鑑』

メンズファッションの解剖図鑑
MB
エクスナレッジ (2016-12-03)
売り上げランキング: 3,682



こういう本はおそらく、いままでになかったと思う。

男のおしゃれをロジカルに書いた本だ。「おしゃれとは何か」「おしゃれと感じる理由は何か」を論理的に解説している。そして重要なのは「人は何をおしゃれと感じるのか」をきちんと説明できている点だ。

著者は言う。日本の男のおしゃれは、いわゆる「アメカジ」ではなく、ドレスライク寄りなコーデにすることで生まれるのだと。言われてみれば確かにそうだ。街中でおしゃれだと感じる男は、ほとんどこのドレスライクなファッションをしているのだ。

靴の選び方、アウター、ボトムスの選び方、考え方まで、具体的に例を挙げながら解説してくれているので、非常に参考になる。

極め付きは、著者の「おしゃれ」に対する考え方だ。中身を磨くよりも、外見を磨いた方が遥かに簡単であること、そして遥かに簡単に自信がつくことをコラムの中で論じている。

長らくの間、この国の男たちを縛ってきた考え方のひとつと言えるのが「男は外見じゃない」「男は中身だ」的な発想である。

私はこの考え方が大嫌いだ。なぜ、男がおしゃれに気を使ってはいけないのだろう?人が真っ先に人を判断する材料は、他ならぬ「外見」だというのに。

最近わたしが感銘を受けたのは、「外見は中身の一番外側である」という言葉だ。非常なまでに言い得て妙だと思う。中身が良いのなら、それが外ににじみ出てもいいであろうに、それがないのはちと変だ。にもかかわらず、外見はだらしなくても「わたしは中身に自信があるのです」などと弁明されても腑に落ちないのは私だけではなかろう。

ちなみに、わたしは男のファッションの基本は、「スーツをきちんと着られる」ことから始まると考えている。なぜスーツなのかというと、これが現代の男子にとって、最もフォーマルな服装であり、女性からもっとも支持されている服装であり、「男のおしゃれ」のコンセプトはすべてこの「スーツ」という服の中に込められていると思うからだ。

逆に言えば、スーツをきちんと着こなせられれば、私服はそのフォーマルな「スーツ」をカジュアルに着られるようなコーデにすればいいだけの話なのである。だから、大人の男のおしゃれは、スーツから始まり、スーツで終わると言っても過言ではないはずだ。

いずれにせよ、おしゃれであるというのはどんな時においても有利に働いてくれる。仕事でも恋愛でもオフでも、である。なぜなら、おしゃれは自分に自信を持たせてくれるからだ。

わたしはおしゃれをするのが大好きだ。している時の自分は、本当に自信が持てる。そして人の目を気にするようになるので、変なことやカッコ悪いことはしなくなるし、背筋もピンとしようとする。結果、ますます良く見られるようになるという、相乗効果が期待できる。

男のおしゃれは大いに歓迎されるべきなのだ。
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2016/05/02

「武器」としてのミニマリズム

最近のわたしにとってのブームは、「ミニマリズム」だ。部屋の中や、職場の机の上、外出時の持ち物など、ありとあらゆる無駄な「モノ」をそぎ落とし、身軽かつ快適な生活を維持する生き方を言う。

今ではいろいろな雑誌や書籍で、この「ミニマリズム」(少し前の言い方だと「断捨離」だが)が取り上げられている。

きっかけは、『ぼくたちに、もうモノは必要ない』(佐々木典士著)を読んでからだ。この本では、部屋の中にある無駄なモノをいかにそぎ落としていくか、モノを減らすことでなぜ快適な人生を送れるのかが書かれている。

もともと、わたしは部屋や職場の机はきれいにしてきた方だと思っているが、この本と『「超整理法』(野口悠紀雄著)を読んで、よりモノを減らす方向へ動くようになった。

本や雑誌は読んだらすぐ売るようになった。ダンボール箱をひとつ用意し、読み終わったら、そこへどんどん詰めていく。いっぱいになったら、中古本の買取業者に来てもらい、売り渡してしまう。基本的に、一度読んだ本を再読することはしない人間なので、売っても後悔することはない。あとで読みたくなったら、Amazonの中古本販売で買い直せばいいのだから。

食器も捨てた。あるのはフライパンと水切り器くらいだ。一人暮らしをしているので、フライパンひとつで調理器&食器になってしまう。洗い物もプライパンと水切り器だけ。箸やコップは使い捨て(100円ショップで割り箸&紙コップを調達)だ。何も困ることはない。

服も捨てた。ユニクロで白シャツとズボン、靴下を購入している。毎回同じだから、服選びで悩むことはない。靴下は色と種類が全部同じなので、「靴下の相方探し」などしなくてよい。また、ユニクロは基本的にどこにでもあるので、必要なときにいつでも服を買いに行ける素晴らしさがある。

カーペットも掃除機も捨てた。あるのは、クイックルワイパーと科学雑巾だけ。いままで、掃除機をかけることが億劫で仕方なかったが、いまは週に一回、休日にモップがけしている。いままできちんと掃除していなかったところも掃除をするようになった。カーペットだとこうはいかない。基本的に掃除機では吸い取れないほこりなども付着してしまうからだ。いまの掃除スタイルに変えて本当に良かった。

職場では、自分向けの業務マニュアルはすべてデジタル化した。いままで、自分専用のパイプファイルを用意して、そこに紙で綴じていたのだが、このやり方だと、書類は溜まっていく一方だ。新しい仕事を覚えていくたびに、メモやマニュアル類が増えていくのは、うっとうしいし、必要な書類を探すのにも時間がかかる。しかし、いまは紙をPDF化させ、USBメモリにひたすら、書類作成日時順に突っ込んでいくだけ。フォルダを作成し、事細かに分類するやり方は一切やめた。

ちなみに、この分類せずに時間順で保管していくやり方は『「超」整理法』から学んだ。こうすることで、よく使ったり、更新したりするファイルがひと目でわかるようになった。見たいメモや書類は検索機能を使うことですぐにアクセスできる。そしてなんといっても良いのが、紙の時のように、まったくかさばらないこと。これで、パイプファイル保管とは永遠におさらばだ。

ところで先日、旅行に行ったのだが、そのとき気をつけたのが、持っていくものをミニマルにすることだった。手提げカバンは持たず、軽量小型のスーツケースひとつに衣類とその他必要な小物を入れるだけに留めた。それでもスーツケースの中をいっぱにはせず、空きのスペースを2割作ることにした。こうしておけば、旅先で何か購入しても、そこへ入れられるからだ。

目的地の駅に着いたら、スーツケースはコインロッカーに預けてしまい、スマホと財布だけの身軽な状態で旅先を楽しんだ。もはや、スマホと財布さえあれば、どこへでも安心して行ける時代だ。その結果、持ち物に煩わされることが一切なく、実に快適な旅だった。

そう。ミニマリズムは、遊びすらも快適にさせてしまうのだ。

ミニマリズムは人生において、ぜひとも自分のものにしておくべき「武器」のひとつだと思う。こうした発想や考え方があるかないかで、生活の質、ひいては精神状態が大きく違うからだ。

もともと、わたしはこういう考え方が好きだったのかもしれない。だから、そういう意味で、ミニマリズムはその人の性格との相性が重要になってくるのだろう。しかし、何度も言うが、ミニマリズムは強力な「武器」だ。味方につけるべき発想だ。
2014/12/28

大いに「無駄遣い」をしよう ― 『迷ったら、二つとも買え! 』

迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)
(2013/06/13)
島地勝彦

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お金の貯め方、稼ぎ方の本はゴマンとあるが、お金の「遣い方」の本というのは、ほとんど見かけない。本書は、その数少ない「お金の遣い方」本の一つだ。

とはいっても、本書は具体的なテクニックを伝授してくれるわけではない。いわば、「心得帖」のようなものだ。

まず、目次が面白い。第1章「「無駄遣い」のススメ」、第2章「「無駄遣い」はセンスを磨く」、第3章「「無駄遣い」は教養を高める」等々。ちなみに、ここでいう「無駄遣い」とは、一見すると「何でそんな物に?」と思えるようなことに大金をはたくことを指している。それは、「人生の肥やしとなる無駄遣い」のことである。パチンコやギャンブルなどに金を費やす「無駄遣い」とは違うのだ。

では、「人生の肥やしとなる無駄遣い」とは何だろうか?

著者はその点について、明確な定義付けはしていないようだが、本書を読み進めていくと、ひとつの傾向が見えてくる。それは「大金をはたいて心に残る体験を買うこと」のようだ。

「ある物やあるサービスを受ける時、それが高くても、後々までその余韻に浸れる体験ができるのであれば、それは絶対金を惜しむな」が、著者のモットーなのだろう。そして、こうしたモットーをもとに金を遣って生きていくことが、己の心を豊かにしてくれる――私も大賛成である。仮に買って失敗したとしても、それは「次につなげるための“授業料”を払ったんだ」と考えてしまえば良いのだ。

その一方で、吝嗇な人間というのも存在する。金が懐に入ったとたん、すぐにその大部分を貯金に回し、後はなるべく出費を抑えた生活をする者のことだ。本当に必要な時でさえも、金を出し惜しみする。

私の周りにもそのような人種がいるが、見ていて内心、「コイツには近づきたくないな」と思ってしまう。ひたすら金を得たら貯めこむ人間に、私はどうも魅力を感じない。

なぜだろう? 一つは、いわゆる「金の亡者」に見えるからだが、もう一つは「この人の中には、“面白い話の引き出し”が少ないのでは?」と感じるからだ。金を遣えば、様々な面白い体験ができるというのに、それを放棄してひたすら金ばかり集める姿は、醜悪にしか映らない。

無論、使う額は自分の身の丈に合った額を使うというのが大前提である。これは著者も同じことを本書で述べていた。しかし、吝嗇家はそれすらもしない。「金を遣う」ことは、「金を手放す」ことだと考えているのだろうが、それは違う。「人生の肥やしとなる無駄遣い」は、むしろ「金に命を吹き込んであげる」ことに等しい。いわゆる「生きた金の遣い方」というヤツだ。生きた金は必ず、それを使った自分のもとに「生きた形」で返ってくる。

今は「節約することが当たり前」のような時代だ。だが、節約ばかりしたところで、何が面白いのだろうか? 節約のし過ぎは、生きる活力も、自分の心の糧も節約してしまうハメになる。それでは、何のために金を貯めているのか分からない。「老後のため」などという漠然とした思いから貯めているようなら、それは金を「飼い殺し」にしているようなものではないか。そのような人は、その「老後」が来たとしても、「老後のため」などといって金を貯め続けそうで怖い。

特に若い内は、どんどん金を使った方が良い。老人と違って、金で買った素晴らしい体験をグッと吸収しやすいし、何よりも生きた金の遣い方を身につけることができる。これが年を取ってからだと、何かと億劫になるし、新しいことに対して保守的になっている可能性も高い。これだけならまだしも、最悪、「何に」遣ったらいいのか分からないなどという状態に至っているかもしれないのだ。

ちなみに以前、『カネ遣いという教養』という本を紹介したが、こちらよりも本書の方が読んでいて納得できることが多かったし、面白かった。
2014/10/25

本当に格好良い生き方 ― 『知的生活の方法』

知的生活の方法 (講談社現代新書)知的生活の方法 (講談社現代新書)
(1976/04/23)
渡部 昇一

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私は、知的でない人や知性を感じさせない人が本当に嫌いである。無論、私自身もそのような人間にならないように心掛けているし、そのための努力なら、決して惜しまない。

大学を卒業して以降、こうした思いが私の中でより強まっている。というのも会社にいると、意味のない雑事に巻き込まれたり、どうでもいいような人間の相手をしてやらなければならなかったり、くだらないことに頭を悩ませなければならなかったり、といったことが続くからである。

そしていつからだろうか、「こんなことが続けば、自分の知的体力や好奇心が衰えていくのではないか?」という思いを抱くようになった。私にはそんな状態が耐えられないし、考えるだけでもゾッとする。

本書を取り上げたのは、そういう日頃の思いからである。私はこの本を大学生の時に借りて初めて読んだが、今回買って新たに読むことにした。

別にどうということもない、読書論やら勉強法やら人生論やらが合体したエッセイである。だが、それでも「わざわざ」買い直したのは、中身が興味深いからという理由はもちろん、本棚に飾っておくだけでも、今後知的生活を送ろうと決心した自分に対する「戒め」になるから、という理由もあるのだ。

大学卒業以降、この本の教えを「信仰」し、あるいは実践していることは、主に次の2つである。

・「金で時間を買う」という発想を持つ
・本代は身銭を切る(本代をケチらない)

大学時代の私は、ロクに金を持っていなかったので、上2つの教えに感銘を受けつつも、実行は容易でなかった。しかし、社会人ともなれば金が入る。そこですぐにこれらを実行するようになった。

そしてこれらに加えてもう1つ、意識していることがある。それは、「大学図書館を積極的に利用すること」だ。

無論、「タダで本が読めるから」という理由から利用しているのではない(それだと先と矛盾してしまう)。そうではなく、「知的空間」たる「大学図書館」に、己の身体を置くことが、自らの知性を活性化させることに繋がる、ということを経験的に知っているからである。

本当に幸いながら、私の勤務地は、自分の母校のすぐ近くにある。だから退社後、あるいは休日に定期券を利用して、無料で且つすぐに大学図書館へ足を運べるのだ。私の場合、「知的生活」を快適に送るための土壌が整っていたのである。

以上3つ、「知的生活」を送るための条件を挙げてみたが、最後に1つ、本書に出てくる好きな「気概」を書いておこう。

しかし無理をしてでも本を買い続けるということをしていない人が、知的に活発な生活をしている例はほとんど知らない。新聞や週刊誌ならすぐ読めるけれども、本はすぐよめるものではない。特によい本は、いつになったら読めるかわからないことがある。そんな本のために豊かでもない財布から、なけなしの金を出すということは異常である。その金でレストランに入ればおいしいビフテキが食えるし、ガールフレンドと映画に行って食事をし、コーヒーも飲めるのだ。そういうことをするのに金を使うのが日常的ということであり、そうしないで、すぐには読めそうもない高価な本を買って、すき腹をラーメンで抑えるというのが知的生活への出発点と言ってよい。知的生活というのは日常的な発想に従わない点で、そもそも出発点からして異常な要素があるのである。(p.78)

初めてこの箇所を読んだ時、強烈なインパクトを受けた。要するに、自らの生活を進んで「日常的」(庶民的)なものにしない、ということなのだ。知的生活を送るというのは、ある部分において自ら「孤高」でなければならないし、ある部分で「栄華の巷低く見て」の精神がなければならないのだと思う。

それではなぜ、私はかくも、日々の生活ひいては生きるという上で、「知的であること」に拘るのだろうか。

それは、「人から尊敬されたいから」とか「女性にモテるから」とか「収入が上がりやすくなるから」といった、よくありがちな思いからではない(無論、まったく微塵もそういう気持ちがない、と言ったらウソになるが)。突き詰めて考えていった結果、それが結局、私にとって、絶対に守るべき究極の「道楽」であり「尊厳」だからだと思う。「知的生活」も含めて、「知」そのものが、私には「道楽」であり「尊厳」なのだ。だから冒頭でも述べた通り、「知」あるいは、「知」がある環境に対し、かくも必死になるのである。

知的生活――なんと、格好良い響きを放つ言葉だろう。誰が何と言おうと、私は息絶えるまで、これを全力で続ける。
2014/09/25

趣味も「積み重ね」が大事 ― 『趣味力』

趣味力 (生活人新書)趣味力 (生活人新書)
(2003/04/11)
秋元 康

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わたしは、歌舞伎や文楽や能といった伝統芸能を観るのが趣味のひとつなのだが、こういったものと接していると、つくづく「趣味も結局、“積み重ね”がモノを言うんだな」と感じる。

ここで言う「積み重ね」とは、芝居を何度も観ることや、芝居関係の書籍を読むことや、芝居周辺の情報を集めることなど、要するに知識や体験の「蓄積」のことだ。こういった「蓄積」が、自分の「見方」「感じ方」を変化させてくれて、鑑賞をより面白くしてくれる。

そういう意味で、あることを自分にとって“心から楽しめる”趣味にしようと思ったら、それ相応の時間がかかると考えたほうがいい。だから、著者も「「定年になってから」ではなく、今、始めよう」「一生をかけて一生モノの趣味を探す」と言う。

「勉強や仕事というのは、積み重ねが大事だ」とはよく聞くが、これは何も勉強や仕事に限ったことではなく、趣味についても同じことが言えるのではないか。だから、若いうちから(若くなければ、それこそ著者の言う通り、「今」から)趣味を耕しておいたほうが、それだけ「積み重ね」ができるのだから、お得だ。

それから、趣味が長続きするかどうかというのは、趣味にしている対象に、自分が「欲」を持っているかどうか(「◯◯をもっと知りたい」「☓☓について知識を集めたい」「□□ができるようになりたい」など)である。このことについても、著者は「大事なのは「できるようになりたい」という気持ち」だと言っている。

そう考えると、テレビゲームで遊ぶことやアニメ鑑賞は、それはそれで趣味になるだろうが、「継続性」や「持続性」という点で見たら、長続きはしづらいのではないだろうか。というのも、それについて知ることのできる範囲が、どうしても、そのゲーム、アニメ内で「話」や「世界」だけで完結してしまうため、限定されるからだ。そこからさらに「横」に広がったり、「時」を遡ったり、といった「幅」が持ちづらいのである。(無論、テレビゲームやアニメ鑑賞という趣味を否定するつもりは、毛頭ない)。

とはいっても、趣味は趣味。気楽に考えればいいと思う。本書はタイトルが「趣味力」だが、趣味に「力」だなんて大袈裟すぎる。「力」は抜こう。趣味は「力」を入れるためにあるのではなく、楽しむためにあるのだから。
2014/09/05

落語「入門」ではないけれど ― 『21世紀の落語入門』

21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)21世紀の落語入門 (幻冬舎新書)
(2012/05/30)
小谷野 敦

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昔から、けっこうこの著者の本は読んできたが、彼の書いた本で、こんなにもよく頷けたのは正直初めてだ。

タイトルには「落語入門」と打ってあるが、実は著者の落語論である。だから、落語を初めて聴こうとする人は、このタイトルを信用しないほうがいい。だが、落語好きには、大いに薦められる本だと思う。

さて、私が頷けた項を、目次からいくつか抜き出してみる。

①「テープで聴くならスタジオ録音より客がいるものを」

なぜなら、客の笑い声が入っているからだ、と著者は言う。まったくその通りだ。落語において、周りの人の笑い声というのは、重要な要素だ。「その噺の、笑いのツボが知れるから」というのはもちろん、笑い声自体が「落語」の雰囲気も作っているからである。

ほとんどの人が、落語に対して「落語は笑い話である」というイメージを持っていると思う。事実、ほとんどその通りで(そうではない噺もあるが)、だから、客のいないスタジオ録音(=笑い声がない録音)は、「落語」の醍醐味を削ってしまうことになりかねない。

そして、著者の言い分に付け加えさせてもらうと、私は「CDよりもDVDの方がおすすめ」だと思っている。CDでも、もちろん笑えるが、演者が話している姿を見られれば、そのおもしろさも増す(個人的な経験から言わせてもらうが)。というのも落語は、決してことばだけで笑わせているのではなく、表情や身振り手振りでも笑わせているからだ。

②「寄席は行かずともよい」「寄席礼賛の風潮に流されない」

Amazonでのレビューを見ると、この考えに対して、どうも反発が強いようである。しかし、私は著者のこの意見には賛成である。なぜなら、寄席に行っても7割ほどの演者が、ひどい場合は前座からトリまで、つまらないということがよくあるからだ。

③「初心者は、存命の落語家より過去の名人から」

②の続きになるが、だから過去の名人のものを聴け、というのが著者の主張だ。これもまったく御意である。結局、昔の名人の落語の方が、「ハズレ」に遭遇する確率がグッと低くなるし、聞いていて良い勉強にもなる(特に、三代目志ん朝のマクラ)。おもしろいから、聴いているこっちは夢中になる。だが寄席の場合、ヘタな落語に遭遇しまくると、初心者はひどい場合、落語そのものが嫌いになる可能性が高い。だから、初めての人は、昔の名人の落語から聴いたほうが良いのだ(ちなみに、著者は初心者は志ん朝から聴け、と言っているが、これも私と同意見である)。


ところで、読んでいて気になったのが、著者が「◯◯(落語はもちろん、スポーツや演劇、コンサートなど)は、CDやDVDで聴いたり見たりするのではなく、生で鑑賞すべきだ。そうでなければ、鑑賞したことにはならない」といった「現場主義」を批判していたことだ。この「現場主義」は結局、都会やその近辺に住んでいて、すぐにそういった「現場」へ行ける者の、勝手な言い分にすぎないのだと、彼は言っているが、なるほどと思った。言われてみれば確かにその通りかもしれない。

ただし、わたしの場合、演劇だけは、「現場」に拘っている。それ以外は、正直どっちでもいい。たとえば歌舞伎や能だと、生の「あの音」や「あの雰囲気」が、わたしはたまらなく好きだからである。歌舞伎のDVDをもっているが、いくら見ても、やはり「生」の魅力には絶対に勝てない。逆に落語は、「生」でもDVDでも、ほとんど同じように感じてしまう。

こういった感覚は、専ら個人の好みに帰する話だから、とやかく言うことではないが、ただ「現場で鑑賞、というだけが、すべてではない」という著者の意見は、それまでそれなりに「現場主義」に毒されていたわたしには、新鮮に映った。
2014/07/16

「分析」されることが大好きな日本人 ― 『日本辺境論』

日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
(2009/11)
内田 樹

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とりあえず、手近にある新刊で読みたい思う本がなくなった。ということで、いつものごとく、既刊を振り返ることにしよう。

前から気にはなっていたが、読んでいなかった本のひとつ――それが、この『日本辺境論』だ。なぜこれを読もうと思ったのかというと、なんでも、丸山眞男の論考が本書と絡んでいるとのことだからである。それで興味をもった次第。

さて、読んでいて早々、気になる箇所にぶつかったのでそこを引用する。

ご存じのように、「日本文化論」は大量に書かれています。世界的に観ても、自国文化論の類がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的でしょう。「こんなに日本文化論が好きなのは日本人だけである」とよく言われます。それは本当です。その理由は実は簡単なんです。私たちはどれほどすぐれた日本文化論を読んでも、すぐに忘れて、次の日本文化論に飛びついてしまうからです。(p.22)

たしかに、我が国では掃いて捨てるほどの「日本文化論」がある。表現されるメディアは問わず、学術的考察をした本から、一般人の書くブログまで。もちろん、当ブログも例外ではない(過去にその類の記事は結構書いてきた)。

これと形が似た現象がある。それが、「占い」だ。我が国では、様々な形の占いが、様々なメディアに登場している。性格占い、血液型占い、運勢占い、恋愛占い、姓名占い、などなど。そういえば、昨今は就活時にも「自己分析」とかいう(一歩間違えれば)占いくさいことをやっているではないか。

我が国でいう「占い」とは、だいたいの場合、「分析」と言い換えても差支えがないように思う。日本文化論も、結局は日本という国の「分析」である。この国(の人たち)は、自らを「分析」することが大好きなのだ。では、なぜ大好きなのか。それは、分析された時の、あの「あっ、それ、当たってるかも」という、“あの感覚”が快感なのではないだろうか。とりあえず、他者から「あなたは、◯◯なところがあるのではないですか?」と言われ、それに対して思い当たるフシがあった時、その「合致した」という感覚が、楽しいからではないだろうか。

こんなことを考えつつ、さらに本書を読み進めていくと、また気になる箇所に遭遇する。

私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません(あら、いきなり結論を書いてしまいました)。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。(p.23)

これはおもしろい考えだ。「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰する」ことが、われわれの「宿命」なのだそうである。そしてそれは、「「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在し」ないのだという。

ところで、これもさっきの「占い」の話と形が似ていないだろうか。「占い」も結局は、「問い」から始まる。「自分ってどんな性格なんだろう?」とか「自分ってどんな人生を歩むことになりそうなのか?」とか、そんな「問い」から「占い」が始まることが多い。

だが、そんな問いから始まった占いも、時間が経つと、われわれはすぐに占われた結果を忘れる。忘れるからこそ、また占いに目が行く。そしてまた忘れる――我が国における「占い」とは、この繰り返しであり、だからこんなにも、ありとあらゆるところで「占い」が何度も何度も登場する、いや、「回帰」するのではないか。それも「組織的」に、である。

わたしが思うに、要は日本文化論というのは、ある種の「占い」なのだ。日本文化論というのは、おかしなことに、「日本文化とはなにか?」という問いに対して、きっちりとした裏付けのある回答を出すことに主眼が置かれるのではない。ただただ「日本文化とはなにか?」という問いに対し、日本(あるいは日本人)に対する「印象」を、ただただ言葉にしてみて、「ああ、合ってる合ってる」とか「たしかに、そうかも」とか「それ、すごく言えてる」といったような、その日本文化論とその読者との間に起きた、「合致感」を楽しむために、存在しているようなものなのだと思う。

だから当然、日本文化論というジャンルにおいて、論考の「堆積」という現象は起こりにくい。その代わり、日本文化論という空間において、いくつもの論が、ただただ同一平面上に並んでいるだけなのではないか。「堆積」したものは、その性質上、「下から上へ」と「登っていく」ことで、当該の現象を把握され得るが、同一平面上に併存している場合、それはただAという論に行ったり、Bという論に行ったり、Cという論に行ったり、はたまた戻ってAに行ったり・・・という「回帰性」が拭い去れないのである。

上記、引用した2箇所は、「日本人はきょろきょろする」という項から引っ張ってきたものだが、そう、この「回帰」という言葉は、言い換えるなら「きょろきょろする」というのとほとんど同義なのである。

最近、「リア充」とは別に、「キョロ充」なる言葉も人口に膾炙していて、そういう人をバカにするのが、ネット上(特に2ch)では通例になっているが、いままで述べてきたとおり、日本人からこうした「回帰性」が取り除かれない以上、われわれは(ほとんど)みな「キョロ充」であると言っていい。要するに、きょろきょろと辺りを見回して、自分と近しい者と一緒になろうとするのは、「日本人」である以上、もはや「そんなの、当たり前じゃないか」程度の行動だと思う。

では、なぜ「キョロ充」が蔑視の言葉として、こんなにも広まっているのか? それはおそらく、「キョロ充」を蔑視する者の中にある「キョロ充的側面」を、他者にも見出した時、いわゆる「同族嫌悪」なるものに襲われるからではないだろうか。「オレ、こんなヤツと同じところがあるなんてイヤだ」という強い思いは、その他人を否定することで、その他人と同じものを持つ自分の「嫌いなところ」を、「とりあえず」解消したことになるからではないだろうか(だが、実際は解消できていないのだが)。

さて、この「回帰」という言葉、これをもっと「言い得て妙」に仕立てているのが、次の箇所だ。

(日本文化論は)数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文々が別のより新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある。より、正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある。(p.23-24)

「変化の仕方が変化しない」――これは本当にすごい見方だ。何せ、何百年もこの国において支配的な「無常観」という一思想が、唯一(といっていいほど)見落としていた「変化の仕方が変化しない」という事実を、本書が「変化しないものもあるんだよ」と、こんなにも分かりやすい言葉で指摘してしまっているのだから。

「変化の仕方が変化しない」というと、私の中ですぐに思い起こされるのが、「◯◯ブーム」なる現象である。我が国では、本当にまあ、ありとあらゆるところで「ブーム」が起きる。なんだかよくわからない、47都道府県それぞれのオリジナルキャラクターブームとか、「理系の女性(山登りする女性、森に出かける女性、歴史好きの女性、でもなんでもいい)が、いま熱い!」的なブーム、そしてちょっと前には、「漢字ブーム」がどうのこうのとか(そもそも、「漢字」が「ブーム」っていうのがよくわかないが)、もはや「ブーム」という一過性ではなくなった「黒縁メガネ」ブームとか、とにかく色々と「ブーム」が起きる。この国では。

しかし、唐突に起きたように見えるこれらのブームも、よくよく観察してみれば、「変化の仕方が変化しない」ことに気がつく。たとえば、さっき述べたキャラクターブームも、もとをただせば「アニメ的」なものを愛でる文化というか国柄というか、そういうものが以前から長く続いていて、それがただ「都道府県のオリジナルキャラクター」という「別の形」として現れただけであって、「アニメ的」なものから「アニメ的じゃない」ものを愛でるようになった、というような変化はしていない。つまり、「変化の仕方は変化し」ていないのである。

「◯◯な女性」ブームについても、そもそも「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」という前提みたいなものがまずあって(というか作って)、そこから「「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」からブームになる」という論理を導き出すことで、変化(ブーム)を起こすという「仕方」も、「◯◯な女性」ブームの「変化」の「仕方」としては、ずっと変化していない。

誤解をおそれずに要約するならば、我が国での「ブーム」の起こり方とは、まず「◯◯というのは今までになかった!」といったような論理を(真偽の程などいざ知らず)、あたかも「(新)事実」であるかのように、それも唐突に大衆の前に持ち出し、その後に「だからすごい!」「乗り遅れると損をする!」「だからみんなで◯◯しよう!」といった結論を唱える、といったものなのだ。で、こうした「変化」(ブーム)の「仕方」(起こり方)は、もうずっと「変化」していない。というか、本当にブームかどうかなんて別にどうでもよくて、まず「◯◯はブームである」という宣言を(大きなメディアが)すること自体が、ひとつの「ブーム」であるといったところだろうか。

こうした「変化の仕方が変化しない」という「回帰性」そのものについて、良い・悪いを言うのは簡単なことだが、それらを抜きにして、こうした現象が今までにほとんど省みられることがなかったという事実があるのは、(さきほども述べたように)「分析」好きな国民性であるだけに、なんとも「皮肉」なことだったと思う。結局のところ、「分析」した“結果”や“方法”がどれだけ秀逸であるかを確認することよりも、「分析」することそのものや、「分析」した結果をみんなで楽しみ、共感することの方に、どうやら重きが置かれたらしい。

――話が長くなったので、ここまで。
2014/05/18

私の愛する「古典」

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
(1961/11/20)
丸山 真男

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『日本の思想』――この本だけは、私にとってどうしても手放せない本だ。

大学生だった当時、この本を扱って授業をしていた先生がいた。実に面白い授業だった。社会人の今でも、またもう一度、あの授業を受けたいと思っているくらいだ。

授業もさることながら、わたしは本書の著者である丸山眞男に惹かれた。彼の強靭かつ鋭利な知性と知識量、秀逸な言語表現、「なるほど、そういう見方があるのか」と舌を巻いてしまうユニークな視座――わたしにとって、唯一尊敬、いや崇拝に値する「日本の」大学教授である。

「なんともオーバーな言い方だ」と思われるかもしれない。事実、オーバーな表現できる人だったので、賞賛と同時に多くの反感と非難を浴びた人でもあった。おそらく、「日本の」大学教授で、ここまで多数の賛否両論のある人は後にも先にも丸山眞男だけなのではないかとさえ、わたしは思っている。

彼をあまねく天下に知らしめたのは、おそらく本書だろう。とはいっても、丸山の本来の仕事は、日本の政治思想史の研究だった。しかし皮肉なことに、本書には、その「片鱗」程度の論文と講演録しか入っていない。それでも、「丸山眞男」といったら『日本の思想』だよね、と彷彿させる――そんな本なのだ、本書は。

新刊書に飽きてきた今日この頃、わたしはいま再び、この『日本の思想』を読んでいる。相変わらず文章表現が難解に感じる。再読なのに、「一読」ではなかなか文意が取れない箇所が多々ある。それでもゆっくりと、そしてじっくりと読み解いていけば、「なるほど、そういうことか」と理解できる。

わたしが社会人になって会社員生活を送る傍ら、日々実感するのが、「人間はイメージを頼りにして物事を判断する」という丸山の考えだ。

会社(というか、あらゆる組織や集団すべてに言えることだろうが)では、一度でも「アイツって◯◯だからな~」とか「あの人って☓☓な感じだよね~」といったイメージができ上がると、人は皆、そのイメージをもとにその人に接するようになる。別に、本当に当人がそのイメージ通りなのかどうかに関わらず、である。

「そんなの当たり前だ」と思われるかもしれない。しかし、「当たり前だ」と言いつつ、こうした事実を受け入れたくない人は、少なくないはずだ。「オレ、本当はそういう人間じゃないんだけどな」とか「わたしって実はそんなことないんだけど」といった、周囲のイメージと自分の認識とのズレに、程度に差こそあれ、思い悩んだり考えこんでしまったり、という人が多いのではないか。

わたしはあるときから、この丸山の考えを「応用」してみたらどうか、と思うようになった。つまり、人がイメージで物事や人を判断する、というのであれば、自らを自らが作った「イメージ」でまとわせ、そのイメージを、うまく周囲が持つ自分のイメージと合致させ、会社という世知辛い場を凌いでいく、ということをやってみたのである。メディアでよく耳にする、「なりたい自分になる」というアレだ。結果、自己評価ではあるが、「なかなかうまくいっている」と思っている。わたしは、丸山からヒントをもらい、イメージとしての「なりたい自分」とやらに「なってみた」のだ!

と、そんなことはさておき、こうした「当たり前」とされていることを、改めて「きちんと厳密に言葉にする」というのは実はすごく難しい。なぜなら、「当たり前」であるがゆえに、それを「当たり前」として片付けてしまうことで、その「当たり前」を「きちんと」認識しようとしなくなるからである。丸山眞男の魅力の一つは、こうした「当たり前」を「きちんと厳密に言葉にする」ところなのだ。

本書は今日、もう「古典」と呼んで差し支えないだろう。岩波新書の名著ベスト5に、確実にランクインする一冊だと思う。佐藤優が『人間の叡智』(文春新書)で、「自分の中に、最低でも2つの古典を持て」と言っているが、幸いにも私は本書によって、ひとつ「古典」が持てたのである。
2014/04/25

歌舞伎案内のスゴ本――『歌舞伎の愉しみ方』

歌舞伎の愉しみ方 (岩波新書)歌舞伎の愉しみ方 (岩波新書)
(2008/11/20)
山川 静夫

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もうすぐでゴールデンウィーク――ということで、わたしは歌舞伎座と明治座、観世能楽堂でこの連休を過ごそうと考えている。伝統芸能にどっぷりと体を浸らせてもらう予定である。

ところで、伝統芸能というのはよく「敷居が高い」とか「難しそう」といった印象を持たれがちである。実際、その通りだ。敷居は高いし、すぐ観てすぐ楽しめるといったものではない。ある程度は「勉強」が必要だし、イヤホンガイドなしで十分に作品を味わうにはそれこそ歴史の知識、古語の知識、当時の風習・風俗の知識も必要になってくる。決してお気楽に観られるものではない。

とはいっても、歌舞伎、能、文楽など日本には色々な伝統芸能があるが、とりあえずこの3つに絞った上で話をさせてもらうと、この中でもっとも親しみやすいのは歌舞伎だ。なぜなら、歌舞伎が一番具体的で使われる言葉も現代に近いからだ。一方、能は抽象度が高いし、文楽は誰がしゃべっているのかわかりづらく、言葉もほとんどが古語。おまけに東京だとチケットがすごく取りづらい。

というわけで、「だったら、まずは歌舞伎を楽しんでみたい」という人にオススメなのがズバリ本書『歌舞伎の愉しみ方』である。著者は元NHKアナウンサーの山川静夫氏だ。

氏の文章からは、歌舞伎への愛と情熱が本当に滲み出ている。しかし、難しい話などはほとんど出てこない。「まあ、とりあえず歌舞伎、観てみようよ」といった、ゆるくやさしい感じだ。岩波新書だから一見小難しい印象を受けるかもしれないが、まったく小難しくない。

ここで本書から、気になった言葉を一部抜き出しておこう。

最初にこんなことを申し上げたのは、「歌舞伎をこう観なければならない」というきまりは一切ないのを強調したかったからです。(中略)他人の意見に左右されない自分なりの感性の尺度を持つことが、歌舞伎を愉しむ第一のコツかもしれません。(p.2)

よく、「歌舞伎はもともと庶民の娯楽だったのだから・・・」などといって、「だから歌舞伎は高尚でもないし、難しくないのだ」と言う人がいるが、それは昔の話であって、さすがに今の時代は当てはまらない。初対面の人に「趣味は、歌舞伎を見ることです」と言えば、たいていは「すごいですね」とか「高尚な趣味をお持ちなんですね」などと言われることがほとんどだろう。

しかし、氏の言うとおり、そんな歌舞伎だからといって、決して構えて観る必要はない。というのも、なにか「正しい見方」があるわけではないからだ。「歌舞伎のこういう部分は好きだけど、ここはあまり好きじゃない」というのだってアリだし、「この演目は自分にはわからないけど、あまり人気のない◯◯という演目は面白かった」と感じるのもアリだ。要は、「正直」であることが大事なのだと思う。

と、ここまで色々と述べてきたが、やはり最終的には「たくさん歌舞伎を観る」ことこそが、歌舞伎を大いに楽しめるようになる一番の近道だと私は思っている。本で勉強するのは、初めのうちは「ある程度」までに留めておいて、その後はひたすら見まくるのがいい。それも2、3階席ではなく1階席で、である。その方が、よく見えるし、よく「感動できる」のだ。不思議なもので、歌舞伎というのは、行くと毎回なにかしらの新しい「発見」があったりするのである。
2014/03/09

【3月】これから読む予定の本

丸山眞男集〈第1巻〉一九三六−一九四〇丸山眞男集〈第1巻〉一九三六−一九四〇
(2003/01/10)
丸山 眞男

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今月から毎月一冊ずつ刊行されるという新版『丸山眞男集』(全16巻、別巻1;岩波書店)だ(上記は旧版のもの)。新たに見つかった書簡などが収録されるらしい。1冊3,800円、16巻集めるとおよそ60,000円だ。しかし、ファンとしては買わざるを得ない。

「16巻なんて多すぎる」と思う人もいるだろう。しかし、『小林秀雄全作品』(新潮社)など全28巻、別巻4である。1冊約1,800円で、28巻集めると概算で50,000円だ。値段こそ『丸山』のほうが高いが、集めるとなると『小林』のほうが楽ではないのだ。


なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学 (ハヤカワ文庫 NF 406)なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学 (ハヤカワ文庫 NF 406)
(2014/03/06)
パコ・アンダーヒル

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昨日、池袋のジュンク堂で買った本だ。まさに「これから読む予定の本」である。

ハヤカワNF文庫シリーズは割と好きだが、最近まであまりおもしろそうなタイトルがなくて買っていなかった。というのも、その本のタイトルと目次、小見出しを見れば何を言わんとしているのかすぐに予想がついてしまっていたからだ。

この本は、そうした「予想」をいい意味で裏切ってくれそうなので買ったという次第である。

ところで、ハヤカワNF文庫は目次で小見出しまでは表記していないことが多い。翻訳書だし原書にはそもそも小見出しまで載ってないのだろうから仕方ないが、個人的には翻訳版は小見出しまで載せた編集をしてもらいたいと思う。


ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか? ~日本人が抱く大いなる誤解~ (ワニブックスPLUS新書)ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか? ~日本人が抱く大いなる誤解~ (ワニブックスPLUS新書)
(2014/03/08)
栄 陽子

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Amazonで注文した本だ。こういった教育ルポ的な本は、興味がそそられる。宣伝によると、ハーバード大の入試問題も掲載されているらしい。


青木昌彦の経済学入門: 制度論の地平を拡げる (ちくま新書)青木昌彦の経済学入門: 制度論の地平を拡げる (ちくま新書)
(2014/03/05)
青木 昌彦

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同じくAmazonで買った本。正直に言うと、わたしはそれまで「青木昌彦」なる人を知らなかった。わざわざ、タイトルに人名を冠しているくらいだから有名な人なのだろうと思い、ググってみると、どうやらノーベル経済学賞受賞候補らしい。

で、タイトルが「経済学入門」なわけだが、実際のところ「経済学入門」と言えるほど、経済学の幅広い分野を論じているわけではない(当たり前だが)。素直に、『青木昌彦の制度論』にしたほうが、新書として企画したときのインパクトはありそうな気がする。しかし、商売的には「経済学入門」としたほうが、「意識高いが経済学には疎い」系のビジネスマンにはウケがいいのだろう。


芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)
(2014/03/15)
石割 透

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小さいころから芥川龍之介に憧れていた。今月、岩波文庫から彼の随筆が出るとのことなので、これも読む予定。

2014/02/19

勉強は必要だと思うよ? ― 『資格を取ると貧乏になります』

資格を取ると貧乏になります (新潮新書)資格を取ると貧乏になります (新潮新書)
(2014/02/15)
佐藤 留美

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個人的にだが、近頃、この本に代表されるような「資格・スキル無意味」論をよく耳にするようになった。「巷にあふれる民間資格・スキルの勉強なんかやってもムダ。結局は実務が一番大切で、それは目の間にある仕事をこなすことなのだ」といった主張だ。

「実務が重要」というのは確かにその通りである。しかし、わたしは巷にある民間資格やスキルは「実務をサポートするための補助知識」あるいは「今こなしている実務をより広い視野で眺めるための“道具”」といったように考えている。だから、「資格・スキルの勉強などやってもムダだし、無意味」といった言い分には賛成しかねる。

もちろん、本業の実務に支障が出るくらい、資格・スキルの勉強をやるのは本末転倒だ。だが、時間と体力が許す限り、こうした勉強はむしろ多いにやるべきではないか?

矛盾するようだが、実はこの著者も前著『なぜ、勉強しても出世できないのか?』で、こう書いている。

ここまで、資格取得に対して否定的な意見ばかり書いてきたが、もちろんすべての資格取得、スキルアップを否定しているわけではない。自分の専門性をより深く追求するための資格取得やスキルアップなら、仕事に差し障りのない範囲であれば、むしろトライすべきだろう。(p.222)

弁護するつもりはないが、彼女も資格・スキルの勉強はまったくダメだとは言っていないのだ(本書を読んでいると誤解しやすいが)。それに、なにも特定の資格・スキルの勉強に限らず、仕事の「幅」や仕事に対する「考え方」を広げたいのなら、勉強はむしろ推奨されて然りだと思う。

よく、なにかにつけて「勉強よりも実務が大事だから~」などと言ってくる人は、一見すると仕事熱心のように見える。だが、実は「実務さえこなしていればそれでいい(=仕事(実務)外のところで、仕事に関係することなど考えなくてよい)」と思っている場合が少なくない。そういう人に限って、実務はできても物の見方には乏しかったり、実務外のこととなると、著しく教養が欠けていたり、思い込みが激しかったりする(以上はわたし個人の経験談)。

実務ばかりこなすということは、その実務「しか」見えなくなる、ということでもある。つまり、視野がせまくなる、ということだ。視野のせまい人に、革新的なアイデアや仕組みなど生めるはずもない。他人とは違った視点で物事を見ることもできない。「もっと効率的に、無駄なくこなす方法はないか?」と探ることもしないだろう(なぜなら、探ることよりも実務をこなすことのほうが「効率的だ」としか思っていないから)。実務ばかりこなすこと/重視することの弊害は、まさにこうした点にあるのである。

そういう弊害が「実務こそすべて」といった考えにあるのなら、それを払拭するために資格やスキル、あるいは読書といった、自分を高める勉強をすることは、むしろ立派なことだ。本業ですぐ「ガス欠」にならない程度に頑張ってみることは大いに必要だと思う。

ということで、本書のタイトルに付け足しするとしたらこうなるだろうか――『資格を取る(勉強ばかりしている)と、(本業で体力がもたずに失敗し、失業して)貧乏になります』――う~ん、ちょっと長過ぎる。。。
2014/02/15

【2月】これから読む予定の本

2月も読みたい本がいっぱいだ。以下、簡単なコメントとともに列挙してみる。


政治の世界 他十篇 (岩波文庫)政治の世界 他十篇 (岩波文庫)
(2014/02/15)
丸山 眞男

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本日発売の本で、いま一番楽しみにしているのがこれだ。わたしは丸山眞男の大ファンで、3月から岩波書店で再発売される『丸山眞男集』(全16巻)も買う予定だ。

ただし、この本、表紙が残念すぎる。丸山ファンからしてみれば、「このダサくて地味な表紙、なんなの?」と首を傾げたくなる。岩波文庫のいつもの表紙スタイルで、写真は丸山本人という構成を期待していたのだが、予想が大きく外れてしまった。




日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)
(2014/02/15)
石破 茂

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これはもう買った本だが、まだ読んではいない。著者が石破茂だから買ったのだ。前作『国防』を読んで面白かったので、また氏の本を読もうと思ったのがきっかけだ。




(021)ブラック企業VSモンスター消費者 (ポプラ新書)(021)ブラック企業VSモンスター消費者 (ポプラ新書)
(2014/02/06)
今野 晴貴、坂倉 昇平 他

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これも買ったが未読である。ブラック企業系の本はいくつも出されているので、基本的にどの本を読んでもいいのだが、一読書人として、また一労働者として、新刊のこういう本は読みたくなってしまうのだ。




経済学大図鑑経済学大図鑑
(2014/01/21)
ナイアル・キシテイニー

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これも購入&ほとんど未読状態の本である。とはいえこの本、本当に素晴らしい。時代順に、経済思想を図とともに理解できるスグレモノだ。そもそも、「経済学」を図鑑にしてしまおう、という発想がすごい。さすがは外国人。日本ではこういう企画、起きないからな~。




絶望の裁判所 (現代新書)絶望の裁判所 (現代新書)
(2014/02/19)
瀬木 比呂志

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最近、司法系の新書や文庫を読むことが多くなった。今月はこの本を読むつもりだ(目次に惹かれれば、だが)。「裁判所というのは、“とりあえず”有罪か無罪かを決める所」というセリフが、映画『それでも僕はやってない』(加瀬亮主演)に出てくるが、これはおそらくこの本の主張とも一致するだろう。
2014/01/17

人は結局、遊ぶために生きるのだと思う ― 『男の品格』

男の品格 (PHP文庫)男の品格 (PHP文庫)
(2009/05/02)
川北 義則

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午後22時30分。いま、この記事を書いている時間だ。なんだか急にブログを書きたくなったのだ。

何について書こうかなあと考えている最中、そういえば先週買った本、なかなか良かったっけということを思い出した。

タイトルはずばり『男の品格』である。一時期はやった「品格本」の類だ。そして著者が川北義則ときている。この時点で、なんだかもう内容に察しがついてしまう。だから、こういう「人生論本」は、正直にいうと感想を書きたくない。

しかし、それでも書こうと思ったのは、「そう、そう。そうなんだよなあ~」とうなづける箇所が多かったからだ(無論、人生論本は他の本と比べ、読者を共感させるための様々な「しかけ」がほどこされている点には、十分気をつけなければならないのだが)。

本書のテーマを一言でいうなら、「男子たるもの、よく遊べ」である。よく遊ぶことこそが、その人を充実させ、魅力的にし、幸福にさせるのだと著者は言うのだ。そして、それこそがタイトルにある通り、「男の品格」なのである。

ちなみにわたしは、ある時から「人間が生きる(あるいは、生きようとする)最大の理由は、遊ぶためなんだ」と思うようになった。

もちろん人によっては、そんな陳腐な理由で人は生きるのではない、と反論されるかもしれない。しかし、わたしにはどうしても、「遊ぶ」以外に人が生きる理由は見当たらないのだ。一生懸命に仕事をすることは当然ながら大切だが、しかしそれは所詮、よく遊ぶための「踏み台」にすぎないと思っている。人生はどこまでいっても、遊んでナンボなのだ。

本書の目次から気に入った章を取り出してみよう。


・「一人遊びできる趣味をつくっておく」

完全御意。ちなみにわたしは、遊ぶとなると基本的に一人遊びをするタチである。読書、映画、歌舞伎、ブログ書き、本屋のハシゴ、ファッション、美術鑑賞、大学図書館に引きこもり……思いつくままに挙げれば、このくらいだろうか? なかには人に自慢できる趣味でないものもあるだろうが、それでもわたしはこのいずれをも、自分のなかでは「遊び」だと思っている。

一人遊びの最大の良さは、「他人がいなくてもできる」という点につきる。この点はすごく重要で、なぜなら趣味を楽しもうと思ったときにいつも他人がいないとできないのでは、趣味になりづらいからだ。他人は、常に自分のそばにいてくれはしないのだから。


・「趣味は実践しなければ意味がない」
・「趣味は論じるより味わうものだ」


これも完全御意。趣味を実践せずして、論じるのは本末転倒である。


・「「余裕ができたら……」というのはやめよう」

これまた御意。じゃ、いつやるか? いまでしょ!


・「会社は自分の夢を追う格好の場所だ」

「夢」というと、なんだか仰々しく聞こえるかもしれないが、べつにそんなふうに考える必要などない。それこそ「わたしの夢は、よく遊ぶことです」というのだってアリだ。なにも社会人の夢は、起業や独立といったものだけではないはずである。いずれにせよ、会社で仕事をすることだけが人生ではない。

最後に、気に入った文言を紹介してこのエントリーを閉じよう。

「会社の役に立たない、自分の役にも立たない何かに、熱っぽく取り組む姿勢をもつことが大切である。どんなに忙しくてもだ。「そんなムダなことを……」と思う人は、すでに守りの姿勢に入っている。守りに入った人に、もう上がり目はない」(p.48)

こう言われて気がついた。「そうか。よく遊ぶっていうのは、自分の人生に対して、攻めの姿勢で臨むってことなんだな~」と。


そういう生き方、わたしは大好きだ。
2013/12/30

大金をはたいて、高額な「体験」を買う ― 『カネ遣いという教養』

カネ遣いという教養 (新潮新書)カネ遣いという教養 (新潮新書)
(2013/10/17)
藤原 敬之

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お金の貯め方とか、節約の仕方などを説いた本というのは実に多い。が、お金の使い方、殊に趣味や娯楽といった分野でのお金の使い方を語った本は非常に少ない。本書はその非常に少ない本のひとつである。

わたしは、お金というのは貯めるよりも、むしろ使うことのほうが難しいのではないかと思っている。なぜなら、貯めるのは「貯めるしくみ」を自分で作ってしまえば、あとはほぼ自動的に貯まっていくからだ(銀行がやっている定期積立預金サービスなどがその最たる例である)。

しかし、お金を使うことは、「しくみ」化できない。当たり前の話だが、「どうやって使うか?」「何に使うか?」を考えなければ、お金を使うことはできないのだ。わたしが難しいと感じるのは、この、お金を「どうやって使うか?」「何に使うか?」を考えることである。

著者は、お金を使うには「教養」が不可欠であるという。まったく同感だ。しかし、本書で著者が語っているのは、お金の使い方に関する「教養」ではなく、著者自身の「俺はこんなことに金を使った」という自慢であり、それで終わってしまっている。そこが非常に残念だった。

著者は、箸置きに20万円、メガネに80万円、文房具・オーディオ機器に高級車一台分の金額を費やしたそうである。だからこそ、庶民には得られない「体験」と、そこから得られたお金の使い方に関する「教養」を得ているはずなのだが、いかんせん、それがほとんど語られていなかった。

しかし、本書を注意深く俯瞰してみると、あることに気がつく。それは、この著者が高価なモノを買っていると同時に、高価な「体験」も買っているという点だ。

実は、この「体験」こそが、著者が言いたい「教養」なのではないか、とわたしは思っている。つまり、この世の中には、大金をはたいて所有することで初めてわかることが存在するのであり、その「わかること」を「体験」することが、「教養」ある(≒有意義な)金遣いなのではないか、ということである。

たとえば、いつもは800円ほどのとんかつ定食で昼飯をすましていた人が、2000円以上するとんかつ定食を食べてみたとき、両者のとんかつの味の違いに気づかされるに違いない。高いほうは、肉が柔らかい、とろけるような感触をしている、ソースをかけたら逆にそのとんかつ本来の味を殺してしまう……などといったことに気づくかもしれない。

つまり、その人は2000円以上するとんかつ定食を買ったと同時に、「2000円以上するとんかつとはどのようなものか?(=味、感触、あるいはそれを提供する店の雰囲気など)」という体験も買っているのだ。そして、こうした非日常的な「体験」こそが、「教養」(=その人の中身を充実させるもの)となっていくのである。

最近は、なんでも「コスパ」(コストパフォーマンスの略)を重視する人が増えているように感じる。しかし、低額の金で得られるモノや「体験」など、やはりたかがしれている。高額な金を払うからこそわかること、得られる「体験」がこの世には厳然としてあるのだ。それを知ることは、お金というものに対する立派な「教養」である。
2013/08/18

仕事よりも大事なものがある、と思いたい ― 『超思考』

超思考 (幻冬舎文庫)超思考 (幻冬舎文庫)
(2013/08/01)
北野 武

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仕事に「やりがい」を求めようとする人は多いと思う。こうした態度は至極「自然な態度」であろう。

仕事とは本来、金を得るためにするものだが、人が人から金を得ようとする時、そこには必ず、当人たちの金に対する「必死さ」がにじみ出る。それは何とも言えない「殺伐とした雰囲気」だ。

仕事に「やりがい」を求めようとする人、求めたがる人は、言い換えれば、この「殺伐とした雰囲気」をなんとか打ち破りたいと願う人である。この、嫌悪すべき「悪臭」をどうにかして「やりがい」という名の気持ちよい「香り」に変えたいと思う人である。こうした感情は、誰にでも芽生えるのではないか。

しかし、タケシはそんな甘ったるい考えを一蹴する。

けれど、昔も今も変わらないことがある。苦労をしなければ、仕事にやりがいなんて見つけられるわけがないのだ。(中略)
仕事の本当の面白さとか、やりがいというものは、何年も辛抱して続けて、ようやく見つかるかどうかというものだろう。(中略)
その仕事のやりがいを金で買おうとしてはいけない。自分に合った仕事を探すというのがそもそもの間違いだ。そんなものはない。(中略)仕事を自分に合わせるのではなく、自分を仕事に合わせるのだ。(p.78-79)

これは真実である。皮肉なことだが、結局のところ、「殺伐とした雰囲気」という「悪臭」の中にしか「やりがい」という名の「香り」は存在しないのだ。そしてそれは、その中でもがいて、苦しんで、ようやく見つけ出せるかどうか、という「代物」なのである。

今、就職活動する学生たちを見ていると、みな一様に、就職希望先の仕事に対して「やりがい」を見つけようとしている。まだ、「殺伐とした雰囲気」の中にすら入り込んでもいないのに、である。

わたしはそういう彼らを見て、多少の哀れみを感じるが、他方、それがある意味で人として「自然な態度」なのではないか、とも思っている。誰も、好き好んで「悪臭」の中に身を寄せたいなどと思うはずはないだろうし、できることなら気持ちよい「香り」に浸っていたいだろうから。

そうであってもしかし、タケシの言はどこまで行ってもマコトなのである。それが真実であり、現実なのだ。

――と、かく言う当方も現在、おのれの仕事に「やりがい」など微塵も感じない。無論、これからそういったものが見えてくるのかもしれない。もし、「やりがい」なるものを見つけ出したいと切に願うのならば、このまま辛抱して仕事を続ける以外に術はない(それでも見つかるかどうか、保証はまったくどこにもないが)。

しかしわたしは、仕事に「やりがい」があるかどうかが、「充実した人生」を送れるかどうかの指標となる、などと考えるのはやめたい。そうではなく、仕事に「豊かな人生を送りたい」とか「生きがいのある毎日を送りたい」などといった願望を託すのではなく、趣味に託してはどうか、ということである。

人生、仕事よりも大事なものがある、と思いたい。

無論、仕事の出来不出来がその人の生活の質を決め、また社会的地位も決めるのだから、仕事をおろそかにすることなどできない。しかし、それはあくまでも「パンのために働く」ことを前提とした考えである。

だがある先人は、「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉を残した。これをわたしは、「人生、楽しく生きよ」と解釈してみたい。

仕事よりも大事なもの――ここでは、「楽しく生きる」ための何か、とでも定義しておこう。それは、ある人にとっては趣味であり、またある人にとっては家族であり、恋人であり・・・と多様である。そうした「楽しく生きる」という想いを、仕事に託すのは間違いだと思う。なぜなら、仕事はどこまで行っても「楽しく生きる」ということからは程遠い概念として存在するものだからである(「労働」「勤労」「労務」「職労」――「働く」を意味する「労」の別の意味を考えてみれば、おのずとそれが分かる)。

長く頑張ってみない限り、「やりがい」なるものが見つかるどうかわからない仕事とかというものに、自分の人生の多くをかけてしまうという生き方――そこに「楽しく生きる」という想いは少しもないような気がしてならない。

もう一度言う。

人生、仕事よりも大事なものがある、と思いたい。
2013/08/10

病は「治らない」 ―― 『養生の実技』

養生の実技―つよいカラダでなく (角川oneテーマ21)養生の実技―つよいカラダでなく (角川oneテーマ21)
(2004/12/17)
五木 寛之

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ひどい腰痛になった。

4月からの新生活、なれない環境で仕事を始めたせいか、それらが5月にどっと出て腰を痛めてしまったのだと思う。腰痛は、初めてぎっくり腰になった15の時以来だ。

腰は「体(肉月)の要」と書くが、まったくその通りで、腰が痛いと何のやる気も起きなくなる。そのせいもあって、しばらくの間、ほとんどブログを書く気になれなかったのだ。

そして8月現在、3ヶ月間続いた腰痛もいまではだいぶ痛みが引いてくれた。まだ完全に、ではないが、以前と比べたらグッと楽になった。



ところで、なぜこの本を取り上げたのかというと、五木が腰痛についてのエッセイを書いているからだ。

五木は14の時に腰を痛めて以来、ずっと腰痛と付き合ってきたらしい。40~50代の頃は、腰が痛くなかったときはなかったと思うと述べている。

そんな彼が腰痛について悩み抜いた結果、「腰痛は治らない」という結論に至ったそうである。彼によると、たとえ腰の痛みが引いたとしても、それは「治った」のではなく「治まった」だけなのであり、またいつか必ずぶり返すときが来ると言う。だから、腰痛に「完治」はない、が五木の持論だそうだ。

腰痛にひどく苦しめられていた間、わたしはこれを読んでかなり落ち込んだ。俺の腰はもう治らないのか、と落胆した。おまけに、接骨院に通っていたとき、そこの先生に「あなたの骨は腰に負担をかけやすい形になっている」「このままではまた腰痛に苦しむだろう」などと「脅され」た。

そのせいだと思うのだが、変なときに腰が変に痛む「心因性腰痛」にも、私はなってしまった。これは、痛む場所が一定ではない(痛む場所が移動する)、痛みや痛み方が時間帯によって変わるといった特徴があるのだが、これにも患わされたのだ。おまけに、足がチクチク痛んだり、歯茎がジリジリしたりと、腰以外の場所にも痛みが出てしまった。

五木も本書の中で言っているが、腰痛は気持ちでなる、というのは確かである。「病は気から」ということわざはまさにその通りだと、今回の腰痛で改めて思い知らされた。



しかし、である。わたしはどうも、五木の考えや整骨院の先生の言を、あまりにも真に受けすぎてしまったのではないか、とも今は思っている。

彼らの言い分は、「腰痛は治らない」という点において共通している(少なくとも、わたしにとっては)。だが、それを言ったら腰痛に限らず、ありとあらゆる病が「治らない」ということになりはしないだろうか。

ひとつ例を挙げれば、風邪がそうである。風邪は五木の言う通り、「治る」のではなく「治まる」ものだろう。なぜなら、結局風邪も、またあるとき(たいていの場合、体調に対して油断しているとき)になって、ひょっこりと顔を出すからである。

ガンもそうだ。ガンの摘出手術に成功したといっても、またあるときになって、ガンが再発、そのまま死亡したという話は当たり前のように耳にする。

ちょっとした風邪から、ガンという大きな病気まで、ありとあらゆる病は「治ら」ずに「治まる」だけなのだという五木の考えは、なるほど、確かにその通りだろう。



問題は、こうした考えをどう受け止めるか、である。

わたしは当初、五木のこの考えを知ってひどく悩んだ。特に、なんとかこの腰痛の苦しみから逃れたい一心だったため、気持ちのへこみ具合は本当にひどかった。

しかし、痛みと格闘する日々が続いていくうちに、「でも、べつにそれでいいのではないか」「というよりも、それはそれでしかたないのではないか」と開き直れるようになった。

べつに、なにか怪しいポジティブシンキングを実行したわけではない。なんというか、腰痛以外の病気について自分なりに考えてみた結果、「決して腰痛だけが『治らない』わけではない」ということに改めて気づいたからである。

そう考えられるようになってから、自分なりに自分の腰痛を「研究」し、行き着いた先が「マッケンジー体操」という腰痛体操だった。この体操は、ただ腰を反らせるだけの簡単な体操なのだが、これを自分なりにアレンジし、毎日朝晩実行した。「腰痛なのに腰を反らせるだけで腰がよくなるなんて考えられないけど、どうせこのままでいても腰は痛いままだし、いまさら腰の痛みがひとつやふたつ増えたところで、どうってことないや」――こんなふうに考えられるようになったのもつい2週間ほど前である。

そしていま、しつこかった痛みがだいぶ改善された。とはいってもまだちょっと痛みは出るものの、これもあとは時間の問題だろうといまは考えている。



――と、ここまであまりまとまりのない文章を書いてきたが、要は腰痛に限らず、病についてはある程度、「覚悟を決める」しかない、というのがいまわたしの思うところである。病は、それにかかるにせよ、治るにせよ、「なるようになる」ものでしかないのではないか。

老化は、この世に生まれた時に初めてかかる「病」である。アンチエイジングブームが続いて久しいが、老化こそ「治る」のではなく「治まる」ものだろう。問題は、老化することに対して「覚悟を決める」ことではないか。わたしは、これが最大のアンチエイジングだと思う(とはいっても、正確には「アンチ」(対抗する)ではない)。

とにもかくにも、「究極の健康法」とか「これをやっていればずっと健康でいられる」なんてものは、わたしに言わせれば、存在しない。人間は、生まれたときからすでに「不健康」と永遠の伴侶の関係にあるのだ。何度でもいうが、問題はそれを覚悟すること、そして「そもそも人間なんて不健康から逃れられないのだから・・・」と開き直れるかどうか、にあるのだ。

2013/06/16

やっぱり「霊」は、いる ― 『現代霊性論』

現代霊性論 (講談社文庫)現代霊性論 (講談社文庫)
(2013/04/12)
内田 樹、釈 徹宗 他

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「霊」なんて、学問的研究対象にはならないだろうと思っていたが、内田樹いわく、「霊」には「現象学的アプローチ」が可能だという。

 われわれは、「霊」に対して「これが“霊”です」と指し示すことはできない。しかし、たとえば神棚を設ける風習や、正月にたくさんの人が初詣に行く風習、民放の朝のニュース番組や週刊誌などで、「今日の運勢」などといった占いのコーナーが用意されていることなどを見ればわかるように、昔は言うまでもなく現代においても、決してわれわれは「スピリチュアルなもの」と無縁に生きているわけではない。

こうした「スピリチュアルなもの」がわれわれの中に根付いている背後には、「明確に“これ”と指し示すことのできないもの」としての「霊」、言い換えれば「万人がみな、“これが霊である”と認める確かな“霊”(=指し示せるものとしての「霊」)」はないけれど、しかし「どこかには存在すると“仮定”された霊」というものを考えているからではないか。

だとしたら、「霊」そのものを「実体」として把握しようとするのではなく、「霊」にかかわるありとあらゆる「現象」(神棚を設ける、初詣に行く、占いのコーナーがある、etc)を考察することで、「霊」という「捉えどころのないもの」の「姿」や「機能」を捉えることができる――これが、内田の言う、霊に対しての「現象学的アプローチ」である。

「霊」というものを真正面から捉えようとするのではなく、「霊」にかかわる様々な社会現象から「じゃあ、“霊”ってなんだろう?」と考えてみたらどうか――なるほど、こういう発想は今までまったくなかったね。



そんなわけで、わたしも「霊」にかかわる様々な社会現象から「じゃあ、“霊”ってなんだろう?」と考えてみた。もちろん、内田の言う「現象学的アプローチ」で。

そこで1つ気づいたのは、「霊」の「本質」って「人を縛る」ことではないか、というものだ。神棚を設けることも、初詣に行くことも、そして占いが根強く人気なのも、どれも「気分的に落ち着かない、不安定な(=安心感が得られない)“わたし”」を精神的に「縛る」ことで、「気分的に落ち着いた、安定な(=安心感を得た)“わたし”」へと変えてくれるものだからではないか。

神棚を設けようとするのは、「神様に守ってもらえる」といった「安心感」が得られるからだろうし、初詣に行こうとするのは、お賽銭箱の前で願った「こうであってほしい今年一年のわたし」を「神様」に伝えることができたという「安心感」が持てるからだろう。

また、占いコーナーが人気なのも、占ってもらうことで、今日一日を「なにがおこるのかわからない」不安感を抱えながら過ごすより、「今日一日、こんなことが起きやすいですよ(→だから、◯◯しておきなさい、☓☓は控えなさい)」という情報を仕入れたことによる「安心感」でもって過ごしたい――言い換えれば、そういった占いの言葉に「縛ら」れたい、「縛ら」れることで「心の安定」を得たいと願う人が多いからではないだろうか(こういうのを「言霊」(=言葉の霊)信仰というのだろうか?)。

つまり、「霊」の「本質」は、われわれの「なにかに縛られたい」という気持ちの「発現形態」ではないかと思う。われわれは、「霊」という、この世に存在すると確定できないものを、あえて「存在する」と仮定することで、良くも悪くも、「不安定な自分」から「安定した自分(=「縛」られた自分)」になりたいのだ。

そう考えると、人間というのはどこまでいっても自由から「逃走」する生き物なんだな~なんて思えてしまう。言葉とか情報とか、儀式といったものによって精神的に縛られたい、縛られることで安心したい――「マゾ体質」な生き物なのだと思う、人間っていうのは。

よく、「いまの人間関係がもうイヤになった」とか「他人が自分のところへ介入してくるのがうっとうしい」とかいって、そういったつながりをすべて断ち切ってみた結果、「なんかさみしいな・・・」「独りになるってけっこうツライんだな・・・」っていう気持ちになることがあるけど、これってさっきの「霊」の話と構造が似ているような気がするね。人間関係に縛られないっていうと、なんだかすっごく清々した気分になりそうだけど、実際はある程度縛られないと、不安感や孤独感に悩まされたりするんじゃないかな?

この本を読むまで、正直に告白すると「占いなんか信じるヤツって・・・」みたいに思っていたけど、決してわたしも「霊」の「呪縛」から自由ではないんだな~ってことに気づかされた。誰でも程度に差はあれ、「縛られたい」という「マゾ体質」を抱えている。まあ、真の「マゾ」になってしまうのは問題でしょうが。

2013/04/13

ブログを書くことも、立派な「贈与」だ ― 『評価と贈与の経済学』

評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)
(2013/02/23)
内田樹、岡田斗司夫 FREEex 他

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話題になっているようなので購入。

不遜ながら、対談形式の本なので中身は薄っぺらいかなあ~なんて思っていたが、いらぬ心配だった。それどころか、わたしは普段二度読みをしない人間なのだが、今回は珍しく二度読みしたくなり、いま再読中である。



で、どんな本なのかというと、タイトルにもあるように、“これからは「評価」と「贈与」が、その人の所有する貨幣や地位よりもモノを言う(=大切になる)時代となり、またそれが理想の経済を築いていくじゃないか?”ということを、内田樹と岡田斗司夫が対談を通して確認し合っていく、というものだ。

昔は(といっても、いまもそういう部分はあるが)、「年収がどれだけあるか?」「職業はなにか?」「どんな会社の、どんな地位にいるのか?」などといったような、貨幣や地位が、その人間の社会的な「出来不出来」や「良し悪し」を決めていた、という側面があった。



ところが、これからはそうじゃないんだよ、と二人は言う。これ以上、著しい経済発展など期待できない日本において、生きていく上で大事になるのは、金銭の有無でも地位の高低でもない。

そうではなく大事なのは、他者からのその人自身の「評価」(=人間としての良し悪し、好かれやすいか嫌われやすいか)なのだ。そして、もし他者から良い「評価」を得たいと思うのなら、他者に何かを「贈与」しなさい、と二人はこの対談を通して唱え続けている。



ここでいう「贈与」とは、べつに特別な意味を持った言葉ではない。要するに、「人に何かをしてあげる」ということなのだ。文字どおり、なにかを無償で提供することは「贈与」だし、他人に親切なことをするのも「贈与」だ。ポイントは、「自分から」「他者へ」「無償で」「働きかける」ということである。そして、こうした「贈与」こそが、その人の真の「評価」(=良い評価)へつながるのだと言う。



実は、二人の言う「贈与」の大切さというのが、わたしには身に染みいるようにわかるのだ。「その通り! ほんと、そうなんだよなあ~」などと、本書を読んでいて何度も心のなかで首肯していた。

大学4年生のとき、就職活動が大変だった最中、とある会社がわたしを拾ってくれた。自分は文学部出身だし、もしかしたら就職できないかなあ~なんてうっすらと思っていたので、まさか内定がもらえるなんて思ってもいなかったのだ。

本当に運が良かったんだなあと今になって思う。で、その会社が、社員同士の懇親を目的としたパーティーを開くというので、新入社員となるわたしを招待してくれた。

そのとき、すごく嬉しかったのが、年上の先輩たちがみんな、わたしを親切にしてくれたことだった。その日に会ったばかりの、見ず知らずの人間に、「ここまで丁寧に接してくれるのか!」と、非常に感動した。

「これから、ビンゴゲームやるんだけど、このビンゴカード君にあげるよ」「これから若手だけで二次会やるんだけど、君も来ない?」――その晩は、至れり尽くせりといった感じで、わたしは「いい会社から内定をもらった」と強く思った。

ここまでしてもらえれば、当然ながらわたしは「この会社のために頑張ろう」という気持ちになっていった。



で、本書を読んで気づかされたのは、こういう「◯◯のために頑張りたい」という気持ちに、自然になれるときというのは、◯◯から自分へ何かが「贈与」されたときなのだ、ということだった。

わたしは、その会社から「優しさ」を「贈与」されたことによって、その会社に対する「評価」が大きく変わった。嬉しくてしかたなかったので、「この会社で一生懸命働こう」と思えた。まさしく、内田と岡田の言う「評価」と「贈与」の相互関係がいかに強いものかを、このときすでにわたしは体験できたのだ。



内田は言う。
「オレはおまえのためにこれだけの贈与をしてやる。オレに感謝しろよな」って言って渡すような贈り物はあんまりうまく回らないような気がする。あっちからパスが来たから、次の人にパスする、そうするとまた次のパスが来る。そういうふうに流れているんですよ。パス出さないで持っていると、次のパスが来ない。来たらすぐにワンタッチでパスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる。そういうものなんですよ。(p.149)

わたしのさっきの例で話をさせてもらうと、会社はわたしに「優しさ」という「パス」を出してくれたのであり、そういう「パス」を受けたわたしは、その「パス」に対し「一生懸命働こう」という気持ちで会社に対し「パス」を返そうとしたのである。

もしこれが、会社がなにも「パス」しなければ、わたしも会社に「パス」しなかっただろう。内田の言う、「パスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる」というのは、要するに「情けは人のためならず」ということであり、親切にした分(=親切という「パス」を出した分)、今度は親切にされる(=「パス」を返される)可能性がグッと高まるんだよ、ということを意味しているのだ。



そして、こうした「パス」は、もっと言うと貨幣に対しても当てはまると、内田は言う。
貨幣の本質は運動だから、貨幣は運動に惹きつけられるんです。だから、どんどんパスを出していると、「あそこはパスがよく通るところだ」って貨幣のほうから進んでやってくるんです。(p.149-150)

言い換えれば、「金は天下の回りもの」ということだ。逆説的だが、結局お金というのも使うことでしか増えないのである。それもほとんどの場合、人のために使う、ということによって。これも、理屈はさっきと一緒だ。



不思議だなあ、と思う。普通、「パス」なんかせずに、ひたすら何かを溜め込んでいさえすれば、価値のあるものは自分の手元に増えていくように考えるが、そうではないのだ。

ためこむのではなく、むしろ外へ「出す」。それも、自分のためにではなく、他人のために、である。他人のために、なにかを「出す」ことによって、そのなにかはめぐりめぐって自分のところへ返ってくるのだ。



ちなみに、ブログでものを書く、という行為も内田は「贈与」だと本書の中で言っている。というのも、ブログは普通の日記と違って他者指向の文章であり、それはその文章を読みたいと思っている人(=自分から見ての他人)への「価値」の「贈与」となるからだろう。

ということは、ブログは何らかの情報(=「価値」)を提供する(=「贈与」する)メディアだから、先の論理で考えれば、また別の何らかの情報(しかも、価値ある情報)が自分に返ってくる、ということになるではないか。

で、これは本当なのかというと、本当だと思う。少なくとも、いまブログをやっているわたしは、「そう言われてみれば、確かにそうかも」と思いあたるフシがある。



たとえば、

「ブログを書く(=他者へ「贈与」する)」



「思いの外、読者から好反響があった」



「もっともっと、おもしろいブログを書こうと思うようになる」



「そのためには、色々な情報や知識や知恵が必要だ」



「さらに色々な本やネット記事を読み漁る(=こうした行動をとるようになったのは、「読者からの好反響」という他者からの「贈与」があったため)」


といった、一連の流れがそうだと思う。


一見すると、ブログではこちらが書くだけだから、読者からの「贈与」なんて考えられないだろうが、そうではなく、読者がわたしを「色々な本を読みたい」「知識を身につけたい」という気持ちにさせてくれた、ということが、もうすでに、立派な他者(=読者)からの「贈与」となっているのだと思う。(無論、これ以外の形の「贈与」もあるだろう)



というわけで、他者への「贈与」って、想像以上に自分への恩恵として返ってくる、と考えてよい。

こういうと、「贈与への見返りを求めようとする下心がるから、それは良くない」とか「ちょっとでも見返りを期待している時点で、偽善じゃん」などと思われそうだが、重要なのは、「贈与」する動機ではなく、「贈与」するという行為そのものにある。そして、内田と岡田は「理屈は後回しでいいから、とにかく『贈与』とやらをやってみてはどうだろう?」という提案をしているだけなのだ。

「やらない善より、やる偽善」とはよく言ったもので、「まあ何でもいいから、人のために行動してみるということは、後々になって思わぬ効用が返ってくるよ」ということなのだろう。


2013/03/02

『14歳からの社会学』 ― 「コイツすげえ!」な人に、「感染」せよ

14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)
(2013/01/09)
宮台 真司

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以前、母校の大学で、宮台真司(著者/社会学者)の特別講義(?)に参加したことがある。事前に「誰でも参加可」と知らされていたので、興味本位で彼の講義に出てみた。

いや~、とにかくスゴかった。「なんでも」知っている、という言葉がピッタリな人だった。

とにかくまあ、彼は色々な本を読んでおり、講義中は「◯◯(欧米の学者)によれば――」「××という本には、――とあったがウンヌン」「その学説は、すでに□□(欧米の学者)によって証明されていて――」という感じで、話がアッチコッチに進んでいった(で、わたしには、結局彼がなにをいいたかったのか、よくわからなかったのだけども)。

ただ、「宮台自身のことば(意見)」というものは、あまり感じられなかった。そこがかなり残念だったという印象がある。「学者の◯◯が~っていうのはいいからさ、宮台先生、『あなた』はどう考えるのかを教えてくれよっ!」と、心の中でツッコミながら、わたしは彼の話を聞いていた。

で、本書はうれしい(?)ことに、きちんと「宮台真司のことば」が記されている。しかも、とりあえず子供向けという設定で書かれた本なので、わかりやすい。


本書は子どもに「社会学とはなにか?」を説くという点に主眼がおかれているわけだが、個人的には「社会学のカタチをとった宮台真司の人生論(自己啓発本?)」だと思っている。

で、「人生論」というと、いかにもゾクっぽくてオジサンたちの愛読書、といったイメージがあるのだが、もちろんそうではない。社会学という学問を基盤に、彼は論を組み立てているので、無根拠に読者(とくに若者に対して)を肯定して、甘い幻想を抱かせるような、そのへんのアヤシイ人生論とは違う

この本には一貫したテーマというのがなく、章ごとにそれぞれのテーマが設けられている。だから、「この本は何が言いたいのか?」というのは、一言では言えない。なので、例によって、わたし個人が気になった点を書くことにしたい。


いいなあと思ったのは、5章「〈本物〉と〈ニセ物〉」だ。で、宮台は、そのなかで「感染動機」の大切さを説いている。

ぼくたちがものを学ぼうとするときに、どういう理由があるだろう。(中略)それが「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思う「感染動機」だ。直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばに行くと「感染」してしまい、身ぶりや手ぶりやしゃべり方までまねしてしまう――そうやって学んだことが一番身になるとぼくは思う。(p.136)

ちなみに、宮台を「感染」させた人というのは、廣松渉(哲学者)、小室直樹(社会学者)、チョムスキー(言語学者・哲学者)、カント(哲学者)などだと言っている。

廣松渉は、わたしもちょっとだけだが、著書をかじったことがある。『もの・こと・ことば』(絶版)という本で、これは日本語を哲学した本なのだが、正直、中身はあまり覚えていない。

それから廣松は、言い方にかなりのクセがあり(漢語や難語を多用している)、そこが好きだという人もいれば、嫌いだという人もいるようで、わたしはあまり気にならなかったが、まあちょっと変わった人だな、くらいには思っていた。

チョムスキーは、言わずと知れたアメリカの学者で、最近は政治へ積極的に発言をしていて有名だが、もともとは生成文法理論を提唱した言語学者である。

いま、ちょうどわたしも『新・自然科学としての言語学』(福井直樹/ちくま学芸文庫)という、生成文法理論を概説した本を読んでいるところだが、この本に書かれてあることのベースを築いたのが、チョムスキーその人である。


それで、宮台はこういった人たちに影響されたのだという(たしかに、宮台の書いたものを見ていると、そのことがなんとなくだが伝わってくる)。

彼らの知識ひとつひとつは、問題じゃない。書かれた書物をふくめた「たたずまい」を見ていると、突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる。それが訪れてからは、「その人だったら世界をどう見るのか」をひたすらシミュレーションするだけだ。(中略)感染動機だけが知識を本当に血肉化できる。(p.141)

う~ん、この気持はよくわかる。とくに、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる」という部分は非常に納得できる

わたしも「この人、すげえな......」「コイツはいったい何者なんだ?」といった感覚を持った人がいる。それが、丸山眞男(政治学者)だった。そして「丸山眞男の視点」というのは、いまのわたしにとって、ひとつの「思考軸」となっている。

わたしが丸山に「感染」したきっかけは、『日本の思想』(岩波新書)を読んでだった。この本はたしかに難解で、色々と批判の的ともなったのだが、それでもここに書かれてあることは、いまでも色あせていない。

彼に「感染」してからというもの、わたしのなかで「丸山眞男ブーム」が起きた。『日本の思想』の次に、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)、『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫)、『戦中と戦後の間』(みすず書房)を買っていった。

「積ん読」もあって、全部は読んでいないが、とりわけ『忠誠と反逆』に収められている「歴史意識の古層」という論考を読んでいたときは、「この人はいったい何者なんだろう?」という思いでいっぱいになった。同時に、「自分にはよくわからない部分が多いけど、でもなんかスゴイな......」という感覚にもなった。

丸山からは、自分の知の卑小さというものを、ガツンと思い知らされた。「オレは一生、この人には知的な面で勝てない……」と感じ、暗くミジメな気持ちにもなった。

そんなわけで、よくも悪くも(?)、わたしは丸山眞男という、ひとりの男に魅せられた。だから宮台のいう、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間」というのがよくわかるし、共感できる。


ところが、彼によると、最近はこの「感染」する機会というのが、(とくに若者の間で)失われているそうだ。

大学では授業開始から30分たって教員がこなかったら自然休講ということになっている。それでもぼくの学生時代、30分以上おくれてくる先生がザラにいた。廣松渉もそうだし、小室直樹もアルコールのにおいがぷんぷんすることがあった。だからどうだってんだ。
 実際、授業はどんな先生よりもおもしろくて深かった。そこで学んだことがいまのぼくの血となり肉となっている。いまはそんな「名物教員」がいなくなった。(中略)「形だけちゃんとしていればいい」というセンスが広がる中、「名物教員」と呼ばれる「中身がつまった人間」がどんどん減ってきている。
(p.149-150)

いやいや、「形」も大事でしょう? いくらカッコイイこと言ったって、「形」が悪ければ、そりゃ説得力もなくなるしなぁ。正直、この手の「中身さえよければすべて良し」的な考えは、いただけない。わたしは「形」も含めての「中身」だと思っているので。

それはさておき、大学の先生にかぎらず(中学や高校の先生とか)、「中身がつまった名物教員」が減ってきているというのは、そのとおりかもしれない。書物のなかで「この人すげえ!」と感動するのも悪くないが、やはりリアルタイムにはリアルタイムなりの「感動」が詰まっている。だから、「授業がおもしろい名物教員」が減ってきているというのは、かなり危ない傾向だ。

しかしながら、リアルタイムで「この人すげえ!」と心底、知的に感服した人というのは、わたしもほとんど会ったことがない。

大学生のときも、手元のレジュメとニラメッコしながらずっとボソボソしゃべり続ける教師や、教科書に書いてあることをなぜかそのまま板書する教師、概説書を読めばすぐにわかるようなことを延々とつぶやく教師など、ゴマンといた。

今後もこういう教師は一定数、居続けるのだろうけど、これは、かなり危惧すべきことなんじゃなかろうか?


で、宮台はこうした知的現場の現況を嘆きつつ、こう述べる。

「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ。そんな人はどこにいるか。公教育じゃなくて予備校の現場に多くいる。(p.151)

ここも納得。とりわけ「予備校の現場に多くいる」という意見は的を射ている。実際、予備校の先生というのは、大学教師よりもずっと「スゴイ」人が多いと思う。教え方はもちろん、冴えたトークに、おもしろい人生経験を持っている人がたくさんいる。

いま、巷で話題の「いつやるか? 今でしょ!」の先生も、東進予備校の先生だ。わたしも高校生のとき、代ゼミの授業に参加していたが、学校の先生の授業よりもずっとおもしろかった(いまでも、当時教わっていた先生の授業を受けたいと思えるくらいだ)。

そしてわたし個人のことを振り返ってみても感じることは、「子ども」(若者も含む)というのは、案外すぐに「コイツは本物かニセ物か?」を見分けられるものだということ。これは、とくにオトナに対して、という意味で。

だから、「子ども」から知的な面でバカにされるというのは、その「子ども」から「コイツは本物じゃない」という烙印を押されてしまったことと同義だ。

オトナになると、どうしても周りの人の様子で、理屈的にものごとを決めてしまうことが増えてくる。「誰々が◯◯は良いと言っていたから」「彼は××で有名だから」といったふうに。しかし、「子ども」は素直だ。わからない、ピンと来ない、つまらないと思ったら、すぐにそれを態度に表す。それはそれでたしかに幼い。

しかし、だからとて、それが必ずしも「真贋を見ぬくことができない」ことにはならないと思う。オトナは理性で真贋を見抜こうとするが、「子ども」は直感で見抜こうとする傾向がある。

直感は、時として無根拠であり、自分の知的レベルを棚に上げた「勝手な判断」である場合もあるが、また時として理性以上にモノを言うこともある。そしてそれは、「なんかよくわからないけどすごい!」と言いたくなるときの、この「なんかよくわからないけど」という形に集約されている。

いまは、小説にしても映画にしても「わかる」ものばかりが世の中に受け入れられる。「よくわからないけどスゴイ」という感じ方がすたれてしまっている。(p.136)

宮台は、「「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ」と言う。

しかし、「そう見える」とあるが、それは「子ども」の直感が、「子ども」に「そうさせている」ということでもある。いくら教える側が「そう見える」ように装っても、教わる側が「そう感じ」なかったら、そこに「コイツすげえ!」の感動は生まれないはずだからだ。


そんなわけで、「子ども」特有の直感ってのは、大事なのだろうし、オトナにとっては、その直感を維持していくこともまた大事なのだろう。そして、そういった直感こそが、自分を「感染」させてくれる動力となるのだろうなあ。



2013/02/26

『ひとはなぜ服を着るのか』 ― ファッションも、イケメンも、美人も、みんな「制服」だ

ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)
(2012/10/10)
鷲田 清一

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この本の背表紙には、「ファッションやモードを素材として、アイデンティティや自分らしさの問題を現象学的視線から分析する」という本書の説明が付されている。

ずっと前からわたしは、この「現象学」というのがどういう哲学なのか知りたいと思っていた。が、いつも、辞書辞典で調べてみても、わかったような、わからないような、そんな感じになる。

で、本書を読んでみて、とりあえず「現象学」というのが、どんなことをする学問なのか、なんとなくだが伝わった(気がする)。「ある特定の現象を丹念に観察することによって、その現象の“背後”にあるもの(なぜそのような現象が起きるのか、どのような経緯で起きるのか、など)を考察する学問」といったところだろうか?

とはいっても上の説明は、わたし一個人の、かなり大ざっぱで暫定的な定義だから、「現象学とは何か?」という本格的な問いについては、後日また、ゆっくりと調べることにしたい。

さて、本書の中身だが、ファッション(服装はもちろん、化粧や髪型、ピアスなどのアクセサリーといった、広い意味での「ファッション」)についての興味深い考察がいたるところに散りばめられている。

とはいっても、べつに難しい学術用語が出てくるわけではない。著者(鷲田清一)が純粋に、巷にあふれる「ファッション」という「現象」の奥底にあるものはいったい何なのか? ということを問うていっていくだけだ。「ファッションの冒険」と見立てることもできよう。

いつもどおり、本書の中身すべてを取り上げることはできないので、わたし個人が特に気になったところを論じてみたい。


●身体とは、ある種の「自然」である


なんの手入れもされていない山や空き地というのは、地面が「汚れ」ている。草がボウボウだったり、落ち葉であふれていたり、泥ばかりで歩こうにも歩けなかったり、そんな状態になっていることが多い。

人の体も、これと似ている。身体も放っておけば、アカが出る。臭いが出る。ムダな毛も生えてくる。つまり、放っておけば「汚れ」てくるのだ。そういう意味で、身体はある種の「自然」だ

そんな「自然」を、日々われわれは「耕し」ている。顔や体を洗う。歯を磨く。毛を切ったり、剃ったりする――こうした行為は、身体という「自然」を「耕す」ことに他ならない。

しかし、それだけではない。服を着ること、化粧をすることも、その「自然」に変化を与える(=耕す)ことになるのではないか?

そしてそのなかでも、特にオシャレをすること――髪を染める、ピアスやイアリングをつける、かっこいい(かわいい)服を着る――は、なおさら身体を「耕す」ことを意味するのではないか?

つまるところ、これは「ファッションに身を包む」ということだ。「ファッションに身を包む」というのは、身体を「加工」する、ということなのである。ではなぜわれわれは、こうも身体を「加工」するのだろうか?


●なぜわれわれは、オシャレをするのか?


その理由のひとつが「不満だから」であると、鷲田は言う。単純な理屈だが、ここがオモシロイとわたしは思った。

不満――そう、不満だから「自然」を耕すのだ。体は放っておけば汚くなる。これは人にとって不快因子であり、不満の原因になる。だから、手入れをする――至極、当たり前なことである。

しかし、不満になる理由は、まだもうひとつある。人間にとって、こちらの不満のほうが深刻なのであり、これはさきほどの、オシャレをする理由の根本でもある。


●「不満」の背後にあるもの


では、不満になるもうひとつの理由とはなにか?

それは、なんの「加工」もされていない、そのままの身体だと、「他とは違う、自分という個がはっきりしていないから」、すなわち、「“わたし”が他の誰でもない、唯一の“わたし”になっていないから」である。つまり、ちょっと難しく言えば、アイデンティティを確立できない(できた気がしない)ために、不満を持つのだ。

――なるほど。自分という「自然」を、いわば「文化」(=手入れをした状態)にすることで、その他大勢の「自然」から抜け出したい。抜け出すことで「自分」が確立できる、という理屈か。

J=L・べドゥアンが『仮面の民俗学』(斎藤正二訳、白水社、1963年)のなかで述べているように、着衣は化粧は「存在のもっている像を変形させることによって、存在そのものを修正しようとする」試みにほかなりません。じぶんの存在の物理的な形態を変えることでじぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望で、わたしたちはいつも疼いているようです。(p.34)

わたしの観察するかぎり、べドゥアンの言う「じぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望」というのは、とくに女の子(若い女性)たちに見受けられる。まあ、ネットを見ていると、男の子たちも昔と比べてその「欲望」は強まっているようだが。

ただ、「自分を変える」ことは、必ずしも「自分の身体をイジったり、なにかを体につけたりする」こととイコールにはならない、というのがわたしの考え。人と話し合ったり、読書したり、映画見たり、旅行に行ったりすることでも、「自分を変える」(=自分の中身を変える)ことはできるだろう。昔であれば、「教養主義」というのが、まさにそうすることを良しとしていたのだが(もっとも、もっぱら読書に限られていたようだが)。

しかし、なかなかそうならないのが、現代という時代なのだろう。現代は、中身を変えるのではなく、「外観」を変えることにこそ、高い価値が置かれるのだ。わたしが以前から、このブログでたびたび触れてきた「イケメン(美人)というイメージの氾濫」が、まさにそれを示している。


●ファッション、イケメン、美人という名の「制服」

こうやって、みんながファッションにこだわっていく。こだわることで、「その他大勢」とは違う「自分」を確立できる、と思うようになる。しかし、実はファッションという現象には「不文律」(目には見えないルール)が存在する

ひとりひとり違う格好をしているつもりでも、その現象を俯瞰してみれば、どれもこれも「なんとなく似通っている」ということに気がつく。つまり、部分ぶぶんは違っていようとも、ファッション現象全体として見れば、大した「違い」はないのだ。

ファッション雑誌を見てみれば、そのことがすぐにわかる。モデルの服装はそれぞれ違ってはいる。が、何人も観察していると「なんかどこかで見たことがある」ような格好をしている。

要するに、「なんかどこかで見たことがあるような格好をすること」こそが、実はファッションに潜む「不文律」なのだ。この「掟」を破った者、それがすなわち「奇抜」だとか「派手」とか「浮いた格好」などと言われるのである。

こう見ると、ファッションというのはある種の「制服」なのだ、と思えてくる。「個を出したい」「他とは違う自分になりたい」と思ってしていたはずのファッションが、実はファッション現象全体を見たとき、個を出さない、他とは違わない「制服」へと変貌しているのである。

これは、服装だけにかぎった話ではない。顔もそうだ。

このように、ひとびとを本質的に個性化し、多様化するはずのコスメティックという装置は、逆説的にもひとびとの存在を同質化し、平準化してしまうのです。近代社会では、顔もまたまるで制服のように標準化されてきたわけです。(p.65-66)

最近のテレビを見ていると、「アイドルの大安売り」とでもいうべきような状況が起きている。昔は、アイドルというと「なんだかんだ言っても、やっぱり“この人”!」というような、そんな「特別な地位にいる人」といった感じがしたが、いまはまったくしない。「ネコも杓子も」感がハンパじゃない。

そしてみんな(特に若い人たち)、「なんかどこかで見たような」顔をしている。いわゆる「イケメン」も「美人」も。

そして、インターネットが普及し、ファッション雑誌も昔とは比にならないくらい充実した情報を提供してくれるようになった結果、みんなが同じことをするようになり、芸能人ではない一般人(特に若い人たち)までもが、「イケメン」になり、「美人」になれるようになった。

しかし、それらは「なんかどこかで見たような」感が強いのも確かである。つまり、現代においては、顔もまた、ある種の「制服」と化している、と言えるのである。


●ファッションで個性は出せない

こう考えると、外見をかっこよくして「個性」を出す、という作戦は、残念ながら頓挫しそうだ。というのも、もうすでに、みんなが同じようなことをしているからだ。みんなと同じなのであれば、それは「個性」ではない。

べつにわたしは、だからファッションにこだわることは無意味だ、などとは少しも思っていない。むしろ、みんながファッションにこだわるようになれば、街を歩いていて、それを見ることにワクワクできるから、みんなそうしてくれたらなあ、と思っているくらいだ。現に、そうなっている自分がいる(美人ならなおさらワクワクだ)。

それに「見てくれ」は大事だ。他人に好印象を与えてくれる。相手からの、自分への待遇も良くなるという「特典」も期待できるだろう。そういう意味で、ボクはファッションが好きだ。しかし、である。たぶん、「個性を出す」ことは期待できない。ファッション現象という「波」に乗ることはできても、その波を超えることはできない。

もし、「個性を出したい」とか「自分を変えたい」といった欲が、強くて強くてしょうがない人がいれば、まずは、「ファッションでは個性を出せない」ということ、と、「ファッションにこだわることで自分が変わったような気がしても、それはむしろ“みんなと同じになっただけ”であって(つまり、ファッションという「制服」を着るようになっただけであって)、実際のところ、“自分”は何ひとつ変わっていない」ということを、知ったほうがいいのではないか?――ボクは本書を読んで、そして感想を書いていて、そう考えるようになった。


●「個性」は幻想なのか?

では、「個性」は幻想なのだろうか?いや、幻想ではないと思う。「個性」というのは、そのひとの、その振る舞い、考え方、生き方、ふだんの有り様などなど、そういったものすべてを含んだ概念である。つまり、「そのまま」でいることこそが、実はもうすでに「個性」を体現しているのだと思う。

少なくとも、ヘンに自分という「自然」をイジくって、結果的にみんなと同じ「制服」を着るよりも、そっちのほうがずっと「個性」と呼べるにふさわしい状態ではないだろうか?

「自分探し」についても、同じことが言える。自分探しの「自分」とは、要するに「個性」のことだ。つまり、自分探しとは、「個性探し」なのである。であるならば、話は早い。「そのまま」でいることが「個性」なのだ。「個性」は探さずとも「もうすでに、そこにある」のである。
2013/02/23

『フォト・リテラシー』 ― 写真は現実を写さない

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)
(2008/05)
今橋 映子

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最近のわたしのなかでのブームは、ヴィジュアル文化についての本(写真論、映像論、ファッション論などの本)を読みあさることなので、今回も同様の本の感想を書こうと思う。

本書のタイトル「フォト・リテラシー」というのは、あんまり聞かない言葉だ。「メディア・リテラシー」ならよく聞く。もっとも、フォト・リテラシーはメディア・リテラシーのうちに入るのだが。




で、フォト・リテラシーとはなにか?

ずばり「写真を“きちんと”読む・分析する能力」のことだ。写真というのは、字のごとく「真実を写す(もの)」である、と考えられている。

が、それは果たして本当なのだろうか?むしろ、実はそうではなく、撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ているのではないか?――こういった問いが本書のテーマである。




よく、メディアなどで「決定的瞬間」と冠された写真が紹介されたりする。「決定的瞬間」というと、あたかも「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」という感じを受ける。

本書では、「決定的瞬間」という言葉が生まれるもととなった写真集が出てくるのだが、実はその写真集は、全然「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」ではなかった、という事実を暴露することから始まっている。

この話から著者は、「世間的には“決定的瞬間”と思われている、ジャーナリズムに出てくる報道写真」も、雑誌や本に掲載されるまでの間、実は様々な「細工」が施されていることを指摘する。

ここでいう「細工」とは、決して写真画質の修正のことだけではない。撮影者の「意図」(これは写したい、これは写したくない、写すと報道者側の具合が悪くなるから「あえて」写さない、など)や、商業上の都合によってなされる(身勝手な)編集、場合によっては誤解を与えるような写真の見出しやキャプションなど、メディアに載るまでのありとあらゆる「行程」が、「細工」たりえるのだ。

著者は、そうした「細工」がいかに「巧妙」で、写真を見る者に気づかれないよう「編集」されてあるか、様々な写真を俎上にのせて論じている。




本書からひとつ、例を挙げよう。




上は、ロベール・ドアノーというフランスの写真家が撮った、「市庁舎前のキス」という写真である。この作品は1950年に、アメリカのある雑誌に載った。しかし、大した反響はなかった。

ところが80年代に入ると、フランスやパリ市は対外文化政策の一環として、自国を魅力的にPRするため、この写真を「利用」したのである。それは、あたかも「パリではいつも恋人たちがこのようにキスしています」と言わんばかりに。

キスシーンというのは、どの国においても魅惑に満ちたものである。甘い雰囲気が漂っている。すなわち、誰にとっても「好印象」に映ってしまう。

しかし、これを撮ったドアノーの当初の目的は、こんなロマンチックな想いからではなかった。むしろ、「パリ郊外のうらぶれた日常と人々のしたたかな明るさ」(p.74)を写真にしたかったからなのだ。

しかも、この写真は実は「ヤラセ」だったのである。いわゆる「決定的瞬間」というものではない。すべて作りこまれた「虚構の世界」だったのである。

だが、そんなことはつゆも知られず、ただただ「パリは魅力的」「フランスはオシャレな国」「ロマンあふれる場所」といった、ステレオタイプ化されたイメージだけが先行していった。その原因を作ったのが80年代の文化政策によって起きた、この写真の絵はがきやポスターの大量流通・大量消費だったのである。




これが、さきほど言った「撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ている」ということだ。

ヴィジュアルに訴えるものは、影響力が非常に強い。特に写真というと、無意識に「現実を写したもの」とか、「現実そのもの」などと思い込んでしまう。しかし、実はそうではないのだということを、著者は本書で数々の事例を挙げて説明しているのである。



話は若干変わるが、広告に出てくる写真というのも、そこに写っている商品が魅力的に見えるようになっている。

当たり前といえば当たり前だが、これも結局は「細工」なのだ。しかし、とりあえずでも「細工」だとわかっているのに、なぜこうも簡単に「ダマされ」てしまうのだろう?

いや、物の広告写真ならまだ良い。これがたとえば、美容系の広告写真となるとヤッカイである

なぜなら、たいていの場合、写真に写っているイケメンな/美人なモデルさんと、実際にそんなふうに装ってみたときの自分との間に、あまりにも大きな「落差」が生まれてしまい、自分がミジメに思えてくるからだ。

モデルの写真のキャプションに「※写真はイメージです」とかあっても、なかなかその「真意」を理解できず、理想と現実とのギャップに苦しまされる人が後を絶たないように思う。




いや、「頭」ではわかっているのだ、「頭」では。しかし、「体」ではわかっていないのである。というよりも、「わかってくれない」といったほうが正確だろうか?

要するに、写真というのは時として真実や現実を写さずに、「理想」を写してしまう、ということなのだろう。

そしてそれを見る者は、その「理想」を真実であり現実だと(無)意識的に解釈してしまうのだろう。ここに、「写真の悲劇」があるようにわたしは思う。




では、どうしたらその「悲劇」を見ずに済ませられるか?

それが、著者の言う「フォト・リテラシー」を身につけることにあるのだ。インターネットを使うのにリテラシーが必要なのと同様、写真を見ることにも「リテラシー」が必要なのである

いやいや、イメージの肥大化というのは実に恐ろしい。あるものに対していらぬイメージを持ってしまうことにより、そのイメージと乖離した現実に対して、いらぬ不満まで抱かねばならなくなってしまうのだから。

そう思うと、あの「※写真はイメージです」という注意書きは、けっこう意味深なんじゃなかろうか?

「いいですか?みなさん、“写真はイメージ”なんですよ?“写真は現実”ではないんですよ?」と、セツナイ声でつぶやいているみたいで。



2013/02/21

ジャッキー・チェンの映画も、これでもっと楽しめる ― 『批評理論入門』

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
(2005/03)
廣野 由美子

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文学部にいた時、「文学講読」という授業があって、まあ、たいしておもしろくない古典的な小説を読まされた。わたしのいた学科では、この講読の授業が必修だったので、とりあえず色々と読んだ。

で、その時、きちんとではなかったが、本書のタイトルにある「批評理論」というのも多少やった。これはどういうものかというと、文学作品や映画、文化現象(広告、CM、テレビ番組など)を「それなりに」「違った角度で」読み解くための「道具」である。



たとえば、批評理論のひとつに、「フェミニズム批評」というものがある。これは簡単にいうと、フェミニズムという「思想の枠」から、ある小文学作品や文化現象を覗き込んでみたとき、そこにどんな女性差別だの、女性蔑視だの、女性に対する偏見だのがあるかを分析し論じる(=批評する)というものだ。



例をひとつ挙げよう。川端康成の小説に、『伊豆の踊り子』という作品がある。かつて、わたしが読んだ「フェミニズム批評」で、この作品を論じたものがあった。

その論者(女性)によると、『伊豆の踊り子』にあらわれる恋愛というのは、旧制一校のエリート高校生(男)が、たまたま旅先で出会った踊り子(芸者)に恋をするというものだが、川端のその恋愛描写は「男が上で、女は下」といった、いわゆる男性中心主義的な描写になっており、そこには女性に対する歪んだイメージや蔑視がある、と述べていた。要するに彼女は、この作品は「健全」な恋愛小説ではない、というのである。

詳しくは、こちらの本を読んでもらうとして、とりあえずフェミニズム批評というのは、こんな感じのものである。



それから、「ポストコロニアル批評」というものもある(略称「ポスコロ」)。「ポスト」は「―の後」、「コロニアル」は「コロニアリズム」すなわち「植民地主義」という意味である。

第二次大戦後、西欧の植民地主義によって被害を受けた国々の文化・文学作品を研究するというのが盛んになった。植民地主義を実行していたのは主に西欧だが、その西欧の、植民地国(主に東洋)に対する歪んだイメージや蔑視、偏見など(いわゆる「オリエンタリズム」)が、文学作品にどのようにあらわれているか、また逆に、被植民地国だった国の文学作品は、西欧や西欧人(に対するイメージ)をどのように描いたのか、などを分析して論じるのが、この「ポスコロ」である。



「ポスコロ」という「メガネ」を使って覗きこんでみると個人的に興味深く映るのが、ジャッキー・チェンのアクション映画だ



ジャッキーの映画には、敵役としての「西欧人(≒白人)」(あるいは、西欧人サイドにつく東洋人)がよく出てくる。で、アクションシーンが始まると、彼は(だいたい前半戦はやられがちだが)手足で、あるいは武器を使いこなして「西欧人」を倒す。

この「西欧人」というのは、ジャッキー・チェンのアクション映画において象徴的な存在である。身体的にも、文明的にも、そして外交的にも「勝てなかった」歴史をもつ中国人(≒東洋人)が、映画では「西欧人」に「勝つ」のだ。ここに、「ヒーローとしての中国人(東洋人)」/「悪者としての西欧人」という(やや単純だが)構図が垣間見える



本書では、他にも「精神分析批評」(フロイトやユングの唱えた理論をもとにして、文学作品を分析する批評)とか「マルクス主義批評」(文学作品を「歴史的産物」と見なし、その作品と現実における政治・経済・社会との関係を分析して論じる批評)など、色々な批評理論が出てくる。

で、本書は二部構成になっており、前半は小説が書かれる時の技法(「語り手」とは何かや、ストーリーのプロットはどうなっているか、など)の解説、後半が以上述べた批評理論の解説である。

わたしとしては、後半の批評理論のほうが特に気になっていたので、今回買ってみたという次第である。おそらく、類書のなかでは非常にコンパクトにまとまっていると思う。批評理論の書では、他にテリー・イーグルトンの『文学とは何か』(大橋洋一訳/岩波書店、残念ながら今は絶版)があるが、こちらはかなり本格的なので、批評理論を大ざっぱに知りたければ、まずは本書がオススメだ。



批評理論を知っておくと、小説だけでなく、ふつうのテレビ番組にせよ、映画にせよ、あるいは写真や何気ない広告にせよ、事物を(それなりに、ではあるが)おもしろく眺めることができる。前回、わたしは「女でよかった、とな?――ある広告に対する一考察」という記事を書いたが、これは批評理論でいうところの「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」にあたる(+「記号論」という視点も含む)。

ちなみに、色々ある批評理論のなかで個人的に「使いやすい」と思うのが、この「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」である。というのも、世の中にある文化現象には「性」という概念が、いたるところに見え隠れしているからだ。特に、テレビ番組やCM、広告などは、「性」の視点から観察してみると、意外なものが見えてきたりする。

たとえば、台所用品やトイレ用品、除菌剤などのCMを見ていると、それらを使っている人(使いこなしている人)は、女性であることが多い。もちろん、男性も出てこないわけではないが、明らかに女性のほうが多い印象を受ける。こうしたところに、いわゆる「男は仕事(=外)、女は家庭(=内)」といった、古くからある性役割の(無)意識がまだまだ残っていることを見て取れるのではないか。

一方、そうした旧来の価値観を覆そうという動きなのか、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(綾瀬はるか)は、そういった古い「女性像」とはまったく異なる人物だ。敵に怖気づかず、戦場に出て銃を使いこなす「ハンサム・ウーマン」の姿は、いわゆる「やまとなでしこ」とは一線を画すものである。わたしはこうしたテレビ番組に、ジェンダーの「壁」を取り除こうとする意図を、うすうす感じている



ところで批評理論は学問の一ジャンルをなしているが、さっきも言ったように、わたし個人としては、こうした批評理論は、どれも世の中を「他とは違った角度」から見るための「道具」だと思っている。「道具」というと、あまりにも身も蓋もない「安っぽい」印象を与えてしまいそうだし、冷めた見方だが、わたしはそう考えている。

批評はあくまでも「批評」でしかない。批評理論を知った(あるいは「研究」した)からといって、べつに世の中が変わるわけではない。それに、「◯◯批評の視点から××を分析すると――」などと言ったところで、多少は知的な感じもするが、「ふつうの人」からは「なるほど、そうですか」「ちょっとおもしろい見方ですね」くらいの感想しか抱かれないだろう。

理論は「理論」であって、そこに「絶対性」はない。あまり「批評理論」にこだわると、理論という「型通りの見方」しかできなくなるし、いわゆる口だけの「批評家」になってしまうのがオチである(そう、つまり、わたしとこのブログのこと)。だから、批評理論はせいぜい「知的な娯楽」として「嗜む」のがいいのではないか



本書は、『フランケンシュタイン』を題材に、小説の技法と批評理論、そしてそれらが実際にどのように運用されているのかをセットで手軽に知ることができるが、決して「小説」にしか使えないものではない。文学作品、そして文化現象であれば、基本的に色々と「あてはめる」ことができる。それから、批評理論と批評理論との「組み合わせ」も可能である。

批評理論を小説以外に「応用」したものとして(「応用」している感じはあまりしないが)、他に『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環/ちくま文庫)『フォト・リテラシー』(今橋映子/中公新書)『イメージ』(ジョン・バージャー/ちくま学芸文庫)、エッセイでは『愛という病』(中村うさぎ/新潮文庫)などがある。どれもオススメだ。

2013/02/16

「ヌード写真」を哲学する ― 『ヌード写真』

ヌード写真 (岩波新書)ヌード写真 (岩波新書)
(1992/01/21)
多木 浩二

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少々、いかがわしいタイトルの新書だが、中身はべつにいかがわしくない。岩波が出版しているから、内容は学術的論考である。



著者の多木浩二は、ヌード写真に、まずこんな問いを投げかける。


「なぜ、ヌード写真はこんなにも過剰に氾濫しているのか?」
「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」



この2つの問いを考えるため、多木ははじめに、ヌード写真の成立過程を振り返っている。



ヌード写真が成立するためには、当たり前だが、まずは写真機がなくてはならない。その先陣を切ったのが、ダゲレオタイプの写真だという。ダゲレオタイプの写真というのは、いまの写真と違い、粗悪で現像にも時間がかかる。

しかし、それまで「写真」というものを知らなかった人たちは、写真のもつリアリティや精巧さに大きく魅了された。しかも、現像に時間がかかるとはいえ、絵画とは比較にならないくらい、大量に複写することが可能である。これにより、秘密裏にではあるが、ヌード写真が徐々に出回るようになった

ところで、ヌード写真に写っているのは、その大半が女である。なぜ、男ではなく女なのか?それは多くの女たちが、「性的な身体」を売春でもって「売り物」としてきた、という長い性愛の歴史や、それによってでき上がった社会制度に由来する。

「売り物」としての身体は、主体にはなりえない。常に客体的な存在だ。このことが、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造をつくる結果となった。そしてこの対立構造は、そのまま「ヌード写真」という領域にも及んだのである。ここに、それまで延々と続いてきた、男女間の支配/被支配の関係が色濃く反映されている。



しかし、当初は秘密裏に出回っていたヌード写真が、なぜ現代では大量に出回るようになったのか?その謎を解くカギが「女というイメージ」にあると多木は言う。

ただの「女」ではない。そうではなく、「女というイメージ」である。つまり、実体ではなく虚構や妄想、ファンタジーとでもいうべきもの――そういった「魔力」が、ヌード写真が大量に出回るためのキッカケをつくったのである。

「女というイメージ」は、必ずしも現実を忠実に反映したものではない。むしろ、しばしば「誤解」に富んだものでさえある。それは、男たちの「理想の女像」とでも言えるものだ。20世紀は、様々なメディアが発達した時代だった。

こうしたメディア(その中心が成人男性向けの雑誌『ペントハウス』や『プレイボーイ』など)を通して、「女というイメージ」が大量に出回るようになったのである。

つまり、男たちは実体としての「女」に欲望を抱いたのではなく、イメージとしての「女」に欲望を抱いたのである。この「女というイメージ」は、あまりにも強烈なものであったから、男たちからしてみれば実体以上に「現実」的なもののように感じられた。

こうした実感を支えることができたのは「写真」だからであって、「絵画」だからではない。絵画は、誰もがそれを虚構であると見抜ける。しかし、「写真」は違う。「実体」であるかのように思える。しかし、そこに写された女は、あくまでも男の理想像にそって意図的につくられた、イメージとしての「女」である。必ずしも実体としての「女」ではないのだ。



多木はこう述べる(太字はわたし)。

こうしてイメージの上で性的な現象がよくもあしくも生起してしまうのである。このイメージの世界こそ、性の政治学が現に実践されている場であり、それが現実の人間の存在の仕方にも影響してくるのである。ヌード写真を性の政治学のテクストとして読むことができる理由でもある。(p.116)

ここにおいて、多木の当初の問い、すなわち「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」という問いは、「実体」というものに対しての再考をせまるものなのではないか。

イメージは実体から発するものである。だから、実体がなければ、そのイメージもうまれない。しかし、ヌード写真の例でわかるように、われわれ(男)は実体ではなく、イメージを見ていたのである。

そして皮肉なことに、そうしたイメージが氾濫していくにつれ、イメージは実体以上に「実体化」していくのである。つまり、イメージを「実体」だと思い込むようになるのだ。



ここでわたしは、政治学者・丸山眞男の、ある講演会でのこんなセリフを思い出した(太字はわたし)。

いわんや今日のように、世界のコミュニケーションというものが非常に発展してきた時代にありましては、大小無数の原物は、とうてい自分についてのイメージが、自分から離れてひとり歩きし、現物よりもずっとリアリティーを具えるようになる現象を阻止することができないわけであります。むしろ或る場合には、原物の方であきらめて、あるいは都合がいいということからして、自分についてのイメージに逆に自分の言動を合わせていくという事態がおこる。こうして何が本物だか何が化けものだかますます分からなくなります。(丸山眞男『日本の思想』「思想のあり方について」p.128)


さきほどの性についての話に戻ろう。

イメージであったものが、実体以上に「実体化」していく、という現象は、ヌード写真において顕著に見られることだ。しかし、実はこうやってヌード写真によってつくり上げられてきた「女というイメージ」は、今では「ヌード写真」だけから発せられるものではなくなってきているのではないか、というのがわたしの考えである。

言い換えれば、「女というイメージ」が生産される場所は、そこが「ヌード写真」であるかどうかは、もはや問われない、ということだ。「ヌード写真」であるから「女というイメージ」が生まれる、のではなく、「ヌード写真」から“も”「女というイメージ」が生産される、と言ったほうが、いまは正しいように思える。

その最たる例が、エロ漫画や二次元エロ画像などだ。これらは、「ヌード写真」から生まれ、一般に広まった「女というイメージ」を、より「虚構化」した(=男の欲望をもっと強力化した)ものではないだろうか。

エロ漫画や二次元エロ画像は、明らかに「ヌード写真」よりも強烈に、男の思う「理想の女像」を絵で体現化したものである。つまりそこは、より歪んだ「女というイメージ」が詰め合わさった場所なのだ。この時点で、もはや実体としての「女」は、完全にいなくなっているのがわかる。二次元画像については、「イメージのほうが、実体よりも完全に先行している(=男たちの頭を支配している)」といっても差し支えはないだろう。

ちなみに、昨今のAKBブームも、たぶんこれと同じ構造だ。AKBに大金を注ぐ一部のファン(というよりもオタク)は、AKBそのものが好きというよりも、メディアによって流布された「イメージとしてのAKB」

――それは、「自分に優しくしてくれるカワイイ女の子」とか、「自分のことはよくわかっているカワイイ女の子」とか、「自分が支持してあげなければ、生きていけない。そんな女の子なのだ、彼女は」とかいった、各人にとって都合のいい「イメージとしてのAKB」――

が好きなのではないだろうか。そして、こうした「イメージとしてのAKB」が他のアーティストたちのイメージ戦略よりも強く作用しているのは、「AKBとは気軽に握手ができる」という事実に由来しているように思われる。つまり、「握手する」という行為(そしてそこでの、彼女たちの「笑顔」)が、より「イメージとしてのAKB」を強化していっているのである。

話を戻そう。

そして、こうした現象に拍車をかけているのが、言うまでもなくネットである。『ペントハウス』や『プレイボーイ』といった雑誌媒体よりも、手軽に且つ気軽に、「女というイメージ」を入手することができるからだ。



こうした状況にいる今、何が起きているのか?

思うに、それは「現実(実体)へのショック」である。あまりにもイメージばかりが先行しすぎてしまったので、もはや現実に納得できないのである。イメージしか愛せなくなるのである。そういう男たちが現れてきた時代が、いまという時代なのだ。そのことはすべて、「◯◯(女性アニメキャラの名前)は俺の嫁」という、あの定型フレーズに集約されているのではないか。

よく、こういう女性アニメキャラに夢中になる男たちというのは、現実の女性たちにもてないからそうなるのだ、と言われる。それはそれで確かだろう。しかし、そうした見方は一面的なものでもある。

本当はそれだけではなく、イメージとしての「女」しか愛せなくなったから(=「女というイメージ」があまりにも「魅力的」になりすぎたから)、現実の女たちにもてなくなった、とも言えるのだ。この場合、因果関係は必ずしも明確ではないのである。



「女というイメージ」の氾濫は、なにもヌード写真と二次元画像だけではない。AVの浸透も一役買っている。それも二次元画像のときと同様、ネットというバックボーンを支えとして。

そういう意味で、ネットは「女というイメージ」をより「虚構化」(=強力化)し、それを普及させたという点で、かつてからあったメディアとは比較にもならないくらい、「強大」な存在なのだと言える。

多木の言う「性の政治学」はもはや、ヌード絵画やヌード写真だけで語り得るものではなくなっているのではないか。エロ漫画・二次元エロ画像、そしてAVと、「性の政治学」は以前にもまして広大な範囲を対象としなくてはならなくなっていると思う。

そして新たに加わったこれらの範囲は、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造、そこから生じる男女間の支配/被支配の関係という視点だけでは論じられないはずである。

なぜなら、もはやその範囲では、実体としての「女」が、限りなく透明な存在へと変化していっているからである。以前までは、「見られる客体としての女」も、「被支配者としての女」も、どれも実体としての「女」を想定していたはずだ。

であるならば、これから「性の政治学」を語る際には、以前のこうした二項対立に、さらに第三項「イメージとしての女」を導入しなければならないのではないか、とわたしは考える。



最後になるが、本書はなかなか難しい読み物となっている。一読では少々理解しがたいところが多い。それは、「写真とは何か?」「イメージとは何か?」という哲学的な問いが、本書の根底にあるからだと思う。

本書は、以前に紹介した『イメージ』(ジョン・バージャー著/ちくま学芸文庫)とも通ずる、視覚文化論・視覚表象論である。

この次は、『フォト・リテラシー』(今橋映子著/中公新書)を読もうとわたしは考えている。というのも、いま、こうした視覚文化論・視覚表象論の本が自分のなかでブームになっているからだ。まだ読んでないので今度、感想を書こうと思う。



2013/02/11

「イケメン」は「捏造」されている ― 『イメージ』

イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)
(2013/01/09)
ジョン バージャー

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昨年の12月、出版された日にすぐこの本を買った。
いつか感想を書こうと思っていたのだが、ずっと後回しになってしまったので、今日書こうと思う。

翻訳者のあとがきと、ネットで調べた情報によると、この本は、その手の業界内ではかなり有名なものらしい。初版(原書)が1972年で、以来ずっと版を重ねているベストセラーだという。



ところで、どんなことを論じている本なのか?


一言でいうと「人間の“見る”という行為は、われわれの意識しない、いろいろなものから“制約”を受けているのだ」である。

われわれは、街中にある商品とか広告とか、テレビ番組で流されているもの、ネット上で見る動画など、そういったありとあらゆるものを、「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」のである、というのだ。このことを、著者は有名な美術絵画から、エロ、グロ、ナンセンスな広告までを例に挙げながら説明している。

ものを「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」例をひとつ挙げてみると、たとえば「美術館の中にある作品」がそれだ。

われわれは、「美術館に飾られている作品は、どれも“芸術”である」と無意識に思っている。いや、「信じ込まされている」といったほうが正しいかもしれない。



こんな思考実験をしてみよう。

仮に、わたしが「現代アート好きな一介の人間」だとする。そこで、新進気鋭の若手芸術家たちによる現代アートが、たくさん飾られた美術館に行ったとする。しかしそのなかに、何枚かはまったくのド素人の描いた絵が掲げられてある。

そして、わたしがそれらド素人の絵を見たとする。で、たぶん、わたしはこう感じるだろう――「おお、これが“現代アート”というものか、すごいなあ(でも、正直なんかよくわからないけど、でもきっとすごいんだろうなあ)」と。

ここでもし、そのときわたしが見た絵が、美術館でもなんでもない、「ふつうの場所」にあったら、今度はたぶん、こんなふうに感じるだろう――「えっ、なにこれ? 変な絵だ。ぜんぜん美しくないな」と。


つまり、である。

ものを「見る」という行為は、そのものがある「場所」であったり、そのものを見るために必要な「装置」(美術館も、ものを「美しく感じさせる」という意味では、一種の「装置」だ)であったりによって、カンタンに「変形」されてしまっている(あるいは、「歪められている」)、ということだ。しかも、われわれがまったく気づかぬうちに、である。



――なるほど。確かにそのとおりかもしれない。自分の「見る」という動作が、「場所」にかぎらず、「常識」だの「歴史」だの「知識」だのに「制約」されている、という意見は、的を射ていると思う。

ところで、この意見でピンと来たことがひとつある。近頃のテレビで頻繁に耳にする「イケメンの◯◯さん」とかいう宣伝だ。もしかしたらこれも、テレビという「装置」に、「見る」という動作を制約されて成り立っていることなんじゃないだろうか?

テレビやネットで頻繁に、「“イケメン俳優の”◯◯さん」とアナウンスされれば、それまではなんか「イケメン」に見えなかった人も、次第に「イケメン化」していく気がするのだ。べつに誰とは言わないが、わたしからしてみれば「う~ん、この人、本当に“イケメン”か?」と言いたくなる有名人が、イケメン扱いされていたりするのである。

これは、わたしがイケメンじゃないから嫉妬している、ということではなく、「どうがんばっても」「ひいき目に見ても」“イケメン”とは言いがたい人が、事実、「イケメン」ということになっているのだ。



これだけじゃない。ほかにもたとえば、メンズのヘアスタイルを紹介したムックを見ていると、「モデル」とは言いがたい容姿の人が、なぜかモデルをやっていたりするのである(どういう事情なのかは知らないが)。しかし、なんか見ているうちに、だんだんと「ああ、でもたしかに、イケメン(?)かもなあ……」とも思えてきたりする。

それはもしかすると、そのモデルさんの「整えられた髪型」や「ヘアスタイルのムック」、加えてそこに載っている人たちが、みな「読者“モデル”」であるという「前提」などによって、わたしの「見る」という行為が、無意識のうちに「歪め」られているから、かもしれない(きっとそうだ、きっとそうに違いない)。

これは逆に考えれば、「“見る”という行為は、カンタンに“歪める”ことが可能だ」ということでもある。事実、最近は「雰囲気イケメン」という言葉があって、顔はイマイチでも、その人の雰囲気を「イケメンな感じ」風にすれば、不思議と、しかもだんだんと「イケメン」に見えてくる、なんてことを説く記事があったりするくらいだ。それもお手軽な方法で実行できるのである。だから、ボクもその気になってガンバれば……



――それはともかくとして、「見る」という行為について考え直してみた本書には、一読の価値がある。多少難しいところもあるが、予備知識がないと読めない、というものではない。スラスラ読めてしまう本だ。

ちなみに、この本に出てくる「ものを見ること」について考え方というのは、いまや人文学では主流となっている。難しくいうと、「視覚表象論」とか「文化表象論」とか、そんなジャンルで確立している。で、わたしは本書の次に、『視覚論』(ハル・フォスター編/平凡社ライブラリー)を読んでみようと思っている。



2013/02/04

モノ作りは、行き当たりばったりでいい ― 『映画道楽』

映画道楽 (角川文庫)映画道楽 (角川文庫)
(2012/11/22)
鈴木 敏夫

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ジブリ映画が大好きなので、手にとった一冊。

ジブリプロデューサーで著者の鈴木敏夫が、ジブリ映画の魅力と苦労話、企画の裏側、若いころに影響された作品、現代アニメ論、プロデューサーとしての哲学、「そもそも創作とは何か?」などを存分に語っている。

この中で特に気になったのは、日本と西欧のモノづくりの違い(太字は私)。

海外の場合、例えば教会を作るとして最初は空から見た視点で全体の形を考えるんです。教会だったら、十字架ですね。その全体を考えてから、部分を作っていく。ところが、日本では江戸時代の武家屋敷がいい例なんだけど、全体の設計図はないんです。まず、一つの部屋から考え始める。床の間を最初に作るとします。すると、その床柱をどうするか。棚はどう付けるかといった部分的な装飾やデザインから始めるんですよ。それを作っているときには、全体のことなんて何も考えていない。(中略)つまり、海外が「全体から部分へ」だとしたら、日本は「部分から全体へ」であると加藤さんは言っているんですね。(p.221-222)

注:「加藤さん」・・・加藤周一(評論家)のこと。

こうした違いは、アニメ制作の現場でも見られると鈴木はいう。

たとえば、まずはひとり、キャラクターを作る。男か女か。どんな服を着せるか。髪型やその色はどうなっているかetc etc etc……。そういった細かい部分から、まずは考えるらしい。物語の構成や仕掛けなどはそっちのけで。

そして、キャラクターが決まると、ようやく本題の物語はどうするか、という話に入っていくそうだ。一方、西欧はまったく逆で、最初はストーリー作りから始めるという。

いやいや、こんな違いがあったなんて知らなかった。僕はてっきり、ストーリーから練っていって、それからキャラクターとか配色とか、そういった細部へと進めていくものだと思っていた(とはいっても、そういう場合もあるのだろうけれど)。

でもこうした日本の作り方、なんとなくだが、読んでいて「確かにこっちのほうが作りやすそうだし、楽しそうだなあ」と感じた。日本流の「部分から全体へ」方式のほうが、僕はピンと来るのだ。

というのも、アニメや建築ではないけれど、自分が文章を書くときも、この「部分から全体へ」といった感じだからである。

僕は文章を書くとき、「いまからコレとコレとコレについて書こう、それで最後はこんな感じで締めよう」などと考えていない。むしろ、「なんか書きたい気持ちはあるんだけれど、なにをどんなふうに書こうか?」ぐらいの状態で始まるのがほとんどだ。

本の感想だったら、「この本のココが面白かった。だからココを取り上げて書くか」といった感じで書き始める。決して、「こうして、ああして、こうやって、ああやって・・・」というふうには頭は回らないし、やっても僕なら失敗する。だから、書くときは行き当たりばったりで、ただただ指にまかせてキーボードを叩くだけ。

映画の感想ならもっとテキトーで、「ああ、この映画、最高だった。さて、どんな感想書こうか。イマイチ思いつかないけど、パソコンの前に座ればなんか思いつくか・・・」ぐらいの気持ちで書いている。

そういえば、大学時代の卒論もそんな感じで書いていた。

とりあえず、かなり漠然と「◯◯について書きたい」という気持ちはあったけど、だからといって、きちんと「まずはアウトラインをしっかり決めて、次に××について調べて、それから・・・」などとはやらなかった。第1章から、ではなく、だいたい第3章あたりから始まりそうなこととかをいきなり書き始めた。とにかく全体像とか章立てとか、そんな「こまけえこたあいいんだよ!!」といわんばかりの感じだったなあ。

こんな超個人的事例から、無理やり日本人全体へと一般化させてもらうと、なぜ日本人の間で「合理精神」とか「論理的思考」とか、そういった概念が歴史的に見て乏しかったのか納得できる

要するに、みんな「フラフラっとやる」「チマチマとやる」のが好きというか、得意というか、そういう国民性なのだと思う。昔から「形から入る」という言葉があるように。

他方、きちんと計画を立ててから行動に移す人がよくいる。

最近見た何冊かの自己啓発書(ビジネス書?)の中で、「キャリアプランはしっかり作るべき」みたいなページがけっこうあった。「1年後には◯◯の資格を取得し、5年後までには××へ留学して、10年後までには独立して・・・」といった感じだった。

すごいな、熱心だなと感じる。でも、僕には疲れそうだ。なんかこう、ガッチリと予定や目標を組んでしまうと、自分だったら息が詰まってしまうからだ。

その都度その都度、部分的に対処していくっていうやり方でもいいのではないか。僕はそう思っている。そういう「手法」じゃマズイ場合や、通用しない分野ももちろんあるけれど、少なくとも「人生」という分野は、そういうやり方でやっていってもいいのではないだろうか。「人生像」とか「ライフプラン」とかいう「全体」から考えるのではなく、とりあえず「今日は何しようか?」とか「1ヶ月はこんな感じになってたらいいな」ぐらいの、「部分」的な発想で

と、気づいたら最後はどうでもいい人生論になってしまった。これも「部分から全体へ」方式を取ってこその仕上がり、というものだろう。

とにかく、この本は面白かった。



2013/02/02

「ひきこもり」で何が悪い ― 『ひきこもれ』

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)
(2006/12/10)
吉本 隆明

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僕はひきこもりがちな人間だ。遊ぶとなると、たいてい選択肢は、家で本を読むか、DVDを見るか、ネットをするかの3つである。

そんな性分だから、タイトルに惹かれて本書を買ってしまった。世間は一般的に「ひきこもりは良くない」とか、「ひきこもりは社会不適合者だ」とか、そういった見方をする。が、吉本隆明はそうではない。

吉本によると、ひきこもることは、自分の中に「価値」をつくることだという。誰とも会わない。誰とも話さない。ただひたすら孤独になっているだけだが、そうすることで色々なことを、ひとりで黙々と考えるようになるのだという。

ひとりで黙々と考えるようになると、人とは違った価値観を持つようになる。人とは違った物の考え方をするようになる。それが、その人の「価値」になるのだと吉本は言う。

みんなといると、どうしてもその場の、目には見えない「みんなの論理」に従いがちだ。みんながそうするから自分もそうする。というか、せざるをえない。みんながそう思っているから自分もそう思う。というか、思わざるをえない。これでは、僕の思考が「みんな」の“奴隷”になってしまう。こういうのが僕は本当に嫌で、だから大学にいた時はほとんど毎日ひとりで過ごしていた。

そのせいで、さみしい思いもした。周囲を見渡せば、美人な彼女をつれて歩くカッコイイ男がいる。別の方向に目を向ければ、5~6人の男女が集まって楽しそうにワイワイと話をしている。しばしば、そういう光景を目にしてはヤキモチを焼いたりもした。時には、「俺は孤独なんじゃない。“孤高”なんだ」などと屁理屈めいたことを自分に言い聞かせることもした。

今の言葉で言えば、いわゆる「リア充」というヤツではなかったと思う。しかし、それは傍から見ての話だ。つまり、僕の「外面」が「リア充」には見えなかった、というだけである。しかし、嫉妬やさみしい気持ちになることもあったけれども、「内面」は「リア充」であったことは今でも自負している。

ひとりの時間、僕は図書館と本屋にしかいなかった。そういうところで「ひきこもり」をしていた。サークルには入っていなかったし、バイトもまじめにやっていなかった。

授業には出た。出ないと欠席で落とされるし、試験の連絡も入ってこないからだ。けれど、所詮、大学の授業なんて教師の「趣味」みたいなものだし、僕はまじめに聞くというより、テレビ番組を暇つぶしに見ているぐらいの「娯楽」にしか考えていなかった。だから、授業がなくなったら、とにかく本屋と図書館に足を運んだ。そこで、色々なことを感じたり、考えたりしていた。そういった形の「ひきこもり」をやっていた。

この本にすごくシンパシーを抱いた理由は、おそらくこうした経験が僕の中には多かったからだと思う。だから、畏れ多くも「僕と吉本は似ている点が多いな」とも思った。どちらも、内に引きこもりがちな性格は共通している。

それから、吉本はこの本の中で「物書きを始めたのは、ひきこもりがちな性分だったからだと思う」と書いている。引きこもっていて、社交的ではないから、人にうまく口で伝えられない。だから、物を書いてそれを人に読んでもらえばいい――そう思って、物書き屋になったのだという。

彼の場合、職業として物書きをやっていたわけで、そのところ僕は趣味として物を書いているから違うのだけれど、それでも「物を書く」という点は一緒だ。

僕は、よく物を書く人というのは、根本的に世の中や他人に対して、多少なりとも何らかの不満なり不快感なりといった、「欠如感」(何か満たされていない感覚)を抱いている人だと思っている。

かく言う僕もそうである。とにかく何か書いて、言いたいことを言う。そうやって憂さを晴らさないと気が済まない。僕は大学時代、文学部にいたが、文学者は気難しい人が多かった。その理由は、文学をする(=広い意味で、色々と物を書く)人は、そもそもこうした「欠如感」を抱きがちだからなんだと思う。

そういう点で、僕はやはり物を書くという行為は「格好悪い」と感じる。見た目が地味でパッとしないから、という外面的な理由もあるけれど、さっき言ったような「欠如感」を抱いているから、という内面的な理由からそう感じる。できれば書かない方がいい。しかし、書かずにいられない、そんな自分が嫌いじゃなかったりもする。

話がだいぶ逸れてしまったが、とにかくそうやって物を書いたり、図書館にいたり、本屋にいたり、という生活を大学生の時に送った。

ここから何を得たか。それはよくわからない。はっきりとわかるのはまだ先になってからかもしれない。ただ現時点で、漠然とした感覚からではあるが、あの頃そうした生活をしていたことが、就職活動の時だったり、悩みの切り抜け方としてだったり、また今はブログを書くことだったりに生きている(生きた)なあと感じる。

「だからなんだ」と言われればそれまでかもしれないが、少なくとも、ひとりでいることをあまり苦に感じなくなった。「他人に物を考えてもらう」のではなく、「自分で物を考える」ようになった。長い文章を気軽に書けるようになった。本を読むにせよ、映画を観るにせよ、またどうということもないテレビ番組を見るにせよ、そこに隠れている「構造」というか「仕組み」というか、そういったものを読み解いて、それを何かに応用したくなる、そんな人間になった。

こうしたことがすべて、僕の「価値」になったのだと思う。無論、失ったものも少なくない(そのぶん、女ウケが悪くなったとか、外見が格好良くなれなかったとか)。しかし、それはそれでよかったかもしれないと今は思っている。

ひきこもれるのなら、ずっとひきこもっていたい。僕は本当にそう思う。でも生きていくためには働かないといけない。だからとりあえず外に出るのだけれども、それでも最低限度でいいと思う。いつもいつもコミュニケーション上手で、社交的である必要はまったくないだろう。そんなことよりも、自分の中に「価値」を醸成することのほうがずっと大事なのだから。

2013/01/26

私は、本とDVDに「選ばれ」る ― 『選ぶ力』

選ぶ力 (文春新書 886)選ぶ力 (文春新書 886)
(2012/11/30)
五木 寛之

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近頃、五木寛之の健康観に関心がある。きっかけは、『養生の実技』を読んでだった。

おもしろい本だ。いま手持ちの本のオビには、「つよい心身(カラダ)が折れるのだ。」とある。五木によると、心や体は屈すること、萎えること、曲がることが大事なのだという。

嫌なことはイヤこととして捉えろ、無理にポジティブに捉えようとするな、それよりもグッタリして、ゲンナリして、またそこから徐々に起き上がればいい、ということだ。

本書も五木流の健康観や養生法が出てくる。しかし、基本的に前著と中身は同じ。それよりも、私にとっておもしろかったのは「本とDVDを選ぶ」の章だった(引用部分太字は私)。

そして現在では、DVDをみる時間が、ほぼ活字を読む時間に拮抗している。(中略)DVDといっても、最近は驚くほど幅がひろい。AVからドキュメント、専門的な学問の講義から宗教儀式まで、あらゆる分野の映像が揃っている。DVDをみることは、現代の読書であると思うようになった。(p.61-62)

最近になり、私もDVD(主に映画)をよく観るようになった。中でも社会派の映画が好きだが、今はなるべく色々なジャンルのものを観るようにしている。

ギャンブル映画やヤクザものなどもいい。自分の知らない世界や、裏社会がどういうものなのかを手頃に知ることができる。そういう疑似体験は大切なのだと、今は考えるようになった。

そういう意味で、五木の「DVDをみることは、現代の読書である」という意見は、ものすごくうなずける。本を読むのも、もちろんよい。だが、今はいまでDVDという便利な「本」がある。

それに、従来の本と違って「映像」があるのだから、インパクトは圧倒的にこちらの方が強い。頭に焼き付きやすい(=記憶しやすい)のは、確かだろう。

そして本章の最後に、こんな一節が来る。

私たちは、本にせよDVDにせよ、それを選ぶときに一定の基準などないのである。それはノウハウではなく、出会ったということなのだ。世の中、偶然や気まぐれして面白味があるだろうか。私たちは選んでいるようにみえて、じつは見えない何かに選ばれているのではあるまいか。(p.68)

本書のタイトル『選ぶ力』の「選ぶ」と結びつけた締めの文だ。

自分が何かを選んでいるようで、実は自分もそのものに「選ばれ」ている、か。確かにそうかもしれない。どんなものにせよ、人は自分の知的レベルに合ったものしか選べないのだと思う。

逆に、その選んだものから、「あなたは知的レベルはコレコレですよ」と言われている、という見方もできよう。そう考えると、知的レベルを上げたければ、いままで選ばなかった(選ぼうとしなかった)ものを選べばよい、ということになる。

とはいっても、それが結構難しい。

選ぶことは買うことが前提になっている。お金をかけるわけだから、失敗したくないという意識が働くのだ。DVDはレンタルすればいいとして、本となると高額だ。学術書や専門的な本は、2000円以上なんてザラである。

新書一冊も最近は(内容に見合わず)800円前後が相場である。少ない小遣いでやりくりしている人間にとって、なかなか痛い出費だ。

それでも、知的レベルを上げたければ、金を出すことは必要である。失敗は「授業料」だと思えばいいのだ。そうやって「選ぶ力」が段々とついてくるのだろう。

ところで、本書のタイトルは『選ぶ力』よりも、むしろ『選ぶ』だけの方が良かったのではないか。こっちの方が強烈だ。私だったら、すぐに手に取ってしまう。
2013/01/14

最高のストレス解消法 ― 『仕事日記をつけよう』

仕事日記をつけよう仕事日記をつけよう
(2012/04/04)
海保 博之

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日記の書き方についてだったら、本書を買っていなかった。では、どうして本書を買ったのかというと、日記を書くことの効用を認知心理学の観点から説いていたからだ。

著者の説明によると、心のなかにあるモヤモヤとした感情は、書くことで明瞭化されるのだという。感情を文字にするということは、感情を知性が扱えるようにしてやることだそうだ。それによって、自分自身を客観的に分析できるようになるという。

この効果は、ストレスの対処法に応用することができる。嫌なこと、腹の立つこと、納得のいかないことなど、自分にとってストレスとなっている出来事を書き記し、「なぜ」そう感じるのか、その原因は何なのかなども書いていくことで、そのストレスが発散されていくのだ。

実は私は、このことを以前からなんとなく経験的に知っていた。そこで、なぜそんなことが起きるのかという理由が本格的に知りたくなり、それで本書に行き着いたという次第である。この本以外にも類書がいくつかあったので(今では「筆記療法」なる一分野として確立されている)、どうやらここに書かれてあることは学術的な裏付けもあるようだ。

ブログとは別に、私も日記を書いている。Wordを使い、一ヶ月分書き溜めたらそれをPDF化して後で見返せるようにしている。

日記の良いところは、誰にも見られないから、どんなにひどい鬱憤や悪口を書いてもまったく大丈夫な点だ。いくらネガティブなことを書いても、誰からも文句を言われないし、ブログのように「炎上」することもない。当たり前と言えばその通りだが、この「当たり前」はかなり貴重である。

もし、こうした愚痴を実際の対人場面でこぼしたらどうなるだろうか。仮に相手が黙って聞いてくれても、内心ウンザリしているに違いない。自分の印象も悪くなるかもしれない。そう考えると、トラブルも起きず、何も「反論」されない日記という「秘密の告白の場」は、何かと人間関係に悩みがちな現代人にとって、最高のオアシスではないだろうか。

ところで、よく、日記というと「毎日書かなければ」といった強迫観念のようなものを抱いている人がいる。実は本書も毎日書くよう説いている。しかし、私は別にそんな必要はないと思う。不満を抱えている時、無性にイライラしている時、感動した時、何か書きとめておきたいことがある時など、そういう場合のみ書けば良いのではないだろうか。毎日毎日書くこと(書きたいこと)なんて、そんなにあるものではないだろう。疲れた時や忙しい時ならなおさらである。

最近は、ブログを日記にしている人も多いようだが、個人的にそれはオススメしない。「炎上」の恐れや、人の目を気にしてしまうがゆえに、本当に書きたいことが書けなくなってしまうからだ。なんでもかんでも人に見せればよい(あるいは、見てほしい)と考えるのも、どこか危険な感じがする。プライベートなことは、やはりプライベートな空間の内に留めておく方がよい。

色々と思うままに書いてきたが、とにかく日記を書くことはオススメだ。自分自身をよく見つめたい時、日記を書くことは自己反省の最高の場となるからである。
2012/12/26

「生の現実」をよく「観察」せよ ― 『方法序説』

方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫)
(1997/07/16)
デカルト

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ここ最近、私は社会科学(=社会や社会現象を「分析」する学問)というものに対し、不信感を抱いていた。どのような点においてかというと、その「もっともらしさ」にである。ある社会において、ある特別な事態や状況が生じた時、その原因が何に由来するものかを分析・調査するのが社会科学の仕事だが、その「分析」やら「調査」やらに、胡散臭さを感じていた。

「分析」だの「調査」だの言うけれど、実はどれも「言葉の持つ曖昧さ」を無自覚に「利用」をしているのであり、なんとなく「そうだ」と言えそうな言葉、つまりその現象を言い当てられそうな、「もっともらしい」言葉でもって、その社会現象を「説明」している(否、「したことにしている」)だけなんじゃないのか――こういった不信感である。

例えば、よく耳にする「日本人は集団主義だ」とか「日本人は“和”を重んじる」とかいった言説など、私には非常に怪しく見える。こういったことを最初に唱えたのは、『菊と刀』で有名なベネディクトらしいが、彼女は一度も来日したことがない。しかし今でも、この本は「日本(人)論」の代表的位置にあり、何かと話題になる。

つまり、こういった学問は、実はいかようにでも解釈できる事柄を、「もっともらしい」言葉でもって、「もっともらしい」説明をしているだけで、何一つ真実を言い当ててなどおらず、結局「印象批評」にとどまっているだけなのではないか――こうした不信感を、どうしても拭い去れないでいた。

そんな時、たまたまふと手にとったのが、この『方法序説』である。世間では、一応「哲学書」ということになっているらしいのだが、私には、デカルトの「“俺ならこう考える”論集」に思える。

それはともかく、なぜこの本に惹かれたのかというと、デカルトが非常に「実体験」を重視しているからだ。そして私が彼を見習いたい点は、こうした「実体験」を通しての、事物の「観察」を重んじているところである。本書の「第一部」でデカルトは、ただひたすら書斎にこもって「文字の学問」(主に文献をもとにした研究)に耽ってなどいたところで、所詮それは空疎な思弁であると言う。

そんなことをしているよりも、外に出て色々なものを見たり、人と交わったりすること(もちろん、ただ「する」のではなく、じっくりとその状態や状況を「観察」する、という意味合いで)の方が大事だと思うようになる。そして実際に、彼自身が見たものや、その時思ったことなどを、彼自身の中で「消化」していく。そうやってできたのが、この『方法序説』なのだ。

つまり、この本はデカルトが自身の「肉体」で書いたものなのである。「肉体」で書いた以上、書斎(研究室)にこもって本だのテレビだのネットだのの情報をもとに、社会(現象)を「分析」した本などより、よほど価値もあるだろう――読んでいて、そう思い始めた。

もちろん、だからといって、そうした本にいつも「正しいこと」「価値あること」が書かれているわけではない。また、先の「言葉の曖昧性」の問題も、「肉体」で書いたからといって解決するわけでもない。しかし、自らの体をその現象の中に投じ、そこからその現象を観察したのだから、信憑性や説得力は大いにあるのではないか。また、社会科学の本を読むにしても、このことがきちんとできているものを読むべきなのだと思う。

「生の現実」に忠実であれ。そしてそれをよく「観察」せよ――デカルトのこの本から学ぶべきことは、「我思う、故に我あり」ではなく、ただこの一点だと思う。
2012/12/08

日本人の思考回路の原点 ― 『日本語と日本語論』

日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)
(2007/09/10)
池上 嘉彦

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認知言語学の視点から、日本語と西洋の言語を比較・考察するというのが、この本の主旨である。

学術書とは言え、ちくま学芸文庫に収められた本だから、そんなに難しくはないだろうとは思っていたが、この予想は翻された。本書はかなり本格的な言語学の論考集である。

取り扱うテーマは、日本語における主語の省略について、「モノ」と「コト」と「トコロ」という捉え方、言語における「数」の概念(複数形)の有無について、などだ。

最も興味深かったのが、日本語における主語の「場所」化、という現象である。例えば、以下がその「場所」化された例文。

①天皇陛下ニオカセラレ(マシ)テハ、自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナリマシタ。
②東京ハ人ガ多イ。
③象ハ鼻ガ長イ。

①では、「天皇陛下」という主語が、「場所」になっている(=「オカセラレ」の部分が、「天皇陛下」を「場所」化している)。そしてその「場所」で、「自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナ」るという出来事が現れている(=出来している)。

②も同様。「東京ハ人ガ多イ」という文は、「東京ニオイテハ人ガ多イ」とも言い換えられる。しかし、われわれの普段の言い方では、「東京ハ人ガ多イ」の方が自然である。この文の場合、主語は「東京」だが、その主語自体が「場所」化されている、と捉えられる。

これを英語にした場合、

1、There are many people in Tokyo.

もしくは、

2、Tokyo has many people.

のいずれかになるが、1では主語はThereだし、2では主語はTokyoだが、動詞hasを見てわかるように、Tokyoが擬人化(=主体化、能動者化)されている。つまり、いずれの場合もTokyoは日本語の時とは違い、「場所」化されないのである。

③は分かりづらいがこれも、「象」という「領域」(=「場所」)において「鼻(=主語)ガ長イ(=述語)」という事象が起こる(=出来する)、と解釈できる。つまり、「象ニオイテハ鼻ガ長イ」という言い方が可能なのである。

日本語における主語の「場所」化という現象の奥には、古い日本語の「AハBナリ」が、もともとは「AハBニアリ」(すなわちA<B)だったこととも関係している、という池上氏の指摘は非常に興味深い。つまり、日本語の文は古くから「場所」という概念要素と関係があったのである。これは、英語のA is B(すなわちA=B)とは、厳密には違うことを意味する。

日本語における「場所」化という現象でさらに気になったのが、日英の辞書において、言葉の定義の仕方(というよりも見方)が異なる、という点だ。例えば「火葬場」(crematorium)という言葉は、日本語では「火葬をする“場所”」とされる。しかし、英語での定義では、“a building in which the bodies of dead people are burned at a funeral ceremony”なのだという。ここで注目すべきは、日本語では「場所」と捉えているのを、英語では“building”(建物)と捉えている点だ。つまり、一方はそれを「二次元平面」と見るのに対し、他方は「三次元体」(=立体)と見るのである。

詳細およびその他豊富な事例の紹介については本書に譲るが、こういった各々の事実を文化論的に捉え直すとするならば、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」と言えるかもしれない。池上氏は、これだけの事実から、そういった文化論・文明論に持っていくのは尚早だとしているが、私はこういった、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」という見方もアリなのではないかと思っている(ちなみに、岡本幸治という政治学者が同様のことを唱えている)。確かに、単純な二項対立のきらいはあるものの、これを更に抽象化させた、「主体性」(=「凸的」なもの)を重視する西洋、それを軽視、場合によっては敵視する「平面的・凹的」な日本という構図は、至る場面で見られる現象ではないだろうか(今の政治経済を見ていると、不幸なことに、つくづくそう感じてしまう)。

明治期の日本で、初代文部大臣を務めた森有礼が、日本人に日本語を捨てさせ、英語を学ばせようとする政策を唱えたことがあった。この意図は、今日で言うところのいわゆる「グローバル化」に対抗するため、ということだろう。結局、幸いにしてこの政策は実現しなかった。だがもしかしたら、森は、日本語の「平面的・凹的」性格を見抜いており、欧州列強の侵略にやられない「強い日本人」をつくるためには、「凸的」である(=「主体性」のある)英語を学ぶ、それによって「主体的」な日本人になるしか生き残る道はない、と密かに考えていたからではないか――本書を読んでいて、そんなことをふと考えてしまった。丸山眞男は戦後、日本人の「主体性」、そしてそこに宿る「責任」のなさを散々に批判したが(『日本の思想』『日本政治思想史研究』を参照)、おそらくこの「問題」を解決するためには、日本人が日本語という言語を捨てない限り、無理なのではないだろうか。

そう考えると、現在の日本における英語ブーム(TOEICだの英検だの英会話スクールだの)は、単なる「グローバル化」への対抗策以上のものを感じさせないでもない。「主体性」(=「凸的」であること)を手にするために、「無意識的に」われわれは「英語」という言語を学ぶ(学びたがっている)のではないか。そして同時に、ややもすれば、自分はマイノリティなのだ、傷ついた存在なのだ、それにより不幸なのだ、と思い込みたがる日本人の自虐性(世界の幸福度調査で、日本が他の先進諸国と比べ、圧倒的に低い数値を出している点など)は、日本語の「凹的」性格、それによって築かれる日本人の思考回路に起因するのであり、それを克服「したい」がためにも、われわれは「英語」を学ぶのではないか――

無論、以上の私の考えは、かなり飛躍的かつ過激であり、やや反日的でもある(しかし、何を言われようと、私は日本と日本語が大好きなのだが)。何ら、根拠となる事実は示せないし、今は単なる仮説、いやむしろ妄想・暴論に近いといってよい。しかし、日本語、ひいては日本語を母語とする日本人において、この「場所」という概念は切っても切れない関係にあることは、本書を読む限り、確かだと言える。この点について、西田幾多郎が哲学的思索を進める中、「場所」という概念に行き当たったという事実は非常に興味深い(岩波文庫『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』の『場所』を参照)。

最後に、池上氏の他の著作として、私は先日『「する」と「なる」の言語学』(大修館書店)という本を注文した。機会があれば、この本についてもブログで取り上げたいと思う。
2012/10/22

「私」と「私以外」について思索する ― 『自分を知るための哲学入門』

自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)自分を知るための哲学入門 (ちくま学芸文庫)
(1993/12)
竹田 青嗣

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哲学に興味を持ち、哲学関係の書籍を手当たりしだい紐解いていくと、おそらく人はこのような問いに突き当たるのではないか。すなわち「哲学とは何か」「哲学は何の役に立つのか」という問いに。思うに、こういう問いが出てきた時点で、すでに「哲学者」としての一歩を踏んだと言ってもいいはずだ。

著者の竹田は、先の問いについて、以下のように答えている。

1、(哲学とは)ものごとを自分で考える技術である。

2、(哲学は)困ったとき、苦しいときに役に立つ。

3、(哲学とは)世界の何であるかを理解する方法ではなく自分が何であるかを了解する技術である。(p8-9)

まず、1と3について。
「哲学」をこれほどまでに単純化されると、「なんだ、哲学って、思っていたよりもカンタンそうだな」という誤解が生まれてしまいそうと私は思っているが、しかしこの「答え」は、間違っていない。確かに哲学には、「自分で考える技術」という側面もあるし「自分が何であるかを了解する技術」という側面もある。

だが私は、この「答え」に対し大いに賛成はしたいものの、まだ「物足りなさ」を感じる。何が「足りない」かというと、「哲学とは、それを“する”者に必ず困難さが伴う」という事実である。

 その「困難さ」とは何か。1の繰り返しになるが、それは「自分で考える」という困難さである。だから、1を書きなおすと「(哲学とは)ものごとを自分で考える技術であり、そこには必ず困難さが伴うものである」ということになろう。
 
どういうことか。哲学書を読むことは、何かについて「自分で考える」ことではない。ショーペンハウアーも言うように、それは「哲学者」という他人に何かを考えて「もらう」ことだ。その哲学書が難読であり、そこに書かれてある言葉の意味を理解しようとすれば、確かに「困難さ」は伴うが、それは「理解する」という困難さであって、「自分で考える」という困難さではない。

哲学書とは、それを書いた哲学者の、「“私は”世の中をこのように見る」「“私は”世の中をこのように理解する」「だから“私は”世の中をこのように生きる」という「告白書」である。そこにあるのは常に、「私」についての思索と、「私」と「世の中」はどのようにつながっているのかという思索である。この2つが書かれてあるから、その本は「哲学」書なのであり、彼は「哲学」者なのである。繰り返すが、彼はその本を通して①「ものごとを自分で考え」ており、②「世界の何であるかを理解する方法」には主眼を置かず、③「自分が何であるかを了解」しているからである。

つまり、「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を考えることが哲学なのだ。カントでもない、ヘーゲルでもない、デカルトでもニーチェでも、彼でも彼女でもない「私」自身が、「私」と「世の中」について考えるのが哲学である。

そして当たり前だが、誰も「私」になってくれて「私」の代わりには考えてくれない。カントもニーチェも、彼ら自身のことと、彼ら自身と「世の中」とのつながりについては考えたけれども、「私」と、「私」と「世の中」とのつながりについては「考えていない」。つまり、それを考えるのは「私」が「初めて」なのである。「私」の代わりとして誰も考えて「くれなかった」ことを、「私」自身が考え「なくてはならない」から、困難なのである(とは言っても、先達の叡智を借りる必要は当然出てくる。いわば、「ものごとを自分で考える技術」を頭の中に「仕入れる」といった行動が必要である)。
 
それゆえ、竹田も言うように、日本には哲「学者」(=他人の考えたことを研究する人たち)は多いが、「哲学」者(=「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を考える人たち)は少ない、という指摘はかなり的を射ていると思う。
 
さて、ここまで書くと、私としては「では哲学と科学はどう違うのか」という疑問が出てくる。これはもう、全然違う、としか言いようがない。すなわち、哲学は「私」がまず中心にあり、そこから「周り」をどのように「見るか」が問題になってくるが、科学は「みんな」が中心にあり、そこから「周り」をどのように「見たら正しいか」が問題になるのだ。つまり、哲学は個別的(「主観的」ではない。「主観的」という言葉は、どこか独善的な語感が伴うからだ。哲学は「個別的」ではあっても、場合によっては他人もそのように「見る」「見える」こともあり、つまり「一般化」できる可能性がある)だが、科学は客観的だという違いである。

だから、「哲学なんて客観的じゃない。だから信憑性なんてないんだ」という批判は、ある意味では正しいが、ある意味では的外れである。客観的でない(場合もある)ことは確かだろうが、そもそも「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」という問いに対し「私」自身が答えようとするのだから、そこに「信憑性」がないのは当然である。こういった批判はナンセンスなものとして、むしろ退けたほうが無難だろう。
 
最後に、2について。
私はあまり、何かが「役に立つか、立たないか」という問いを考えるのが好きではない。というのも、「役に立つ」とか「役に立たない」というのは、所詮それをしてみた上での結果論であり、「事前に」わかるものではない、と考えるからだ。もちろん、何かが役に「立ちそう」とか「立たなそう」といった、「予想」は可能だろう。だが、それはどこまでいっても「予想」なのであり、「結果」ではない。それから、「結果」とは言っても、何かを始めてからどの時点までの状況を「結果」とするかで、その結果の「中身」は、当然のごとく違ってくる。例えば、30歳まではそれが役に立たなかったと、とりあえず結論を下しても、それは「30歳という時点においての結果論」であり、もしかしたら40歳の時点では役に立っていたという結果も十分に考えられる。

こういうことを考慮すると、特に何か学問をやる時、それが「要か不要か」を論じるのは、きわめて不毛であると言わざるをえない。しかし、それでも「あえて」この論争に参加するならば、私も竹田の意見に賛成である。彼は、単に「(哲学は)困ったとき、苦しいときに役に立つ」と書いているだけで、何にどのように「困っ」て「苦しい」ときに、哲学が何にどのように「役に立つ」のかは書いていないから、この文だけ読んでも判然としないが、自分の生き方についてや、他者との関わりについてなどを「私」自身で考え(または先人に考えて「もら」い)、それを実践してみるということであれば、確かに「役に立つ」と言える。

と、いつものごとく長々と書いたが、私も、哲学をすることは自分のためになると信じている。自然科学は、自然や宇宙といった、自分の「外」にある対象が何でありどうなっているかを究明することはできるが、「私とは何であり、私にとって世の中とは何か」を明かすことはできない。こればかりは「自分で」「自分の」答えを出す以外に仕方がない。そのための「技術」が哲学なのだから。
2012/10/11

嗚呼、我が青春の新書たちよ! ― 『新書百冊』

新書百冊 (新潮新書)新書百冊 (新潮新書)
(2003/04/10)
坪内 祐三

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ブックガイドは(恥ずかしながら、そして少々自己嫌悪感を抱きつつも)好んでしまうタチだが、「ブックガイド的エッセイ」は、ほとんど目にしない。いや、単にそういう類の本をほとんど知らないだけかもしれない。

だいたいの場合において、「ブックガイド的エッセイ」は、その中身が小説の紹介で占められているような気がする。私は小説をあまり読まない。だから自ずとそのようなエッセイは手にしないのだと思う。

「ブックガイド的エッセイ」が以上のような「現状」にある中、本書はおそらく、きわめて異例である。「新書」というくくりを設けた「ブックガイド的エッセイ」は、この本が初かもしれない。しかも嬉しいことに、中身はことごとく「文学部的な本」(文学的な本ではない!)の紹介なのである。著者(坪内祐三)の読書遍歴付きで。

まず気になった1つめは、丸山真男の『日本の思想』が取り上げられていた点だ。坪内は当時、大学受験予備校の代々木ゼミナールに通っていたらしく、受験勉強の一環としてこの本を読んだという(とは言っても、本書でわざわざこの本を取り上げたということは、どこか「受験勉強の一環」以上の何かが、彼の中にあったのではないか、と私は思っている)。ちなみに、当時の代々木ライブラリー(代ゼミに併設された書店)では、平台にこの本が高く積まれていたそうだ。

時代は変わったのだなあと感じる。今の高校生が受験勉強にといって、『日本の思想』を読むとはどうも考えがたい。聞いた話によると、『日本の思想』の第Ⅳ章「「である」ことと「する」こと」は、高校の国語教科書にも採用されているらしいのだが、確かにこの章も面白いとはいえ、やはり最大の魅力は第Ⅰ章「日本の思想」である。(坪内いわく、たいていの人はこの本のことを、第Ⅲ章「思想のあり方について」と第Ⅳ章で語ってしまうのだという。残念なことに。)丸山本人も言っている通り、第Ⅰ章はそこそこ難解ではあるのだが、日本における「思想的座標軸の欠如」や「無責任の体系」といった彼の指摘は、3.11後の日本を見ていても、まったく間違っていない。出版されてから半世紀経っても色褪せることのないこの言及こそが、本書を名著たらしめているのだと思う。

それから、この本とともに坪内が語っていた岩波新書として、大塚久雄の『社会科学の方法』が載っていた。この書は「自然科学と同様の研究方法が、社会科学においても成り立つのか?」という疑問から講演形式で話が進んでいく(第Ⅰ章)のだが、これから社会科学をやろうとする学生にとっては、今でも必読書とされている。ちなみに、宮崎哲弥によると、『日本の思想』『社会科学の方法』と合わせて、川島武宜の『日本人の法意識』(岩波新書)は、当時(といっても宮崎が学生だった80年代)の大学生にとって、読んでいなければ「市民」と見なされなかった新書3冊だったという(宮崎哲弥『新書365冊』)。個人的に『日本人の法意識』は、先の2冊と比較すれば読みやすい部類に入るとは思う。もちろん、この本も文句なく面白かった。

次に気になった2つめは、渡部昇一の『知的生活の方法』が取り上げられていた点である。この本はもう、読書好きは一生に一度は目を通すものではないかと思う。ただ私の場合、坪内と違って「幸いにも」読むのが遅かった。彼は高校時代に読んだそうだが、私は大学時代にである。今の時代、高校生の時から変に教養主義に目覚めてしまうと、大学受験に失敗する確率は、うんと高くなってしまう(笑)。現に、坪内はその時分に(竹内洋の言葉を借りれば)「プチ教養主義」に燃えてしまったらしく、受験に失敗している。そう、あの本は読書好きをさらに読書好きへ、さらに「重症」の場合は教養主義へと追いやり、それを延々とこじらせてしまう謎の魔力が秘められているのだ。

気になった3つめは、中野好夫の『アラビアのロレンス』に高評価が下されていた一方、宮沢俊義の『憲法講話』には低評価が下されていた点。どちらも私は読んだ(通読はしていない)が、はっきり言って前者はタイクツで仕方がなかった。T・E・ロレンスの本は山ほどあるが(ちなみに、ロレンスは日本の女たちにかなり支持されているようだ。同様の感を牟田口義郎が『アラビアのロレンスを求めて』(中公新書)に書いている)、彼を知りたければ神坂智子のマンガ『T・E・ロレンス』全4巻がオススメである。読んでいて、彼が男色だったことにはかなりショックを受けたが。

他方、『憲法講話』は憲法に関するエッセイとして読み応えがあって面白かった。『日本人の法意識』と合わせて早くから読んでいたら、法学部に進んでいたかもしれない。そう感じさせてくれる本だ。ちなみにこの本は2006年を以って絶版になったらしい。岩波のアンコール復刊キャンペーンで、再度登場することを願う。

それから、個人的に是非取り上げて欲しかった本の1つとして、鯖田豊之の『肉食の思想』(1966)がある(現在、なぜか中公新書と中公文庫にそれぞれ版があるのだが)。彼は、西洋史の専門家ならまず知らない人はいないであろう、というくらいの西洋史学の大家だ。「パンは主食ではない」とか「動物を殺す動物愛護運動」といった小見出しからして、すでに面白いのだが、「身近な食べ物」という切り口からヨーロッパの精神とは何かを「再解剖」していく過程が非常に刺激的なのだ。

さて、こうして本書を眺めてみると、「やっぱりなあ」という感じが「やっぱり」してしまう。そう、読書の仕方が「文学部的」なのだ。ここでいう「文学部的」とは簡単に言うと、先に述べた「プチ教養主義的」(≒ただただ知的好奇心を満たすような)という意味である。つまり、就職の時に役立つから読むとか、試験勉強のために、といった初めに目的ありきの読書ではなく、中島義道(『人生に生きる価値はない』)に言わせるならば、「知的遺産を渉猟するのが面白くてたまらず、そこに何の見返りも求めない」読書なのだ(無論、坪内の読書がすべてこのタイプなわけではないが)。こういった本の読み方に、私は「文学部」の匂いを、どうしても感じ取らずにはいられない(文学部出身者なら、きっと共感してもらえることだろう)。

最後に、坪内のこの一節にグッと来てしまった。少々長いが、引用する。

その帰りの電車で、私は、こんなことを考えた。もし私が大学を出たあとサラリーマンになったとしても(中略)、毎月新書本の新刊を三冊ずつ買って読もう。三冊買っても千円おつりがくるし、毎月コンスタントにそういう読書を続けたら、それだけでもかなりの知識が身につくだろう。ただのつまらないサラリーマンにはならないだろう。
そんな子供じみたことを考えると、それだけで私は時分の将来に対して少し豊かな展望が広がるのだった。とても安上がりな展望。しかしあの頃の新書版(それは岩波新書だけに限らず、中公新書にだって、講談社現代新書にだって)にはそういう一つの「小さな学校」のような輝きがあったのだ。(p40)

読書に対する、ささやかな希望である。本当に、本当に、ささやかな希望である。しかし、そのささやかな希望が生きる上で、どれほど心の支えになることか。新書とは言えども、こういった読書によって築き上げていく精神的支柱は、特に若い時、何を差し置いても絶対に必要なものだと私は信じて疑わない。無論、「ただのつまらないサラリーマン」にならないためにも必須だ。そういった、少しばかりの小さな希望が当時の新書には向けられていたのだと思う一方、果たして現在の新書にも同様の想いが向けられるかと言うと、正直なところ私には無理である。こういった慨嘆を、「単なる懐古趣味だ」と叩くのはたやすかろう。だが仮にその意見が的を射ているとしても、「小さな学校」の以前の輝きを求めようとする前では、そんな批判など鼻糞程度のものにしか過ぎない。そのくらい私は(坪内と同じく)新書が好きなのである。
2012/09/09

お金と幸せについて ― 『昭和のエートス』

昭和のエートス (文春文庫)昭和のエートス (文春文庫)
(2012/08/03)
内田 樹

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人がお金を払って何かを買おうとする動機は、大別すると2つある。1つは、それが生きていく上で(どうしても)必要なものである時。もう1つは、それを買うことで誰か(多くの場合、自分自身)が「快」になれる時だ。私が本という品物を買うのは、おおよそ後者という目的があるからである。

しかし、「内田樹のエッセイ」となると、話は変わる。人生、仕事、生と死、教育、幸福・・・ありとあらゆるジャンルについて、内田は語り尽くす。私にとって、彼の本を買うというのは、後者のみならず、前者という目的もあるのだ。そのくらい、今の(若い)自分には、彼の影響力の強さを感じている。

本書も例外ではない。例のごとく内容は多岐に渡るが、その中から「お金と幸せ」の章について紹介してみる。内田の「お金と幸せ」に対するスタンスは、以下のようだ。


1、金で幸せを買うことはできない。しかし、金で不幸を追い払うことはできる。

2、「お金と幸せ」について考え続ける限り、そこから何らかのベネフィットを手にすることはできない。もしそれを手にしたければ、「お金と幸せ」について、できるだけ考えないようにすること。



1について、後半は私も同感である。例えば、早朝の満員電車に乗りたくない時、金を払ってグリーン車などに乗り込めば、「押し合いへし合いという不幸」を追い払う(回避する)ことが可能である。さらに嬉しいことに、ゆったりと読書もできるという「特典」付きで。

ところで、前半はどうだろうか。もう少しばかり、幸せの種類を分けて、「持続性のある幸せ」と「その場限りの幸せ」の2つにしてみた場合、「持続性のある幸せ」については確かに金では買えないと思う。一方、金で買えるのは「その場限りの幸せ」である。

「その場限りの幸せ」とは、具体的な例を挙げれば、「おいしい食べ物を食べること」などである。確かにその時は一時的に嬉しい・楽しい気分にはなる。が、食べ終えればその時の感情は一気に消え去る。文字通り、幸せは「その場限り」である。

他方、「持続性のある幸せ」についてだが、これは「自分で作る」ことによって初めて生まれるものだ。まず、「作った」という達成感が幸せに変じる。また、作ったものをしばらくの間「観賞する」という幸せもある。そして、それを改変したり、そこから刺激されて新たなもの作ったりして楽しむという幸せだって存在する。つまり、幸せが次元の異なる幸せと繋がっているのだ。だから、幸せに「持続性」があるのである。私の場合、ブログはもちろん、個人的に書いている日記もこれに該当している。文章を書くとは、文章を「作る」ということであり、その楽しさというのは、以上に記した通りなのだ(これは自分で自分を観察してみて思うことである)。

そして、作るものは別に具体的事物でなくてもよい。抽象的なもの、例えば「人脈」「友情」などについても同じことが言えるだろう。

しかし、幸せを得るためには「初期投資」として、いくらかの金が必要な場合も少なくない(例えばブログをやる場合、「パソコンを買う」という「初期投資」が必要である)。そういう意味で、厳密には金を要していることにはなる(しかし、莫大な量の金は必要ない)。

さて、1について、あれこれと色々考えてみたが、2はどうか。これもやはり同感である。逆説的に聞こえるが、幸せとは「自分が幸せであると意識して“いない”時」に初めて得られるものだ。なぜかというと、幸せな時は、自分を幸せにさせてくれる対象に夢中だからである。そして、普段我々が口にする幸せとは、事後の「思い出す」という動作によって感じる、「仮」のものである。

また、経験則からして「幸せとは何か」について考えている時というのは、たいていの場合、幸せでない時だと言える。言い換えれば、こういったことを考えるようになったら、「私は今、不幸です」という証しだ。

ということは論理的に考えると、今こんな文章を書いている私も「不幸」ということか(笑)。
2012/09/05

「専門家」は、神様ではない ― 『「心の専門家」はいらない』

「心の専門家」はいらない (新書y)「心の専門家」はいらない (新書y)
(2002/03)
小沢 牧子

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ここ最近の新書に興味の持てるものがなかったので、中古本を漁っていたところ、本書を見つけた。

「心の専門家」(カウンセラー、セラピストなど)は、いらない――これはタイトルにもなっているが、まず、この主張に意表をつかれる。ずっと昔から、こういった職業に就いている人たちに対して、何らの疑問も抱いたことがなかったからだ。相談者の悩みに耳を傾け、真摯に相手に寄り添う――「心」を扱う仕事とは、そういった「なくてはならない存在」だと思っていた。

ところが、その印象は本書を読んで打ち砕かれた。完全に、とまではいかないが、少なくとも「心の専門家」と呼ばれる人たちに対する見方は大いに変わった。

「心の専門家」たちは、心理テストや問診などを通じて、相談者と触れ合う。しかし現実は、両者の「勘違い」の連続であると著者は喝破する。

例えば、相談者は自分の悩みを聞いてもらうことで、「専門家」に対し「親しさ」を感じるようになるが、「専門家」は親友でも恋人でも親でもなく、あくまでも「金銭的に作られた人間関係」である、という事実をしばしば忘却してしまう。「専門家」が親しく接してくれるのは、相談者が「クライエント」だからであり、報酬を払ってくれるからである。

誰かに、自分の中にある不安を打ち明けたいものの、それができない人が多い昨今において、このような「金を払わない限り、自分の腹の底を他人に見せることができない」という好ましからざる状況を、「心の専門家」自身が微塵も意識せずに作り上げてしまっているという現実は、果たして容認されて良いものなのか――筆者は、自身の過去も踏まえながら、読者に(特に「専門家」たちに)そう問いかける。

また、「心のケア」にも疑問を呈す。学校などの教育機関において、「心の専門家」たちは、心理的に不安定な児童を精神の面から支えるという仕事をしている。それを見聞きした親たちは、我が子の安全がしっかり守られていると思って、安心し切っている。だがそういった「支える」という行為は、本来、親のやるべきことではないのか。「専門家」が、その職業的アイデンティティから、そういった業務に励むことは、逆に親子の触れ合いや対話という大切な営みを阻害し、奪取することになりはしないか。著者は、こういった事例をひとつひとつ挙げながら、「専門家」たちによる「善行」の見えざる陥穽を炙り出していく。

私としては、特に後者に共感できた。昔、学習塾の講師をしていた時、同じようなことを感じたからである。そこでは、授業を終えた後、子どもの迎えに来た保護者に対し、その都度今日は何をして、どうだったのかということを逐一報告するよう、上から指示されていた。何か特別な面談でもないというのに、なぜ講師が一々そんなことをしなければならないのか。今日やったことなど親が子どもから直接聞き出せば良いではないか。また、それを講師がやってしまうというのは、親と子の対話をひとつ奪うことにもなりはしないか――そういう疑問が私の中には強くあった。本来、親自らが関心を持つべきこと、そして実践しなければならないことを、こちら側が「サービス」としてやるという「善行」は、長い目で見た時、誰のためにもならないと私は感じていた。一方、親は親で、調べれば分かるようなことも調べようとはせず、ほとんど全てを「専門家」に任せてしまい、受験勉強ならともかく普段の子ども勉強についてさえも「そういう難しいこと、私にはよく分からないから…」「ダメダメ。そういう小難しい話、苦手なの」という態度・有様だった。

「専門家」に頼るのはいけない、ということではない。要は、過度に頼りすぎているのが問題なのである。特に、目には見えない精神的なもの(心や知的なもの)を扱う(仕事にしている)人たちに対しては、彼らを頼りすぎる傾向が強いと思う。また「専門家」たちも、どこまでなら相談者に「頼られて」よいか、どこからは相談者を「突き放す」べきか、という線引きを予めしておく必要があるのではないか。とは言っても、それらが容易にできることでないのは重々承知だが。
2012/08/06

「あなた」の「軸」を持つために ― 『日本の思想』

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
(1961/11/20)
丸山 真男、丸山 眞男 他

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本書は、岩波新書を代表する著作のひとつだ。だが有名なのにもかかわらず、今ではほとんど読まれていない。近頃の新書とは違い、かなり骨太な作品であることがその理由の一つであろう。

丸山はその頭脳明晰さゆえにか、非常に叩かれたインテリだった。本書の出版当時(1961年)も例外ではない。特にその「最盛期」は、全共闘時代だったのではないだろうか。

だが、半世紀経った今なお読んでみても、この本は日本の精神的な「カラクリ」を見事に解明していると私は思っている。以下は、本書第一章「日本の思想」のごく簡単な要約である。


1、歴史的に見て「思想的座標軸」がない

字義通り。日本には、欧米におけるキリスト教のような、「座軸」としての思想がない。「仏教や儒教などは“座軸”と言えるのではないか?」――残念ながらそうは言えない。卑近な例だが、日本におけるクリスマスと初詣の2つの行事が同一の人たちによって支持されているのを見れば一目瞭然である。また、神棚と仏壇が同じ家の同じ居間にあることもその証左である。つまり、思想の歴史的一貫性が、我が国にはないのである。


2、「伝統」思想と「外来」思想が「雑居」している

「雑種」ではない。「雑居」である。つまり、思想と思想とが融け合っていないということだ。日本における思想の有り様は、同一平面上にいくつもの思想が「並ぶ」だけで、それらが融合することがない。そのため、海外から新しい思想がやって来ても、思想の「ストック」から過去の類似した思想と照合させてしまい、「ああ、この思想、そう言えば昔あった〇〇と似てるな」程度の感覚で扱ってしまうのである。そこに、思想を「歴史的変遷による代物」として見る姿勢は皆無である。


3、「理論信仰」と「実感信仰」の蔓延

「理論信仰」とは、理論「そのもの」をありがたがること。本来理論というのは、個々の具体的な状況を集めて、それらを分析し、類似点を探して・・・という流れを経て初めて出来上がっていくものである。つまり理論とは、「抽象化」による産物である。しかし、日本人にはこの「抽象化」をするというプロセスが欠けており、「既成品」としての「理論そのもの」を「信仰」してしまう悪いクセがある。結果、時を経ればその「既成品」はより新しい「既成品」へと取って代わられ、「価値が下落する」(見向きされなくなる)事態が起きてしまう。

「抽象化」が欠ければ、必然的に「実感信仰」になりやすい。「実感信仰」とは、感覚的なもの・感情的なものを吉とし、観念的なもの・抽象的なものを退ける(あるいは嫌悪する)有り様を指す。ここで、丸山が具体例として挙げているのは、日本語の特徴だ。明治以前の日本語(主にヤマト言葉)には、抽象的な概念や観念を表現する言葉が貧弱である。一方、感覚や感情を表す言葉は非常に富んでいると言う。こういった「実感」を重視して「抽象(化)」を軽視する態度が、日本における科学的思考や合理性といったものを育ちにくくさせたのではないかと彼は考察する。


丸山が扱おうとしているのは、「個人」ではなく「国家」という大きな単位だ。ただ漫然と本書を読むだけであれば、「抽象的かつ難解な本」という印象しか持てないかもしれない。しかし、「個人」のレベルにまで、身近なレベルにまで視点を落としながら読めば、たいへん面白い論考ではないかと思う。

例えば、「思想的座標軸」がない(もしくは希薄だ)と個人的に感じさせられることとして、昨今やたらと新聞広告などで目にする「生きるとはこんなにも素晴らしいものだ」系の本や、「人はどんな状況であっても一生懸命努力すれば報われる」系の本の好調な売れ行きである(あえて固有名は出さない)。これらの本は、巷では一応「自己啓発書」に分類されるのだろうが、広い意味においては「思想書」とも見てとれる。だがそういった「思想書」は数年経てば、「そう言えばそんな本もあったね」ぐらいの、「思い出」に格落ちするのが常ではないか。決して個人にとっての「座標軸」たる「思想」にはなり得ない(仮にそうなるにしても、その確率は圧倒的に低い)。つまり大抵の場合、こういった本は苦しくなった時のための「一時しのぎ」というわけである。

今年(2012年)の3月に亡くなった詩人・思想家の吉本隆明は言う。

しかし戦後の、すべてがでんぐり返ってしまって途方にくれたあの実感は消えない。しかし、そこでぼくは思ったのです。そのときどきの社会を、総体として自分なりに捉えていないと、とんでもない不意打ちを食らうことがあるぞ、と。戦後、変わったのはそこです。(吉本隆明『ひきこもれ』p144)

吉本の言いたいことはつまり、自分自身の「思想的座標軸」でもって世の中を捉えろ、ということだ。言い換えれば、「わたし」はどう見るのか、「わたし」はどう思うのか、「わたし」はどう感じるのか、それを常に意識せよ、である。

一時的にヒットしている「思想書」は、あくまでも「一時的」である。それは「あなた」が徹底的に感じて、考え抜いて、その結果として出来上がった「思想」(「わたし」の視座)ではない。「肉」にはなり得ても、「骨」にはならない代物である。

「自己啓発書として扱われているのに、そんな“骨”なんてものまで求めるのは大袈裟だ」と思われるかもしれない。しかし、こういった「自己啓発書」が出版不況などと言わる時代に、何万部、何十万部も売れるという現象が起きているのは、やはりどこかに皆が「軸」(=自分なりの頑強な視軸)を持ちたいという心理があるからではないか。だとしたら、「骨」となりえる本を読むべきなのだと思う。

では、どんな本が「骨」となりえるか。漠然とした表現だが、それは「難解な論考書」である(必ずしも古典である必要はないが、こういった本はやはり昔のものに多い)。最低でも2度3度は読まなければ意味のつかめない本、それがいいと思う。

逆に、簡単に読めてしまう本は「ありがたみ」が非常に薄くなる。分かりやすい分、「分かった気」になりやすい。最近は「分りやすさ」が書籍においては、何よりも重視されているようだが、これは(出版社にとっても、買い手にとっても)かなりの弊害になる恐れがある。理由は「なんか簡単なことしか書いてなさそうだから、わざわざ買わなくてもいいや」という気になりやすいからだ。「深み」のある本は、確かに時としてその難解さ漂う雰囲気ゆえに人を遠ざけてしまう面もあるが、「深み」がない限り、人はそれをバカにする傾向がある。深く考えようとしなくなる。そういう本は危険だし、なんせ「後に残らない」ことがほとんどである。だから、どうしても重厚な本を読むことが「軸」を作るためには必要である。

とはいうものの、かく言う私もまだまだ「軸」に不備がある。いや、この不備は一生かけても直せるものではないかもしれない。それでも、哲学書を読み、思想書を読み、学術書を読むことだけは絶対に怠りたくない。「本を読んでいれば万事安全かつ健全だ」なんて、これっぽっちも思いたくもないが、どうしたって「軸」の形成には読書が不可欠なのだ。
2012/07/20

「科学的」であることは、それほどまでに大切なのか ― 『「知」の欺瞞』

「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用 (岩波現代文庫)
(2012/02/17)
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 他

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人文学をやる上での必読書と言えよう。

本書は、ある“事件”がきっかけで出版されたものだ。それは、本書著者の一人で、アメリカの物理学者であるアラン・ソーカルの起こした「ソーカル事件」(1994年)である。ソーカルは、フランスを中心とする人文学界で、やたらと持て囃されている非常に難解な哲学や現代思想に、以前から懐疑的だった。そこで、人文学者や社会学者たちが本当にそのような類の難物を理解しているのか“テスト”するため、彼は自分で擬似哲学論文を作り、専門の学術雑誌に投稿したのである。この論文では、自然科学の世界で用いられている特殊用語が意味もなく多用されており、また論旨そのものにも全く意味がなかった。

もしも彼ら人文学者たちがきちんと査読しているのなら、この論文は雑誌に掲載されないはずである――ソーカルはそのように考えた。ところが彼の意に反し、論文は雑誌に載って“しまった”のだ。この直後、彼はすぐにこの文章がエセ論文であることを発表、同時に人文学界の杜撰さを鋭く指摘し、名だたる「思想家」たち――ラカン、ボードリヤール、ドゥルーズなど――の使用する数学や科学知識などが、いかにお粗末なものかを暴いてみせた。本書でソーカルは、彼ら「思想家」の書いた実際のテクストを例に出しながら、その言葉遣いや学問的姿勢の不適切さをこれでもかというぐらい、徹底的に批判している。

この本が出版された後、日本でもその影響が(主に学界で)現れたようである。「現代思想はインチキである」「◯◯の言っていたことは意味がなかった」「そもそも人文学や社会科学は学問としての形をなしていない」――しかし、人文学というものが大好きな私にとって、こういった主張はどうも聞き捨てならない。そもそもソーカルが言いたかったことは、「人文学や社会科学は、意味のない無駄な学問である」ということではない。むしろ、彼はそういった学問の必要性を主張している。当初はこの点がよく誤解されていたらしく、本書でも強調されている。

その学問的性質上、人文学は自然科学のように「万人が認める客観的事実や仕組み」をひたすら追い求めるものではない(社会科学については詳しくないので、以下、人文学に限っての話をする)。もちろん、そういった姿勢が全くないというわけではないが、「その意見が“もっともそう”であるかどうか」という「説得力」こそが、どうしてもモノを言う学問なのだ。極端な話、一個人が“勝手に”組み立てた理論であっても、そこに「説得力」があれば、それは思想として、哲学として、また人文学として成り立つのである(「説得力」を持たせるためには、論理の整合性や客観的事実を証拠とすることも当然必要であるが、それは自然科学ほど厳密には要求されない)。ちなみに、私が先ほどから人文学を「人文科学」と呼ばないのは、そもそも人文学が「科学」ではない(と思っている)からである。

ところが最近の、いわゆる「科学的思考」とやらを過度に重んじる風潮のせいか、「科学的でなければ取るに足らない」といった考え方が至る所に蔓延しているように思える。そういった「人文学的な知」「人文学的なあり方」、時には人文学そのものが、やたらと軽視(ひどければ蔑視)されている気がしてならない。それは「個人が個人として真実に辿り着こうとするのは、所詮“科学的”ではないのだから、そんなことに目を向けてもしょうがないのではないか」といった発想なのだろう。もっと言えば「科学的」であることこそが最上なのであり、そうでない人文学は役に立たないといった捉え方である。

おそらく、本書で批判された「思想家」たちもこの点に強く悩まされたのではないか、と私は思っている。だから数式を多用したり科学用語をふんだんに使ったりして、哲学や思想を「科学的」たるものにしようとしたのかもしれない。仮にそうだとすれば、こういった態度は人文学の自然科学に対する劣等感の表れとしか言いようがない。

私は、学問の間に優劣があるとはこれっぽっちも思っていない。ある分野では「自然科学的なあり方」が必要であろうし、別の分野では「人文学的なあり方」が必要な場合もある。例えば「人生」や「生き方」について考える時には、まさに「人文学的なあり方」がモノを言うのではないだろうか。なぜならそこに、万人にとって通ずる「方程式」(◯◯をすると□□になる、といった考え方)や「科学」など存在しないからであり、「人生」や「生き方」というのは、その性質上、どうしても“個人”が“個人として”解決しなければならないものだからである。

余談だが、最近出版される書籍を見ていて感じるのは、「成功本」や「◯◯をするとうまくいく本」などによって、仕事や生き方や人間関係を「因果論」(別の言葉で表現するなら「ハウツー」)として見なしてしまいやしないかという危険性である。それがなぜ危険かと言うと、そのように見なすことが多くなるにつれ、「予想通りにならない」ことに対して無駄にストレスを感じ、果ては「そのようにならない他人や世の中が悪い」といった、他罰的発想になりやすくなるのではないか、と考えるからである。これは少々行きすぎた見方かもしれないが、よくよく気をつけた方がいいだろうとは思っている。多少なりとも「人文学的なあり方」を大切にしていれば、そういった傾向を回避できるのではないだろうか。人文学を愛する者にとっての(ささやかな)願いである。
2012/06/27

頭で考えるべからず ― 『臨済録』

臨済録 (岩波文庫)臨済録 (岩波文庫)
(1989/01/17)
入矢 義高

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「古典」と聞くと、どうも気が重くなる。文章の読みづらさに加え、話も遠い過去のもの。とてもではないが、自分から進んで読もうなどとは思わない代物である。ところが、本書は違う。1120年、今からおよそ900年も前に出た本だが、現在でもその「おもしろさ」(interesting)と「おもしろさ」(funny)は衰えていない。



まず、「おもしろさ」(interesting)の方だが、それは禅の考え方や世界観が小話でわかるところである。

例えば、有名なもので「不立文字」(ふりゅうもんじ)がある。悟りを文字の上で得ようとするのではなく、肉体的な修行を通して、心で得ようとする考えである。『臨済録』では、僧が師の述べることに対し、意味や理由を尋ねる場面がよく出てくる。ところが、師はそれに真っ向から「それは◯◯ということです」などと明確な説明は一切しない。大体の場合において、僧を棒で殴るか、意味不明な行動に出るのだ。

なぜか。それは、言葉で説明する時点で、言葉に縛られるからである。言葉は「仏性」(ぶっしょう;仏になる性質)の仮の姿、と禅では考える。仮の姿の拘っていては、いつまでたっても仏様になることはできない。「不立文字」を重んじる裏には、こういった考えが宿っている。



縛られている、ということに関連して言えば、もたつくことも禅では戒めの対象となる。もたつくとは、心が乱れた状態である。自身の体が不安に縛られている、ということである。不安に縛られれば、仏になることはできない。仏になるには、自分を「縛り」(言葉という縛り、不安という縛り、などもろもろ)から解放してやらなければならない。

「おもしろさ」(funny)についても語ろう。次の話は、本書に出てくるものだ。

師は、第二代の徳山和尚が、「言いとめても三十棒くらわし、言いとめられなくても三十棒くらわす」と訓示していると聞いたので、楽普を徳山のもとへやって、「言いとめてもなぜ三十棒ですか」と問わせ、彼が打とうとしたら、その棒をつかんで押し戻し、彼がどうするかを見て来い、命じた。楽普は徳山へ行って、教わったように問うた。果たして徳山は打ってきた。楽普がその棒をつかんで押し戻すと、徳山はさっと居間へ帰った。楽普は帰って報告すると、師は言った、「わしは以前から、あいつが只者ではないと思っていた。ところで、そなたは徳山がわかったのか。」楽普がもたつくと、すかさず師は打ちすえた。(p164)

不遜かもしれないが、ここを読んで思わず笑ってしまった。文字通り、不意打ちである(笑)。禅では、油断や自ら悟ろうとする行為を怠るのは、容赦なく制裁の的となる。そういう凶暴なところが多々あり、本書には他にも殴るわ蹴るわ打ち壊すわといった、暴力沙汰の小話が何度も出てくる。「え? 殴られなきゃいけないようなことしたか?」と思わずにはいられんばかりの小話が、である。そしてその度に吹き出してしまう(笑)。電車の中で読む時は注意が必要である。

しかし、「何かしてもダメ、何もしなくてもダメ」といった絶体絶命な状況に陥いることは、人生一度はあるだろう。そんな矛盾した、答えなど何もない中で、どうするべきか。それを瞬時に判断し、行動することを、禅は最も大切にする。



『臨済録』と同様、私の好きな古典のひとつである『無門関』(むもんかん)に、「南泉斬猫」(なんせんざんみょう)という公案がある。

南泉和尚は、東堂と西堂の雲水たちが猫について争っていたので、そこでその猫をつかみあげて言った、「お前たち、何か一句言うことができたら、この猫を助けよう。言うことができぬなら、ただちに斬り殺すぞ」雲水たちは何も答えなかった。その結果、南泉はその猫を斬った。
その晩に、弟子の趙州(じょうしゅう)が外から帰ってきた。南泉は趙州に例の話をした。そこで趙州は靴を脱いで頭の上にのせて出て行った。南泉は言った、「もしあなたがいたら、あの猫を救うことができたのに」
(秋月龍『無門関を読む』p123)

禅の門外漢にはまったく訳のわからぬ話である。「なんで靴を頭の上にのっけただけで、猫が救えるんだ」というツッコミは誰しもが入れたくなるだろう。だが、この行為そのものには、実のところ意味がない。秋月氏いわく、これは「真実の自己」を表現した形だと言う。

つまり、趙州がこの話を聞いて、そこから何か言語表現できないものを悟り、ただもうとっさに、無心で、自分の中に現れた「内なる何か」(言語化不能)をそのように表現した(行動した)、ということである。さらに、その真意を和尚は“心で”汲み取ったのだ。だから、また今度同じような争いごとが起きたからといって、趙州のマネをしても、南泉和尚は間違いなく猫をメッタ斬りにするだろう。



俗人の私がこんなこと言うのもなんだが、禅とはこのような世界なのである。「動くと殺す。動かなくとも殺す。さあ、お前はどうする?」と言われた時、どうしたらよいか。

ここまで極端ではなくとも、日常生活においてでさえ、このようなジレンマに遭遇することは必ずある。それを、やれマニュアルで解決だとか、やれ「これこれこうしたらうまくいきます」などと戯言めいた啓発本通りに動くとか、やれ言葉を尽くして和解しましょうだとか、そんなものは何の役にも立ちゃあせんよ、ということを、私は禅から教えられているような気がする。

無心の末のとっさの行動。体で分かり、体で動く――こんな陳腐な言葉で片付けるのもチャンチャラおかしいが、それが大事なんだよ、ということなのだろう。しかしまあ、実践するのが容易でないのは確かだが。
2012/06/22

子どもにも、大人にも ― 『小学館こども大百科』

小学館こども大百科小学館こども大百科
(2011/11/25)
小学館

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子供の教育に効き目大な本といえば、百科事典ではないだろうか。特に本書のような、大きくて写真や絵がたくさん載った百科事典は、文章があまり読めない子供に最適である。

私は幼い頃、絵本や物語をほとんど読もうとはしなかった。むしろ嫌っていたぐらいだが、小学館の「こども大百科」だけは、好んで見ていた。ゴロゴロと寝そべりながら、パラパラとページをめくる楽しさは、今でも忘れられない。

よく、「子どもは何に興味を持つか分からない」と言うが、その通りだと思う。なんでも載っていそうな、イラスト重視の百科事典を与えておくのは、子どもの好奇心を大いに刺激するだろう。

大人になった今、再び「こども大百科」を買い直した。先日のことである。あの頃によく見た、お馴染みの項目がまだあったりすると、何だか微笑ましく、そして嬉しくなる。

「お」の部分をめくっていると、「おばけ」のページが目に飛び込んできた。小さい頃、怖い思いをしながら、「でもちょっと見てみたい」気持ちでよく見た、あの「おばけ」の項目である。

残念なことに、以前よりも解説されているおばけの数は減っていた。絵もだいぶ変わっている。「ぬらりひょん」「がしゃどくろ」「海ぼうず」「からかさおばけ」――「こいつら、まだいたか」そんな気持ちがある一方、あの時の懐かしさと、「また会えたね」という喜び。幼心に焼き付いていた恐怖の情はどこへやら、といったところだ。

「じしん」の項には、もうすでに3.11の写真が掲載されている。あの時話題となった「液状化現象」の解説も加えられている。

「インターネット」も登場している。仕組みがチョー分かりやすく説明されているではないか。子ども向け書籍のいいところは、こういった「チョー分かりやすい」解説が、何気なくサラッと書いてあるところだ。

以前の版よりも、自然科学系の項目が増えたように感じる。「理科離れ」を睨んでのことか、宇宙やエネルギー関係のページ数が随分多い。個人的には、「おばけ」のように、しょーもないような項目をもっと設けて欲しかった。

保証しよう。童心に戻れる、いい一冊である。
2012/06/10

「道徳的に正しいものが答え」は、本当か? ― 『国語教科書の思想』

国語教科書の思想 (ちくま新書)国語教科書の思想 (ちくま新書)
(2005/10/04)
石原 千秋

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国語教科書の中身に触れるなんて、何年ぶりだろう。今、パッと頭に浮かび上がった話と言えば、新美南吉の『ごんぎつね』ぐらいだ。

私は国語が嫌いだった。読書も嫌いだった。理由は、本(物語)を読んでいて面白くなかったからである。それが今では、好きで何冊も新書を読む自分がそこにいたりする。人間、何がどう変わるかなんて、わかったものではない。

それで本書を読んでいる内に、なぜ幼い頃の自分が国語嫌いであり、読書嫌いであったのかが、何となく分かってきた。

著者の石原千秋によると、国語教育とは道徳教育なのだという。となると、教科書に出てくる話も、「道徳的」でなければならない。

例えば小説で、「主人公は友人を裏切るが、後でそのことに苛まれる」といった設定は、教科書の題材にピッタリである。たいていの場合、小説を読んで自分のことを反省したり、他人と話し合ったりする時間がカリキュラムの中に設けられており、こういう「心が痛くなる話」は、己を振り返るための道具として非常に「使いやすい」からだ。

評論文やエッセイだと、ありがちなテーマの1つに、「自然に帰ろう系」がある。「科学技術は進歩しすぎた。今までにない環境問題が生まれてきている。だから、昔の自然を取り戻そう」などがそれだ。「戦争は人類を不幸にするからやめよう系」や、「動物も人間と同じでそれぞれの生を全うしている系」なども、私はよく見た記憶がある。

つまり、小説、評論、エッセイ、どれをとっても「道徳的」なのである。だから、三島の『憂国』や川端の『眠れる美女』や芥川の『河童』といった、ダークな小説は絶対に出てこない。評論やエッセイに、上野千鶴子や中村うさぎが出てくる、なんてこともない。失礼だが、教科書的に見て、これらはどれも「不道徳」なのだ。

国語教育は「読む」ことだけではない。「書く」も大切である。しかし、これも書く内容が「道徳的」でなければ“いけない”。

本書の中で、「遠足の思い出」というテーマで作文しろという課題が出た時、著者は「つまらなかった」ということをなるべく論理的に、理由もきちんと添えて書いた、という興味深いエピソードがあった。だが、後に職員室へ呼び出され、担任の教師から怒られたという。「道徳的に好ましからざるもの」は、問答無用で「国語の敵」だということを物語る話である。


道徳が、初めから「道徳」として用意されていることに意味はあるのだろうか、と思う。何が「道徳的」で、それはなぜか。そこを考えさせた方が良い。

精神的にはまだまだ幼い小中学生たちにだって、時にはそういった「道徳教育」が、胡散臭く感じられたりするのではないか。

「〇〇は大切です」「××してはいけません」――そんなことは薄々彼らにだって分かるだろう。しかし、その理由をきちんと考える時間はほとんどない。当たり前が、「当たり前」で終わるだけである。だから聞く側からすれば、お説教のような授業になる。そういったお説教臭さが、国語を学ぶ面白さを、遠ざけてはいないだろうか。自分のことを今振り返ってみた時、「なぜ国語が嫌いだったのか?」と問えば、答えはそこに行き着く気がする。

評論文やエッセイに限った話になるが、私は、極端に対立する2つの意見を読ませた方が良いと思っている。

例えば、環境問題に関するテーマであれば、「◯◯はやめよう」という意見と、「いや、◯◯は大いにやるべきだ」という意見を同時に読ませる。この時、どちらが「正しい」か「間違っている」かは問うべきではない。どちらを「支持する」か「支持しない」か、そしてその理由をきちんと説明させるように誘導すべきである。生徒も、1つの問題に対して、「答えは1つだとは限らない」ということも学ぶだろう。
2012/05/28

Japan with Gold ― 『黄金の日本史』

黄金の日本史 (新潮新書)黄金の日本史 (新潮新書)
(2012/05/17)
加藤 廣

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近頃、金本位制の復活がささやかれているようだ。
アメリカでは、もうすでに金本位制を実施している州もあるという。
中国や韓国の金買いも増してきているらしい。

その動きを睨んでの企画だろうか。本書のテーマは「金(ゴールド)+日本史」である。日本とゴールドの関わりを通史で紐解くというコンセプトで、サクサク読める歴史読み物だ。

著者は「老生」を称する老作家・加藤廣。ところどころで炸裂する、我が国のお役人様批判が、本書では印象的だ。

話は変わるが、歴史読み物の企画で通史をやるなら、本書のようなテーマ史が一番おもしろいと思う。以前のエントリーで紹介した『物語 フランス革命』も大変読みごたえあるテーマ史だった。


最近は、高校の教科書を社会人向けに編集し直した本が売れているそうである。

わたしも受験生時代は、日本史の教科書にかなりお世話になった。だが、いまさら改めて読もうという気はさすがに起こらない。

教科書は知識だけを伝えるように設計されている。そのため、どうしても客観中立的な表現になってしまう。そこに歴史の流れや、感動を味わえる場面はない。この二つを得るためには、筆力はもちろん、執筆者の歴史観(主観)が必要だ。つまり、独断と偏見が大いにモノを言うのである。

歴史論争を「調停」するのは難しい。ならばいっそのこと、専門家各々の歴史観を楽しめばいいのではないかと思う。

普段、二度読みはほとんどしないが、本書は別だった。歴史書はあまり読まないタチだったが、これはオススメである。
2012/05/21

「日本人」というプレミア ― 『中国人エリートは日本人をこう見る』

中国人エリートは日本人をこう見る (日経プレミアシリーズ)中国人エリートは日本人をこう見る (日経プレミアシリーズ)
(2012/05/09)
中島 恵

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大学2年の時、とある中国人留学生の女の子と知り合った。親元を離れ、コンビニのアルバイトで生計を立てながら、彼女はひとりで勉強していた。卒業後はイギリスの大学院に進学したいとのことだった。

日本語ペラペラ。中国の歴史も文化もきちんと知っていた才女である。非常に勉強熱心な子だったから、わたしも大いに刺激を受けた。その一方で感じる、ある種の恐怖感――こういう子たちが、どんどん日本の大学に来て学べば、それこそ日本人大学生は留学生に太刀打ちできないだろう、と。

本書は、そういった勉強意欲旺盛な中国人留学生たちが主人公である。タイトルに「エリート」とあるが、これは学歴だけの話ではない。意識の面で、もうすでに彼/彼女たちは「エリート」である。言葉の端々に感じられる、「なんでも学んでやろう」という貪欲さ――最近の日本企業が、外国人留学生を積極的に採用するのも当然だろう。

だがその一方で、「日本に生まれていれば・・・」という憧れも見え隠れする。エリート中国人留学生から見れば、日本にいられるのがどれだけ素晴らしいことか、感じられて仕方がないのだろう。大学はもちろん、日本企業の研修制度、飲食店に出てくる無料のお冷、日本人のマナーの良さ、キレイな空気、自由なネット環境、清潔なトイレ、治安の良さ、などなど。わたしも聞いたことはあったが、やはりどれも今の中国では、日本と比べて不備だという。「生きてるだけで丸儲け」ならぬ「日本人というだけで丸儲け」といったところか。

中国が日本を抜いてGDP第2位になった一昨年の2010年。我が国では、この順位争いに敗れたことが大きな話題になった。が、中国人からすれば「だからなに?」程度のものらしい。数字は変化すれども、内部環境はさして変化せず、が実情だという。

五年前に来日し、コンピュータの研究をしたあと日本企業で働く蒋楊(二十八歳)も少し呆れた素振りで首をすくめる。
「(中略)2010年に第三位になって、何か生活が変わりましたか。何も変わらないでしょう?この20年で給料は上がっていないというけれど、生活の質も変わっていない。デパ地下には豪華な食べ物があふれている。まだ相当な余裕を感じます。だから皮肉でもなんでもなくて、日本人はそんなに心配しなくていいと思います」(p75-76)

「勝ち組」「負け組」なんて言葉はあまり使いたくないが、少なくとも「日本人であること」は、中国人から見れば「勝ち組」である、と言えよう(日本は、そこにあぐらをかきすぎた感も否めないが)。

しかし、なんだかんだ言っても、わたしは日本が好きだ。至るところにコンビニと自販機がある。水道水は安全。大量の本と雑誌が安く買える(おそらく世界に出回っている本で、日本語で読めないものは、ほとんどないのではないかと思う)。おいしいごはんが食べられ、製品のアフターサービスも充実。映画館や美術館がたくさんある。夜中に外を出歩いても危険はかなり少ない。ここまでハイスペックな国は、まず、ないだろう。

カナダのビクトリアとバンクーバーを旅行したことがある。治安の良い国としてよく知られているが、それでも夜中に出歩くのは危険だと言われた。水道水はなるべく飲まないようにと言われたし、コンビニも自販機も日本ほどはない(ましてや自販機が外に置いてあることなど、ほとんどなかった)。

日本は「オワコン」(=終わったコンテンツ)ではない。優秀な国だ。優秀と思えるほどの生活水準を、優秀なまでに維持し続けられるほど優秀である。

本書を読んで日本を愛せ、と言うつもりは毛頭ない。しかし、今の日本を見直す必要は大いにありそうだ。
2012/05/03

無名人として生きる良さ ― 『「有名人になる」ということ』

「有名人になる」ということ (ディスカヴァー携書)「有名人になる」ということ (ディスカヴァー携書)
(2012/04/28)
勝間 和代

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先日、「ニコニコ生放送」というものを見てみた。ウェブ上で、誰でも自由に、リアルタイムで自分を「放送」できるサービスのことだ。

それだけではない。見る側も、リアルタイムで放送者にコメントを送ることができる。仕組みとしては、「テレビ電話」ならぬ「テレビチャット」といったところか。おもしろい時代になったなと感じる。

「ニコ生」の放送者を見ていて気がついた。10代、20代前半ぐらいの若い男女が非常に多いのだ。彼/彼女たちは、実際に顔を出している。視聴者とこなれた感じでコミュニケーションを取っている。これっぽちも臆することなく、である。素直に感心してしまった。

こういった一つの社会現象を見ていて思うことがある。若い人たちの「プチアイドル願望」「認められたい欲求」の強さだ。ここ最近、かなり顕著になっているのではないか。

「AKB48」が流行り始めた頃から、このことを薄々感じていた。若い子を大勢集め、グループを作り、歌手活動をさせるビジネスは昔もあった。しかしこの頃、やたらと「AKB48」と似たアイドルグループが増えている。

多くの子たちが「アイドル」になる今日。「オレだって・・・」「私だって・・・」感情が若い人の内に芽生えても無理はない。

「イケメン◯◯」「美人◯◯」といった言葉もよく耳にする。これも、「プチアイドル願望」「認められたい欲求」に拍車をかけていると思う。

みんなが「アイドル」、みんなが「イケメン」、みんなが「美人」――そういう錯覚をしやすい社会になった、と言える。そういった「ステータス」を土台にして、チヤホヤされたいのかもしれない。

私は「有名人」になったことがない。「普通の人」である。だから、「有名人」のメリット・デメリットが何かは分からない。想像するしかない。

本書は、そんな「普通の人」に対し、かつて「普通の人」だった著者が、「有名人」になって分かったメリット・デメリットを説いた一冊である。しかも「有名人になる方法」付きで。

曰く、金銭的メリットは、あまりないそうである。その割には、周囲の目や批評を気にしなければならないらしい。「悪口、陰口なんて日常的」だという。

一方で、人脈をかなり広げることができたそうだ。テレビ、著作上での発言は「有名人」という保証書付き。だから説得力を持たせやすいらしい。

「一度、有名人になったら最後、“無名人”に戻ることはできない」という教訓も印象深い。言われてみれば当たり前かもしれない。だが「有名人になりたい願望」が強い人ほど、この事実を忘れやすいのではないか。

キレ者の著者でさえ、このことは「有名人」なってから気づいたという。もっとも、彼女はビジネスとして「有名人」を始めた。その点、ただ「有名人になりたい願望」の強い人とは異なるが。

わたし自身、「有名人」を否定するつもりは全くない。彼/彼女が、先頭に立って何か発言する。それだけで周囲への影響が大きい。立派なこと、含蓄のあることを言えば、人の考え方を一変させる力がある。そこが「有名人」の強みと良さだ。

しかし、である。「普通の人」には想像できない「ストレス」もたくさん抱えている。まずはここに目を向けたい。つまり、「いいことずくめ」ではないのだ。

不特定多数の人たちに対して、「自分そのもの」をさらけ出す――これは本来、「不安」と隣り合わせな行動である。見る者、見られる者の間に「信頼関係」や「親しさ」がないからである。メディア上では、狭い人物像、誤解された人物像が伝わりやすい傾向にある。

「有名人になりたい」「チヤホヤされたい」「人気者になりたい」――そう願う人は、まず、「普通の人であることの良さ」を一度考えてみたらどうだろう、と思う。言い換えれば、「目立たないことの良さ」である。

今の時代、放っておくと、どんどんそういった承認欲求が生まれる。目立つこと、認められること、愛されることばかり拘る――これはかなり危険だ。それを「自分の存在意義」としてしまうからである。

よくよく注意したほうがいいのではないか。いつか必ず、むなしさを感じる時が来るだろう。

「有名人になること」は「愛されること」でも、「チヤホヤされること」でもない。むしろ嫌われることで、その対価を得ることの方が大きい。これが本書読了後の感である。
2012/04/26

言葉の罠・論理的の罠 ― 『禅と日本文化』


禅と日本文化 (岩波新書)禅と日本文化 (岩波新書)
(1940/09)
鈴木 大拙

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「論理的に◯◯」は、最近よく見かける表現だ。

「論理的に考えよう」「論理的に説明しなさい」など、学校や仕事の場では、とにかく「論理的」であることが最重要視される。確かに「論理的」であることは、人と人とがコミュニケーションを取る上での大きな助けになるだろう。また、何かを説明する際、説得力をもたせるためには、必要不可欠だ。

しかし、「論理的であること」が、いつでもどこでも「すばらしいもの」であるとは限らない。目には見えず、「論理的」でなくとも、確かにそこに「存在するもの」もある。たとえば「職人芸」などと言われる「技」が、それに当たる。こういった技術は、言葉だけで相手に理解させることはできない。自分が実際にそれをやってみないとわからないものであり、伝わらないものである。

著者・鈴木大拙は、「言葉(だけに頼ること)に対する大きな信頼感」や「論理的に説明できるものばかり信奉すること」に対して警鐘を鳴らす。「禅」は、そういった「言語・論理至上主義」的な態度を真っ向から否定する。概念ばかり当てにするのではなく、自分で実際に取り組んでみよ(経験せよ)、ということだ。

近頃、書店で「◯◯する方法」や「××ができるようになる本」といったものをよく目にする。もちろん読んでその通りにできることもあるだろう。しかし、中には「言葉」や「論理」による説明だけでは、うまくいかないこと(対人関係など)でさえ、マニュアル的に「◯◯するとうまくいく」と述べる本もある。

そのようなハウツー本が多い昨今、大拙の論(禅の教え)は、「言葉や論理的なものだけ重視してると危ないよ」と唱える点で、非常に新鮮だ。

失敗してもいいから、実際にやってみる――私も最近、このこと(「とりあえずやってみよう精神」とでも言おうか)に大切さを感じている。

本書は禅と日本文化(俳句、儒教、武士道など)との関係を説明したものだが、どの章にも、この考えが通底している。1940年刊行の作品だが、当時の思想書としてはかなり読みやすい。禅入門にはおすすめである。
2012/04/22

小説のような歴史書 ― 『物語 フランス革命』

物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)
(2008/09)
安達 正勝

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おもしろい歴史書には共通点がある。それは、「あたかも物語のような錯覚を与えてくれる」ところだ。これは史実の内容如何よりも、著者の筆力によるところが大きい。そのため、読み物としての歴史書ならば、学者よりもむしろ「文章のプロ」である作家に書かせた方がよい、と私は思っている。

ところが、本書の著者・安藤正勝は仏文学者だ。ゴテゴテの歴史解説ではなく、物語としての歴史、流れとしての歴史を意識した文章が非常に魅力的である。世界史に弱い私には、大変ありがたい本だ。

本書を読むまで、私は革命前のフランスを誤解していた。財政崩壊の発端は、マリー・アントワネットの自堕落な生活と、貪るような荒い金遣いのせいだと思っていた。しかし、彼女の支出は、全体でほんの数パーセントとしか占めていなかったそうだ。マリーは、「パンが食べられないなら、ケーキを食べればいいじゃない!」というセリフで有名だが、「ケーキ」だけの支出など、たかが知れていたということか。

マリーの夫であるルイ16世も、従来では悪者扱いされることが多かった。ところが最近では、むしろ高く評価されているという。優柔不断な側面が多かったものの、その知性は非常に優れていた。マリー以外の女にはいっさい手を出さなかったという、「したたか系男子」な一面を持っていたらしい。ギロチンの性能を上げるため、斜め刃を考案した理系男子でもある。のちにこの刃で愛すべきマリーの首がはねられてしまうのは、なんとも皮肉な話だ。そして、なんと趣味は錠前作り。いま生きていれば、たぶんオタクになっていただろう。

メートル、リットル、グラムといった一律の度量衡が確立したのもフランス革命の時である。有史以来の大仕事であると考えたためか、フランス人はまったく新しい制度を望んだ。いまでは当たり前のように、この度量衡が使われている。その裏側は、血と涙の結晶によって支えられているのだから、なんとも言えない。以後、これらを目にするたび、「ああ、この“kg”はフランス革命とともに生まれたのであり、それは血と涙の結晶なのだ!」という感慨に、私は(ひとりで)浸りたい。

世界史の中でも、「フランス革命」はトップ5にランクインするぐらい人気な箇所だろう。予備知識に乏しくとも楽しめる良書である。
2012/04/14

地に足をつけた経済学書 ― 『スタバではグランデを買え!』


スタバではグランデを買え!: 価格と生活の経済学 (ちくま文庫)スタバではグランデを買え!: 価格と生活の経済学 (ちくま文庫)
(2012/01/10)
吉本 佳生

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かねてから「経済学を知りたい」とは思っていた。だが、ひとくちに「経済学」とはいっても、色々な分野がある。

考えた末、わたしが最初に試したのは、有名な経済学者の理論から学ぶことだった。教科書で習った人名を思い出しつつ、一般向けの経済学書として初めて読んだのが『経済学はこう考える』(根井雅弘/ちくまプリマー新書)だ。

しかし、これがどうもおもしろくない。ジュニア向け新書だから書いてあることは理解できる。だが、どこかピンと来なかった。

その後、色々な本を手にしてみた。結果、本書のような実生活密着型の経済学書が一番ためになると知ったのだ。

経済とは、大雑把に表現すると「世の中の資源(お金)の動き」そのものである。言うまでもないが、実生活と経済は表裏一体の関係だ。ということは経済学の理論も、実生活と密着させながら学んだほうがよい――行き着いた結論はこれだった。

しかし残念ながら、経済学をそのように学べる本は少ない。その点、本書はこの「実社会と経済理論のつながり」をきちんと書けているところがすばらしい。「当たり前」のように行われている経済活動を、「当たり前」のままにせずに、「経済学」というツールで、そのしくみを分解していく過程が非常に興味ぶかい。

特におもしろかったテーマは、以下の章。

第1章「ペットボトルのお茶はコンビニとスーパーのどちらで買うべきか?」

ペットボトル飲料はたいていの場合、コンビニの方が高い。価格だけの比較ならスーパーで買ったほうが特だ。しかし、そうと知りつつもコンビニで買う人がいるのはなぜだろうか。その裏には合理的な理由がある。

第4章「携帯電話の料金はなぜ、やたらに複雑なのか?」

わたしが携帯電話をあまり好まない理由のひとつが、料金制度の複雑さにある。ところが、電話会社はあえて複雑にしているのだ。「儲けるとはどういうことか?」を考えさせられる章である。

第6章「100円ショップの安さの秘密は何か?」

なぜこれが100円で買えるのか不思議に思うことがたまにある。もちろん、人件費が安いからという単純な理由だけではない。これは、製造ラインのちょっとした「スキマ」を突いているのだ。


学問上の理論は、つねに「身近なもの」とセットで学ぶべきだと思う。小学生の時までは、そうやって勉強するのが普通だった。それがいつしか、理論だけの勉強になっていく。哲学にせよ法学にせよ、とにかく重要視されるのは「理論」であって、「その理論を実社会へ応用するとどうなるか?」ではない。むしろ応用することを「なんだか低級なもの」と見なしてしまう感さえある。

わたしは、本書著者である吉本佳生のような人が、学者や先生として増えればいいと願っている。こういう人が教えれば、勉強嫌いな生徒や学生は減るかもしれない。
2012/03/28

「暇つぶし」も立派な能力 ― 『老いの才覚』

老いの才覚 (ベスト新書)老いの才覚 (ベスト新書)
(2010/09/09)
曽野 綾子

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「若者こそ読むべきブックリスト」なるものを作るとしたら、本書は間違いなくその中の一冊となるだろう。

その理由はいろいろあるが、あえて一つに絞ろう。この一文を若いうちから肝に銘じておくべきだからだ。

年をとると、いっしょに遊べる友だちがだんだん減っていきますから、早いうちに一人で遊ぶ癖をつけておいたほうがいいと思います。(p111)

最近、わたしが周りの(若い)人を見ていてつくづく感じるのがこのことなのだ。どうやらどうやら、一人で遊べない人が多いようである。

昔、アルバイト先で知り合った女の子との話。

当時その子は高校生で、わたしによく悩みの相談を持ちかけていた。
そんなある日、こんな質問を受けた。

「最近つまらなくて楽しいことがないんです。どうしたらいいですか?」

学校にいる時間帯は友だちと話せるから楽しい。ところが家に帰ったとたん、やること(勉強以外)が何もないそうである。

「ケータイ持ってるんだし、友だちとメールやら電話やら、オンラインゲームでもしたらいいんでない?」

こんなアドバイスをしてみた。だが相手にも都合があるし、いつもいつもコミュニケーションがとれるわけではない。こういった「遊び」はうまくいかない、と彼女は言う。

確かにその通り。ならばひとりで遊ぶしかない。ところが話していくうちに、どうも彼女一人では何もできないようなのだ。高校生で、しかも社会人と比べたら時間も気力も体力もあるであろう若い女の子が、なぜ一人で遊べないのだろうか。

しかも、その子と同世代の他の子たちともいろいろ話していくうちに、意外とその手の人が多いのを知った。

「一人で遊べない症候群」とでも名づけようか。わたしは直でこういう人たちと触れ合ってきたから、曽野綾子の上の主張がかなりリアルに感じられて仕方がない。

誰だったか忘れたが、昔とあるコピーライターが「教養とは、自分で暇な時間をつぶせる能力のことだ」という主旨の発言をしていたのが忘れられない。

今なら当時よりもよくわかる気がする。辞書的な定義で、この「教養」という言葉を受け取ってしまうと確かによくわからない。だがもっと咀嚼して「自分の頭で考える力や行動する力」とでも解釈すれば、意味は通じるかもしれない。

そう考えると、本書に出てくる「くれない指数」(自分からは何も行動せずに、他人にばかり「~してくれない?」などとねだる、受動的な言動の多さ。曽野綾子の造語)は、「無教養指数」とでも言い換えられそうだ。

要するに、自分ひとりではなにも楽しいこと(≒暇つぶし)ができないのだ。そうか、「暇をつぶせる」のも、立派な「能力」の一つだったのか!

それにしても本当にコワイ。数十年後、わたしが未来の若者から見て「老人」と思われるような年になった時、「一人では何もできない(主に暇つぶし的なこと)」という状況に陥るのが、本当に本当にコワイ。

なんせその頃はヨボヨボ、気力・体力ともに大幅に弱っていることだろう。やっぱりこういうことは、若いうちから「訓練」しておいた方がいいんだよ、きっと。

来るべき時に備えて、わたしはこの本を読んでおく。「一人でも遊べる老人」になるために。
2012/03/15

「ケイザイ?」が、「経済!」になる本 ― 『「見えざる手」が経済を動かす』

「見えざる手」が経済を動かす (ちくまプリマー新書)「見えざる手」が経済を動かす (ちくまプリマー新書)
(2008/04)
池上 彰

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人生において、自分がどんな道を歩むか決める上での大きな要素は何だろうか?それは親かもしれない。友達かもしれない。本かもしれない。映画かもしれない。わたしの場合、それは学校の先生だったと思う。

人文学は学問の中でわたしがもっとも好きなジャンルだ。文学部に進んだのも、英文科に進んだのも、そして言語学に興味を持ったのも、すべて学校の先生の影響である。

ずいぶんとまあ、極端な話かもしれない。だが、そのくらい学校の先生という存在は、ひとりの人間の進む道を決める上で、はかりしれない力を持っているのではないか、とこの頃(しみじみと)感じている。

仮に池上彰がわたしの政治経済の先生だったら、事情が変わって経済学部に進学していた可能性は大きい。そう思えるくらい、この本はわかりやすく、面白く、惹きつけられるのだ。

中高生当時、政治経済の授業は本当にタイクツだった。「きちんと暗記すればテストでいい点取れるよ」と言わんばかりの無味乾燥さ(教えてくだすった先生たちにはタイヘン失礼だけれども)!

そこに、ケイザイの「なぜ?」と「流れ」はない。


「なぜ経済を学ぶの?」
「なんで“お金”は必要?」
「1ドル100円から1ドル80円になるのが、どうして円高?」
「“新自由主義”ってどうやって生まれてきたの?」
「競争させる/させないことが必ずしも良いとは限らない理由は?」



そう。興味を持てなかった、たったひとつの理由――振り返ってみれば、それは「なぜ?」と「流れ」がなかったからなのだ。「経済」を考える上で、上記の質問は基本中の基本と言える。だが、中高の頃を思い出してみても、これらのことをきちんと教えてくれた(教えることができた)先生は1人もいなかった!

本書はその「なぜ?」と「流れ」がきちんと織り込まれているため、たいへんすばらしい経済入門書となっている。「おすすめの経済入門書は?」と聞かれたら即答。間違いなくこの本。

「でもこれ、子ども向けの新書でしょ?大人には合わないんじゃない?」

あなどるなかれ。子ども向け新書だからこそ、「事のしくみ」を手抜きなしで解説してくれるのだ。むしろ大人の方がなまじ「チシキ」はあるので、彼ら向けの新書には意外と解説に手抜きが多かったりする。

本書巻末には推薦図書が掲載されている。買って読みたい気持ちが抑えられない。いやはや、わたしは池上彰の「見えざる手」に動かされてしまったわけか。
2012/03/07

文学と無用の用 ― 『文学入門』

文学入門 (岩波新書 青版)文学入門 (岩波新書 青版)
(1950/05/05)
桑原 武夫

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とある時期に古本漁りを始める現象は、「ドクショツウ」に共通したものかもしれない。わたしの場合、「通」とまでは及ばずとも、つい最近になって古本の良さを理解できるようになってきた。

読書にハマりたての頃は、色あせた表紙の本など見向きもしなかったが、近頃の新刊書(とくに新書)にしばしば飽きを感じる今日、神田の古本屋でひとり脚立に登りながら、うず高くつまれた、半世紀近く前の著作に興味津々な自分がそこにいる。

自身が文学部出身、そして母校が神田の古本屋街の近くということもあり、先日一冊の本が目に留まった。かつて日本を代表した有名な文学者のひとり、故・桑原武夫による『文学入門』だ。

初版は1950年。わたしはまだこの世にいなかった。現在の岩波新書とは違い、ビニール製のカバーはついていない。一冊まるまる紙である。

さっそく目次に目を通してみる。いきなり刺激的な見出しが目に映る。

第一章 なぜ文学は人生に必要か

そう、これは世界文学の解説書などではない。文学とはなにか?芸術とはなにか?生きるためにそれらは必要なのか?そしてそれはなぜなのか――本書は、非常に読み応えある文学論なのだ。

なぜこんな哲学的問いから論が始まっているのか。これは、先にも述べた初版の発行時と関係がある。第二次大戦終了から5年後、桑原は戦時下における文学の状況をこう振り返っている。

戦争中のことを思い出してみるがよい。文学は人生に用のないゼイタク品と見なされていたのではなかったか?さらに意味ふかいのは、戦争直前、外国の本の輸入が制限されたとき、科学書や哲学書は比較的寛大な取扱いをうけたが、ひとり文学書のみは全く輸入を厳禁された。(中略)文学の必要性ということは、日本では敗戦のころまで、ほとんど認められていなかったのである。(p2-3)

生と死とが常に隣り合わせだった当時、「ブンガク」などという代物にウツツを抜かす輩には居場所がなかったらしい。なんせそのウツツでは食い物が何よりも必要な時だったのだから無理もないだろう。

しかし今は平時だ。先に起きた震災でもない限り、飲食に不自由することはまずない。そんな中で、「なぜ文学は人生に必要か」という問いについて考えてみるというのはじつに面白い(文学部出身ということもあり、わたしはよく文学や文学部の必要性について考えてしまう)。

この疑問に対する答えのひとつに、桑原は本書で「行動を規制する力」が得られることを挙げている。これについてはわたしも同意見だ。

芸術の役割のひとつとして、「人間の行動をコントロールするための装置」というのがあると思う。たとえばかつて、仏教における地獄絵図などの宗教画は、人間の悪行を戒めるための手段だった。

そういった絵のおかげで、文字の読めない人々とのコミュニケーションが成り立ち、共同体における秩序が保てていたのだ。

文学も同じである(無論すべての文学がそうというわけではないが)。ひとつ例を挙げるとするならば、日系英国人カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』における世界である。

これは、普通の人間と臓器提供のためだけに作られたクローン人間が共存する架空のイギリス社会をテーマにしたものだ。

科学医療技術や人間の生が行き過ぎたために無秩序な状態となってしまった社会――そのような状況で求められる医療倫理、生と死、人類にとって本当の幸福とはなにかについて、否応なく考えさせられる小説である。この作品もそういった人間の行動に対する警鐘(人間の行動をコントロールするための装置)として機能している。

普段、テレビや新聞のニュースを見ていてこういったことにピンと来なくても、「物語」という形をとった文学であれば、そこに関心を持たせることは大いに可能である。

最近、本やニュースを見たり人と話している時、ふと「目に見えて役立ちそうなものにしか価値を置かない社会になってきているな」と感じることがある(ここで言う「役立つ」とは、「金銭的利益につながる」という意味である)。

しかし、「無用の用」という言葉もあるように、実際のところ必要なさそうなものこそ、真に必要だったりするのではないだろうか。
2012/02/26

侃侃諤諤のすすめ ― 『西洋美術史入門』

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)
(2012/02/06)
池上 英洋

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ジャン=フランソワ・ミレーの『落穂拾い』に感動したのは、小学校1年生の時。

音楽室かどこかへ向かう途中、廊下の壁にかかったその絵をたまたま見たわたしは衝撃を受けた。

それまで目にしたこともない写真のような絵に、思わず心が吸い込まれた。のちにその絵を描いたのが「ミレー」という人だと知り、両親に彼の画集を買ってもらったぐらいである(残念ながら今は紛失してしまった)。

不思議なもので、今でもミレーの絵を見ると、あの時の感動がよみがえる。しかし、その心地よさは、単に「美しさ」に対する憧憬から生まれ出てくるものだ。

それはそれで良いのだろうが、物には「格」がある。絵画の世界、というよりも芸術の世界に「格」があるように、鑑賞者側にもまた「格」が存在する。

鑑賞者側の「格」とは何だろうか?それは一言で言えば、芸術作品に対する知識や教養の有無や量だ。

「美しさ」を「美しさ」として楽しむという段階から、その「美しさ」の奥にひそむ、描かれた当時の時代や作者の背景を知るという段階へ――本書は、そのステップへの親切な架け橋となっている。

いきなり時代順に絵の解説を始める美術書というのはじつに多い。だが、この本は違う。まず「美術史とはなにか?」という漠然とした問いから話が始まる。


「なぜ美術を学ぶ必要があるのか?」
「絵を“読む”とはどういうことか?」


こういった問いは、およそ人文学を学ぶ上で最初に知っておくべき、考えておくべきことだ。著者は書き漏らさずにその持論を展開している。

意義の確認が終わったら、次は「書く」ことを学ぶ。「描く」ではない。「書く」を学ぶのだ。つまり絵を見、その様子を文字に起こす作業をするのである。

できるかぎり忠実に、そこに何が描かれているのかを文章にするのだ。これは「ディスクリプション・スキル」と呼ばれるもので、美術科で学ぶ学生なら誰でも一度は経験するのではないだろうか。

以下、絵画における記号論そして図像学を知り、第三章から実際に絵を読み解いていく。

もちろん西洋史の知識も欠かせない。とはいっても本書を読む上では大丈夫。きちんと著者が補完してくれている(美術史の本でよく見かける「バロック」「ロココ」「印象派」といった、「聞いたことはあるけれど、あまり知らない用語」の解説集もくっついている)。

最後に、あとがきの中にある一節から。

ヨーロッパの美術館に行くと、学生たちが輪になって座り、絵の前に立っている先生と議論している光景によくでくわします。それこそ、小学生から大学生まで。誰も彼らに向かって、うるさい、迷惑などと言う人はいません。皆、小さい頃からそうやって作品を前にして考え、意見を言い合ってきて、自分なりの作品の楽しみかたを育んできたからです。(p183)

日本ではこうはいかない。そばにいたオヤジに、「うるさいよ!」などと小言のひとつでも言われてしまう。でなければ館員がとがめに走ってくること必至である(笑)。

しかし、ただじっと静かに正視することだけが「絵画を鑑賞すること」ではない。時にはその場で熱く語り、意見をぶつけ合うこともまた「絵を読むこと」のひとつだ。

「閑賞」(静かに楽しむ)に干渉するつもりはまったくないが、「寛賞」(くつろいで楽しむ)の心も時には必要である。
2012/02/11

脱・情弱のための教科書 ― 『データはウソをつく』

データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)
(2007/05)
谷岡 一郎

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テレビ番組などで宝くじのことを取り上げると、必ずと言っていいほど出てくるのが、「この店から一等賞が出ました!」店を大々的に取材するシーン。

一等賞でなくても、たとえば二等賞が◯本とか、三等賞が△本とか、「ここで宝くじを買った人の受賞歴」を店の前に看板として出している光景もよく見かける。

あれらを見るたびに、「だからなんなのよ?」とわたしは疑問を抱く。実際、こんな宣伝でくじを買おうとする人などいるのだろうか。過去に◯等賞が何本出ようが、その店で買って当たる確率が高まる保証など、どこにもないではないか。

本書はそういった問いにきちんと回答している。あたり前だが、そんな保証などまったくない。

著者・谷岡一郎の筆舌は手厳しい。この世の中に出回っている「社会調査」や「検証結果」なるものは、その多くが「ゴミクズ」であるという。

ほとんどのものは、マスコミ各社がきちんとした方法論に従って「調査」した結果ではない。明らかに、ある一定の方向へ考え方をもっていこうとした、誘導的なものばかり――そう言い切っている。

昔、「発掘!あるある大事典」という番組があった。そこで「納豆ダイエット」を特集した回があり、放送後、大量に納豆が売れたそうだが、後に捏造だったことがわかり、それ以降打ち切りとなった。

これなどまさに「良い」例だろう。「検証結果」はつまるところ、「ゴミクズ」だったのだ。しかし、マスコミが往々にしてこの手のウッサンくさい内容を「調査」に仕立てあげたりするのは、それ以前からあったろうし、いまさら非難しても仕方ない。むしろ非難されるべきは、納豆を買いに走った人間たちの方だったと思う。

しかし、「人のふり見て我がふり直せ」とはよく言ったもので、実のところ、だれでも情弱(じょうじゃく/情報弱者の略)になる可能性は大きいと、本書を読んで感じた。

たとえば、本書p60-61に出ている図やグラフ(都合上、掲載はできないが)には、誘導者側の「カラクリ」を知っておかないと、普段から「社会調査」に対してそれなりに身構えている人でも、簡単にダマされてしまうと思う。

「敵ながらあっぱれ」とは、こういうことを言うのだろうか。このやり口には、いささか「感動」してしまった。感心できたものではないが、本書の内容を逆用して、自分がダマす側に回ることもできそうである(笑)。

実際のところ、多かれ少なかれ、企業の商品宣伝にはこういった手法が存在しているのは確かだろう。言い方はヒジョーに悪いが、ビジネスはいかにして合法的に人を“ダマす”――客を自分たちの戦略にうまく乗せる――か、という側面も見られると思う。この点は、谷岡も本書で同じことを述べている。

新書がベスト』の著者・小飼弾は言う。

私も専業ライターだったら、血液型の本を書いて楽に儲けようとしたかもしれませんね。「だまされるヤツが悪い」とうそぶいて。(『新書がベスト』p63)

だますヤツも悪いが、それよりも「だまされるヤツ(の方)が(もっと)悪い」――このリクツは、実のところ、情弱にとってものすごく親切な言葉である。というのも、こうでも言わないと情弱は一生、情弱として搾取される運命にあるからだ。「ダマされないために勉強しよう」という、形を変えた良心的な誘いである。

ただし、「脱・情弱」への道のりは、かなり険しそうだ。「情弱度」を低くするためには、日頃から「天邪鬼(あまのじゃく)」ならぬ「常邪鬼(じょうじゃく)」になっていなければ難しい。

そう。「じょうじゃく」になりたくないなら、「じょうじゃく」になれ、ということだ(ひらがなにすると矛盾する不思議)。
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