2014/12/21

むしろ「ありのままでない」を大事にしたい ― 『アナと雪の女王』

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クリステン・ベル、イディナ・メンゼル 他

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これだけブームになったのだから、やはり見てみたい気持ちがあって、手にとった。

この映画のテーマは、ずばり「ありのまま」だそうなので、私もそれに倣い、「ありのまま」の感想を言おう。面白かった。

実はありのままに言うと、私はディズニー全般が好きではない。何というか、あのワチャワチャ感がどうもダメなのだ。それでもこの映画を手にとったのは、世間がこの映画でこれだけ盛り上がったからだ。最盛期、その動向を横目で見ながらも、「いや、きっと面白いのだろう。ここはひとつ、私もありのままで行こう」と思い立ち、(特段好きでもない)ディズニーワールドに浸ってみたのだ。

それはさておき、この映画には先程の「ありのまま」以外にも、これと似たワードがチラついている。例えば、「真実の◯◯」とか「本当の◯◯」とか、である。「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」etc etc。こういう言葉を耳にすると、どうも私はボリボリ頭や背中を掻きたくなる。何というか、こう、ボリボリボリボリしたくなっちゃうのだ。

なぜ、ボリボリしたくなっちゃうのかというと、なんか胡散臭いからである。「ん~、なんだかなぁ~」という気分になり、気が付くと体をボリボリしている、というわけだ。

「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」といった言葉は、ややもすれば、ただただその言葉だけで終わるような代物だったりするのではないだろうか?

そして、「真実の~」「本当の~」「ありのままの~」と感じているものは案外、自分の「後付け」で、「とりあえず」「そのように認識した」ものではないか?とも思う。

私が映画を見ていて気になったのが以下の展開だ。王女・アナが、最初に出会ったイケメン王子・ハンスを好きになり、彼女はその気持ちを「真実の愛」と思い込む。ところが、物語が進んでいくにつれ、彼女の姉のエルサを一緒に探してくれたフツメン・クリストフのことを好きになり、最後は彼とキスをする。最初出会った時は、別に何とも思われてはいなかったであろう(むしろ、どこか煙たがられていたような)男を、である。そして物語の最後の方で、クリストフとの関係が「真実の愛」ということになっているのだ。

結局、アナにとって「真実の愛」は、「最初から」どこかに「あった」ものではなく、「これが真実の愛“だった”」という、いわば「後付け」のような認識によって、出てきたものだったのである。

――という解釈をしてみて、そこから直ちに教訓めいたものを引き出そうとするのは、野暮ったい。それでもあえて引き出してみるとするならば、それは「「本当の~」とか「ありのままの~」とかいうのにこだわっちゃうのは、危ないんじゃないの?」といったところだろうか。それが特に、「本当の私」とか「ありのままの自分」などといった、モヤモヤ感たっぷりなものになればなるほど、である。

そう考えると、「本当」とか「真実」とか「ありのまま」というのは、「後付け」のような認識から出てきたりするから、案外いい加減なものなのかもしれない。それは、「天職」(=「本当にやりたい仕事」とでも言い換えられるだろうか)とやらを探していた人が、最初は好きでもなかった仕事を色々やっていく内に、その中から「そうか、これが自分の天職だったんだ!」などという感覚を「勝手に」感じ取るのに似ている。これだって要は「後付け」である。

でも、別にいい加減でいいのだと思う。誰だって、最初は「本当」というものが、「本当でないもの」に先行していると考えたくなるのだ。そしてその内、「本当」というものは、「本当でないもの」に先行しているのではなく、実は「本当でない」と考えていたものの中に、自分の思う「本当」があったと「思い込む」ようになるのだ。「思い込む」、すなわち「後付けでそのように解釈する」のである。

だから、「ありのままの自分」とやらも、案外、「ありのままでない自分」の中にあったりするんじゃないか。そう考えると、「ありのままでない自分」こそ大事にしてやらないと、「ありのままの自分」を探していた人は、「ありのままの自分」を見つけられないかもしれない。
2013/03/06

『イエスマン』 ― 「イエス」と言ってはいけない

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(2010/04/21)
ジム・キャリー、ゾーイ・デシャネル 他

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内容紹介(Amazonより引用)

もしも、全てに“YES”と答えたら?
ジム・キャリー最新作
実話に基づく愛と笑いのポジティブ・ストーリー

仕事にもプライベートにも「ノー」「嫌だ」「パス」と答える極めて後ろ向きの男、カール・アレン(ジム・キャリー)。 親友の婚約パーティーまですっぽかし、「生き方を変えない限り、お前はひとりぼっちになる」と脅されたカールは、勇気を振り絞り、とあるセミナーに参加。“意味のある人生を送るための、唯一のルール”は、全てのことに、それがどんな事であっても「イエス」と言うだけ。何事も否定せず「イエス」を連発、偶然知り合ったアリソン(ゾーイ・デシャネル)は、彼の積極的でユーモアのある人柄に惚れ込む。人が変わったように運気をどんどん上げていくカール。 だが全てが好転し始めたとき、思わぬどんでん返しが待っていた・・・?

全てに“YES”と言ったらどうなるか、を実際に試してみたBBCラジオディレクターの体験実話が原作の『イエスマン “YES”は人生のパスワード』。

こんな時代だからこそ・・・笑って、ぐっと来て、とことん前向きに。

コメディー映画はあまり見ないタチなのだが、ゲオで本作が何本も置いてあったので、気になって借りてみた。

おもしろかった。思わず、なんども笑ってしまった。あらためて、ジム・キャリー(主人公)は、こういったコメディーものにはメッポウ強いな、ということを感じさせられた。


で、どんなストーリーかというと、上にも引用したように、とある冴えない銀行マンが、有名な自己啓発家に出会い、自分の人生を変えていく、というもの。変えていくやり方というのが、ただひたすら、あらゆることに対して肯定する(“Yes”と言っていく)、という簡単なものだ。


ところで、この映画のタイトルは「イエスマン」(原題も“Yes Man”)だが、周知のとおり、この言葉は、

人の言うことに何でも「はい、はい」と言って、無批判に従う人。「―ばかり登用するワンマン社長」(『大辞泉』)

という、あの「イエスマン」を思い起こさせる。で、これは和製英語ではなく、

a person who always agrees with people in authority in order to gain their approval (Oxford ADVANCED LEARNER’S Dictionary 7th edition)

と、本家本元の英語にも、この“yes-man”という言葉(概念)はあるのだ。


それで、わたしは映画を見終わったあとに、ふと気づいたのだが、この映画に隠された「本当」のメッセージとは、「イエスと言う(=現状を肯定する)ことで、人は人生を幸せに送れる」ということではなく、むしろ「“イエスマン”をやめることで、人は人生を幸せに送れる」ということだったのではないだろうか?

つまり、タイトルの「イエスマン」は、本当は「皮肉」であり「逆説」なのではないか? というのがわたしの考えである。


こんなふうに考えられる根拠というのが、映画の最後のほうに出てくる、ワン・シーンだ。

主人公はそれまで、あらゆるコトや人に対し、「イエス」と言ってきたのだが、それが裏目に出てしまう「事件」(=主人公が恋人と喧嘩してしまう)に遭遇する。主人公は「イエス」と言い続ける人生において、はじめて「挫折」を味わったのだ。

そんなとき、彼は、例の自己啓発家にまた出会う。自己啓発家は、「たしかに、わたしは“イエス”を言いなさいとは言ったが、それはあくまでも“自分が心の底から納得したものや、肯定したいものに対して”という条件付きだ。だから君は、勘違いしていたのだ」と、主人公の誤解を指摘する。


このことに気付かされた彼は考えを改め、ふたたび元気を取り戻し、みごとに恋人との仲直りに成功するのである。


ここで、物語の筋をもう少し簡潔に書き直すと、


ネガティブ思考だった主人公は、仕事も恋愛も失敗続き。

自己啓発家に出会い、あらゆることに「イエス」と言い続けることを決意。

これにより、一時のあいだは、順調な人生を歩む。

ところが、「イエスマン」になったことで、それまでうまくいっていた彼女と、ひょんなことから喧嘩してしまう。

「“イエス”と言うときは、本当に、心の底から納得したものや、信用できるものに対して、するべきだ」と考えを改める。

みごとに、恋人との仲を復活させる。


つまるところ、恋人との喧嘩をきっかけに、主人公は、それまでの「イエスマン」としての自分を「やめた」のだ(だからといって、もとのネガティブ思考に戻った、というわけではないが)。それによって、彼がもっとも望んでいた本当の恋を、成就させることができたのである。

そんなわけで、この映画は、単なる「ポジティブ・シンキングを始めた男のサクセスストーリー」などではなく、実は「ポジティブ・シンキングを“やめた”男のサクセスストーリー」だった、とも読めるのだ。

要するに、前者と後者、どちらの「読み」を取るかで、この映画は「意味」がまったく変わってしまうのである。なので、わたしは見終わって少しした後、「あっ、なるほど。これはうまいな~」と、改めて本作の「意味」に気付かされ、その「秀逸さ」に舌を巻いた次第だ。


ところで、この映画の主人公にかぎらず、現代日本においても、こうした「ポジティブ・シンキング神話」は根強いように感じる。なにかこう、「常に前向きに生きることこそ絶対善」であるかのような「信仰」が強いのではないか。

わたしは、どちらかと言うと、ポジティブ・シンキングをする人間ではない。というか、できないといったほうが正確だ。先のことには、なにかと不安になって、後向きに考えてしまうことが少なくない。そんなものだから、以前、知人から「お前はどんだけネガティブなんだよっ!」とツッコまれたことがある。

でも、わたしはそのほうがストレスが溜まらないので、むしろ「気楽」だ。「ポジティブに考えよう」→「ポジティブに考えなければ」という、無自覚的な「強制」がないからである。


それに、「ポジティブ・シンキング」というのは、見方によっては「現実逃避」のようにも思える

ポジティブ・シンキングは、本当は納得できないし、肯定もできないような現実を、なかば無理やりに「良く」捉えようとする考え方だ。だから、「『良く』捉えることで、本当は『良くはない』現実から、目を背ける」という思惑が、少なからず見え隠れしているように感じる。

イヤなものは、やっぱりイヤだ、ツライものは、やっぱりツライ、というのが生物感情の「原則」ではないだろうか? イヤなものは、はっきりイヤだと、ツライものははっきりツライと認めることのほうが、イヤなもの、ツライものをポジティブに捉えようとする態度より、よほど「負担」がないように思う。(このことについては、心理学的にも事実なようである。詳しくはこちら


このことは、この映画についても言える。

「イエスマン」という偽りの仮面を取り去ることで、主人公は、己が「本当に」望んでいた恋愛を実らせることができたのだ。おそらく、あのままずっと「イエスマン」を続けていたら、他人に「イエス」を言うことはできても、自分、そして自分が本当に愛する人に対しては、真の「イエス」を言うことはできなかったのではないか。だから、この映画の副題「“YES”は人生のパスワード」は、正確には、「本当の“YES”は人生のパスワード」なのだと思う。

ということで、この映画、けっこう「意味深」な、自己啓発映画だった。


2013/03/05

『最高の人生の見つけ方』 ― 最後/最期は、しんみりと終える方が、ぼくは好きです。

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(2010/04/21)
ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン 他

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内容(「Oricon」データベースより)

勤勉実直な自動車整備工と大金持ちの豪腕実業家。病院で出逢い人生の期限を言い渡された二人の男性が、棺おけに入る前にしておきたいこととして“バケット・リスト”に書き出したことを叶えるため旅行に出かける様を描いたハートフル・ストーリー。ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンほか出演。


それなりに有名な映画だったらしいので、鑑賞。

Amazonのレビューを見ると、かなり絶賛されていたが、わたしには正直なところ、あまり印象に残らなかった。が、アメリカ人の「死」に対する考え方には「ああ、なるほどなあ」と感じた

なにが「なるほど」なのかというと、この映画では、アメリカ人が「死」を、目には見えない「敵」と見なしているところだ。

そして、アメリカ人の大好きな「ファイティング・スピリット」(アメリカ映画はジャンルを問わず、「悪と徹底抗戦する」映画というのが非常に多い)でもって、主人公2人の老人(ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン)が、もうじき訪れる「死」に「抗し」ようするのである。



どんなふうに「抗する」のか? それが、「棺おけリスト」だ。これは、「自分が死ぬまでにやっておきたいこと」のリストである。2人はこれを作って、そこに書かれた「やりたいこと」を一個一個、一緒にこなしていく。

つまるところ2人は、「生」を思いっきり、まっとうする(=遊びつくす)ことで、きたるべき「死」に「反抗する」のだ。これが、わたしにはいかにもアメリカ人らしくて、「ああ、なるほどなあ」と思えたのである。



日本人だったら、たぶんこうはしないと思う。日本人なら、最初はただただ死への恐怖に耐えるも、ある日突然、ふと、

「これはもう宿命なのだ。どうしようもないことなのだ。死とはそういうものなのだ」

などと悟り、死を「敵」とは考えず、「天からの遣い」かなにかのように考えるのではないか(事実、「お迎え」という言葉がまさにそれである)。

つまり、「死」に対して「徹底抗戦」しようなどとは思わないし、死ぬまでのあいだの「To doリスト」なんてものは作らないだろうし、ましてやそれを一個一個こなして、遊びつくそうなどとも、考えつかないだろう。



要は、「あがく」ということを悪く捉える、ということだ。「悪あがき」という熟語があるように(「あがく」も、どちらかと言えばネガティブな言葉だが)。

それから、「往生際が悪い」なんて言い方もあるが、これも「日本的」ではないか。「往生」は死ぬことだが、要するに、いつまでも死なないでいる(=過ぎ去らないでいる)ことは見苦しいことだ、といった価値観が、この言葉には見え隠れしている。

昔から日本人は、死に対して、そういう見方をしてきたような気がする。

なんというか、「かげり」のあるものを愛でたり、さっと過ぎ去っていくようなもの、またはそういった様子を良しとする――そんな感性が根強いように思う。しばしば、「日本人のこころ」として引用される『徒然草』も、まさにそういった感性ゆえの産物である。



それに、映画のなかで、2人がやっていた遊びというのも、これまたアメリカ人らしい奢侈贅沢なものばかりである。

まるで、「生きるとは、贅沢しつくすこと」とでも言わんばかりに。そして、そういった贅沢を奪い去っていくものこそが「死」なのだ、だからわれわれは遊びつくすことで、死に対し「徹底抗戦」するのだ、とでも言わんばかりに。

そんなメッセージが、この映画から垣間見える。



もちろん、こんな「冷めた」見方をしなくとも、たとえば「ある日突然出会った男2人の友情物語」だとか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とか、そういった見方もできよう。現に、わたしもそう感じられるシーンがいくつかあった。

ただ、それらは映画の「表層」に流れるメッセージであって、わたしには、それらが「深層」にあるもののようには思えなかった。「深層」――すなわち、アメリカ人が「生」と「死」とを、それぞれどのように捉えているのか、ということである。



アメリカ人にとって、生きることも死ぬことも、どちらも「必死」なことのようである。生きる以上は、徹底的に生きる。というか、遊ぶ/遊びつくす。

一方、死ぬときは、徹底的に死に「反抗」する。無論、死は誰にでもやってくるものだから、結局は受け入れざるをえないわけだが、それでも生きているうちは、なにがなんでも生き続けようとする。こうした精神が、さっきわたしが言った「ファイティングスピリット」である。



一方、日本人には、生へのこうした「執着心」や、死に対し、なにがなんでも抗しようという気持ちは、ない(あるいは、希薄な)ように感じられる。サッと生きて、サッと死んでいくことに美を見出しているように思う。

生や死に「ガツガツしない」「ガッつかない」と言い換えればいいだろうか。要するに、さっきの意味での「ファイティングスピリット」が乏しいのである。



だからだろうか? わたしが、この映画にピンと来なかったのは。わたしは、こういった、生のみに「執着」しないことに美を見出す「日本的な価値観」のほうがなんとなく惹かれるのである。

この映画がAmazonでは高評価だった理由というのは、もしかしたら多くの人が、この映画を、さっきの「ある日突然出会った男2人の友情物語」とか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とかいったふうに捉えたから、かもしれない。

つまり、わたしのように、この2人の生き方を、生への「執着」=死への「抵抗」とは捉えずに、「友情で最期を生ききる」とか「家族のありがたみを感じながら生きる」とか、そのように捉える人が多かったのかもしれない。



もし、わたしが大金持ちでも、あと余命半年などと宣告されたら、おそらく2人のような「余生」を過ごしはしないと思う。それなりに体力があったとしても、である。

たぶん、毎日毎日、不安にはなるのだろうけれど、同時に、きっと、

「ああ、もうこれで最期なのか……」

という、どこかポツンとしたさみしさや、しんみりした感じを、なんとなく味わい、でもそんな気持ちになるのも一方では悪くないなぁ、などと思いつつ……といった、非常に複雑な心境で毎日を過ごすのではないかと思う。



たぶん、2人のように奢侈贅沢を極めようとすればするほど、それに増して悲しさと寂しさが募っていくような気がするのだ。

嫌なことがあって、ツライことがあって、それを忘れよう忘れようと思い、遊びに夢中になろうとすればするほど、逆に、嫌なこと、ツライことが吹き出てきて、どうしようもなくなるといったような、そんな感覚と似ている。そんな感覚が、死ぬときにも、自分には起きるのではないかと思うのだ。

そういう感覚が心のどこかにあるせいでもあるのか、だからわたしはこの2人の「余生」の過ごし方に共感できなかったのかもしれない。

もうじき死ぬとわかっているのに、なにかこう、

「オレは遊び尽くしてやるぞ!」
「死なんか怖くないぞ!」

みたいに振る舞ってしまっているように見えて、それが強がっているように見えて(つまり「悪あがき」「往生際の悪さ」に見えて)、逆に彼らのことが切なく思えてしまうのだ。



無論、そういったものも嫌いではない。元気があって、それはそれでいいと思う。しかし、たぶん自分は、そうはなれないと思う。憧れのような気持ちもあるにはあるが、だからといって、彼らのような「不屈の精神」を真似ようとは思っても、自分だったら所詮は猿真似で終わってしまうのではないか。

そんなわけで、わたしは、ものごとの最後/最後というは、しんみりした気持ちで終える、というのが好きだったりする。なにかそういった感覚に、「美しさ」があるような気がして


2013/02/18

大学生は「勉強」するな ― 『ペーパー・チェイス』

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(2010/03/26)
ティモシー・ボトムズ、リンゼイ・ワグナー 他

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「日本の大学生は勉強しない」と言われて久しい。

具体的にいつ頃から言われ始めたのかはわからないが、インターネットが登場して、ブログやらツイッターやらが普及した近年、こうした批判をつとにたくさん聞くようになったと感じる。それだけ、多くの人が大学教育に興味関心があるということの証左なのだろう。



それで先日、映画『ペーパー・チェイス』(1973年)を観た。

主人公は、超一流の名門校ハーバード法科大学院に通う学生・ハート(ティモシー・ボトムズ)。優秀な成績で卒業すれば、アメリカの競争社会でエリート街道を歩めることが約束されているこの大学で、ハートは毎日、何時間も法律の勉強に時間を注いでいる。

そんなある日、彼はふとした機会に、美女スーザン(リンゼイ・ワグナー)に出会う。そのまま2人は付き合いはじめるも、ハートは毎日の勉強に追われることで、スーザンとはなかなか会えない日々が続く。

しだいに、自分のやっていることにむなしさを感じはじめてきたハート。スーザンと会っても、つまらないことで喧嘩をしてしまうことが続く。結局、彼は最終的に彼女との恋愛を取ることに決めたのである。



「ハーバード大学は超名門校」というのは誰もが知っていることだが、実際どのような授業をしているのか、学生はどんな感じなのかといったことは、あまり知られていないと思う。ちょっと前に話題になった『ハーバード白熱教室』のサンデル教授のような授業は例外として。

だからこの映画は、そういったアメリカの大学がどのようなものなのか、その雰囲気を教えてくれる。

今回観た映画は、ハーバード大学のなかでもとりわけ難しい学部を取り上げている。だから、それ以外の他学部の勉強風景や学生の様子は正直わからない。しかし、明らかに日本の大学よりはずっとずっと厳しいはずである。

映画に出てくる学生たちは、とにかくみんな、勉強、勉強、勉強である。講義に出る際は、しっかり予習をしなければ、教授から来る質問にまず答えられない。だからみんな、毎日毎日、徹夜で勉強する。試験前となると、缶詰め状態である(実際、主人公が友人とホテルの一室を借り上げ、三日間ずっとそのなかで勉強する、というシーンが出てくる)。

で、優秀な成績で卒業できれば、政府でも超有名大企業でもウォール街でも、好きなところに幹部候補生として就職できるのだが、そういったものを目指すことに、ハートはむなしさを感じて、最終的には恋愛をとる。

映画最後のシーンで、大学から来た成績通知の手紙を紙ひこうきにしてしまい、それを大海原へと飛ばすハートの後ろ姿は、なんとも言えない清々しさと哀愁とが、絶妙に溶け合っていた。「ペーパー」(教科書、ノート、参考書、試験用紙、成績通知書――つまり、ありとあらゆる「紙」)から「チェイス」(追っかけまわす)されていたのを、ついに最後は突き放すのだ。



それで、見ていて何度も感じたことは、「大学(教育)とは何だろうか?」ということ。

正直なところ、先生から課題を与えられる→それをこなす、というサイクルは、高校までで十分だとぼくは思っている。では、大学では何をするのか(するべきなのか)?

それは徹底的に「知的な遊び」にふけることなんじゃないのか、と思う。逆説的な言い方をすれば、「大学生は“勉強”するな」である。

ぼくの思う「勉強」とは、「決められた答えがすでにあって、それをきちんと提示する作業」のことだ。こうした「勉強」は、たしかに一定の「知識」は身につく。でも、その「知識」は、基本的に応用が利かない。その「学問業界」という箱庭のなかだけでしか通用しないことが多い。

また、こうした「勉強」にも「考える」という動作は必要になることはあるが、「決まりきったもの」であることがほとんどである。思考に、独自性とか着眼点とか発想性とか、そういった要素はない。というか、そもそも重視されない。

高校(長くとも大学1年生)までは、こうした「勉強」でいいと思う。しかし、大学でまで、これを続けるのはいかがなものだろう。大学は、問題もその答えも、自分で作って自分で解くところではないのか、というのがぼくの考えだ。

この「問題もその答えも、自分で作って自分で解く」サイクルにおいて、大学教員ができることは、学生への「手助け」程度のものでしかない。というのも、問題設定は、「コレコレこうすればよい」とか「こうしておけば間違いない」といった教授法のようなものはないからである。教員ができることは、学生へ「こんな学問分野がある」「こんな文献がある」くらいのものだ。



そこで必要になるのが、「知的な遊び」である。具体的には読書だ。もっと具体的に言えば、新書と文庫の読み漁りである。

このとき重要なのが、決して読書を「勉強」にしないことだと思う。「この本を読んで、◯◯を身につける」とか「これを読めば、××はマスターできる」などと意気込まないことだ。大事なのは「遊ぶ」ことであり、「おもしろがる」ことである。

おもしろそうなタイトルの本があったら、目次を見てみる。それで気になる項目がひとつでもあれば、そこだけ読んでみる。もうこれだけで、立派な読書である。もちろん、一冊まるまる読むのもアリだ。こんな調子で読書をする。それが「知的な遊び」だとぼくは思う。

いまはカンタンに映画やDVDが見られる時代になった。こうしたものを、同じように見てみることも「現代の読書」だろう。できれば、アクションものとかラブストーリーものではなく、社会派がいい。

こうしたことを続けていけば、おのずと興味関心も広がるし、自分で考えることも始めるだろう。またレポートや卒論を書くとき、こうした「雑食的な読書」が後々モノを言ったりするものだ。



映画のなかでは、学生たちのこうした「知的な遊び」がまったく見られない。みな、「勉強」ばかりしている。無論、「勉強」というものが必要な場であり、それをしてでも目指したいものがあるのだろう。が、なんというか、見ているこっちも息が詰まりそうだった。「ガリ勉」という言葉が、まさにピッタリな人たちばかりだった。

主人公のハートが、結局こうした「勉強」に疑問を持ったのも、それが自分を「支配」してしまっているからだろう。現に彼は、映画のなかで何度も「ぼくは教授に支配されている」というセリフを吐いていた。そして、「支配」されておかしくなってしまった友人のひとりが、自殺未遂までしてしまうのである。「支配」――イヤなことばだ。



こういうものを見ていると、「案外、日本の大学の“いい加減さ”も悪くないな」と思えてくる。アメリカの大学のように、「勉強」を押し付けてくることがない(あるいは、少ない)からだ。見方を変えれば、「知的な遊び」に思う存分ふけることができる、ということでもある。つまり、「支配」がないのだ。

ただひとつ、残念なことといえば、あまりにもユルい環境だから、かえって「知的な遊び」すらもしなくなる、ということだろうか。「本なんて、いつでも読めるじゃないか」という思いが、多くの日本の大学生の根底にあるのだろう。そして始めることというのが、「知的でない遊び」である。バイト、サークル、飲み会、etc……。「コミュ力」を磨き、「人脈」をつくり、「リア充」になるために。

もちろん、これらに意味がない、無駄だ、とはこれっぽっちも思わない。でも、うつつを抜かすのはマズい。うつつを抜かすのなら「知的な遊び」のほうが絶対にいい。ぼくの経験から、自信を持ってそう言える。就職はもちろん、生きる上で大いに役立つはずだ。それに、こんな「遊び」にたくさん浸っていられる時期なんて、大学時代以外ないだろう。「老後にでもやれるだろう」なんて、遅すぎる。



例によって、映画をダシに「自分語り」をしてみたが、そうしたものを抜きにしても、この映画は見ていて楽しかった。理想の青春時代と言える。ぼくも大学時代、美人な女の子とこんな生活をしてみたかったなあ。はあ~。

ところで、リンゼイ・ワグナーの美貌は見ものだ。いまでも、昔の面影は消えていない。かなりどうでもいいが、ボク好みの白人女性だった。


2013/02/15

映画『ダイ・ハード/ラスト・デイ』を見に行ってきた。

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公式サイトはこちら


今回のダイ・ハードの副題「ラスト・デイ」を見る限り、これでシリーズ最後となるようだが……

残念ながら、わたしはイマイチに感じた。最終作になるから、けっこう期待していたのだが、ストーリー展開といい、登場人物といい、どうも物足りなかった。



まず、残念だった点の1つめが、主人公マクレーン(ブルース・ウィリス)の戦い方。ダイ・ハード4までの「伝統」だった、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」という彼の戦闘流儀がほとんど見られなかったのだ。

武器ではないが「使いようによっては武器になりえる物」でもって相手を殺す、というマクレーンの手法が、わたしは大好きだったのだが、残念ながら今作ではそれがほとんど見られなかった。普通に銃で戦うだけだった。

この、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」というやり方で、わたしが一番好きだったのは、ダイ・ハード4に出てくる、消火栓を車で引き倒して水を大噴出させ、それを上空にいる敵ヘリの射撃手にめがけて当てる、というシーン

ダイ・ハード4のコンセプトは、ずばり「アナログ人間VSデジタル人間」だった。敵はコンピュータを使いこなすインテリハッカーたち。そんな「デジタル人間」な彼らを、機械オンチな「アナログ人間」マクレーンが、原始的な攻撃方法で敵を倒す、というところに、わたしはすごく魅力を感じていた。

そういう演出が、残念ながらほとんどなかった。今作では、あの「伝統」が受け継がれなかったのである。



それで、2つめに残念だったのが、ラストの戦闘シーン

敵の飛行機がマクレーンの息子・ジャック(ジェイ・コートニー)を射撃している時、機内に忍び込んでいたマクレーンが、中に積んであった車を鎖で飛行機につなぎ留め、その状態で車に乗って地上めがけてアクセルを踏む場面があった。車は飛行機の「お尻」から飛び出し、そのまま車は「お尻」とつながった状態で宙吊りになる。一気に重心が後ろに傾いたその飛行機はバランスを崩すのだ。

ここまでは良かった。ここでは、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」の「伝統」がちゃんと受け継がれている。

しかし、ここから先がダメだった。そのままバランスを崩した飛行機は、なぜかジャックめがけて体当たりしてきたのである。ジャックにやられた敵・コマロフ(セバスチャン・コッホ)の「敵討ち」と称して。

べつにバランスを崩した段階では、まだ飛行機は致命傷を負ったわけではなかったのに、なぜか「意図的」にジャックのいる建物へと突っ込んでいくのだ。正直、理由がわからなかった。

いくら「敵討ち」とはいえ、「自分の命をみすみす捨ててまでこんなことするかぁ?」という疑問のほうが、映像のインパクトよりも、わたしには強く残った。なんか非現実的というか、「リアリティ」が欠けているような気がして



以上の2つが、わたしとしては残念だった。

ただ、どの戦闘シーンも迫力が凄まじかったので、十二分に惹き込まれる。ブッ飛んだカーチェイスや、弾丸のフッ飛ばし方、物やガラスが砕けてその破片が飛び散っていく演出などは、シリーズのなかでは今作がもっとも良かったと思う(明らかにCGだな、とわかってしまう部分も少なくなかったが)。



で、今作でシリーズ最後、ということらしいが、「もしかしたら続編があったりして」ともわたしは思っている。

というのも、今回はじめて「マクレーンとその息子・ジャック」が「一緒に戦う」という設定になっているので、ブルース・ウィリス引退後(彼はもう年だろう)、ジャック役を演じたジェイ・コートニーが、新たに「ダイ・ハード」シリーズを引き継ぐのではないか、と考えられなくもないからだ。

しかし、「ダイ・ハード」=ブルース・ウィルス、という等式の魅力があまりにも強いから、やはりこれで最後、ということになるのかもしれない。仮に続編があったとしたら、「ダイ・ハード・リターン」とか、「ダイ・ハード・アゲイン」とか、「ダイ・ハード・ザ・レジェンド」とか、そんな感じになりそうである。

ところで番宣で、マクレーンは「世界で最もツイてない男」などという不名誉な異名を与えられていたが、25年もの間、超ハイパー危険な戦闘に何度も巻き込まれ、何度も殺されそうになりながら、それでもなお死ななかった(文字どおり、「ダイ・ハード」=「なかなか死なない」である)のだから、ある意味「世界で最もツイてる男」でもあるじゃないのか、と思う。



ということで、ダイ・ハードファン必見の映画だった。ダイ・ハードファンじゃなくてもそこそこ楽しめます。

2013/02/07

「みんな」という“暴力” ― 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]
(2009/02/27)
坂井真紀、ARATA 他

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レンタルショップで発見。

私は、あの有名な「あさま山荘事件」をリアルタイムで見ていた人間ではない。だから当時、世間を大きくにぎわせたこの事件が、どんなものだったかを知りたいという欲求から、レンタルしてみた。



映画はだいたい3時間。

最初の30分ぐらいまでは、「日本の学生運動とは何だったのか?」という説明。

そこからおおよそ2時間、いわゆる「連合赤軍」(あさま山荘事件を起こした学生主体による軍隊)がどのようにでき上がっていったのか、どんなことをしていたのかという描写が続く。ここがこの映画のメイン。

そして最後の30分。あさま山荘での連合赤軍と警察との攻防戦。学生たちは結局逮捕される。


そして感想は?というと、いつもどおり、問答無用ですごくおもしろかった

さっきいった2時間の部分で、あの事件を起こすまでに、連合赤軍がどんなことをしていたのかが、映画のなかに出てくるのだが、一言でその内容をいってしまえば「リンチ・オンリー」である。そしてそれがすごく「イヤらしい」のだ。

まず、連合赤軍のトップ2人(森恒夫と永田洋子)が、「共産主義化」というのができていない軍のメンバーを見つける。

共産主義化――かなり簡単にいうと、連合赤軍の「考え方」に染まることだ。この「共産主義化」が“徹底”されていないヤツは、トップにイジられたり、ほかのメンバーからトップに密告されたりするのだ。

そして、吊るし上げられた者は「総括」という名のもと、メンバー全員から殴られ、蹴られ、引っ叩かれる。そして、最後は死んでしまう(男女問わず、殴打されたあとの顔がグロかった)。

それで、こうしたリンチのなにが「イヤらしい」のかというと、リンチそのものが徐々に「自己目的化」していくところ。日本に「革命」を起こすという、軍の本来の目的がだんだんと遠のいていき、目的のための「手段」にすぎなかった「非・共産主義者」へのリンチが、「真の目的」のようになっていくのである。

そしてさらに「イヤらしい」のが、メンバー全員が互いに「非・共産主義者」でないか、監視しあっているということ。べつに誰からも「監視しろ」とは命令されていないにもかかわらず、だ。


ところで、こういう状況、つまり、


1:「恐怖政治」が組織内で自己目的化していくこと。

2:誰かから命令されたわけでもないのに、メンバー全員がお互いを怪しい者でないかどうか監視しあうこと。


というのは、なにかこう、日本社会において全体的に見られることなんじゃないのか、と私は思う。

こういう構造の「イヤらしさ」は、最初、「お上」に当たるような人が「恐怖政治」をやっていたのに、それをいつしか「みんな」が「みんな」にやるようになってしまっている点だ。

たぶんこうやって、いわゆる「みんないっしょじゃないといけない空気」みたいなものが蔓延し始めるのだろう。しかも不幸なことに、こうした「束縛感」をそもそも作ったのは「お上」なのだ、ということに、もうこうなってしまった時点で誰も「気づけない」のだ。

矢印を使って言い直すと、


「お上」が「恐怖政治」を始める。

「みんな」がそれを恐れる。

「お上」の怒りを買う者がでてこないか、「みんな」が「みんな」を相互に監視しはじめる(みんな恐怖を味わいたくないし、恐怖政治の現場にも立ちあいたくないから)。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が徐々につくられていく。

「みんな」が「みんな」を相互に監視しあっているから、この「みんないっしょじゃないといけない空気」を壊した者は、「みんな」から制裁される。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が、より「強化」される。

こうして「お上」による「恐怖政治」は、いつの間にか「みんな」による「恐怖政治」へとすりかわっていく。



だいたい、こんな感じだろうか。

そう考えると、この映画の中で連合赤軍がやったことというのは、僕たちの日常のなかにもそれと似たようなことが見られるのではないか、と感じる。つまり、こうした事例というのは、連合赤軍だけの問題ではないと思うのだ。

殴る蹴るの肉体的な暴力ではない、「恐怖」という精神的な暴力。そしてそれを引き起こしているのが「お上」だけではなく、「みんな」であるということ――つまり、「みんな」という存在も、「みんないっしょ」という「空気」も、ひとつの「暴力」たりえる、ということだ。

ちなみに映画では、こうしたリンチされるシーンが、ほかのシーンよりも圧倒的に多く描かれている。もしかしたら、若松孝二監督は、こういうシーンを多く撮ることで、「みんな」という「罠」がいかに根の深いものかを、表現しようとしたのかもしれない。

そういう意味で、すごく示唆に富む映画だった。
2013/01/31

承認欲求地獄 ― 映画『ユダ』の感想

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公式サイトはこちら

日曜の朝にやっているテレビ番組「サンデー・ジャポン」で宣伝されていたので観に行った。原作は『ユダ』(幻冬舎文庫)という同名の本だ。

マイナーな映画らしく、公開している劇場が限られている。私は「新宿ミラノ」で鑑賞した。散漫なところも多少あったが、役者も良く、すごく面白かった。いい映画だったと思う。

内容は、元歌舞伎町ナンバーワン・キャバクラ嬢、立花胡桃の半生を描いたものだ。


高校生だったその冴えない少女は、ある晩、とある男からキャバクラ嬢をやらないかと誘われる。短期間、好きな時だけ働けばよく、金に困ってもいたため、胡桃はその仕事に踏み込むことにした。

しかし、気がつけば歌舞伎町で、しかもナンバーワンの指名率を勝ち取るまでになる。だが、それも長くは続かなかった。金と欲望、一時の友情と裏切り、そして偽善が徐々に彼女を狂わせていく。


私はキャバクラという所に行ったことがない。昔、あるバイト先の上司に、そこへ連れて行ってもらえそうにはなったが、その時は時間が時間で、結局行きそびれてしまった(今もけっこう後悔している)。

そんなわけで、キャバクラそのものへの関心と、キャバクラ嬢をやる女の子たちの心理とはどのようなものかを知りたいという理由から、この映画を観に行った。

キャバ嬢という仕事は、相手の男に、「しばらく会えなくて寂しかった」とか「今度はいつ来てくれるの?」とか「今日は誕生日だね、おめでとう!」とか言って「営業」するものの、それはすべては男の承認欲求(相手に「認められたい」「好かれたい」といった気持ち)を満たしてリピーターにするためなのだと鑑賞前は思っていた。

つまり、「相手(男)の承認欲求を満たしてあげる」ことが最も重要視される仕事なのだとわたしは考えていた。

ところが、映画を観ていて気づかされた。実はキャバ嬢の女の子たちも、男たちによって承認欲求を満た「され」ているのだ。たくさんの男たちから指名される。徐々に位が上がっていく。それは紛れもなく自尊心(承認欲求)が満たされることを意味する。

映画では、キャバ嬢たちが休み時間中のお喋りで、「男なんておだててナンボ。笑顔も好意も全部“営業”」という赤裸々な話をするシーンが出てくる。それはそれで確かだろう。

しかし、そんな彼女たちであっても、笑顔も好意も全部「営業」で、おだててナンボの野郎たちがいなければ、自らの承認欲求を満たすことはできないのだ。



鑑賞途中でこのことに気づかされ、すごく切ない気持ちなった

お互い、多かれ少なかれ相手を見下す感情がそこにはあると思う。一方は他方を金ヅルと見なす。その他方は相手を、肉体的にも精神的にも征服したい欲を持つ。そんな両者を結びつけるのは金銭のみ。

そしてその金銭を媒介に、彼・彼女たちは自らの自尊心・虚栄心を満たそうとし続けるのである。

しかし当たり前ながら、そのような方法で承認欲求を満たし続けるやり方は、いずれ破綻する。胡桃と親しくしていた男たちは借金や警察に追われるハメになり、彼女も昔から接待していた冴えない客に本気にされ、襲われてしまう。昔の勤め先の先輩からの助言もあり、最終的に胡桃はこの仕事を辞める決意をする。

当初、胡桃と接待客との“win-win”だった関係は、次第に“lose-lose”の関係へと転落していくのだ。

結局、金で「認められたい」「好かれたい」という気持ちは、完全には満たされない、満たされた気にはなっても、それは一時的なものにすぎない、というシンプルな結論に落ち着く。シンプルではあるけれど、どこかで何かを間違うと、この「事実」を忘れるのだろう。

そういう意味で、キャバクラは「怖い」ところだ。ヤーさんが運営しているかもしれないから怖い、という意味ではなく、キャバクラにハマりすぎてこの単純な「事実」を忘れるかもしれないから怖い、という意味で。

以前ネットで、「女の子が就きたい職業」にキャバ嬢がトップテン入りしていたとかいうニュースが話題になった。しかし、この映画のことを考えてみて、改めて感じた。

無理もないかもしれない。だってなんだか、自分の自尊心や、「私はこの店に必要とされている」という感覚が満たされそうな雰囲気がするのだから。しかも高給取りだ。危なそうな感じもするけど、「おいしそうな」匂いもする。

もし、そう感じている子が近くにいたら(実際はいない)、私はこの映画を観ることを薦めようと思う。キャバ嬢の世界は「けっこう大変」だということを知らせるためには、格好の「教材」だから。



ところで、タイトルについてだが、「ユダ」とは、新約聖書に出てくるあの「ユダ」のことである。十二使徒の一人だが、彼はイエスを敵に売った背信の徒だ。

つまり、裏切り者である。そんな彼に、作者の立花は自分をなぞらえてタイトルを『ユダ』にしたのだろう。別に、この物語はキリスト教とは一切関係ない。そんなわけでこの映画(本も)は、かつての自分が「ユダ」であったという告白、そしてそんな自分を描くことで今の自分を戒めるための、立花胡桃による「懺悔録」とも読めそうである。


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ユダ〈下〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)ユダ〈下〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)
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立花 胡桃

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2013/01/06

「常に戦う」「絶対に負けない」「正義のために」というファンタジー ― 『フェア・ゲーム』

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普段、映画を二度見することはないのだが、この映画は例外だった。かなり楽しませてもらった。

以下、本映画のあらすじ。

CIAの諜報員であるヴァレリー(女性)と、元アメリカ大使の夫のジョーは、9・11後、イラクの核開発を調査するも、そこでは核開発はなされていないという結論に至った。しかし、アメリカ政府は彼らの報告を信じず(「信じたがらず」と言った方が正確だろうか)、結局イラク戦争に踏み切ってしまう。「真実」を知っているジョーは、アメリカ政府を厳しく批判。ところが、これに腹を立てた政府上層部はヴァレリーがCIAの諜報員であることを世間に暴露してしまうのだ。見知らぬ人間たちから数々の嫌がらせを受けながらも、彼女たちは屈せずに政府と戦う――おおよそ、こんなストーリーである。ちなみにこの作品は実話に基づいているらしく、ヴァレリーもジョーも実在の人物である。

それにしても、アメリカのエリートは優秀だと私は思っていたのだが、どうやらそうでもないようである。「平和を守るため」なんていうのは、(全くのウソではないにせよ)所詮はタテマエなのであって、本音は「攻撃されたのが悔しくてたまらないから」「徹底的に相手を潰したいから」なのだ。CIAが調べ上げて出した事実がどうであれ、それを理性にもとづいていかに対処するかという考えは、微塵も頭になかったのだろう。

つまり、アメリカは己の「ファンタジー」に固執したかったのである。現実が嫌になると、みな「ファンタジー」に逃げたくなるのは同じかもしれないが、それを国家規模でやってしまったというのは、本当に信じがたい。

ところで映画を観ていて、こうしたアメリカ政府のイラクに対する措置と、ヴァレリーやジョーの行動とには共通点があることに気がついた。それは「常に何者かと戦う(戦いたがる)」という点である。例えば、ヴァレリーの身元がバラされたことを理由に、ジョーが「政府と徹底的に戦ってやる」と彼女に宣言するシーンが出てくる。さらに映画の最後の方で、彼は「自分がおかしいと思うこと、疑問に思ったことは口にしろ、大きな声で叫べ」と、とある講演会で演説するのだ。

ここに、アメリカ人の1つの気質が垣間見られると思う。絶対に敵には屈服しない。何が何でも負けない。勝つまで常に戦い続ける。そういったファイティングスピリットが、日本人に比べて非常に強いように感じられる。さすがは訴訟大国である。

無論、日本人にだって昔は「大和魂」とか「欲しがりません、勝つまでは」みたいなことを叫んでいた時期はあった。「大和魂」は今でもスポーツの試合などで耳にする。しかし見ていると、どうも本当は戦々恐々としていて、でも敵にそのことを悟られたくないから、とりあえず「形」だけ、言葉の上だけ強そうに見せておけばいいや、というのが事実なのではないか。アメリカみたいに、本気で敵が憎くて、何が何でも相手を負かさないと気が済まないといった、執念や怨念のようなものはほとんど感じられない。

強烈なファイティングスピリットに加えて、「正義」(justice)という言葉も、アメリカ映画やアメリカ人の口からよく見聞きする。「正義を守る」とか「正義のために戦う」とかいった形でだ。一昨年流行ったサンデル教授の本も、そのコアには「正義」があった。「正義」とは何か、どうすれば「正義」であり続けることができるのか、それが「サンデル本」のメインテーマだった。一方、日本で「正義」「正義」と言うと、かなり気取った感じが否めない。

総じて、アメリカでは「ファンタジー」が非常に好まれるのだろう。「アメリカンヒーロー」というお決まりの言葉がそれを象徴している。きっと彼の国では、みんなが「ヒーロー」になりたがっているのではないだろうか(あるいは、「ヒーロー」であると“錯覚”しているのではないか)。「ヒーロー」は敵に負けないし、「正義」の味方だし、平和も守ってくれる。そして常に何者かと戦い続けている。そういう「ファンタジー」が、どうもアメリカという国には強く根を張っているようだ。

私は、そういったアメリカの国民性(?)というものが結構好きである。日本にそういったものはない(あっても希薄だ)し、また彼らを見ていると時々元気づけられるからだ。

しかし、である。いかんせん、いつもいつもこんな調子では次第に「疲れる」のではないだろうか。いや、確実に「疲れる」。身がもたないのは間違いない(だからアメリカ人はジムに行ってよく体を鍛えるのだろうか)。

つまるところ、常に「ファンタジー」に浸っていると、「体の調子」をおかしくするということだ。最悪な時には「暴走」してしまう(イラク戦争を始めたように)。そして最も厄介なのは、ほとんど全ての人が「ファンタジー」の中にいるから、誰かが現実を見せつけても容易に信じようとしない、あるいは信じたがらない点だ。

以前のエントリーにも書いたが、こういうことに陥らないためにも、普段から「生の現実」をよくよく観察しておく必要があると思う。現実を直視するというのは確かにつらく難しいことだが、あらぬ方向へと「暴走」する時というのは、総じて「ファンタジー」に入り浸っている時である。
2012/12/18

リーダーは、「サディスト」であれ ― 『マーガレット・サッチャー』

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この映画は、サッチャーの政治家人生を「大まかに」描いたものなので、全体としては今ひとつという感想が拭えない。しかし、彼女の持つタフネスはよく伝わった。「鉄の女」という異名は、(これを見た限り)伊達ではなかったようである。

映画の後半で、サッチャー自身が、政治家が「人気者」になろうとすることを強く批判するシーンが何度か出てくるのだが、それが個人的に印象に残った。国民に媚びへつらう政治をするのはいけない。今その時は苦渋の決断であっても、そして国民に負担を強いることになっても、それが後々にはきっと高く評価される、そういう決断をすべきだ――おおよそ、こんなセリフを彼女は口にしていた。

「おもしろい」ことに、今の日本ではこの逆の状態が起きている(いや、「誰か」が「起こしている」と言った方が正確だろうか)。例えば、それは「国民の“みなさま”」とか「“国民に優しい”政治」とか、政治家が国民に対し「~“させていただきます”」といった定型句として表れている。これらに共通しているのは、政治家は「商人」であり、国民は「お客さま」という構図だ。もっと「いやらしく」言い直せば、政治という目には見えない「サービス」を施す者と、それを「享受」する者という図式である(このような点から見て、政治家を俗に「政治屋」などと言うのは、「二重の皮肉」なのではないか)。

さて、映画後半、サッチャーに挫折が訪れる。あまりにも独断的になりすぎたために、周りから反発を食らうのだ。結果、ライバルに敗れ、10年ほどに渡った首相の座を明け渡すことになる。10年! かなりの長期政権である。しかも、家柄と男性性が重視される政治という場で、である。これは大変な「偉業」ではないか(サッチャーのやった「内容」が「偉業」であるかは、この際問わないことにする)。

なぜここまで続いたのか、という詳密な分析は政治学者に譲るべきだが、私が思うその理由は、サッチャーが国民に「優しくなかった」から、に尽きる。もっと刺激的な言葉で表現すれば、国民という「マゾヒスト」に対して、彼女は常に「サディスト」であり続けたからだと思う。

もう一度言おう。「サディスト」である。これは単に、「威厳に満ちた政治家」とか、「国民に畏れられている政治家」といったような者たちとは全く違う。人々に「恐れ」と「畏れ」を抱かせるという点では先の2つと共通するが、それに加え、相手に「快感」をも与えるという点においては、「サディスト」は特異な存在である。

問題は、――人々が何を「快感」としているのか、どんなふうに「弄んであげ」れば、その「快感」を与えることができるのか――この2つをどうやって知り得るかだ。ただひたすら、ムチで引っ叩いたり、三角木馬に乗せてイタブったり、ロウを体に垂らしても、人々は「マゾヒスト」であり続けることはできない。むしろ反発心が芽生えてしまうからである。

おそらくサッチャーは、イギリス国民の「快感」と、彼(女)らの「いじり方」をよく知っていたのだろう。仮にそう考えると、「鉄の女」という異名に、何か非常にイミシンな響きを感じずにはいられない。というのも、英語の「鉄」(iron)は、「鉄製の器具」とか「手錠」といった、アレなものも意味するからである。

以上は冗談だが、しかし、優れたリーダーである人たちに、おおよそ「サディスティック」な側面があるのは否定しがたい。彼(女)らは、相手に厳しく接しつつも、「快」を与えているのである。

この「サディスティック」は、性格的なものなので、技術でどうこうできるものではない。だから、「サディスティック」性のない人が、リーダーシップ論を説いた本を読んだところで、「とりあえずのリーダー」にはなれても、「優れたリーダー」にはなれないと思う。

今の日本の政治家に、「サディスト」はいない(「マゾヒスト」はたくさんいるが)。むしろ、国民が「サディスト」になってしまっている感がある(しかも、なんらの「快感」も与えない、非常に「冷酷」な「サディスト」である)。政権が再び交代した今、既存の「サディスト」たちを、「マゾヒスト」化させるだけの力がある、「サディスティック」な政治家が、果たして現れるのか――「マゾヒスティック」な政治家たちを、毎日、テレビで見るのはもう勘弁である。
2012/02/06

結婚しても「しあわせ」になれない人について

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(2011/02/26)
笠智衆 原節子

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小津安二郎の映画、ここ最近週1ペースで見ているのだが、どれもすこぶるいい。

べつになにかすごくインパクトのあることが映画の中で起きるわけではない。ただひたすら、ある家族の一風景を描き続けているだけなのだが、妙に心に響くのだ。

今回見たのは『晩春』(1949年)という作品。

父(笠智衆)とその娘(原節子)が二人で仲良く暮らしている中、娘のお見合い結婚の話が持ち上がってくる。娘はどうしてもお父さんと一緒にいたいため、縁談に乗り気でない。最終的に娘は父に説得され、結婚する、という内容だ。

もしわたしが父の立場で、原節子のような美人娘に「お父さんと一緒にいたい」と言われれば、「そうか!なら嫁に行かなくてよろしい!」とはっきり言ってしまうと思うが、なぜかそのお父さんは、娘を嫁に行かせようとする。そこが不思議だ。

物語とは関係ないが、わたしは「お見合い結婚」という制度を高く評価している。なぜかというと、親を含めた周りの人たちから、結婚相手の客観的な人物評価が得られるからだ。自分だけの目で判断するよりも、色んな人の目から判断してもらった方が、結婚後うまくいきやすくなるのではないか。

それに、もともと日本人は欧米人に比べて異性への愛情表現に積極的ではない(もっと言えば下手)。草食系男子なんていうのも、おそらく最近になって出てきた新傾向でもなんでもなく、ずっと昔から多くの日本男子がそうだったのではないか。

だからそれを見かねた周りの大人たちは「とりあえずアイツとアノ娘をくっつけよう」という感じで、二人の縁談をなかば勝手に決めたりした。それが「お見合い結婚」の始まりだったのではないかと思う。

つまり、お見合い結婚は日本人にとってものすごく有意義な制度なのだ。

話を戻そう。そんなお父さん、旅先の旅館で娘と帰りの身じたくをしている最中、なかなか興味ぶかいことを言う。

「しあわせっていうのは、結婚して生まれるものじゃない。結婚した二人が、お互いに作り上げていくものなんだよ」

うーん。まだ結婚していないから、「ケッコン」というのがどういうものなのか、わたしには分からないが、少なくとも「“しあわせ”は自分で作るものだ」という考えはその通りだと思う。「しあわせ」を「たのしさ」や「おもしろさ」と置き換えてもいいだろう。

最近、わたしが個人的に実感しているのは「他人から与えられた「しあわせ」をもらっても、“本当のしあわせ”を得られる可能性はかぎりなく少ない」というもの。

なんでこんなことを言うのかというと、わたしの周囲にいる人で「つまらない」と感じている人は、往々にして、ひたすら「他人から“しあわせ”を与えられること」を望んでいる傾向が見られるから。

もしかすると、お見合い結婚よりも恋愛結婚した人たちの方が、離婚率が高いというのは、このことが原因のひとつなのかもしれない。

お見合い結婚であれば、いい意味であきらめがつく。なにかにつけて「お見合い結婚だし、まあしょうがねえか」という感じで割り切れるかもしれない。だが一方、恋愛結婚はあきらめがつきにくい。

お互いが「最高と思える相手」と結婚したにもかかわらず、いっしょにいて「つまらない」からだ。「付きあっていた頃はあんなにステキに思えた彼/彼女が、なんで結婚後にはこんなことに?」なんていう気持ちも、しばしば起こりえるだろう。

大好きな彼氏/彼女が、自分のために「しあわせ」をつくってくれるはずだ。だから自分はこの人といっしょにいると「しあわせ」になれるのだ ―― こういう錯覚があるとすれば、おそらく結婚後は失望の連続しかないのではないかと思う。

ここにあるのは、「しあわせ」という見えない物体がやってくることを待つ姿勢だけだ(偏見を承知で言わせてもらうが、こういう姿勢はわりと女性に多く見られる気がする)。

「結婚するしあわせ」を望む人はしあわせになれない。結婚後にしあわせを「作ろうとする」人はしあわせになれる ―― そう思わせてくれる作品である。
2011/12/26

映画『ザ・コーヴ』に見られるオリエンタリズム


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(2011/02/25)
ルイ・シホヨス、リチャード・オバリー 他

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映画館上映から一年以上経っているにもかかわらず、いまさら取り上げるのもナンセンスだとは思うが、今日鑑賞してみて気になった点があったので、そのことを少々。


この映画で挙げている問題点は以下のとおり。

①:人間よりも知性のある(と考えられている)イルカを、和歌山の大地町にいる漁師たちが食用として乱獲している。(これが主題)

②:イルカには多量の水銀が含まれており、食べるのはかなり危険であるが、多くの日本人はこのことを知らない。

③:イルカの殺し方が極めて残酷であり野蛮である。


ただこの映画は、途中で①から②へと、制作者側の主題が大きくすり替わっている。つまり、彼らの本当の目的は①を阻止するためであるが、後半から②へ方向性をシフトすることで、あたかも「我々は“日本人のためを思って”こういった反イルカ捕獲活動をやっているのだ」といった形にうまく仕立て上げている。そして観客に自分たちの「善意」を伝えたところで、今度は③に主題が切り替わり、イルカの大量虐殺という「むごたらしい」映像を流してこの映画は終わる。


で、イルカを食用とすることやその殺し方が、生命倫理に抵触するのかどうかについてはさておき、ここに故エドワード・サイードの指摘する「オリエンタリズム」が垣間見られるのではないか、というのが個人的な感想だ。つまり、「理性ある西欧人」から見た「非論理的で野蛮な東洋人(日本人)」という構図が、この映画のフレームになっているのである。


彼らが世界的に反イルカ捕獲活動を展開しているのであれば、あえて日本にだけその焦点を当てるのはおかしな話だ。実際、日本以外にもイルカを捕まえている国はいくらでもある。映画の前半では、日本以外の国のイルカ捕獲事情も取り上げられているが、それはほんのわずか。残りはすべて日本にのみ話題が集中している。


人間は生きるために他の生き物を殺して栄養をとるわけだが、殊にイルカに関してはその知性の高さを主な根拠に、食用とすることを彼らは認めない。しかし、この映画ではその認めない理由を、イルカの知性の高さよりも、ほとんど②や③とすることで、見る者の感情に訴えようとする。その背後には、日本人(東洋人)の「無知」(大方の日本人が、イルカに水銀が含まれていることや、そもそも日本でイルカが食用にされているのを知らないという事実)や「残虐性」(イルカを船で網の角まで追い込み、入江を文字通り血の海にして殺す漁師たちの姿)を描くことだけに終始している感が否めない。


そんな「未開人」である日本人たちを「啓蒙」し、「道徳心ある善良な国民」にすべく、我々はこのような反イルカ捕獲活動を続けているのだ――こうした、一見もっともそうな大義名分をこの作品に託し、自分たちの論理(それ故、立入禁止の場所に勝手に入ることも、そこでの現状を隠し撮りすることも許されるという考え)を全面に出しておきながら、日本側の論理は否定するという姿勢も見受けられる。


さらに、大地町における捕鯨活動(イルカも鯨の内に含まれる)には古くからの歴史があるのだが、彼らが「日本人の多くが知らないものを伝統文化と呼ぶのは間違いだ」としている点も、結局のところ、「何をもって“伝統文化”とするかどうかの基準は、我々西欧人にある」というオリエンタリズム的なメッセージに他ならないのではないか。


ちなみにこの記事によると、イルカ漁に反対する学生の数が、この映画を見る前と比べて4倍に増えたと報じているが、それは「日本人による日本人へのオリエンタリズムが形成された」という視点で見れば、制作者側にとってこれ以上の喜びはないだろう。



オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)
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エドワード・W. サイード

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オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)オリエンタリズム〈下〉 (平凡社ライブラリー)
(1993/06)
エドワード・W. サイード

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2011/09/09

どん臭く、愚直で、しかし美しい生き様 ― 『日の名残り』


日の名残り (ハヤカワepi文庫)日の名残り (ハヤカワepi文庫)
(2001/05)
カズオ イシグロ

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日の名残り コレクターズ・エディション [DVD]日の名残り コレクターズ・エディション [DVD]
(2009/11/04)
アンソニー・ホプキンズ、エマ・トンプソン 他

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これは、ただひたすら、「執事」という仕事に励む男の話である。「愚直に」と言い換えても差しつかえない。どこまでも、どこまでも、主人のために尽くし、主人のために働くのが、この物語の主人公なのだ。

舞台は第二次大戦前の「過去」と、第二次大戦後(1950年代)の「現在」である。執事のスティーブンは戦前、主人であるダーリントン卿に仕えていた。ダーリントン卿は、第一次大戦によって荒廃したドイツを救うため、英仏両政府に寛大な処置を求めていた。

しかし、それが第二次大戦後に仇となり、「ナチス・ドイツの支持者」という心にもない汚名を着せられてしまう。卿は失意の内に亡くなり、彼の屋敷は戦後、米国人ルイスによって引き継がれる。

スティーブンの中には葛藤があった。世間で非難されている元主人に、かつて仕えていた自分にも非があるのか。卿に対して心から仕えていた過去を、「今」は隠すべきなのか。時代は変わり、人々の思想も大きく変わった今日、自らの生き方も変えるべきなのか、と。

結局、スティーブンはそのままルイスに仕えた。かつて国際会議で、ダーリントン卿を批判した男だったが、新しい主人が誰であろうと、そして彼の思想信条が卿と違えども、スティーブンは「執事」という仕事を続けた。

非常に美しい生き方だと思う。主人が、世間が、時代がどうであれ、自分は執事である。人に仕えるのが仕事であり、それをまっとうするのがみずからの役目だ ― 彼の言動一つひとつから、目に見えないそのメッセージが、私には読み取れた。

こういうものを美学と呼ぶのだろう。哲学と言ってもいい。しかし一方で、そういう生き方がどん臭かったり、不器用だったり、バカ正直のようにも見えなくない。損な感じもする。では、そういう人は不幸かといえば、そんなことはない。

人間は、自分の「つとめ」を果たせた時が、一番「幸せ」を感じられると私は思っている。「幸せ」を、「充実感」や「達成感」、「やりがい」などと言い換えてもいい。

「つとめ」といっても、仕事や義務的なものだけに限らない。なにかひとつ頑張っているものがあれば、それはその人にとっての「つとめ」である。「つとめ」を果たすまでの過程が他人から泥臭く見えても、それを果たせた時の幸せが得られれば、ベストである。

スティーブンはダーリントン卿に仕えるという、ひとつの「つとめ」をまっとうした。しかし、世間はそれを良く思わない。だが、彼は「幸せ」を(それが大きいか小さいかは関係なく)つかんだはずだ。たとえ世間の価値観と自分の価値観の相違に悩むということがあっても、である。

2011/08/02

誰が為の低評価?


十三人の刺客 通常版 [DVD]十三人の刺客 通常版 [DVD]
(2011/05/27)
役所広司、山田孝之 他

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「十三人の刺客」をレンタルして観た。
久々に痛快な日本映画だったと思う。
バッサバッサとメッタ斬リしていく最後の殺陣の場面、本当に僕好みだった。

で、ふと「Amazonでの評価はどうなんだろう?」と思ったので覗いてみると、きれいに賛否両論分かれていた。

ネタバレになるので詳しくは書かないが、低評価の方々はどうやら「山の民」(伊勢谷友介)の存在があまりにもお粗末に感じたらしい。真剣な雰囲気が台無しだとか、命を賭けて戦ったのに最後で◯◯(ネタバレになるため伏字)はないだろうとか、監督の自己満足だとかなんとか。その他、グロいシーンがあって嫌だったという感想がチラホラ見られるが、個人的にさしてグロいとは感じなかったし、CGでいくらでもグロく加工できるのは承知しているから別にどうということもない。

で、最近思うのだが、こういった低評価のレビューというのは、一体誰が得をするのだろうか。書いた人は書いた人で不満があるわけだし、Amazonの方も売れ行きに(大なり小なり)影響するだろうし、これから見ようとする人、買おうとする人も見る気・買う気を失うかもしれない。監督も「所詮はド素人の批判じゃん?」ぐらいにしか思わないし。

つまり、誰も得をしないわけである。だからと言って、全くそういうことを書くなと言うつもりはない。その中には全うな意見や感想だって少なからずともあるだろう。(あくまで「少なからずとも」というのがポイントである)

自分なら、比較的長い低評価レビューは、余程の暇か何か強く訴えたい気持ちでもない限り、書こうという気にはならない。「文章書く練習」が理由なら、もっと他にいい方法があると思う。「ネットはバカと暇人のもの」と言うが、あながちウソでもない。

商売でやっているのだから、Amazonは高評価だけ行える形式にした方がいいのではないか。低評価を下したい人は2chなり個人のブログなりでやればよいと思う。