2017/06/16

「あの頃」と腕時計

先日、とあるSEIKOの腕時計を買った。実はその数ヶ月前にも腕時計を買っていたのだが、先日買ったその腕時計の優美な外観に惚れてしまい、買いたい衝動を我慢できずに買ってしまった。

そのシンプルな、バーインデックスの三針時計は、光のあたる角度によって色々な表情をつくる。昼間の明るい時は、きらっきらっと反射するのだが、夜になれば、街灯のほのかな光を浴びるとたちまち、何とも言えない色気を醸し出すのだ。

そんな腕時計を見ていてふとなんとなく、これがいつ作られたのかが気になった。調べてみると、それは私がちょうど二十歳を迎えた年のときだった。

二十歳、というと、ちょうど大学生のときだ。その頃のことを思い出した。地方の高校から進学して1年。まだまだ垢抜けず、「都心の大学生」像に適合できるようなファッショナブルな装いひとつできやしない自分がそこにいた頃だった。あの頃は自分の、なんというかありとあらゆることに悶々としていた時だったように思う。アルバイト先の、かわいい女の子にどぎまぎしながら、なんとかそれっぽく取り繕うものの、結局うまくいかない、そんな日々を送っていた時だった。

あれから時を経た今、その二十歳という頃を思い返してみると、ただただ「よくここまで来れたなあ」などと思えてしまう。就職が決まった時のことや、一人暮らしを始めたときのことなど、「二十歳から更なる大人へ」と階段を登っていく自分を、その腕時計の製造年を知った時、思い返してしまった。

いまはすっかり、落ち着いたように思う。あの頃の「垢」も、今となっては良い、でもこっ恥ずかしい「思い出」である。

さて、そしてこれから自分はこの腕時計とともにどこへ向かっていくのだろう。この相棒を見ているとちょっとだけ、これから先が気になってしまう。
2016/05/01

個体主義と選挙権

NHKが放送した、『世界のいま』(5月1日付)を見た。18歳選挙権の特集で、各国の20歳未満の若者たちが選挙に対し、どのような考えを持っているか、その現状が出ていた。

見ていると、大半の日本の20歳未満とは比べ物にならないであろうくらいに、選挙を大真面目に考えているようだった。下手をすると、大方の20代後半の日本の若者すら、こんなことは言えないし考えてもいないであろうことを、自分のことのように話している外国の若者たちに驚かされた。それくらい、彼らにとって選挙は身近なことで、自分に直接関わることだという意識が強いのだろう。

では、なぜ彼らはそのような意識を持てるのだろうか。その放送を見ていると、ずいぶんと若い時(12歳くらい)からどうやら、政治や選挙についての授業を熱心にやっているかららしい。しかも、日本の学校でやる「公民」のような、至極退屈な授業スタイルではなく、ディスカッション型だ。自分の意見をしっかり述べ、相手の意見もしっかり聞く。基本的に先生は政治や選挙に関する基礎知識しか教えないようで、あとはそれを土台に自分はどのような考えを政治や選挙に対して持っているのかを語り合うようだった。「忌憚のない」とは、まさにこういうことだろう。

日本の学校でも最近はこういう授業をやるようにはなってきているが、それでもこの放送で見たようなものの比ではない。なんとなく、というか、漠然とした、というか、そういった当り障りのないことしかやらない。

選挙権を18歳から持てるようにすることで、何か変わるかといえば、私は何も変わらないと思っている。なぜなら、10代よりも思慮分別がついているであろう20代ですら、選挙権の行使率は低いからだ。

選挙権の問題は、年齢ではなく、風土やお国柄といった問題の方が、影響しているのではないか。そもそも、日本では公的に認められた権利を「行使する」ことに関心がなかったり、ためらいがあったりする。

例えば、サービス残業が平然と存在しているのも、法的根拠をもとにして「残業代を請求する権利」を行使しようとしないのが一因になっている。セクハラやパワハラがひどくても、なにもせずに泣き寝入りしてしまうというのも同様だ。

「自分個人から何かを積極的にやろうとする」こと自体に、なんらからのストップがかかりやすい要因があるのだろう。

昔、大学生だった頃、教わっていた教授から「日本人は欧米人などと比べられて、よく集団主義だなどと言われるが、そうではなく“個体主義”なのだ」と言われたことがある。

「個人主義」ではなく、「個体主義」である。その先生に言わせると、「個人主義」は、あくまでも一人の人間が「集団」ではなく「個」として「動く」ことが「個人主義」なのだが、「個体主義」は、一人の人間が「集団」として動くことは好まず嫌がり、かといって「一個人」として何か積極的に行動することができず、またその個人の責任で活動することができるかというとそれもできず、ただただ、一人ひとりが「個“体”」のように存在し、「個“人”」として、自ら動くことはせず、したがらない。そういった状態を先生は「個体主義」と呼んでいた。

なるほどとわたしは思った。日本人は集団主義のように見えるが、内実、集団で動くことを嫌がっているのだから、集団主義の信奉者ではないのだ。より正確に捉えるならば、先に言った、「個体主義」なのだ。

いまの子たちを見ていると、より「個体主義」化しているように見える。あくまでも「個人」として存在したがらず、「個体」という、いわば「モノ」化することで、自らを「秘匿させたい」傾向が強いのではないか。動画サイトなどでよく見かける「顔だけ映さない自分」の動画は、まさにそういった心理の表れのようだ。

選挙権の行使は、「個体主義」とは相反するものだ。こうした「個体主義」が広くこの国に根付いている以上、「18歳から選挙権を」などといっても、あまり意味がないように思う。
2014/07/22

それを「仕事にする」ということ

なにかを「仕事にする」というのは、その「なにか」とそのなにかの「周辺」に対して、色々と気にしたり配慮したり「しなければならなくなる」ということだと思う。そして、それをきちんと「こなす」ことによって、その対価である金がもらえる、というのが仕事の基本的な「仕組み」である。

この、「しなければならならなくなる」というのが仕事のミソである。「してもいいし、しなくてもいい」あるいは、「~する自由がある」ということではない。つまり、「義務」になる、ということだ。

好きなこと、あるいは趣味を仕事にする(したい)という考えは、誰しも最低一度は持つと思う。かく言うわたしもそうだった。しかし、わたしはそうしなかった。なぜなら、自分の好きなこと、あるいは趣味という領域に、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくなかったからだ。そして持ち込んだら最後、そうした義務が原因で、それを嫌いになってしまうのではないか、と思ったからである。

無論、好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人もたくさんいる。そうなれば理想だし、幸せなことだ。しかし残念ながら、わたしにはそれを実行してみるための具体的なプランというか明確な考えというか、そういうものを持ち合わせていなかった。

だが、それよりも気にしていたのは、さきほども言った通り、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくない、という点だった。それによって、自分の中の「好きだ」という気持ちを失いたくなかったのである。

早い話、「趣味は趣味、仕事は仕事」と分けて考えよう、と思ったのだ。

趣味である利点は、それに対する自分のスタンスを好き勝手に設定できる、というところである。その出来不出来や巧拙はどうだっていいし、対象である趣味に対して好き勝手な理想や妄想を抱いたっていい。とにかく自由だ。「思う存分、好きなだけ」というスタンスを取れるのが、趣味のいいところである。

一方、「仕事にする」というのは、要するに、こうした利点を手放すということだ。手放す、すなわち「自分の自由にはいかなくなる」という状態を引き受ける。その代わり、その価値を認めた人から対価として金をもらう。それが、なにかを「仕事にする」ということだ。

好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人たちというのは、こうした暗黙の事実に対して覚悟を決めた人たちである。他方(情けないが)、わたしにはそうした覚悟がなかった。というか、ハナから「そんなことになるくらいなら・・・」と思っていた。

こういうことを学校で教えたら、それはそれでひとつの「職業訓練」になるかもしれない。

なにかを「仕事にする」というのは、本当に重たいことだ。ある意味で、それと今後(ほぼ)ずっと「寝食を共にする」ようなことになるのだから。
2014/07/19

おもしろい人

(他人から見て)おもしろい人、というのは、(他人から見て)おもしろい生き方をしている人のことだと思う。おもしろい生き方をしているから、その人自身がおもしろいのだと思う。

では、おもしろい生き方をする、とはどういうことだろうか?

ここでは、「おもしろい生き方とは、◯◯する生き方だ!」という肯定形で事例を挙げることはせず、あえて否定形を用いて話を進めてみることとする。

「ベタなこと」をしない。

おもしろい生き方をしている人は、いわゆる「ベタなこと」をしていない人だ。つまり、「普通」ではないのである。たとえば、の話であるが(あくまでも「たとえば」である)、「趣味は何ですか?」と聞かれた時に、相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味を言ってきたら、その人はおもしろくない。「ああ、“ベタ”だな」と思ってしまう。

別に、「それ」を趣味に持つことが「悪い」「いけない」とは決して思わない。だが、「おもしろいな」とも思わない。

それはなぜだろうか? 理由は至って単純で、「趣味は何ですか?」と聞いてきた相手の心を“グサリ”と刺さない回答だからである。言い換えれば、極めて“安全な”答えだからである。

無論、何を趣味にしようが、それはその人の自由である。他人がああだこうだと、とやかく言えることではない。そんなものは、とうに分かりきったことだ。しかし、他人から「この人、おもしろいな」と思われる人、別の表現をするならば、他人が「気になってしまう」人、さらに言い方を変えるならば、他人の心に「後味」として残り続ける人、というのは、例外なく「ベタ」でない人であり、「ベタなこと」をしていない人である。

相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味をしているのは、「ベタ」である。「ベタ」は、どこまでいっても「ベタ」でしかない。どこまでいっても「ベタ」でしかないから、その人に「おもしろさ」が感じられないのだ。

「他の人と同じでいようとする」のは、自分で自分を「ベタ」化させることである。それは、自分で自分を「おもしろくなく」させていることと同義である。

「イケメン」になろうとしない。

「イケメン」になっている人は、つまらない。なぜなら、「イケメン」になっている時点で、人を意識してしまっているからだ。

人は、人を意識し始めると、「安全な人」になりやすい。「安全な人」とは、他人を気にするばかり、いちいち自身の行動を自身でチェックして評価し、自らの「カッコ悪いところ」を紡いでおこうとする人のことだ。

つまり、「テイの良い」人になってしまっている、ということだ。「テイの良い」人ということで、それを(カギカッコ付きで)「イケメン」と表現したわけである。

「イケメン」というのは、「見てくれ」が良い。それは、人を意識しているからだ。意識しているから、「見てくれ」を良くなるのは当然である。

が、しかし、そういう人を見ていて「おもしろい生き方をしているな~」と思うことはない。「テイが良い」から、逆に「掴みどころ」(その人を、その人たらしめている“なにか”)がないのだ。一方、「イケメン」の反対に位置する人というのは、「テイ」を気にしていないから、色々なことに手を出す。もちろん、色々やって失敗もしているからカッコ悪いのだが、決して「安全な人」であろうとはしない。「安全な人」でないから、「掴みどころ」がいっぱいあるのだ。だから、「おもしろい」のである。

満足していない。

もちろん、いい意味で「満足していない」ということだ。いい意味で「満足していない」から、常に「おもしろい」ものを探し続けているのである。それも、懲りずにずっとだ。そうやってずっと探し続けているからこそ、というよりも、探している過程で「おもしろい」ものと遭遇するからこそ、その人はほぼ自動的に「おもしろい生き方をしている」ことになるのである。

逆に言えば、「満足している」のは、「おもしろくない」人なのだ。「満足している」というのは、「現状で足を留めている」ということだ。動かない人で、おもしろい人などひとりもいない。

「おもしろい」ものが、自分の元へ自ら足を運んできてくれる、なんてことはない。自分から「ヤツら」を探しに行かない限り、「ヤツら」は決して見つからない。「おもしろい」とは、そういう性質のものである。

以上、「おもしろい人」についての小論である。
2014/07/15

「逃げる」ことは、悪いことではない。

「嫌なことから逃げてはいけない」とは、幼いころからよく言われ、またよく聞く言葉だ。世間では、逃げないこと=善、逃げること=悪、という等式が普遍的価値観のように流通している。某アニメの主人公が幾度も放つ「逃げちゃダメだ」という有名なセリフは、われわれのそんな一般的価値観を映し出しているように思える。

しかし、冷静に考えると、嫌なこと、つらいことから「逃げてはいけない」「逃げられない」状況に自分を置いておく、というのは必ずしも当人にとって精神的成長につながるといったプラスに働くことばかりではない。いざというときに、「逃げられる場所」=安心できる場所や拠り所がないというのは、本当のところ、かなり危険なのではないかと思う。

よく、「日本人は真面目で勤勉だ」などというセリフを聞くが、これは見方を変えれば「“逃げる”のがヘタだ」とも受け取れるのではないか。一般的に、真面目で勤勉なタイプの人ほど、禁欲的でキツいことを「修行」などと無理に肯定的に捉えてしまいがちで、そういう人は「逃げる」ことを無条件で指弾する。だから、「逃げる」ことがヘタになるのは、言うまでもない。

いまや当たり前のように耳にするようになった、社会人のうつ病は、こうした「逃げ方の不得手」から、だったり、「逃げられる場所」の確保不能という状況から来ていたりすることが大いに考えられる。

仕事を抱え込みすぎて(振られすぎて)、納期の呪縛から逃げられず、うつ病になる。あるいは、周囲の人間が、ろくに仕事のサポートをしてくれず、頼れる人がいなくてうつ病になる、といった状況だ。いずれの場合も、自分自身や周囲において「嫌になったら、逃げていい」という考え方が成り立っていないことによっていたりする。

原則として、心身に危険(例えば、病気になりそうな予感がしたり、病気の状態がずっと続いている、など)を感じたら、堂々と逃げていい。あるいは、少しでもいいから自分の悩みを聞いてくれそうな上司に、こっそりと心の内を打ち明ける、などの対処が必要だ。こうした、心身にかかる過度の負荷から「逃げる」というのは、今の時代、ひとつの「教養」である。

「連日残業で疲れたので、今日はすぐに上がる」というのも、見方を変えれば、自分の体を危険から「逃してやる」行為だと取れるだろう。こういう、ちょっとした「逃げ」でもいい。とにかく「逃げる」ことを悪と決め込んだり、避けたりしないことだ。

そういう意味で、会社を休んで趣味にひたすら没頭する、あるいは(他人に迷惑をかけない程度で)一人で楽しい妄想に浸る、というのも、いい意味で「現実逃避」となるから、もっと推奨されてよいと思う。常に向き合っていなければならない「現実」に対し、何らかの「危険」を感じるからこそ、われわれはそれから「逃避」するのだ。なにかと悪い意味で使われることの多い「現実逃避」という言葉も、捉え方を変えれば、自分の身を守る「対処法」ともなるのである。

なにかと病みやすい現代において、「逃げる」ことの優位性はもっと考慮されていいのではないだろうか。
2014/07/11

「深夜ラジオ」的な個人ブログ

ここ最近、何も書いていなかったので、以前からなんとなく「ブログ」というものに対して感じていたことを書こうと思う(とはいっても、これからする話は、正直なところ「わかる人には本当によくわかるが、分からない人にはまったくピンと来ない話」になると思う)。

いい感じの「個人ブログ」(全然有名でもなんでもない、ごく普通の一般人が書いたブログ)というのは、どことなく「深夜ラジオ」的なものを感じる。

なにかこう、ダラダラと話をするのだが、決してつまらなくない。むしろ、それを聞き終わった後、妙にその後も話の中身が頭の片隅にあったりする――いい感じの「個人ブログ」には、そんな香りが、僕にはするのだ。

無論、すべての個人ブログに対してそう感じるわけではない。むしろ、そう感じる個人ブログは多くないだろう。だが、個人ブログの中で、なにか独特の「味」があるようなブログというのは、漏れなく「深夜ラジオ」感を漂わせている。

「深夜ラジオ」感を漂わせているためか、そういうブログは、どうも、しんとした雰囲気の中で一人静かに読んでみたくなる気がする。決して、喧騒な街中とか賑やかなカフェとかで読もうとは思わない。そう、夜も更けてきた頃、部屋でひとりになったとき、読みたくなる。

僕は最近、このブログをそんな雰囲気のブログにしたいと感じている。決して目立つことなく、人入りが少ないものの、このブログになんとなく気が惹かれる人たちだけが、個々人で僕の文章をひっそりと読んでもらって、お互い、感想とか意見とかも共有しない、ただただ己が感じたこと、思ったことだけを、己の中だけにとどめておいて、ふとした時に、まあちょっと他人に話してみようかなぐらいの、そんなものを提供できるような「深夜ラジオ」的なブログにしたいと思っている。

というのも、よくゴールデンタイムのテレビとかで耳にする「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」的なノリが、なんか嫌なのだ。偽善臭さと胡散臭さを感じるのは言うまでもなく、なぜ「みんな」で「共」にしなければならないのか、という点が、よくわからないし、納得できないからだ。

何かを観たり読んだりして、それに対しどんな感想を持とうが、それはその人の勝手である。「感想」というのは、安易に他人と「共」にしてしまうと、「感想」ではなくなると思う。それはもう、「みんながそう感じているのだから、そう感じない人がおかしい」みたいな、アホらしくて意味のない一体感ではないか。

話は逸れるが(もうすでに逸れてはいるが)、いまの若い人たちがすごく恐れているもののひとつに「ひとりぼっちになること」あるいは「浮くこと」が挙げられる。これは、突き詰めて考えれば、「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」という「ゴールデンタイムのテレビ」的なノリに合わせられないヤツは存在を認めない、許さないという暗黙の雰囲気が横たわっているからだろう。

一方、「深夜ラジオ」的なノリは、その正反対を行く。「勝手に個々人で楽しめばいい」「ワイワイ騒がず、ひっそりと」「大勢で、よりも、むしろひとりで、を推奨」が「深夜ラジオ」的なノリだ。私は好きだ、こういうの。なんというか、「いい大人な感じ」がしてたまらない。

新規にブログを立ち上げると、どうしてもアクセス数が気になって、なんかこう、意味もなくハイな感じの文体で、意味のない記事を乱発したりしてしまうかもしれないが、どうせそんなの、後でボロが出るのだ。後で読み返してみたとき、「あれ、なんか違うな」という感じに襲われるだろう。

そういう人には、無理せず、「深夜ラジオ」的なブログを目指してみたらどうだろう、と言いたい。人入りは少ないし、パッとしないから一見つまらなく見えてしまうが、やっていく内にだんだん楽しくなると思う。

いい感じの個人ブログと、深夜ラジオの共通点は、どちらも「ローカル感、マイナー感の“積み重ね”がある」という点に尽きる。大衆受けは決してせずとも、でもネタをちょっとずつちょっとずつ積み重ねてきたから、それがいい感じに醸しだされている、といった感じだろうか。だから、どちらも何とも言えない「魅力」があるのだ。

「深夜ラジオ」的なブログ――これが、個人ブログの理想だと思う。
2014/06/10

先送りできることは、どんどん先送りしていい

「先送り」というのは、なにかと悪者にされている。

「仕事を先送りするな」「意思決定を先送りするな」「勉強を先送りするな」「嫌なことを先送りするな」――「先送り」とくっつくのは、ほとんどいつも「するな」という言葉であり、「しろ」「すべき」とくっつくことはほぼ皆無である。

しかし、だ。なぜ、先送りするのが、無条件で「いけないこと」のように扱われているのだろうか? 先送りして、特段支障がなければ別に先送りしたって良いではないか。

わたしは、仕事をしているとき、今日やろうと思っていたことを次の日以降に先送りすることがよくある。理由は、ただひとつ。仕事は、一度手をつけてしまうと「キリがない」からだ。「キリがない」からこそ、それが行き過ぎると「残業」になってしまうのである。

色々な仕事を同時並行で進めていかなければならない状況下で、急なトラブルや仕事の注文が入ってしまうことはよくあることだ。そして否が応でも、結局それらに対応しなければならない(場合によってはつきっきりで)。

無視することはできない。かといって、そればかりやっていられるわけでもない。つまり、仕事というのは、ダブルバインド状態な中で行われやすいわけだ。そう聞くと、マジメな人は「そうならないために、早め早めに手を打って・・・」「きちんと計画を立てて、段取りよくやらないと・・・」などと思うかもしれない。だが、それができるなら、誰も苦労しないだろう。そうしたくても、できないからこそ、みんな仕事で苦労したりストレスを抱えたりするのだ。

こうした、カオスな状況でいかに仕事をさばいていくか。

それが、「先送りできるものは徹底的に先送りする」というやり方である。「誰かにせっつかれたらやる」というのも、アリだろう。

こう言うと、非常に無責任な仕事処理に見えるかもしれない。だが、仕事というのは、結局、やっている過程でなく、結果で評価されるものだ。結果さえ良ければそれでいいのである。それに一々、過程まで事細かに観察し評価してくるようなヒマな上司や先輩など、まずいないので、気にする必要などない。

営業はともかく、事務方仕事の大半は「どうでもいいような資料」の作成だったりするのが現状だ。取締役や上司がたかだか一瞥する程度や、数日経ったら捨てられてしまうような資料のために、自分の貴重な時間を削って残業するのは実にバカらしい。場合によっては、徹夜で作成なんてこともあったりするので、始末に終えない。こんなことが続ければ、それこそ体を壊したりうつ病になって出社できなくなったり、なんてことも起きてしまう。

そうならないためにも、とにかく先送りできるものは先送りするに限る。日本の教育では、幼い頃から「先送り=悪」という価値観を刷り込ませてくるが、これは社会人にとっては単なる「危険思想」にすぎない。先送りできるものは、徹底的に先送りし、怒られたり文句を言われたりしたら適当に受け流すか、とりあえずちゃちゃっと片付ければいいのだ。そんな非難をバカ正直に、真っ向から受け止めていたら自分がパンクしてしまうのだから。
2014/04/27

「人間臭さ」がないと、何も残らない。

「はてなブックマーク」というサイトがある。私はそこで、いま注目されている記事をパラパラと見るのだが、そこで人気になる記事というのがほとんど、実利的な記事(「~する時に役立つ◯◯トップ5」とか「知らないと損する☓☓の裏ワザ10」とか)である。エッセイとか「◯◯を見た感想」とか、そういう記事はあまり見かけない。

無論、はてなブックマークを使う人たちは実利志向が強いから、というふうにも考えられるだろう。また記事を書く方としても、実利的な記事のほうがウケがよく、PV数も稼げるから結果的にみんな実利的な記事ばかり書き、エッセイ系の記事は書かない(書きたくない)のかもしれない。

こういった傾向というか趣向を見ていると、多くの人が「すぐ役立つ情報(役立ちそうな情報)」をネット記事に求めているのだなと感じる。しかし、私個人の経験からすると、そういう記事(あるいは、そういう記事を提供している側)というのは、その記事を観られた瞬間、もうすでにその記事は「用無し」になってしまっている。その記事が載っているブログやサイトも、次に来る「役立つ記事」が提供されるまでは「用無し」だ。つまり、「役立つ記事」がなければ、何も頭や心に残らない。残るのは、ただ「役立つ情報」とその情報が「自分に提供されたという事実」だけだ。

僕はこういう実利的な記事を読むのがあまり好きではない。エッセイや意見文のような記事のほうが好きだ。実利的な記事が多いはてなブックマークに訪れるのは、わずかな期待を持ちながら、そういったエッセイや意見文のような掲載数の少ない記事を読みたいからである。

しかし、なぜ僕はそういう記事が好きなのだろう? こういうことを書いていてふと頭の中に思い浮かんできたことなのだが、それは、少しカッコ悪い言い方になるが、そういう記事に「人間臭さ」が表れているからなのだと思う。

なんというか、「今日、外でこんなことがあったんだけど、オレはそのときこう感じた」とか、「世間では◯◯は良く言われてるようだけど、でもそれって違うと思う」とか、そういう個人の思いや考えというのは、すごく「人間臭さ」が出ていて、興味が湧いてしまう。そういうものを読んでいるとき、もはやその人の言い分やモノの見方に共感する/しないなんていうのは、すごくどうでもいい瑣末なことなのだ。「ああ、世の中にはこういうふうに考える人がいるんだ」「こんな感じ方をする人がいるんだ」という、ただそれだけのことが知れるだけで僕はすごく楽しいし、おもしろい

いま、ネット上のあらゆるところで「感情論」というものが毛嫌いされているように思う。ちょっとばかり、主張したいことに情が混じると、すぐに相手から「そんなの、ただの感情論だ」という批判に晒される。なんだか、「エビデンス(証拠)がなければ、何を言ってもムダである/信用してはならない」みたいな雰囲気が、どこもかしこにも横たわっている気がする。最近流行りの「統計学で◯◯をウソを見破る」とか「ビッグデータ解析で、本当の☓☓を探る」といった記事や本や企画も、そういった空気が蔓延する中だからこそ、こんなにも支持されているのではないだろうか。

だが、最後に人の頭や心の中に残るもの、残り続けるものというのは、結局、さっき言ったような「人間臭い」ものだと僕は思う。例えば、ありとあらゆる「芸術」と呼ばれるものが、時代を超えて保護され大事にされるのは、そこに遥か昔から変わっていない「人間臭さの極北」があるからではないか。その「人間臭さの極北」に、その時代その時代の人たちが魅了されてきたからこそ、それは「芸術」と呼ばれるまでになり得たのではないか。

僕が、ある人やあるモノに関心を寄せる時というのは、その人やモノから漂う「人間臭さ」感じ取った時である。その人が偉業を成し得た時に、ということもあるが、それはほんの一時的なものにすぎない。その「一時」が「常時」に変わる時というのは、必ずその人の「人間臭さ」に触れた時である。

振り返ってみると、僕が面白いと思った本、そして手元に置いておきたいと感じる本は、やはり「人間臭さ」が滲み出ている本である。くだらないかなあと感じつつも、でも買って読んでしまう「人生論」的な本は、本当に「人間」の「匂い」がする。だからついつい、「人生論なんか読んでもねえ」とは感じつつも買ってしまうのだろう。

読書、ということでさらに言わせてもらうと、僕は本に実利的な情報を求めることがほとんどない。「◯◯ができるようになる方法」とか「すぐに☓☓がわかる本」といったものを買うことはすごく少ない。理由は、やはり頭や心に何も残らないことが多いからだ。◯◯や☓☓ができたり、わかったりしても、ただそれ「だけ」ということで終わってしまう。それ以上の、たとえば自分の中でそれを反芻したり思い返したり、といった「読んだその後に来るもの」がない。

もちろん、実利的な記事や本が悪いなどとは思わない。それを求めている人たちがいる以上、それは確かなニーズを満たしているのだから、これから先も生まれ続けるだろう。しかし、ニーズを満たし得た時点で、それ以上のものは何も生まれない。発展することもない。それが実利というものだ。実利を志向するというのは大変シビアなもので、そのものに明確な「対価」や「効果」がなければ、それはゴミクズ同然の扱い受けてしまうのだ。

「すぐに役立つというのは、すぐに役立たなくなる、ということだ」という逆説的な言葉の意味するところはすなわち、「すぐに役立つ情報を得た時点で、その役立つ情報を提供した側はすぐに用無しとなり、また“すぐに”役立つことが実証されなければ、もはやその情報自体も用無しであり、“すぐに”役立ったとしても、“すぐに”は、すぐ過ぎ去るのだから、すぐに役立たなくなる」ということなのだと思う(以上は、個人的な解釈である)。

もし、読み継がれるに値する記事を作りたいと思うのなら、どこまでも自分の書くものに対して「人間臭さ」を求めたほうがいいのではないか――いま、私はそういう気分である。
2014/04/24

会社という名の「承認欲求地獄」で生き延びる方法

以前、映画『ユダ』の感想を書いた時、私はキャバ嬢の世界を「承認欲求地獄」と表現した。が、キャバ嬢よりももっと身近なところに「承認欲求地獄」は存在している。それが、会社という組織である。

会社では、そこでどのような立場であろうと、自分よりも後に入社してきた者に対しては、「自分はアイツよりも立場が上だ」と思う人がほとんどだ。実際のところ、大した仕事もしておらず、輝かしい業績があるわけでもないのに、である。

このような人たちは、「自分は下の者から敬われて当然である」と考えている。だが、それは何ら「当然」なことではない。仮に「敬われている」のが事実だとしても、それは当人が「魅力的だから」とか「すごいから」ではなく、単に「とりあえず、下から敬って“もらえる”立場にあるから」という場合がほとんどではないだろうか?

しかし、上に行けば行くほど、上の者は自分がもしかしたら「とりあえず、下から敬って“もらえる”立場にあるから」敬われているのではないか、と考えようとしなくなるようだ。本当にひどい場合だと、会社の外でも「大御所ヅラ」する者もいる(いい年した大の大人が店員に横柄な態度を取る、というのはその典型ではないか)。所詮、会社から一歩でも出れば、単なる「中年」や「オジさん」に成り下がるだけなのに、そのことが自覚できないというのは恐ろしい。

結局、会社という組織自体も「承認欲求地獄」で成り立っているのだ。「認められたい」「敬われたい」と思っている人たちが会社には大勢いる。無論、それが競争につながり、結果的にプラスに働くのなら悪くないかもしれない。が、だいたいの場合、そのように思われたいのは自分よりも下の者からなので、大して競争心も生まれなかったりする(というのも現状、日本はまだまだ年功序列の社会だからだ)。

こんな世知辛い「承認欲求地獄」をどうやって、うまく生き延びればよいのだろうか?

もっとも安全かつ効率的かつ効果的な方法がある。それは自分から進んで、相手を「敬って“あげる”側に回ってしまう」というものだ。もちろん、「本当に」敬うのではなく、あくまでも「敬って“あげる”」という上から目線な考えで十分である。もっと簡潔に言えば、「持ち上げて“やる”」のだ。

そういうフリをしていれば、大した努力をせずとも自然と相手からの好感度も評価も上がる。うまく行けば、トントン拍子で出世できるかもしれない。なんら新鮮味のない方法ではあるが、これが一番賢いやり方だと私は思う。

間違っても、「敬われたい」などという「承認欲求地獄」の中に己を沈めさせないことだ。そして、「自分は下の者から敬われて当然である」などとも思わないことだ。下の立場になってみればすぐにわかることだろう。

誰も、あなた(自分)のことなど敬いたくて敬っているわけではないのだから。
2014/04/20

「真面目」は、最強である。

今日のお昼ごろ、たまたまテレビを見ていたら、「驚きの真実!ビッグデータSHOW ~ホントの日本が見えてくる~」(日本テレビ)というのが放送されていた。

「ビッグデータか~。そういえば今話題のワードだよな~」と思い、途中まで見ることにしたのだが、その中で一つ、興味深いデータが出ていた。それが、日本人がツイッター上でよくつぶやく言葉があるらしく、それが「明日こそ本気を出す」である、というもの。

その番組で、ツイッターのつぶやきを分析していた人によると、日本人は、毎日反省し、毎日決意し、でも挫折して、それがこのように、「明日こそ本気を出す」という言葉としてつぶやかれるのだろう、というコメントをしていた。

これを聞いて、「やっぱり日本人はどこまでも真面目なんだなあ」という当たり前の感想が持てたのだが、しかし、おもしろいことに、当の日本人たちは「真面目」に対して、嫌悪感があるのだ。

その証拠は、グーグル先生に尋ねてみると、すぐに出てくる。

試しにグーグルで「真面目」と入力してみると・・・

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「真面目」との組み合わせが、「つまらない」「やめたい」「損」「短所」「うつ病」といったネガティブな言葉ばかりだ。

一方、今度は「不真面目」で調べてみると、さらに面白い事実が見えてくる。


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「不真面目」だと、なぜか「不真面目を目指す」「不真面目のすすめ」「不真面目になる」「不真面目 頭いい」といった肯定的な捉え方をされている場合が多い。

こうして見ると、毎日反省し、毎日決意し、でも挫折して、「明日こそ本気を出す」という言葉をつぶやく「真面目」さが根っこにはあるのに、でも真面目に見られたくない、あるいは真面目でいたくない、というのが日本人というものなのだろうか?と思いたくなる。

気持ちは真面目である、が、見た目や生き方は真面目でいたくない、不真面目でありたいという矛盾――なぜこんな矛盾が生じるのか、その理由は色々あるだろう。

その一つが、ドラマやアニメに出てくる登場人物(キャラ)の影響があったりするのでは?と、わたしは思っている。

最近のドラマやアニメ(特に戦闘モノ)に出てくる登場人物の中には、「出で立ちがカッコよく、飄々としていて、いつもなんとなく気だるそうにしているが(つまるところ、不真面目)、何かと主人公や主人公の周りの人たちのことを考えてくれていて(つまるところ、真面目。しかし、あまり態度には出さない)、窮地のときに、主人公の力になってくれるが、それが終わるとまたいつも通りに戻る」というタイプのキャラがよくいる(そして物語の、わりと重要な位置にいることが多い)。

みんな密かに、そういうキャラや位置に憧れているんじゃないか?とわたしは思っているのだが、まあ、そんな根拠のない分析はどうでもいい。

しかし、である。本題にまた戻るが、真面目であるというのは、本当は得であり「強い」のだ(これまた明確な根拠を挙げられずに申し上げるが)。

就活を例にとるとわかりやすいかもしれない。業界や社風によるところもあろうが、基本的に新卒は真面目な人や真面目な感じの子が採用されやすい。なぜか? それは自分が会社にいるおじさんの側に回ってみればわかる。真面目な子のほうが扱いやすいし、仕事をまかせるにしても安心できるからである。

この点、やはり不真面目な感じの子(言い方を変えれば、ちょっとチャラい感じの子や、ワルっぽい感じの子)はウケが悪い。ほとんどのおじさんたちは、若かったころと比べてかなり保守的になっている。その企業のカラーに完全に染まりきっているおじさんたちは、自分とは毛色の違う若いヤツを見ると、なにかと警戒しやすい(どの企業も、採用活動に慎重になっている昨今の流れからすれば、この傾向は今後もますます強くなるだろう)。

採用活動時に「人材の多様性」だの「個性の尊重」だのという企業もあるが、所詮はタテマエだ。結局、一緒に仕事をしていて安心でき、且つ扱いやすそうな「真面目な人」を、おじさんたちは好むのである。

これは別に企業に限った話ではない。恋愛でも同じだ。

女性だって、真剣に結婚のことを考え始める時期になると、やはり真面目な男性が一番だと思うだろう。なぜかといえば結局、安定した結婚生活を送るには、相手のこと、家族のこと、仕事のことに真面目である人がパートナーでないと、生活が破綻するからである。「おもしろい」「顔がイケメン」といった要素は、(重要かもしれないが)所詮二の次三の次であり、「あわよくば」程度のものにすぎない。

この点、男性も同じである。異性の容姿を重視するという点では、女性と異なるかもしれないが、結婚相手の条件としては、結婚生活を真面目に考えてくれる女性(つまるところ、真面目な女性)を、やはり男性は好むのだ。

その他、真面目であると、いろいろな面で得をする。たとえば、

・他人から軽く扱われない(真面目な感じの人は、イジられキャラにされにくい)。
・初対面の人には、(少なくとも)悪い印象は与えない。
・仕事人として、「真面目」は最強の武器。なぜなら、真面目であることは、人からの信頼を得やすいから。
・安定した生活を送ることができやすい(真面目に働くというのは、安定した生活を送るために必要な条件だ)。


他にも色々あるだろう。

つまり、真面目とは本来、いいことずくめなのだ。

それがいつからか、この国では「真面目」=「損」という考え方を持つ人が多くなった。

しかし、これは間違いだ。真面目だから損なのではなく、損をする(した)原因を、十把一絡げに「真面目」のせいにしてしまうから、おかしなことになるのである。損する(した)原因が「真面目」さ以外の何かにあるのではないか?――そういった考え方をしてみようとしない己の「不真面目さ」にこそ、損する本当の原因があるのではないだろうか?

いずれにせよ、真面目であるというのは、最強なのだ。
2014/03/06

「疲れないようにする」というのは、社会人が絶対に取得すべき「スキル」である

わたしは今、個人的な理由から簿記検定の資格を取得するため、勉強している。簿記の勉強はやっていて嫌いではないし、会社にいるとき大変役立つと思ったからだ。

しかし如何せん、資格取得のための勉強というのは、やっていて疲れやすい。朝早く起きてちょっと勉強。夕方、会社から帰ってきてまた勉強。何時間もやるわけではないにせよ、やはり、モチベーションを維持するのはあまり楽ではない。体のほうもまた然りだ。

というわけで、気持ちの疲れ、体の疲れをためないように、わたしは以下のことを実践している。


1:勉強量は「ちょっとずつ」で、(できるだけ)毎日やるようにする。
2:「飽きた」と感じたら、すぐにその場で勉強をやめ、別のことをする。
3:気分が乗らないときは、思い切って2~3日休む/遊ぶ。
4:夜更かしは絶対にしない。きちんと睡眠(7時間ほど)を取る。



以上4つであるが、これらに共通しているのは、何か目標を達成させる上で、どれも「自分の心身を疲れさせない」ようにしている点だ。


現代日本において、社会人というのは、とにかく疲れやすいように生きてしまっている(生きざるを得ない)ように見える。

朝5~6時起床、満員電車へ乗り込み、8~9時出勤(遅刻厳禁)、社内外の人間関係(面倒くさい人、ウザい人の相手をしなければならないetc)、結論が出ない/どうでもいい会議、ムダに思えるような資料の作成、意味のない残業(退社時間には非常にルーズな空気)、出たくもない飲み会に出席、帰宅ラッシュ――こんな生活をやっていれば、どんなタフマンでも、いずれくたびれて当然ではないだろうか?

ただでさえ疲れやすい毎日なのに、最近流行りの自己啓発書は「勉強しろ」「読書しろ」とやかましい。しかし、そこに書かれている方法は(どちらかというと)、「優等生」のような勉強論であることが多い。そしてそれらは決まって、「疲れやすい」のである。

そういう事実に気づいて以降、わたしは上記の4つを実践している。どれもこれも、自分を「疲れないようにする」ための方法だ。そう、これこそ、社会人が真っ先に取得すべき「スキル」なのだ。

2014/02/23

「事実」は、「信じる」ことからしか生まれない

最近、書店に行くと統計学の本をよく見かける。

そういった本をパラパラめくってみると、「いままでの○○の通説を統計学で覆す」とか「統計学を会社経営に生かす」などといった文言をよく見かける。

まるで、統計学は「万能な学問」のように思える。これさえあれば、物事の真偽や善悪の判断が簡単にできるかのようだ。

しかし、である。統計学にできることは、結局、統計データ(それも、まったくの「事実」とまでは言えない、「事実」に近いと思われるデータ)の提示だけだ。そしてその統計データは、われわれ人間が「信じる」ことをしなければ、まったく生きないのである。

つまり、万能なように思える統計学という科学は、皮肉なことに、人間の「信じたい」という「感情」がなければ、無力なのだ。いくら、相手に「統計データでは○○という結果が出ている」と言っても、その人がそれを信じようとしなければ、たとえデータが「事実」を提示できていたとしても、その人にとっては「事実」になりえていないのである。

そんなバカな話があるか、と思われるかもしれない。しかし、「事実」とは、どこまでいってもそのことを「信じる」行為からしか生まれない。少し堅い言い方をすれば、「事実」はそれを信じるという「感情」を担保に存在できているのである。

無論、わたしは書籍などに掲載される統計データは、きちんと出典が明示されているのであれば、基本的にはそのデータは(完全に、とまでは言えなくとも)「事実」を示していると思っている。しかし(賢明な方ならすでに気づいたと思うが)、この「思っている」というは、まぎれもなく「信じている」の言い換えにすぎない。そしてなぜ、それを「信じる」のかというと、それは結局「統計学を使って出したデータだから」という、トートロジー(循環論)に陥ってしまうのである。

しかし早い話、そんなことはどうだっていいのだ。要するに、「信じ“たい”から信じる」のである。結局、どこまでいっても「信じる」とか「信じたい」とか、そういった「感情」でわれわれは物事の判断や決定を下すのだ。

統計学ブームというと、いかにもわれわれ人間がより理性的/科学的に物事を判断・決定するようになったと見える。だが実際は、理性とか科学とかそんな「高等」な話ではなく、「信じる」だの「信じたい」だのといった、「感情」のレベルにとどまる話なのではないだろうか。
2014/01/29

「形」が大好きな日本人

日本人というのは、とにかく「形」というものが好きなのだと思う。


例えば、

1、「ホンネとタテマエ」の「タテマエ」

「ホンネ」とは、自分が本当に思っていること、つまり「中身」である。一方、「タテマエ」とは、本当はそんなことなど思ってもいないが、相手のことを考慮して言う「仮の言葉」のことである。つまり「中身」(=内容)の反対、「形」(=形式)である。

「日本人って、本当にタテマエが多い」なんぞと外国人は言うらしいが、それはなぜかというと結局、その場その場の、言葉という「形」でもって人間関係を円滑にしてしまえるからである。

日本人にとって言葉というのは、良い「形」になっていればいいのだ。なんかもう、意味とか中身とか、定義とか真意とか、そんな小難しいものはどうだっていいのだ。大事なのは、いかにその言葉の「形」が、相手にとって良く見えるか、なのである。

国会の答弁も、首相の演説も、校長先生の朝のスピーチも、卒業式の式辞も、社長の年頭挨拶も、みんなみんな、意味とか中身の面白さとか豊かさなんて、これっぽっちも求めていないのだ。なんかもう、言葉の「形」が「それっぽく」見えていればいいのである。


2、会議用資料

会議用資料は、いまやエクセルで作るのが当たり前だが、このソフトが登場したことにより、「会議用資料の見た目は、キレイでなくてはならん!」という考えがより強くなったように思う。無論、キタナイよりもキレイであるに越したことはない。しかし、キレイさに拘るあまり、大して意味もないグラフだの表だの、あるいは文字の書体だのフォントサイズだのが賑わい、でも肝心の中身が薄っぺらかったり、という会議用資料が少なくない。これはプレゼン用のパワポについても当てはまる。

そう、つまりみんな、見た目のキレイさという「形」が大好きなのだ。中身よりも、「形」のほうが好きなのだ。なぜなら、「キレイ」というのは目に見えて「わかりやすい」からであり、「中身」というのは目には見えづらく「わかりにくい」からである。「形良ければ、すべてよし」ということなのだ。


3、アイドル

ネット上で、ポップミュージックについてのブログ記事を見ていると、「所詮、◯ャニーズなんて顔だけのアイドルじゃん」とか、「◯KB48の歌なんて、素人同然だ」なんて批判をよく見かける。これについては賛否両論あるだろうが、わたしも確かに「昔の歌手のほうが歌唱力は高かったと思うけどなあ~」と感じている。ぶっちゃけ、彼/彼女らの歌声など、「カラオケで、周りから歌がうまいねとよく言われる人」レベルな気がしないでもない。

それでも彼/彼女らがテレビに出続けられるのはどうしてなのだろう?

そう、これも結局、彼/彼女らが歌唱力という「中身」で高い評価を得ているからではなく、顔とかスタイルとか、ステージ上での演出といった「形」が、視聴者にウケているからなのだ。正直なところ、歌なんて「そこそこ良ければいい」のである。重要なのは、彼/彼女らが、目に見える形で視聴者を虜にさせる「形」になっているかどうか、なのだから。


4、歌舞伎


歌舞伎など、もう「キング・オブ・形の文化」と言っても差し支えないのではないか。役者の放つ派手な見得は、もう完全に「形」重視だし、正義の人は赤い隈取を、悪人は青い隈取をするというのも、「形」で物語を理解させようという意図である。「女形」に至っては、字のごとく「女の形」をした男の役者が現れて演じる、ということだから、これもやはり「形」の重視と言える。


5、「かわいい」という言葉

「日本人は、かわいいものが大好きだ」と、よく言われる。わたしもその通りだと思う。

最近のテレビを見ていると、なんかもう「かわいい」という要素がないと、番組が成り立たないのかな?と思えてしまう。かわいいタレント、かわいい女子アナ、かわいい男子(=フェミニンな感じなんだけど、でもイケメンな男子)、番組内のかわいらしい演出(ピンク色を多用したり、テロップの文字を丸文字気味にしたり)等々等々等々等々。

「かわいい」というのは、どこまでいっても、「形」への賞賛の言葉である。決して「中身」への賞賛の言葉ではない(「あの子、かわいいところあるよね~」の「かわいい」すらも、それは「動作」という「目に見える形」のかわいさのことを言っているのである)。

つまり、「かわいい」という言葉が多用されるということは、それだけ「形」というものへの興味・関心が強いということなのだ。


最後になるが、もし外国人に「日本ってどんな国? 一言で言い表してみて」と言われたら、わたしはこう答えるだろう。「“形”ってものが、大好きな国だよ」と。
2014/01/29

「人それぞれ」という言葉は、ずるいと思う。

こちらが何か意見や考えを言うと、すぐに「でも、それって人それぞれじゃん」と反論してくる人がいる。

この「人それぞれ」という反論の仕方、一見すると筋が通っているような気がするが、実はそうではなく、「わたしはあなたの意見など聞きたくありません」と遠回しに言い換えているだけのようにわたしは思える。特に、なにかにつけて“すぐに”そう言ってくる人は、その可能性が高い。

彼らは要するに、「人それぞれ……」の「人」という言葉を「隠れ蓑」にしているだけなのではないか? 本当は、「自分はそんな意見や考え、聞きたくない」という言い分があるのに、「自分は……」を主語にはせず(できず)、「人」などという漠然とした言葉を使うことで、あたかも「自分以外の大勢の人たちも、そんなふうには思っていませんよ」という“ことにしたい”のだと思う。そうやることで、相手の意見や考えを寄せ付けないようにしているのだ。同時に、「自分」というものも守れるのだから、彼らからしてみれば、これは「一石二鳥」な手である。

なにかにつけて“すぐに”「人それぞれ」と言い出す人には、注意したほうがいいと思う。第一、言葉遊びのようだが、「それって人それぞれじゃん」という考えや言い分だって、「人それぞれ」である。

また、自分から“すぐに”そう言い出すことにも気をつけたほうがいい。なぜなら、もしかしたら、相手の意見や考えが「良薬、口に苦し」ということもあるからだ。なんでもかんでも、ちょっと気に食わないことを言われて「そんなの、人それぞれじゃん」と言い返していたら、言われた側は、たとえ有益な情報があったとしても、当人には言わなくなるだろう。まあ、「人それぞれ」至上主義者は結局のところ、「人それぞれ」と言いつつ、「自分」至上主義者なのだから、別に困ることはないのだろうが。

「人それぞれ」――いろいろな意味で非常に「便利な」言葉だが、同時に非常に「ずるい」言葉でもある。
2014/01/18

ブログは、続けていると、やめづらくなるらしい

タイトルでもうこの記事の結論を言ってしまった。しかし、これ以上のタイトルはつけようがないし、考えられないので、以下は詳論である。


わたしがこのブログを始めたのは2011年の1月。このブログ以前にも、似たようなテーマのブログを2~3回立ち上げたことがあったが、そのいずれも今はない。全部閉鎖させてしまった。理由は、思うような記事が書けなかったことと、ほとんどアクセスされなかったことの2点だ。

しかし、数回の失敗を経たせいか(?)、このブログはわたしが今まで立ち上げたものの中で、ものすごく続いている。今年で3歳(?)になったのだ。もちろん、10年以上ブログを書いている人たちからすれば、まだまだ若いブログではある。が、それでもブログの世界というのは、半年でも寿命が持てばいいほうで、ひどい場合、立ち上げたその日に息を引き取るブログもあると聞く。

では、なぜこのブログはこんなにも続いているのだろう? 正直なところ、自分でも不思議なのだが、思いつくままに、その理由を以下に書いてみたい。


①ブログを書けない間は、書けない自分を不快に思うのではなく、「いまはブログをお休みしているんだ」と考えるようになったから。

「マジメ」な人で、ブログを始めた人というのは、ブログを書けない日が続くと、なんとなく罪悪感に苛まれるのではないだろうか? そしてブログを続けられない自分を不快に思い、「いっそブログなどやめてしまえ!」などと考えて、そのままブログ閉鎖へ……なんてことになりやすいと思う。

かつてのわたしもそんな感じだった。ブログを書くネタがない→書けない日が続く→書けない自分を不快に思う→「もうブログなんかやめよう」→ブログ閉鎖、といったパターンで、過去につくったブログは潰れていった。

しかし、あるときから考えが変わった。ブログを書けない間は、「いまはブログをお休みしているんだ」と思うようになったのだ。「お休み」なのだから、これは決してブログを「やめた」ことにはならないし、記事を書けない間は、ブログ以外の趣味を存分に楽しめばいい。そして、書いていない間は、とりあえず「自分の充電期間」と考えれば、書けない自分を不快に思うこともなくなる。

言い方を変えれば、ブログを書くということに対して、もっと「フマジメ」になってみよう、ということだ。


② 書くテーマを「徐々に」増やしていったから。

このブログは当初、書評ブログのつもりで立ち上げた。しかし、ブログをやっていくうちに、だんだんと他にも書きたい(書いてみたい)テーマが増えていった。たとえば、映画のこととか、歌舞伎のこととか、ネット論、ブログ論、その他日常生活で思ったこととかを書きたくなったのだ。

もし、「このブログは、書評ブログなんだから書評以外のことは書かない(書けない)!」と決めてしまえば、その人は「マジメ」な人だと思う。しかし、ブログを続ける上では、そういう「マジメさ」こそが実は命取りになりやすい、ということをわたしは過去の経験で得ている。

だから、そういうときほどブログを書くということに対して、もっと「フマジメ」になろうよ、と思う。

ほとんどの個人ブログは趣味である。仕事ではないのだ。そして、われわれは「専業の作家」ではない。書くテーマなど、出版社から決め「られ」ていない。

犯罪自慢と誹謗中傷以外であれば、基本的にブログには何を書いてもいいのだ。それこそ、「こんなくだらない自分語り書いちゃっていいのか?」というようなものだってアリである。そう、なんでもいいのだ。

ブログは自由である。書くテーマを限定させてしまってはもったいない。書きたいことは、なんでも書いたほうがいい。そのうち、発信していくテーマの中身が深まっていけばベストだ。


③ アクセスカウンターを外したから。

アクセス数がすごく気になってしまう人も、「マジメ」な人である。無論、やはりアクセス数というのはどうしても気になってしまいがちものだから、仕方ないと言えば仕方ない。が、このアクセス数、もっと正確に言えば、アクセスカウンターというのは、ブロガーにとって大きな励みにもなれば、大いに落胆させる装置にもなるということだ。そういう意味で、カウンターは、いわば「諸刃の剣」なのである。

だから、ブログを始めて間もなく、かつ「マジメ」な人には、当分の間、あえてブログにカウンターを設置しないことをおすすめする。そう、純粋に「ブログを書く」ことだけに自分を専念させるため、である。

いま、このブログにはカウンターを設置しているが(まあ、ほっとんどアクセス数など増えないが)、一時期、意図的に設置しなかったことがあった。その理由は上記の通り。結果、設置しなかったことで、「気になっていたもの」がなくなったわけだから、「気にならなくなった」のだ(当たり前の話だが)。

ということで、アクセスカウンターは、ブログ上級者or「フマジメ」人間向け、と考えたほうがいいかもしれない。


○最後に:ブログは、続けていると、やめづらくなるらしい。

ブログというのはおもしろいもので、続けていると、ある時期から「なんかここまで続いていると、なんだかもう、やめようにもやめられないなあ~」とか、「こんなにたくさん記事がたまったんだから、ここでやめちゃうなんてもったいなさすぎる!」といった気持ちになってくるのだ。かく言うわたしは今まさに、そういう気持ちだ。

こうなれば、シメたものだと思う。おそらく、これから先ずっと、死ぬまでブログを続けられるのではないか。ここまで来るともう、アクセス数が少ないとか、書けない日が続いて不快だとか、そういったことが実にどうでもよくなってしまうのだ。ただただ、「自分で立ち上げたブログが今も生きている」という、それだけの事実(奇跡?)に感動してしまうのである。

以上。あまりいい感じの終わり方にはならなかったが、言いたいことは全部言えたから、今日はこの辺で。
2013/12/22

読書した後は、「考え」なくていい

読書術本とか自己啓発本を読んでいると、ほとんど必ずと言っていいほど「読書した後は、考えるという行為が大事だ」「本を読んだら、その内容について考えなければならない」といったことが書かれてある。

しかし、「考える」という行為は、そんなさらっと簡単に言えるほど簡単にできる行為だろうか? わたしは前からこのことに疑問を感じていた。

わたしは、読書をした後、改まって何かを考えるということはしない。読んでいる最中でさえ、考えるということをしていない。というよりも、読書中に何かを考えていられるほどの余裕は、わたしの頭にはない。

わたしが何かについて考えるときというのは、だいだいの場合、その何かについて不満や不快感をもっているときである。そのことに納得がいかないから、そのことを考えるのだ。

読書をしている最中、あるいは読書をした後というのは、ほとんどの場合、不満も不快感もない。なぜなら読書をしている最中はその本の中身に夢中だし、読書をした後は充実感で満たされるからだ。

無論、本を読んでいて納得がいかないことが出てくると「これはそういうことではなく、○○ということではないのか?」と思うことはある。が、それはあくまでも「思う」程度のものであって、おおまじめにそれについて「考える」などといったことはしない。

何かについて「考える」という行為は、その何かが「切実に」自分と関わってくる場合においてのみ、なされる行為だと思う。逆に言えば、その何かが「切実に」自分と関わってこないのであれば、いちいちその何かについて考えたりなどしない、ということだ。つまり、われわれはそんなに「暇」ではないのである。

たかだか読書をして、そこに書かれてあることが「切実に」自分と関わってくることなど、そうそうあるものではない。自分と「切実に」関わってくるものは、いつでも自分の目の前に立ちはだかる「現実」である。仕事という現実、人間関係という現実、経済事情という現実……その「現実」にぶち当たった時、それを乗り越える「術」として、われわれは初めて「考える」という行為をするのである。

だから、「読書した後は、考えることが大事だ」という言葉を、その通りに、真に受けないほうがいい。まじめな人ほど、読書術本や自己啓発本の著者が言うそのセリフにこだわってしまうかもしれないが、そんなものは無用である。読書をしたあとに、いちいち「考える」などという、大変にエネルギーを使う行動をしていたら、自分の身がもたない。

同様に、「読書をしたら、そこで得たものをアウトプットせよ」などという言葉も無用である。アウトプットなど、所詮は読書後に起きる、「偶然の副産物」程度の存在にすぎない。アウトプットは二の次、三の次なのであり、本来重視しなければならないのは「読書をすること」そのものではないか。

読書後は考えろだの、アウトプットしろだの、最近の読書術本、自己啓発本は特にうるさく言うようになったが、そのせいで読書そのものを楽しめなくなってしまえば本末転倒である。
2013/09/13

お金持ちの、お金に対する感覚

昔、会社の先輩とふとした話から財布についての話になった。


私は財布のブランドとか値段といったものには今も昔も興味がない。ただ、自分の社会的地位や収入に見合った、好きなデザインの財布を使えばいいのではないか、とは考えている。この考えも昔から変わっていない。

ところが、その例の先輩は、私から見て明らかに高額な財布を使っていた。無論、彼の地位や収入がその高価な財布を使うに値するのであれば、別に何とも思わなかっただろう。

しかし、どう贔屓目に見ても彼のステータスと財布は「つり合って」いなかったし、そのくせしばしば「金がない」「いま金欠で・・・」なんてセリフを漏らしてもいた。おまけに妻子持ちにもかかわらず、わたしはなぜ彼がそんな高価な財布を持っていたのか不思議で仕方がなかった。

それからしばらくした後、その先輩のことを徐々に知っていくにつれ、「どうやらこの人は金というものに対して色々な意味でコンプレックスがあるのでは?」と思うようになった。

そうというのも、さっきの財布の件に限らず、時計やら住居やら車やら、なにかと高価なもの、あるいは金のかかるものを所有していて、そうした一連の行為が私には、自らの金のなさを「自分は高価なものを買っている/所有している」から「自分は幸せなのであり、豊かなのだ」という“錯覚”でもって無意識的に(いや、意識的に?)なぐさめているように映ったからである。

私は、金がない(あるいは、金がなくなっていく)本来の理由は、当人の物品に対する金の配分の仕方が「間違って」いるからであり、それを「正し」てやりさえすれば、それほど金に困ることはないだろうと思うのだが、おかしなことに、彼の場合、自らの金のなさを「自らの金のなさを作っている原因(=高額な物品の購買と所有)」でもって慰撫していたのである。

ここに、自らが生み出した不幸を逆説的な形でもってなぐさめ、それが「うまく」いった場合には、「自分は幸せなのであり、豊かなのだ」と悦に浸ることすらできるという「事実」があると知り、わたしはひどく驚いた。なるほど、こういう「事実」がある以上、やはり彼は「シアワセ」なのかもしれない。

――と、彼に対する皮肉(イヤミ?)はこのくらいにしておくとして、ここでわたしが本当に言いたいのは、そういうことではない。結局、お金の使い方ひとつにも(いや、お金を扱うからこそ)、それ相応の「哲学」というものが必要なのではないか、ということである。



自分の好きなものや、「これには価値がある」と思うものに対して、お金を払うという行為を、わたしは一切否定するつもりなどないし、普通のことだと思っている。

だが、お金を払って所有したそれが、果たして本当に「今の自分」(何度も言うように、地位や収入や社会的立場など)と「つり合って」いるのかどうか、という点まで考えなければ、結局そのモノに自分が「所有させてもらっている」だけで終わってしまうと思うのである。

よく「お金がない」「金欠だ」と言う人は、ただ単にお金がない(=モノとしての紙幣がない)だけなのではない。そういう人は初めからお金を「持っていた」のではなく、お金に「持たされていた」だけなのであり、(不幸なことに)そのことに気づいていない人でもあるのだ。



彼(女)には、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」というリアルな感覚が乏しい。だから何かと消費に走るのだろう。もし、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が強ければ、「お金を使うとはどういうことか」「お金を使った結果どうなるのか」「そのモノをお金で買うことで何が起きるのか」ということまで、頭が働くはずである(端的に言えば、「無駄遣いをしない」ということだ)。

逆の見方をすれば、「今の自分」と「つり合わない」モノを買うということは、このように頭が働いていないということであり、もっと言えば「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が強烈なまでに薄いということである。

本当のお金持ちは、急にお金持ちになった、いわゆる「成金」とは違って、お金をたくさん持っているからという理由で不相応な豪遊などしない。彼らは、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が非常なまでに鋭敏だからこそ、「お金持ち」なのであり、また「お金持ち」として居続けられるのだ(もっと砕けた言い方をすれば、彼らは「お金を大事にする」ということである)。

一方、「成金」は、成金になった後で急に失敗するケースが多いように映る。彼らは「お金持ち」で居続けることができない。というのも、彼らの場合「お金持ちになった」という事実と感覚ばかりが先行してしまい、「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚が所詮は、二の次三の次程度のものでしかなくなっているからである。

もしも、お金持ちになりたいと思うのであれば、“まずは”徹底的に「自分は“お金”を“所有”しているのだ」という感覚を持ち、それを忘れないことから始めればよい。そして、例のわたしの先輩のように、今の自分が持っている金の少なさを「自らの金の少なさを作っている原因(=高額な物品の購買と所有)」でもって慰めるといった行動に走らないようにすることだろう。
2013/05/14

文章を「書ける人」になるには?

こんな記事を読んだ。いま話題らしい。

文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい - デマこいてんじゃねえ!

↑の記事によると、文章を「書ける人」は、


1、毎日少しずつでもいいから「知識」を蓄えていく。

2、どんなふうに言葉を「配列」していくかを考える。どんな「知識」を取捨選択していくかを考える。

3、文章を論理的に書く。しかし論理的でさえあればよいかというと、そうではない。情緒ゆたかな文章になるよう意識する(ここで言う「情緒」については、上記リンク参照)。



の3点を実行できている人のことらしい。


ふ~ん。なるほど。そうかもしれない。でもなんかちょっと、引っかかる。


まず、1番目の「知識」ウンヌンだけど、確かにその通り。やっぱり、どんなことを書くにせよ、これから書こうとすることへの「知識」がないと、なかなか書けないよね。当たり前だけど。

しかし、である。じゃあ、「実際に」文章を書こうとする段になると、もう「知識」がどうのこうの、なんて言ってられないのだ。

人を引きつける文章、誰かの心に響く文章。そういう文章を書くためには、たくさんのひきだしから多彩な知識を取り出さなければいけない。そして、そういう知識は短期間では身につかないのだ。(リンク先から引用)

↑はまったくその通り。しかし、じゃあ文章が「書ける」ために必要な「知識量」とは、いったいどのくらいなのだろう? 

そりゃあ、多ければ多いに越したことはないけれど、「実際は」そんなに「知識集め」をしてられないのだ。なぜなら、「知識集め」をすることと「文章が書けるようになること」との間には、ほとんど関係性がないから。「文章を書けるようになる」ためには、「知識集め」ではなく「文章を実際に(しかもたくさん)書く」以外、よい方法はないのである。

だから、「オレはこれから文章を書くぞ!」と決めたからには、もう「知識集め」をしてもムダ。おのれがいま持っている知識の量で、「作文」という「知的バトル」に挑むしかないのである。

無論、言うまでもなく「知識集め」はすごく大事だ。しかし、「文章を書く」段階にもなって、未だに「知識集め」をしているようでは話にならない、ということである。



そんで2番目について。どんなふうに言葉を配列していくか、どんな情報を取捨選択していくか、か。

こういった意識も大事だなあ~とは思う。少なくとも、意識しないより、したほうがいいに決まっている。

でも、である。「文章を書く」とは、「脳内で起こる戦争」なのだ。ものすごくめまぐるしく、頭の中が回転しているのだ。そしてその勢いでもって文章を書くのだ。

そんなとき、一々「ええっと、ここにはこんな言葉を持ってきて、最後はこんなふうに締めて・・・あっ、ここには読点があったほうがいいかな」なんて考えていたら、まず、死ぬ。何が死ぬかって、文章を書いていくときに起きる「勢い」や「躍動」が、である。

で、こういったものは絶対に殺してはならない。なぜなら、良い文章、おもしろい文章はこうした「勢い」や「躍動」と表裏一体の関係だからだ。

わたしは小説家ではないから、多くの作家先生がどのように小説をお書きになっていらっしゃるのか、存じ上げていない。なかには一字一句、ものすごく計算して紙面上に「配列」することによって、文章を練り上げている方もいるのかもしれない。

しかし、わたしはそんなことはしない。というか、できない。とにかくサッササッサと自分のオツムの中から言葉を紡ぎ出して、文章をつくっている。そうやって文章を書くのに必要な「勢い」を殺さないようにしている。いちいち、「ええっと、ええっと」なんてやってたら、文章書きという「知的バトル」を制することは到底できない。

これは、どんな情報を取捨選択するかについても同じ。いや、というよりも、勢いでもって文章を書いていると、勝手に頭が情報を取捨選択してくれる、といったほうが正確だろうか。自分が意識的に取捨選択するのではなく、もう自分から「離れた」状態で頭が自動的に「はい、次に必要な情報はこれ」といった感じで、ポンポンと蓄えていたものが出てくるのだ。

だから当然(さっきの話とかぶるが)、「知識集め」なんてものはやってられない。やってるヒマがない。そんなことをしていたら、「勢いでもって文章を書く」ということができなくなってしまう。チンタラチンタラと文章を書くハメになる。だから、「とりあえず」現時点で頭に叩き込んだ知識でもって、作文という「知的バトル」に挑むことになる(というか、そうせざるをえない)。



最後に3番目について。「文章は論理的に書け」は、もう中学生でも言われるようなことだね。だから「いまさら?」感はあるのだけど、でも大事なことだから、わたしはこれは「ちょっとだけ」意識している程度かな。

一方、「情緒的に」のほうがあんまり言われない。これもこれで大事かもしれない。しかし、論理の重要性と比べたら、こちらの重要度は低い。というのも、「言葉の情緒面を大切に」ウンヌンなんて言われても、ほとんどの読者は「言葉の情緒面」なんか気にもとめないからだ。

でも、ロジックは気にする。なぜなら、これがズレれてしまえば、「ほこたて」な文章になってしまうから。「ほこたて」な文章というのは、当然相手に信用されません。だから、ロジックのほうが大事なのだ。

それに、である。普段わたしは大量に文章を読んでいるのだけど、言葉の「配置」だの「情緒面」だのを気にすることっていうのは、ほとんどない。気にするのは、筆者の「言い分」(文章内容)と論理だけだ(当たり前すぎるくらい当たり前だけど)。

それ以外、大して気にしない。仮に気にしたとしても、すぐに忘れる。つまり、わたしにとっては「配置」だの「情緒面」だのといった要素は、「その程度」の存在でしかない。

いや、もちろん、「言葉は大切に扱うべきだ」という意見には大いに賛成する。言葉は、鋭利な「武器」だ。言葉は、人の肉体は殺めることはできなくとも、人の精神を殺めることはいとも簡単にできてしまうからだ。その反面、些細な一言で他人を大いに元気づけることだってできる。言葉とは、そんな不思議な、そして鋭利な「武器」だとわたしは思っている。

しかし、だ。大量を文章を書いていると、そんなことなどすぐに忘れてしまう。とにかく言葉を紡ぎだすことに夢中になってしまうからだ。「そんないい加減な状態で、ほんとうに文章が書けるのか?」と言われそうだが、答えは「書ける」である。実際に、文章を「すばやく」「たくさん」書くことだけを意識してみれば、それがわかると思う。



――ということで、上記の記事の言っていることはもちろん大事なことが少なくないのだけれども、あんまりこれらに意識を囚われすぎると逆に文章が書きづらくなるんじゃないかなあとは思う。

「とにかく、書け。もし文章をうまく書きたいのであれば」――これに尽きるんじゃないかな?
2013/05/11

ビジネスマンにとって読書が大事な「本当の」理由

会社にいて仕事をしていると、大変残念ながら、「頭を使う」ということをだんだんしなくなるようである。

たとえば、なにか資料をつくるとしよう。そのとき、ExcelだのWordだのを使って数値を入力したり、文字を打ち込んだりするわけだが、実際のところ、こうした作業というのは、ほとんど「頭を使」わずに、ほぼ惰性でやれてしまう。計画書や報告書をつくったり、商談の予定を組んだり、お金の計算をしたりすることも、ほぼ同じだ。

なぜか? それはたいていの場合、もうすでに、決まりきった「やり方」(「フォーム」と言い換えてもいい)を、(程度に差はあれ)「使い回せてしまえる」からである。つまり、「頭を使わ」なくていいのだ。そして代わりに頭ではなく、体が勝手に「動いてくれる」のである。

「そんなの当たり前じゃないか」と言われれば、その通りである。しかし、それが「当たり前」であるからといって、別にそれで「よいこと」にはならない。「当たり前」というのは、どこまでいっても「当たり前」でしかなく、「当たり前“だからそれでもよい”」とか「当たり前“だから仕方がない”」といったことにはならない。

よく、自己啓発本に「ビジネスマンは読書をしなければならない」などと書いてあったりするが、これは詰まるところ、「ビジネスマンの多くは、放っておくと頭を使わなくなるから」に尽きるのだと思う。

無論、世の中は「頭を使わ」なくてもできる仕事しかないわけではない。しかし、「頭を使う」ことが「本当に」必要な仕事というのは、おそらくどんな会社においても、1~2割程度の人たちだけがしているのではないかと思う。それ以外の人たちは、「頭を使わない仕事」、いや、正確に言えば「頭を使う必要性を、ことさら感じさせない仕事」をしているのではないだろうか。

わたしも今、Excelを使って資料をつくる仕事をしているが、ときどき「オレ、たしかにExcelイジってるけど、なんら意識的に“頭を使う”ことをしてないよなぁ・・・」と思うことがある。もちろん、いまの仕事に不服があるわけでもないし、こうした資料作りがムダだとも決して思わない。

しかし、どこかで意図的に、そして自主的に「頭を使う」ということをしていかないと(つまり、なにがなんでも頭の「出力」を上げていかないと)、本当に「頭を使わ」ない人間になってしまうのではないか、と不安な気持ちになってくる。そう、まるで「家畜」のように、なにも考えないで生きる人間になってしまうのではないか。

そういう状態こそが、本当の「社畜」なのだと思う。決して、ネット上でよく言われる、「サラリーマンとして生きること」それ自体が「社畜」なのではない。(ちなみに、わたしは「サラリーマンとして生きること」は生存戦略上、極めて有効だと考えている。なぜなら、「複数の人間が集まって、会社という組織集団をつくり、その中で分業して、お金を稼ぎ、毎月決まった日にお給料がもらえる」という生き方は、「誰からも束縛されず、ひとりで仕事ができ、成功すればその手柄を自分ひとりの手中におさめることができるも、失敗したときのリスクも、当然ながらすべて自分が引き受けなければならなくなる」という生き方より、効率的だし安全性が高いから。)

そんなわけで、「ビジネスマンたるもの、読書は必須」と盛んに言われるのは、本当のところ、「ビジネスマンは教養がなくてはならないから」といった高尚な理由からでも、ましてや「読書を習慣にしていれば、年収が上がりやすくなるから」といった理由からでもない

そうではなく、読書をすることで「なかば強制的に」頭に刺激を与える、言い換えれば「頭を使わ」せるためなのではないか。で、なぜ「頭を使わ」せる必要があるのかというと、結局のところ、「頭を使わ」せる仕事(=「頭を使わ」ないといけない仕事)こそが、直接的なかたちで会社に金銭的利益をもたらすからである。そしてそのためには、いつなんどきでも「頭を使」えるようにしておく必要がある。だからそのための、ふだんから最も手軽にできる「一手段」が「読書」なのだ。それゆえ、「ビジネスマンは読書をせよ」としきりに言われるのだろう。

無論、ただ本を読んでいればよい、ということではない。読んで考える、読みながら考える。それを含めてこそ、初めて「読書」と言えるのではないか。

ということで繰り返しになるが、ビジネスマンにとって読書が必要な本当の理由は、決して「教養のため」とか「読書をしていれば年収が上がるから」といった理由からではなく(というか「教養が身につく」「年収が上がる」といったものは、所詮、読書をしていて「偶然」自分にもたらされた「副産物」でしかない)、利益追求集団である会社にとって、直接的に会社に金銭をもたらしてくれるのは「頭を使う」仕事なのであり、そのためビジネスマンはいつでも「頭を使え」る状態にしておけるよう、「読書」という「一手段」でもって、頭の「出力」を上げておかないといけないから、なのである。

話が長くなったが、要は「ビジネスマンにとって読書は大事だ」という、いままで何度も言い古されてきた、なんら新鮮味のない主張が、この記事の結論である。
2013/04/20

ネット記事の読みすぎは、自分の思考や感性を麻痺させる

暇な時間に、ネットの記事をよく読むという人は少なくないと思う。

そういう人は、そもそもなぜ、ネットの記事をよく読むのだろうか? いろいろな理由が考えられるだろう。たとえば、「タダでいろいろな情報が入手できるから」とか「スマホをいつも持ち歩いていて、いつでもネットができるから」などなど。

実はわたしも、最近まではよくネットの記事を読んでいた。が、いまはもう、ほとんど読まなくなった。理由は、以前と違って、いまはあまり読む時間がないからだ。それに、スマホも持っていないから、仕事の合間の空き時間や休み時間で、ネットの記事を読むということが、そもそもできないのである。



結果的に、わたしは「ネット記事をよく読む人間」から「ネット記事をほとんど読まない人間」へと変わってしまったわけだが、そうした行動の変化にともない、自分自身も変化したようにこのごろ感じている。

何が変わったのかというと、「大量に情報を吸収“しなくなった”ことで、(ある程度ではあるが)「自分で」さまざまな情報を吟味したり、考えたりするようになった」ところである。少々、陳腐な言葉ではあるが、このように感じている。



世間では、さまざまな情報をたくさん得ることは「絶対善」であるかのように見なす傾向があるように思う。それはそれでたしかに正しい面はある。しかし、情報をたくさん得るということは、そのぶん、たくさん得た情報について「じっくり」と吟味したり、考えたりする時間が奪われる、ということでもあるのだ。なぜなら、多すぎる情報はいちいち丁寧に検討することができないからである。

「じっくり」と吟味したり、考えたりすることができなかった情報というのは、たとえ一時的に頭のなかに入れておいても、その大半はすぐに頭から消え去る運命にある(学生のとき、一夜漬けして叩き込んだ知識の多くが、一週間もしないうちに忘れ去られるのと同じように)。つまり、皮肉かつ逆説的ではあるが、多くの情報を入手しようとすることで、結果的に多くの情報が頭から消える(=入手できなくなる)ことになるのである。



この点を踏まえたうえで、ネット記事というものを観察すると、そこにはある種の「落とし穴」があるように感じる。どんな「落とし穴」かというと、それは「手軽にたくさんの情報を仕入れることができるような仕組みに“なってしまっている”」ということだ。

そういう仕組みに「なってしまっている」以上、多くの人が多くの情報をネット記事から仕入れようとするのは当然である。というよりも、それが現状だ。だから、みんなせっせと記事を読みあさったり、記事から記事へと「サーフィング」したりするわけだが、さっきも言った通り、それは実は「自分の中に蓄えようとした多くの情報を、自分で消し去っている」にすぎないのである。



こんなことを言うと、こんな反論が来るかもしれない。「いや、そんなことはない。たとえ頭のなかに情報を蓄積できなくとも、はてなブックマークのようなサービスを使えばそれは克服できる。忘れても必要なときに情報を閲覧することができる」と。

しかし、なにかの記事をブックマークするという行為、それによって必要なときに再びその情報をいつでも見られる状態にしておくという行為は、その情報を「じっくり」と吟味したり、考えたりする行為とは別物である。



後者は、たとえるなら「濾過」である。ここに、大事な成分も不純物もいっしょに混ざり合った液体(=情報)があるとしよう。その液体を、濾紙が貼られたコップ(=自分自身)に流しこむ。すると、濾紙には不純物だけが残ったが、コップのほうには大事な成分だけがきちんと入っている。

ここでいう「濾紙」は、いわば「ある情報についてじっくりと吟味したり、考えたりするための時間」である。そうした時間という「濾紙」を、自分という「コップ」に貼りつけておき、そこへ情報という「液体」を流し入れる。こうすることで、「大事な成分」が自分のなかに残るわけだ。

一方、ブックマークするという行為、それによって必要なときに再びその情報をいつでも見られる状態にしておく行為というのは、大事な成分も不純物もいっしょに混ざり合った「液体」をそのまま「コップ」へ流し込む(あるいは、混ざり合ったまま放置しておく)感覚に近い。

その情報の真贋は定かでなくとも、とりあえずおもしろそうであれば、ひたすらブックマークしておく。そして気になったときに見る(見返す)――これでは、「たくさんの情報」を自分の外へストックできても、本当に自分の中へストックできるか(できたか)は怪しい。わたし個人の体験や感覚から言わせてもらうと、ネットの記事は9割は「読み捨て」で終わっている



「現代は情報社会だ」と言われるようになって、だいぶ経つ。しかし、いくら情報社会になっても、すなわち、いくら人間の外部に情報がたくさん出回るようになっても、ひとりの人間が情報を「じっくり」と吟味し、それについて考える時間というのは、当たり前だが昔と変わっていない

昔はいまと違い、出回る情報が少なかったため、必然的に少数の情報を「じっくり」と考察「せざるをえな」かった。しかし、そうした状態こそが結果的に多くの情報(いな、それはもはや「情報」というよりも「知識」や「知恵」や「思考の鋳型」と言えるものに近い)を頭に残すことにつながったのである。

しかし、いまは逆である。たくさんの情報があふれているため、たくさんの情報にササッと「触れる」程度の感覚になってしまったように思う。

「触れる」である。情報という代物を、「ガシっと手でつかみ、いろいろな角度から観察する」といった、そういう感覚ではない。

だから、結果的にたくさんの情報に接しているにもかかわらず、個々の情報はどうであったか、その情報から何が得られ、最終的に自分がどう変わったのか、といったことの検討については非常に希薄だったりするのである。



ということで、ネット記事は、タダで簡単にたくさん読める仕組みになっているが「ゆえに」、読みすぎてしまえば、それは自分の感性を麻痺させていく危険性がある、ということを十分に注意したほうがいいのではないか、と思う今日このごろである。

それよりもむしろ、自分がネット記事を書く側に回ってしまえば、自分のなかにある既存の情報の再確認や整理につながると思うので、ネットでなにかをするのなら、「読む」ではなく「書く」ほうがいいかもしれない。


2013/03/16

「それは価値観の押しつけだ」という押しつけ

最近(でもないかもしれないが)、ネット上であるテーマや問題について意見を言うと(たとえば、ブログのコメント欄で)、「それは価値観の押しつけだ」といった反論が返ってくることがある。

こうした反論にまた反論するということに対して、以前からわたしはなんとなく「やりづらさ」を感じていた。しかし、「なぜ反論しにくいのか?」というのが、自分でもいまいちよくわかなかった。それで先日、ようやくわかった(?)ので、今日はそのことを書こうと思う。


●「それは価値観の押しつけだ」と言われた途端、感じる「後ろめたさ」


ネット上でなにかについて意見――「◯◯はするべき」とか「◯◯はやめるべき」とか――を言う。すると、それを見た人から「それは価値観の押しつけだ」という意見が返ってきたりする。

そういう意見が来るときというのは、概して当初述べた意見が、(多かれ少なかれ)「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったり、ということが多い。

だからだと思うのだが、それに異を唱えようとする一部の人にとっては、そういった意見を、意見人からの「価値観の押しつけ」と捉えるのだろう。

すると、「押しつけだ」と言われた意見人は、どことなく「後ろめたさ」のようなものを感じてしまうのではないかと思う。

無論、そんなことなど微塵も感じないという人もいるだろうが、わたしも含めて、「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という気持ちが、程度に差はあれ、生まれてしまう人もいるのではないだろうか(なので、これからする話は、どちらかというと、そのように感じる人向けになる)。

しかし、なぜ、後ろめたさや気が引けるような思いになるのだろう? わたしとしては、意見を述べた際、ほとんど(あるいは、まったく)と言っていいほど、「自分の意見でもって、他人を従わせよう」などという気持ちはこれっぽっちもなかったのに、ということがほとんどである。

なぜなら、ネット上で「不特定多数の人々」に対して意見を述べたのであり、誰か「特定の個人」に対して述べたわけではないからである。つまり、単なる「意見表明」としか、わたしは考えていなかったのだ。

でも、相手が「押しつけ」と感じるのは、やはり自分の意見が良くなかった、間違っていたからではないか、だから相手はそれを「押しつけ」という言葉で表現したのではないか?――ということを後になってグルグルと頭のなかで考えてしまう。


●「それは価値観の押しつけだ」論の構造


しかしどうも、この「押しつけ」という言葉は、ネット上では「したたか」な言葉になりやすい傾向があるように思う。

というのも、意見人に対して「それは価値観の押しつけだ」と言った瞬間、反論者は「善悪の二項対立」という形に持っていけるからだ。つまり、「価値観を押しつけた悪い人(=意見人)」VS「価値観を押しつけられた悪くない人(≒善人)」という形に、である。

しかし、当の意見人には、そもそも「押しつける」つもりなどなかった(あるいは、ない場合がほとんど)のだ。なので、意見人には、「善か悪か?」という概念など初めから存在しないのである。

しかし、「押しつけだ」と言われた瞬間、意見人のほうにも、さっきの「善悪の二項対立」という構図が心のなかに生じる。だから、彼(女)は「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という罪悪感に陥るのだと思う。

すると、なんとなくこれ以上、意見人は意見を言いづらい感じになる。意見人の「意見内容」が吟味・批評されるべきところを、それが「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったりというせいで、意見内容そのものよりも、むしろ「そういったたぐいの意見を述べた」という事実ばかりが批判対象にされるからである。


●ネット上で、価値観を「押しつけ」ることはできない


しかし、である。リアルの世界で、特定の個人に対して「べき論」を述べ、それを「価値観の押しつけだ」と反論されるならまだしも、意見を述べた場所はネット上なのである。

つまり、不特定多数の人々に対して述べたのだ(もちろん、ネット上でも特定の個人に対して述べる場合もあるが、それはリアルの世界の場合と同じになるので、ここでは考慮しない)。

ということは、そもそも「押しつけ」ようがないのである。なぜなら「押しつけ」られる「明確な対象」としての個人が存在しないからだ。なので、ネット上でなにか意見を言うことに対し、「それは価値観の押しつけだ」と反論するのは、筋違いなのだと思う。

この「それは価値観の押しつけだ」という反論の仕方は、ブログのコメント欄などでよく観察される。たとえそれが、「つぶやき」のような些細な主張であっても、である。

こういう反論をしてくる人というのは、おそらく「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった思いがあるのだろう。現に、そういうコメントをしてくる人もしばしば見受けられる。確かに、それはそのとおりだと思う。

しかし、「価値観というのは人それぞれだ」とか「誰にも人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった考えもまた、ひとつの価値観にすぎない。そのことを、この手の意見を強調してくる人たちはあまり認識していないように感じる。

にもかかわらず、そうした価値観を意見人に対して「強く」言い立てる(見方を変えれば、これも「押しつけ」である)というのは、さっきの「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」→「だから価値観の押しつけは良くない」とする論理と矛盾しているのではないか?


●己の価値観を自由に言えるのがネットのメリット


もしかしたら、「押しつけ」批判論者は、「強気」な意見やネガティブな意見、「一般ウケしない(しそうにない)」意見を見たときに感じた個人的な不快感や不満を、「それは価値観の押しつけだ」というセリフに変えることで、ある種の「自己防衛」をしようとしているのかもしれない。

しかし、今まで述べてきた通り、こうした反論は、ネット上という不特定多数の人間が自由にページからページを行き来する空間においては、無意味だと思う。

そして、意見人もたとえ「押しつけだ」と言われても、自分の意見を再考する必要は特段ない。なぜならさっきも言ったように、当人は「押しつけ」るつもりなんてないだろうし、そもそも「押しつけ」ようがないからである。

だから、ブログでは堂々と「自分語り」をしたり、己の価値観や信条をズバズバと主張すればいいのだ。そもそもネットとは、リアルではなかなかできないようなことを、させてくれる「場」なのだから。


――とはいってもまあ、これもひとつの「価値観」ではありますが。。。


2013/02/25

ブログをやっていてよかったなあ、と思うこと

わたしはこうやってブログを書いているのが好きだ。以前、ブログを書くことにはある種の「格好悪さ」がつきまとうのではないかと述べたが、しかしそうであってもやはり好きなものは好きだし、でなければブログなんて絶対に続かない。



それはさておき、ブログをやっていてよかったなあ、と思うことがある。それは、匿名で経歴や素性を明かさずにブログをやれば、純粋にブログでの発言内容のみが評価の対象となるところだ。言い換えれば、リアルの世界のように、発言内容とその発言者の身分とが「一緒くた」になって評価されることはない、ということである。この特性が、ボクはすごくいいなあと感じている。

こう言うと、「なにをいまさら?」「そんなの当たり前だ」などと思われそうだ。しかし、実は全然「当たり前」ではない。これは、多くの人にとって、かなり大きな恩恵になっているのではないか、とボクは思っている。



インターネット、そしてブログやツイッターなどがなかった時代は、社会(あるいは家族や知人、自分よりも年上の人たち)に向けてなにか発言したいことがあって、しかも発言できる機会があったとしても、発言しづらかった。というのも、「多くの人が発言者の素性や身分や経歴でもって、その人の発言内容を評価してしまう」という厳然たる事実が存在していたからだ。

たとえば現実の世界において、20代(または30代)の若者が政治のことや、社会のこと、仕事のことを論じようとすると、それがどんなに有用で的を射た意見であっても、その若者より年上の人たちは「まあ、君はまだ若いから......」とか「そういうことはもっと人生経験(社会経験)を積んでから言いなさい」などといって、まともに取り合おうとはしないことが、圧倒的に多い。

つまりリアルの世界では、発言者の発言内容自体が純粋に評価されることはなく(あるいは少なく)、その発言をした人の素性や身分、経歴も含めて、「総合的」に発言内容が評価されるのである。これは、発言する場が本や雑誌、テレビといったメディアに置き変わっても基本的には同じだ。なぜなら、もうすでに、発言者の素性や経歴がわかってしまっている(ことが多い)からである。

要するに長い間、リアルの世界においては、「言いたいことがあっても言えない」状況、「仮に言ってみたとしても、年配者から全力で否定・非難・批判される」状況というのが、インターネット、そしてブログやツイッターなどが普及するまでは、ずっと続いていたのである。



ぼくは長い間、こうした状況に、いつも不満を持っていた。なにか言っても取り合ってくれない。所詮は若者のザレゴトであり、素人のザレゴトである――そんなふうにあしらわれることが、おもしろくなかったのである。

たぶん、ボクと同じ思いを抱いたことのある人は多いのではないだろうか。討論の場であっても、会議の場であっても、必ずと言っていいほど、「まあ、確かにお前の意見は正しいかもしれないけど、でもまだまだ若いからな~」みたいな目を向けられ、あるいはそんなふうな空気にされる。そんな体験を、もう何度も味わってきた。

以前、どこかのブログで、「日本の若者が何も発言しない(しようとしない)のは、“発言してもムダである”という事実をよく知っているからだ」と書かれてあったのを目にした。まったくその通りだと思う。



しかし、べつにこうした状況は若者だけに限った話ではない

たとえばリアルの世界では、40代、50代の男が、若い女性アイドル(グループ)について、大好きなぬいぐるみについて、好きなアニメキャラクターのコスプレをすることについて熱く語りたい、しゃべりたいと思っても、多くの人はそうすることにかなり引け目に感じてしまうと思う。仮にやってみたとしても、すぐに「良識あるオトナ」がやって来て、ほぼ必ず「いい年して......」とか「大の男が......」云々という、紋切り型のセリフを使って批判する。最近の言葉を使うのであれば、「キモい」になるだろうか。

つまり、若者にせよ年配者にせよ、言いたいことや熱く語りたいことがあっても、発言内容そのもので良し悪しが純粋に評価されることはない(あるいは少ない)、ということである。現実の世界では、ほとんどの場合、言ったことと言った人の身分や素性とが、「セット」で評価され、吟味されるのである。そしてこうした状況は、いまもなお、リアルの世界においては「当たり前」のこととなっている。



しかし、である。ネットはそれを一気に変えてくれたのだ。リアルの世界のように、素性や身分や経歴が明確である必要などまったくない。実名や身分を伏せたまま、匿名でモノを言えるのだ。これこそが、ネットの最大のメリットなのである。

言いたいこと、語りたいことが特にない人には、ピンと来ない話かもしれない。しかし、言いたいこと、語りたいことが大いにあった人たちからすれば、いまの時代は大変ありがたい時代なのだ。長年くすぶっていた気持ちを、思いっきり、あらわにすることできるのだから。

しかも、ブログやツイッターを開設するのは非常に簡単だ。誰にでもできる。これはすなわち、「誰でも自由にモノが言える」ということであり、同時に「発言内容そのもので、評価される」ということである。



いい時代になったな、と感じる。もちろん、すぐに自分の言ったことを聞いてもらえる、評価してもらえるわけではないが、根気強くずっと発信し続けていれば、必ず誰かがそれを目にする。場合によっては、ふとしたきっかけで、たくさんの人たちから共感してもらえることだってあるだろう。そしてその意見が、いずれ「次代の常識」になりさえするかもしれないのだ。こう考えると、インターネットの力、ブログやツイッターの力というのは、本当にバカにできない。

――と、そんな思いもあり、また文章を書くのが好きだということもあって、ボクはこれからもブログを続けていこうと思っている。ときには更新しまくり、ときにはのんびりと。


2013/02/19

女でよかった? ―― ある広告に対する一考察

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先日だが、電車で(それから薬局で)上の広告を見かけた。資生堂「ザ・コラーゲン」(美容ドリンク剤)の広告である。



で、一見なんということもない広告だが、わたしはこの「女でよかった!」の部分が妙にひっかかった。

「女でよかった!」である。「女っていいね!」とか「女は最高!」ではない。つまり、現在形ではなく、過去形――「よかった」――なのである。

この言い方だと、「なにかもうすでに、女でいて得したことが起きた」かのように受け取れる。それが何なのかはわからないが、重要なのはそこではない。重要なのは、この広告(に写っている2人)が、見る人たち(とくに女性)に対し、あたかも「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」といった、「言外のメッセージ」を発している点だ。

この「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」というメッセージは、さらに、

――この広告を見ている「あなたたち女性」は、女でいて良かったことって起きた(起きている)かしら?(え、まだ起きてないの?)――

というふうに解釈をすすめることができる。

つまり、何が言いたいのかというと、この広告は、それを見る女性たちに、多かれ少なかれ、ある種の「不満」を抱かせる「装置」となっているのでは?ということだ。



広告に写っている彼女たちは非常に「幸せそう」である。こちらを向き、そして笑顔に満ちている。光り輝いている。背景にある花も、咲き乱れている。

では、なぜ「幸せそう」なのか?それは、自分たちが「女でいた」からだ。だから、彼女たちは「女でよかった!」というメッセージを発しているのである。

しかし、である。これらのメッセージは、「女」になりきれていない女性たち(いわゆる「女らしくない」女性たち)への「自慢」でもある。


「わたしたちって、“女でいた”から、こんなに幸せになれたのよね~」
「やっぱり、“女でいる”ことって得するのね~」
「そう思うと、“女でいない(いられない)”女って、かわいそう~。だって、こんなに得することを、味わえないんだから」


そして、この広告は、彼女たち2人にここまで「言わせて」おいて、最後に「隠されたメッセージ」を、「女」になりきれていない女性たちに送る。

――このドリンク(「ザ・コラーゲン」)を飲めば、わたしたちみたいに「女」になれて、「幸せ」になれるけど?(さあ、どうする?)――

話は若干変わるが、こうやって「ジェンダー」というものが徐々に形成されていくのだと思う。



さて、わたしのこの広告に対する「読み方」は、「行きすぎ」であろうか?イジワルであろうか?

この広告の「読み方」は、ほかにも色々とあるだろう。わたしの「読み方」だけが、絶対、ということはない。

しかし、わたしにはどうしても「そう読めてしまう」のである。

ここで、美術評論家のジョン・バージャーの次のセリフを思い出す(太字はわたし)。

広告を見る人=購買者は、その商品を買えば変わるであろう自分自身の姿をうらやむように仕向けられている。購買者は、その商品によって変身し、他人の羨望の的となった自分の姿を夢見る。その羨望が自己愛を正当化するのだ。別の言い方をすれば、広告イメージは、ありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。(ジョン・バージャー『イメージ』(ちくま学芸文庫)p.187)

本当にそう感じる。人はみな、他人が欲しがるものを欲しがるのだ。欲望は、人から人へと「感染」するのだ。広告の役目は、まさにこの「感染」装置として、にある

なので、この広告を見てしばらく考え込んでしまった。「あ~、なるほどね。この広告つくった人、頭いいな~」と。なんというか無意識のうちに、「美(=女らしさ)への欲望」が「感染」しそうだ。そういう「迫力」が、わたしには感じられる。べつにわたしは女じゃないけど、実際、この広告を見た女性たちはどう感じるのだろうか?


とはいってもまあ、広告なんて、あんまりじっと見るもんじゃないかもね。


2013/02/13

散歩散歩散歩

2013年2月13日現在。

わたしはいま、事情あって働いていない。毎日がホリデーである。


毎日がホリデー、というと、きっと現役社会人の方たちから羨ましがられるだろう。ところが毎日を「日曜日」として過ごす、というのは、けっこうキツかったりもする。特にすることがないのだ。

つまるところ、暇である。おまけに金もないから旅行にも行けない。「さて、今日は何をしようか?」などと、途方に暮れることのほうが多い。エーリッヒ・フロム言うところの、「自由からの逃走」というヤツである。

そんな理由もあり、また、家にこもることが多いわたしは、なにかと運動不足になりがちだ。なので、少し前から「散歩」というものを始めてみた。

散歩――とはいっても、毎回毎回、同じコースを歩くだけである。「ウォーキング」といったほうがふさわしいかもしれない。



それはともかく、ここ最近は、この「散歩」というのがマイブームになっている。

出かけるときは、少し薄着をする。けっこう汗をかくからだ。靴は普段から使っているもの。そして欠かせないのが、「ウォークマン」である。いつもこのウォークマンで好きな曲を聞きながら、散歩する。ウォークマン――歩く人。文字どおり、わたしのことである。



歩くところは森林公園や植物公園である。

なぜ、そういったところを歩くのか?

静かだからだ。休日はともかく、平日は人がいない。あるのは、植物と土と砂利。ときどき、老人を見かける。それだけである。つまり、わずらわしさがないのだ。

そういったところをひたすら歩く。歩く。歩く。「パフューム」の曲“Hurly Burly”を聞きながら。わたしはパフュームが好きだ。ファンである。女の子3人とも美人である。かわいい。そんな彼女たちの歌声を聞きながら、ただただ、歩く。歩く。歩く。



歩きながら、どんなものを目にするか?

よく見かけるのがハトである。公園に行き着くまでの道、下り坂があるのだが、その坂の道路の端っこで、よく彼らを見かける。いつもなんか、ツンツン突っついている。餌を探しているのだろう。いつも夢中で、ツンツンしている。

こちらが彼らのそばを歩いてみても、あまり警戒しない。飛び去ることもない。どうやら人間に慣れているようだ。わたしだったら、そばに見知らぬ人が近づいてくるだけで「んんっ?」と落ち着かなくなるのに、彼らはそうならない。対人能力とかいうものを、きちんと持っている。えらい。


アヒルもよく見かける。いつも川にプカプカ浮かんでいる。眠そうな顔もしている。あせり、という概念がなさそうである。

すばらしいことだと思う。現代人がいつも抱えて生きているものを、アヒルはこれっぽっちも抱えていない。抱えていないどころか、いつも余裕そうな顔つきである。自分もいつもああであったらなあ、と感じる。


老人は、わりと見かける。老人。やや、ぶっきらぼうな言い方ではある。しかし、そうとしか呼びようがない。まさか「老いて去る者」とか、「人生の下り坂」とか、とは言えまい。「あっ、あんなところに“人生の下り坂”がいる!」なんて、失礼にも程があろう。

「(お)年寄り」というのはどうか?これは、いつも眉間にシワ寄せた人、というイメージしかない。だから、老人、がいい。老人。そう、老人。



歩くときは、腕を振るように意識している。散歩は、足だけでするものではない。腕でもするものだ。ぼくはそう思っている。だから、腕を振る。振るときは、いつもよりも、すこしだけオーバーな感じがいい。そうやって、歩く。すると、だんだん、体が温まってくる。汗も出はじめる。「全身運動」というヤツだ。

歩きはじめると、自然と考えごとをしてしまう。パフュームの曲を聞いているのに、である。「どんな記事を次は書こうか?」「あの映画、たしかこんな場面があったな」「お昼ごはんはどうしようか?」などなどなど。

歩いていると、こうやって黙々と、考えることが常である。歩きながら考える。考えながら歩く。どちらが主なのかわからなくなる。パフュームの曲を聞いているからかもしれない。



散歩というのは、孤独人や一匹狼には、もってこいの趣味だと最近気がついた。まず、仲間がいらない。テニスやサッカーのように、他人が必要でない。ひとりで、しかも好きな日に、好きな時に、できる。

それから、ランニングのように、苦しくない。ただひたすら、歩いていればいいのだから、足も故障しにくい。つまり、続けることができるのである。三日坊主にならない、ということだ。

「運動不足解消のため」という理由で始めた運動は、だいたい、三日坊主へ一直線である。それは、「苦しくて続かないから」「メンバーが集まらないから」の2つに尽きる。でも散歩には、その2つがない。



歩く時間はだいたい50分。50分と聞くと、長く感じる。しかし、案外すぐに終わる。パフュームの曲を聞いているからだと思う。そして終わる頃には汗もかいている。気分もスッキリする。いい運動をしたな、と感じる。

こんな感じで、わたしはここ毎日、散歩している。とはいっても、これは「何もすることがない」ということの、裏返しでもある。まさにわたしは、「自由」から「歩いて逃走」しているのである。



2013/02/09

ブログにおける「自分語り」の素晴らしさ

「自分語り」というのは、おそらく「ネット上で嫌われる行為」ベスト5にランクインするのではないかと思う。べつにこちらから聞いてもいないのに、自分のことを語るというのは、確かにウザい面もあるだろう。

しかしそれは、「リアルにおいては」という条件付きだと思う。ネット上では、むしろ「自分語り」をしてくれるブログの方が、僕は好きだったりする。

「自分語り」というのは、「自分史」の一部分を語ることだ、と僕は思っている。自分のそれまでの体験、そしてそこから得られた、自分なりのものごとに対する考え方――

こういったものがなければ、「自分」を語ることはできない。つまり、「自分」を語るとは、自分の歴史(=自分史)を語ることと、ほとんど同じなのだ。

そういった「個人的な歴史」というのは、一見すると「その人だけの歴史」のように思えるが、実はけっこう、他の人にも当てはまるような、「普遍的」なことだったりする。

実際、僕の経験からの話だが、「自分語り」を積極的にしているブログを読んでいると、そのブログを書いた人のみならず、僕個人にも当てはまることを多々発見できるのだ。




話は若干変わるが、僕は新聞の書評欄やネット上の書評サイトをもとにして、本を買ったことがあまりない。このことに自分で気づいたのは、わりと最近である。しかし、僕自身、本が好きで、こうして本の感想を中心にしたブログを立ちあげている。

にもかかわらず、なぜ、他の書評から刺激を受けないのだろうか。その理由は、そういった書評には、書いた人の「自分」が表れていないことがほとんどで、読んでもおもしろくないからだ。つまり、取り上げた本をダシにして自分語りをするということが、ほとんどされていないのである。

その本を読んで、その人が思ったことや感じたことをそのまま書いてくれればいいのに、と思うところを、わざわざ衒学的に書かれてあったり、無理に小難しく言い回してあったり、というのが、新聞の書評や書評専門サイトには多い気がする。

もっと気楽に、本をダシにして「自分語り」をすればいいのではないか、と思うことがしばしばだ。それに、わざわざその本にどんなことが書かれてあるのか、詳しく説明しなくとも、その本の目次を見れば、何が言いたいのかはすぐに見当がつく。




ネット上で「自分語り」をすることは、必ずしもリアルの世界と同じように、マイナスに働くわけではない。なぜなら、そういった「自分語り」している人が嫌いな人は、そもそもそういったブログを見ないからである。

リアルの世界のように、ネット上では「人付き合いで仕方なく、その人の“自分語り”を聞かないといけない」といった状況になることはない。「嫌なら見なくていい/やらなくていい」が、ネット上では簡単に成り立つのだ。

つまり、ネット上での「自分語り」はマイナスに作用しないのである。むしろ、プラスに働くことのほうが多いと僕は思う。にもかかわらず、「自分語り」をためらう人が、わりと多いように見受けられる。

これは、日本流の「個を出さない」という教育のタマモノだろうが、それに加えて考えられるのが「客観的」というものに対する、ある種の「信仰」である。

学校の時の作文や論文を書くときなど、ぼくたちは「“客観的に”ものごとを述べなさい」とよく言われてきた。特に、高校生以降になると、こうしたことをよく言われるようになる。とにかく「客観的」であることが、なにか「良いこと」のように吹き込まれてきた感が、僕には強い。

一方、「自分語り」とは、そういった「客観的」なるものとは対極に位置するものだ。「自分」のことは、一見すると、どれも「主観的」なもののように感じるから、その人にしか当てはまらない、その人にしか役立たない――そういった見方というか信仰というか、そんな考えが「自分語り」という行為には向けられているように感じる。

しかし、さきほども言ったように、僕の経験からすると、ある人の「自分語り」にも、他の人に通じる「普遍性」があるのだ。決して、「その人のなかだけで終わる話」ではないのだ。そこに書かれてある「自分語り」は、読み方を変えれば、いくらでも「私個人」のものにすることができるのである。




僕が、「自分語り」のブログだけに限らず、身辺雑記的なエッセイが好きなのも、そういった理由からである。

特に好きなのは、中村うさぎさんのエッセイ(『愛という病』など)だが、彼女の個人的な話には、笑えるおもしろさも、「普遍性」も含まれている。決して、「中村うさぎ個人のなかだけで完結する話」ではない。うさぎさんの「自分語り」を、そのまま僕の「疑似体験」として、変化させることができるのである。

無論、彼女はプロの物書きだから、素人の書くブログと同列に語るのは無理があるだろうし、うさぎさんにも失礼なことだろう。しかし、プロのエッセイにせよ、素人のブログにせよ、「“自分語り”には“普遍性”がある」という点においてはどちらも共通している。違うのは、「自分」というものの「語り方」である。

そんなわけで、いま僕自身の、あらゆるブログに対する願望は、「みんなもっと、自分語りをしてくれたらいいのに」である。リアルではしづらいからこそ、ネット上ではやれるのだし、やる価値があるのではないかと思う。「自分語り」というものは。



2013/01/28

私がツイッターをやめた理由

昔、私もツイッターをやっていた。
動機は、大したものではない。なんか流行っているし、ブログの宣伝にもなりそうだし、個人的な興味もあったので始めたのだ。

実はツイッターもブログと同様、私は3回ほど、始めてはやめ、始めてはやめ、を繰り返した。そして今は“きっぱり”やめることにした。

なぜツイッターを“きっぱり”やめることにしたのか。理由は3つある。


1:「普通の生活」をしている自分には、ツイートすることが何もないから。

2:考えていること(考えたこと)は、「一度に」「まとめて」文章にした方がいいと思うから。

3:自分が何かをツイートするよりも、人のツイートを見ている方が楽しくて楽だから。




1について


ツイッターをやめた理由の70%は、1の理由からである。ツイッターを色々とイジってみた挙句、結局普通に生活をし、普通にインターネットをする私にとっては、何かを見てつぶやく(べき)ことが何もなかったのだ。

本当に、何もない。例えば、2chのまとめサイトを見てつぶやくことは、過去に何度もあった。が、そのうち「別に自分がつぶやかなくても、他の大勢の人がつぶやいているのだから、わざわざ自分がそうする必要などないじゃないか」と思うようになった。

別に2chのまとめサイトに限らず、他のブログ記事についても同じである。私がつぶやこうと思う記事は、決まってもうすでに誰かが(しかもたくさんの人たちが)ツイートした後なので、つぶやく必要性がまったくと言っていいほど感じられないのである。

こうなってくると、「じゃあ、自分の身辺のことでもつぶやくか」となってくるかもしれない。しかし、どこの誰かも分からない人の身辺についてのつぶやきに、何の価値があるのだろう。「お腹が痛いなう。電車なう。ピンチなう」とか、「今日のお昼はイタリアン!デザートは別腹。旦那には内緒」とかつぶやかれても、フォロワーにとっては迷惑だろう。

というわけで、ネットの記事にせよ、身辺情報にせよ、私には何らつぶやくことや、つぶやく必要性が、何ひとつなかったのである。



2について


これは、ツイッターを“きっぱり”やめて、ちょっとしてから気がついたことだ。

自分が考えていることは、(自分だけの秘密にするにせよ、他人に見せるにせよ)ある程度まとまってから、ある程度分量のある文章にした方がいいのではないか、と私は思っている。だからツイッターはやめても、ブログはやめないのだ。

というのも、ツイッターでその都度その都度、つぶやくという行為は、自分の思考を途中で「裁断」してしまうことに気づいたからである。つぶやけばつぶやくほど、自分の頭の中でおこなわれることが「思考」ではなく、「細切れ」にされた、ただの「思いつき」ばかりになっていきそうだからだ。

「ツイッターに限らず、ブログだって所詮、思いつきの垂れ流しのようなものじゃないか」という意見もあるだろう。確かに、場合によってはそういう面もあると思う。しかし、ブログはツイッターと違い、字数制限がない。とにかくキーボードを叩いて、たくさんの文字が打ち込めるのだ。この「たくさんの文字が打ち込める」というのは、思考がよどみなく動き続けていることの表れである。

そしてこうした動きは、非常に自然なものだ。思ったこと、考えていることがどんどん膨らみ、溢れるように出てくる。途中でその「勢い」を終わらせてしまうことが、非常にもったいなく感じる。おそらく、文章を大量に書いている人には同じ体験があるのではないだろうか。

つまるところ、これが「思考」なのだと思う。一方、「思いつき」というのは、パッと現れ、パッと消えていくような、そういった刹那的なものだ。“断”続的、といってもいい。

ツイッターは、こうしたよどみなく続く思考の流れや発展していく状態を、「字数制限」という装置によってストップさせてしまう。「だったら、連続ツイートすればいい」ということになるが、なぜ140字の時点になったら、自分の思考の流れをストップさせるような媒体を、「わざわざ」使わなければならないのか。それなら始めから、ブログの方が便利ではないだろうか。

別に、私はツイッターがブログよりも劣った道具である、などとはこれっぽっちも思っていない。そうではなく、絶え間なく続く思考の流れをわざわざ止めてしまう性質がツイッターにはあるのだから、少なくとも、その「絶え間なく続く思考の流れ」を重視したい“私にとって”は、ツイッターよりもブログの方が合っている、というだけの話である。決して、ツイッターには何の価値もない、ということではまったくない。



3について


これも自分がツイッターをやめてから気がついたことだ。過去のつぶやきを見て、私基準で「この人は有用なことをつぶやく可能性が高い」と思った人のツイッターを覗くことが、私にはぴったりだと感じるようになった。

「有用なこと」とは何か。これは一概には言えないだろう。先ほどの、「お腹痛いなう」とか、「今日のお昼はイタリアン」とかは、とりあえず「有用なこと」ではないはずである。

私が思う、私にとっての「有用なこと」とは、社会批評の記事とか、書評とか、一風変わった自己啓発系のエントリーなどの紹介だ。

そういったものを、ひたすらツイッターで紹介してくれる人は、非常にありがたい。いつもいつも「今日はどんなことをツイッターで紹介してくれるのだろう」と期待しながら、その人のツイートを見てしまう。

問題は、そういう人がどのくらいいるのか、そういう人に出会えるのか、である。幸い、私はそういう人を見つけた。決して有名人ではないが(有名人でもつまらないことばかりつぶやいている人は大勢いるが)、私の基準に照らして非常に「有用なこと」をつぶやいている。素直に、ありがたいことだと思う。

以上3つ、私がツイッターをやめた理由を書いてみた。こうして見ると、ツイッターをやめたとか何とか言いながら、結局ツイッターについて色々考えている自分がいたのだなあ、と思う。つまり、なんだかんだでツイッターと「間接的に」関わっていた、ということか。そういう意味で、本当はツイッターを「やめていない」のかもしれない。

話は若干変わるが、押井守の『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)が出版された時、その本のオビには「つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。」と書かれてあった。買いはしなかったが、かなり強烈な文句だったのでそこだけは覚えている。

しかし、あながちウソでもないかもしれない。言い得て妙だとも思う。先ほども言ったとおり、ツイッターは、自分の思考を「細切れ」にしそうな感がある。長時間、じっくりとものを考える、ということをおろそかにしそうだ。何かを見てすぐに反応し、何もよく考えずにツイートばかりしていれば、「バカ」になるのは間違いない。

誤解されないためにもう一度言うと、私はツイッターを使うことや、つぶやくことがダメだと言っているのではない。そうではなく、いつもいつも、大したこともないのにツイートしまくったり、じっくりと考えずに即時的にネットにものを書き込んだり、ということに危なさを感じるのだ。

とはいっても、これはブログや他のSNSにも当てはまることだろう。私も注意しなければ。


2012/12/27

なぜ私は文章を書くのか

今年(2012年)も残すところ、わずかとなった。そして同時に、このブログも、始まってからおよそ2年が経とうとしている。実は、このブログ以前にも別のブログをやっていたのだが、ほとんど続かず、すぐに潰してしまった。だから今、このブログが奇跡的に「生存」していることに、嬉しさを感じている。

ところで今、私はこのブログにアクセス解析を取り付けていない。理由は、たぶん誰も読みに来ないだろうと思っているからだ。別に自虐でも謙遜でもない。面白いことなど何一つ書いていないし、いつも何だか中途半端な「読書感想文」で終わってしまっているなと反省している。

それに、仮に取り付けたとしても、訪問者数のあまりの少なさに、きっとめげてしまうであろうことも自覚している。こういう理由から、私はアクセス解析を取り付けないことにしている。

それなら、「日記」で物を書けば良いではないか、という話になってくる。なぜ、「日記」ではなく「ブログ」という形式で物を書き続けているのか――それが実のところ、自分でもよく分かっていないところがある。無論、ぼんやりとした理由として、「何だかんだ言っても、やっぱり誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」という子供じみた自己顕示欲から、というものと、「奇跡的に、何十年後かまでにもこのブログが残っていたとして、その時それを自分の“思い出”として読みたい」という淡い想いから、というものがある。

しかし、“本当に”こうした動機でブログをやっているのだとしたら、もっと積極的にブログの更新をしているんじゃないか、また、もっと積極的に他の人たちと交流しているんじゃないか(ツイッターを使ったり、相互リンクしたり、など)と思っている。

にもかかわらず、ツイッターは(昔はやっていたが)今はやっていないし、以前、自分の書いたものを投稿していた書評サイトにも、今は投稿するのをやめている。つまり、一方で人と簡単にコミュニケーションが取れるネットの世界で物を発表しつつも、人と交流することは“意図的に”避けてしまっている自分がいたりするのだ。そのくせ、「誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」などという感情を持っていたりして、色々な「矛盾」が私の中にはある。

このことについて、少し考えてみた。なぜ私は文章を書くのか。それは、結局「物を書くことで、そこに“私”が存在しているということを、無意識的に確認したがっているから」なのだと思う。

しかも、それがなぜ「ブログ」で、なのかというと、「誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」という気持ちもあるものの、「“もしかしたら”誰かに自分の書いた文章が読まれているのかもしれないが、その“文章”を作ったのは、他の誰でもない、この“私”であり、それを“他人”が読んでいる。だとしたら、“私”はやはりこの世の中に“きちんと”存在しているのだ」といった、非常に回りくどい「自己確認」をしたがっているからなのだと思う。

こうしたことは、別にブログに限った話ではないだろう。自作の音楽をネットにアップしたり、小説を発表したり、絵を公開したりすることも、どれも先の意味での「自己確認」に繋がると思う。自分の作ったものを人に見せるということは、同時に自分の作ったものを自分で確認している、ということでもある。

そして、自分の作ったものは、どれもすべて「自分のこと」として関わってくる。物を作り、それを他者に見せるのは、どんな場合でも「自己表現」になるのであり、「自己表現」とはすなわち「自己確認」なのだと感じる。つまり、何かを作ることでしか、「自分」とか「私」といったものを確認できない自分が、そこにいるのだ。

そう考えると、文章を書くこと、とりわけそれをブログでやるということは、ある意味「格好悪い」ことかもしれない。また、「精神的に弱い」ことかもしれない。別にわざわざ物を作らなくとも、楽しいことなどこの世にいくらでもある。しかし時々、「自分」の存在(=「自分」がこの世にきちんと「いる」のだということ)を確認したくなる時というのが、私には訪れる。

それで文章を書く、ブログをやる(また時には「日記」という形で)といったことをしているわけだが、そんなことでもしない限り、「自分」を確認することができないことに、やはりどうしても「格好悪さ」「精神的な脆さ」といったものが付きまとってくるのではないかと思うのだ。

文章を書くことで、「何者でもない私」から「文章を書く私」、言い換えれば「何者かである私」に(一時的にではあるが)なれるのだろう。結局、「何者かである」ということによってしか、安心というか満足感というか、そういったものは得られないのだと感じる。だからこそ、そこに拘ってしまう自分の中に「格好悪さ」を見つけてしまうのだ。

しかし、何だかんだ言っても、やはり書くことは私にとって必要なことだし、また書き終えた時の達成感も好きだ(「書いている時」というよりも、「書き終えた時」といった方が正確だ)。だから今後も、ブログを続けていくと思う。ブログ開始から2年目を迎える者にとって、過去に自分の作ってきたものが貯まっていくという感覚は、何ものにも代えがたい。

また、このブログが“最終的に”どのような形で「幕を閉じる」のか(それは自分が突然死んだことによってなのか、それとも単に飽きてやめてしまってなのか、など)も、何となく興味がある(そんな日が来るのは、ずっと先で良いのだが)。

また例のごとく、言い足りたことよりも、言い足りなかったことの方が多かったかもしれない。しかし、自分で言うのも変だが、何が言い足りなかったのかがはっきりしない(「覚えていない」という感じもする)。こうした言葉による「表現不足」は、文章を書く、とりわけ自分のことを書く時には付き物だ(私はもう何度もこのことを経験している)。それでも、物を書くのは書きたい衝動に駆られるからである。

ということで、あまりうまくまとまらなかったが、以上で今年の締めとしたい。
2012/08/16

「議論することそのもの」の効用

有名ブロガー・ちきりん氏がこんなエントリーを書いていた。

Chikirinの日記 - 2012-08-13 「話し合って決める」という幻想

以下の部分は、私も賛成である。

ツイッター上でも「会話」をすることはあるけど、「議論」はしないです。ネット上で議論をしない最大の理由は「非効率だから」です。別の言い方では「時間の無駄だから」

140字という制限があるツールは議論をするのに向いてないし、議論の重要な前提となるべき過去の発言もどんどん流れていってしまいます。そしてなにより、議論の相手のことが全くわかりません。もしかすると相手は小学生かもしれないのです(いろんな意味で)。
文字制限のないブログでさえ真意が理解できる文章を書くのは難しいし、議論というのは「しきり役」がいないとどんどんズレてしまうものなので、遠く離れてボールを投げ合っていても、ほとんど噛み合いません。

ところが、後半からは大いに首を傾げてしまった。

なので「ネット上で議論をしない理由」は、「あまりに非効率で耐えられないから」なのですが、実はリアルの社会でも私はそんなに議論をしません。(他者の意見を聞くのは大好きだし、自分の意見を言うのも好きです。議論をしないだけです。)

その理由は、「議論する意味がないから」です。
(…)
世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです。
(…)
「話し合って決める」というのは、お花畑的幻想です。「話し合えば、相手も自分の意見と同じになるはず」などと思うのは、傲慢です。
(…)
「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。

このエントリーの疑問点は以下の2つ。

1、「議論すること」が、なぜか「何かを(正しい/間違っている/良い/悪いと)決めること」だけ、になってしまっている点

2、それ以外にはあたかも議論の効用はないかのように述べている点



私は、議論することそのものにも意味はある、と思っている。
議論することで、お互い、自分の意見や考えに「穴」があったと気がつくかもしれない。相手から、別の物の見方を提示されることで、視野がより広くなることだってあるかもしれない。また、議論することはそれなりに知的な力が必要なので、純粋に知的営為として議論を楽しむ、ということだってある(私もそういう風に議論を眺める時が多々ある)。

ちきりん氏はどうやら、「議論すること」というのは、「“勝ち負け”を決めること」であったり、「物事の是非を決めること」であったりするから、人によって多様な考え方がある以上、ある一定の考え方を強制させることはできないので、やるだけ不毛だ、といった風に考えているようだ。しかし、議論することには「議論することそれ自体」という目的(意味)もある。必ずしも相手を説得したり、間違いを指摘して自説の正しさを主張したりすることだけが、議論の目的ではない。意見と意見とを戦わせる「おもしろさ」を味わうため、といった目的だってあるのだ。

また、「議論をして何かを決めることは意味がない」と考えるのは、下手をすれば「相手の意見や考えや言い分は聞きません」「自分の言いたいことだけ、ひたすら言わせてもらいます」といった、独善的な態度にもつながりかねない。これこそ、ちきりん氏の言う、意見や考えの「多様性」を否定することになりはしないか。再三述べるように、何かを決めることだけが議論の意義ではない。単に、意見や考えを言ったり、聞いたりするだけでも「議論」である。

ネットの場合なら、「議論なぞ無意味だ」という態度でも構わないだろう(前述した通り、コミュニケーションの観点から見て非効率きわまりないから)。しかし、現実においてもそういった考えならば、「まずい」と言わざるをえない。
2012/01/24

文学部の存在意義(大学で学ぶことの意義)

グーグルで「文学部 存在意義」と入力すると、検索候補にその組み合わせが出てくる。これが「法学部 存在意義」や「経済学部 存在意義」と入力しても、検索候補は出てこない。

悪く言えば、「文学部に、社会的価値などないのではないか」という暗示である。良く言えば、他学部よりも興味が持たれやすいのかもしれない。

なぜかは分からないが、この手の「存在意義論」は、必ずと言っていいほど「大学で学ぶもの=社会で役に立た“なければならない”もの」という前提から始まる。そのため、おそらく、その前提に達していないであろう(とされている)文学部は、「存在意義なし」の烙印が押されてしまうのだろう。そうだとすれば、ある意味、仕方がないかもしれない。

だが、前提がそもそも間違ってはいないだろうか。なぜ、「大学で学ぶもの=社会で役に立た“なければならない”もの」から始まるのか。

学問とは、物事の「しくみ」を探ることだ。法学部なら、憲法や法律の「しくみ」を探る。経済学部なら、経済の「しくみ」を探る。ざっくり言えば、こうなるだろう。

文学部は、人間と言葉の「しくみ」を探る場所である。どのように探るかと言えば、それは書籍(文学作品や思想書など)や、その他の言語テクスト媒体(映像や広告などに表れる言葉)を通して探るのだ。そして、あくまでも「探る」ことが大切なのであって、必ずしも「真実」を発見することだけが重要なのではない。

法律であれ、経済であれ、人文学であれ、「しくみ」を探ること自体、それが直接的に社会で役立つことはない。もし役立たせたければ、「探る」のではなく、「使う」べきである。「どういうしくみになっているのか?」を調べ続けるよりも、現時点で正しいとされる、既に判明した「しくみ」を使って、金を稼げば良い。そのもっとも手軽な方法の1つが、「本を書いて売ること」である。

基本的に、大学は後者(「使う」こと)について、あまり興味がない。あるのは前者(「探る」こと)である。もしも金を稼ぐことに興味があるのなら、大学など今すぐ辞めて、その「しくみ」を元手に商売を始めるべきだろう。

とはいっても、実は「しくみ」を探ることも、間接的には社会で大いに役立つ。それは大学の先生だけに当てはまる話ではない。社会人全員にあてはまる話である。

より正確に言うと、しくみの「探り方」(方法)が役立つ、ということだ。仕事上で何か問題が発生した時、その原因は何か、解決の糸口は何かを分析する際、大学で学んだ「探り方」(調査方法や思考方法)は大いに役立つだろう。

大学時代にどの学部にいたかは、あまり重要ではないと思う。大切なのはしくみの「探り方」(「探る」対象は何でも良い)を学んだかどうかではないだろうか。




追記:人文学(英:Humanities)を大学で専攻する意義については、海外でも疑問を持つ人がいる。以下、それに関する面白い記事を挙げておく(リンク先は英語)。

What Can I Do With A Humanities Degree?
The Value of a Humanities Degree: Six Students' Views
“humanities value”での検索結果(グーグル)
2012/01/07

辞書が、わけのわからない「説明」をしている

フランスの哲学者にジャック・デリダという人がいた。彼は「脱構築」(英:deconstruction)という考え方を唱えたのだが、この言葉を知った当初、わたしにはその意味がよくわからなかった。そこで辞書を引いてみると、こんな説明がされていた。
フランスの哲学者デリダの用語。形而上学の仕組みを解体し、その可能性の要素を抽出して再構築を試みる哲学的思考の方法。デコンストラクション。(大辞林)

フランスの哲学者デリダの用語。形而上学を支配している二項対立的な発想を解体し、その仕組の再構築を試みることによって新しい可能性を見出そうとする思考の方法。デコンストラクション。解体構築。(明鏡国語辞典)

さて、哲学に詳しい専門家や研究者を除いて、ごくごく普通の一般人が「脱構築」という言葉を調べたとき、はたして上に書いてあるような説明をされても、一発でスッと理解できるだろうか?

形而上学? 二項対立? 知らない言葉を調べたのに、ほとんど日常生活で使われることのない言葉で説明されたのでは、「説明」になっていないのではないか? この書き方だと、「形而上学」と「二項対立」は当然知ってるよね、という暗黙の了解が成り立っていることになる。だが、さっきも言ったように、ごくごく普通の一般人に、これらの言葉の意味をたずねた時、きちんと答えられる人はどれくらいいるのか疑問だ。こういう「説明」をしてくる学者は「一般の辞書使用者たちに対していやがらせでもしたいのか」と勘ぐりたくなるのは、わたしだけではないはず。

そこで、言語を日本語から英語に変え、英英辞典を使って調べてみると、おもしろい事実を発見できる。
a method used in philosophy and the criticism of literature which claims that there is no single explanation of the meaning of a piece of writing
(『Longman English Dictionary』)

a theory that states that it is impossible for a text to have one fixed meaning, and emphasizes the role of the reader in the production of meaning
(『Oxford Advanced Learners Dictionary』)

英語が読めると、こういう時にものすごく得をするのだなと、つくづく感じさせられた瞬間である。ロングマンとオックスフォード英英辞典の説明はなんとも明快だ。どこにも「形而上学」やら「二項対立」やらに相当する単語が出てきていない上、日本語の辞書と比べてかなり具体的に意味が述べられている。しいて難しい言葉をあげるなら“philosophy”ぐらいで、他はどれも一般的な言葉だ(ちなみに、その“philosophy”の意味さえも、日本語の辞書と比べて、英英辞典の説明のほうが非常にわかりやすい)。

なぜこれほどまでに解説の仕方が違うのか。そういえば以前、こんな記述を見つけた。

日本の学者が難しい文章で論文を書く習慣があることも、職人気質であるような気がする。専門の知識を、秘伝として、訓練された弟子だけに伝えるということであろう。研究の成果をみんなにわかってもらうためにできるだけ平易に、啓蒙的に書くということは、職人的意識の延長にはない。研究の対象を限定してそれに専念し、分を守り、総合的な議論をするというようなことは遠慮し、また望まない。
(鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』p28)

これについては、わたしもかなり同意できる。ちまたで売られている一般書の中には、どういうワケか、ひとつのことを「説明」するのに、ムダに難しく書いてあったり、専門用語がひたすら並んであったりと、明らかに解説ではない「解説」が存在したりする。「学術論文じゃないんだから、もっとわかりやすく教えろ」という気持ちがフツフツと込みあげてくることもしばしば。もしかしたら、辞書も同じノリで執筆しているのかもしれない。

だが見方を変えてみると、日本の辞書のほうが、より抽象的、もしくは中立的に説明しようとしているのではないか、とも考えられる。つまり、解説者たちだけの「思い込み」や「勝手な解釈」が、なるべくその言葉の定義に入らないようにと配慮しているのでは? とも受け取れそうだ(もともと、ジャック・デリダという人がつくった言葉を翻訳して、さらにその意味も説明しないといけないわけだから)。

もちろん、日本の辞書の定義は間違っていて、英英辞典のほうが正しい、などと言うつもりはまったくない。これは「どのようなカタチで言葉の意味を定義するか」という、西欧と日本における辞書作成上の指針の違いによるものだろう。

そう考えると、日本の辞書作成者たちには、「より“ゲンミツ”な定義をつくろう」という意気込みが見られるというような、極めてポジティブに見ることもできそうだ。さっきの引用文にもあったが、ここに日本の学者の「職人気質」が垣間見えると言える。

話は変わるが、こういった考え方は実のところ、日本の国語教育にも見られると思う。たとえば、国語の授業中に小説の一部分を読んでいるとき、先生が生徒何人かに「ここで主人公はどのように感じたか?」といった質問をよくしてくる(今はどうなのかわからないが、わたしが小学生・中学生だったときは、そういう質問をよくされた)。そこで聞かれた生徒たちは各々、とぼしい根拠と理由をあげながら、「主人公は、きっとこのように感じたと思います」と答える。それを聞いた先生は、(よほど主旨から外れていないかぎり)否定せずにあいづちを打ったり、「その通りだね」などといった返事をする。

ところがテストの時になると、あのとき述べた、いろんな答えのほとんどは「テストにおける正しい解答」にはならず、問題集に載っている「模範解答例」もしくは、それに限りなく近い解答が、「正しい答え」になるのだ。つまり、タテマエでは「多様な解釈」を認めながら、結局は「一義的な解釈」を正解とするのである。そしてほとんどの場合、それは当たり障りのない、抽象的・中立的な「解釈」が答えになっている。

こういったことを小さい頃から積み重ねていけば、さっき見たような辞書作成方針がヨシとされるのも無理はない。欧米のように「わたしはこう思う」「わたしはこう考える」といった主張を、あまり歓迎しない風潮のある我が国では、とにかく「当り障りなく、抽象的・中立的に表現すること」(どうやら、これが「“ゲンミツ”に定義すること」の正体らしい)が「正しく解釈した」ことになるのだから。

ただ、である。辞書としての機能や意義を考えた時、はたしてこのような編集方針や態度は、一般人から望まれるものだろうか。“ゲンミツ”であることを重視していった結果、結局なにがなんだかよくわからない「説明」になってしまうのは、本末転倒ではないか。むしろ、わかりやく説明できていて、しかも本旨から大きく外れていないのであれば、大胆に解釈してしまうこと自体、まったく罪はないと思う(ジャック・デリダさんも、きっとそういうことを望んでいたはず)。

意外なところで、日本の教育(文化?)の「特徴」が見られた一日だった。
2012/01/03

読んでもらえる、おもしろい書評の書き方

一年間、がんばって「しょひょーブログ」を続けてみた結果、ブログそのものを続けるのがいかに難しいか身をもって知った。聞いた話によると、ほとんどのブログは開設してから半年も経たないうちに、放置されるか閉鎖になるかのどちらかだそうだ。

で、「人に読んでもらえる書評」「おもしろい書評」が書けるようになるために、今も色々と模索しているのだが、とりあえず、この一年間で自分なりにわかったこと、「これはけっこう重要なんじゃないか」ということを記しておこうと思う。


1:文は横に伸びないようにする


これはすべてのテキストサイトに当てはまるが、文が横に伸びた状態(一文がPCの画面の横幅を7,8割以上占めている状態)というのは、けっこう読みづらい。最近気づいたのだが、人間(というよりも縦書き読みに慣れている日本人)は目を左右に動かすよりも、上下に動かす方が、目にかかる負担は少なくなる。

つまり、横に目を動かすのは、なかなかシンドイのだ。そのため、読者が目をなるべく左右へ大きく動かさなくても済むように、一文が横に伸びないようにする必要がある(おそらくだが、ケータイで文字情報を読むとき、さして疲れないのはこのためだと思う)。


2:一部分だけ語る


書評だからその本について「全体的に」語りたくなるのだが、それだと高確率で「つまらない書評」になることに気がついた。なぜつまらなくなるのかというと、結局、「評者にとって一番おもしろかった部分」が、どこなのか読者に伝わらないからである。

自分が「この本のこの部分、すごくおもしろかったよ!」というのが言えれば、その書評を読む側も、「じゃあ読んでみようかな」という気持ちになりやすい。つまり、もっと大胆に本をブッた切った方がおもしろくなる。全体的に語れば語るほど、その本の印象は四方八方へ拡散し、かなり薄まってしまうので注意しようと思う。


3:「自分のこと」を出す


たとえば、


「現代社会はすでにグローバル化の波が全体に広がっており、日本人はこれからもっと英語を深く学ばねばならない」 とか、


「大量生産、大量消費により地球環境は悪化の一途を辿っており、現状は非常に芳しくなく、我々はもっと自らの無知・無自覚を反省すべきだ」 とか、


「経済はアメリカ流の発想に支配されており、経済思想の多様性が脅かせれているのは誠に危惧すべき事態である」 とか。


書いていてすごく眠くなるのだが、こういう意見や感想は、まったくもって読者の頭にも心にも残らない。たんなる一般論だから、というよりも、あまりにも「校長先生の朝のスピーチ」感が出ていて、「身近なこと」のように感じられないからだ。つまり、なにかを語るのならもっと「身近に」語った方が良いということである。

しかしこれが意外と難しい。とくに教養新書などの書評をやる時は至難だ。ほとんどの場合、もともとの題材が「身近」に感じられないからである。

こういう時こそ、2のようなやり方が役立つ。その本に出てくる専門的で難しいことは、なるべく少なく語り(おもしろかった部分だけ語り)、あとは自分の体験や思った&考えたこと、人づてに聞いたことなどをうまく織り交ぜるといい。


4:よい記事のタイトルは、「スピーチとスカート」と同じ


自分の書いた書評は、このサイトにも投稿しているのだが、その際、ここはツイッターでその書評を自動的に紹介してくる。その時、ツイッターのタイムライン上で目にとまりやすいように、なるべくタイトルは短く、刺激的にした方がよいということに気がついた(「スピーチとスカートは短い方が良い」という言い得て妙なセリフがあるが、記事のタイトルも同様)。

そして「◯◯は××なのか?」系のタイトルは、書評の内容を出し惜しみしている感があるので、「◯◯は××である」と言い切った方がいい(それが逆説的であればなおよし)。

フォロワーが多いとすぐにツイートが流れてしまい、文字情報の多いもの(ひとつのツイートに文字をたくさん詰め込んだつぶやき)は基本的に読まれなくなる。なぜかというと、フォロワーたちは、ひとつひとつ丁寧に読むのがメンドウだからだ。そのため、すぐにサッと読めるようなタイトルが好ましいと感じる。


で、この四つを以後、書くときの自戒としておきたい。
2011/07/26

作文と思考について

知行合一という言葉があります。知ることと知ったものを実践に移すことは表裏一体の関係でなければならないという意味です。知ったらそれで満足するのではなく、それを実際にやってみること ― そうして初めて「知」をモノにできるということ。

しかしながら読書して何かを知る、ということがあっても、そこで知ったことがすぐに「実践」できるとは限らない。ダイエット本やハウツー本ならできるでしょうが、哲学書や教養書なら、かなり難しくなってきます。(そもそも「行動に移す」という概念がこれらの本にはないような気がしますし、ほとんどの場合、「行動に移す」ために書かれたものでもありません)

そこで、こういう類の本は読んで読みっぱなしにするのではなく、読んだ感想や読んで考えたこと、思いつきなどを書くことが「行」になってくると思います。「書く」という具体的な「行動」も「行」のひとつではないでしょうか。

思索は書くことで行われる。考え方や感じ方は思考や感情を言語化することによって深まっていきます。また、情報をインプットしたら、それをアウトプットして初めて脳内の正常な循環になるとも思います。

学校型秀才の人は、「色んな知識を“ただ”たくさん知っている」というイメージが僕にはあります。しかし本当に賢い人は、知識を知るよりも「色んな考え方や感じ方を知ること」に重きを置いているような気がします。また色んな知識を知っていても、それを他の分野にも応用してみようとすることにも長けている。それと同時にうまい下手に関係なく、文章を書く機会が他の人よりも多い ― 全て自分の観察できる範囲内で言っていますが、どうでしょうか。

ということで、今日は書くことの大切さについて論じてみました。
2011/05/25

気持よく議論・討論するコツ

※以下、「朝まで生テレビ!」を見ていて思ったことのメモ。


議論・討論系の番組を見ていると、ときどき喧嘩腰になりながら自分の話をすすめたがる人を目にする。

人間だから、自分とは違う意見は、理解しづらかったり、受け入れづらかったりするのかもしれない。

しかし、だからといって周りに不快な態度を見せながら自分の意見を言い、最悪の場合、他人の声には耳を傾けないというのは、議論・討論という形をとっている以上、あってはならない。

なぜこんなことが起きるのかをちょっと考えてみた。おそらく議論・討論する相手と自分との間に信頼関係を築けていないのが、最大の原因かもしれない。

信頼関係とまでいかなくとも、「この人はどういう人なのか」「どんなことを考えているのか」「何に関心があるのか」など、お互いの情報が足りていないから、結局、話をしていて食い違うと「コイツはよく分からない」→「ムカつく」「ウザい」「不快だ」などという感情が表に出てしまいやすいのだろう。

議論・討論関係の本は書店に色々あるが、こういうのを読んだとしても、「気持ちよく」議論・討論できるかどうかは疑問だ。

「順序立てて説明する」とか「具体的な事例や証拠を挙げながら話す」のが大切だと、その類の本ではよく言われるが、それは人間の論理的な面だけを考慮したものであって、感情の面まで考慮したものではないからだ。人間が感情を持つ以上、いくら「議論・討論に感情を持ち込むな」と言ったところで、それをきちんと実行するのは難しい。

お互い気持よく議論・討論したければ、その前段階として相手とよく打ち解けてから、というのはどうだろう。それも普段から何気ない会話なり、仕事の話なりをして交流を深めるというのが一番いい方法かもしれない。
2011/05/22

「新刊書よりも古典を読め」とすすめてくる人たちへ

「新刊書より古典を読め」という人たちは、この世の中に多くいる。その理由を聞くと、たいてい「昔から大勢の人間に読まれてきて、かつ今日まで残った本が古典だ。それだけ価値のある本だと認められてきた証拠だから」と言う。

それを聞いて思うのが、「じゃあ、あなたにとってはどうなのか?」ということ。他の誰でもない、あなた自身はその古典を読んで何を思い、何を感じ、何を得られたのか?――そういった点が、この手の理由を述べる人たちには抜けているような気がする。

古典は、過去から現在にいたる多くの人の、「これは良書だ!」という総意のかたまりだとわたしは思っている。フェイスブックのように「いいね!」と言った人が多かったから「古典」になったのだろう。

しかし、みんなが「いいね!」と言ったものが、自分にとっても「いいね!」かどうかは別問題である。「エライ人」の言ったことは、いつでも誰にとっても「素晴らしいもの」なのだろうか?

しきりに「新刊書より古典を読め」と言ってくる人たちは、ある種の権威主義者である可能性が高い。こういう人たちにとっての関心事は、実のところ「本に書いてあること」ではなく、単に「誰々が◯◯と言った」という事実だったりする。

歴史上の有名人が言ったことを、「最近の人」が同じように言っても、彼らはさして耳を貸さないだろう。とにかく「誰々が◯◯ということを“最初”に言った」という事実がなによりも重要なのである。

ここから分かるのが、「あることに対して説得力があるかどうか」の決定打というのは、論理的に説明できるとか、具体例が豊富だとか、話が分かりやすいなどというよりも、結局のところ「人そのもの」ということだ。

そこで思うのだが、そういった歴史上の有名な人が「古典なんか読まなくていい。新刊書を読め」と、「古典」とされている著作の中で言った場合、古典を過剰なまでに重んじる一部の現代人はどうするのだろう?

権威主義者なのか、それとも自分の頭できちんと考えられる人なのかの境目は、そこにあるのだと思う。
2011/05/22

自分貢献は、立派な社会貢献

日経ビジネスオンラインで、こんな記事があった。

それでもやはり、「人のためになりたいのに、それができない」と辞める若者や、過剰なまでの社会貢献意識の高まりに、何とも言葉にしがたい危うさを感じすにはいられない。

だって、「誰かのために」という優しい気持ちは、思い通りの反応が得られない瞬間、怒りに変わってしまうことがあるから。

「あなたのために私はこんなにやっているのに、なんであなたは分かってくれないの?」と、いくら尽くしてもつれない態度を取る彼氏に対して不満を抱く女性のようになってしまうとも限らないから(尽くす男性とつれない女性でも構わないが……)。

人のためは自分のため。「誰かのため」とか、「人の役に立たちたい」と働くことは、結局は自分のため。それを忘れてしまうと、それが分かっていないと、本当に人の役に立つことなどできないのではないだろうか。

会社を通じてであろうと、自分の余暇を使ってボランティア活動に専念しようとも、「人のために働く」ことは、「自分のため」ということを忘れてはいけない、と思うのだ。

引用元:「人のため、被災地のため」と思う人が陥る自覚なき勘違い―高まる「社会貢献」熱につきまとう危うさ

最近、東日本大震災が起こってから、わりと人のために役立ちたい、社会貢献したいと思う若者が増えてきているという。(詳細は本文参照)

殊勝な心掛けだと思う。私はさして、「人のために」とか「社会貢献」などとあらたまって考えることはない。基本的に、自分はどうするか、自分はどうしたいか、と自分を中心に据えて考える。(だからといって、それは必ずしも“自己中心的”ということにはならないと思ってはいるが)

これは主体を自分に置くか、他者に置くかの違いだ。前者は自分に期待し、後者は他人に期待する。

ここでひとつ疑問に感じるのが後者である。「他人に何を期待するのか」ということだ。色々あるだろう。「感謝されたい」「自分の存在を認めてほしい」「喜ぶ顔が見たい」などなど。

期待通りに反応が帰ってきたらそれはもちろん嬉しい。しかし、そうなることは、はっきりいって多くない。むしろ少ない場合がほとんどである。

問題はこの時だ。こういう期待通りの反応が帰って来なかった場合、主体を他者に置く人は、挫折しやすいのではないか。

挫折だけで終わり、「こういう時もあるさ」と乗り切れれば問題はない。しかしそうでない場合、ふと「誰のためにやっているんだろう?」という思いを抱くことは間違いないだろう。

自分はどうするのか、どうしたいのか。そのことを常に考えておいたほうがいいと思う。これを軸にしていれば、他人から認められなくても、「自分はこうしたかったのだから」と思って乗りきれる。

「他者になにかしてあげなければ貢献とは呼べない」と考えるのはいかがなものか。貢献というのは、なにかを高めること、プラスの状態にもっていくことである。自分で自分に貢献する人は、いずれ社会にも貢献することになる。これはいたるところで見られるので、嘘だと思う人はよく観察してみてほしい。社会貢献というのは“自分貢献”でもある。
2011/04/17

人の目を気にしないために ― ブログが続かない理由

ブログを始めてから3ヶ月が過ぎた。過去に2度、「書評」をテーマにブログを始めたが、どちらも長続きせず、あっさりと削除してしまった。

理由は単純だった。人の目を気にしていたからである。もっと言うと、ブログをやって「人気者」になろうと考えていたからだ。

過去の僕も含めて、ブログを始める人というのは、明確に何か書きたいテーマがあるから始めるというよりも、どこか「多くの人に注目されたい」「人気者になりたい」という気持から始める人の方が多い気がする。

しかし、そういう人はいずれブログをやめるだろう。人気取りのために、記事を書く。それが毎日だったり、1日置きだったりと、執筆ペースは色々かもしれないが、とにかくたくさん記事を書く。そして常にアクセス数を気にし、それを見ては一喜一憂する。最終的には、こんなことをしている自分に虚しさを覚える。

有名なブロガーは、もはや一定の評価があるため、あまりそういうことを気にしないのかもしれないが、少なくとも始めて間もない人は、こういった状態に陥りやすい。

この「ブログの罠」とでも言うべきものは、かなり厄介である。というのも本来、書くことや書き上げるまでのプロセスを楽しむためにブログを始めたはずなのに、いつの間にか、アクセス数の増加を楽しむことが目的になってしまっているからである。

もちろん、アクセス数が増えること自体、いけないことではない。素直に嬉しいことだ。しかし、アクセス数の増加を期待することは、他者に「私のブログを見に来て欲しい」という期待に他ならない。そしてその期待の裏には、「私のブログはこんなにも面白いのだから」「これこれこういった価値があるのだから」という自惚れと、自分のブログに対する過大評価が(大なり小なり)潜んでいる。

これは僕自身の中で観察されたことだが、おそらく他の人にも当てはまるのではないかと思う。これからブログを始めようとしている人、始めて間もない人は、よく注意した方がいいだろう。

文章というのは人に見せるためだけに書くのではない。それは媒体が紙であろうと、ウェブであろうと同じである。少なくとも趣味で書く文章についてはそう言える。

趣味で文章を書くのなら、書くことそのものや、書き上げるまでのプロセスを大いに楽しみたいものだ。創作活動(日曜大工でも料理でもプログラミングでも)の醍醐味は、そういった、作品作りそのものであり、作品が出来上がるまでの「過程」にある。決して、人を気にすることではないし、出来上がった物を他人に見せて良い評価をもらうことでもない。

他者を気にしていたら自由にやれないし、第一全く面白くない。いつか虚しく感じる日が来るのは目に見えている。時には「誰のためにやっているのか?」と自問自答することも、趣味であれ必要かもしれない。