2011/02/28

ハブられても、いいじゃない ― 『なぜ日本人はとりあえず謝るのか』

なぜ日本人はとりあえず謝るのか―「ゆるし」と「はずし」の世間論 (PHP新書)なぜ日本人はとりあえず謝るのか―「ゆるし」と「はずし」の世間論 (PHP新書)
(2011/02)
佐藤 直樹

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第1章 日本人を縛る「世間」とはなにか―なぜ年齢にこだわるのか
第2章 「世間」における「ゆるし」と「はずし」―日本の犯罪率が低いわけ
第3章 「はずし」としての厳罰化―「後期近代」への突入か
第4章 「ゆるし」としての刑法三九条―理性と自由意思をもった人間?
第5章 「ゆるし」としての少年法―「プチ世間」の登場
第6章 謝罪と「ゆるし」―出すぎた杭は打たれない





「とりあえず」というのは実に便利な言葉である。



・パッと何か思いつかないから「とりあえず」

・特に何もすることがないから「とりあえず」

・気まずくなったから「とりあえず」



そして、本書のタイトルの一部分である「とりあえず」は、とりあえず、3番目に入る。



気まずい空気になったら「とりあえず」謝る。特に悪いことをした記憶はないけど、なんかヤバそうだから「とりあえず」謝っておこう。



この「とりあえず」という言葉、どうも「形だけでも整えておこう・・・」というニオイが漂ってしかたがない。それがいいのか悪いのかは別にして。



「とりあえず」というのは、自信のなさから口にされる場合が多い。きちんと「自分はこうしたい」「こう思う」「こう考えている」と言えない。言っても「とりあっ」てもらえない。とりあえない。



だからとりあえず、そう、「とりあえず」を使ってしまう。


なぜきちんと、言いたいことが言えないのか。



それは、「世間」が「個」に睨みを利かしているから。そこでは、個人の意思よりも集団の総意が優先される。あくまでも「和」が主なのであり、「個」はあくまでも従なのだ。



著者も言っている通り、日本人はとにかく「世間」が怖いのである。「世間」に比べれば、会社の上司や、鬼嫁なんて屁でもない。そのくらい怖いのである。



それでも日本人は「世間」に属している。いや、属せずにはいられないのだ。「世間」という強大な団体から破門されれば、そこにいた仲間たちと縁を切ることにつながるのだから。助けの手も差し出されない。アイデンティティーすら失いかねない。



孤独 ― それが怖くてしかたがないのだ。


であるならば、彼らは世間のソトに、興味がないのだろうか?



そんなことはない。むしろその反動のせいか、瘋癲(ふうてん)や流浪人といった、ちょいワルで、ちょい反社会的で、それでも自分の考えやポリシーは持っていて、という人に憧れる。そういう人は実に多い。



瘋癲といえば「男はつらいよ」でおなじみ、車寅次郎こと寅さんは今でも人気だ。最近では永井荷風も注目されている瘋癲の一人だろう。



つまり、世間のソト側にいる人達には興味があるのだ。いや、もっと言えばそういう人たちになりたいという願望まで持っていたりする。



著者は言う ― 《私がいいたいのは、徹底的に「世間」の空気を読み、「世間」をよく知った上で、あえて「世間」の空気を無視する、そういう態度が必要だということである》(p216)



「取り敢えず?だったら取り合えなくて結構。こちとら、言いたいことは言わせてもらうぜ」



言いたいことは、
言わない。
言えない。
言いにくい。
言えば言ったでKY扱い。



そんな時代だからこそ、ますます瘋癲人としての気概が必要なのだ。

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2011/02/25

“文系型人間”が科学嫌いになる本当の理由 ― 『科学コミュニケーション』

2012.7.21追記:人文学そのもののあり方についてはこちらで論じてみた。



科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)
(2011/02/16)
岸田 一隆

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「読んでいてイマイチな科学書とハマってしまう科学書の最大の違いって何だろう?」


ようやく解決した。

単純に「数式が出てくるから」嫌いになるとか「専門用語が分かりやく解説してあるから」好きになるというワケではなかったのだ。著者の言葉を借りるなら「科学コミュニケーション」の欠如。これだ。サイエンスライターの方々、是非ともこの本を読んでいただきたい。




◎数式や専門用語の登場が科学書嫌いになる原因なのか?


まずこの本の一番スゴイところ。

それは「理系出身」の著者が、いわゆる“文系型人間”(ここでは“科学全般に関心のない人”という意味)の「理系嫌い」になる気持ちをきちんと理解している点。私は「文系出身」だから“文系型人間”が理系関連の書籍を嫌う理由を理解している「はずだった」。「科学書って数式やら小難しい専門用語が出てくるからウザいんだよなあ。だから文系は科学書なんか興味持たないんだよ、きっと。」そう思っていた。この本を読むまでは。で、7割方この考えは間違いだった。

一般向けの科学書に多少の数式や専門用語が出てくる、出てこないといった理由で、“文系型人間”は科学書や科学そのものへ興味が持てたり持てなかったり、好き嫌いが分れたり、ということはあまりないのだ。私が過去に読んだ科学書の中でハマったものを振り返ってみると、普通に数式やら専門用語やらがワンサカ出ているではないか。にもかかわらず、夢中で読んでいた自分。「数式や専門用語が出てこない科学書なら興味を持つし好きになる。そうでなければ興味は持てないし嫌いになる」この基準はおかしいのである。



◎「科学コミュニケーション」の有無


では、興味を持つ(もしくは好きになる)科学書と興味を持てない(もしくは嫌いな)科学書の二種類に分れてしまう、本当の理由は何なのか?そう、それが冒頭でも述べた「科学コミュニケーション」が科学書にあるかないかなのだ。ここで「科学コミュニケーション」とは何か、本書から引用しておこう。

おおまかに言って、文系と理系の間の溝、専門家と非専門家の間の溝、これらをつなぐためのコミュニケーションという目的意識と意味合いが含まれている言葉だと思って大筋では間違いではないでしょう(p25,26)

「コミュニケーション」とは、すなわち互いの「考え」や「気持ち」を共有することである。これを通して、理系の人間が何を考えて科学書を書いているのか、文系の人間が科学書に何を求めているのかが分かるのだ。さきほど述べた「数式や専門用語が出てこない科学書なら(科学に興味のない文系の人でも)興味を持つし好きになる(だろう)」というのはホントのところ、理系の発想なのだ。文系人間と「コミュニケーション」することもなく、理系視点で科学書を書いてしまっていたことに「文系型人間が科学書嫌いになる」という問題が起きていたのである。

では、文系型人間が科学書に求めているものとは何か。それは「科学書を読むことで得られる共感」なのだ。



◎科学書に必要な「共感」という要素


とある話を聞いて皆が笑っているのに、自分だけ笑えない。そんな経験はないだろうか?そういう時、誰でも普通は「つまらない」という気持ちになるだろう。みんなと「楽しい」「面白い」を共有したい(共感したい)のに、それができない。だから「つまらない」と感じてしまう。しかしだからといって話された内容を「解説してもらい」たいわけではない。あくまでも「楽しい」「面白い」を共有(共感)したいのである。

科学書の場合もこれと同じだ。科学書を読むことによって“その科学書を書いた著者の「楽しい」や「面白い」という気持ちを共有すること”を、文系型人間は(無意識に)望んでいる。書いてあることは理解できるけど、読んでいてつまらない本とは、例外なくこのタイプではないだろうか。

逆に多少難しい話ではあっても、そういった気持ちが著者と読者で共有できている場合は、例外なく「面白い本だ」という感想が持てる。べつに「楽しい」や「面白い」だけを共有する必要はない。「わくわくする」でも「不思議だ」でも「難しい」でもいい。大切なのは、著者と読者の気持ちが共有できるということである。

私の好きな科学書というのは、一人の科学者が主人公になって話が進んでいく本である。その科学者が何かに一生懸命であったり、悩んでいたり、喜んでいたり、また科学史の一部を作っている姿を、文字を通して想像するのが好きなのだ。 逆に自然現象の解説ばかり書いていてある本は飽きてしまう。「ふーん、そうなんだ」という「感想」は得られても「感動」は得られなかったり、というのがしばしばある。嫌いなわけではないが、解説がメインになってしまうと個人的にはその先も読みたいという気持ちが失せてしまう。

「追体験ができない」という表現がぴったりだろうか。現象の説明でも、それを頭の中で体験することができれば面白いと感じるのだが、それができないような内容が続くとダメなのかもしれない。著者がいくら「科学ってこんなに面白いんだよ」と思って書いてくれても、読み手とその「面白さ」が共有できなければ、結局は「つまらない」という感想を持ってしまう。



◎「共感」が必要なのは科学書だけではない


ここまで、エンエンと科学書のことについて書いてきたが、なにも科学書だけの話ではないだろう。どんなタイプの本(歴史系、政治系、経済系の本など)についても言えるはずだ。もちろん、「書評」もこのことは当てはまる。(と言ってしまうと、私は本当に恐縮である。)大切なのは、「自分語り」に陥ってしまわないことだろう。日常でも、自分の好きなことや得意なことを友人や知人にただ語りまくっていれば、「ウザイ」と思われるのと一緒だ。

そうならないためには、興味を持っていない相手にどうしたら興味を持ってもらえるかを考えて語るのがよいだろう。客観的に見て、「こうすれば相手も嫌がらないし、興味をもつかな」という感じで。しかし、万人ウケする本などありえない。だから7割ほどの人に興味をもってもらえるように配慮するのがベストではないかと思う。そして、こういった本や書評が増えればいいのに、と思う今日このごろ。
2011/02/21

いるモノ、いらないモノ ― 『大局観』

この本を読んでて、この記事を思い出した。


東京プラス社長 西村博之氏インタビュー - GREEキャリア


この二人の話してることって、まさしく羽生さんが言わんとしていることと同じなんだよなあ。



大局観  自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)大局観 自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)
(2011/02/10)
羽生 善治

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第1章 大局観(検証と反省;感情のコントロールはどこまで必要か ほか)
第2章 練習と集中力(集中力とは何か;逆境を楽しむこと ほか)
第3章 負けること(負け方について;記憶とは何か ほか)
第4章 運・不運の捉え方(運について;ゲンを担ぐか ほか)
第5章 理論・セオリー・感情(勝利の前進;将棋とチェスの比較 ほか)



まずは、「大局観」という言葉の定義から。(大辞泉より)


大局観(たいきょく-かん) ― 物事の全体的な状況や成り行きに対する見方・判断。


ちなみに、「局」の字は、「局面」(将棋や囲碁、チェスなどの試合状況)のことだ。字面を追って解釈すると「大きく局面を観る」という意味になるだろうか。


で、次の一文が非常に興味深い。


《体力や手を読む力は、年齢が若い棋士の方が上だが、「大局観」を使うと「いかに読まないか」の心境になる》(p23)


「いかに読まないか」は「いかに読む手の数を減らすか」と言い換えて差し支えないだろう。



私はすっかり誤解していた。羽生氏ほどの棋士であれば一つの局面ごとにものすごい数の手(情報)を読むと思っていたが、むしろその逆で「読まない」つまり、「読む手の数を捨てて減らす」ことに主眼を置いていたのだ。


この「捨てる」「減らす」という考え方は、本書の至る所で表れている。




《情報化社会を上手に生き抜いてゆく方法は、供給サイドに軸足を置くことだと思う》
(p126)


《所有過剰で管理が難しくなってきたと思ったら、思い切って売り払ってしまうなり、人に譲ってしまうなりして、手放してしまう方が良いのではないか》(p175)


《たくさんの可能性のなかから一つを選択する方が、少ない可能性から一つを選択するより後悔しやすい、という傾向がある》(p24)





どの発言にも、その根本に「捨てる」「減らす」の精神が見て取れる。「供給サイドに軸足を置く」というのも、「自らが情報を創る側に回ることにより、情報の受容量を減らす」ことである。


余談だが、3つめの「選択肢の数」については、シーナ・アイエンガー著『選択の科学』でもほとんど同じことが述べられている。詳細については同書を参照されたし。







どこでだったか忘れたが、「2ちゃんは便所の落書き、ツイッターはクソの垂れ流し」という文句を見たことがある。現代の情報化社会を風刺しているが、7割方合っているといっていいだろう。


情報がこれだけ膨大に垂れ流されている時代だからこそ、「この情報はいらん!」と割り切ってしまった方が本当は楽なのだ。これからの時代は「どうやって必要な情報を探し出していくか」ではなく、「とにかく捨てて減らして、残ったものが必要な情報だ」という消去法で考えた方が賢いのだろう。(そうでないと、自分自身がパンクするかもしれない!)


で、冒頭で挙げた対談と羽生さんの考え方というのも、つまるところ、この「捨てる」「減らす」が共通しているのだ。



《僕自身は、基本的に「二択」だと思っています。普通、人間にはいろいろな願望や欲望がありますよね。例えば「車が欲しい」とか、「おいしいものが食べたい」とか。

一つは、こういうある種、煩悩的なことを、どんどん少なくしていくということで、自分の幸せの定義の認識を変えていこう、という考え方。ひろゆきさんの考え方の根本原理に、近いですよね。求めるものを少なくすれば、満ちるのも早くなるし、喪失感も少ない。「年収300万でも幸せ」的な考え方です。

そしてもう一つは、こういう願望や欲望を一つの自分に活力を与えるエネルギーとして活用して、自分の人生を前進させていくという考え方。「あの人のようになりたいから努力する」とか、「いい結婚式を上げたいから、お金を貯めるために仕事がんばろう」とか。

両方の選択肢があり、善悪なくどちらも一つの解だと思うのですが、僕としては、後者から取り組んで、だめなら、前者に移行する、というのが現状の取り組みです(笑)。》


(引用:東京プラス社長 西村博之氏インタビュー - GREEキャリア



なにも捨てる対象は「便所の落書き」や「クソ」だけではない。無限に増える「欲」にも、この「捨てる」「減らす」の考え方でやっていこうというわけだ。


最近、書店でよく仏教関連の書籍を目にする。需要があるからなのだろうが、もしかしたらこの仏教的な「捨てる」「減らす」思考が注目されているからなのかもしれない。過剰にモノを抱え込まないで、身の丈に合った分だけ所有する。その方が楽なんじゃないかと皆が気付き始めたのだろう。


放っておけばどんどん増えていくモノは、自分から積極的にどんどん捨てて減らす ― 上手に生きるというのは、すなわち「身軽に生きる」というのと同じことか。
2011/02/19

「ホンモノの海賊」になるということ ― 『世界史をつくった海賊』

今、君はやりたいことがありますか?
なくてもいい。
今はまだ、やりたことが見つかっていなくてもかまいません。
卒業するまでに、やりたいことを見つけることができれば、
君の夢は必ずかないます。

― 中谷彰宏『大学時代しなければならない50のこと』




世界史をつくった海賊 (ちくま新書)世界史をつくった海賊 (ちくま新書)
(2011/02/09)
竹田 いさみ

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第1章 英雄としての海賊―ドレークの世界周航(貧しい二流国からの脱却;“海賊マネー”で国家予算を捻出 ほか)
第2章 海洋覇権のゆくえ―イギリス、スペイン、オランダ、フランスの戦い(勝利の立役者としての海賊;無敵艦隊との戦い―スパイ戦 ほか)
第3章 スパイス争奪戦―世界貿易と商社の誕生(貿易の管理と独占の仕組み;魅惑のスパイス貿易 ほか)
第4章 コーヒーから紅茶へ―資本の発想と近代社会の成熟(コーヒー貿易と海賊ビジネス;覚醒と鎮痛のドリンク ほか)
第5章 強奪される奴隷―カリブ海の砂糖貿易(甘いクスリ―砂糖の登場;イギリスと奴隷貿易 ほか)





海賊になりたい! ― そんな淡い夢を幼い頃に持っていた気がする。きっかけは『ピーターパン』に出てくるフック船長か何かに影響されて。


保育園に通っていた頃に思い浮かべていた夢だったから、一応は大学を「卒業するまでに」やりたいことを見つけていたことになる。だから中谷氏の考えでいけば、私の夢は必ずかなう「はずだった」。


まぁ、結局はどうであったのか、無論言う必要はあるまい。


そして十年以上もの時を経てのこと。昔、バイト先の上司が、(一人前の大人でありながら)海賊になりたいという夢を私に語ってくれた。それも結構、神妙な顔で。あれにはたいそう驚かされた。


「ああ、コウイウ人もいるんだなあ」


彼は今でも、その夢を捨てずに持っているのだろうか。今度会えたら聞いてみたい。







本書は実在した海賊を紹介し、いかにして彼らが世界の歴史を変えたかを教えてくれる本である。


が、中身はそれだけには留まらない。


この本は、私の元バイト先の上司のように、イイ歳をした大人でありながら「未だに」海賊になりたいという、淡い野望を捨て切れないでいる人へ、「ホンモノの海賊になるとはどういうことか」という問いを、実例をもとにしたケーススタディー方式で突き立ててくる本でもあるのだ。ちなみに著者は海賊ではない。


ここでいう海賊とは、荒れ狂う海を乗り越え、時には敵の船を襲い、時には東インド会社を作り、時には保険会社で有名なロイズに絡み、時には国家のために命を賭けて闘う、「ホンモノの海賊」である。


「じゃあ、“ニセモノの海賊”なんてのもいるのかよ」



いる。



それは、以前の私であり、私の元バイト先の上司であり、イイ歳をした大人でありながら「未だに」海賊になりたいという、淡い野望を捨て切れないでいる人たちである。こういう人たちは、(私が定義する限り)「ニセモノの海賊」である。


「ニセモノの海賊」は夢想家である。薄弱な理想家である。だから、「ニセモノの海賊」たちはきちんと本書を読んで「ホンモノの海賊」を知り、某有名錬金術師の言う「格の違いってやつ」を感じなければいけない。


そして(本当はこっちの方が大切なのだが)「なりたい」と「なれる」は違うということ、「やりたいこと」と「できること」は違うということを理解しなければならない。


聞いた話なのだが、とある予備校で世界史を教えている先生が、生徒から「先生。ボク、メシアになりたいんですけど、どうしたらなれますか?」という質問を受けたらしい。(その生徒は本気だったそうだ)


だが、その先生はその生徒の考えを尊重しつつも、「なりたい」と「なれる」は違うことだと、ちゃんと諭したのだという。


その通り。「なりたい」(やりたいこと)と「なれる」(できること)は違うのだ。


そのふたつが一致すれば、最高ではあるのだが。
2011/02/13

「分学部」化する文学部 ― 『文学部がなくなる日』

他学部生「文学部って何してんの?」
文学部生「・・・いろいろ」


おそらく上のような質問をされた文学部生の大半は、上のように答えるのではないか。
なんだかよく分からないけど、いろいろやる学部。それが文学部。


「文学部がなくなる」ことはあるかもしれない。ただ、それは文学部でやる内容がなくなるという意味ではない。


ではどういう意味か? ― 「分学部」になるのである。


で、「分学部」になることが、学力低下の一因というアダになっていることに、当の大学は気づいていない。



文学部がなくなる日―誰も書かなかった大学の「いま」 (主婦の友新書)文学部がなくなる日―誰も書かなかった大学の「いま」 (主婦の友新書)
(2011/02/05)
倉部 史記

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第1章 大学がつぶれる
第2章 変わっていく文学部
第3章 一変した大学の風景
第4章 生き残りをかけた大学の戦い
第5章 入試と今後の大学のあり方
第6章 「大学選び」を変える



本書は大学の「今」についての最新レポートだ。大学生の学力低下が止まらない現下、大学の経営政策と著者の提言が記されている。







「昔は通用したのに、今は通用しない」というのはよくあることだ。


流行語なんかまさにその典型。その昔、「チョベリグ」「チョベリバ」なんて言葉が流行ったが、さすがに今この言葉を使う人は絶滅したに違いない。


「ハンサム」という言葉も「イケメン」に置き換わり、広辞苑にまで採用されるに至った。そのうち「ハンサム」を使う人間も絶滅するかもしれない。


そして、本書のタイトルの一部でもある「文学部」という言葉も、(今の高校生の間では)通用しづらくなってきている。


誤解を招かないように言うと、文学部という「言葉そのもの」が通用しないのではない。言葉自体は知っているが、「意味」が分からなくなってきているのだ。新設大学が「文学部」という名称を採用しなくなってきているのも、このことを如実に表している。


思うに、「文学」というと文芸作品、特に小説や詩を思い浮かべる人が多い。それはそれで合っているが、かなり狭い意味での使われ方だ。


手持ちの辞書を引いてもらうと分かるが、「文学」という言葉は「自然科学・社会科学以外の学問。文芸学・哲学・史学・言語学など」も意味する。(大辞泉より)これだけの学問を意味するのに、たった一語で「文学」と括られてしまえば、そりゃあ何をやるのかイメージしづらい。


しかし、それは高校生自身の問題であって、「文学」という言葉が悪いワケではない。高校生には決して理解出来ない言葉でもない。彼らがこの言葉の意味、そして「文学部」が何をしている学部なのかを調べれば済む話である。


ところが、大学はせっせと文学部を「分学部」に変えている。新たに学部を作り分け、それまで文学部として扱ってきた内容をそこで勉強させようというのである。「学部ける」で分学部、「かりやすい学部」で分学部、といった具合に。



それで、その問題の「分学部」化はどうなのか?



色々な意見があるだろうが、個人的には「は~い!今の最新流行に合わせて新しい学部、作っちゃいました☆(笑)」とでも言わんばかりの学部が増えたのではないかと感じている。安易に「国際」だの「メディア」だの「キャリア」だの「環境」だの「人間◯◯」だのといった言葉を取り入れたせいか、安っぽく釣りっぽいネーミングのものが多かったりする。


そしてそういった学部名が「分りやすい」のかと言えば、それもそれで疑わしい。


「流行のキーワードや造語を組み合わせるあまり、何を学ぶのかよくわからない名称になっているケースも少なくありません。むしろ、あえて「何を学ぶのかよくわからない」名称にしているのではないかとさえ思える例もあります」(p48)


こういった学部の仕分け作業、学部名という看板の掛替え作業は、優秀な学生を集めるというのが本来の目的ではなく、ただ単に学生の数を稼ぐこと、すなわち大学の収入源を増やすことに腐心している場合が多い。


伝統の名称だけに拘れとは言わないが、有名大学までもこぞってこんなことを始めたものだから、いかがなものかと思えてならない。「学力低下」や「大学全入時代」と呼ばれようになった現在、こういったことに拍車をかけているのはむしろ大学側ではないかとさえ疑いたくなる。


話は変わるが、今の日本には700校以上もの大学があるらしい。はっきり言って多すぎである。もはや小中学生の通う学習塾感覚だ。いや、「学習塾」であるならまだマシかもしれない。(「塾」の字がつく大学もあるくらいだし。あえてどことは言わないけど。)大半は勉強しているのかさえも怪しい。


そしてその大半が無名大学であり、金があって自分の名前さえ書けば受かるような大学も存在したりする。まぁ、これだけあればそういったのが出てきてもおかしくない。(その時点で最早、大学ではないと思うが。)



さて、大学の批判ばかりしていてもしょうがない。そこで今後、大学進学を真剣に考えている高校生たちに、なるべく学部名にダマされず、入学後のミスマッチが起きないよう、考えてみたことを3つほど書いてみる。



1、新書でいいから、色々なジャンルの本を読んでみる。文学作品、歴史、法律、経済、物理、化学、生物、数学、ありとあらゆる学問に関係した本を読んでみる。そして少しでも興味の幅を広げてみる。これを実践してみるだけでも、自分は大学で何を学びたいのかがはっきりしてくると思う。


2、大学関係の雑誌や大学のパンフレットを読んでみる。


3、実際に大学の授業に潜り込む。オープンキャンパスに参加するのもいいが、入学後の授業内容との落差が激しいものが多いので、あまり期待はしないほうがいい。



3は難しいかもしれないが、1と2ならできる。大学受験は決して大学受験勉強でもって全て決まるものではないし、入学後にミスマッチが起きるのであれば、受験がうまくいったとも言えないだろう。


以上のことを踏まえた上で、今の高校生がすべきことは色んな意味で「賢い高校生」になること。そして「賢い学部選び」をすること。これに尽きる。


そして高校生にウケないからといって、安易にウケけるような名前の学部をつくり、高校生を釣り、金を釣るという卑しい活動はやめましょうね、と。(当然ながら釣られる高校生にも罪はある。)
2011/02/11

「読書術の本」ではない読書術の本 ― 『定年と読書』

すごい・・・。私の感じていることとほとんど同じだ・・・。

タイトルが『定年と読書』だが、『若年と読書』と言い換えてもまったく差し支えない。

これは定年を迎えようとしている大人たちが読む本ではない。むしろ「若年」である若者が読むべき本である。




【文庫】 定年と読書 知的生き方をめざす発想と方法 (文芸社文庫)【文庫】 定年と読書 知的生き方をめざす発想と方法 (文芸社文庫)
(2011/02/04)
鷲田 小彌太

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序章 新・人生設計論―定年後の人生に上昇気流
1章 定年後の日々には読書が似合う
2章 読書のある人生、ない人生
3章 読書計画のある人生
4章 さまざまな読書術集書術
終章 老後は続くよ、どこまでも



表表紙、裏表紙を読むに、本書はどうやら読書術系の本らしい。


で、中身を読んでいくとはっきりわかる。これは読書術系の本などではない。本書は、「本」が「本」当に大好きな「本」の虫によって書かれた「本」のエッセイなのだ。

本を大量に読む人たちはどうやら本に対する考え方というのがほとんど同じ傾向になるようだ。しかも私は20代。著者はもう70代に近い。20代と70代とでは普通、世間一般についての考え方は大きく異なるだろうだが、「本」については考えていることが全くといっていいほど一緒だった。


「しかし、読書に限界はない。あるいはこういったほうがいいだろう。食にも限界はない。読書で、言葉で食事を堪能するのには限りがないからだ。胃袋に限界はあるが、脳には限界がないということだ。」(p37より)


そう言ってしまえばその通り。だが、本書を読んだ方で、こう言われるまでこの事実にきちんと気がついていた人というのはどのくらいいたのだろうか?

人生経験において、私は著者に絶対に勝ることなどできない。が、だからこそそんな著者と「本」への想いがここまで似通うというのがものすごく嬉しいのだ。生まれた場所や時は違えど、共感できるものがあるというのは本のことに限らず幸せなことだと思う。


そして若年である私が言う。これは若い人こそ読むべき本だ。むしろ定年に達した大人が読んでも、あまり感動が得られないのではないか。そして本を読んでこなかった人であれば、感動よりも悲しさの方が大きい気がする。


最後に、本書から印象的な見出し・小見出しを少しばかり。

「晴れた日には読書を」
「本を読む人の顔はいい」
「読書の楽しみに限界はない」
「本に酔う」
「本を読まない人は老化が速い」
「長生きの素は「知」である」
「五〇歳を過ぎたら自分の顔に責任をもて」
2011/02/09

「水」を「見ず」して「瑞」は得られず ― 『中国最大の弱点、それは水だ!』

「見ず」にはいられない(無視できない)存在 ― これが「水」の語源だ、というのは私が作った真っ赤な嘘。

が、少なくとも本書を読み終えれば「あながち嘘でもないかも」と感じるのではないかと思う。



中国最大の弱点、それは水だ!  角川SSC新書  水ビジネスに賭ける日本の戦略 (角川SSC新書)中国最大の弱点、それは水だ! 角川SSC新書 水ビジネスに賭ける日本の戦略 (角川SSC新書)
(2011/01/08)
浜田 和幸

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第1章 深刻化する中国の水不足
第2章 世界を襲うウォーター・クライシス
第3章 脱・ペットボトル水
第4章 ウォーター・マネー
第5章 世界に誇れる日本の水道技術
第6章 問われる日本の水戦略



水という「見ずにはいられない存在」を追いかけ、その度に血という「見ずに済むはずの存在」を嫌というほど見てきた生命体が、かつて人間の他にいただろうか?

香港大学の地理学者デービッド・チャン氏によると、過去500年の間、8000回以上もの戦争が起きたが、その原因の大半が水不足による水源地の奪い合いによるものだそうだ。

そしてローマの歴史家クルティウス・ルーフスの言葉も借りるならば「歴史は繰り返す」のである。

否、もうすでにそれは始まっていたりするのだから、この格言のいかに的確なことか。舌を巻かざるをえない。

「水の恩は送られぬ」 ― 水の恩恵というのは報いることができないほど大きいものだという意味だが、この本を読めばそのことをより一層自覚するはずだ。「水魚の交わり」なんていう諺もあるが、もっと言って「水人の交わり」でもいいくらい。


前置きはこのくらいにしておこう。


本書は、今現在世界における「水事情」についてまとめた本である。特に第2章「世界を襲うウォーター・クライシス」、第3章「脱・ペットボトル水」は日本人必見。なんせ、イザヤ・ベンダサンに言わせれば、安全と水はタダで手に入ると思っているような民族だ。日本人として生まれたことがいかに幸福なことか、思い知らされること間違いない。

とはいっても本書は小うるさいお説教本の類などではない。水を使ってのビジネス、いわゆる「水ビジネス」の可能性についてもきちんと指摘している。

日本はすでに水を使ってビジネスができるだけの優れたノウハウを持っている。水道水の水質管理、水道インフラの出来は世界屈指。「コイツをビジネスに生かさない手はない!」というわけだ。

今持っている技術はパクられてもいい。モノではないから。でも持ち腐れだけはいただけない。ましてや後生大事に神棚へ置いておくなどご法度もいいところ。使ってナンボの代物は使ってこそ価値がある。

“To be, or not to be, that is the question”

シェイクスピアの代表作『ハムレット』の主人公ハムレットの名ゼリフだが、今まさに日本は「色んな意味で」彼と同じ状況にある。私が親友のレアティーズならば、きちんとこう言うだろう ― “NOT TO BE”と。

20世紀が石油の時代ならば、21世紀は水の時代 ― 各国の大企業や投資家たちは血眼になりながら、水源地の争奪戦を繰り広げている。地球上に存在し、且つ人類にとって有効な水は全体の0.01%分だけ。決して日本も出遅れてはならない。
2011/02/02

医療が「ビジネス」になりにくい理由 ― 『「病院」がトヨタを超える日』

「病院」がトヨタを超える日 医療は日本を救う輸出産業になる! (講談社プラスアルファ新書)「病院」がトヨタを超える日 医療は日本を救う輸出産業になる! (講談社プラスアルファ新書)
(2011/01/21)
北原 茂実

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医療による経済効果がどれほど大きいかに着目した本だ。「病院の株式会社化」「病院の輸出産業化」という発想は非常に興味深い。現にタイや韓国、インドが外国人富裕層を相手に質の高い医療を「輸出」しているという。「医療崩壊」が声高に叫ばれている今、ひとつの打開策としては考慮すべきかもしれない。

ただ一方で、二つほど疑問がある。

一般的に、医療が純粋な「ビジネス」としての扱いを受けることは(特に日本において)少ないと思う。なぜだろうか?

それは、医者という職業が患者からの「感謝の気持ち」で成り立っている部分が大きいからではないか。もちろん診察料や手術料をもらわないと食っていけないが、大半の人は利益目当てで働いてはいない。それよりも「人を助けたい」という気持ちで働いている人の方が多い。

医師は患者を助けることにやりがいを感じ、患者は助けてもらったことに感謝の気持ちを示す。それが医師にとっての最大のモチベーションではないか。お金による報酬というのはあくまでも副産物のような存在だ。こういった背景があるため医療が純粋に利益目当ての「ビジネス」としては見られないし、成立しにくい。

仮に純粋なビジネスとして始まれば、医者と患者は「お店」と「お客さん」という関係になるが、「お客さん」が「お店」に対して感謝の気持ちを表すことはまずない。そして病院側は病院に来た人を「お客様」ならぬ「患者様」として扱うことになる。

「感謝の気持ち」で成り立っている部分が大きい職業から、「感謝の気持ち」がなくなればどうなるだろうか?

患者からの理不尽なクレームが来ても、医師たちは黙って頭をさげる。「ありがとうございました」という言葉は患者からではなく、医師から ― そんな光景を目にするようになるのではないか。

以前からこの「患者様」という呼称やそういった扱いに疑問の声が上がっている。そして「商業としての医療」が始まればこの問題はもっと深刻になるだろう。事実、韓国ではその手のトラブルが医者と患者との間で起きているのだそうだ。

こういった問題だけならまだしも、会社として病院を経営していく以上、他の病院は競争相手ということになる。利益が上がらなければ倒産ということになるが、これはその病院だけの話に留まらない。そこを掛かり付けとしている人たちにも影響が出てくるからだ。

今はこの二つの問題をどのように対処するのかについて考えてからでないと、「医療の産業化」を成功させるのは難しい。



2012.1.7追記:本書を読んで考えるきっかけになった本をご紹介↓


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里見 清一

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