2011/03/29

「無用」な部分が「面白さ」を作るってことも、あるんでない? ― 『科学の横道』

科学の横道―サイエンス・マインドを探る12の対話 (中公新書)科学の横道―サイエンス・マインドを探る12の対話 (中公新書)
(2011/03)
佐倉 統

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『科学の横道』がタイトルである。


王道は進まない。真っ向から「科学」と向き合わない。あくまで横道。


道草食いながら、「科学って何だろうね?」などと考える、一見ユルそうな企画である。


しかし侮るなかれ。中身は今後の日本人が科学とうまく付き合っていくためのヒントがたくさん散りばめられているのだ。


僕もヒントを得られた。


今、日本で出版されている科学書(翻訳物ではない)というのは、正直に言うと、読んでいて面白くない(興味のもてない)ものが多い。


書いてあることが難しすぎるからではない。そうではなく、理論ばかりが全面的に出て、情感の部分がほとんどないからだ。


堀江(敏幸) たとえばこの間、中谷宇吉郎の「鼠の湯治」という短いテキストを大学の授業で読んだんです。温泉が外傷の治癒にどれだけ効能があるのかを、ある研究者がネズミを使って実験するという話で、データの解析に悩んだその研究者が、語り手である中谷宇吉郎に相談してくる。で、あいだを飛ばすと、解析法にはめどがたって、そのあとこの実験のために、ネズミたちは温泉に連れていかれるんですね。助手たちが二〇〇匹ぐらいのネズミをかごに入れて運び、実験のための傷をつけて、順番に温泉につからせる。ところがデータとはべつに出た結論は、ネズミは温泉が好きである、ということなんです(笑)。みんな目をつぶって気持ちよさそうにしているというんですよ。

(中略)

ネズミを運んでいくところ、温泉につからせるところ、ネズミののんびりした顔つき・・・こういう、実験の前後の、数字には残らない文脈も大切だと思うんです。温泉の効能を調べるという本来の話とはまったく関係がない。だけど、ネズミが気持ちよさそうにしている箇所があるかないかで、この文章の艶が違ってくる。(p102,103)


最近は「分かりやすく」というのが文章を書く上で大事だとよく言われる。しかし、それは「面白い文章になる」ということと必ずしも一致しない。文章の面白さは、先の中谷宇吉郎のように、一見するとムダに思えるような部分、たとえば著者本人の感情や感想、情景描写にあったりするのだと思う。


科学者の中には、こういった個人的な考えや感じ方、ましてやどうでも良さそうな情景描写などを科学書の中に盛り込むなんて、と思う人が多いのかもしれない。


研究論文についてはその通りだろう。だが一般書なら、むしろ一つの物語のように、文学仕立てにした方が読者はグッと惹きつけられる。


例えば、最近話題になった『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)はまさにその最たる例である。科学書なのだが、それと同時に一つの「文学」でもあるのだ。他に今思いつくところで、『物理学と神』(集英社新書)や『地球最後の日のための種子』(文藝春秋社)などがあるだろうか。


「意外性がある」というのもおいしい。以前紹介した『生態系は誰のため?』(ちくまプリマー新書)はこの「意外性」があったから、僕は読んでいて面白かった。こうだと思われているor考えられているけれど、実はこういう現実だってあるんですよ、といった科学書は瞠目に値する。


引用文中に出てきた「鼠の湯治」という文章は、この二つを共に満たしていたからこそ、文章としての魅力があるのだろう。


それこそ、本書のタイトルにある「横道」である。“横道にそれた科学書”と言い換えてもいい。そんな本は、やっぱりやっぱり、読んでいて飽きが来ない。


「寄り道なし!ターゲット目がけて一直線に現象を解説!」というのは、必ずしも良いことではない。時には蛇行しながら、いや、もっと言えば道端のドブに足を突っ込んでしまいながらも、ゆっくり、そしてタラタラと進んだ方が、案外、面白いものに出会えたりする。


いや、科学と付き合うだけに限らず、人と付き合う場合でも、同じようなことが当てはまる気がする。なんていうのだろうか、その人の、一見すると、どうでも良さそうな部分(話し方とか仕草とか表情とか)が、その人の魅力をつくっていたりすると思うのだ。


そう考えると、「横道にそれる」ってのも、結構いいもんじゃないの。
2011/03/23

自己愛と事故愛の「はざま」で ― 『一億総うつ社会』

一億総うつ社会 (ちくま新書)一億総うつ社会 (ちくま新書)
(2011/03/09)
片田 珠美

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「自分はこれだけ〇〇なのに、アイツがダメな奴だから、評価してもらえない」 ― 「理想の自分」になれない原因を他者に求めてイライラが収まらず、うつ病になる人が最近多いらしい。
とりわけ、従来とは違うタイプのうつ、いわゆる「新型うつ」の患者が急増している。新型うつには、従来のうつ病の典型であった「メランコリー親和型」とは異なり、自分の病気を他人や会社など周囲のせいにしがちであるという特徴が認められる。

他人のせいにしたがるのは、「こうありたい」という自己愛的イメージと「これだけでしかない」現実の自分との間のギャップを受け入れられないからである。(p13)
「あらまあ、かわいそうに。でもきっといいことだってあるさ」などと励まして、「そうだよね、頑張るよ」なんて言いながら明日は元気に出社、といけばなにも問題はない。だが、そうはいかないのが昨今流行りの新型うつだ。

もちろん、本当によく頑張って、それでもきちんと評価されないで悩んでいる人も中にはいるだろう。しかし、ここに出てくる人たちは、(少なくとも本書を読む限り)「たいして能力もないのに、プライドだけは異常に高い」というタイプである(と私は感じた)。仕事ができない→でもそれは自分のせいではなく他人のせい→イライラが収まらない→うつ病になる、というパターンが多いのだ。

さて、私は医者や専門家ではないので、この新型うつになる人の是非や詳しい特徴、症状ついては論じられない。ただ、読んでいて改めて、「認められる」ということに意味について考えさせられた。



「認められる」とはどういうことだろうか?

たとえばあなたが、プロミュージシャンになりたいとか、プロ野球選手になりたいとか、そういう夢に向かって、努力をしていたとしよう。で、そういった努力を続けていると、たいてい、「こんなに頑張っている自分、こんなに◯◯ができる自分を認めてもらいたい」という欲求が出てくる。ここまではきわめて普通のこと。

しかし、大切なのは「あなたという人間を認めるかどうかは他人が決めることだ」という事実をきちんと知っているか、ということだ。

「認める」とは「そのものになんらかの価値がある」と判断することである。逆に言うと、認めてもらいたければ、他者にとってなにか価値のあるものを作らないといけない、ということになる。

勘違いしてはいけないのが、この「価値」の判断者についてである。これはけっして自分ひとりでできるものではない。あくまでも判定するのは他人。

だから、「認められない」ことを理由に、「本当の自分はこんなではない」とか「奴らは人を見る目がない」などと言ったり、思い込んだりするのは間違いである。

ひたすら「自分を認めてほしい」という感情だけが先走り、他者の存在に気がつかない。いや、気づこうともしない。そして、そういう現実を見ずに「誰も自分を認めてくれない」などと思う人は、他責的な考え方に陥りやすいのだろう。

よく「自分で自分を認める」などと言うが、これは基本的に自己満足が通る世界(例えば、自分の趣味の世界とか)での話である。これが仕事となると、話は全く別である。

プロミュージシャンになりたい、プロ野球選手になりたい、というのは趣味だけにとどまる話ではない。こういう人たちは、いくら傍から楽しそうに見えても、趣味ではなく、仕事なのである。趣味と仕事の最大のちがいは、そこに「他者の承認」が必要なのか否かではないだろうか。

趣味は気楽だ。自分が楽しめればそれでいい。だが仕事はそうはいかない。他人に認めてもらわなければならない。認められて初めて、お金という、価値に対する報酬が支払われるわけだから。

しかし特殊な例もある。大人が子供を「認める」という行為である。こう言うと気分を害するかもしれないが、基本的に子どものつくるものに価値はない。それでもわれわれ大人は「すごいね」とか「よく頑張ったね」などと言って褒める。この「褒める」(=認める)という行為は特別であって、子供のやる気や向上心を上げるために必要だ。それをするのが、親だったり学校の先生だったり、近所の人だったりなのだが、基本的に子どものすることに「価値」はない。「価値」がないのに「認める」という、特殊な例である。

まれに大人でもそういったことを必要としている人がいる。しかし、大人は子供以上に、「褒め言葉」に敏感だ。その「褒め言葉」が度を過ぎれば、われわれはそれを「お世辞」と言う。「お世辞」に変換されたとたん、それは「認められる」ということと一致しなくなる。大人はあくまでも、「本心から認められる」というのが必要なのだ。

こうまで言うと、大人が大人に「認められる」ということには、ものすごく厄介な心理がつきまとっていることになる。子どものようにはいかない。

だが、そうであっても、原則は「価値」の有無である。少々トゲのある物言いだが、少なくとも仕事においてはこの原則に従って、他者はあなたを承認する。

新型うつになる人というのは、もしかしたら、この「認められる」ことの意味を、知るべき時期に、知ることのなかった人たちなのかもしれない。ここで、「だからダメなんだ」などと結論を下したところで、誰も幸せにならないし、何も解決しない。知らなかったら知らなかったで、一から上の人間(親なり上司なり)が教えるべきなのだと思う。
2011/03/20

おぼろ月、散りゆく花も、乙なもの ― 『からだの手帖』

小事典 からだの手帖〈新装版〉 (ブルーバックス)小事典 からだの手帖〈新装版〉 (ブルーバックス)
(2011/02/22)
高橋 長雄

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本書の副題は「薬よりよく効く101話」である。


で、中身は薬よりよく効き、文章も気が利き、読む者も嬉々として読めるため、逆にそれが奇々に感じられたりする。


著者の比喩の上手さからか、なぜか三島由紀夫を思い出した。『若きサムライのために』という本の中で、彼はこんなことを述べている。


男性が平和に生存理由を見出すときには、男のやることよりも女のやることを手伝わなければならない。危機というものが男性に与えられた一つの観念的役割であるならば、男の生活、男の肉体は、それに向かって絶えず振りしぼられた弓のように緊張していなければならない。(『若きサムライのために』 p29)


草食系男子なる言葉が昨今、よく聞かれる。男らしい男というのがめっきり減ったということなのだろうが、それが真か偽かは、私個人、検証のしようがない。


ただ、仮に真だとしたら、三島の言う「緊張」がなくなってきたから、というのも、原因の一つとして考えられるかもしれない。


その点、ニューロンというのは、「緊張」を常に維持している、といっていい。本書のこの部分を読む限り。


◆平和な朝の索敵隊

初夏のさわやかな朝、窓をあける。目にしみるような緑、小鳥のさえずり、すがすがしい微風・・・。平和なこのような朝でも、人体の感覚器という索敵隊は、臆病なキリギリスが触覚を休みなく動かしているように、ゆだんなく外敵の侵入を警戒し、外界の情報を集めているのである。(p12)


「平和」なのに「索敵」である。いや、平和「だからこそ」索敵なのかもしれない。ニューロンの中では「平和ボケ」の四文字はないのだ。


こんなこと言うと三島に怒られそうだが、私は基本的に毎日平和ボケしている。ということは、私の「ニューロン」も平和ボケしている恐れがあるではないか。大変だ!早く「索敵」させないと!


常に索敵状態 ― 戦争に臨む兵士のごとく神経はピリピリしているのだろう。そういうことなら、交感神経が活発に働いているということである。そういえば、自律神経系なる項目にこんなくだりがあった。


自律神経系を一つの家庭にたとえると、交感神経は“だんな”であり、副交感神経は“奥さん”である。家庭の場合と同様に、ふだんの活動は奥さんの副交感神経系が営む。そして、だんなは大そうじで重い物をもつときなどに動員されたり、家庭内の行事にアクセントをつける役割をしているが、それが交感神経なのである。(p27)


私は重い物なんか持ちたくないし、大そうじなんかに動員されたくない。強制動員されてもイヤイヤである。それでも、交感神経は文句一つ垂れずに働くのだ。じゃあ、私は交感神経よりも労働価値の低い人間なのだろうか?そうはいっても、そんな人間にだってちゃんと交感神経はくっついている。いや、私がいけないのではなく、私の交感神経がいけないんだよ、きっと。


人間は年をとると億劫になりやすい。たいてい「老い」が原因だったりするが、そういう「老い」に関する章もこの本には設けられている。そこで、パラペラとページをめくっていると、「更年期」の項を発見した。


人生の四季を通じて変わりばえのしない男性にくらべ、女性は育児や家庭づくりに主役を演じ、春から夏にかけて、きらびやな大輪の花をつけるが、更年期になると、痛々しい落花のときを迎える。しかし「花よ嘆くなかれ」である。生物の究極の目的の一つは実を結ぶことである。人生の果実も、花のあとに、そして結局、主として女性の中に結実されるもののようだからである。(p207)


三島は『花ざかりの森』という作品を書いた。「花ざかり」というと「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」という、兼好法師こと吉田兼好の名言を思い出す。


人生は長い。「さかり過ぎればそれまで」などという考えはあんまりである。人生における本当の味は若さの後に出てくるものなのかもしれない。最近では曽野綾子の『老いの才覚』という本もベストセラーとなっているぐらいだ。


そんな感慨に耽っている私は20代。今はさかりの時。それはそれで大いに楽しまねば。
2011/03/19

人間の身勝手さ ― 『生態系は誰のため?』

生態系は誰のため? (ちくまプリマー新書)生態系は誰のため? (ちくまプリマー新書)
(2011/03/09)
花里 孝幸

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大学二年の時、生態学の授業を取っていたが、まったく面白くなかったので、まったく(といっていいほど)出席していなかった。


でも、今なら出席したい気持ちでいっぱいだ。もしもこの著者が先生であるならば。







今日はあてもなく、ぶらぶらと公園を散歩した。

懐かしい。ここを訪れたのは何年ぶりのことだろうか。

そう思いながら、ふと、あるすべり台に目が向いた。

「立入禁止 ここに入ってはいけません」

そう書かれた黄色のテープで、そのすべり台はぐるぐると巻かれていた。

どうやら事故があったらしい。

幼い頃、私もこのすべり台をよく好んだ。斜面が急で、スピードが出る。

よく言えばハラハラドキドキ。悪く言えば危なっかしい。そんなすべり台だった。

しかし、よく注意して滑れば安全だ。間違った遊び方をしなければ、そんな仰々しいテープなど、巻かれずに済んだはずだったと思う。



以前もブログでこんなことを書いた。


危ないから、危なそうだからといって、じゃあそれは使わないようにしようとか、取り除こう、というのはいかがなものか。そうではなく、危ないから、じゃあどうしたら安全に使えるのか、ということを考えるべきである。


そのすべり台を見ながら、そんなことを考える内に、本書のこんなくだりを思い出した。少々長いが、引用しておこう。


この国立公園では、人間に危害を与えるために害獣とされたオオカミが、長い時間を経て人間によって駆除されてしまいました。すると、オオカミの餌になっていたエルクという鹿が増え、それが若い木々を食べてしまったため、その地の植生が変化してしまったそうです。そして、それが、以前の植生に依存していた鳥や小動物に影響を与えたというのです。(中略)

このことから学んだことは、ある生態系の内の一部の生物種が人間に災いをもたらすからといって、その生物種だけを退治しても、問題の全面的解決にはつながらないことがあるということです。なぜなら、一部の生物種をその生態系から排除すると、その影響が他の生物たちに及び、ある生物種は個体数を減らしますが、別の生物種の中にはかえって個体数を増やす種も出てくるからです。そしてそれが、新たな災いを、人間に及ぼすかもしれないのです。(p79-81)


排除するのは簡単なことである。さっきのすべり台の話に戻るが、危ないと感じたらさっさと撤去すればいいのだから。


しかし、それではまずい。遊ぶ子どもの「危ないとはこういうことだ」という意識や感覚さえも「撤去」してしまうことにつながるからだ。


すぐに排除するのではなく、うまく付き合う方法を考える ― これを今の大人が教えないといけない。


生態系を守るということについても、同じことが言えるはずだ。特定の生き物は人間にとって好ましくない存在だから、駆逐しようというのは、おかしな話である。気に入らない人間がいるからといって我々人間はその人をすぐに殺したりするだろうか。違う。そうではなく、うまく付き合う方法を考えるのが普通だ。そしてそれは、人間だけに限らず、他の生き物にも同様の考えで接するべきではないか。


最後の一つは、生態系を考える際に必要なこととして、生物を客観的に見るということです。第4章でハクチョウの話題を取り上げましたが、人間はその感性に合った生き物に親近感を持ちやすく、その生物種を生物群集の中でひいきにしがちです。ところが、そのひいきは、等しく自然の生態系の中で生まれ、くらしている生物たちを差別することになります。そして、それは生態系をつくっているあまたの生物たちのバランスを崩す恐れがあります。場合によっては、人々の生態系保全活動が、守ろうとした生物種を、生態系の中で生きていけないようにしてしまう可能性があります。(p179)


こう言われると、結局、「生態系は誰のため?」にあるのだろうか。


言うまでもないだろう。それはもちろん「みんなのため」にあるのだから。
2011/03/15

整形しても幸せにはなれない ― 『ブスがなくなる日』

ブスがなくなる日 (主婦の友新書)ブスがなくなる日 (主婦の友新書)
(2011/03/05)
山本 桂子

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ここ最近、主婦の友新書の暴れっぷりがスゴイ。ここのブログでも紹介した『文学部がなくなる日』もそうだが、タイトルがだんだん過激になってきている気がする。本書もご多分にもれず、ではないだろうか。

で、下の文章が気になったのでご紹介。
『B.C.ビューティー・コロシアム』のような番組は、「整形しました。変わりました。幸せになりました」と伝えるけれど、現実はそんな簡単なものではない。自分にビジョンのないあなたまかせの整形では、何度手術しても満足は得られない。

また、顔文化研究所の村澤博人氏は、以前、取材でこんなことを話してくれました。「“顔イコールその人”と思われるような見た目社会では、自分で自分の顔をプロデュースしていく能力がこれから求められていくでしょうね。(中略)美容整形というと頭がカラッポな人がやるもののようなイメージがあるけれど、実は自分をしっかり持っていない人にはできないことだと思います」(p174,175)

引用部分の後に、整形して美人になったはいいが、性格は以前と変わらず卑屈なまま(これを性格ブスというらしいが)、こういった「性格が顔に追いつかない」という現象が起きる、という話が出てくる。
再び、Drアンディーの談話です。

「手術をするのはたいして難しいことではないんですよ。問題は、その後です。顔だけ若々しくなっても内面がそれについていかないと、いい結果が得られない。患者さんの本当の目的は“顔を変えること”ではなく、“愛されること”でしょう?だからそれが達せられないと、患者さんの満足にはつながらないんです」(p177)

私なりに総括すると「やっぱり顔よりも中身を変えよう」ということになるだろうか。いきなりこんな当たり前なことを言って締めくくって仕方がないが、結論としてはそうなってしまう。

結果的には性格が大事、ということである。「じゃあ、顔が悪くても、性格が良ければ好きになれる?」などとイジワルな質問をされそうだが、それについては禁則事項なのであえて言わないことにしよう。(自分のことは棚に上げさせていただきます。ごめんなさい)

見た目はいいに越したことはない。これは誰もがそう思うはずだ。「美人は三日で飽きる」なんていう、ごたいそーな諺があるが、あれは真っ赤な嘘である。美人は何日経とうが飽きない。目が癒されるのは厳然たる事実なのだから。(慣れることはあるけどね)

「じゃあ、ブスには未来がないじゃんか」と思う人もいるだろう。が、そうではない。なにかを極めたり、苦手なものを克服したり、読書をして生き方や考え方を変えてみたりと、中身を磨くことはできる。実にありがちで新鮮味なく聞こえるが、それが結局1番確実な方法なのだと思う。それも頑張るなら、稀少価値のあることで頑張ったほうがいいに違いない。

それでも心が満たされなければ、整形という道を選べばいい。しかし私個人、「自分という形」を変える手段は最後に残した方がいいのではないか、と考えている。Drアンディーなる人と同じ意見だが、あくまでも自分の“顔”が変わることによって、それが必ずしも“幸せ”に変わるということにはならないからだ。くどいようだが、結局最後は“中身”になるのだと思う。

そして冷静に考えてみれば、いくら見た目社会がどうだの、イケメンがどうだの、美人がどうだのと騒いだところで、顔の形が何かにものすごい影響を与えることなど、そうそうない。人間の顔なんて芸術作品でもなんでもない。「人に感動を与えられる顔」なんてものもない。そこを勘違いするな、ということだ。



2012.1.7追記:顔や身体のコンプレックスをどう考えるかについて、ある程度参考になりそうな本を見つけたので読書案内↓(個人的には『人はあなたの顔をどう見ているか』のほうが良かったかも)


肉体不平等―ひとはなぜ美しくなりたいのか? (平凡社新書)肉体不平等―ひとはなぜ美しくなりたいのか? (平凡社新書)
(2003/05)
石井 政之

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人はあなたの顔をどう見ているか (ちくまプリマー新書)人はあなたの顔をどう見ているか (ちくまプリマー新書)
(2005/07)
石井 政之

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話は変わるが、中村うさぎさんのエッセイも参考になるのでご紹介。
2011/03/13

「自分探し」という迷走、「楽しさ」という難しさ ― 『自分探しと楽しさについて』

自分探しと楽しさについて (集英社新書)自分探しと楽しさについて (集英社新書)
(2011/02/17)
森 博嗣

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集英社新書から出されたエッセイby森博嗣は本書で5冊目。さすがに「どんだけ多いんだよ!」というツッコミは禁じ得ない。それでも需要があるのだからスゴイ。小説で成功し、エッセイでも成功しと、驚くべき人である。


しかし、なぜここまで人気があるのだろうか?自己啓発のようなエッセイだから?「作家・森博嗣」が書いたものだから?いや、違う。「常に一般論を言わないから」だ。


当たり前といえば当たり前だ。結局のところ、本の中身は一般論の裏返しや否定でないと面白くない。独断や偏見、逆説がない本は読んでいて本当につまらない。そのくらいパンチがないと読書など意味がない。


で、森博嗣のエッセイはどれを読んでもパンチがある。


例えば、

もしあなたが小説家になりたかったら、小説など読むな。(『小説家という職業』 p4)


翻って自分が発言する意見や、自分が行う思考も、実は自分から切り離すことができる。それが自由な意見であり、自由な思考というものだ。たとえば、なにかについて「こうあるべきだ」ということを発言しようと思ったとき、自分が今はまだそうなっていなくても、発言はできるし、考えることもできる。だから、そういう発言に対して、「お前はどうなんだよ」「お前に言われたくないな」という反論はするべきではない、と僕は思う。(『自分探しと楽しさについて』 p104)


人が楽しんでいるところを見て、「いいよな、金があって」という感想はまったくお門違いである。それは明らかに、「金が楽しみを生む」と思い込んでいる勘違いからくるものだ。(中略)逆である。楽しさを求めれば、金は入ってくる。真剣に楽しみを実現したいと思う人は、自然に金持ちになっている。(同 p177)



どれも興味深い。だから(良くも悪くも)読者にウケるのだ。


「じゃあ、なんでもかんでも一般論を裏返せばいいのかよ」と言うと、もちろんそんなことはない。ある程度の説得力や裏付けは当然必要だ。で、そういった説得力や裏付けというのは、他の何ものでもない、「森博嗣本人」であり彼の経験から生まれたものである。


本書の話へ入ろう。


「自分探し」という言葉だが、これについて彼曰く「どこにでもある」と。ちなみに私はこの言葉が嫌いである。この青臭さがなんとも言えない刺激臭であり、文字通り、鼻につくのだ。高校生ぐらいまでがこの言葉を使ってどうのこうの言っているならまだ分かるが、二十歳過ぎた人間には「イイ年して・・・」というぐらいの感想しか持てない。


「楽しさ」の方はどうか?彼は喝破する ― 「楽しさなんて自分で創れ」と。これではあまりにも当たり前すぎるだろうか?その詳細については、この本ともう一冊『創るセンス 工作の思考』を読むことをオススメする。「創る」がどれだけ「楽」しいことであり、それと同時に「楽」なことではないかが分かる。それをこの二冊でとことん語っているのだ。


ちなみに、森博嗣以外のエッセイストで面白い人と言うと、今思い浮かぶ人で中島義道だろうか。この人間だけには色んな意味でゼッタイ勝てないといつも思い知らされる。
2011/03/10

ブラジルで、ブラブラしたくなる本 ― 『ブラジルの流儀』

ブラジルの流儀―なぜ「21世紀の主役」なのか (中公新書)ブラジルの流儀―なぜ「21世紀の主役」なのか (中公新書)
(2011/02)
和田 昌親

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目次 ― 引用元:紀伊國屋書店BookWeb



第1章 社会・生活の話(なぜブラジル人は「優しい」のか;なぜ「デスパシャンテ」なる奇妙な商売ができたのか ほか)
第2章 経済・産業の話(なぜ「BRICS」では満足できないのか;なぜ超インフレを収まったのか ほか)
第3章 文化・歴史の話(なぜ事実上戦争をしなかったのか;なぜブラジルだけがポルトガル領になったのか ほか)
第4章 サッカー・スポーツの話(なぜブラジルサッカーは「いつも強い」のか;なぜ美しく勝たないといけないのか ほか)
第5章 政治・外交の話(なぜルセフ新大統領はここまでのし上がれたのか;なぜ最下層のルラが最強の大統領になれたのか ほか)




小生、ブラジルへ旅行したことは今まで一度もない。だから「ブラジル」という言葉から連想できるのは、せいぜい「コーヒー大国」だとか「南米大陸で最も大きな国」だとか「リオのカーニバルで、綺麗なお姉さんたちが腰を振りながら踊る」とかで、そういった実に乏しい知識しか持ち合わせていなかった。


しかし、「乏しい知識しか持ち合わせていない」というのは、逆に考えると「知る楽しみが増える」ということでもある。「知らない」「よく分からない」という状態の中に、「知る楽しさや面白さ」といった「プラスの価値」を作り込めるのだ。


そのためには、自分の中にそういったものを創ってくれる「装置」が必要である。


で、本書がその「装置」なのだ


読むとじわじわ感じてくる。ブラジルというのは実にのんびりゆったりしたお国なのだと。悪く言えばアバウト。でも、なんだか許せてしまうアバウトさだ。ガチガチに固まらず、人生をユルく考える。それがこの国の「流儀」なのだ。


でも、行き過ぎるとこうなる。


ラテン人というのは時間にルーズというのが定説だが、ブラジル人もご多分にもれず、相当アバウトだ。「三時というのは、三時から三時五十九分までを指す」と、悪びれる様子もない。(p29)


その発想はなかったわ。


スーパーのレジでも、そのアバウトさに驚かされる。例えば、三・九九レアル(現地通貨)の買い物をして、四レアルを渡すとする。もちろんお釣りは〇・〇一レアル=一センターボだが、一センターボ硬貨が渡されることはない。その代わりに、平然と五センターボ硬貨を出してくるケースさえある。つまり、お釣りを勝手に切り上げて払おうとするのだ。(p29)


日本でそんなことやったらクビになるか、店長に首根っこ掴まれてお説教タイムである。てか、ここまでいけば、もはや流儀でもなんでもなく、単にいい加減なだけだろ・・・。 (ってツッコミたくなる)


で、このアバウトさに続いてこのジョーク。


ポルトガル人が「アメリカ人は月まで行くロケットを開発しただけで頭脳明晰だと思っているが、ポルトガルでは太陽まで行くロケットを開発中だ」と語った。聞いていたブラジル人が「でも太陽に近づくにつれて溶けてしまうのではないか」と言うと、ポルトガル人は「それも計算してある。夜間にロケットを発射するように変更した」。(p141)


読んで思わずニンマリ顔になってしまった。「そうね、夜には太陽が見えないし、そう考えたくもなるよね」と、顔では同情を示(すのかどうか分からないが)しつつも、心の中では冷笑を浮かべるのがブラジルの流儀、いや“遊戯”なのだろうか?


そうかと思いきや、こう続く。


《自分たちの祖先だからポルトガルを見てみたい。でも世界の中でポルトガルはかつての隆盛は望むべくもない。土も隣国スペインに比べ大きく見劣りし、欧州の小国になり下がっている。馬鹿にしたい思いと、「しっかりしろよ」と励ます気持ちが複雑に交錯しているように思う。頼りない父親につらくあたる息子のようだ。(p142)


なんとも言えない微笑ましさ。なんだかんだ言ったって、結局は良き間柄ではないか。まあ、ジョークは別として、日本も(特に都心)“ある程度は”ブラジル流のアバウトさを見習っていいのかもしれない。

2011/03/08

動植物観察よりも人間観察の方が面白い ― 『ヒトはなぜ拍手をするのか』

ヒトはなぜ拍手をするのか―動物行動学から見た人間 (新潮選書)ヒトはなぜ拍手をするのか―動物行動学から見た人間 (新潮選書)
(2010/12)
小林 朋道

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Mixiには恋愛コミュニティーがある。



一口に恋愛コミュニティーといっても、終わらない恋がしたいだの、彼氏がどーだの、浮気があーだのと、まぁ色々だ。


私は赤の他人のプライベートな日記(◯◯でランチ食べた、××と会ったetc)というものには、ほとんど興味がないので、そういったものを読むことはまずないのだが、なぜかなぜか、mixiの、この恋愛コミュニティーはけっこう見てしまう。


「ああ、そういうの読んで、さも自分が恋愛してるみたいに錯覚したいんでしょ?わからなくもないよ」とか冷たくあしらわれそうだ。そういう楽しみ方もあるにはあるだろう。実際にそのコミュ内を見ると分かるが、そういうのを楽しんでいる人も中にはいる。


ただ見方を変えると、こういうものを読むのは、ある意味でスゴイ人間観察だと思うのだ。特に浮気の愚痴が書いてあるトピなんかを読むと、ものすごくリアルだったりする。彼氏に対して「こんなに好きなのに・・・」っていう想いを書き連ねる人がいる一方で、彼氏&相手の女への罵詈雑言をひたすら書きまくる人もいる。


普通、そういった「感情のむき出し」っていうのは現実の世界でなかなか目にすることはできない。その人を飲みに誘って酒を飲ませ、本音を吐かせようとしても、なかなか吐こうとしないことだってある。相手が「こんな愚痴、自分の友人に聞かせちゃ悪いんじゃないか」と思っていたりしていて。でも、ネット上ではそれがやれる。顔は見えないし、書いているのがどこのだれかなんて特定されないから。


そうすると、そういった愚痴を読むことっていうのは、ある意味で人間の、絶対に現実では言えない、ものすごくリアルな部分を垣間見ることになるんじゃないかと思える。そういう愚痴を書いている人たちをからかったり、気持ちを茶化したりする気は全くないけれど、こういうものを読むのっていうのは、究極の人間観察になるんじゃないのかなあ。


そして、その人間観察という言葉で思い出したのがこの『ヒトはなぜ拍手をするのか』という本だ。これは身近な行動を学問的に人間観察してみたっていう本で、「なぜ◯◯なのか」という問いに対する、答えとしての仮説が非常に面白い。何がどう面白いのか、読んでからのお楽しみということになるだろうか。


動物や植物を観察or鑑賞するのが好きっていう人は多いと思うが、「人間を観察するのが好き」っていう人は少ないんじゃないかな。プロフィール書くとき、「好きなこと」の欄に「人間観察」とかって書くと「なんかヘンな奴だ」とか、「趣味がワルイ」とか思われたりするかもしれないけど、こういう人っていうのは、話してみるとやっぱり面白い考えを持った人が多い気がする。


私も職場で人間観察をやってしまうけど、なんだろう、やっぱり「面白い」のだ。ああ、なんでこの人、こういうことしてんだろう、とか思いながら、その理由を考えたり、そういうことをするっていうのはたぶん◯◯なんじゃないんかなあ、とか考えたり。


やっぱ「ヘンな奴だ」って思われても仕方ない。。。
2011/03/05

究極の“死体エッセイ” ― 書評『死体入門』

死体入門 (メディアファクトリー新書)死体入門 (メディアファクトリー新書)
(2011/02/28)
藤井 司

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目次 ― 引用元:紀伊國屋書店BookWeb


第1章 死体とは何か(死体は人を惹きつける;魂の重さはスプーン1杯分? ほか)
第2章 人が死ぬということ(死を見つめた『九相詩絵巻』;まず血流が止まる ほか)
第3章 ミイラに込めた願い(永久なる死体とは;日本最古のミイラ ほか)
第4章 死体をとりまく世界(死体に出会ったらどうすればよいか;死体を見ないようにする方法 ほか)
第5章 死体の利用法(死体を扱う学者とは?;死体が面白いから ほか)






今の世の中、文章術の本というのはごまんとある。


私もそういう本を書店でパラパラと読むことはあるが、いつも感じていることがある。


それは、「わかりやすく書く」ことを主眼に置いた本は多いが、「読者を楽しませるように書く」ことを主眼に置いた本は非常に少ないということ。


「わかりやすく書く」というのはすごく大事なことだ。そして、その「わかりやすく書く」ための“ルール”が明示されることで、すこしでも文章が上達する人もいるだろう。しかし、「わかりやすく書」いたからといってそれが「良い文章」であるかといえば、私は疑問だ。


では、「良い文章」とは一体何だろうか?私個人が思う「良い文章」の条件を2つ挙げておきたい。


「良い文章」とは、

1、 読んでいて分かりやすく
2、 且つ面白い(≒魅せられる、心が惹きつけられる)文章


である。



これだけ?と思った方もいるだろう。


そう、これだけ。


だが、この2つをきちんと満たした本というのはものすごく稀ではないだろうか。(書評を書いている私も、人のことを言えたタチじゃないよね・・・。)


で、上記2つのことについて書かれた本を最近やっと見つけた。外山滋比古著『文章を書くこころ』(PHP文庫)という本だ。とはいっても、いわゆる「ノウハウ本」の感じがしない。エッセイといった方が良いかもしれない。







そして今回紹介する『死体入門』は、まさに「良い文章」になるための条件を全て満たしたスゴイ本なのだ。


テーマは「死体」である。一般書として書くのであれば、相当難しいテーマなはずだ。死体に関する知識ばかり書いてあれば、読む側は飽きる。そうかといって、おちゃらけ過ぎるのも不謹慎だろう。つまり、ものすごくバランス感覚が必要になるテーマだ(と私は思っている)。


それで著者の、この“バランス感覚”がハンパない。死体についての(「死臭の作り方」なんていうのも紹介されている)分りやすい説明はもちろんのこと、読んでいて時折クスっときてしまう面白さ、そしてその織り交ぜ様は、まさに「良い文章」の鑑なのだ。




話は変わるが、今、医師不足が社会問題になっている。その中でも法医学者は圧倒的に足りないのだそうだ。大学で法医学を専攻する学生も少ないらしい。


「日本人のもつ、死体への独特の忌避感覚がその根底にあるのかもしれない」 ― そんなことを考えながらあとがきに突入すると、そこには「死体への興味を育てよう」の文字が目にとまる。読めばはっきり、著者の「死生観」ならぬ/と共に「死体観」が伝わる。


なのに、死体にかかわる職業人こそ死者を冒瀆していると見られることも多い。死体はすぐに眠らせるべきだ!切り刻むなどとんでもない!死体をさらしものにしている!死体で生活の糧を得るなんてハイエナだ!

このような主張をするような人たちに問いたい。そもそも、あなたは死体をどれだけ知っていて、そのように責めるのですか?誰もが最終的にたどり着く姿であり、あり触れた存在であるはずの死体が徹底的に隠される現状のほうが異常ではないですか?(p203)


うーん、と唸ってしまうのは私だけだろうか?


私の周りにこんなことを声高に叫ぶ人なんていやしない。考えたこともなかったがゆえに、その言葉一つひとつがズシリと心に来る。こういうことが書けるのも「死体」に対して著者の「慕い」があればこそのこと。


「死」から「生」を考えるのは、「生」から「死」を考えるのと同じくらい大切 ― そう思わせてくれる一冊だ。
2011/03/03

「闇」を排除しようとする現代の「病み」 ― 『暴力団追放を疑え』

暴力団追放を疑え (ちくま文庫)暴力団追放を疑え (ちくま文庫)
(2011/01/08)
宮崎 学

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プロローグ ヤクザが消えた街
第1章 暴対法は誰のために
第2章 頂上作戦の今と昔
第3章 変わっていくヤクザ
第4章 アホな正義に騙されるな
第5章 福岡県警による言論規制
第6章 相撲界と「暴力団」
エピローグ ヤクザもいる明るい社会
清潔なファシズムへの道 あとがきにかえて



ケータイにはフィルタリング機能というものがある。未成年の子供に有害なサイトを見られないようにするアレだ。


ここ最近は携帯各社のみならず、メディアでも盛んにこのサービスを導入するよう、親たちに促している。


確かに子供の安全を第一に考えれば、大事な機能かもしれない。しかし私自身、このフィルタリング機能はいらないと思っている。


そもそも、なぜ、そういうサイトをシャットアウトしてしまうのだろうか?別にそういうものに興味があるなら、見せてもいいではないか。オトシゴロの男の子、女の子は自然とそういうアブナげな、“オトナなもの”に興味をもつ。極めて普通のことである。そういう“極めて普通のこと”を押し殺そうとするのはいかがなものか。


たしかに危険なサイトは多い。犯罪被害防止のためを考えれば必要かもしれない。だがそれなら、もっと根本的な方法を取ったほうがいいと思う。


私が親だったら、まず「なぜ危険なのか?」ということをきちんと教える。いきなり排除するようなことはしない。そういうサイトを実際に子供に見せて、一緒に「研究」するだろう。



「“危ない”というのはこういうものだ!」
「こういったアマい言葉には気をつけろ!」
「それはクリックするな。トラップだ!」



などと叫びながら。(傍から見れば、かなりアヤシイ光景に映るだろう。本当は父親であるオマエの方がそういうサイト、見たいんじゃないの?とか勘ぐられそう)


その方が頭ごなしに「これはダメ!」などと言われて禁止されるよりも、ずっと効果があるのではないか。(たぶん母親はそんなことしたくないだろうから、こういうのは父親がやった方が無難か)


そしてもうひとつ(むしろこっちを強調したいのだが)危惧していることがある。それは、こういった“危ないもの”“悪そうなもの”をなんでもかんでも排除することが、知らず知らずのうちに「危ないものや悪そうなものは知らなくていい、触れなくていい」という態度や風潮にもつながりかねないのではないかということだ。


とにかく危ないもの、危ないことは「見ざる言わざる聞かざる」を徹する。そういう過干渉な(よく言えば子供思いだろうが)親の話を最近よく耳にする。「モンスターペアレンツ」というのはまさにその典型だろう。


たしかに多少の悪影響はあるかもしれない。だが、そういったものを子供から完全にシャットアウトして知らせないようにする方がよっぽど悪影響ではないか。


社会的に「悪」だのなんだのと言われているもの(それがホントなのかもよく知らず)を知らないままでいれば、当然それに関心を抱かなくなる。関心がなければ知ろうともしない。それがまずい。


よく知りもしないうちから、なんでもかんでも「悪いもの(悪そうなもの)、危ないもの(危なそうなもの)は排除しよう。そしてより良い環境をつくろう」とするのは間違いだ。これは子供に限った話ではない。むしろ大人こそがこういうことに対して敏感になり、気をつけなければならない。


本書のテーマである「ヤクザ」も同じである。彼らの実態をよく知らない人たちは、彼らを見ては「悪」と決めつけ排除しようとする。


しかしこの本を読めば、ヤクザ=悪という等式が必ずしも成り立つわけではないのが(「納得」はしにくくとも)「理解」はできる。


「ヤクザは全く悪くないし、危なくない」などと言っているのではない。また、言うつもりもない。だが、どうしてもやむを得ない存在だということは本書を読んで感じると思う。



人間社会の「裏」を知らずして、人の「心(うら)」など分かるはずがないのだから。