2011/04/29

生きる為のルールだから、ほんの少し悲しいだけ ― 『ルポ 餓死現場で生きる』


ルポ 餓死現場で生きる (ちくま新書)ルポ 餓死現場で生きる (ちくま新書)
(2011/04/07)
石井 光太

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体で書いた本というのは、どれも面白い。著者本人が直に現場で触れてきたもの、感じてきたものを記しているからである。それは読者に、時には感動を与え、時には残酷を映し出す。

本書はどちらだろう。無論、後者である。そしてこれは仮想世界の話ではない。現実世界で、今まさに起きていることなのだ。

貧困問題というと、たいていテレビか何かでその現状が映し出され、「ああ、なんてかわいそうな人たちなんだ」「さぞつらい世界なのだろう」などというありがちな感想を、我々一般人は抱きがちである。

しかし本書を読む限り、そういう見方は金持ちで豊かな人間たち(彼らと比べての話だが)の上から目線に過ぎない、と私は感じた。


そこで私は考えました。私たちは、アフリカの人々のそうした気持ちに、どの程度思いを馳せたことがあるだろうか。少し踏み込んで言うと、私たちは、アフリカの人々が少なくとも我々と同じ程度に祖国に誇りを持ち、我々と同じ程度に優秀で、我々と同じ程度に幸せな暮らしを営んでいることを知っているだろうか。日本とアフリカの経済規模や科学技術の水準の差に目を奪われ、国力の差を個々人の幸福度の違いと錯覚し、「進んだ日本、遅れたアフリカ」「幸せな日本の暮らし、気の毒なアフリカの暮らし」と思い込んではいないか。そうした認識に拘泥することが、巡り巡って日本社会を覆う閉塞感に関わっているのではないか・・・。(『日本人のためのアフリカ入門』(p14)


上記はアフリカについての話だが、アフリカ以外の、「貧困で苦しんでいるとされている国」と比べた場合でも同じことが言える。

貧困問題について考える時、「我々(先進国、金持ち側の人間)はどう思うか」という視点から論じてしまいがちだが、実際は、つまり、「貧困で苦しんでいるとされている人たち」はどうなのかを前提にしないと、話は全く変わってくる。

以下、そのことを感じさせてくれたエピソードから引用。


当時、ヘレンは14歳になったばかりでした。母親はスラムにとどまっていれば、ヘレンは自分と同じように誰かからHIVをうつされることになるかもしれないと心配しました。が、母親である自分に残されている時間はわずかです。そこで、彼女は田舎に帰るとすぐ、仕事のある21歳の男性をヘレンの許嫁として決めてしまったのです。

(中略)

彼女は次のように言っていました。

「お母さんが私を思ってこうしてくれたのがわかる。だから、お母さんの言う通りに結婚した。村では、お母さんばかりじゃなく、他の親も同じことをしている。いい年になってブラブラしていると、『あの女はHIV感染症じゃないか』なんて噂が立ってしまうし、本当にそうなってしまうから、できる限り早く結婚させたがるのよ」

私は、君はそれでもいいと思っているのか、と尋ねました。彼女はうなずいて答えました。

「もちろんよ。私だって色んな人と関係して病気になるより、きちんと家庭を持って安全な生活をした方がいいと思っている。結婚については、まったく悔やんでいないわ」(p149)


「こんな強制的に結婚させられてしまうなんて」などと同情心の一つでも持つかもしれない。かくいう私もそうだ。が、どうやらそれは見当違いのようである。


「別れることは怖くない」君は涙みせずに言った
生きる為のルールだから、ほんの少し悲しいだけ


私の好きな曲『金曜日のライオン』(TMネットワーク)の歌詞の一部だ。書いていて、ふと頭に浮かんできた。そう、彼らにとっては「生きる為のルール」なのである。

そして本書『ルポ 餓死現場で生きる』は、まさにこの「生きる為のルール」がこんなにも多様なのだということを、つぶさに教えてくれるのだ。

先のエピソード、それはその一部分に過ぎないとしたら、あなたはどう思うだろうか。
2011/04/27

Googleの挑戦 坂本龍馬の構想 ― 『グーグル10の黄金律』


グーグル 10の黄金律 (PHP新書)グーグル 10の黄金律 (PHP新書)
(2011/04/21)
桑原 晃弥

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昨年(2010年)のNHK大河ドラマ『龍馬伝』で、主人公・坂本龍馬(福山雅治)が新しい日本の構想、いわゆる「船中八策」を練るシーンがあった。

その内容は当時の常識と全く異なる画期的なものである。龍馬の大胆さや奇抜さもさることながら、私には堂々と楽しそうに未来の日本について語る彼の姿がすごく印象的だった。

もちろん、ドラマだから本当にそう語ったのかは定かではないが、龍馬が日本の未来図を描いていた時というのは、さぞ心踊るものだったに違いない。

そして現代は? そう、本書の主人公・Google(正確に言うと、Googleを立ち上げた二人、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリン)が、まさに坂本龍馬のような存在なのである。

よく言えば大胆。悪く言えば無鉄砲。しかし言い方はどうであれ、独創的であることは疑い得ない。人望の高いところもそっくりである。(女ったらしかどうかは分からないが)

私はGoogleに勤めているわけではないから、実際の仕事現場はどうなのか分からない。だが、本書を読むだけでも非常にワクワクする。今すぐにでも、働いてみたくなるだ。

坂本龍馬とGoogleの共通点 ― それは「スケールの大きさ」に尽きる。でかい。とにかくでかい。でかすぎる。

今の日本はどうだろう。ここまで「でかさ」を意識する人、特に若い人はいるだろうか。いや、不況の「でかさ」でそれどころではないかもしれない。

ラリーもサーゲイも、Google創設当時は20代だった。大胆さも奇抜さも若さ故の産物だったのかもしれない。

スケールの大きさを描くのに年齢制限などない。若くてもいい。年をとってからでもいい。ただし一つ注意すべきことがある。それは「決して、小さく描くな」ということだ。
2011/04/17

人の目を気にしないために ― ブログが続かない理由

ブログを始めてから3ヶ月が過ぎた。過去に2度、「書評」をテーマにブログを始めたが、どちらも長続きせず、あっさりと削除してしまった。

理由は単純だった。人の目を気にしていたからである。もっと言うと、ブログをやって「人気者」になろうと考えていたからだ。

過去の僕も含めて、ブログを始める人というのは、明確に何か書きたいテーマがあるから始めるというよりも、どこか「多くの人に注目されたい」「人気者になりたい」という気持から始める人の方が多い気がする。

しかし、そういう人はいずれブログをやめるだろう。人気取りのために、記事を書く。それが毎日だったり、1日置きだったりと、執筆ペースは色々かもしれないが、とにかくたくさん記事を書く。そして常にアクセス数を気にし、それを見ては一喜一憂する。最終的には、こんなことをしている自分に虚しさを覚える。

有名なブロガーは、もはや一定の評価があるため、あまりそういうことを気にしないのかもしれないが、少なくとも始めて間もない人は、こういった状態に陥りやすい。

この「ブログの罠」とでも言うべきものは、かなり厄介である。というのも本来、書くことや書き上げるまでのプロセスを楽しむためにブログを始めたはずなのに、いつの間にか、アクセス数の増加を楽しむことが目的になってしまっているからである。

もちろん、アクセス数が増えること自体、いけないことではない。素直に嬉しいことだ。しかし、アクセス数の増加を期待することは、他者に「私のブログを見に来て欲しい」という期待に他ならない。そしてその期待の裏には、「私のブログはこんなにも面白いのだから」「これこれこういった価値があるのだから」という自惚れと、自分のブログに対する過大評価が(大なり小なり)潜んでいる。

これは僕自身の中で観察されたことだが、おそらく他の人にも当てはまるのではないかと思う。これからブログを始めようとしている人、始めて間もない人は、よく注意した方がいいだろう。

文章というのは人に見せるためだけに書くのではない。それは媒体が紙であろうと、ウェブであろうと同じである。少なくとも趣味で書く文章についてはそう言える。

趣味で文章を書くのなら、書くことそのものや、書き上げるまでのプロセスを大いに楽しみたいものだ。創作活動(日曜大工でも料理でもプログラミングでも)の醍醐味は、そういった、作品作りそのものであり、作品が出来上がるまでの「過程」にある。決して、人を気にすることではないし、出来上がった物を他人に見せて良い評価をもらうことでもない。

他者を気にしていたら自由にやれないし、第一全く面白くない。いつか虚しく感じる日が来るのは目に見えている。時には「誰のためにやっているのか?」と自問自答することも、趣味であれ必要かもしれない。
2011/04/16

私とみすずと人間観察と ― 『金子みすゞ童謡集』

金子みすゞ童謡集 (ハルキ文庫)金子みすゞ童謡集 (ハルキ文庫)
(1998/03)
金子 みすゞ

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今再び注目を集めている金子みすず。

私は色んなジャンルの新書をたくさん読むのだが、文芸作品だけはほとんど読まない。

しかし、某CM効果により、急に金子みすずの詩が読みたくなってしまった。







金子みすずという詩人を知ったのは小学校低学年の頃だったと思う。

きっかけは『私と小鳥と鈴と』という詩。


私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんの唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。


幼い頃は、この詩を読んでも、何もピンと来なかったが、今はなんだかジワジワと心にしみてくる。

金子がこの詩を書いたというのも、おそらく当時の日本人は、人と違うということに対して不寛容だったのだろう(今もそうかもしれない)。果たしてそれは、いいことなのか。そう疑問に思った彼女は、なんら小難しい言葉を使わずに、しかし意味深長なこの詩をつくって、読む者を考えさせる。

誰でも知っている、誰でも想像できる具体的なものや情景を詩に織り込んで、そこから人間とは何か、生きるとはどういうことか、などといった哲学的な問いを引き出す ― これが金子のスゴイところ。

たぶん、彼女は人間観察が大好きな人だったと思う。その点は私も同じ。観察していて、こんなにも面白く、こんなにも考えさせてくれる、そして悩ませる生き物というのは、人間以外にありはしない。


もう一つ、気に入った詩をご紹介。


誰がほんとをいうでしょう、
私のことを、わたしに。
よその小母(おば)さんはほめたけど、
なんだかすこうし笑ってた。

誰がほんとをいうでしょう、
花にきいたら首ふった。
それもそのはず、花たちは、
みんな、あんなにきれいだもの。

誰がほんとをいうでしょう、
小鳥にきいたら逃げちゃった。
きっといけないことなのよ、
だから、言わずに飛んだのよ。

誰がほんとをいうでしょう、
かあさんにきくのは、おかしいし、
(私は、かわいい、いい子なの、
それとも、おかしなおかおなの。)

誰がほんとをいうでしょう、
わたしのことをわたしに。


この、何とも言えない、ジワジワ感。

私だったら、「人間というのはだね、偽善に満ちた生き物であって、本当のことなど言わぬものなのだよ」などとエラソウに上から目線で言ってしまいそうだ。身も蓋もない。決して詩にならんよね。

金子みすずの詩の良さって、ちょっとした謎やちょっとした問いを、読者の前に置き去りにしていくところにあるんだろうなあ。
2011/04/08

「〇〇しましょう」「××はやめよう」というCMについて

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
(1997/10)
中島 義道

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最近のACのCMを見ていて思うのだが、「◯◯しましょう」「××はやめよう」といった内容のものが非常に多い。


「節電しよう」「必要以上の買い溜めはやめよう」「譲り合おう」 ― こういった類のCMを少なくとも一日一回は必ず目にする。


そんな中、本書『〈対話〉のない社会』で、こんな記述が気になったので引用しておこう。


こうして、「お上」は弱者保護という世の潮流に乗って、ガン細胞のようにますます管理標語・管理放送を増大させてゆく。そしてますますそれに対して不感症になってゆく。「駆け込み乗車はおやめください」という甲高いテープ音がガナリたてても、猛然と電車に突進する。駐輪禁止の立て札がうるさいほど立っている区域にも平然と自転車を置く。

(中略)

再度確認しておく。私はだれも守らないから管理標語・管理放送をやめよ、と言っているのではない。すべての人がそうした標語を見て放送を聞いてはじめてルールを守るとしたら、それこそ恐ろしい社会だと言いたいのだ。

(中略)

管理標語・管理放送は一方で言葉を信頼しない軽薄人種を量産し、他方自己判断能力の徹底的に欠如した怪物をつくり出す。こうして、管理放送・管理標語漬けによって、同胞は日々刻々と自己判断力を削がれ、言葉を気にとめないように訓練されるのであるから、末期ガン患者にモルヒネの量を増すように、「お上」はますます管理標語・管理放送の量を増やさねばならない。(p95-96)


「節電しましょう」と言われなければ節電しない。「必要以上の買い溜めはやめましょう」と言われなければ、買い溜めをやめない ― ACのCMについても同じことが当てはまると思う。


これは、「こういう内容のものでも流さない限り、国民は意識が薄い」ということを暗に意味したメッセージであるとも受け取れる。仮にそうだとしたら、何だかあまりにも悲しい。危機意識のなさや道徳の欠如をエンエンと(しかも大多数の人間に気付かれないように)指摘されているのと同じなのだから。


「ACはCMなんか流すな」などと言いたいのではない。「〇〇しましょう」「××はやめよう」といった放送ばかり流して国民に意識付けさせる、というのはあまりにもレベルが低いし、そういうCMを見てはじめて意識的に◯◯をしたり、××をやめたりするというのもおかしいのではないか、と言いたいのだ。


「頑張ろう!日本」「未来を信じている」系のCMも一緒である。そもそも、あれは誰に対するメッセージなのだろうか。被災した人たちに対してなら、かなり軽薄だと思う。家は全壊、職も見つからない、そんな人が圧倒的に多い中、ただただ「頑張ろう」「未来を信じて」などというテープを(何も被災していない人間たちによって)流され続け、その通りにできる人というのがいるだろうか。少なくとも私が被災した立場にあれば反感を持つ。


また、被災していない人たちに対してならそれもそれでおかしい。節電や計画停電などで支障をきたしている所もあるが、被災していないほとんどの人たちは、頑張ろうなどと言われずとも頑張っているし、地震以前からそうしている。不況も続く中、頑張らざるを得ないのは分かりきっていることである。にもかかわらず、ひたすら「頑張ろう」「未来を信じて」などと(しかもCMに)言われたって何も響かない。


もちろん、元気づけるのはいけないということではない。


そうではなく、「自己満足や形だけのCMになってはいないか」「これは見る側の立場を本当に考慮しているか」 ― CM制作者たちの最も注意しなければならない部分というのは、そういったところにあるのではないかと言いたいのだ。


ずいぶんと偏った(もっと言えばひねくれた)意見だが、今のCMについてはそういう見方もできると思う。



追記:この記事を書いた後に、↓の記事を見つけたのでご紹介。


頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。(はてな匿名ダイアリー)
2011/04/03

「やかましい」どころか超ウザイ ― 『「お客様」がやかましい』

「お客様」がやかましい (ちくまプリマー新書)「お客様」がやかましい (ちくまプリマー新書)
(2010/02/10)
森 真一

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私は「“お客様”としてもてなされる」のが嫌いである。


以前、某メガネ店(チェーン店)でメガネを購入した時の話。その店では、メガネを買った客に対し、店員が「店の出口まで(メガネを)お持ちいたします」と言って、メガネをいれた紙袋を持ちながら客と一緒に出口まで歩き、そこで商品をわたし、最後に大きな声で「ありがとうございました!」と、笑顔で見送るのだ。


某紳士服店(チェーン店)でスーツ一着を買った時も似たような対応をされた。


どうもムズ痒くてしょうがない。なぜ、たかがメガネ一つ、スーツ一着で、そこまでもてなせるのだろうか。べつにウン十万もするような高級なものを買ったわけでもないのに。


ふつうにレジの所で商品をわたし、「ありがとうございました」の一言だけあればそれでいいと思うのだが、どうやらそういう対応だけではダメなようだ。


そんな対応ばかりしてたら、いつかそれが当たり前になって、客はさらにそれ以上の対応を望むようになるんじゃないかなーと、思っていたところ、この『「お客様」がやかましい』という本を見つけた。で、書いてあることの9割以上は賛成できる内容&自分が思っていたことだったので、まさに「我が意を得たり」の心地である。


純粋に商品の魅力だけで他店と勝負できなくなっているんだなあと感じる。だから結局、そこに「店員」が介在してくるのだろう。ひと昔前のような、いわゆる職人肌の「がんこ親父」が、客に対して無愛想ながらも、心から納得させるだけのモノ(それが食べ物でも身につける物でも)をつくる、という風土がなくなりつつあるのかもしれない。商売する人の関心は、「物」から「客」に移ってしまったということだろうか。


学校の先生も大変だ。モンスターペアレントが来るわ、生徒は言う事聞かないわ、叱ったら叱ったでクレームが来るわ。これも過剰なまでの好待遇が、社会に浸透しているからだと筆者は言う。前に『一億総うつ社会』という本を取り上げたが、その本の著者は「親の強い自己愛が我が子に移ったから」と解説していた。どっちの意見も合っていると思う。


その内、「土下座でおもてなし&お見送り」なんてのも始まるかもしれない。いや、この勢いなら、その可能性もなくはないだろう。そうなったらホントにシャレにならんよ、このクニは。


もうさ、「モノだけで勝負する!」みたいな、そういう土壌を一から作り直した方がいいんじゃなかろうか。アップルの「顧客の言うことなんか聞かない!」精神はもっと評価されるべき。
2011/04/01

大震災と寺田寅彦の予言、そしてその教訓 ― 『科学と科学者のはなし』

科学と科学者のはなし―寺田寅彦エッセイ集 (岩波少年文庫 (510))科学と科学者のはなし―寺田寅彦エッセイ集 (岩波少年文庫 (510))
(2000/06/16)
寺田 寅彦

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明治生まれの物理学者である寺田寅彦(1878-1935)がエッセイ集『科学と科学者のはなし』(池内了編集)の中で、こんなことを言っている。


津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永・安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰り返されるであろう。その時にはまた、日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかわからないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。(「津浪と人間」の章より p186)


彼がこのエッセイを書いたのは1933年。これは昭和三陸地震(3月3日)が起きた年であった。

実は、寺田がこのエッセイを書いた以前にも、1896年に明治三陸地震(6月15日)が起きており、この地方における2度もの震災を目にした彼は、おそらく次もまたこのような地震が起きるのではないかと警戒していたのだろう。

そして約80年後の2011年3月11日、寺田の予言は現実のものとなった。





もうじき、東北関東大震災が起きてから、一ヶ月が経つ。2011年4月1日現在、死者と行方不明者を合わせて2万人を超えた。原発事故も起き、政府や東京電力の対応に相次いで非難の声が浴びせられている。

今回の震災と寺田寅彦の発言をどう考えるかは人それぞれであるが、私は「備えるべきものはやはり備えなければならない」と考えている。

「今回の地震に対し、何も備えがなかったのがまずかった」と言ってしまうのは非常に簡単なことである。誰でも言えることだ。しかし、誰でも言えることを誰もが実行できるかと言えば、もちろんそんなことはない。過去に同様の地震が起きていたというのは事実だが、80年も経てば、そういった苦い経験は消えてしまいやすい。「事実」は残るが「経験」は残りづらいのである。

亡くなった命はもう帰ってこない。であるならば、生きている我々にできることは何だろうか。それは、残りづらく消えてしまいやすい「経験」を次の世代に、何としてでも伝えることではないか。

寺田は先のエッセイで、このように続けている。


しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と寒中とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることができれば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりもまず、普通教育で、もっと立ち入った地震津浪の知識を授ける必要がある。(中略)それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では、少なくとも毎年一回ずつ、一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。(p187)


「経験」は経験した人間でない限り、それを持ち続けるというのが難しい。経験していない者にいくら「経験」を伝えても、どこまでそれが伝えられるかは考えモノである。

そこで、その「経験」を「知識」に変えられはしないか、と考えてみる。

「震度」「マグニチュード」などの用語、プレートの位置や運動の仕組みはもちろん、原発や放射能、そこから生じる元素などの知識は、日本に住む以上、必須と言える。寺田の言うように、学校教育の段階で地震(そして原発)に関する最低限の基礎知識は教えた方が良い。

そして最近のニュースを見ていてもそう感じる。

たとえば、セシウムやヨウ素、デシベルといった用語をよく耳にする。テレビや新聞では、そういった言葉の意味を専門家が教えてくれるが、一体どれだけの人が、そういった解説を理解できているのだろうか。少なくとも私は、そのような解説からは、漠然としたイメージしか得られず、聞いていてもなかなかついていけない。

人間、よく知らないものについては考えることができない。それはただただ「信じる」ということにつながる。「風評」はその産物であり、近頃はそのせいで、生活や仕事において不当な扱いを受ける人たちまで出てきてしまった。

こういった現実を見ると、無知がいかに怖いか、私は感じてならない。知らなくてもいいでは済まされない。最初から知っておく必要があるのだ。何か起きてからそれについて知ろう・調べようでは遅いということである。

この、「知っておく」(=知識として自分の中に取り込んでおく)ことについて、作家の森博嗣は著書『自分探しと楽しさについて』の中でこう述べている。


昔の若者は、自分を高めるためのアイテムとして、自分の中に取り入れる情報量を重視した。最も簡単なのは「知識」である。自分が好きなジャンルに関して「物知り」になることで、自分を確立しようとした。

(中略)

僕が観察する範囲では、最近の若者は少し違っている。自分の好きなジャンルにおいても、それほど情報を集めようとはしない。「技」についても、人にきいたり、ネットで調べたりはするものの、鍛錬や試行錯誤によって習得するまでには至らない。

おそらく、彼らの目の前に存在する情報が多すぎるからであろう。人間の歴史において、これほど情報が手軽に取り入れられる時代はなかったわけで、情報を自分の中にわざわざ取り込まなくても、そういうものは外部に存在すればいつでも利用できる。(中略)彼らが問題にするのは、記憶容量ではなく、通信速度なのだ。(p37-38)


彼は、「昔の若者」と「最近の若者」、そして“好きなジャンルに関して”ということを前提に話を進めているが、私はその前提を崩しても、知識や情報に対する考え方や接し方の違いは「昔」と「最近」とでは顕著であると思っている。

すぐに知ることのできる時代というのは、すぐに知ろうとしなくなる時代であり、いずれは「知らなくてもいい」という考えに落ち着く。そして終いには知らないままでいられるようになるのだ。一見矛盾しているようだが、自分を含めた周囲を観察してみればよく分かる。便利になればなるほど、人は何もしなくなるのであり、何かするとなるとそれが面倒臭く感じられ、結果的に不便に感じるというのと似ている。

つまり、何でも知ることのできる時代になったからこそ、無理にでも知っておくよう、気持ちを仕向けた方がいいのだ。地震や津波、原発や放射能、被爆といった情報は政府や東電がテレビやネットを通じて教えてくれるから、という態度ではなく、自分から知りに行く必要がある。

今度の震災は、我々人間に何を教えたであろうか。自然災害の脅威、命の尊さ、ライフライン・生活必需品の大切さ ― それはもちろんのことだ。しかし、そこに加えなければならないものというのが、それが直接は目に見えない形であっても、確かに存在する。そしてそれを後世に伝えることこそ、生き残った人間への使命なのだと思う。