2011/05/25

気持よく議論・討論するコツ

※以下、「朝まで生テレビ!」を見ていて思ったことのメモ。


議論・討論系の番組を見ていると、ときどき喧嘩腰になりながら自分の話をすすめたがる人を目にする。

人間だから、自分とは違う意見は、理解しづらかったり、受け入れづらかったりするのかもしれない。

しかし、だからといって周りに不快な態度を見せながら自分の意見を言い、最悪の場合、他人の声には耳を傾けないというのは、議論・討論という形をとっている以上、あってはならない。

なぜこんなことが起きるのかをちょっと考えてみた。おそらく議論・討論する相手と自分との間に信頼関係を築けていないのが、最大の原因かもしれない。

信頼関係とまでいかなくとも、「この人はどういう人なのか」「どんなことを考えているのか」「何に関心があるのか」など、お互いの情報が足りていないから、結局、話をしていて食い違うと「コイツはよく分からない」→「ムカつく」「ウザい」「不快だ」などという感情が表に出てしまいやすいのだろう。

議論・討論関係の本は書店に色々あるが、こういうのを読んだとしても、「気持ちよく」議論・討論できるかどうかは疑問だ。

「順序立てて説明する」とか「具体的な事例や証拠を挙げながら話す」のが大切だと、その類の本ではよく言われるが、それは人間の論理的な面だけを考慮したものであって、感情の面まで考慮したものではないからだ。人間が感情を持つ以上、いくら「議論・討論に感情を持ち込むな」と言ったところで、それをきちんと実行するのは難しい。

お互い気持よく議論・討論したければ、その前段階として相手とよく打ち解けてから、というのはどうだろう。それも普段から何気ない会話なり、仕事の話なりをして交流を深めるというのが一番いい方法かもしれない。
2011/05/22

「新刊書よりも古典を読め」とすすめてくる人たちへ

「新刊書より古典を読め」という人たちは、この世の中に多くいる。その理由を聞くと、たいてい「昔から大勢の人間に読まれてきて、かつ今日まで残った本が古典だ。それだけ価値のある本だと認められてきた証拠だから」と言う。

それを聞いて思うのが、「じゃあ、あなたにとってはどうなのか?」ということ。他の誰でもない、あなた自身はその古典を読んで何を思い、何を感じ、何を得られたのか?――そういった点が、この手の理由を述べる人たちには抜けているような気がする。

古典は、過去から現在にいたる多くの人の、「これは良書だ!」という総意のかたまりだとわたしは思っている。フェイスブックのように「いいね!」と言った人が多かったから「古典」になったのだろう。

しかし、みんなが「いいね!」と言ったものが、自分にとっても「いいね!」かどうかは別問題である。「エライ人」の言ったことは、いつでも誰にとっても「素晴らしいもの」なのだろうか?

しきりに「新刊書より古典を読め」と言ってくる人たちは、ある種の権威主義者である可能性が高い。こういう人たちにとっての関心事は、実のところ「本に書いてあること」ではなく、単に「誰々が◯◯と言った」という事実だったりする。

歴史上の有名人が言ったことを、「最近の人」が同じように言っても、彼らはさして耳を貸さないだろう。とにかく「誰々が◯◯ということを“最初”に言った」という事実がなによりも重要なのである。

ここから分かるのが、「あることに対して説得力があるかどうか」の決定打というのは、論理的に説明できるとか、具体例が豊富だとか、話が分かりやすいなどというよりも、結局のところ「人そのもの」ということだ。

そこで思うのだが、そういった歴史上の有名な人が「古典なんか読まなくていい。新刊書を読め」と、「古典」とされている著作の中で言った場合、古典を過剰なまでに重んじる一部の現代人はどうするのだろう?

権威主義者なのか、それとも自分の頭できちんと考えられる人なのかの境目は、そこにあるのだと思う。
2011/05/22

自分貢献は、立派な社会貢献

日経ビジネスオンラインで、こんな記事があった。

それでもやはり、「人のためになりたいのに、それができない」と辞める若者や、過剰なまでの社会貢献意識の高まりに、何とも言葉にしがたい危うさを感じすにはいられない。

だって、「誰かのために」という優しい気持ちは、思い通りの反応が得られない瞬間、怒りに変わってしまうことがあるから。

「あなたのために私はこんなにやっているのに、なんであなたは分かってくれないの?」と、いくら尽くしてもつれない態度を取る彼氏に対して不満を抱く女性のようになってしまうとも限らないから(尽くす男性とつれない女性でも構わないが……)。

人のためは自分のため。「誰かのため」とか、「人の役に立たちたい」と働くことは、結局は自分のため。それを忘れてしまうと、それが分かっていないと、本当に人の役に立つことなどできないのではないだろうか。

会社を通じてであろうと、自分の余暇を使ってボランティア活動に専念しようとも、「人のために働く」ことは、「自分のため」ということを忘れてはいけない、と思うのだ。

引用元:「人のため、被災地のため」と思う人が陥る自覚なき勘違い―高まる「社会貢献」熱につきまとう危うさ

最近、東日本大震災が起こってから、わりと人のために役立ちたい、社会貢献したいと思う若者が増えてきているという。(詳細は本文参照)

殊勝な心掛けだと思う。私はさして、「人のために」とか「社会貢献」などとあらたまって考えることはない。基本的に、自分はどうするか、自分はどうしたいか、と自分を中心に据えて考える。(だからといって、それは必ずしも“自己中心的”ということにはならないと思ってはいるが)

これは主体を自分に置くか、他者に置くかの違いだ。前者は自分に期待し、後者は他人に期待する。

ここでひとつ疑問に感じるのが後者である。「他人に何を期待するのか」ということだ。色々あるだろう。「感謝されたい」「自分の存在を認めてほしい」「喜ぶ顔が見たい」などなど。

期待通りに反応が帰ってきたらそれはもちろん嬉しい。しかし、そうなることは、はっきりいって多くない。むしろ少ない場合がほとんどである。

問題はこの時だ。こういう期待通りの反応が帰って来なかった場合、主体を他者に置く人は、挫折しやすいのではないか。

挫折だけで終わり、「こういう時もあるさ」と乗り切れれば問題はない。しかしそうでない場合、ふと「誰のためにやっているんだろう?」という思いを抱くことは間違いないだろう。

自分はどうするのか、どうしたいのか。そのことを常に考えておいたほうがいいと思う。これを軸にしていれば、他人から認められなくても、「自分はこうしたかったのだから」と思って乗りきれる。

「他者になにかしてあげなければ貢献とは呼べない」と考えるのはいかがなものか。貢献というのは、なにかを高めること、プラスの状態にもっていくことである。自分で自分に貢献する人は、いずれ社会にも貢献することになる。これはいたるところで見られるので、嘘だと思う人はよく観察してみてほしい。社会貢献というのは“自分貢献”でもある。
2011/05/14

「考える」ということ ― 『長谷川如是閑評論集』


長谷川如是閑評論集 (岩波文庫)長谷川如是閑評論集 (岩波文庫)
(1989/06/16)
長谷川 如是閑

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長谷川如是閑(はせがわにょぜかん 1875-1969)は大正・昭和期に活躍したジャーナリストだ。

私が彼を知ったのは、大学受験生の時だった。大学の過去問を解いていて、問題の選択肢に彼の名があった。妙にこの名前が頭に残った。以来この名を目にしては反応してしまう。で、先日、書店の岩波文庫のコーナーでふと目にとまり、手にとってみたという次第だ。

ジャーナリストであったためか、文章は非常に読みやすい。戦前の文章にありがちな読みづらさがない。もちろん、中身も面白い。

その中に、「大学生の軍事研究」(1923年)という章があるので、いつものごとく抜粋しておく。


元来普通教育においてすら今日の日本のように軍国的教練を課し、少年をして軍国的精神を以て武器を取り扱わしめるが如きは、決して今日の国家的精神を得たものとは言われないのである。なるほど、英人の如きは大抵の者は銃器の扱い位は心得ており、馬匹の扱い等も日本人の比ではないが、しかしその鉄砲なり馬なりを扱う精神は、日本の教育におけるような軍国的精神ではない。全く遊戯または職業としてである。

(中略)

畢竟、彼らは日本人が軍国的に受けている教養を、日常事として受けて来たのである。規律は日本人に取っては軍隊的のものであるが、西洋人にとっては市民的なものなのである。武器も日本人にとっては軍国的兇器であるが、西洋人にとってはスポーツの器具である。日本人は軍国精神でその教養を受けたため、銃器や規律的行動を日常生活から引き離して、他所行きの軍国的生活と考うることとなり、その結果、今日のように軍国主義排斥の時代が来ると、銃器や規律そのものを嫌悪することになるのである。(p237-238)


「教育」として受けるか、「日常ごと」として受けるかで、こんなにも行動が違ってくるという話だ。

「教育」というのは、何かを一方的に伝達する、という性質が強い。そこでは、必ずしも「考える」ことを要さない。親がこうしなさいと言ったから、先生がああしなさいと言ったから、という理由だけで、事足りる面がある。一方、「日常ごと」であれば、物事に対して「なぜ〇〇なのか」「どういう仕組みになっているのか」などと考える(特に意識することはないだろうが)機会が多い。

どちら方が重視されるべきだろうか。どちらも大事だと思う。時には明確な理由を告げずとも、指示に対して動かなければならないこともある。また別の時には、自分で考えて動かなければならないこともある。

一番の問題は、何も考えなくなることだ。マニュアル化というのは、その意味において害悪である。

考えるという動作は、ものすごくコストがかかる。もちろん、金銭的な意味で、ということではない。体力の面で、時間の面で、そして心理的負担という面で、という意味である。

近頃は、そういったコストをかけることに重きを置かれなくなっている気がする。学校の授業や入試において、その傾向は特に強いのではないだろうか。これは、昨今の教育方針で挙げられている「授業時間を増やす」「学習内容を以前よりも広げる」などといった措置で解消できるものではない。要は、「考える」ということ、そしてそれに対し「コストをかける」ということ、この二つを根本的に見直さなければならない。当然、子どもにもそれを(彼らにわかる形で)伝えないといけない。それが、今の「教育」の最もすべきことである。

2011/05/04

「仕事」と「趣味」と「好きなこと」の違い ― 『無趣味のすすめ』


無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)
(2011/04/12)
村上 龍

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現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。つまりそれらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。(『無趣味のすすめ』p8)

「趣味探し」に奔走していた近頃の自分を振り返ってみた。「趣味を満喫して充実感を」なんて、所詮たかが知れている。趣味を満喫している、まさにその時は楽しいかもしれない。

しかし、あとになって振り返っても、その時の余韻に浸れるような、そんな「楽しさ」は存在しない。それは、趣味という箱庭の中で生まれる楽しさだからだ。普通はそこに、大変なまでのエネルギーや時間といったコストを費やすことはないし、できるはずもない。費やせばそれはもはや「仕事」だろう。やってみてつまらなかったら、すぐにでも撤退できる。

よく、「趣味がないと人生はつまらない」などと言う人がいる。だが、つまらない原因は趣味がないからではない。楽しさがないからである。そして、楽しさをつくる「手段のひとつ」が、「趣味」なだけの話だ。

楽しさはどこにでもあるし、どこにでもつくれる。人と会話するのは楽しい。どんな服を着ていくのかを考えるのも楽しい。旅行やショッピングという目的がなくとも、どこか別の場所へ移動するのも楽しい。仕事で何かうまくいくのも楽しい。趣味を満喫するのも楽しい。他にも色々な「楽しい」があるだろう。

では、趣味とはなにか。私は、「いつも安定して楽しさをつくることができ、且つある程度のペースで続けていること」だと考えている。つまり、いつ、いかなる時にやっても、(それが高い確率で)楽しい(と思える)ものであり、そこそこのペースで続けているのが「趣味」である。

こう定義してみると、あながち自分が楽しいと思えることは、なんでもかんでも「趣味」とは呼べなくなる。「趣味」という一つの枠に入るのに、少し厳しい「審査基準」があり、その「審査」に合格しないと、それは「趣味」と呼べない、といった感じだろうか。

私の好きなことを挙げてみよう。スポーツならビリヤード、卓球、テニス。ゲームなら将棋、ソリティア。料理や散歩もそこそこ好きである。しかし、これはあくまでも「好きなこと」であり「趣味」ではない。一時期ハマってすぐに終わり、また一時期ハマってすぐに終わりと断続的であり(断続的ですらないものもあるが)、ある程度の継続性がないからだ。

おいしいものを食べるのも好きだ。しかし、これは「趣味」だろうか。食べること自体、生きていく上で必要不可欠である。飲み物を飲むのも同じだ。そうするとこれは、「趣味」というよりも一種の「生理現象」ではないか ― こんなふうに思考を飛躍させるのも楽しい。それこそ、私の「趣味」と言えるかもしれない。

さて、中には、堂々と人に言えないものを趣味としている人もいる。怪しいもの、きわどいもの、色々ある。だが、先の定義に合うなら、それは立派(?)な趣味と言える。ただそれが公に言えないというだけの話だ。

趣味を言うと、時々「変だ」とか「ダサい」「暗い」などと言う人がいる。これは、その趣味自体を否定しているのではない。それを満喫しているその人の姿や性格、雰囲気について言っているのだと思う。

「こんなことを言われたくない。どうしたらいいですか?」という質問をされたら、私はこう答えるだろう。「趣味を変えてもあまり意味はないだろうね。そもそも趣味そのものには、他人に迷惑をかけない限り、何の落ち度も罪もない。だから、君自身が変わってみたらどうだろう」

では、自分自身を変えるためにはどうしたら良いか。それこそ村上龍の言う、「仕事」をすることではないだろうか。

本当の達成感や充実感は、自分が変わった時にのみ得られるのかもしれない。