2011/09/10

いますぐ書いた! ― 『いますぐ書け、の文章法』


いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書 920)いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書 920)
(2011/09/05)
堀井 憲一郎

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タイトルが「いますぐ書け」なので、いますぐ感想を書いてみる。

読んでいて納得できる部分が多かった。いままで読んだ文章読本の中で一番だ。

文章を書くとは、即興そのもの。

「どんなことを書いて、ここでこういう具体例を出して、それで文体はこういう風なのがいいかな」などと事前に頭で考えていては、文章など書けない。そういう堀井さんの主張、じつは私も過去に同じことを感じてきた。

何について書くか、ひとつだけポンと決めればいい。あとはただ書くだけ。そのとき、そのとき、思いついたことを文字にしていく。その方が勢いが生まれるし、何よりも書く行為そのものが楽しくなってくる。

私も本の感想を書くとき、自分の中で「今日はうまく書けたな」と感じるときと、「ダメだ、なんかもう全然イケてない」と感じるときがある。前者のときを振り返ってみると、頭の中で思いつくがままにキーボードを叩いていたと思う。

もちろん、書く前に漠然と、これについて取り上げようと考えてはいた。が、どんなふうにとか、構成はこんな感じで、というのはいっさい頭の中になかった。とにかく指が動く。ワァーっと勢いよく飛び出す感じだ。

かたや、うまくいかなかった時は、指の動きが滞っていた。ウンウン唸って考えた割には、たいして満足のいかない文章になっていたと思う。いくら時間をかけてもやっぱりダメなものはダメだった。

「文章は暴走する」

オビに大きく、こう書いてある。うまく書けたときは、本当にその通りだ。ウソではない。

そう思うと、文章を書くとは、ジャズを演奏するのに似ているではないか。

何について書くか、何を演奏するかは、あらかじめ決まっている。だが、それはかなりおおざっぱなものである。「こことここを取り上げよう」と決めてしまえば、あとは全部、そのときのなりゆき。即興で組み立てるのだ。

それがなによりもおもしろい。流れに身をまかせ、その場その場で、できていくものを楽しめる。

私は文章を書くのも、ものづくりのひとつ、工作の内だと考えているが、一般的に「ものづくり」「工作」という言葉からイメージされるのは、最初から設計図があり、それに従って作り上げていくというものではないだろうか。

しかし、執筆はその中でも、設計図を必要としない(むしろあったら邪魔だ)特異な存在である。そのとき頭に浮かんだことを文字にする方が、「作品」として成立しやすいという特徴があるのかもしれない。

だから、「いますぐ書け」なのだ。だから、私はいますぐ書いた。いますぐ書かないと、いますぐ忘れそうだから。(ちなみに今この文章を書いているのは、深夜1時過ぎである)

最後に一言。

すぐ書くアホウにあぐねるアホウ、おなじアホウなら、書かなきゃ損損。
(べつにアホウじゃないけどね)
2011/09/09

どん臭く、愚直で、しかし美しい生き様 ― 『日の名残り』


日の名残り (ハヤカワepi文庫)日の名残り (ハヤカワepi文庫)
(2001/05)
カズオ イシグロ

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日の名残り コレクターズ・エディション [DVD]日の名残り コレクターズ・エディション [DVD]
(2009/11/04)
アンソニー・ホプキンズ、エマ・トンプソン 他

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これは、ただひたすら、「執事」という仕事に励む男の話である。「愚直に」と言い換えても差しつかえない。どこまでも、どこまでも、主人のために尽くし、主人のために働くのが、この物語の主人公なのだ。

舞台は第二次大戦前の「過去」と、第二次大戦後(1950年代)の「現在」である。執事のスティーブンは戦前、主人であるダーリントン卿に仕えていた。ダーリントン卿は、第一次大戦によって荒廃したドイツを救うため、英仏両政府に寛大な処置を求めていた。

しかし、それが第二次大戦後に仇となり、「ナチス・ドイツの支持者」という心にもない汚名を着せられてしまう。卿は失意の内に亡くなり、彼の屋敷は戦後、米国人ルイスによって引き継がれる。

スティーブンの中には葛藤があった。世間で非難されている元主人に、かつて仕えていた自分にも非があるのか。卿に対して心から仕えていた過去を、「今」は隠すべきなのか。時代は変わり、人々の思想も大きく変わった今日、自らの生き方も変えるべきなのか、と。

結局、スティーブンはそのままルイスに仕えた。かつて国際会議で、ダーリントン卿を批判した男だったが、新しい主人が誰であろうと、そして彼の思想信条が卿と違えども、スティーブンは「執事」という仕事を続けた。

非常に美しい生き方だと思う。主人が、世間が、時代がどうであれ、自分は執事である。人に仕えるのが仕事であり、それをまっとうするのがみずからの役目だ ― 彼の言動一つひとつから、目に見えないそのメッセージが、私には読み取れた。

こういうものを美学と呼ぶのだろう。哲学と言ってもいい。しかし一方で、そういう生き方がどん臭かったり、不器用だったり、バカ正直のようにも見えなくない。損な感じもする。では、そういう人は不幸かといえば、そんなことはない。

人間は、自分の「つとめ」を果たせた時が、一番「幸せ」を感じられると私は思っている。「幸せ」を、「充実感」や「達成感」、「やりがい」などと言い換えてもいい。

「つとめ」といっても、仕事や義務的なものだけに限らない。なにかひとつ頑張っているものがあれば、それはその人にとっての「つとめ」である。「つとめ」を果たすまでの過程が他人から泥臭く見えても、それを果たせた時の幸せが得られれば、ベストである。

スティーブンはダーリントン卿に仕えるという、ひとつの「つとめ」をまっとうした。しかし、世間はそれを良く思わない。だが、彼は「幸せ」を(それが大きいか小さいかは関係なく)つかんだはずだ。たとえ世間の価値観と自分の価値観の相違に悩むということがあっても、である。

2011/09/05

「動物」という名の無知 ― 『動物農場』


動物農場 (角川文庫)動物農場 (角川文庫)
(1995/05)
ジョージ・オーウェル、George Orwell 他

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2011年度の角川ブックフェアに本書が選ばれていたので、ちょっと取り上げてみたりする。





この本は「革命によって権力を独り占めする者が追放されても、また新たな形で権力者や独裁者というのは現れる」というメッセージをその根幹に添えようとしているわけだが、このことは、ジョージ・オーウェルが風刺しようとしたロシア革命だけに当てはまるものではない。

ロシア革命以前からこういった形態は歴史上繰り返されてきたわけだし、革命などというおおげさなものを取り上げなくとも、自分の幼少時代におそらく一人ぐらいはいたであろうガキ大将とその周辺にいる子供たちという構図の中にでも、こういった「権力がある者から別の者へと移りゆく様子」を見てとることができると思う。その点については、私自身あまり感じるものはない。

それよりもずっと恐怖に感じたのが、支配される側にいる大勢の動物たち(これは市民を暗に表現している)の無知や無教養だ。ある程度の学がなければ(本当は「ある程度」以上にあった方が良いとは思うが)、自分たちは上の人間たちによって、都合のいいように動かされていることに気がつかない。

「いや、そんなことはない。そんなことがあれば、学がなくたってすぐに気がつくさ」と言う人もいるかもしれない。だが、上の人間たちはもちろん、そういった「気づかれるかもしれない」ことにもちゃんと考慮している。その「気づき」を未然に防ぐのが、本書に出てくるスクィーラーのような悪賢い宣伝係だ。

私にとっては、支配者であるナポレオンよりも、むしろスクィーラーのような存在の方がずっと厄介に感じる。言葉が巧みで、大勢の心を同じ方向へともって行き、相手を不利な状態へと追いやっても不利だとは感じさせない。そんなやり口に対しては支配される以上に悔しい。支配には武力でもって無理やり抑えこまれてしまうことがあるが、プロパガンダによって自分を洗脳されるのは、学があれば守ることが可能だからだ。

いや、プロパガンダなどという大きな構図で考えなくても、日常生活で起こる詐欺行為のレベルに対しても同じだ。『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』という本の中で、立花隆はこう述べている。

立花 人間のダークサイドに関する情報が、現代の教養教育に決定的に欠けていますね。この社会には、人を脅したり、騙したりするテクニックが沢山ある。それは年々発達しているから、警戒感をもって、自己防衛しないと、簡単に餌食になってしまう。虚偽とは何か、詭弁とは何かについて学んでおくべきですね。(中略)大学の教養課程でも、「暗黒社会論」、「悪の現象学」的なコースを設けるべき。悪徳政治家、悪徳企業のウソを見破る技法、メディアに騙されない技法を教えることが現代の教養には欠かせません。(p168-169)

「悪」に対抗するには、あらかじめ「悪」を知っておく必要がある。そうでなければ、無知や無教養であることは、騙されることを自ら迎合することに等しい。

怖いのは、個人のレベルで無学なことよりも、一般市民の半数以上が無学であること、そしてその点に本人たちが気づかないことだ。

それを防ぐためにも、ジョージ・オーウェルがこういった「物語」という形式で、このことを暗に伝えようとしたのは、ある意味で非常に賢くうまい手段だったのではないかと私は思う。なぜならば、「意見文」という形にして彼自身の考えを伝えようとするよりも、「物語」という形にした方が、一般大衆はずっと受け入れやすいし、具体的な固有名詞を持ち出さないため、政治的なトラブルにも巻き込まれづらくなる。そして何よりも、オーウェルその人が作家であり、「物語」という形で表現することが「作家」としての存在意義も同時に示せているからだ。
2011/09/04

見る側の論理と作る側の論理の不一致 ― 『メディア・リテラシー』


メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)
(2000/08/18)
菅谷 明子

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2000年代後半から、インターネット上において動画サイトが非常に充実してきた。そのブームの火付け役ともいえる「YouTube」は、世界各国から毎日大量の動画がアップロードされている。そういったサイトが豊富になるにつれ、手軽に動画作成をおこなえるソフトも昔と比べて大幅に増えた。

実は私もかつて、動画サイト「ニコニコ動画」に自分の作った動画をアップロードしたことがある。実際に「動画」というものを作ったわけだが、そのとき感じたのは、なんと言っても「作ることの難しさ」だった。自分で作った物語を動画化しようと思い、物語の進行からキャラクターの設定や配置、セリフ、そして演出方法などを考え、それを数枚の紙に台本としてまとめた。

それを今度は「映像」というメディアに変換するのだが、そのさい色々なトラブルが生まれた。ソフトの使い方や機能が分からないなどの問題は、かならず起こるだろうと予測していたが、予定の再生時間内に物語全部のシーンがのせられないという予想外の問題が生まれ、どのシーンは必要で、どのシーンは削るかなども考えなければならなくなった。

その場その場でなんとか解決し、なんとか動画が完成したのでさっそくアップロードしたが、今度は絵や文字が見づらいという事態が発生した。とりあえず、すでに多数の作品を載せているほかのユーザーのものと比べてみたが、自分の作った動画がいかに貧弱なものか、作れた楽しさがあった反面、むなしさや悲しさもあった。

しかし、「映像を作るとはどういうことか」が少しでも分かったのは幸いだったと思う。「テレビ番組などの製作過程もこれに近いのかもしれない」という推測もある程度は立てられた。テレビ番組は時間にきちんとした制約があるため、必要なもの、不必要なものというくくりを明確にしないといけない。だが、そのくくりは場合によって、視聴者の印象や感情を大きく左右させてしまう。

本書に出てくるメディア教育は、メディアについて習う生徒たちに、この点を強く認識させようとしている。それも言葉によってではなく、実際に映像を作らせることによってだ。個人的には非常に良いことだと思う。実際に作る側に回ってみれば、制作側が何を意図して番組をつくろうとしているのかを推測しやすくなるからだ。

また、テレビで放映されたものすべてが事実ではないということにも気づきやすくなる。とくにドキュメンタリーやニュース番組を見る際、このことを意識しているかいなかは、かなり重要になってくるだろう。人になにかを伝えるとき、素材そのものや、その素材のどこを使うか、どのように選び組み立てるかなど、そういった制作サイドの裏側や仕組み、時にはその放送局の思想信条が番組の内容に大きくかかわってくるということを、前もって知っておく必要がある。

私がブログでやっている本の紹介も、構図としては映像制作と同じだ。本の紹介といっても本の内容全部を紹介するわけではないし、実際のところ不可能である。結局は読んだ人にとって印象深かったところを紹介するというのがほとんどだ。そのため、べつの人が同じ本を読んだからといってそれが同じように印象深いというのは、おそらくそれほど多くない。「紹介文を読んでおもしろそうと思ったから、買って読んではみたものの、そんなにおもしろくなかった」ということはだれしも一度はあるだろう。事実と、事実から一部分を切り取って編集したものは大きく違うという好例である。

あるものを「批判的に見る」とは、内容そのものだけでなく、作っているのは誰なのか、どういう過程を経て作られたのかなども含めて見る(または想像する)ことだ。今後ますます加速していくであろう情報社会において、こういったものの見方を養っていくのは当然といえるだろう。