2011/12/28

毎日が「学園祭」でないと、つづかない ― 『カーニヴァル化する社会』


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)
(2005/05/19)
鈴木 謙介

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「カーニヴァル化」とは、もともと社会学の用語らしい。だが、もっとイメージしやすい言葉に置き換えるなら「学園祭化」がいいと思う。

しかしながら、バウマンも指摘するとおり、蓄積や一貫性を維持することが困難な後期近代においては、共同体への感情は、アドホックな、個人的な選択の帰結から生じるもの以外ではあり得なくなる。そうした点を踏まえて彼が考えるのは、いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことではなく、共同性――〈繋がりうること〉の証左を見出すこと――をフックにした、瞬発的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属の源泉へとなっているのである。
 このような瞬発的な盛り上がりこそが、ここでいう「カーニヴァル」にあたる。(同書 p138)

学園祭の楽しさは、学園祭当日しかり、そのための準備段階にもある。その時かぎりで集まり、その時かぎりの一体感と楽しさを味わう(「共同性」に浸る)ことで、他者との繋がりを確認する――「カーニヴァル」は、こういった刹那的な快楽と、何かに対する帰属感の得られる場なのだ。

その具体的な事例として、著者は2ちゃんねるにおける「祭り」などを挙げている。目には見えない大勢の者が一つのスレッドに集まり(つまり「共同体」ではなく「共同性」が形成され)、ある特定の「イベント」に対して盛り上がるのである。しかし、「イベント」の中身そのものにはそれほど重きが置かれない、というのが特異な点だ。あくまでも「イベント」は、自分たち大勢を盛り上げ、他者とのつながりを実感させ、ひいては共同性への帰属感を持たせてくれるための道具に過ぎないのである。

こうした「カーニヴァル」を支えるのが、「データベース」への問い合わせ(没入)である。ここでいう「データベース」とは、電子情報で構築された世界(たとえばネット上の掲示板、ケータイメール、オンラインゲーム、SNSなど)と考えてよい。この二つの「共犯関係」こそ、著者の指摘する「カーニヴァル化」だ。

問題は、多くの人間(特に若者)が、この「カーニヴァル」という「幻想」から「現実」という名の外へ出るのが、困難になってきている点である。なぜなら、「データベース」へ何度も何度も問い合わせることで、自己の存在(他者とのつながり)と、自己の幸せを確認することに終始してしまい、結果として、「現実」の視点から見た「カーニヴァル」の中にいる自分を振り返る/客観視することができなくなるからだ。

簡単に「夢」の中へ入れる一方で、簡単にそこから抜け出すこともできない世の中――人類の歴史を振り返ってみたとき、ここまでヴァーチャルな世界に浸ることのできた時代はいままで存在しなかった。これは、小説を読んでその世界に夢中になる、などというレベルの話ではない。小説を読む行為は基本的に1Pのみだが、電子情報によって体系化された世界(特にネット)では、そこへの参加者数に制限はない。プレイヤーが現実世界と同じ「人間」である以上、そこで起きるイベントやコミュニティーもやはり「人間的」にならざるを得ない。だとすれば、現実と同じだけの「リアリティー」を感じても無理はないかもしれない。

ただ、である。夢を見続けるには、また特殊な才能が必要である。普通の人には、必ずその夢から覚める時が来る。
(森博嗣『自分探しと楽しさについて』 p45)

忘れてはいけない。それはあくまでも、限りなく現実に近いフィクションなのだ、ということを。
2011/12/26

映画『ザ・コーヴ』に見られるオリエンタリズム


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(2011/02/25)
ルイ・シホヨス、リチャード・オバリー 他

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映画館上映から一年以上経っているにもかかわらず、いまさら取り上げるのもナンセンスだとは思うが、今日鑑賞してみて気になった点があったので、そのことを少々。


この映画で挙げている問題点は以下のとおり。

①:人間よりも知性のある(と考えられている)イルカを、和歌山の大地町にいる漁師たちが食用として乱獲している。(これが主題)

②:イルカには多量の水銀が含まれており、食べるのはかなり危険であるが、多くの日本人はこのことを知らない。

③:イルカの殺し方が極めて残酷であり野蛮である。


ただこの映画は、途中で①から②へと、制作者側の主題が大きくすり替わっている。つまり、彼らの本当の目的は①を阻止するためであるが、後半から②へ方向性をシフトすることで、あたかも「我々は“日本人のためを思って”こういった反イルカ捕獲活動をやっているのだ」といった形にうまく仕立て上げている。そして観客に自分たちの「善意」を伝えたところで、今度は③に主題が切り替わり、イルカの大量虐殺という「むごたらしい」映像を流してこの映画は終わる。


で、イルカを食用とすることやその殺し方が、生命倫理に抵触するのかどうかについてはさておき、ここに故エドワード・サイードの指摘する「オリエンタリズム」が垣間見られるのではないか、というのが個人的な感想だ。つまり、「理性ある西欧人」から見た「非論理的で野蛮な東洋人(日本人)」という構図が、この映画のフレームになっているのである。


彼らが世界的に反イルカ捕獲活動を展開しているのであれば、あえて日本にだけその焦点を当てるのはおかしな話だ。実際、日本以外にもイルカを捕まえている国はいくらでもある。映画の前半では、日本以外の国のイルカ捕獲事情も取り上げられているが、それはほんのわずか。残りはすべて日本にのみ話題が集中している。


人間は生きるために他の生き物を殺して栄養をとるわけだが、殊にイルカに関してはその知性の高さを主な根拠に、食用とすることを彼らは認めない。しかし、この映画ではその認めない理由を、イルカの知性の高さよりも、ほとんど②や③とすることで、見る者の感情に訴えようとする。その背後には、日本人(東洋人)の「無知」(大方の日本人が、イルカに水銀が含まれていることや、そもそも日本でイルカが食用にされているのを知らないという事実)や「残虐性」(イルカを船で網の角まで追い込み、入江を文字通り血の海にして殺す漁師たちの姿)を描くことだけに終始している感が否めない。


そんな「未開人」である日本人たちを「啓蒙」し、「道徳心ある善良な国民」にすべく、我々はこのような反イルカ捕獲活動を続けているのだ――こうした、一見もっともそうな大義名分をこの作品に託し、自分たちの論理(それ故、立入禁止の場所に勝手に入ることも、そこでの現状を隠し撮りすることも許されるという考え)を全面に出しておきながら、日本側の論理は否定するという姿勢も見受けられる。


さらに、大地町における捕鯨活動(イルカも鯨の内に含まれる)には古くからの歴史があるのだが、彼らが「日本人の多くが知らないものを伝統文化と呼ぶのは間違いだ」としている点も、結局のところ、「何をもって“伝統文化”とするかどうかの基準は、我々西欧人にある」というオリエンタリズム的なメッセージに他ならないのではないか。


ちなみにこの記事によると、イルカ漁に反対する学生の数が、この映画を見る前と比べて4倍に増えたと報じているが、それは「日本人による日本人へのオリエンタリズムが形成された」という視点で見れば、制作者側にとってこれ以上の喜びはないだろう。



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