2012/01/24

文学部の存在意義(大学で学ぶことの意義)

グーグルで「文学部 存在意義」と入力すると、検索候補にその組み合わせが出てくる。これが「法学部 存在意義」や「経済学部 存在意義」と入力しても、検索候補は出てこない。

悪く言えば、「文学部に、社会的価値などないのではないか」という暗示である。良く言えば、他学部よりも興味が持たれやすいのかもしれない。

なぜかは分からないが、この手の「存在意義論」は、必ずと言っていいほど「大学で学ぶもの=社会で役に立た“なければならない”もの」という前提から始まる。そのため、おそらく、その前提に達していないであろう(とされている)文学部は、「存在意義なし」の烙印が押されてしまうのだろう。そうだとすれば、ある意味、仕方がないかもしれない。

だが、前提がそもそも間違ってはいないだろうか。なぜ、「大学で学ぶもの=社会で役に立た“なければならない”もの」から始まるのか。

学問とは、物事の「しくみ」を探ることだ。法学部なら、憲法や法律の「しくみ」を探る。経済学部なら、経済の「しくみ」を探る。ざっくり言えば、こうなるだろう。

文学部は、人間と言葉の「しくみ」を探る場所である。どのように探るかと言えば、それは書籍(文学作品や思想書など)や、その他の言語テクスト媒体(映像や広告などに表れる言葉)を通して探るのだ。そして、あくまでも「探る」ことが大切なのであって、必ずしも「真実」を発見することだけが重要なのではない。

法律であれ、経済であれ、人文学であれ、「しくみ」を探ること自体、それが直接的に社会で役立つことはない。もし役立たせたければ、「探る」のではなく、「使う」べきである。「どういうしくみになっているのか?」を調べ続けるよりも、現時点で正しいとされる、既に判明した「しくみ」を使って、金を稼げば良い。そのもっとも手軽な方法の1つが、「本を書いて売ること」である。

基本的に、大学は後者(「使う」こと)について、あまり興味がない。あるのは前者(「探る」こと)である。もしも金を稼ぐことに興味があるのなら、大学など今すぐ辞めて、その「しくみ」を元手に商売を始めるべきだろう。

とはいっても、実は「しくみ」を探ることも、間接的には社会で大いに役立つ。それは大学の先生だけに当てはまる話ではない。社会人全員にあてはまる話である。

より正確に言うと、しくみの「探り方」(方法)が役立つ、ということだ。仕事上で何か問題が発生した時、その原因は何か、解決の糸口は何かを分析する際、大学で学んだ「探り方」(調査方法や思考方法)は大いに役立つだろう。

大学時代にどの学部にいたかは、あまり重要ではないと思う。大切なのはしくみの「探り方」(「探る」対象は何でも良い)を学んだかどうかではないだろうか。




追記:人文学(英:Humanities)を大学で専攻する意義については、海外でも疑問を持つ人がいる。以下、それに関する面白い記事を挙げておく(リンク先は英語)。

What Can I Do With A Humanities Degree?
The Value of a Humanities Degree: Six Students' Views
“humanities value”での検索結果(グーグル)
2012/01/15

真面目な哲学者、松本人志 ― 『「松本」の「遺書」』

「松本」の「遺書」 (朝日文庫)「松本」の「遺書」 (朝日文庫)
(1997/07)
松本 人志

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かねてから、松本人志はお笑い芸人というよりも、「真面目」な「哲学者」だと思っていたが、本書を読んでますますそのことを確信した。

わたしの考える「真面目」とは、いわゆる「学校型優等生」のことではない。課題を期日までにきちんと仕上げる人とか、几帳面に物事をこなす人のことでもない。こういう人たちは、「真面目」なのではなく、規律的なのである。

では「真面目」とはなにか?

それは、「意識的にでないと、思考をストップさせることができない人」のことだ。

彼らは、永久機関のようにひたすら頭を動かし続ける。自他問わず、だれかが「もうこのことを考えるのはやめよう」などと唱えない限り、頭の中でひたすら走り続ける。

走り続ければ続けるほど、次第に「ひとり」になっていく。一緒になって、どこまでもついていこうとする人が減っていくからだ。

「おもしろいやつの三大条件 ネクラ・貧乏・女好き」の章で、松本は語る。

意外に思われるかもしれないが、おもしろい奴というのは自分一人の世界を持っており、実はネクラな奴が多い。(中略)何にしても、おもしろい奴というのはどこか覚めている奴なのだ。(p53)

なぜ「おもしろい奴」は、「自分一人の世界を持って」いるのだろうか?

日本語の「おもしろい」には大きく分けてふたつの意味がある。「面白おかしい」(funny)と、「興味深い」(interesting)だ。

思うに、松本の言う「おもしろい奴」というのは後者の方ではないだろうか。

「自分一人の世界」を持つとは、周りにいる多くの他人と違う「なにか」を持っているということである。それはほとんどの場合、明確に他者と差別化できる、自分の考えや視座だ。

言い換えれば、それは「哲学」である。冒頭でわたしが松本のことを、「哲学者」と表現したのはそういう意味からだ。

真面目哲学者・松本は言う。

最終的に隠さないといけない物があったり、守るものがあるというのは、何にせよ、説得力に欠けるのではないだろうか(ヅラをつけている政治家にも同じことが言える)。
少し話がズレるかもしれないが、「朝まで生テレビ」を見ていて、女のコメンテーターがいくらいいことを言っていても、イヤリングやブローチ、化粧をしていると、なんか覚めてしまうのはオレだけなのだろうか?エラッそうなことを言ったところで、しょせん、男を意識しとるがなと思ってしまうのだ。(p78-79)

この言い分には、なぜか妙に納得してしまった。松本の考えでは、自分をぜんぶ「見せられる」ヤツが、人を「魅せられる」ヤツなのだろう。これとまったく同じとは言わない(言えない)が、文章(書評)を書くとき、「自分のこと」を出すと、人から「おもしろい」と感じてもらえやすくなる原理と似ている気がする。

それにしても、松本が「朝まで生テレビ」を見ていたのには驚いた。お笑いとはまったく縁もゆかりもなさそうな番組なだけに、そういうオカタイもの(そしてそこに出ている人)も視聴/観察している点は、「真面目」というよりも「マジメ」なのかしれない。

仕事ができる人は、たくさんの情報に触れてますよ。結局仕事でどうやって差をつけるかといったら、教養。ここを面倒くさがらないほうがいいですね。
(別冊宝島『脳力200%活用!「究極」の勉強法』 石田衣良 p118)

読みながら、この記述を思い出した。松本が落語などの古典的なお笑いなどにも精通しているのは知っていたが、もちろん、それだけで終わる人間ではない。彼はやはり、「たくさんの情報」に触れているのだ。それは「教養の深さ」と言い換えることもできるだろう。本書を読めば、松本の教養がどれほど深いものなのかすぐわかる。

真面目哲学者・人志松本の思考を知ることができる、極上のエッセイである。


2012/01/11

「客観的であること」の呪縛 ― 『新書がベスト』

新書がベスト (ベスト新書)新書がベスト (ベスト新書)
(2010/06/09)
小飼 弾

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読書にはふたつの醍醐味があると思う。

ひとつは、知らなかったことを知る楽しみ。
そしてもうひとつは、「アタリくじ」を引いたときの喜びだ。

書籍における「アタリくじ」とは、「自分にとって印象に残った本」のことである。それは、自分を驚かせてくれるもの、笑わせてくれるもの、考えさせてくれるもの、また時には、不快にさせるものだ。

本書の著者である小飼さんは、「独断と偏見」こそ、そういった「印象」を人の頭に刻ませる要素なのだと指摘する。

ひとりの著者が、独断と偏見による考えを披露するのが本です。両論併記の中庸な意見より、いろいろな立場からの独断と偏見をいくつも取り入れた方が、はるかに情報としての意味があるのです。これは、スゴ本とダメ本の差でもあります。(p18)

最近、ここの記述を読んでは、つくづく「ホントにそのとおりだよなあ」と実感している。

以前、わたしはこんなことを書いた。

つまり、なにかを語るのならもっと身近に語った方が良いということである。
(『読んでもらえる、おもしろい書評の書き方』)

自分で自分の書いた文章を引用するなんて、なんだか気取った感じもするが、ここで言いたかった「身近」というのは、つまるところ、「“自分のこと”をもっと語ろう」ということだ。

“自分のこと”とは、自分の周りで起きたことや、ちょっとした事件、つまり「自分の体験」だけではなく、「それについて自分はどう思う/考えるのか?」という「自分の意見」でもある。小飼さんが「ダメ本」としているものは、こういった「自分の意見」を書いていない本のことなのだ。

ひたすら「客観的であること」にこだわり、データや事例といった「事実」はたくさん書かれているけれど、その「事実」に対して「自分はこう思う/考える」という意見を書かれていない本はよく見受けられる。

とくに一般向けの科学書などは、その最たる例だ(すべての科学書がそうだ、と言っているのではないので念のため)。これは以前、『科学コミュニケーション』という本を書評したときにも、そのことを指摘した。



思うに、「客観的であること」というのは、だいたいの場合において、「一般論」になりやすい傾向がある。

「客観的」とは、「あるものA」(それが具体的なものか、抽象的なものかは問わない)を見たとき、ほとんど誰もが、それを「あるものA」と呼ぶ状況のことである。

だが、そこに「人を変えるなにか」はない。ここでいう「人を変えるなにか」とは、「その人の見方・考え方・感じ方を変える要素」という意味だが、「客観的であること」には、ほとんどの場合、そういった「人を変える要素」はない。

誤解されないために言っておくが、わたしは「客観的であること」や「事実とされているもの」を伝えようとすることがダメだ、と言いたいのではない。むしろ歓迎すべきことである(その姿勢が科学を支えているわけだから)。

だが、“ひとりの著者として”一冊の本を書こうとする時、そこにはおのずと「自分の意見を伝えようとする意志」(=人を変えようとする意志)も入るはずではないか(そもそも、ひとりの人がなにかについて語るとき、われわれは、その人の“レンズ”を通してなにかを知ることになるから、厳密にいうと“完全なまでに客観的である”という状態はない)。その「入るはずのもの」が「入っていないこと」に、わたしは疑問を感じてしまう。

早い話、いつもいつも「客観的であること」にこだわるな、ということである。むしろ、本というメディアは(もっというと本に限らず、意見文や感想文といったものすべては)、ほとんどの場合「主観的であること」に価値が置かれている。それこそが小飼さんのいう「独断と偏見」なのだ。
2012/01/08

「砂漠肌」も「メロンパン」も、みんなメタファー ― 『レトリックと人生』

レトリックと人生レトリックと人生
(1986/02)
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン 他

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メタファー(隠喩)というと、「詩や小説といった文学作品の中だけにある表現技法だ」と思うかもしれない。

しかし、実は日常生活においても、メタファーは多分に使われているのだ。たとえば、次のようなもの。

①彼は、彼女を論した。
②彼女は、自分の意見の正当性を守ろうとした。
③わたしは交渉中、攻撃の的になった。

「戦争」についての話などしていないのに、なぜ「破る」や「守る」や「攻撃」のような言葉が出てくるのか。本書の著者であるジョージ・レイコフによると、これはわれわれ人間が、「議論」という行為を「戦争」に見立てているからだと指摘する。

「戦争」には勝ち負けや引き分けがあり、たがいに相手を攻めたり、自軍を守ったりする。「議論」もそれに似ている。相手の意見を攻撃(反論)したり、自分の言い分を守ったりしていくなかで、最終的には勝敗(決着)がつく。そういった構図が、①や②や③のような表現を生む理由なのだ。

もちろん、メタファーはこれだけに留まらない。新聞の折込チラシやネット広告、ポスター、マンガ、学術論文など、色々なタイプの文章からメタファーを発見できる。たとえば、ちまたに溢れる美容品広告を覗いてみると、レイコフの言う「戦争メタファー」が大量に見つかる。

①シミ、くすみ、黒ずみを一気に攻撃
②紫外線からお肌をバリアする効果
③ニキビを防いで、肌の美しさをキープ!

つまり、われわれは普段から無意識にこういったメタファーを使って生活しているのだ。そこで、わたしもこの「メタファー探しの旅」に参加してみると、色々見つかった。

砂漠肌になりがちなこの季節
②応用問題が解けるようになるためには、基礎が肝心だ
③今日のおやつは、メロンパンだった
④一日の疲れをリセットしよう!
⑤政治の動きを注視する

①の解説は不要だろう。

②の「基礎」はもともと建築用語であるが、それが転じて「ものごとの土台」(ちなみにこの「土台」もメタファーである)を意味するようになった。

③の「メロンパン」だが、文字通り“メロンをパンにした”わけではない。メロンパンは、あくまでも「パン」を「メロン」という果物に見立ててつくった食べ物だからだ。

④の「リセット」は、元をたどれば機械などに使われる言葉だったが、人の体を「機械」にたとえることで、このような言い方がされるようになった。

⑤「政治」は「生き物」ではない。そのため「動く」こともない。にもかかわらず、「動き」が使われているのは、「政治」が日々「変化」するからである。その「変化」を「動き」という「動作のメタファー」で表している。



こんなふうに言葉を観察していくと、ありとあらゆる現象や状態は、メタファーなしに言い表すことはできないと気がつく。

このことにピンと来たジョージ・レイコフは、人間の認知活動を「メタファー」の観点から説明する。何かを言葉で伝えようとするとき、その現象や状態を何か別の具体的なもの(人が知覚できるもの)で伝えようとする。

また、それは、その国の文化や伝統、社会制度や思想、また人間自身の体験などに深く根ざしており、その集積がこのように「メタファー」という形で表に出てくるのだ(たとえば、「時は金なり」ということわざはメタファーであるが、そもそもこういった「時間はお金と同じくらい大切だ」という価値観は、産業発展に心血を注いできた国に多く見られるものである)。



余談だが、この本がきっかけで今からおよそ20年前に「認知言語学」という新分野が開拓された。それまでメタファーは、アリストテレス以来、レトリック(文彩)のひとつと見なされてきたため、言語学の視界外に位置していたのだが、レイコフと本書のもう一人の著者であるマーク・ジョンソンが、メタファーを人の認知機能と結びつけた。今では「認知言語学なしに言語学は成り立たない」と言われるまでに主要・主流の分野へと成長している。

個人的に思うことだが、認知言語学は数ある言語学の分野の中で、最もとっつきやすいものの一つと言える(だからといって、難しい理論や用語はまったく出てこないというわけではないが)。この本が他の言語学の専門書と比べてかなり読みやすいというのも一つの理由だが、なんといってもメタファーそのものが、色々なところで非常に見つけやすいからだ。

最後に読書案内として、以前ここでも紹介した、瀬戸賢一氏の『メタファー思考』(講談社現代新書)や、最近のもので、今井むつみ氏の『ことばと思考』(岩波新書)を紹介しておこう。今井氏のほうは、認知心理学の観点から言葉を観察しているところが本書とは異なるが、「ことばと思考」がどれほど密接な関係にあるかがよくわかると思う。
2012/01/07

辞書が、わけのわからない「説明」をしている

フランスの哲学者にジャック・デリダという人がいた。彼は「脱構築」(英:deconstruction)という考え方を唱えたのだが、この言葉を知った当初、わたしにはその意味がよくわからなかった。そこで辞書を引いてみると、こんな説明がされていた。
フランスの哲学者デリダの用語。形而上学の仕組みを解体し、その可能性の要素を抽出して再構築を試みる哲学的思考の方法。デコンストラクション。(大辞林)

フランスの哲学者デリダの用語。形而上学を支配している二項対立的な発想を解体し、その仕組の再構築を試みることによって新しい可能性を見出そうとする思考の方法。デコンストラクション。解体構築。(明鏡国語辞典)

さて、哲学に詳しい専門家や研究者を除いて、ごくごく普通の一般人が「脱構築」という言葉を調べたとき、はたして上に書いてあるような説明をされても、一発でスッと理解できるだろうか?

形而上学? 二項対立? 知らない言葉を調べたのに、ほとんど日常生活で使われることのない言葉で説明されたのでは、「説明」になっていないのではないか? この書き方だと、「形而上学」と「二項対立」は当然知ってるよね、という暗黙の了解が成り立っていることになる。だが、さっきも言ったように、ごくごく普通の一般人に、これらの言葉の意味をたずねた時、きちんと答えられる人はどれくらいいるのか疑問だ。こういう「説明」をしてくる学者は「一般の辞書使用者たちに対していやがらせでもしたいのか」と勘ぐりたくなるのは、わたしだけではないはず。

そこで、言語を日本語から英語に変え、英英辞典を使って調べてみると、おもしろい事実を発見できる。
a method used in philosophy and the criticism of literature which claims that there is no single explanation of the meaning of a piece of writing
(『Longman English Dictionary』)

a theory that states that it is impossible for a text to have one fixed meaning, and emphasizes the role of the reader in the production of meaning
(『Oxford Advanced Learners Dictionary』)

英語が読めると、こういう時にものすごく得をするのだなと、つくづく感じさせられた瞬間である。ロングマンとオックスフォード英英辞典の説明はなんとも明快だ。どこにも「形而上学」やら「二項対立」やらに相当する単語が出てきていない上、日本語の辞書と比べてかなり具体的に意味が述べられている。しいて難しい言葉をあげるなら“philosophy”ぐらいで、他はどれも一般的な言葉だ(ちなみに、その“philosophy”の意味さえも、日本語の辞書と比べて、英英辞典の説明のほうが非常にわかりやすい)。

なぜこれほどまでに解説の仕方が違うのか。そういえば以前、こんな記述を見つけた。

日本の学者が難しい文章で論文を書く習慣があることも、職人気質であるような気がする。専門の知識を、秘伝として、訓練された弟子だけに伝えるということであろう。研究の成果をみんなにわかってもらうためにできるだけ平易に、啓蒙的に書くということは、職人的意識の延長にはない。研究の対象を限定してそれに専念し、分を守り、総合的な議論をするというようなことは遠慮し、また望まない。
(鈴木秀夫『森林の思考・砂漠の思考』p28)

これについては、わたしもかなり同意できる。ちまたで売られている一般書の中には、どういうワケか、ひとつのことを「説明」するのに、ムダに難しく書いてあったり、専門用語がひたすら並んであったりと、明らかに解説ではない「解説」が存在したりする。「学術論文じゃないんだから、もっとわかりやすく教えろ」という気持ちがフツフツと込みあげてくることもしばしば。もしかしたら、辞書も同じノリで執筆しているのかもしれない。

だが見方を変えてみると、日本の辞書のほうが、より抽象的、もしくは中立的に説明しようとしているのではないか、とも考えられる。つまり、解説者たちだけの「思い込み」や「勝手な解釈」が、なるべくその言葉の定義に入らないようにと配慮しているのでは? とも受け取れそうだ(もともと、ジャック・デリダという人がつくった言葉を翻訳して、さらにその意味も説明しないといけないわけだから)。

もちろん、日本の辞書の定義は間違っていて、英英辞典のほうが正しい、などと言うつもりはまったくない。これは「どのようなカタチで言葉の意味を定義するか」という、西欧と日本における辞書作成上の指針の違いによるものだろう。

そう考えると、日本の辞書作成者たちには、「より“ゲンミツ”な定義をつくろう」という意気込みが見られるというような、極めてポジティブに見ることもできそうだ。さっきの引用文にもあったが、ここに日本の学者の「職人気質」が垣間見えると言える。

話は変わるが、こういった考え方は実のところ、日本の国語教育にも見られると思う。たとえば、国語の授業中に小説の一部分を読んでいるとき、先生が生徒何人かに「ここで主人公はどのように感じたか?」といった質問をよくしてくる(今はどうなのかわからないが、わたしが小学生・中学生だったときは、そういう質問をよくされた)。そこで聞かれた生徒たちは各々、とぼしい根拠と理由をあげながら、「主人公は、きっとこのように感じたと思います」と答える。それを聞いた先生は、(よほど主旨から外れていないかぎり)否定せずにあいづちを打ったり、「その通りだね」などといった返事をする。

ところがテストの時になると、あのとき述べた、いろんな答えのほとんどは「テストにおける正しい解答」にはならず、問題集に載っている「模範解答例」もしくは、それに限りなく近い解答が、「正しい答え」になるのだ。つまり、タテマエでは「多様な解釈」を認めながら、結局は「一義的な解釈」を正解とするのである。そしてほとんどの場合、それは当たり障りのない、抽象的・中立的な「解釈」が答えになっている。

こういったことを小さい頃から積み重ねていけば、さっき見たような辞書作成方針がヨシとされるのも無理はない。欧米のように「わたしはこう思う」「わたしはこう考える」といった主張を、あまり歓迎しない風潮のある我が国では、とにかく「当り障りなく、抽象的・中立的に表現すること」(どうやら、これが「“ゲンミツ”に定義すること」の正体らしい)が「正しく解釈した」ことになるのだから。

ただ、である。辞書としての機能や意義を考えた時、はたしてこのような編集方針や態度は、一般人から望まれるものだろうか。“ゲンミツ”であることを重視していった結果、結局なにがなんだかよくわからない「説明」になってしまうのは、本末転倒ではないか。むしろ、わかりやく説明できていて、しかも本旨から大きく外れていないのであれば、大胆に解釈してしまうこと自体、まったく罪はないと思う(ジャック・デリダさんも、きっとそういうことを望んでいたはず)。

意外なところで、日本の教育(文化?)の「特徴」が見られた一日だった。
2012/01/05

「生き方なんて人それぞれ」論のウソ ― 『愛という病』


愛という病 (新潮文庫)愛という病 (新潮文庫)
(2010/11)
中村 うさぎ

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中村うさぎさんの名は知っていたが、著作は読んだことがない。だから本書が私にとって初めての彼女の作品である。

まず、著者近影で驚いた。かなりの美熟女である(これは後に整形後の写真だと知ってガックリきたのだが)。しかも私と同じ英文学科出身。なんだか親近感が湧いてくる。

本書は小説ではなく、うさぎさんの身近で起きたことをもとにしたエッセイである。内容は、現代女性の生き方についての考察と、彼女独自の男性論だ。シモネタ・エロ話が多いのだが、ひとつひとつの出来事に対する分析が深くて非常におもしろい(こういう風にモノを見られる/書ける人は本当に羨ましい)。

たとえば、『メイドカフェで働く「自意識」』という章。

こちらからは一切働きかけず、ボディタッチや色恋サービスもなく、ただただ相手が勝手に性的ファンタジーを逞しくして(「萌え~」というヤツね)、まるでアイドルのようにチヤホヤしてくれる……その図式は、ひと頃流行った「ネットアイドル」に近いものがある。そう、現在のメイドカフェで働く女の子たちの自意識は、ネットアイドルのそれと、根っこのところは同じであろう。注目を浴びる快感、コップの中のアイドル気分。(中略)いたって平凡に近い女の子たちが簡単にプチアイドル気分を味わえる、(中略)「自分が凡庸であることに傷つかずにすむ聖地」なのよ、ここは。
(p27-28)

私も数年ほど前に、アキバのメイド喫茶に足を踏み入れたことがある。ネコミミをつけながら、お茶とケーキを運ぶ若い女の子の姿を見てふと、「なんかこれって、形を変えた風俗店なんじゃないか?」と感じた(こういうモノが好きな方たちには失礼だが)。うさぎさんも、どうやら私と同じことを思ったらしく、本章でメイドカフェを「幾重にもオブラート(レースやフリルや眼鏡といったアイテムがオブラートの役割を果たす)に包まれたキャバクラ」と表現している。

「多くの人に注目されていたい心理」というのは、女の子に特有のものかもしれない。なぜかと言えば、やはり「不安」なのだろう。誰かとつながっていないと孤独を感じやすく、精神的にも肉体的にも「守ってほしい」という願望が若い女性たちにはよく見られると思う(このことについては、うさぎさんも『「守ってもらいたい」願望』という章で語っている)。

しかし、だからこそ、彼女は「全面的に男へ頼るような女にはなるな」と本書を通して力説する。幼い頃に憧れたプリンセス・ストーリーだけを「女における最高の生き方」とするのではなく(このことについては以前、私もブログで述べた)、「自分の頭で考えて生きてみようよ」と呼びかける。それは、うさぎさん自身がこの本を書く(男女の相違や女性の生き方を分析してみせる)ことで証明していると言えよう。思うに、高邁なフェミニズム理論やジェンダー論よりも、彼女の言うことのほうが何百倍も説得力があるのではないか。

身辺雑記エッセイなどは、まさに「人を変える意識」だけの文章だとも言える。人を変えると書くと、攻撃的でエキセントリックなイメージを持つかもしれないが、革命を唱える政治理論よりも、日常生活エッセイのほうがよほど人を変える意識に満ちている。
(堀井憲一郎『いますぐ書け、の文章法』p55)

いや、もっとハッとさせられるのは、実のところ我々男性側かもしれない。というのも、うさぎさんの男性に対する皮肉がかなり強烈だからだ(上野千鶴子のようなフェミニストではないと思うが)。その痛快さは、本書を読んでのお楽しみということにしよう。

よく、「生き方なんて人それぞれだ」と言われる。しかしながら、それはあまりにも無責任な物言いだ。生き方の多様性を認めているように見せかけつつも、結局のところ「お前がどう生きようと俺には関係ないし、勝手にすればいい」と言っているのと変わりないからである。

うさぎさんはこれを全力で否定する。赤の他人とはいえ、彼女の読者であれば「私はこう生きるよ」と強く主張する。なにもかも、常に自分をさらけ出しまくるのだ。その姿勢に、「生き方なんて自由だ」などという「エセ人生論」語りは、皆目見当たらない。
2012/01/04

たのしい、たのしい、わるぐち読書読本 ― 『本は10冊同時に読め!』


本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである!生き方に差がつく「超並列」読書術 (知的生きかた文庫)本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである!生き方に差がつく「超並列」読書術 (知的生きかた文庫)
(2008/01/21)
成毛 眞

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この本、賛否両論がかなり激しく、絶賛する人と徹底的に非難する人で分かれている。個人的にはそんなことに一喜一憂するよりも、読了後にAmazonのレビューを読んで、他人と読書後の感想を共有するほうが楽しいのだが。

じつは私がたくさん本を読むようになったきっかけ、そしてこの「しょひょーブログ」を始めるようになったきっかけは、この本が与えてくれた。著者は成毛眞氏で、最近はいろいろと本を出している(『日本人の9割に英語はいらない』や『大人げない大人になれ!』など)。

簡単に内容の方を紹介しておくと、「いろんなジャンルの本を何冊も(別に3冊や5冊でもいいのだが)“同時に”読もう。そうすることで、脳が多方向から刺激され、仕事上でのアイデアや生き方、人生の楽しみ方をいままで以上に得られるようになる」というもの。「同時に」と書いたが、これはたとえば◯◯の本は電車の中で、××の本は寝室で、□□の本はリビングで読む、という意味だ。場所によって読む本を変えれば読書に飽きは来ないというわけである。

本書を初めて読み、そんな読書の仕方があるのかと驚いた当時は、成毛氏のやりかたを参考にしながらありとあらゆる本を、色々なところで読んだ。いまでは自分なりの「読書方法」みたいなものができて、彼の読書術とはかなり違うものになったが、「本を読むこと」に対する考え方は同じだ。

氏の物言いや口調はかなり手厳しい。表紙にもあるとおり、「本を読まない人はサルである!」なんて書いてある。本文でも「本読まぬ者」=「庶民」と独自の「定義」をつくり出し、徹底的に批判する。おそらくこの書き方が、否定論者たちの気に食わぬ点なのだろう。

だが、こういった主張はやはり必要である。というのも、結局、いくら優等生のような文句をならべたところで、なにも変わらない(読書してみるかという気持ちは起こらない)からだ。


「本を読むことは生きる上での糧になります」
「読書は人生を豊かにします」
「情緒や思考力は読むことによって養われます」


「うん、そうだね、そのとおりだよ。だから?」――このぐらいの感想しか残らないのではないか(ちなみに、この手の主張は齋藤孝に多いと思う)。

個人的な話になるが、私は毒舌のある人が好きだ。昔、代ゼミのサテライトの授業を受けていた頃、富田一彦というトンデモナイ毒舌英語教師にお世話になっていた。彼はひたすら生徒(とくに浪人生)を「バカ」にする。「ここで文型が終わったと思ったあなた。終わったのは文型ではなく、あなたの人生です」とか、「この“crazy”を“イカれている”と訳した人。イカれているのは、あなたのおつむです」とか。

しかし、言い方がおもしろくて、授業をしっかり受けるのはもちろん、毒舌を「しっかり」聞くのもまた私にとっては「大事」だった。

毒舌は、言う側にも聞く側にもかなりの「力」が必要になる。言う側には、言うに足るだけのバックグラウンド(地位や実力や実績など)がないと説得力は皆無。聞く側もその辛辣な毒を真に受けず、ある種のジョークとして、またその言葉の真意はなにか、ということを理解できないとまずい。

「成毛の場合は毒舌じゃなくて、単なる嫌味であり非難だ」なんてご立腹の方もいるだろう。だが、その「嫌味」や「非難」を、文字通り「嫌味」や「非難」として受け取ってしまうから、なにも得られないのである。読んでクスクス笑えるぐらいでないとダメではないか。

批判的な本が嫌いな人、毒舌やユーモアがわからない人。こういう人には、本書をオススメしない。おそらく以前にまして、心臓を悪くするか読書嫌いになるかの、どちらかだからだ。
2012/01/03

読んでもらえる、おもしろい書評の書き方

一年間、がんばって「しょひょーブログ」を続けてみた結果、ブログそのものを続けるのがいかに難しいか身をもって知った。聞いた話によると、ほとんどのブログは開設してから半年も経たないうちに、放置されるか閉鎖になるかのどちらかだそうだ。

で、「人に読んでもらえる書評」「おもしろい書評」が書けるようになるために、今も色々と模索しているのだが、とりあえず、この一年間で自分なりにわかったこと、「これはけっこう重要なんじゃないか」ということを記しておこうと思う。


1:文は横に伸びないようにする


これはすべてのテキストサイトに当てはまるが、文が横に伸びた状態(一文がPCの画面の横幅を7,8割以上占めている状態)というのは、けっこう読みづらい。最近気づいたのだが、人間(というよりも縦書き読みに慣れている日本人)は目を左右に動かすよりも、上下に動かす方が、目にかかる負担は少なくなる。

つまり、横に目を動かすのは、なかなかシンドイのだ。そのため、読者が目をなるべく左右へ大きく動かさなくても済むように、一文が横に伸びないようにする必要がある(おそらくだが、ケータイで文字情報を読むとき、さして疲れないのはこのためだと思う)。


2:一部分だけ語る


書評だからその本について「全体的に」語りたくなるのだが、それだと高確率で「つまらない書評」になることに気がついた。なぜつまらなくなるのかというと、結局、「評者にとって一番おもしろかった部分」が、どこなのか読者に伝わらないからである。

自分が「この本のこの部分、すごくおもしろかったよ!」というのが言えれば、その書評を読む側も、「じゃあ読んでみようかな」という気持ちになりやすい。つまり、もっと大胆に本をブッた切った方がおもしろくなる。全体的に語れば語るほど、その本の印象は四方八方へ拡散し、かなり薄まってしまうので注意しようと思う。


3:「自分のこと」を出す


たとえば、


「現代社会はすでにグローバル化の波が全体に広がっており、日本人はこれからもっと英語を深く学ばねばならない」 とか、


「大量生産、大量消費により地球環境は悪化の一途を辿っており、現状は非常に芳しくなく、我々はもっと自らの無知・無自覚を反省すべきだ」 とか、


「経済はアメリカ流の発想に支配されており、経済思想の多様性が脅かせれているのは誠に危惧すべき事態である」 とか。


書いていてすごく眠くなるのだが、こういう意見や感想は、まったくもって読者の頭にも心にも残らない。たんなる一般論だから、というよりも、あまりにも「校長先生の朝のスピーチ」感が出ていて、「身近なこと」のように感じられないからだ。つまり、なにかを語るのならもっと「身近に」語った方が良いということである。

しかしこれが意外と難しい。とくに教養新書などの書評をやる時は至難だ。ほとんどの場合、もともとの題材が「身近」に感じられないからである。

こういう時こそ、2のようなやり方が役立つ。その本に出てくる専門的で難しいことは、なるべく少なく語り(おもしろかった部分だけ語り)、あとは自分の体験や思った&考えたこと、人づてに聞いたことなどをうまく織り交ぜるといい。


4:よい記事のタイトルは、「スピーチとスカート」と同じ


自分の書いた書評は、このサイトにも投稿しているのだが、その際、ここはツイッターでその書評を自動的に紹介してくる。その時、ツイッターのタイムライン上で目にとまりやすいように、なるべくタイトルは短く、刺激的にした方がよいということに気がついた(「スピーチとスカートは短い方が良い」という言い得て妙なセリフがあるが、記事のタイトルも同様)。

そして「◯◯は××なのか?」系のタイトルは、書評の内容を出し惜しみしている感があるので、「◯◯は××である」と言い切った方がいい(それが逆説的であればなおよし)。

フォロワーが多いとすぐにツイートが流れてしまい、文字情報の多いもの(ひとつのツイートに文字をたくさん詰め込んだつぶやき)は基本的に読まれなくなる。なぜかというと、フォロワーたちは、ひとつひとつ丁寧に読むのがメンドウだからだ。そのため、すぐにサッと読めるようなタイトルが好ましいと感じる。


で、この四つを以後、書くときの自戒としておきたい。