2012/02/26

侃侃諤諤のすすめ ― 『西洋美術史入門』

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)
(2012/02/06)
池上 英洋

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ジャン=フランソワ・ミレーの『落穂拾い』に感動したのは、小学校1年生の時。

音楽室かどこかへ向かう途中、廊下の壁にかかったその絵をたまたま見たわたしは衝撃を受けた。

それまで目にしたこともない写真のような絵に、思わず心が吸い込まれた。のちにその絵を描いたのが「ミレー」という人だと知り、両親に彼の画集を買ってもらったぐらいである(残念ながら今は紛失してしまった)。

不思議なもので、今でもミレーの絵を見ると、あの時の感動がよみがえる。しかし、その心地よさは、単に「美しさ」に対する憧憬から生まれ出てくるものだ。

それはそれで良いのだろうが、物には「格」がある。絵画の世界、というよりも芸術の世界に「格」があるように、鑑賞者側にもまた「格」が存在する。

鑑賞者側の「格」とは何だろうか?それは一言で言えば、芸術作品に対する知識や教養の有無や量だ。

「美しさ」を「美しさ」として楽しむという段階から、その「美しさ」の奥にひそむ、描かれた当時の時代や作者の背景を知るという段階へ――本書は、そのステップへの親切な架け橋となっている。

いきなり時代順に絵の解説を始める美術書というのはじつに多い。だが、この本は違う。まず「美術史とはなにか?」という漠然とした問いから話が始まる。


「なぜ美術を学ぶ必要があるのか?」
「絵を“読む”とはどういうことか?」


こういった問いは、およそ人文学を学ぶ上で最初に知っておくべき、考えておくべきことだ。著者は書き漏らさずにその持論を展開している。

意義の確認が終わったら、次は「書く」ことを学ぶ。「描く」ではない。「書く」を学ぶのだ。つまり絵を見、その様子を文字に起こす作業をするのである。

できるかぎり忠実に、そこに何が描かれているのかを文章にするのだ。これは「ディスクリプション・スキル」と呼ばれるもので、美術科で学ぶ学生なら誰でも一度は経験するのではないだろうか。

以下、絵画における記号論そして図像学を知り、第三章から実際に絵を読み解いていく。

もちろん西洋史の知識も欠かせない。とはいっても本書を読む上では大丈夫。きちんと著者が補完してくれている(美術史の本でよく見かける「バロック」「ロココ」「印象派」といった、「聞いたことはあるけれど、あまり知らない用語」の解説集もくっついている)。

最後に、あとがきの中にある一節から。

ヨーロッパの美術館に行くと、学生たちが輪になって座り、絵の前に立っている先生と議論している光景によくでくわします。それこそ、小学生から大学生まで。誰も彼らに向かって、うるさい、迷惑などと言う人はいません。皆、小さい頃からそうやって作品を前にして考え、意見を言い合ってきて、自分なりの作品の楽しみかたを育んできたからです。(p183)

日本ではこうはいかない。そばにいたオヤジに、「うるさいよ!」などと小言のひとつでも言われてしまう。でなければ館員がとがめに走ってくること必至である(笑)。

しかし、ただじっと静かに正視することだけが「絵画を鑑賞すること」ではない。時にはその場で熱く語り、意見をぶつけ合うこともまた「絵を読むこと」のひとつだ。

「閑賞」(静かに楽しむ)に干渉するつもりはまったくないが、「寛賞」(くつろいで楽しむ)の心も時には必要である。
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2012/02/11

脱・情弱のための教科書 ― 『データはウソをつく』

データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)
(2007/05)
谷岡 一郎

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テレビ番組などで宝くじのことを取り上げると、必ずと言っていいほど出てくるのが、「この店から一等賞が出ました!」店を大々的に取材するシーン。

一等賞でなくても、たとえば二等賞が◯本とか、三等賞が△本とか、「ここで宝くじを買った人の受賞歴」を店の前に看板として出している光景もよく見かける。

あれらを見るたびに、「だからなんなのよ?」とわたしは疑問を抱く。実際、こんな宣伝でくじを買おうとする人などいるのだろうか。過去に◯等賞が何本出ようが、その店で買って当たる確率が高まる保証など、どこにもないではないか。

本書はそういった問いにきちんと回答している。あたり前だが、そんな保証などまったくない。

著者・谷岡一郎の筆舌は手厳しい。この世の中に出回っている「社会調査」や「検証結果」なるものは、その多くが「ゴミクズ」であるという。

ほとんどのものは、マスコミ各社がきちんとした方法論に従って「調査」した結果ではない。明らかに、ある一定の方向へ考え方をもっていこうとした、誘導的なものばかり――そう言い切っている。

昔、「発掘!あるある大事典」という番組があった。そこで「納豆ダイエット」を特集した回があり、放送後、大量に納豆が売れたそうだが、後に捏造だったことがわかり、それ以降打ち切りとなった。

これなどまさに「良い」例だろう。「検証結果」はつまるところ、「ゴミクズ」だったのだ。しかし、マスコミが往々にしてこの手のウッサンくさい内容を「調査」に仕立てあげたりするのは、それ以前からあったろうし、いまさら非難しても仕方ない。むしろ非難されるべきは、納豆を買いに走った人間たちの方だったと思う。

しかし、「人のふり見て我がふり直せ」とはよく言ったもので、実のところ、だれでも情弱(じょうじゃく/情報弱者の略)になる可能性は大きいと、本書を読んで感じた。

たとえば、本書p60-61に出ている図やグラフ(都合上、掲載はできないが)には、誘導者側の「カラクリ」を知っておかないと、普段から「社会調査」に対してそれなりに身構えている人でも、簡単にダマされてしまうと思う。

「敵ながらあっぱれ」とは、こういうことを言うのだろうか。このやり口には、いささか「感動」してしまった。感心できたものではないが、本書の内容を逆用して、自分がダマす側に回ることもできそうである(笑)。

実際のところ、多かれ少なかれ、企業の商品宣伝にはこういった手法が存在しているのは確かだろう。言い方はヒジョーに悪いが、ビジネスはいかにして合法的に人を“ダマす”――客を自分たちの戦略にうまく乗せる――か、という側面も見られると思う。この点は、谷岡も本書で同じことを述べている。

新書がベスト』の著者・小飼弾は言う。

私も専業ライターだったら、血液型の本を書いて楽に儲けようとしたかもしれませんね。「だまされるヤツが悪い」とうそぶいて。(『新書がベスト』p63)

だますヤツも悪いが、それよりも「だまされるヤツ(の方)が(もっと)悪い」――このリクツは、実のところ、情弱にとってものすごく親切な言葉である。というのも、こうでも言わないと情弱は一生、情弱として搾取される運命にあるからだ。「ダマされないために勉強しよう」という、形を変えた良心的な誘いである。

ただし、「脱・情弱」への道のりは、かなり険しそうだ。「情弱度」を低くするためには、日頃から「天邪鬼(あまのじゃく)」ならぬ「常邪鬼(じょうじゃく)」になっていなければ難しい。

そう。「じょうじゃく」になりたくないなら、「じょうじゃく」になれ、ということだ(ひらがなにすると矛盾する不思議)。
2012/02/06

結婚しても「しあわせ」になれない人について

晩春 [DVD]晩春 [DVD]
(2011/02/26)
笠智衆 原節子

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小津安二郎の映画、ここ最近週1ペースで見ているのだが、どれもすこぶるいい。

べつになにかすごくインパクトのあることが映画の中で起きるわけではない。ただひたすら、ある家族の一風景を描き続けているだけなのだが、妙に心に響くのだ。

今回見たのは『晩春』(1949年)という作品。

父(笠智衆)とその娘(原節子)が二人で仲良く暮らしている中、娘のお見合い結婚の話が持ち上がってくる。娘はどうしてもお父さんと一緒にいたいため、縁談に乗り気でない。最終的に娘は父に説得され、結婚する、という内容だ。

もしわたしが父の立場で、原節子のような美人娘に「お父さんと一緒にいたい」と言われれば、「そうか!なら嫁に行かなくてよろしい!」とはっきり言ってしまうと思うが、なぜかそのお父さんは、娘を嫁に行かせようとする。そこが不思議だ。

物語とは関係ないが、わたしは「お見合い結婚」という制度を高く評価している。なぜかというと、親を含めた周りの人たちから、結婚相手の客観的な人物評価が得られるからだ。自分だけの目で判断するよりも、色んな人の目から判断してもらった方が、結婚後うまくいきやすくなるのではないか。

それに、もともと日本人は欧米人に比べて異性への愛情表現に積極的ではない(もっと言えば下手)。草食系男子なんていうのも、おそらく最近になって出てきた新傾向でもなんでもなく、ずっと昔から多くの日本男子がそうだったのではないか。

だからそれを見かねた周りの大人たちは「とりあえずアイツとアノ娘をくっつけよう」という感じで、二人の縁談をなかば勝手に決めたりした。それが「お見合い結婚」の始まりだったのではないかと思う。

つまり、お見合い結婚は日本人にとってものすごく有意義な制度なのだ。

話を戻そう。そんなお父さん、旅先の旅館で娘と帰りの身じたくをしている最中、なかなか興味ぶかいことを言う。

「しあわせっていうのは、結婚して生まれるものじゃない。結婚した二人が、お互いに作り上げていくものなんだよ」

うーん。まだ結婚していないから、「ケッコン」というのがどういうものなのか、わたしには分からないが、少なくとも「“しあわせ”は自分で作るものだ」という考えはその通りだと思う。「しあわせ」を「たのしさ」や「おもしろさ」と置き換えてもいいだろう。

最近、わたしが個人的に実感しているのは「他人から与えられた「しあわせ」をもらっても、“本当のしあわせ”を得られる可能性はかぎりなく少ない」というもの。

なんでこんなことを言うのかというと、わたしの周囲にいる人で「つまらない」と感じている人は、往々にして、ひたすら「他人から“しあわせ”を与えられること」を望んでいる傾向が見られるから。

もしかすると、お見合い結婚よりも恋愛結婚した人たちの方が、離婚率が高いというのは、このことが原因のひとつなのかもしれない。

お見合い結婚であれば、いい意味であきらめがつく。なにかにつけて「お見合い結婚だし、まあしょうがねえか」という感じで割り切れるかもしれない。だが一方、恋愛結婚はあきらめがつきにくい。

お互いが「最高と思える相手」と結婚したにもかかわらず、いっしょにいて「つまらない」からだ。「付きあっていた頃はあんなにステキに思えた彼/彼女が、なんで結婚後にはこんなことに?」なんていう気持ちも、しばしば起こりえるだろう。

大好きな彼氏/彼女が、自分のために「しあわせ」をつくってくれるはずだ。だから自分はこの人といっしょにいると「しあわせ」になれるのだ ―― こういう錯覚があるとすれば、おそらく結婚後は失望の連続しかないのではないかと思う。

ここにあるのは、「しあわせ」という見えない物体がやってくることを待つ姿勢だけだ(偏見を承知で言わせてもらうが、こういう姿勢はわりと女性に多く見られる気がする)。

「結婚するしあわせ」を望む人はしあわせになれない。結婚後にしあわせを「作ろうとする」人はしあわせになれる ―― そう思わせてくれる作品である。
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