2012/03/28

「暇つぶし」も立派な能力 ― 『老いの才覚』

老いの才覚 (ベスト新書)老いの才覚 (ベスト新書)
(2010/09/09)
曽野 綾子

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「若者こそ読むべきブックリスト」なるものを作るとしたら、本書は間違いなくその中の一冊となるだろう。

その理由はいろいろあるが、あえて一つに絞ろう。この一文を若いうちから肝に銘じておくべきだからだ。

年をとると、いっしょに遊べる友だちがだんだん減っていきますから、早いうちに一人で遊ぶ癖をつけておいたほうがいいと思います。(p111)

最近、わたしが周りの(若い)人を見ていてつくづく感じるのがこのことなのだ。どうやらどうやら、一人で遊べない人が多いようである。

昔、アルバイト先で知り合った女の子との話。

当時その子は高校生で、わたしによく悩みの相談を持ちかけていた。
そんなある日、こんな質問を受けた。

「最近つまらなくて楽しいことがないんです。どうしたらいいですか?」

学校にいる時間帯は友だちと話せるから楽しい。ところが家に帰ったとたん、やること(勉強以外)が何もないそうである。

「ケータイ持ってるんだし、友だちとメールやら電話やら、オンラインゲームでもしたらいいんでない?」

こんなアドバイスをしてみた。だが相手にも都合があるし、いつもいつもコミュニケーションがとれるわけではない。こういった「遊び」はうまくいかない、と彼女は言う。

確かにその通り。ならばひとりで遊ぶしかない。ところが話していくうちに、どうも彼女一人では何もできないようなのだ。高校生で、しかも社会人と比べたら時間も気力も体力もあるであろう若い女の子が、なぜ一人で遊べないのだろうか。

しかも、その子と同世代の他の子たちともいろいろ話していくうちに、意外とその手の人が多いのを知った。

「一人で遊べない症候群」とでも名づけようか。わたしは直でこういう人たちと触れ合ってきたから、曽野綾子の上の主張がかなりリアルに感じられて仕方がない。

誰だったか忘れたが、昔とあるコピーライターが「教養とは、自分で暇な時間をつぶせる能力のことだ」という主旨の発言をしていたのが忘れられない。

今なら当時よりもよくわかる気がする。辞書的な定義で、この「教養」という言葉を受け取ってしまうと確かによくわからない。だがもっと咀嚼して「自分の頭で考える力や行動する力」とでも解釈すれば、意味は通じるかもしれない。

そう考えると、本書に出てくる「くれない指数」(自分からは何も行動せずに、他人にばかり「~してくれない?」などとねだる、受動的な言動の多さ。曽野綾子の造語)は、「無教養指数」とでも言い換えられそうだ。

要するに、自分ひとりではなにも楽しいこと(≒暇つぶし)ができないのだ。そうか、「暇をつぶせる」のも、立派な「能力」の一つだったのか!

それにしても本当にコワイ。数十年後、わたしが未来の若者から見て「老人」と思われるような年になった時、「一人では何もできない(主に暇つぶし的なこと)」という状況に陥るのが、本当に本当にコワイ。

なんせその頃はヨボヨボ、気力・体力ともに大幅に弱っていることだろう。やっぱりこういうことは、若いうちから「訓練」しておいた方がいいんだよ、きっと。

来るべき時に備えて、わたしはこの本を読んでおく。「一人でも遊べる老人」になるために。
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2012/03/15

「ケイザイ?」が、「経済!」になる本 ― 『「見えざる手」が経済を動かす』

「見えざる手」が経済を動かす (ちくまプリマー新書)「見えざる手」が経済を動かす (ちくまプリマー新書)
(2008/04)
池上 彰

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人生において、自分がどんな道を歩むか決める上での大きな要素は何だろうか?それは親かもしれない。友達かもしれない。本かもしれない。映画かもしれない。わたしの場合、それは学校の先生だったと思う。

人文学は学問の中でわたしがもっとも好きなジャンルだ。文学部に進んだのも、英文科に進んだのも、そして言語学に興味を持ったのも、すべて学校の先生の影響である。

ずいぶんとまあ、極端な話かもしれない。だが、そのくらい学校の先生という存在は、ひとりの人間の進む道を決める上で、はかりしれない力を持っているのではないか、とこの頃(しみじみと)感じている。

仮に池上彰がわたしの政治経済の先生だったら、事情が変わって経済学部に進学していた可能性は大きい。そう思えるくらい、この本はわかりやすく、面白く、惹きつけられるのだ。

中高生当時、政治経済の授業は本当にタイクツだった。「きちんと暗記すればテストでいい点取れるよ」と言わんばかりの無味乾燥さ(教えてくだすった先生たちにはタイヘン失礼だけれども)!

そこに、ケイザイの「なぜ?」と「流れ」はない。


「なぜ経済を学ぶの?」
「なんで“お金”は必要?」
「1ドル100円から1ドル80円になるのが、どうして円高?」
「“新自由主義”ってどうやって生まれてきたの?」
「競争させる/させないことが必ずしも良いとは限らない理由は?」



そう。興味を持てなかった、たったひとつの理由――振り返ってみれば、それは「なぜ?」と「流れ」がなかったからなのだ。「経済」を考える上で、上記の質問は基本中の基本と言える。だが、中高の頃を思い出してみても、これらのことをきちんと教えてくれた(教えることができた)先生は1人もいなかった!

本書はその「なぜ?」と「流れ」がきちんと織り込まれているため、たいへんすばらしい経済入門書となっている。「おすすめの経済入門書は?」と聞かれたら即答。間違いなくこの本。

「でもこれ、子ども向けの新書でしょ?大人には合わないんじゃない?」

あなどるなかれ。子ども向け新書だからこそ、「事のしくみ」を手抜きなしで解説してくれるのだ。むしろ大人の方がなまじ「チシキ」はあるので、彼ら向けの新書には意外と解説に手抜きが多かったりする。

本書巻末には推薦図書が掲載されている。買って読みたい気持ちが抑えられない。いやはや、わたしは池上彰の「見えざる手」に動かされてしまったわけか。
2012/03/07

文学と無用の用 ― 『文学入門』

文学入門 (岩波新書 青版)文学入門 (岩波新書 青版)
(1950/05/05)
桑原 武夫

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とある時期に古本漁りを始める現象は、「ドクショツウ」に共通したものかもしれない。わたしの場合、「通」とまでは及ばずとも、つい最近になって古本の良さを理解できるようになってきた。

読書にハマりたての頃は、色あせた表紙の本など見向きもしなかったが、近頃の新刊書(とくに新書)にしばしば飽きを感じる今日、神田の古本屋でひとり脚立に登りながら、うず高くつまれた、半世紀近く前の著作に興味津々な自分がそこにいる。

自身が文学部出身、そして母校が神田の古本屋街の近くということもあり、先日一冊の本が目に留まった。かつて日本を代表した有名な文学者のひとり、故・桑原武夫による『文学入門』だ。

初版は1950年。わたしはまだこの世にいなかった。現在の岩波新書とは違い、ビニール製のカバーはついていない。一冊まるまる紙である。

さっそく目次に目を通してみる。いきなり刺激的な見出しが目に映る。

第一章 なぜ文学は人生に必要か

そう、これは世界文学の解説書などではない。文学とはなにか?芸術とはなにか?生きるためにそれらは必要なのか?そしてそれはなぜなのか――本書は、非常に読み応えある文学論なのだ。

なぜこんな哲学的問いから論が始まっているのか。これは、先にも述べた初版の発行時と関係がある。第二次大戦終了から5年後、桑原は戦時下における文学の状況をこう振り返っている。

戦争中のことを思い出してみるがよい。文学は人生に用のないゼイタク品と見なされていたのではなかったか?さらに意味ふかいのは、戦争直前、外国の本の輸入が制限されたとき、科学書や哲学書は比較的寛大な取扱いをうけたが、ひとり文学書のみは全く輸入を厳禁された。(中略)文学の必要性ということは、日本では敗戦のころまで、ほとんど認められていなかったのである。(p2-3)

生と死とが常に隣り合わせだった当時、「ブンガク」などという代物にウツツを抜かす輩には居場所がなかったらしい。なんせそのウツツでは食い物が何よりも必要な時だったのだから無理もないだろう。

しかし今は平時だ。先に起きた震災でもない限り、飲食に不自由することはまずない。そんな中で、「なぜ文学は人生に必要か」という問いについて考えてみるというのはじつに面白い(文学部出身ということもあり、わたしはよく文学や文学部の必要性について考えてしまう)。

この疑問に対する答えのひとつに、桑原は本書で「行動を規制する力」が得られることを挙げている。これについてはわたしも同意見だ。

芸術の役割のひとつとして、「人間の行動をコントロールするための装置」というのがあると思う。たとえばかつて、仏教における地獄絵図などの宗教画は、人間の悪行を戒めるための手段だった。

そういった絵のおかげで、文字の読めない人々とのコミュニケーションが成り立ち、共同体における秩序が保てていたのだ。

文学も同じである(無論すべての文学がそうというわけではないが)。ひとつ例を挙げるとするならば、日系英国人カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』における世界である。

これは、普通の人間と臓器提供のためだけに作られたクローン人間が共存する架空のイギリス社会をテーマにしたものだ。

科学医療技術や人間の生が行き過ぎたために無秩序な状態となってしまった社会――そのような状況で求められる医療倫理、生と死、人類にとって本当の幸福とはなにかについて、否応なく考えさせられる小説である。この作品もそういった人間の行動に対する警鐘(人間の行動をコントロールするための装置)として機能している。

普段、テレビや新聞のニュースを見ていてこういったことにピンと来なくても、「物語」という形をとった文学であれば、そこに関心を持たせることは大いに可能である。

最近、本やニュースを見たり人と話している時、ふと「目に見えて役立ちそうなものにしか価値を置かない社会になってきているな」と感じることがある(ここで言う「役立つ」とは、「金銭的利益につながる」という意味である)。

しかし、「無用の用」という言葉もあるように、実際のところ必要なさそうなものこそ、真に必要だったりするのではないだろうか。
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