2012/06/27

頭で考えるべからず ― 『臨済録』

臨済録 (岩波文庫)臨済録 (岩波文庫)
(1989/01/17)
入矢 義高

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「古典」と聞くと、どうも気が重くなる。文章の読みづらさに加え、話も遠い過去のもの。とてもではないが、自分から進んで読もうなどとは思わない代物である。ところが、本書は違う。1120年、今からおよそ900年も前に出た本だが、現在でもその「おもしろさ」(interesting)と「おもしろさ」(funny)は衰えていない。



まず、「おもしろさ」(interesting)の方だが、それは禅の考え方や世界観が小話でわかるところである。

例えば、有名なもので「不立文字」(ふりゅうもんじ)がある。悟りを文字の上で得ようとするのではなく、肉体的な修行を通して、心で得ようとする考えである。『臨済録』では、僧が師の述べることに対し、意味や理由を尋ねる場面がよく出てくる。ところが、師はそれに真っ向から「それは◯◯ということです」などと明確な説明は一切しない。大体の場合において、僧を棒で殴るか、意味不明な行動に出るのだ。

なぜか。それは、言葉で説明する時点で、言葉に縛られるからである。言葉は「仏性」(ぶっしょう;仏になる性質)の仮の姿、と禅では考える。仮の姿の拘っていては、いつまでたっても仏様になることはできない。「不立文字」を重んじる裏には、こういった考えが宿っている。



縛られている、ということに関連して言えば、もたつくことも禅では戒めの対象となる。もたつくとは、心が乱れた状態である。自身の体が不安に縛られている、ということである。不安に縛られれば、仏になることはできない。仏になるには、自分を「縛り」(言葉という縛り、不安という縛り、などもろもろ)から解放してやらなければならない。

「おもしろさ」(funny)についても語ろう。次の話は、本書に出てくるものだ。

師は、第二代の徳山和尚が、「言いとめても三十棒くらわし、言いとめられなくても三十棒くらわす」と訓示していると聞いたので、楽普を徳山のもとへやって、「言いとめてもなぜ三十棒ですか」と問わせ、彼が打とうとしたら、その棒をつかんで押し戻し、彼がどうするかを見て来い、命じた。楽普は徳山へ行って、教わったように問うた。果たして徳山は打ってきた。楽普がその棒をつかんで押し戻すと、徳山はさっと居間へ帰った。楽普は帰って報告すると、師は言った、「わしは以前から、あいつが只者ではないと思っていた。ところで、そなたは徳山がわかったのか。」楽普がもたつくと、すかさず師は打ちすえた。(p164)

不遜かもしれないが、ここを読んで思わず笑ってしまった。文字通り、不意打ちである(笑)。禅では、油断や自ら悟ろうとする行為を怠るのは、容赦なく制裁の的となる。そういう凶暴なところが多々あり、本書には他にも殴るわ蹴るわ打ち壊すわといった、暴力沙汰の小話が何度も出てくる。「え? 殴られなきゃいけないようなことしたか?」と思わずにはいられんばかりの小話が、である。そしてその度に吹き出してしまう(笑)。電車の中で読む時は注意が必要である。

しかし、「何かしてもダメ、何もしなくてもダメ」といった絶体絶命な状況に陥いることは、人生一度はあるだろう。そんな矛盾した、答えなど何もない中で、どうするべきか。それを瞬時に判断し、行動することを、禅は最も大切にする。



『臨済録』と同様、私の好きな古典のひとつである『無門関』(むもんかん)に、「南泉斬猫」(なんせんざんみょう)という公案がある。

南泉和尚は、東堂と西堂の雲水たちが猫について争っていたので、そこでその猫をつかみあげて言った、「お前たち、何か一句言うことができたら、この猫を助けよう。言うことができぬなら、ただちに斬り殺すぞ」雲水たちは何も答えなかった。その結果、南泉はその猫を斬った。
その晩に、弟子の趙州(じょうしゅう)が外から帰ってきた。南泉は趙州に例の話をした。そこで趙州は靴を脱いで頭の上にのせて出て行った。南泉は言った、「もしあなたがいたら、あの猫を救うことができたのに」
(秋月龍『無門関を読む』p123)

禅の門外漢にはまったく訳のわからぬ話である。「なんで靴を頭の上にのっけただけで、猫が救えるんだ」というツッコミは誰しもが入れたくなるだろう。だが、この行為そのものには、実のところ意味がない。秋月氏いわく、これは「真実の自己」を表現した形だと言う。

つまり、趙州がこの話を聞いて、そこから何か言語表現できないものを悟り、ただもうとっさに、無心で、自分の中に現れた「内なる何か」(言語化不能)をそのように表現した(行動した)、ということである。さらに、その真意を和尚は“心で”汲み取ったのだ。だから、また今度同じような争いごとが起きたからといって、趙州のマネをしても、南泉和尚は間違いなく猫をメッタ斬りにするだろう。



俗人の私がこんなこと言うのもなんだが、禅とはこのような世界なのである。「動くと殺す。動かなくとも殺す。さあ、お前はどうする?」と言われた時、どうしたらよいか。

ここまで極端ではなくとも、日常生活においてでさえ、このようなジレンマに遭遇することは必ずある。それを、やれマニュアルで解決だとか、やれ「これこれこうしたらうまくいきます」などと戯言めいた啓発本通りに動くとか、やれ言葉を尽くして和解しましょうだとか、そんなものは何の役にも立ちゃあせんよ、ということを、私は禅から教えられているような気がする。

無心の末のとっさの行動。体で分かり、体で動く――こんな陳腐な言葉で片付けるのもチャンチャラおかしいが、それが大事なんだよ、ということなのだろう。しかしまあ、実践するのが容易でないのは確かだが。
2012/06/22

子どもにも、大人にも ― 『小学館こども大百科』

小学館こども大百科小学館こども大百科
(2011/11/25)
小学館

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子供の教育に効き目大な本といえば、百科事典ではないだろうか。特に本書のような、大きくて写真や絵がたくさん載った百科事典は、文章があまり読めない子供に最適である。

私は幼い頃、絵本や物語をほとんど読もうとはしなかった。むしろ嫌っていたぐらいだが、小学館の「こども大百科」だけは、好んで見ていた。ゴロゴロと寝そべりながら、パラパラとページをめくる楽しさは、今でも忘れられない。

よく、「子どもは何に興味を持つか分からない」と言うが、その通りだと思う。なんでも載っていそうな、イラスト重視の百科事典を与えておくのは、子どもの好奇心を大いに刺激するだろう。

大人になった今、再び「こども大百科」を買い直した。先日のことである。あの頃によく見た、お馴染みの項目がまだあったりすると、何だか微笑ましく、そして嬉しくなる。

「お」の部分をめくっていると、「おばけ」のページが目に飛び込んできた。小さい頃、怖い思いをしながら、「でもちょっと見てみたい」気持ちでよく見た、あの「おばけ」の項目である。

残念なことに、以前よりも解説されているおばけの数は減っていた。絵もだいぶ変わっている。「ぬらりひょん」「がしゃどくろ」「海ぼうず」「からかさおばけ」――「こいつら、まだいたか」そんな気持ちがある一方、あの時の懐かしさと、「また会えたね」という喜び。幼心に焼き付いていた恐怖の情はどこへやら、といったところだ。

「じしん」の項には、もうすでに3.11の写真が掲載されている。あの時話題となった「液状化現象」の解説も加えられている。

「インターネット」も登場している。仕組みがチョー分かりやすく説明されているではないか。子ども向け書籍のいいところは、こういった「チョー分かりやすい」解説が、何気なくサラッと書いてあるところだ。

以前の版よりも、自然科学系の項目が増えたように感じる。「理科離れ」を睨んでのことか、宇宙やエネルギー関係のページ数が随分多い。個人的には、「おばけ」のように、しょーもないような項目をもっと設けて欲しかった。

保証しよう。童心に戻れる、いい一冊である。
2012/06/10

「道徳的に正しいものが答え」は、本当か? ― 『国語教科書の思想』

国語教科書の思想 (ちくま新書)国語教科書の思想 (ちくま新書)
(2005/10/04)
石原 千秋

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国語教科書の中身に触れるなんて、何年ぶりだろう。今、パッと頭に浮かび上がった話と言えば、新美南吉の『ごんぎつね』ぐらいだ。

私は国語が嫌いだった。読書も嫌いだった。理由は、本(物語)を読んでいて面白くなかったからである。それが今では、好きで何冊も新書を読む自分がそこにいたりする。人間、何がどう変わるかなんて、わかったものではない。

それで本書を読んでいる内に、なぜ幼い頃の自分が国語嫌いであり、読書嫌いであったのかが、何となく分かってきた。

著者の石原千秋によると、国語教育とは道徳教育なのだという。となると、教科書に出てくる話も、「道徳的」でなければならない。

例えば小説で、「主人公は友人を裏切るが、後でそのことに苛まれる」といった設定は、教科書の題材にピッタリである。たいていの場合、小説を読んで自分のことを反省したり、他人と話し合ったりする時間がカリキュラムの中に設けられており、こういう「心が痛くなる話」は、己を振り返るための道具として非常に「使いやすい」からだ。

評論文やエッセイだと、ありがちなテーマの1つに、「自然に帰ろう系」がある。「科学技術は進歩しすぎた。今までにない環境問題が生まれてきている。だから、昔の自然を取り戻そう」などがそれだ。「戦争は人類を不幸にするからやめよう系」や、「動物も人間と同じでそれぞれの生を全うしている系」なども、私はよく見た記憶がある。

つまり、小説、評論、エッセイ、どれをとっても「道徳的」なのである。だから、三島の『憂国』や川端の『眠れる美女』や芥川の『河童』といった、ダークな小説は絶対に出てこない。評論やエッセイに、上野千鶴子や中村うさぎが出てくる、なんてこともない。失礼だが、教科書的に見て、これらはどれも「不道徳」なのだ。

国語教育は「読む」ことだけではない。「書く」も大切である。しかし、これも書く内容が「道徳的」でなければ“いけない”。

本書の中で、「遠足の思い出」というテーマで作文しろという課題が出た時、著者は「つまらなかった」ということをなるべく論理的に、理由もきちんと添えて書いた、という興味深いエピソードがあった。だが、後に職員室へ呼び出され、担任の教師から怒られたという。「道徳的に好ましからざるもの」は、問答無用で「国語の敵」だということを物語る話である。


道徳が、初めから「道徳」として用意されていることに意味はあるのだろうか、と思う。何が「道徳的」で、それはなぜか。そこを考えさせた方が良い。

精神的にはまだまだ幼い小中学生たちにだって、時にはそういった「道徳教育」が、胡散臭く感じられたりするのではないか。

「〇〇は大切です」「××してはいけません」――そんなことは薄々彼らにだって分かるだろう。しかし、その理由をきちんと考える時間はほとんどない。当たり前が、「当たり前」で終わるだけである。だから聞く側からすれば、お説教のような授業になる。そういったお説教臭さが、国語を学ぶ面白さを、遠ざけてはいないだろうか。自分のことを今振り返ってみた時、「なぜ国語が嫌いだったのか?」と問えば、答えはそこに行き着く気がする。

評論文やエッセイに限った話になるが、私は、極端に対立する2つの意見を読ませた方が良いと思っている。

例えば、環境問題に関するテーマであれば、「◯◯はやめよう」という意見と、「いや、◯◯は大いにやるべきだ」という意見を同時に読ませる。この時、どちらが「正しい」か「間違っている」かは問うべきではない。どちらを「支持する」か「支持しない」か、そしてその理由をきちんと説明させるように誘導すべきである。生徒も、1つの問題に対して、「答えは1つだとは限らない」ということも学ぶだろう。