2012/08/16

「議論することそのもの」の効用

有名ブロガー・ちきりん氏がこんなエントリーを書いていた。

Chikirinの日記 - 2012-08-13 「話し合って決める」という幻想

以下の部分は、私も賛成である。

ツイッター上でも「会話」をすることはあるけど、「議論」はしないです。ネット上で議論をしない最大の理由は「非効率だから」です。別の言い方では「時間の無駄だから」

140字という制限があるツールは議論をするのに向いてないし、議論の重要な前提となるべき過去の発言もどんどん流れていってしまいます。そしてなにより、議論の相手のことが全くわかりません。もしかすると相手は小学生かもしれないのです(いろんな意味で)。
文字制限のないブログでさえ真意が理解できる文章を書くのは難しいし、議論というのは「しきり役」がいないとどんどんズレてしまうものなので、遠く離れてボールを投げ合っていても、ほとんど噛み合いません。

ところが、後半からは大いに首を傾げてしまった。

なので「ネット上で議論をしない理由」は、「あまりに非効率で耐えられないから」なのですが、実はリアルの社会でも私はそんなに議論をしません。(他者の意見を聞くのは大好きだし、自分の意見を言うのも好きです。議論をしないだけです。)

その理由は、「議論する意味がないから」です。
(…)
世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほぼないんです。
(…)
「話し合って決める」というのは、お花畑的幻想です。「話し合えば、相手も自分の意見と同じになるはず」などと思うのは、傲慢です。
(…)
「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。

このエントリーの疑問点は以下の2つ。

1、「議論すること」が、なぜか「何かを(正しい/間違っている/良い/悪いと)決めること」だけ、になってしまっている点

2、それ以外にはあたかも議論の効用はないかのように述べている点



私は、議論することそのものにも意味はある、と思っている。
議論することで、お互い、自分の意見や考えに「穴」があったと気がつくかもしれない。相手から、別の物の見方を提示されることで、視野がより広くなることだってあるかもしれない。また、議論することはそれなりに知的な力が必要なので、純粋に知的営為として議論を楽しむ、ということだってある(私もそういう風に議論を眺める時が多々ある)。

ちきりん氏はどうやら、「議論すること」というのは、「“勝ち負け”を決めること」であったり、「物事の是非を決めること」であったりするから、人によって多様な考え方がある以上、ある一定の考え方を強制させることはできないので、やるだけ不毛だ、といった風に考えているようだ。しかし、議論することには「議論することそれ自体」という目的(意味)もある。必ずしも相手を説得したり、間違いを指摘して自説の正しさを主張したりすることだけが、議論の目的ではない。意見と意見とを戦わせる「おもしろさ」を味わうため、といった目的だってあるのだ。

また、「議論をして何かを決めることは意味がない」と考えるのは、下手をすれば「相手の意見や考えや言い分は聞きません」「自分の言いたいことだけ、ひたすら言わせてもらいます」といった、独善的な態度にもつながりかねない。これこそ、ちきりん氏の言う、意見や考えの「多様性」を否定することになりはしないか。再三述べるように、何かを決めることだけが議論の意義ではない。単に、意見や考えを言ったり、聞いたりするだけでも「議論」である。

ネットの場合なら、「議論なぞ無意味だ」という態度でも構わないだろう(前述した通り、コミュニケーションの観点から見て非効率きわまりないから)。しかし、現実においてもそういった考えならば、「まずい」と言わざるをえない。
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2012/08/06

「あなた」の「軸」を持つために ― 『日本の思想』

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
(1961/11/20)
丸山 真男、丸山 眞男 他

商品詳細を見る



本書は、岩波新書を代表する著作のひとつだ。だが有名なのにもかかわらず、今ではほとんど読まれていない。近頃の新書とは違い、かなり骨太な作品であることがその理由の一つであろう。

丸山はその頭脳明晰さゆえにか、非常に叩かれたインテリだった。本書の出版当時(1961年)も例外ではない。特にその「最盛期」は、全共闘時代だったのではないだろうか。

だが、半世紀経った今なお読んでみても、この本は日本の精神的な「カラクリ」を見事に解明していると私は思っている。以下は、本書第一章「日本の思想」のごく簡単な要約である。


1、歴史的に見て「思想的座標軸」がない

字義通り。日本には、欧米におけるキリスト教のような、「座軸」としての思想がない。「仏教や儒教などは“座軸”と言えるのではないか?」――残念ながらそうは言えない。卑近な例だが、日本におけるクリスマスと初詣の2つの行事が同一の人たちによって支持されているのを見れば一目瞭然である。また、神棚と仏壇が同じ家の同じ居間にあることもその証左である。つまり、思想の歴史的一貫性が、我が国にはないのである。


2、「伝統」思想と「外来」思想が「雑居」している

「雑種」ではない。「雑居」である。つまり、思想と思想とが融け合っていないということだ。日本における思想の有り様は、同一平面上にいくつもの思想が「並ぶ」だけで、それらが融合することがない。そのため、海外から新しい思想がやって来ても、思想の「ストック」から過去の類似した思想と照合させてしまい、「ああ、この思想、そう言えば昔あった〇〇と似てるな」程度の感覚で扱ってしまうのである。そこに、思想を「歴史的変遷による代物」として見る姿勢は皆無である。


3、「理論信仰」と「実感信仰」の蔓延

「理論信仰」とは、理論「そのもの」をありがたがること。本来理論というのは、個々の具体的な状況を集めて、それらを分析し、類似点を探して・・・という流れを経て初めて出来上がっていくものである。つまり理論とは、「抽象化」による産物である。しかし、日本人にはこの「抽象化」をするというプロセスが欠けており、「既成品」としての「理論そのもの」を「信仰」してしまう悪いクセがある。結果、時を経ればその「既成品」はより新しい「既成品」へと取って代わられ、「価値が下落する」(見向きされなくなる)事態が起きてしまう。

「抽象化」が欠ければ、必然的に「実感信仰」になりやすい。「実感信仰」とは、感覚的なもの・感情的なものを吉とし、観念的なもの・抽象的なものを退ける(あるいは嫌悪する)有り様を指す。ここで、丸山が具体例として挙げているのは、日本語の特徴だ。明治以前の日本語(主にヤマト言葉)には、抽象的な概念や観念を表現する言葉が貧弱である。一方、感覚や感情を表す言葉は非常に富んでいると言う。こういった「実感」を重視して「抽象(化)」を軽視する態度が、日本における科学的思考や合理性といったものを育ちにくくさせたのではないかと彼は考察する。


丸山が扱おうとしているのは、「個人」ではなく「国家」という大きな単位だ。ただ漫然と本書を読むだけであれば、「抽象的かつ難解な本」という印象しか持てないかもしれない。しかし、「個人」のレベルにまで、身近なレベルにまで視点を落としながら読めば、たいへん面白い論考ではないかと思う。

例えば、「思想的座標軸」がない(もしくは希薄だ)と個人的に感じさせられることとして、昨今やたらと新聞広告などで目にする「生きるとはこんなにも素晴らしいものだ」系の本や、「人はどんな状況であっても一生懸命努力すれば報われる」系の本の好調な売れ行きである(あえて固有名は出さない)。これらの本は、巷では一応「自己啓発書」に分類されるのだろうが、広い意味においては「思想書」とも見てとれる。だがそういった「思想書」は数年経てば、「そう言えばそんな本もあったね」ぐらいの、「思い出」に格落ちするのが常ではないか。決して個人にとっての「座標軸」たる「思想」にはなり得ない(仮にそうなるにしても、その確率は圧倒的に低い)。つまり大抵の場合、こういった本は苦しくなった時のための「一時しのぎ」というわけである。

今年(2012年)の3月に亡くなった詩人・思想家の吉本隆明は言う。

しかし戦後の、すべてがでんぐり返ってしまって途方にくれたあの実感は消えない。しかし、そこでぼくは思ったのです。そのときどきの社会を、総体として自分なりに捉えていないと、とんでもない不意打ちを食らうことがあるぞ、と。戦後、変わったのはそこです。(吉本隆明『ひきこもれ』p144)

吉本の言いたいことはつまり、自分自身の「思想的座標軸」でもって世の中を捉えろ、ということだ。言い換えれば、「わたし」はどう見るのか、「わたし」はどう思うのか、「わたし」はどう感じるのか、それを常に意識せよ、である。

一時的にヒットしている「思想書」は、あくまでも「一時的」である。それは「あなた」が徹底的に感じて、考え抜いて、その結果として出来上がった「思想」(「わたし」の視座)ではない。「肉」にはなり得ても、「骨」にはならない代物である。

「自己啓発書として扱われているのに、そんな“骨”なんてものまで求めるのは大袈裟だ」と思われるかもしれない。しかし、こういった「自己啓発書」が出版不況などと言わる時代に、何万部、何十万部も売れるという現象が起きているのは、やはりどこかに皆が「軸」(=自分なりの頑強な視軸)を持ちたいという心理があるからではないか。だとしたら、「骨」となりえる本を読むべきなのだと思う。

では、どんな本が「骨」となりえるか。漠然とした表現だが、それは「難解な論考書」である(必ずしも古典である必要はないが、こういった本はやはり昔のものに多い)。最低でも2度3度は読まなければ意味のつかめない本、それがいいと思う。

逆に、簡単に読めてしまう本は「ありがたみ」が非常に薄くなる。分かりやすい分、「分かった気」になりやすい。最近は「分りやすさ」が書籍においては、何よりも重視されているようだが、これは(出版社にとっても、買い手にとっても)かなりの弊害になる恐れがある。理由は「なんか簡単なことしか書いてなさそうだから、わざわざ買わなくてもいいや」という気になりやすいからだ。「深み」のある本は、確かに時としてその難解さ漂う雰囲気ゆえに人を遠ざけてしまう面もあるが、「深み」がない限り、人はそれをバカにする傾向がある。深く考えようとしなくなる。そういう本は危険だし、なんせ「後に残らない」ことがほとんどである。だから、どうしても重厚な本を読むことが「軸」を作るためには必要である。

とはいうものの、かく言う私もまだまだ「軸」に不備がある。いや、この不備は一生かけても直せるものではないかもしれない。それでも、哲学書を読み、思想書を読み、学術書を読むことだけは絶対に怠りたくない。「本を読んでいれば万事安全かつ健全だ」なんて、これっぽっちも思いたくもないが、どうしたって「軸」の形成には読書が不可欠なのだ。
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