2012/09/09

お金と幸せについて ― 『昭和のエートス』

昭和のエートス (文春文庫)昭和のエートス (文春文庫)
(2012/08/03)
内田 樹

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人がお金を払って何かを買おうとする動機は、大別すると2つある。1つは、それが生きていく上で(どうしても)必要なものである時。もう1つは、それを買うことで誰か(多くの場合、自分自身)が「快」になれる時だ。私が本という品物を買うのは、おおよそ後者という目的があるからである。

しかし、「内田樹のエッセイ」となると、話は変わる。人生、仕事、生と死、教育、幸福・・・ありとあらゆるジャンルについて、内田は語り尽くす。私にとって、彼の本を買うというのは、後者のみならず、前者という目的もあるのだ。そのくらい、今の(若い)自分には、彼の影響力の強さを感じている。

本書も例外ではない。例のごとく内容は多岐に渡るが、その中から「お金と幸せ」の章について紹介してみる。内田の「お金と幸せ」に対するスタンスは、以下のようだ。


1、金で幸せを買うことはできない。しかし、金で不幸を追い払うことはできる。

2、「お金と幸せ」について考え続ける限り、そこから何らかのベネフィットを手にすることはできない。もしそれを手にしたければ、「お金と幸せ」について、できるだけ考えないようにすること。



1について、後半は私も同感である。例えば、早朝の満員電車に乗りたくない時、金を払ってグリーン車などに乗り込めば、「押し合いへし合いという不幸」を追い払う(回避する)ことが可能である。さらに嬉しいことに、ゆったりと読書もできるという「特典」付きで。

ところで、前半はどうだろうか。もう少しばかり、幸せの種類を分けて、「持続性のある幸せ」と「その場限りの幸せ」の2つにしてみた場合、「持続性のある幸せ」については確かに金では買えないと思う。一方、金で買えるのは「その場限りの幸せ」である。

「その場限りの幸せ」とは、具体的な例を挙げれば、「おいしい食べ物を食べること」などである。確かにその時は一時的に嬉しい・楽しい気分にはなる。が、食べ終えればその時の感情は一気に消え去る。文字通り、幸せは「その場限り」である。

他方、「持続性のある幸せ」についてだが、これは「自分で作る」ことによって初めて生まれるものだ。まず、「作った」という達成感が幸せに変じる。また、作ったものをしばらくの間「観賞する」という幸せもある。そして、それを改変したり、そこから刺激されて新たなもの作ったりして楽しむという幸せだって存在する。つまり、幸せが次元の異なる幸せと繋がっているのだ。だから、幸せに「持続性」があるのである。私の場合、ブログはもちろん、個人的に書いている日記もこれに該当している。文章を書くとは、文章を「作る」ということであり、その楽しさというのは、以上に記した通りなのだ(これは自分で自分を観察してみて思うことである)。

そして、作るものは別に具体的事物でなくてもよい。抽象的なもの、例えば「人脈」「友情」などについても同じことが言えるだろう。

しかし、幸せを得るためには「初期投資」として、いくらかの金が必要な場合も少なくない(例えばブログをやる場合、「パソコンを買う」という「初期投資」が必要である)。そういう意味で、厳密には金を要していることにはなる(しかし、莫大な量の金は必要ない)。

さて、1について、あれこれと色々考えてみたが、2はどうか。これもやはり同感である。逆説的に聞こえるが、幸せとは「自分が幸せであると意識して“いない”時」に初めて得られるものだ。なぜかというと、幸せな時は、自分を幸せにさせてくれる対象に夢中だからである。そして、普段我々が口にする幸せとは、事後の「思い出す」という動作によって感じる、「仮」のものである。

また、経験則からして「幸せとは何か」について考えている時というのは、たいていの場合、幸せでない時だと言える。言い換えれば、こういったことを考えるようになったら、「私は今、不幸です」という証しだ。

ということは論理的に考えると、今こんな文章を書いている私も「不幸」ということか(笑)。
2012/09/05

「専門家」は、神様ではない ― 『「心の専門家」はいらない』

「心の専門家」はいらない (新書y)「心の専門家」はいらない (新書y)
(2002/03)
小沢 牧子

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ここ最近の新書に興味の持てるものがなかったので、中古本を漁っていたところ、本書を見つけた。

「心の専門家」(カウンセラー、セラピストなど)は、いらない――これはタイトルにもなっているが、まず、この主張に意表をつかれる。ずっと昔から、こういった職業に就いている人たちに対して、何らの疑問も抱いたことがなかったからだ。相談者の悩みに耳を傾け、真摯に相手に寄り添う――「心」を扱う仕事とは、そういった「なくてはならない存在」だと思っていた。

ところが、その印象は本書を読んで打ち砕かれた。完全に、とまではいかないが、少なくとも「心の専門家」と呼ばれる人たちに対する見方は大いに変わった。

「心の専門家」たちは、心理テストや問診などを通じて、相談者と触れ合う。しかし現実は、両者の「勘違い」の連続であると著者は喝破する。

例えば、相談者は自分の悩みを聞いてもらうことで、「専門家」に対し「親しさ」を感じるようになるが、「専門家」は親友でも恋人でも親でもなく、あくまでも「金銭的に作られた人間関係」である、という事実をしばしば忘却してしまう。「専門家」が親しく接してくれるのは、相談者が「クライエント」だからであり、報酬を払ってくれるからである。

誰かに、自分の中にある不安を打ち明けたいものの、それができない人が多い昨今において、このような「金を払わない限り、自分の腹の底を他人に見せることができない」という好ましからざる状況を、「心の専門家」自身が微塵も意識せずに作り上げてしまっているという現実は、果たして容認されて良いものなのか――筆者は、自身の過去も踏まえながら、読者に(特に「専門家」たちに)そう問いかける。

また、「心のケア」にも疑問を呈す。学校などの教育機関において、「心の専門家」たちは、心理的に不安定な児童を精神の面から支えるという仕事をしている。それを見聞きした親たちは、我が子の安全がしっかり守られていると思って、安心し切っている。だがそういった「支える」という行為は、本来、親のやるべきことではないのか。「専門家」が、その職業的アイデンティティから、そういった業務に励むことは、逆に親子の触れ合いや対話という大切な営みを阻害し、奪取することになりはしないか。著者は、こういった事例をひとつひとつ挙げながら、「専門家」たちによる「善行」の見えざる陥穽を炙り出していく。

私としては、特に後者に共感できた。昔、学習塾の講師をしていた時、同じようなことを感じたからである。そこでは、授業を終えた後、子どもの迎えに来た保護者に対し、その都度今日は何をして、どうだったのかということを逐一報告するよう、上から指示されていた。何か特別な面談でもないというのに、なぜ講師が一々そんなことをしなければならないのか。今日やったことなど親が子どもから直接聞き出せば良いではないか。また、それを講師がやってしまうというのは、親と子の対話をひとつ奪うことにもなりはしないか――そういう疑問が私の中には強くあった。本来、親自らが関心を持つべきこと、そして実践しなければならないことを、こちら側が「サービス」としてやるという「善行」は、長い目で見た時、誰のためにもならないと私は感じていた。一方、親は親で、調べれば分かるようなことも調べようとはせず、ほとんど全てを「専門家」に任せてしまい、受験勉強ならともかく普段の子ども勉強についてさえも「そういう難しいこと、私にはよく分からないから…」「ダメダメ。そういう小難しい話、苦手なの」という態度・有様だった。

「専門家」に頼るのはいけない、ということではない。要は、過度に頼りすぎているのが問題なのである。特に、目には見えない精神的なもの(心や知的なもの)を扱う(仕事にしている)人たちに対しては、彼らを頼りすぎる傾向が強いと思う。また「専門家」たちも、どこまでなら相談者に「頼られて」よいか、どこからは相談者を「突き放す」べきか、という線引きを予めしておく必要があるのではないか。とは言っても、それらが容易にできることでないのは重々承知だが。