2012/12/27

なぜ私は文章を書くのか

今年(2012年)も残すところ、わずかとなった。そして同時に、このブログも、始まってからおよそ2年が経とうとしている。実は、このブログ以前にも別のブログをやっていたのだが、ほとんど続かず、すぐに潰してしまった。だから今、このブログが奇跡的に「生存」していることに、嬉しさを感じている。

ところで今、私はこのブログにアクセス解析を取り付けていない。理由は、たぶん誰も読みに来ないだろうと思っているからだ。別に自虐でも謙遜でもない。面白いことなど何一つ書いていないし、いつも何だか中途半端な「読書感想文」で終わってしまっているなと反省している。

それに、仮に取り付けたとしても、訪問者数のあまりの少なさに、きっとめげてしまうであろうことも自覚している。こういう理由から、私はアクセス解析を取り付けないことにしている。

それなら、「日記」で物を書けば良いではないか、という話になってくる。なぜ、「日記」ではなく「ブログ」という形式で物を書き続けているのか――それが実のところ、自分でもよく分かっていないところがある。無論、ぼんやりとした理由として、「何だかんだ言っても、やっぱり誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」という子供じみた自己顕示欲から、というものと、「奇跡的に、何十年後かまでにもこのブログが残っていたとして、その時それを自分の“思い出”として読みたい」という淡い想いから、というものがある。

しかし、“本当に”こうした動機でブログをやっているのだとしたら、もっと積極的にブログの更新をしているんじゃないか、また、もっと積極的に他の人たちと交流しているんじゃないか(ツイッターを使ったり、相互リンクしたり、など)と思っている。

にもかかわらず、ツイッターは(昔はやっていたが)今はやっていないし、以前、自分の書いたものを投稿していた書評サイトにも、今は投稿するのをやめている。つまり、一方で人と簡単にコミュニケーションが取れるネットの世界で物を発表しつつも、人と交流することは“意図的に”避けてしまっている自分がいたりするのだ。そのくせ、「誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」などという感情を持っていたりして、色々な「矛盾」が私の中にはある。

このことについて、少し考えてみた。なぜ私は文章を書くのか。それは、結局「物を書くことで、そこに“私”が存在しているということを、無意識的に確認したがっているから」なのだと思う。

しかも、それがなぜ「ブログ」で、なのかというと、「誰かに自分の書いたものや、自分の考えを読んでもらいたい」という気持ちもあるものの、「“もしかしたら”誰かに自分の書いた文章が読まれているのかもしれないが、その“文章”を作ったのは、他の誰でもない、この“私”であり、それを“他人”が読んでいる。だとしたら、“私”はやはりこの世の中に“きちんと”存在しているのだ」といった、非常に回りくどい「自己確認」をしたがっているからなのだと思う。

こうしたことは、別にブログに限った話ではないだろう。自作の音楽をネットにアップしたり、小説を発表したり、絵を公開したりすることも、どれも先の意味での「自己確認」に繋がると思う。自分の作ったものを人に見せるということは、同時に自分の作ったものを自分で確認している、ということでもある。

そして、自分の作ったものは、どれもすべて「自分のこと」として関わってくる。物を作り、それを他者に見せるのは、どんな場合でも「自己表現」になるのであり、「自己表現」とはすなわち「自己確認」なのだと感じる。つまり、何かを作ることでしか、「自分」とか「私」といったものを確認できない自分が、そこにいるのだ。

そう考えると、文章を書くこと、とりわけそれをブログでやるということは、ある意味「格好悪い」ことかもしれない。また、「精神的に弱い」ことかもしれない。別にわざわざ物を作らなくとも、楽しいことなどこの世にいくらでもある。しかし時々、「自分」の存在(=「自分」がこの世にきちんと「いる」のだということ)を確認したくなる時というのが、私には訪れる。

それで文章を書く、ブログをやる(また時には「日記」という形で)といったことをしているわけだが、そんなことでもしない限り、「自分」を確認することができないことに、やはりどうしても「格好悪さ」「精神的な脆さ」といったものが付きまとってくるのではないかと思うのだ。

文章を書くことで、「何者でもない私」から「文章を書く私」、言い換えれば「何者かである私」に(一時的にではあるが)なれるのだろう。結局、「何者かである」ということによってしか、安心というか満足感というか、そういったものは得られないのだと感じる。だからこそ、そこに拘ってしまう自分の中に「格好悪さ」を見つけてしまうのだ。

しかし、何だかんだ言っても、やはり書くことは私にとって必要なことだし、また書き終えた時の達成感も好きだ(「書いている時」というよりも、「書き終えた時」といった方が正確だ)。だから今後も、ブログを続けていくと思う。ブログ開始から2年目を迎える者にとって、過去に自分の作ってきたものが貯まっていくという感覚は、何ものにも代えがたい。

また、このブログが“最終的に”どのような形で「幕を閉じる」のか(それは自分が突然死んだことによってなのか、それとも単に飽きてやめてしまってなのか、など)も、何となく興味がある(そんな日が来るのは、ずっと先で良いのだが)。

また例のごとく、言い足りたことよりも、言い足りなかったことの方が多かったかもしれない。しかし、自分で言うのも変だが、何が言い足りなかったのかがはっきりしない(「覚えていない」という感じもする)。こうした言葉による「表現不足」は、文章を書く、とりわけ自分のことを書く時には付き物だ(私はもう何度もこのことを経験している)。それでも、物を書くのは書きたい衝動に駆られるからである。

ということで、あまりうまくまとまらなかったが、以上で今年の締めとしたい。
2012/12/26

「生の現実」をよく「観察」せよ ― 『方法序説』

方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫)
(1997/07/16)
デカルト

商品詳細を見る


ここ最近、私は社会科学(=社会や社会現象を「分析」する学問)というものに対し、不信感を抱いていた。どのような点においてかというと、その「もっともらしさ」にである。ある社会において、ある特別な事態や状況が生じた時、その原因が何に由来するものかを分析・調査するのが社会科学の仕事だが、その「分析」やら「調査」やらに、胡散臭さを感じていた。

「分析」だの「調査」だの言うけれど、実はどれも「言葉の持つ曖昧さ」を無自覚に「利用」をしているのであり、なんとなく「そうだ」と言えそうな言葉、つまりその現象を言い当てられそうな、「もっともらしい」言葉でもって、その社会現象を「説明」している(否、「したことにしている」)だけなんじゃないのか――こういった不信感である。

例えば、よく耳にする「日本人は集団主義だ」とか「日本人は“和”を重んじる」とかいった言説など、私には非常に怪しく見える。こういったことを最初に唱えたのは、『菊と刀』で有名なベネディクトらしいが、彼女は一度も来日したことがない。しかし今でも、この本は「日本(人)論」の代表的位置にあり、何かと話題になる。

つまり、こういった学問は、実はいかようにでも解釈できる事柄を、「もっともらしい」言葉でもって、「もっともらしい」説明をしているだけで、何一つ真実を言い当ててなどおらず、結局「印象批評」にとどまっているだけなのではないか――こうした不信感を、どうしても拭い去れないでいた。

そんな時、たまたまふと手にとったのが、この『方法序説』である。世間では、一応「哲学書」ということになっているらしいのだが、私には、デカルトの「“俺ならこう考える”論集」に思える。

それはともかく、なぜこの本に惹かれたのかというと、デカルトが非常に「実体験」を重視しているからだ。そして私が彼を見習いたい点は、こうした「実体験」を通しての、事物の「観察」を重んじているところである。本書の「第一部」でデカルトは、ただひたすら書斎にこもって「文字の学問」(主に文献をもとにした研究)に耽ってなどいたところで、所詮それは空疎な思弁であると言う。

そんなことをしているよりも、外に出て色々なものを見たり、人と交わったりすること(もちろん、ただ「する」のではなく、じっくりとその状態や状況を「観察」する、という意味合いで)の方が大事だと思うようになる。そして実際に、彼自身が見たものや、その時思ったことなどを、彼自身の中で「消化」していく。そうやってできたのが、この『方法序説』なのだ。

つまり、この本はデカルトが自身の「肉体」で書いたものなのである。「肉体」で書いた以上、書斎(研究室)にこもって本だのテレビだのネットだのの情報をもとに、社会(現象)を「分析」した本などより、よほど価値もあるだろう――読んでいて、そう思い始めた。

もちろん、だからといって、そうした本にいつも「正しいこと」「価値あること」が書かれているわけではない。また、先の「言葉の曖昧性」の問題も、「肉体」で書いたからといって解決するわけでもない。しかし、自らの体をその現象の中に投じ、そこからその現象を観察したのだから、信憑性や説得力は大いにあるのではないか。また、社会科学の本を読むにしても、このことがきちんとできているものを読むべきなのだと思う。

「生の現実」に忠実であれ。そしてそれをよく「観察」せよ――デカルトのこの本から学ぶべきことは、「我思う、故に我あり」ではなく、ただこの一点だと思う。
2012/12/18

リーダーは、「サディスト」であれ ― 『マーガレット・サッチャー』

マーガレット・サッチャー 鉄の女の素顔 [DVD]マーガレット・サッチャー 鉄の女の素顔 [DVD]
(2012/09/04)
マーガレット・サッチャー、メリル・ストリープ 他

商品詳細を見る


この映画は、サッチャーの政治家人生を「大まかに」描いたものなので、全体としては今ひとつという感想が拭えない。しかし、彼女の持つタフネスはよく伝わった。「鉄の女」という異名は、(これを見た限り)伊達ではなかったようである。

映画の後半で、サッチャー自身が、政治家が「人気者」になろうとすることを強く批判するシーンが何度か出てくるのだが、それが個人的に印象に残った。国民に媚びへつらう政治をするのはいけない。今その時は苦渋の決断であっても、そして国民に負担を強いることになっても、それが後々にはきっと高く評価される、そういう決断をすべきだ――おおよそ、こんなセリフを彼女は口にしていた。

「おもしろい」ことに、今の日本ではこの逆の状態が起きている(いや、「誰か」が「起こしている」と言った方が正確だろうか)。例えば、それは「国民の“みなさま”」とか「“国民に優しい”政治」とか、政治家が国民に対し「~“させていただきます”」といった定型句として表れている。これらに共通しているのは、政治家は「商人」であり、国民は「お客さま」という構図だ。もっと「いやらしく」言い直せば、政治という目には見えない「サービス」を施す者と、それを「享受」する者という図式である(このような点から見て、政治家を俗に「政治屋」などと言うのは、「二重の皮肉」なのではないか)。

さて、映画後半、サッチャーに挫折が訪れる。あまりにも独断的になりすぎたために、周りから反発を食らうのだ。結果、ライバルに敗れ、10年ほどに渡った首相の座を明け渡すことになる。10年! かなりの長期政権である。しかも、家柄と男性性が重視される政治という場で、である。これは大変な「偉業」ではないか(サッチャーのやった「内容」が「偉業」であるかは、この際問わないことにする)。

なぜここまで続いたのか、という詳密な分析は政治学者に譲るべきだが、私が思うその理由は、サッチャーが国民に「優しくなかった」から、に尽きる。もっと刺激的な言葉で表現すれば、国民という「マゾヒスト」に対して、彼女は常に「サディスト」であり続けたからだと思う。

もう一度言おう。「サディスト」である。これは単に、「威厳に満ちた政治家」とか、「国民に畏れられている政治家」といったような者たちとは全く違う。人々に「恐れ」と「畏れ」を抱かせるという点では先の2つと共通するが、それに加え、相手に「快感」をも与えるという点においては、「サディスト」は特異な存在である。

問題は、――人々が何を「快感」としているのか、どんなふうに「弄んであげ」れば、その「快感」を与えることができるのか――この2つをどうやって知り得るかだ。ただひたすら、ムチで引っ叩いたり、三角木馬に乗せてイタブったり、ロウを体に垂らしても、人々は「マゾヒスト」であり続けることはできない。むしろ反発心が芽生えてしまうからである。

おそらくサッチャーは、イギリス国民の「快感」と、彼(女)らの「いじり方」をよく知っていたのだろう。仮にそう考えると、「鉄の女」という異名に、何か非常にイミシンな響きを感じずにはいられない。というのも、英語の「鉄」(iron)は、「鉄製の器具」とか「手錠」といった、アレなものも意味するからである。

以上は冗談だが、しかし、優れたリーダーである人たちに、おおよそ「サディスティック」な側面があるのは否定しがたい。彼(女)らは、相手に厳しく接しつつも、「快」を与えているのである。

この「サディスティック」は、性格的なものなので、技術でどうこうできるものではない。だから、「サディスティック」性のない人が、リーダーシップ論を説いた本を読んだところで、「とりあえずのリーダー」にはなれても、「優れたリーダー」にはなれないと思う。

今の日本の政治家に、「サディスト」はいない(「マゾヒスト」はたくさんいるが)。むしろ、国民が「サディスト」になってしまっている感がある(しかも、なんらの「快感」も与えない、非常に「冷酷」な「サディスト」である)。政権が再び交代した今、既存の「サディスト」たちを、「マゾヒスト」化させるだけの力がある、「サディスティック」な政治家が、果たして現れるのか――「マゾヒスティック」な政治家たちを、毎日、テレビで見るのはもう勘弁である。
2012/12/08

日本人の思考回路の原点 ― 『日本語と日本語論』

日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫)
(2007/09/10)
池上 嘉彦

商品詳細を見る


認知言語学の視点から、日本語と西洋の言語を比較・考察するというのが、この本の主旨である。

学術書とは言え、ちくま学芸文庫に収められた本だから、そんなに難しくはないだろうとは思っていたが、この予想は翻された。本書はかなり本格的な言語学の論考集である。

取り扱うテーマは、日本語における主語の省略について、「モノ」と「コト」と「トコロ」という捉え方、言語における「数」の概念(複数形)の有無について、などだ。

最も興味深かったのが、日本語における主語の「場所」化、という現象である。例えば、以下がその「場所」化された例文。

①天皇陛下ニオカセラレ(マシ)テハ、自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナリマシタ。
②東京ハ人ガ多イ。
③象ハ鼻ガ長イ。

①では、「天皇陛下」という主語が、「場所」になっている(=「オカセラレ」の部分が、「天皇陛下」を「場所」化している)。そしてその「場所」で、「自ラ杉ノ苗ヲオ植エニナ」るという出来事が現れている(=出来している)。

②も同様。「東京ハ人ガ多イ」という文は、「東京ニオイテハ人ガ多イ」とも言い換えられる。しかし、われわれの普段の言い方では、「東京ハ人ガ多イ」の方が自然である。この文の場合、主語は「東京」だが、その主語自体が「場所」化されている、と捉えられる。

これを英語にした場合、

1、There are many people in Tokyo.

もしくは、

2、Tokyo has many people.

のいずれかになるが、1では主語はThereだし、2では主語はTokyoだが、動詞hasを見てわかるように、Tokyoが擬人化(=主体化、能動者化)されている。つまり、いずれの場合もTokyoは日本語の時とは違い、「場所」化されないのである。

③は分かりづらいがこれも、「象」という「領域」(=「場所」)において「鼻(=主語)ガ長イ(=述語)」という事象が起こる(=出来する)、と解釈できる。つまり、「象ニオイテハ鼻ガ長イ」という言い方が可能なのである。

日本語における主語の「場所」化という現象の奥には、古い日本語の「AハBナリ」が、もともとは「AハBニアリ」(すなわちA<B)だったこととも関係している、という池上氏の指摘は非常に興味深い。つまり、日本語の文は古くから「場所」という概念要素と関係があったのである。これは、英語のA is B(すなわちA=B)とは、厳密には違うことを意味する。

日本語における「場所」化という現象でさらに気になったのが、日英の辞書において、言葉の定義の仕方(というよりも見方)が異なる、という点だ。例えば「火葬場」(crematorium)という言葉は、日本語では「火葬をする“場所”」とされる。しかし、英語での定義では、“a building in which the bodies of dead people are burned at a funeral ceremony”なのだという。ここで注目すべきは、日本語では「場所」と捉えているのを、英語では“building”(建物)と捉えている点だ。つまり、一方はそれを「二次元平面」と見るのに対し、他方は「三次元体」(=立体)と見るのである。

詳細およびその他豊富な事例の紹介については本書に譲るが、こういった各々の事実を文化論的に捉え直すとするならば、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」と言えるかもしれない。池上氏は、これだけの事実から、そういった文化論・文明論に持っていくのは尚早だとしているが、私はこういった、「凸型の西洋」「平面型・凹型の日本」という見方もアリなのではないかと思っている(ちなみに、岡本幸治という政治学者が同様のことを唱えている)。確かに、単純な二項対立のきらいはあるものの、これを更に抽象化させた、「主体性」(=「凸的」なもの)を重視する西洋、それを軽視、場合によっては敵視する「平面的・凹的」な日本という構図は、至る場面で見られる現象ではないだろうか(今の政治経済を見ていると、不幸なことに、つくづくそう感じてしまう)。

明治期の日本で、初代文部大臣を務めた森有礼が、日本人に日本語を捨てさせ、英語を学ばせようとする政策を唱えたことがあった。この意図は、今日で言うところのいわゆる「グローバル化」に対抗するため、ということだろう。結局、幸いにしてこの政策は実現しなかった。だがもしかしたら、森は、日本語の「平面的・凹的」性格を見抜いており、欧州列強の侵略にやられない「強い日本人」をつくるためには、「凸的」である(=「主体性」のある)英語を学ぶ、それによって「主体的」な日本人になるしか生き残る道はない、と密かに考えていたからではないか――本書を読んでいて、そんなことをふと考えてしまった。丸山眞男は戦後、日本人の「主体性」、そしてそこに宿る「責任」のなさを散々に批判したが(『日本の思想』『日本政治思想史研究』を参照)、おそらくこの「問題」を解決するためには、日本人が日本語という言語を捨てない限り、無理なのではないだろうか。

そう考えると、現在の日本における英語ブーム(TOEICだの英検だの英会話スクールだの)は、単なる「グローバル化」への対抗策以上のものを感じさせないでもない。「主体性」(=「凸的」であること)を手にするために、「無意識的に」われわれは「英語」という言語を学ぶ(学びたがっている)のではないか。そして同時に、ややもすれば、自分はマイノリティなのだ、傷ついた存在なのだ、それにより不幸なのだ、と思い込みたがる日本人の自虐性(世界の幸福度調査で、日本が他の先進諸国と比べ、圧倒的に低い数値を出している点など)は、日本語の「凹的」性格、それによって築かれる日本人の思考回路に起因するのであり、それを克服「したい」がためにも、われわれは「英語」を学ぶのではないか――

無論、以上の私の考えは、かなり飛躍的かつ過激であり、やや反日的でもある(しかし、何を言われようと、私は日本と日本語が大好きなのだが)。何ら、根拠となる事実は示せないし、今は単なる仮説、いやむしろ妄想・暴論に近いといってよい。しかし、日本語、ひいては日本語を母語とする日本人において、この「場所」という概念は切っても切れない関係にあることは、本書を読む限り、確かだと言える。この点について、西田幾多郎が哲学的思索を進める中、「場所」という概念に行き当たったという事実は非常に興味深い(岩波文庫『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』の『場所』を参照)。

最後に、池上氏の他の著作として、私は先日『「する」と「なる」の言語学』(大修館書店)という本を注文した。機会があれば、この本についてもブログで取り上げたいと思う。