2013/01/31

承認欲求地獄 ― 映画『ユダ』の感想

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公式サイトはこちら

日曜の朝にやっているテレビ番組「サンデー・ジャポン」で宣伝されていたので観に行った。原作は『ユダ』(幻冬舎文庫)という同名の本だ。

マイナーな映画らしく、公開している劇場が限られている。私は「新宿ミラノ」で鑑賞した。散漫なところも多少あったが、役者も良く、すごく面白かった。いい映画だったと思う。

内容は、元歌舞伎町ナンバーワン・キャバクラ嬢、立花胡桃の半生を描いたものだ。


高校生だったその冴えない少女は、ある晩、とある男からキャバクラ嬢をやらないかと誘われる。短期間、好きな時だけ働けばよく、金に困ってもいたため、胡桃はその仕事に踏み込むことにした。

しかし、気がつけば歌舞伎町で、しかもナンバーワンの指名率を勝ち取るまでになる。だが、それも長くは続かなかった。金と欲望、一時の友情と裏切り、そして偽善が徐々に彼女を狂わせていく。


私はキャバクラという所に行ったことがない。昔、あるバイト先の上司に、そこへ連れて行ってもらえそうにはなったが、その時は時間が時間で、結局行きそびれてしまった(今もけっこう後悔している)。

そんなわけで、キャバクラそのものへの関心と、キャバクラ嬢をやる女の子たちの心理とはどのようなものかを知りたいという理由から、この映画を観に行った。

キャバ嬢という仕事は、相手の男に、「しばらく会えなくて寂しかった」とか「今度はいつ来てくれるの?」とか「今日は誕生日だね、おめでとう!」とか言って「営業」するものの、それはすべては男の承認欲求(相手に「認められたい」「好かれたい」といった気持ち)を満たしてリピーターにするためなのだと鑑賞前は思っていた。

つまり、「相手(男)の承認欲求を満たしてあげる」ことが最も重要視される仕事なのだとわたしは考えていた。

ところが、映画を観ていて気づかされた。実はキャバ嬢の女の子たちも、男たちによって承認欲求を満た「され」ているのだ。たくさんの男たちから指名される。徐々に位が上がっていく。それは紛れもなく自尊心(承認欲求)が満たされることを意味する。

映画では、キャバ嬢たちが休み時間中のお喋りで、「男なんておだててナンボ。笑顔も好意も全部“営業”」という赤裸々な話をするシーンが出てくる。それはそれで確かだろう。

しかし、そんな彼女たちであっても、笑顔も好意も全部「営業」で、おだててナンボの野郎たちがいなければ、自らの承認欲求を満たすことはできないのだ。



鑑賞途中でこのことに気づかされ、すごく切ない気持ちなった

お互い、多かれ少なかれ相手を見下す感情がそこにはあると思う。一方は他方を金ヅルと見なす。その他方は相手を、肉体的にも精神的にも征服したい欲を持つ。そんな両者を結びつけるのは金銭のみ。

そしてその金銭を媒介に、彼・彼女たちは自らの自尊心・虚栄心を満たそうとし続けるのである。

しかし当たり前ながら、そのような方法で承認欲求を満たし続けるやり方は、いずれ破綻する。胡桃と親しくしていた男たちは借金や警察に追われるハメになり、彼女も昔から接待していた冴えない客に本気にされ、襲われてしまう。昔の勤め先の先輩からの助言もあり、最終的に胡桃はこの仕事を辞める決意をする。

当初、胡桃と接待客との“win-win”だった関係は、次第に“lose-lose”の関係へと転落していくのだ。

結局、金で「認められたい」「好かれたい」という気持ちは、完全には満たされない、満たされた気にはなっても、それは一時的なものにすぎない、というシンプルな結論に落ち着く。シンプルではあるけれど、どこかで何かを間違うと、この「事実」を忘れるのだろう。

そういう意味で、キャバクラは「怖い」ところだ。ヤーさんが運営しているかもしれないから怖い、という意味ではなく、キャバクラにハマりすぎてこの単純な「事実」を忘れるかもしれないから怖い、という意味で。

以前ネットで、「女の子が就きたい職業」にキャバ嬢がトップテン入りしていたとかいうニュースが話題になった。しかし、この映画のことを考えてみて、改めて感じた。

無理もないかもしれない。だってなんだか、自分の自尊心や、「私はこの店に必要とされている」という感覚が満たされそうな雰囲気がするのだから。しかも高給取りだ。危なそうな感じもするけど、「おいしそうな」匂いもする。

もし、そう感じている子が近くにいたら(実際はいない)、私はこの映画を観ることを薦めようと思う。キャバ嬢の世界は「けっこう大変」だということを知らせるためには、格好の「教材」だから。



ところで、タイトルについてだが、「ユダ」とは、新約聖書に出てくるあの「ユダ」のことである。十二使徒の一人だが、彼はイエスを敵に売った背信の徒だ。

つまり、裏切り者である。そんな彼に、作者の立花は自分をなぞらえてタイトルを『ユダ』にしたのだろう。別に、この物語はキリスト教とは一切関係ない。そんなわけでこの映画(本も)は、かつての自分が「ユダ」であったという告白、そしてそんな自分を描くことで今の自分を戒めるための、立花胡桃による「懺悔録」とも読めそうである。


ユダ〈上〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)ユダ〈上〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)
(2010/11)
立花 胡桃

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ユダ〈下〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)ユダ〈下〉―伝説のキャバ嬢「胡桃」、掟破りの8年間 (幻冬舎文庫)
(2010/11)
立花 胡桃

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2013/01/28

私がツイッターをやめた理由

昔、私もツイッターをやっていた。
動機は、大したものではない。なんか流行っているし、ブログの宣伝にもなりそうだし、個人的な興味もあったので始めたのだ。

実はツイッターもブログと同様、私は3回ほど、始めてはやめ、始めてはやめ、を繰り返した。そして今は“きっぱり”やめることにした。

なぜツイッターを“きっぱり”やめることにしたのか。理由は3つある。


1:「普通の生活」をしている自分には、ツイートすることが何もないから。

2:考えていること(考えたこと)は、「一度に」「まとめて」文章にした方がいいと思うから。

3:自分が何かをツイートするよりも、人のツイートを見ている方が楽しくて楽だから。




1について


ツイッターをやめた理由の70%は、1の理由からである。ツイッターを色々とイジってみた挙句、結局普通に生活をし、普通にインターネットをする私にとっては、何かを見てつぶやく(べき)ことが何もなかったのだ。

本当に、何もない。例えば、2chのまとめサイトを見てつぶやくことは、過去に何度もあった。が、そのうち「別に自分がつぶやかなくても、他の大勢の人がつぶやいているのだから、わざわざ自分がそうする必要などないじゃないか」と思うようになった。

別に2chのまとめサイトに限らず、他のブログ記事についても同じである。私がつぶやこうと思う記事は、決まってもうすでに誰かが(しかもたくさんの人たちが)ツイートした後なので、つぶやく必要性がまったくと言っていいほど感じられないのである。

こうなってくると、「じゃあ、自分の身辺のことでもつぶやくか」となってくるかもしれない。しかし、どこの誰かも分からない人の身辺についてのつぶやきに、何の価値があるのだろう。「お腹が痛いなう。電車なう。ピンチなう」とか、「今日のお昼はイタリアン!デザートは別腹。旦那には内緒」とかつぶやかれても、フォロワーにとっては迷惑だろう。

というわけで、ネットの記事にせよ、身辺情報にせよ、私には何らつぶやくことや、つぶやく必要性が、何ひとつなかったのである。



2について


これは、ツイッターを“きっぱり”やめて、ちょっとしてから気がついたことだ。

自分が考えていることは、(自分だけの秘密にするにせよ、他人に見せるにせよ)ある程度まとまってから、ある程度分量のある文章にした方がいいのではないか、と私は思っている。だからツイッターはやめても、ブログはやめないのだ。

というのも、ツイッターでその都度その都度、つぶやくという行為は、自分の思考を途中で「裁断」してしまうことに気づいたからである。つぶやけばつぶやくほど、自分の頭の中でおこなわれることが「思考」ではなく、「細切れ」にされた、ただの「思いつき」ばかりになっていきそうだからだ。

「ツイッターに限らず、ブログだって所詮、思いつきの垂れ流しのようなものじゃないか」という意見もあるだろう。確かに、場合によってはそういう面もあると思う。しかし、ブログはツイッターと違い、字数制限がない。とにかくキーボードを叩いて、たくさんの文字が打ち込めるのだ。この「たくさんの文字が打ち込める」というのは、思考がよどみなく動き続けていることの表れである。

そしてこうした動きは、非常に自然なものだ。思ったこと、考えていることがどんどん膨らみ、溢れるように出てくる。途中でその「勢い」を終わらせてしまうことが、非常にもったいなく感じる。おそらく、文章を大量に書いている人には同じ体験があるのではないだろうか。

つまるところ、これが「思考」なのだと思う。一方、「思いつき」というのは、パッと現れ、パッと消えていくような、そういった刹那的なものだ。“断”続的、といってもいい。

ツイッターは、こうしたよどみなく続く思考の流れや発展していく状態を、「字数制限」という装置によってストップさせてしまう。「だったら、連続ツイートすればいい」ということになるが、なぜ140字の時点になったら、自分の思考の流れをストップさせるような媒体を、「わざわざ」使わなければならないのか。それなら始めから、ブログの方が便利ではないだろうか。

別に、私はツイッターがブログよりも劣った道具である、などとはこれっぽっちも思っていない。そうではなく、絶え間なく続く思考の流れをわざわざ止めてしまう性質がツイッターにはあるのだから、少なくとも、その「絶え間なく続く思考の流れ」を重視したい“私にとって”は、ツイッターよりもブログの方が合っている、というだけの話である。決して、ツイッターには何の価値もない、ということではまったくない。



3について


これも自分がツイッターをやめてから気がついたことだ。過去のつぶやきを見て、私基準で「この人は有用なことをつぶやく可能性が高い」と思った人のツイッターを覗くことが、私にはぴったりだと感じるようになった。

「有用なこと」とは何か。これは一概には言えないだろう。先ほどの、「お腹痛いなう」とか、「今日のお昼はイタリアン」とかは、とりあえず「有用なこと」ではないはずである。

私が思う、私にとっての「有用なこと」とは、社会批評の記事とか、書評とか、一風変わった自己啓発系のエントリーなどの紹介だ。

そういったものを、ひたすらツイッターで紹介してくれる人は、非常にありがたい。いつもいつも「今日はどんなことをツイッターで紹介してくれるのだろう」と期待しながら、その人のツイートを見てしまう。

問題は、そういう人がどのくらいいるのか、そういう人に出会えるのか、である。幸い、私はそういう人を見つけた。決して有名人ではないが(有名人でもつまらないことばかりつぶやいている人は大勢いるが)、私の基準に照らして非常に「有用なこと」をつぶやいている。素直に、ありがたいことだと思う。

以上3つ、私がツイッターをやめた理由を書いてみた。こうして見ると、ツイッターをやめたとか何とか言いながら、結局ツイッターについて色々考えている自分がいたのだなあ、と思う。つまり、なんだかんだでツイッターと「間接的に」関わっていた、ということか。そういう意味で、本当はツイッターを「やめていない」のかもしれない。

話は若干変わるが、押井守の『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)が出版された時、その本のオビには「つぶやけばつぶやくほど、人はバカになる。」と書かれてあった。買いはしなかったが、かなり強烈な文句だったのでそこだけは覚えている。

しかし、あながちウソでもないかもしれない。言い得て妙だとも思う。先ほども言ったとおり、ツイッターは、自分の思考を「細切れ」にしそうな感がある。長時間、じっくりとものを考える、ということをおろそかにしそうだ。何かを見てすぐに反応し、何もよく考えずにツイートばかりしていれば、「バカ」になるのは間違いない。

誤解されないためにもう一度言うと、私はツイッターを使うことや、つぶやくことがダメだと言っているのではない。そうではなく、いつもいつも、大したこともないのにツイートしまくったり、じっくりと考えずに即時的にネットにものを書き込んだり、ということに危なさを感じるのだ。

とはいっても、これはブログや他のSNSにも当てはまることだろう。私も注意しなければ。


2013/01/26

私は、本とDVDに「選ばれ」る ― 『選ぶ力』

選ぶ力 (文春新書 886)選ぶ力 (文春新書 886)
(2012/11/30)
五木 寛之

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近頃、五木寛之の健康観に関心がある。きっかけは、『養生の実技』を読んでだった。

おもしろい本だ。いま手持ちの本のオビには、「つよい心身(カラダ)が折れるのだ。」とある。五木によると、心や体は屈すること、萎えること、曲がることが大事なのだという。

嫌なことはイヤこととして捉えろ、無理にポジティブに捉えようとするな、それよりもグッタリして、ゲンナリして、またそこから徐々に起き上がればいい、ということだ。

本書も五木流の健康観や養生法が出てくる。しかし、基本的に前著と中身は同じ。それよりも、私にとっておもしろかったのは「本とDVDを選ぶ」の章だった(引用部分太字は私)。

そして現在では、DVDをみる時間が、ほぼ活字を読む時間に拮抗している。(中略)DVDといっても、最近は驚くほど幅がひろい。AVからドキュメント、専門的な学問の講義から宗教儀式まで、あらゆる分野の映像が揃っている。DVDをみることは、現代の読書であると思うようになった。(p.61-62)

最近になり、私もDVD(主に映画)をよく観るようになった。中でも社会派の映画が好きだが、今はなるべく色々なジャンルのものを観るようにしている。

ギャンブル映画やヤクザものなどもいい。自分の知らない世界や、裏社会がどういうものなのかを手頃に知ることができる。そういう疑似体験は大切なのだと、今は考えるようになった。

そういう意味で、五木の「DVDをみることは、現代の読書である」という意見は、ものすごくうなずける。本を読むのも、もちろんよい。だが、今はいまでDVDという便利な「本」がある。

それに、従来の本と違って「映像」があるのだから、インパクトは圧倒的にこちらの方が強い。頭に焼き付きやすい(=記憶しやすい)のは、確かだろう。

そして本章の最後に、こんな一節が来る。

私たちは、本にせよDVDにせよ、それを選ぶときに一定の基準などないのである。それはノウハウではなく、出会ったということなのだ。世の中、偶然や気まぐれして面白味があるだろうか。私たちは選んでいるようにみえて、じつは見えない何かに選ばれているのではあるまいか。(p.68)

本書のタイトル『選ぶ力』の「選ぶ」と結びつけた締めの文だ。

自分が何かを選んでいるようで、実は自分もそのものに「選ばれ」ている、か。確かにそうかもしれない。どんなものにせよ、人は自分の知的レベルに合ったものしか選べないのだと思う。

逆に、その選んだものから、「あなたは知的レベルはコレコレですよ」と言われている、という見方もできよう。そう考えると、知的レベルを上げたければ、いままで選ばなかった(選ぼうとしなかった)ものを選べばよい、ということになる。

とはいっても、それが結構難しい。

選ぶことは買うことが前提になっている。お金をかけるわけだから、失敗したくないという意識が働くのだ。DVDはレンタルすればいいとして、本となると高額だ。学術書や専門的な本は、2000円以上なんてザラである。

新書一冊も最近は(内容に見合わず)800円前後が相場である。少ない小遣いでやりくりしている人間にとって、なかなか痛い出費だ。

それでも、知的レベルを上げたければ、金を出すことは必要である。失敗は「授業料」だと思えばいいのだ。そうやって「選ぶ力」が段々とついてくるのだろう。

ところで、本書のタイトルは『選ぶ力』よりも、むしろ『選ぶ』だけの方が良かったのではないか。こっちの方が強烈だ。私だったら、すぐに手に取ってしまう。
2013/01/14

最高のストレス解消法 ― 『仕事日記をつけよう』

仕事日記をつけよう仕事日記をつけよう
(2012/04/04)
海保 博之

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日記の書き方についてだったら、本書を買っていなかった。では、どうして本書を買ったのかというと、日記を書くことの効用を認知心理学の観点から説いていたからだ。

著者の説明によると、心のなかにあるモヤモヤとした感情は、書くことで明瞭化されるのだという。感情を文字にするということは、感情を知性が扱えるようにしてやることだそうだ。それによって、自分自身を客観的に分析できるようになるという。

この効果は、ストレスの対処法に応用することができる。嫌なこと、腹の立つこと、納得のいかないことなど、自分にとってストレスとなっている出来事を書き記し、「なぜ」そう感じるのか、その原因は何なのかなども書いていくことで、そのストレスが発散されていくのだ。

実は私は、このことを以前からなんとなく経験的に知っていた。そこで、なぜそんなことが起きるのかという理由が本格的に知りたくなり、それで本書に行き着いたという次第である。この本以外にも類書がいくつかあったので(今では「筆記療法」なる一分野として確立されている)、どうやらここに書かれてあることは学術的な裏付けもあるようだ。

ブログとは別に、私も日記を書いている。Wordを使い、一ヶ月分書き溜めたらそれをPDF化して後で見返せるようにしている。

日記の良いところは、誰にも見られないから、どんなにひどい鬱憤や悪口を書いてもまったく大丈夫な点だ。いくらネガティブなことを書いても、誰からも文句を言われないし、ブログのように「炎上」することもない。当たり前と言えばその通りだが、この「当たり前」はかなり貴重である。

もし、こうした愚痴を実際の対人場面でこぼしたらどうなるだろうか。仮に相手が黙って聞いてくれても、内心ウンザリしているに違いない。自分の印象も悪くなるかもしれない。そう考えると、トラブルも起きず、何も「反論」されない日記という「秘密の告白の場」は、何かと人間関係に悩みがちな現代人にとって、最高のオアシスではないだろうか。

ところで、よく、日記というと「毎日書かなければ」といった強迫観念のようなものを抱いている人がいる。実は本書も毎日書くよう説いている。しかし、私は別にそんな必要はないと思う。不満を抱えている時、無性にイライラしている時、感動した時、何か書きとめておきたいことがある時など、そういう場合のみ書けば良いのではないだろうか。毎日毎日書くこと(書きたいこと)なんて、そんなにあるものではないだろう。疲れた時や忙しい時ならなおさらである。

最近は、ブログを日記にしている人も多いようだが、個人的にそれはオススメしない。「炎上」の恐れや、人の目を気にしてしまうがゆえに、本当に書きたいことが書けなくなってしまうからだ。なんでもかんでも人に見せればよい(あるいは、見てほしい)と考えるのも、どこか危険な感じがする。プライベートなことは、やはりプライベートな空間の内に留めておく方がよい。

色々と思うままに書いてきたが、とにかく日記を書くことはオススメだ。自分自身をよく見つめたい時、日記を書くことは自己反省の最高の場となるからである。
2013/01/06

「常に戦う」「絶対に負けない」「正義のために」というファンタジー ― 『フェア・ゲーム』

フェア・ゲーム [DVD]フェア・ゲーム [DVD]
(2012/03/02)
ナオミ・ワッツ、ショーン・ペン 他

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普段、映画を二度見することはないのだが、この映画は例外だった。かなり楽しませてもらった。

以下、本映画のあらすじ。

CIAの諜報員であるヴァレリー(女性)と、元アメリカ大使の夫のジョーは、9・11後、イラクの核開発を調査するも、そこでは核開発はなされていないという結論に至った。しかし、アメリカ政府は彼らの報告を信じず(「信じたがらず」と言った方が正確だろうか)、結局イラク戦争に踏み切ってしまう。「真実」を知っているジョーは、アメリカ政府を厳しく批判。ところが、これに腹を立てた政府上層部はヴァレリーがCIAの諜報員であることを世間に暴露してしまうのだ。見知らぬ人間たちから数々の嫌がらせを受けながらも、彼女たちは屈せずに政府と戦う――おおよそ、こんなストーリーである。ちなみにこの作品は実話に基づいているらしく、ヴァレリーもジョーも実在の人物である。

それにしても、アメリカのエリートは優秀だと私は思っていたのだが、どうやらそうでもないようである。「平和を守るため」なんていうのは、(全くのウソではないにせよ)所詮はタテマエなのであって、本音は「攻撃されたのが悔しくてたまらないから」「徹底的に相手を潰したいから」なのだ。CIAが調べ上げて出した事実がどうであれ、それを理性にもとづいていかに対処するかという考えは、微塵も頭になかったのだろう。

つまり、アメリカは己の「ファンタジー」に固執したかったのである。現実が嫌になると、みな「ファンタジー」に逃げたくなるのは同じかもしれないが、それを国家規模でやってしまったというのは、本当に信じがたい。

ところで映画を観ていて、こうしたアメリカ政府のイラクに対する措置と、ヴァレリーやジョーの行動とには共通点があることに気がついた。それは「常に何者かと戦う(戦いたがる)」という点である。例えば、ヴァレリーの身元がバラされたことを理由に、ジョーが「政府と徹底的に戦ってやる」と彼女に宣言するシーンが出てくる。さらに映画の最後の方で、彼は「自分がおかしいと思うこと、疑問に思ったことは口にしろ、大きな声で叫べ」と、とある講演会で演説するのだ。

ここに、アメリカ人の1つの気質が垣間見られると思う。絶対に敵には屈服しない。何が何でも負けない。勝つまで常に戦い続ける。そういったファイティングスピリットが、日本人に比べて非常に強いように感じられる。さすがは訴訟大国である。

無論、日本人にだって昔は「大和魂」とか「欲しがりません、勝つまでは」みたいなことを叫んでいた時期はあった。「大和魂」は今でもスポーツの試合などで耳にする。しかし見ていると、どうも本当は戦々恐々としていて、でも敵にそのことを悟られたくないから、とりあえず「形」だけ、言葉の上だけ強そうに見せておけばいいや、というのが事実なのではないか。アメリカみたいに、本気で敵が憎くて、何が何でも相手を負かさないと気が済まないといった、執念や怨念のようなものはほとんど感じられない。

強烈なファイティングスピリットに加えて、「正義」(justice)という言葉も、アメリカ映画やアメリカ人の口からよく見聞きする。「正義を守る」とか「正義のために戦う」とかいった形でだ。一昨年流行ったサンデル教授の本も、そのコアには「正義」があった。「正義」とは何か、どうすれば「正義」であり続けることができるのか、それが「サンデル本」のメインテーマだった。一方、日本で「正義」「正義」と言うと、かなり気取った感じが否めない。

総じて、アメリカでは「ファンタジー」が非常に好まれるのだろう。「アメリカンヒーロー」というお決まりの言葉がそれを象徴している。きっと彼の国では、みんなが「ヒーロー」になりたがっているのではないだろうか(あるいは、「ヒーロー」であると“錯覚”しているのではないか)。「ヒーロー」は敵に負けないし、「正義」の味方だし、平和も守ってくれる。そして常に何者かと戦い続けている。そういう「ファンタジー」が、どうもアメリカという国には強く根を張っているようだ。

私は、そういったアメリカの国民性(?)というものが結構好きである。日本にそういったものはない(あっても希薄だ)し、また彼らを見ていると時々元気づけられるからだ。

しかし、である。いかんせん、いつもいつもこんな調子では次第に「疲れる」のではないだろうか。いや、確実に「疲れる」。身がもたないのは間違いない(だからアメリカ人はジムに行ってよく体を鍛えるのだろうか)。

つまるところ、常に「ファンタジー」に浸っていると、「体の調子」をおかしくするということだ。最悪な時には「暴走」してしまう(イラク戦争を始めたように)。そして最も厄介なのは、ほとんど全ての人が「ファンタジー」の中にいるから、誰かが現実を見せつけても容易に信じようとしない、あるいは信じたがらない点だ。

以前のエントリーにも書いたが、こういうことに陥らないためにも、普段から「生の現実」をよくよく観察しておく必要があると思う。現実を直視するというのは確かにつらく難しいことだが、あらぬ方向へと「暴走」する時というのは、総じて「ファンタジー」に入り浸っている時である。