2013/02/26

『ひとはなぜ服を着るのか』 ― ファッションも、イケメンも、美人も、みんな「制服」だ

ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)
(2012/10/10)
鷲田 清一

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この本の背表紙には、「ファッションやモードを素材として、アイデンティティや自分らしさの問題を現象学的視線から分析する」という本書の説明が付されている。

ずっと前からわたしは、この「現象学」というのがどういう哲学なのか知りたいと思っていた。が、いつも、辞書辞典で調べてみても、わかったような、わからないような、そんな感じになる。

で、本書を読んでみて、とりあえず「現象学」というのが、どんなことをする学問なのか、なんとなくだが伝わった(気がする)。「ある特定の現象を丹念に観察することによって、その現象の“背後”にあるもの(なぜそのような現象が起きるのか、どのような経緯で起きるのか、など)を考察する学問」といったところだろうか?

とはいっても上の説明は、わたし一個人の、かなり大ざっぱで暫定的な定義だから、「現象学とは何か?」という本格的な問いについては、後日また、ゆっくりと調べることにしたい。

さて、本書の中身だが、ファッション(服装はもちろん、化粧や髪型、ピアスなどのアクセサリーといった、広い意味での「ファッション」)についての興味深い考察がいたるところに散りばめられている。

とはいっても、べつに難しい学術用語が出てくるわけではない。著者(鷲田清一)が純粋に、巷にあふれる「ファッション」という「現象」の奥底にあるものはいったい何なのか? ということを問うていっていくだけだ。「ファッションの冒険」と見立てることもできよう。

いつもどおり、本書の中身すべてを取り上げることはできないので、わたし個人が特に気になったところを論じてみたい。


●身体とは、ある種の「自然」である


なんの手入れもされていない山や空き地というのは、地面が「汚れ」ている。草がボウボウだったり、落ち葉であふれていたり、泥ばかりで歩こうにも歩けなかったり、そんな状態になっていることが多い。

人の体も、これと似ている。身体も放っておけば、アカが出る。臭いが出る。ムダな毛も生えてくる。つまり、放っておけば「汚れ」てくるのだ。そういう意味で、身体はある種の「自然」だ

そんな「自然」を、日々われわれは「耕し」ている。顔や体を洗う。歯を磨く。毛を切ったり、剃ったりする――こうした行為は、身体という「自然」を「耕す」ことに他ならない。

しかし、それだけではない。服を着ること、化粧をすることも、その「自然」に変化を与える(=耕す)ことになるのではないか?

そしてそのなかでも、特にオシャレをすること――髪を染める、ピアスやイアリングをつける、かっこいい(かわいい)服を着る――は、なおさら身体を「耕す」ことを意味するのではないか?

つまるところ、これは「ファッションに身を包む」ということだ。「ファッションに身を包む」というのは、身体を「加工」する、ということなのである。ではなぜわれわれは、こうも身体を「加工」するのだろうか?


●なぜわれわれは、オシャレをするのか?


その理由のひとつが「不満だから」であると、鷲田は言う。単純な理屈だが、ここがオモシロイとわたしは思った。

不満――そう、不満だから「自然」を耕すのだ。体は放っておけば汚くなる。これは人にとって不快因子であり、不満の原因になる。だから、手入れをする――至極、当たり前なことである。

しかし、不満になる理由は、まだもうひとつある。人間にとって、こちらの不満のほうが深刻なのであり、これはさきほどの、オシャレをする理由の根本でもある。


●「不満」の背後にあるもの


では、不満になるもうひとつの理由とはなにか?

それは、なんの「加工」もされていない、そのままの身体だと、「他とは違う、自分という個がはっきりしていないから」、すなわち、「“わたし”が他の誰でもない、唯一の“わたし”になっていないから」である。つまり、ちょっと難しく言えば、アイデンティティを確立できない(できた気がしない)ために、不満を持つのだ。

――なるほど。自分という「自然」を、いわば「文化」(=手入れをした状態)にすることで、その他大勢の「自然」から抜け出したい。抜け出すことで「自分」が確立できる、という理屈か。

J=L・べドゥアンが『仮面の民俗学』(斎藤正二訳、白水社、1963年)のなかで述べているように、着衣は化粧は「存在のもっている像を変形させることによって、存在そのものを修正しようとする」試みにほかなりません。じぶんの存在の物理的な形態を変えることでじぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望で、わたしたちはいつも疼いているようです。(p.34)

わたしの観察するかぎり、べドゥアンの言う「じぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望」というのは、とくに女の子(若い女性)たちに見受けられる。まあ、ネットを見ていると、男の子たちも昔と比べてその「欲望」は強まっているようだが。

ただ、「自分を変える」ことは、必ずしも「自分の身体をイジったり、なにかを体につけたりする」こととイコールにはならない、というのがわたしの考え。人と話し合ったり、読書したり、映画見たり、旅行に行ったりすることでも、「自分を変える」(=自分の中身を変える)ことはできるだろう。昔であれば、「教養主義」というのが、まさにそうすることを良しとしていたのだが(もっとも、もっぱら読書に限られていたようだが)。

しかし、なかなかそうならないのが、現代という時代なのだろう。現代は、中身を変えるのではなく、「外観」を変えることにこそ、高い価値が置かれるのだ。わたしが以前から、このブログでたびたび触れてきた「イケメン(美人)というイメージの氾濫」が、まさにそれを示している。


●ファッション、イケメン、美人という名の「制服」

こうやって、みんながファッションにこだわっていく。こだわることで、「その他大勢」とは違う「自分」を確立できる、と思うようになる。しかし、実はファッションという現象には「不文律」(目には見えないルール)が存在する

ひとりひとり違う格好をしているつもりでも、その現象を俯瞰してみれば、どれもこれも「なんとなく似通っている」ということに気がつく。つまり、部分ぶぶんは違っていようとも、ファッション現象全体として見れば、大した「違い」はないのだ。

ファッション雑誌を見てみれば、そのことがすぐにわかる。モデルの服装はそれぞれ違ってはいる。が、何人も観察していると「なんかどこかで見たことがある」ような格好をしている。

要するに、「なんかどこかで見たことがあるような格好をすること」こそが、実はファッションに潜む「不文律」なのだ。この「掟」を破った者、それがすなわち「奇抜」だとか「派手」とか「浮いた格好」などと言われるのである。

こう見ると、ファッションというのはある種の「制服」なのだ、と思えてくる。「個を出したい」「他とは違う自分になりたい」と思ってしていたはずのファッションが、実はファッション現象全体を見たとき、個を出さない、他とは違わない「制服」へと変貌しているのである。

これは、服装だけにかぎった話ではない。顔もそうだ。

このように、ひとびとを本質的に個性化し、多様化するはずのコスメティックという装置は、逆説的にもひとびとの存在を同質化し、平準化してしまうのです。近代社会では、顔もまたまるで制服のように標準化されてきたわけです。(p.65-66)

最近のテレビを見ていると、「アイドルの大安売り」とでもいうべきような状況が起きている。昔は、アイドルというと「なんだかんだ言っても、やっぱり“この人”!」というような、そんな「特別な地位にいる人」といった感じがしたが、いまはまったくしない。「ネコも杓子も」感がハンパじゃない。

そしてみんな(特に若い人たち)、「なんかどこかで見たような」顔をしている。いわゆる「イケメン」も「美人」も。

そして、インターネットが普及し、ファッション雑誌も昔とは比にならないくらい充実した情報を提供してくれるようになった結果、みんなが同じことをするようになり、芸能人ではない一般人(特に若い人たち)までもが、「イケメン」になり、「美人」になれるようになった。

しかし、それらは「なんかどこかで見たような」感が強いのも確かである。つまり、現代においては、顔もまた、ある種の「制服」と化している、と言えるのである。


●ファッションで個性は出せない

こう考えると、外見をかっこよくして「個性」を出す、という作戦は、残念ながら頓挫しそうだ。というのも、もうすでに、みんなが同じようなことをしているからだ。みんなと同じなのであれば、それは「個性」ではない。

べつにわたしは、だからファッションにこだわることは無意味だ、などとは少しも思っていない。むしろ、みんながファッションにこだわるようになれば、街を歩いていて、それを見ることにワクワクできるから、みんなそうしてくれたらなあ、と思っているくらいだ。現に、そうなっている自分がいる(美人ならなおさらワクワクだ)。

それに「見てくれ」は大事だ。他人に好印象を与えてくれる。相手からの、自分への待遇も良くなるという「特典」も期待できるだろう。そういう意味で、ボクはファッションが好きだ。しかし、である。たぶん、「個性を出す」ことは期待できない。ファッション現象という「波」に乗ることはできても、その波を超えることはできない。

もし、「個性を出したい」とか「自分を変えたい」といった欲が、強くて強くてしょうがない人がいれば、まずは、「ファッションでは個性を出せない」ということ、と、「ファッションにこだわることで自分が変わったような気がしても、それはむしろ“みんなと同じになっただけ”であって(つまり、ファッションという「制服」を着るようになっただけであって)、実際のところ、“自分”は何ひとつ変わっていない」ということを、知ったほうがいいのではないか?――ボクは本書を読んで、そして感想を書いていて、そう考えるようになった。


●「個性」は幻想なのか?

では、「個性」は幻想なのだろうか?いや、幻想ではないと思う。「個性」というのは、そのひとの、その振る舞い、考え方、生き方、ふだんの有り様などなど、そういったものすべてを含んだ概念である。つまり、「そのまま」でいることこそが、実はもうすでに「個性」を体現しているのだと思う。

少なくとも、ヘンに自分という「自然」をイジくって、結果的にみんなと同じ「制服」を着るよりも、そっちのほうがずっと「個性」と呼べるにふさわしい状態ではないだろうか?

「自分探し」についても、同じことが言える。自分探しの「自分」とは、要するに「個性」のことだ。つまり、自分探しとは、「個性探し」なのである。であるならば、話は早い。「そのまま」でいることが「個性」なのだ。「個性」は探さずとも「もうすでに、そこにある」のである。
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2013/02/25

ブログをやっていてよかったなあ、と思うこと

わたしはこうやってブログを書いているのが好きだ。以前、ブログを書くことにはある種の「格好悪さ」がつきまとうのではないかと述べたが、しかしそうであってもやはり好きなものは好きだし、でなければブログなんて絶対に続かない。



それはさておき、ブログをやっていてよかったなあ、と思うことがある。それは、匿名で経歴や素性を明かさずにブログをやれば、純粋にブログでの発言内容のみが評価の対象となるところだ。言い換えれば、リアルの世界のように、発言内容とその発言者の身分とが「一緒くた」になって評価されることはない、ということである。この特性が、ボクはすごくいいなあと感じている。

こう言うと、「なにをいまさら?」「そんなの当たり前だ」などと思われそうだ。しかし、実は全然「当たり前」ではない。これは、多くの人にとって、かなり大きな恩恵になっているのではないか、とボクは思っている。



インターネット、そしてブログやツイッターなどがなかった時代は、社会(あるいは家族や知人、自分よりも年上の人たち)に向けてなにか発言したいことがあって、しかも発言できる機会があったとしても、発言しづらかった。というのも、「多くの人が発言者の素性や身分や経歴でもって、その人の発言内容を評価してしまう」という厳然たる事実が存在していたからだ。

たとえば現実の世界において、20代(または30代)の若者が政治のことや、社会のこと、仕事のことを論じようとすると、それがどんなに有用で的を射た意見であっても、その若者より年上の人たちは「まあ、君はまだ若いから......」とか「そういうことはもっと人生経験(社会経験)を積んでから言いなさい」などといって、まともに取り合おうとはしないことが、圧倒的に多い。

つまりリアルの世界では、発言者の発言内容自体が純粋に評価されることはなく(あるいは少なく)、その発言をした人の素性や身分、経歴も含めて、「総合的」に発言内容が評価されるのである。これは、発言する場が本や雑誌、テレビといったメディアに置き変わっても基本的には同じだ。なぜなら、もうすでに、発言者の素性や経歴がわかってしまっている(ことが多い)からである。

要するに長い間、リアルの世界においては、「言いたいことがあっても言えない」状況、「仮に言ってみたとしても、年配者から全力で否定・非難・批判される」状況というのが、インターネット、そしてブログやツイッターなどが普及するまでは、ずっと続いていたのである。



ぼくは長い間、こうした状況に、いつも不満を持っていた。なにか言っても取り合ってくれない。所詮は若者のザレゴトであり、素人のザレゴトである――そんなふうにあしらわれることが、おもしろくなかったのである。

たぶん、ボクと同じ思いを抱いたことのある人は多いのではないだろうか。討論の場であっても、会議の場であっても、必ずと言っていいほど、「まあ、確かにお前の意見は正しいかもしれないけど、でもまだまだ若いからな~」みたいな目を向けられ、あるいはそんなふうな空気にされる。そんな体験を、もう何度も味わってきた。

以前、どこかのブログで、「日本の若者が何も発言しない(しようとしない)のは、“発言してもムダである”という事実をよく知っているからだ」と書かれてあったのを目にした。まったくその通りだと思う。



しかし、べつにこうした状況は若者だけに限った話ではない

たとえばリアルの世界では、40代、50代の男が、若い女性アイドル(グループ)について、大好きなぬいぐるみについて、好きなアニメキャラクターのコスプレをすることについて熱く語りたい、しゃべりたいと思っても、多くの人はそうすることにかなり引け目に感じてしまうと思う。仮にやってみたとしても、すぐに「良識あるオトナ」がやって来て、ほぼ必ず「いい年して......」とか「大の男が......」云々という、紋切り型のセリフを使って批判する。最近の言葉を使うのであれば、「キモい」になるだろうか。

つまり、若者にせよ年配者にせよ、言いたいことや熱く語りたいことがあっても、発言内容そのもので良し悪しが純粋に評価されることはない(あるいは少ない)、ということである。現実の世界では、ほとんどの場合、言ったことと言った人の身分や素性とが、「セット」で評価され、吟味されるのである。そしてこうした状況は、いまもなお、リアルの世界においては「当たり前」のこととなっている。



しかし、である。ネットはそれを一気に変えてくれたのだ。リアルの世界のように、素性や身分や経歴が明確である必要などまったくない。実名や身分を伏せたまま、匿名でモノを言えるのだ。これこそが、ネットの最大のメリットなのである。

言いたいこと、語りたいことが特にない人には、ピンと来ない話かもしれない。しかし、言いたいこと、語りたいことが大いにあった人たちからすれば、いまの時代は大変ありがたい時代なのだ。長年くすぶっていた気持ちを、思いっきり、あらわにすることできるのだから。

しかも、ブログやツイッターを開設するのは非常に簡単だ。誰にでもできる。これはすなわち、「誰でも自由にモノが言える」ということであり、同時に「発言内容そのもので、評価される」ということである。



いい時代になったな、と感じる。もちろん、すぐに自分の言ったことを聞いてもらえる、評価してもらえるわけではないが、根気強くずっと発信し続けていれば、必ず誰かがそれを目にする。場合によっては、ふとしたきっかけで、たくさんの人たちから共感してもらえることだってあるだろう。そしてその意見が、いずれ「次代の常識」になりさえするかもしれないのだ。こう考えると、インターネットの力、ブログやツイッターの力というのは、本当にバカにできない。

――と、そんな思いもあり、また文章を書くのが好きだということもあって、ボクはこれからもブログを続けていこうと思っている。ときには更新しまくり、ときにはのんびりと。


2013/02/23

『フォト・リテラシー』 ― 写真は現実を写さない

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)
(2008/05)
今橋 映子

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最近のわたしのなかでのブームは、ヴィジュアル文化についての本(写真論、映像論、ファッション論などの本)を読みあさることなので、今回も同様の本の感想を書こうと思う。

本書のタイトル「フォト・リテラシー」というのは、あんまり聞かない言葉だ。「メディア・リテラシー」ならよく聞く。もっとも、フォト・リテラシーはメディア・リテラシーのうちに入るのだが。




で、フォト・リテラシーとはなにか?

ずばり「写真を“きちんと”読む・分析する能力」のことだ。写真というのは、字のごとく「真実を写す(もの)」である、と考えられている。

が、それは果たして本当なのだろうか?むしろ、実はそうではなく、撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ているのではないか?――こういった問いが本書のテーマである。




よく、メディアなどで「決定的瞬間」と冠された写真が紹介されたりする。「決定的瞬間」というと、あたかも「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」という感じを受ける。

本書では、「決定的瞬間」という言葉が生まれるもととなった写真集が出てくるのだが、実はその写真集は、全然「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」ではなかった、という事実を暴露することから始まっている。

この話から著者は、「世間的には“決定的瞬間”と思われている、ジャーナリズムに出てくる報道写真」も、雑誌や本に掲載されるまでの間、実は様々な「細工」が施されていることを指摘する。

ここでいう「細工」とは、決して写真画質の修正のことだけではない。撮影者の「意図」(これは写したい、これは写したくない、写すと報道者側の具合が悪くなるから「あえて」写さない、など)や、商業上の都合によってなされる(身勝手な)編集、場合によっては誤解を与えるような写真の見出しやキャプションなど、メディアに載るまでのありとあらゆる「行程」が、「細工」たりえるのだ。

著者は、そうした「細工」がいかに「巧妙」で、写真を見る者に気づかれないよう「編集」されてあるか、様々な写真を俎上にのせて論じている。




本書からひとつ、例を挙げよう。




上は、ロベール・ドアノーというフランスの写真家が撮った、「市庁舎前のキス」という写真である。この作品は1950年に、アメリカのある雑誌に載った。しかし、大した反響はなかった。

ところが80年代に入ると、フランスやパリ市は対外文化政策の一環として、自国を魅力的にPRするため、この写真を「利用」したのである。それは、あたかも「パリではいつも恋人たちがこのようにキスしています」と言わんばかりに。

キスシーンというのは、どの国においても魅惑に満ちたものである。甘い雰囲気が漂っている。すなわち、誰にとっても「好印象」に映ってしまう。

しかし、これを撮ったドアノーの当初の目的は、こんなロマンチックな想いからではなかった。むしろ、「パリ郊外のうらぶれた日常と人々のしたたかな明るさ」(p.74)を写真にしたかったからなのだ。

しかも、この写真は実は「ヤラセ」だったのである。いわゆる「決定的瞬間」というものではない。すべて作りこまれた「虚構の世界」だったのである。

だが、そんなことはつゆも知られず、ただただ「パリは魅力的」「フランスはオシャレな国」「ロマンあふれる場所」といった、ステレオタイプ化されたイメージだけが先行していった。その原因を作ったのが80年代の文化政策によって起きた、この写真の絵はがきやポスターの大量流通・大量消費だったのである。




これが、さきほど言った「撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ている」ということだ。

ヴィジュアルに訴えるものは、影響力が非常に強い。特に写真というと、無意識に「現実を写したもの」とか、「現実そのもの」などと思い込んでしまう。しかし、実はそうではないのだということを、著者は本書で数々の事例を挙げて説明しているのである。



話は若干変わるが、広告に出てくる写真というのも、そこに写っている商品が魅力的に見えるようになっている。

当たり前といえば当たり前だが、これも結局は「細工」なのだ。しかし、とりあえずでも「細工」だとわかっているのに、なぜこうも簡単に「ダマされ」てしまうのだろう?

いや、物の広告写真ならまだ良い。これがたとえば、美容系の広告写真となるとヤッカイである

なぜなら、たいていの場合、写真に写っているイケメンな/美人なモデルさんと、実際にそんなふうに装ってみたときの自分との間に、あまりにも大きな「落差」が生まれてしまい、自分がミジメに思えてくるからだ。

モデルの写真のキャプションに「※写真はイメージです」とかあっても、なかなかその「真意」を理解できず、理想と現実とのギャップに苦しまされる人が後を絶たないように思う。




いや、「頭」ではわかっているのだ、「頭」では。しかし、「体」ではわかっていないのである。というよりも、「わかってくれない」といったほうが正確だろうか?

要するに、写真というのは時として真実や現実を写さずに、「理想」を写してしまう、ということなのだろう。

そしてそれを見る者は、その「理想」を真実であり現実だと(無)意識的に解釈してしまうのだろう。ここに、「写真の悲劇」があるようにわたしは思う。




では、どうしたらその「悲劇」を見ずに済ませられるか?

それが、著者の言う「フォト・リテラシー」を身につけることにあるのだ。インターネットを使うのにリテラシーが必要なのと同様、写真を見ることにも「リテラシー」が必要なのである

いやいや、イメージの肥大化というのは実に恐ろしい。あるものに対していらぬイメージを持ってしまうことにより、そのイメージと乖離した現実に対して、いらぬ不満まで抱かねばならなくなってしまうのだから。

そう思うと、あの「※写真はイメージです」という注意書きは、けっこう意味深なんじゃなかろうか?

「いいですか?みなさん、“写真はイメージ”なんですよ?“写真は現実”ではないんですよ?」と、セツナイ声でつぶやいているみたいで。



2013/02/21

ジャッキー・チェンの映画も、これでもっと楽しめる ― 『批評理論入門』

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
(2005/03)
廣野 由美子

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文学部にいた時、「文学講読」という授業があって、まあ、たいしておもしろくない古典的な小説を読まされた。わたしのいた学科では、この講読の授業が必修だったので、とりあえず色々と読んだ。

で、その時、きちんとではなかったが、本書のタイトルにある「批評理論」というのも多少やった。これはどういうものかというと、文学作品や映画、文化現象(広告、CM、テレビ番組など)を「それなりに」「違った角度で」読み解くための「道具」である。



たとえば、批評理論のひとつに、「フェミニズム批評」というものがある。これは簡単にいうと、フェミニズムという「思想の枠」から、ある小文学作品や文化現象を覗き込んでみたとき、そこにどんな女性差別だの、女性蔑視だの、女性に対する偏見だのがあるかを分析し論じる(=批評する)というものだ。



例をひとつ挙げよう。川端康成の小説に、『伊豆の踊り子』という作品がある。かつて、わたしが読んだ「フェミニズム批評」で、この作品を論じたものがあった。

その論者(女性)によると、『伊豆の踊り子』にあらわれる恋愛というのは、旧制一校のエリート高校生(男)が、たまたま旅先で出会った踊り子(芸者)に恋をするというものだが、川端のその恋愛描写は「男が上で、女は下」といった、いわゆる男性中心主義的な描写になっており、そこには女性に対する歪んだイメージや蔑視がある、と述べていた。要するに彼女は、この作品は「健全」な恋愛小説ではない、というのである。

詳しくは、こちらの本を読んでもらうとして、とりあえずフェミニズム批評というのは、こんな感じのものである。



それから、「ポストコロニアル批評」というものもある(略称「ポスコロ」)。「ポスト」は「―の後」、「コロニアル」は「コロニアリズム」すなわち「植民地主義」という意味である。

第二次大戦後、西欧の植民地主義によって被害を受けた国々の文化・文学作品を研究するというのが盛んになった。植民地主義を実行していたのは主に西欧だが、その西欧の、植民地国(主に東洋)に対する歪んだイメージや蔑視、偏見など(いわゆる「オリエンタリズム」)が、文学作品にどのようにあらわれているか、また逆に、被植民地国だった国の文学作品は、西欧や西欧人(に対するイメージ)をどのように描いたのか、などを分析して論じるのが、この「ポスコロ」である。



「ポスコロ」という「メガネ」を使って覗きこんでみると個人的に興味深く映るのが、ジャッキー・チェンのアクション映画だ



ジャッキーの映画には、敵役としての「西欧人(≒白人)」(あるいは、西欧人サイドにつく東洋人)がよく出てくる。で、アクションシーンが始まると、彼は(だいたい前半戦はやられがちだが)手足で、あるいは武器を使いこなして「西欧人」を倒す。

この「西欧人」というのは、ジャッキー・チェンのアクション映画において象徴的な存在である。身体的にも、文明的にも、そして外交的にも「勝てなかった」歴史をもつ中国人(≒東洋人)が、映画では「西欧人」に「勝つ」のだ。ここに、「ヒーローとしての中国人(東洋人)」/「悪者としての西欧人」という(やや単純だが)構図が垣間見える



本書では、他にも「精神分析批評」(フロイトやユングの唱えた理論をもとにして、文学作品を分析する批評)とか「マルクス主義批評」(文学作品を「歴史的産物」と見なし、その作品と現実における政治・経済・社会との関係を分析して論じる批評)など、色々な批評理論が出てくる。

で、本書は二部構成になっており、前半は小説が書かれる時の技法(「語り手」とは何かや、ストーリーのプロットはどうなっているか、など)の解説、後半が以上述べた批評理論の解説である。

わたしとしては、後半の批評理論のほうが特に気になっていたので、今回買ってみたという次第である。おそらく、類書のなかでは非常にコンパクトにまとまっていると思う。批評理論の書では、他にテリー・イーグルトンの『文学とは何か』(大橋洋一訳/岩波書店、残念ながら今は絶版)があるが、こちらはかなり本格的なので、批評理論を大ざっぱに知りたければ、まずは本書がオススメだ。



批評理論を知っておくと、小説だけでなく、ふつうのテレビ番組にせよ、映画にせよ、あるいは写真や何気ない広告にせよ、事物を(それなりに、ではあるが)おもしろく眺めることができる。前回、わたしは「女でよかった、とな?――ある広告に対する一考察」という記事を書いたが、これは批評理論でいうところの「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」にあたる(+「記号論」という視点も含む)。

ちなみに、色々ある批評理論のなかで個人的に「使いやすい」と思うのが、この「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」である。というのも、世の中にある文化現象には「性」という概念が、いたるところに見え隠れしているからだ。特に、テレビ番組やCM、広告などは、「性」の視点から観察してみると、意外なものが見えてきたりする。

たとえば、台所用品やトイレ用品、除菌剤などのCMを見ていると、それらを使っている人(使いこなしている人)は、女性であることが多い。もちろん、男性も出てこないわけではないが、明らかに女性のほうが多い印象を受ける。こうしたところに、いわゆる「男は仕事(=外)、女は家庭(=内)」といった、古くからある性役割の(無)意識がまだまだ残っていることを見て取れるのではないか。

一方、そうした旧来の価値観を覆そうという動きなのか、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(綾瀬はるか)は、そういった古い「女性像」とはまったく異なる人物だ。敵に怖気づかず、戦場に出て銃を使いこなす「ハンサム・ウーマン」の姿は、いわゆる「やまとなでしこ」とは一線を画すものである。わたしはこうしたテレビ番組に、ジェンダーの「壁」を取り除こうとする意図を、うすうす感じている



ところで批評理論は学問の一ジャンルをなしているが、さっきも言ったように、わたし個人としては、こうした批評理論は、どれも世の中を「他とは違った角度」から見るための「道具」だと思っている。「道具」というと、あまりにも身も蓋もない「安っぽい」印象を与えてしまいそうだし、冷めた見方だが、わたしはそう考えている。

批評はあくまでも「批評」でしかない。批評理論を知った(あるいは「研究」した)からといって、べつに世の中が変わるわけではない。それに、「◯◯批評の視点から××を分析すると――」などと言ったところで、多少は知的な感じもするが、「ふつうの人」からは「なるほど、そうですか」「ちょっとおもしろい見方ですね」くらいの感想しか抱かれないだろう。

理論は「理論」であって、そこに「絶対性」はない。あまり「批評理論」にこだわると、理論という「型通りの見方」しかできなくなるし、いわゆる口だけの「批評家」になってしまうのがオチである(そう、つまり、わたしとこのブログのこと)。だから、批評理論はせいぜい「知的な娯楽」として「嗜む」のがいいのではないか



本書は、『フランケンシュタイン』を題材に、小説の技法と批評理論、そしてそれらが実際にどのように運用されているのかをセットで手軽に知ることができるが、決して「小説」にしか使えないものではない。文学作品、そして文化現象であれば、基本的に色々と「あてはめる」ことができる。それから、批評理論と批評理論との「組み合わせ」も可能である。

批評理論を小説以外に「応用」したものとして(「応用」している感じはあまりしないが)、他に『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環/ちくま文庫)『フォト・リテラシー』(今橋映子/中公新書)『イメージ』(ジョン・バージャー/ちくま学芸文庫)、エッセイでは『愛という病』(中村うさぎ/新潮文庫)などがある。どれもオススメだ。

2013/02/19

女でよかった? ―― ある広告に対する一考察

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先日だが、電車で(それから薬局で)上の広告を見かけた。資生堂「ザ・コラーゲン」(美容ドリンク剤)の広告である。



で、一見なんということもない広告だが、わたしはこの「女でよかった!」の部分が妙にひっかかった。

「女でよかった!」である。「女っていいね!」とか「女は最高!」ではない。つまり、現在形ではなく、過去形――「よかった」――なのである。

この言い方だと、「なにかもうすでに、女でいて得したことが起きた」かのように受け取れる。それが何なのかはわからないが、重要なのはそこではない。重要なのは、この広告(に写っている2人)が、見る人たち(とくに女性)に対し、あたかも「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」といった、「言外のメッセージ」を発している点だ。

この「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」というメッセージは、さらに、

――この広告を見ている「あなたたち女性」は、女でいて良かったことって起きた(起きている)かしら?(え、まだ起きてないの?)――

というふうに解釈をすすめることができる。

つまり、何が言いたいのかというと、この広告は、それを見る女性たちに、多かれ少なかれ、ある種の「不満」を抱かせる「装置」となっているのでは?ということだ。



広告に写っている彼女たちは非常に「幸せそう」である。こちらを向き、そして笑顔に満ちている。光り輝いている。背景にある花も、咲き乱れている。

では、なぜ「幸せそう」なのか?それは、自分たちが「女でいた」からだ。だから、彼女たちは「女でよかった!」というメッセージを発しているのである。

しかし、である。これらのメッセージは、「女」になりきれていない女性たち(いわゆる「女らしくない」女性たち)への「自慢」でもある。


「わたしたちって、“女でいた”から、こんなに幸せになれたのよね~」
「やっぱり、“女でいる”ことって得するのね~」
「そう思うと、“女でいない(いられない)”女って、かわいそう~。だって、こんなに得することを、味わえないんだから」


そして、この広告は、彼女たち2人にここまで「言わせて」おいて、最後に「隠されたメッセージ」を、「女」になりきれていない女性たちに送る。

――このドリンク(「ザ・コラーゲン」)を飲めば、わたしたちみたいに「女」になれて、「幸せ」になれるけど?(さあ、どうする?)――

話は若干変わるが、こうやって「ジェンダー」というものが徐々に形成されていくのだと思う。



さて、わたしのこの広告に対する「読み方」は、「行きすぎ」であろうか?イジワルであろうか?

この広告の「読み方」は、ほかにも色々とあるだろう。わたしの「読み方」だけが、絶対、ということはない。

しかし、わたしにはどうしても「そう読めてしまう」のである。

ここで、美術評論家のジョン・バージャーの次のセリフを思い出す(太字はわたし)。

広告を見る人=購買者は、その商品を買えば変わるであろう自分自身の姿をうらやむように仕向けられている。購買者は、その商品によって変身し、他人の羨望の的となった自分の姿を夢見る。その羨望が自己愛を正当化するのだ。別の言い方をすれば、広告イメージは、ありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。(ジョン・バージャー『イメージ』(ちくま学芸文庫)p.187)

本当にそう感じる。人はみな、他人が欲しがるものを欲しがるのだ。欲望は、人から人へと「感染」するのだ。広告の役目は、まさにこの「感染」装置として、にある

なので、この広告を見てしばらく考え込んでしまった。「あ~、なるほどね。この広告つくった人、頭いいな~」と。なんというか無意識のうちに、「美(=女らしさ)への欲望」が「感染」しそうだ。そういう「迫力」が、わたしには感じられる。べつにわたしは女じゃないけど、実際、この広告を見た女性たちはどう感じるのだろうか?


とはいってもまあ、広告なんて、あんまりじっと見るもんじゃないかもね。


2013/02/18

大学生は「勉強」するな ― 『ペーパー・チェイス』

ペーパー・チェイス [DVD]ペーパー・チェイス [DVD]
(2010/03/26)
ティモシー・ボトムズ、リンゼイ・ワグナー 他

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「日本の大学生は勉強しない」と言われて久しい。

具体的にいつ頃から言われ始めたのかはわからないが、インターネットが登場して、ブログやらツイッターやらが普及した近年、こうした批判をつとにたくさん聞くようになったと感じる。それだけ、多くの人が大学教育に興味関心があるということの証左なのだろう。



それで先日、映画『ペーパー・チェイス』(1973年)を観た。

主人公は、超一流の名門校ハーバード法科大学院に通う学生・ハート(ティモシー・ボトムズ)。優秀な成績で卒業すれば、アメリカの競争社会でエリート街道を歩めることが約束されているこの大学で、ハートは毎日、何時間も法律の勉強に時間を注いでいる。

そんなある日、彼はふとした機会に、美女スーザン(リンゼイ・ワグナー)に出会う。そのまま2人は付き合いはじめるも、ハートは毎日の勉強に追われることで、スーザンとはなかなか会えない日々が続く。

しだいに、自分のやっていることにむなしさを感じはじめてきたハート。スーザンと会っても、つまらないことで喧嘩をしてしまうことが続く。結局、彼は最終的に彼女との恋愛を取ることに決めたのである。



「ハーバード大学は超名門校」というのは誰もが知っていることだが、実際どのような授業をしているのか、学生はどんな感じなのかといったことは、あまり知られていないと思う。ちょっと前に話題になった『ハーバード白熱教室』のサンデル教授のような授業は例外として。

だからこの映画は、そういったアメリカの大学がどのようなものなのか、その雰囲気を教えてくれる。

今回観た映画は、ハーバード大学のなかでもとりわけ難しい学部を取り上げている。だから、それ以外の他学部の勉強風景や学生の様子は正直わからない。しかし、明らかに日本の大学よりはずっとずっと厳しいはずである。

映画に出てくる学生たちは、とにかくみんな、勉強、勉強、勉強である。講義に出る際は、しっかり予習をしなければ、教授から来る質問にまず答えられない。だからみんな、毎日毎日、徹夜で勉強する。試験前となると、缶詰め状態である(実際、主人公が友人とホテルの一室を借り上げ、三日間ずっとそのなかで勉強する、というシーンが出てくる)。

で、優秀な成績で卒業できれば、政府でも超有名大企業でもウォール街でも、好きなところに幹部候補生として就職できるのだが、そういったものを目指すことに、ハートはむなしさを感じて、最終的には恋愛をとる。

映画最後のシーンで、大学から来た成績通知の手紙を紙ひこうきにしてしまい、それを大海原へと飛ばすハートの後ろ姿は、なんとも言えない清々しさと哀愁とが、絶妙に溶け合っていた。「ペーパー」(教科書、ノート、参考書、試験用紙、成績通知書――つまり、ありとあらゆる「紙」)から「チェイス」(追っかけまわす)されていたのを、ついに最後は突き放すのだ。



それで、見ていて何度も感じたことは、「大学(教育)とは何だろうか?」ということ。

正直なところ、先生から課題を与えられる→それをこなす、というサイクルは、高校までで十分だとぼくは思っている。では、大学では何をするのか(するべきなのか)?

それは徹底的に「知的な遊び」にふけることなんじゃないのか、と思う。逆説的な言い方をすれば、「大学生は“勉強”するな」である。

ぼくの思う「勉強」とは、「決められた答えがすでにあって、それをきちんと提示する作業」のことだ。こうした「勉強」は、たしかに一定の「知識」は身につく。でも、その「知識」は、基本的に応用が利かない。その「学問業界」という箱庭のなかだけでしか通用しないことが多い。

また、こうした「勉強」にも「考える」という動作は必要になることはあるが、「決まりきったもの」であることがほとんどである。思考に、独自性とか着眼点とか発想性とか、そういった要素はない。というか、そもそも重視されない。

高校(長くとも大学1年生)までは、こうした「勉強」でいいと思う。しかし、大学でまで、これを続けるのはいかがなものだろう。大学は、問題もその答えも、自分で作って自分で解くところではないのか、というのがぼくの考えだ。

この「問題もその答えも、自分で作って自分で解く」サイクルにおいて、大学教員ができることは、学生への「手助け」程度のものでしかない。というのも、問題設定は、「コレコレこうすればよい」とか「こうしておけば間違いない」といった教授法のようなものはないからである。教員ができることは、学生へ「こんな学問分野がある」「こんな文献がある」くらいのものだ。



そこで必要になるのが、「知的な遊び」である。具体的には読書だ。もっと具体的に言えば、新書と文庫の読み漁りである。

このとき重要なのが、決して読書を「勉強」にしないことだと思う。「この本を読んで、◯◯を身につける」とか「これを読めば、××はマスターできる」などと意気込まないことだ。大事なのは「遊ぶ」ことであり、「おもしろがる」ことである。

おもしろそうなタイトルの本があったら、目次を見てみる。それで気になる項目がひとつでもあれば、そこだけ読んでみる。もうこれだけで、立派な読書である。もちろん、一冊まるまる読むのもアリだ。こんな調子で読書をする。それが「知的な遊び」だとぼくは思う。

いまはカンタンに映画やDVDが見られる時代になった。こうしたものを、同じように見てみることも「現代の読書」だろう。できれば、アクションものとかラブストーリーものではなく、社会派がいい。

こうしたことを続けていけば、おのずと興味関心も広がるし、自分で考えることも始めるだろう。またレポートや卒論を書くとき、こうした「雑食的な読書」が後々モノを言ったりするものだ。



映画のなかでは、学生たちのこうした「知的な遊び」がまったく見られない。みな、「勉強」ばかりしている。無論、「勉強」というものが必要な場であり、それをしてでも目指したいものがあるのだろう。が、なんというか、見ているこっちも息が詰まりそうだった。「ガリ勉」という言葉が、まさにピッタリな人たちばかりだった。

主人公のハートが、結局こうした「勉強」に疑問を持ったのも、それが自分を「支配」してしまっているからだろう。現に彼は、映画のなかで何度も「ぼくは教授に支配されている」というセリフを吐いていた。そして、「支配」されておかしくなってしまった友人のひとりが、自殺未遂までしてしまうのである。「支配」――イヤなことばだ。



こういうものを見ていると、「案外、日本の大学の“いい加減さ”も悪くないな」と思えてくる。アメリカの大学のように、「勉強」を押し付けてくることがない(あるいは、少ない)からだ。見方を変えれば、「知的な遊び」に思う存分ふけることができる、ということでもある。つまり、「支配」がないのだ。

ただひとつ、残念なことといえば、あまりにもユルい環境だから、かえって「知的な遊び」すらもしなくなる、ということだろうか。「本なんて、いつでも読めるじゃないか」という思いが、多くの日本の大学生の根底にあるのだろう。そして始めることというのが、「知的でない遊び」である。バイト、サークル、飲み会、etc……。「コミュ力」を磨き、「人脈」をつくり、「リア充」になるために。

もちろん、これらに意味がない、無駄だ、とはこれっぽっちも思わない。でも、うつつを抜かすのはマズい。うつつを抜かすのなら「知的な遊び」のほうが絶対にいい。ぼくの経験から、自信を持ってそう言える。就職はもちろん、生きる上で大いに役立つはずだ。それに、こんな「遊び」にたくさん浸っていられる時期なんて、大学時代以外ないだろう。「老後にでもやれるだろう」なんて、遅すぎる。



例によって、映画をダシに「自分語り」をしてみたが、そうしたものを抜きにしても、この映画は見ていて楽しかった。理想の青春時代と言える。ぼくも大学時代、美人な女の子とこんな生活をしてみたかったなあ。はあ~。

ところで、リンゼイ・ワグナーの美貌は見ものだ。いまでも、昔の面影は消えていない。かなりどうでもいいが、ボク好みの白人女性だった。


2013/02/16

「ヌード写真」を哲学する ― 『ヌード写真』

ヌード写真 (岩波新書)ヌード写真 (岩波新書)
(1992/01/21)
多木 浩二

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少々、いかがわしいタイトルの新書だが、中身はべつにいかがわしくない。岩波が出版しているから、内容は学術的論考である。



著者の多木浩二は、ヌード写真に、まずこんな問いを投げかける。


「なぜ、ヌード写真はこんなにも過剰に氾濫しているのか?」
「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」



この2つの問いを考えるため、多木ははじめに、ヌード写真の成立過程を振り返っている。



ヌード写真が成立するためには、当たり前だが、まずは写真機がなくてはならない。その先陣を切ったのが、ダゲレオタイプの写真だという。ダゲレオタイプの写真というのは、いまの写真と違い、粗悪で現像にも時間がかかる。

しかし、それまで「写真」というものを知らなかった人たちは、写真のもつリアリティや精巧さに大きく魅了された。しかも、現像に時間がかかるとはいえ、絵画とは比較にならないくらい、大量に複写することが可能である。これにより、秘密裏にではあるが、ヌード写真が徐々に出回るようになった

ところで、ヌード写真に写っているのは、その大半が女である。なぜ、男ではなく女なのか?それは多くの女たちが、「性的な身体」を売春でもって「売り物」としてきた、という長い性愛の歴史や、それによってでき上がった社会制度に由来する。

「売り物」としての身体は、主体にはなりえない。常に客体的な存在だ。このことが、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造をつくる結果となった。そしてこの対立構造は、そのまま「ヌード写真」という領域にも及んだのである。ここに、それまで延々と続いてきた、男女間の支配/被支配の関係が色濃く反映されている。



しかし、当初は秘密裏に出回っていたヌード写真が、なぜ現代では大量に出回るようになったのか?その謎を解くカギが「女というイメージ」にあると多木は言う。

ただの「女」ではない。そうではなく、「女というイメージ」である。つまり、実体ではなく虚構や妄想、ファンタジーとでもいうべきもの――そういった「魔力」が、ヌード写真が大量に出回るためのキッカケをつくったのである。

「女というイメージ」は、必ずしも現実を忠実に反映したものではない。むしろ、しばしば「誤解」に富んだものでさえある。それは、男たちの「理想の女像」とでも言えるものだ。20世紀は、様々なメディアが発達した時代だった。

こうしたメディア(その中心が成人男性向けの雑誌『ペントハウス』や『プレイボーイ』など)を通して、「女というイメージ」が大量に出回るようになったのである。

つまり、男たちは実体としての「女」に欲望を抱いたのではなく、イメージとしての「女」に欲望を抱いたのである。この「女というイメージ」は、あまりにも強烈なものであったから、男たちからしてみれば実体以上に「現実」的なもののように感じられた。

こうした実感を支えることができたのは「写真」だからであって、「絵画」だからではない。絵画は、誰もがそれを虚構であると見抜ける。しかし、「写真」は違う。「実体」であるかのように思える。しかし、そこに写された女は、あくまでも男の理想像にそって意図的につくられた、イメージとしての「女」である。必ずしも実体としての「女」ではないのだ。



多木はこう述べる(太字はわたし)。

こうしてイメージの上で性的な現象がよくもあしくも生起してしまうのである。このイメージの世界こそ、性の政治学が現に実践されている場であり、それが現実の人間の存在の仕方にも影響してくるのである。ヌード写真を性の政治学のテクストとして読むことができる理由でもある。(p.116)

ここにおいて、多木の当初の問い、すなわち「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」という問いは、「実体」というものに対しての再考をせまるものなのではないか。

イメージは実体から発するものである。だから、実体がなければ、そのイメージもうまれない。しかし、ヌード写真の例でわかるように、われわれ(男)は実体ではなく、イメージを見ていたのである。

そして皮肉なことに、そうしたイメージが氾濫していくにつれ、イメージは実体以上に「実体化」していくのである。つまり、イメージを「実体」だと思い込むようになるのだ。



ここでわたしは、政治学者・丸山眞男の、ある講演会でのこんなセリフを思い出した(太字はわたし)。

いわんや今日のように、世界のコミュニケーションというものが非常に発展してきた時代にありましては、大小無数の原物は、とうてい自分についてのイメージが、自分から離れてひとり歩きし、現物よりもずっとリアリティーを具えるようになる現象を阻止することができないわけであります。むしろ或る場合には、原物の方であきらめて、あるいは都合がいいということからして、自分についてのイメージに逆に自分の言動を合わせていくという事態がおこる。こうして何が本物だか何が化けものだかますます分からなくなります。(丸山眞男『日本の思想』「思想のあり方について」p.128)


さきほどの性についての話に戻ろう。

イメージであったものが、実体以上に「実体化」していく、という現象は、ヌード写真において顕著に見られることだ。しかし、実はこうやってヌード写真によってつくり上げられてきた「女というイメージ」は、今では「ヌード写真」だけから発せられるものではなくなってきているのではないか、というのがわたしの考えである。

言い換えれば、「女というイメージ」が生産される場所は、そこが「ヌード写真」であるかどうかは、もはや問われない、ということだ。「ヌード写真」であるから「女というイメージ」が生まれる、のではなく、「ヌード写真」から“も”「女というイメージ」が生産される、と言ったほうが、いまは正しいように思える。

その最たる例が、エロ漫画や二次元エロ画像などだ。これらは、「ヌード写真」から生まれ、一般に広まった「女というイメージ」を、より「虚構化」した(=男の欲望をもっと強力化した)ものではないだろうか。

エロ漫画や二次元エロ画像は、明らかに「ヌード写真」よりも強烈に、男の思う「理想の女像」を絵で体現化したものである。つまりそこは、より歪んだ「女というイメージ」が詰め合わさった場所なのだ。この時点で、もはや実体としての「女」は、完全にいなくなっているのがわかる。二次元画像については、「イメージのほうが、実体よりも完全に先行している(=男たちの頭を支配している)」といっても差し支えはないだろう。

ちなみに、昨今のAKBブームも、たぶんこれと同じ構造だ。AKBに大金を注ぐ一部のファン(というよりもオタク)は、AKBそのものが好きというよりも、メディアによって流布された「イメージとしてのAKB」

――それは、「自分に優しくしてくれるカワイイ女の子」とか、「自分のことはよくわかっているカワイイ女の子」とか、「自分が支持してあげなければ、生きていけない。そんな女の子なのだ、彼女は」とかいった、各人にとって都合のいい「イメージとしてのAKB」――

が好きなのではないだろうか。そして、こうした「イメージとしてのAKB」が他のアーティストたちのイメージ戦略よりも強く作用しているのは、「AKBとは気軽に握手ができる」という事実に由来しているように思われる。つまり、「握手する」という行為(そしてそこでの、彼女たちの「笑顔」)が、より「イメージとしてのAKB」を強化していっているのである。

話を戻そう。

そして、こうした現象に拍車をかけているのが、言うまでもなくネットである。『ペントハウス』や『プレイボーイ』といった雑誌媒体よりも、手軽に且つ気軽に、「女というイメージ」を入手することができるからだ。



こうした状況にいる今、何が起きているのか?

思うに、それは「現実(実体)へのショック」である。あまりにもイメージばかりが先行しすぎてしまったので、もはや現実に納得できないのである。イメージしか愛せなくなるのである。そういう男たちが現れてきた時代が、いまという時代なのだ。そのことはすべて、「◯◯(女性アニメキャラの名前)は俺の嫁」という、あの定型フレーズに集約されているのではないか。

よく、こういう女性アニメキャラに夢中になる男たちというのは、現実の女性たちにもてないからそうなるのだ、と言われる。それはそれで確かだろう。しかし、そうした見方は一面的なものでもある。

本当はそれだけではなく、イメージとしての「女」しか愛せなくなったから(=「女というイメージ」があまりにも「魅力的」になりすぎたから)、現実の女たちにもてなくなった、とも言えるのだ。この場合、因果関係は必ずしも明確ではないのである。



「女というイメージ」の氾濫は、なにもヌード写真と二次元画像だけではない。AVの浸透も一役買っている。それも二次元画像のときと同様、ネットというバックボーンを支えとして。

そういう意味で、ネットは「女というイメージ」をより「虚構化」(=強力化)し、それを普及させたという点で、かつてからあったメディアとは比較にもならないくらい、「強大」な存在なのだと言える。

多木の言う「性の政治学」はもはや、ヌード絵画やヌード写真だけで語り得るものではなくなっているのではないか。エロ漫画・二次元エロ画像、そしてAVと、「性の政治学」は以前にもまして広大な範囲を対象としなくてはならなくなっていると思う。

そして新たに加わったこれらの範囲は、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造、そこから生じる男女間の支配/被支配の関係という視点だけでは論じられないはずである。

なぜなら、もはやその範囲では、実体としての「女」が、限りなく透明な存在へと変化していっているからである。以前までは、「見られる客体としての女」も、「被支配者としての女」も、どれも実体としての「女」を想定していたはずだ。

であるならば、これから「性の政治学」を語る際には、以前のこうした二項対立に、さらに第三項「イメージとしての女」を導入しなければならないのではないか、とわたしは考える。



最後になるが、本書はなかなか難しい読み物となっている。一読では少々理解しがたいところが多い。それは、「写真とは何か?」「イメージとは何か?」という哲学的な問いが、本書の根底にあるからだと思う。

本書は、以前に紹介した『イメージ』(ジョン・バージャー著/ちくま学芸文庫)とも通ずる、視覚文化論・視覚表象論である。

この次は、『フォト・リテラシー』(今橋映子著/中公新書)を読もうとわたしは考えている。というのも、いま、こうした視覚文化論・視覚表象論の本が自分のなかでブームになっているからだ。まだ読んでないので今度、感想を書こうと思う。



2013/02/15

映画『ダイ・ハード/ラスト・デイ』を見に行ってきた。

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公式サイトはこちら


今回のダイ・ハードの副題「ラスト・デイ」を見る限り、これでシリーズ最後となるようだが……

残念ながら、わたしはイマイチに感じた。最終作になるから、けっこう期待していたのだが、ストーリー展開といい、登場人物といい、どうも物足りなかった。



まず、残念だった点の1つめが、主人公マクレーン(ブルース・ウィリス)の戦い方。ダイ・ハード4までの「伝統」だった、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」という彼の戦闘流儀がほとんど見られなかったのだ。

武器ではないが「使いようによっては武器になりえる物」でもって相手を殺す、というマクレーンの手法が、わたしは大好きだったのだが、残念ながら今作ではそれがほとんど見られなかった。普通に銃で戦うだけだった。

この、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」というやり方で、わたしが一番好きだったのは、ダイ・ハード4に出てくる、消火栓を車で引き倒して水を大噴出させ、それを上空にいる敵ヘリの射撃手にめがけて当てる、というシーン

ダイ・ハード4のコンセプトは、ずばり「アナログ人間VSデジタル人間」だった。敵はコンピュータを使いこなすインテリハッカーたち。そんな「デジタル人間」な彼らを、機械オンチな「アナログ人間」マクレーンが、原始的な攻撃方法で敵を倒す、というところに、わたしはすごく魅力を感じていた。

そういう演出が、残念ながらほとんどなかった。今作では、あの「伝統」が受け継がれなかったのである。



それで、2つめに残念だったのが、ラストの戦闘シーン

敵の飛行機がマクレーンの息子・ジャック(ジェイ・コートニー)を射撃している時、機内に忍び込んでいたマクレーンが、中に積んであった車を鎖で飛行機につなぎ留め、その状態で車に乗って地上めがけてアクセルを踏む場面があった。車は飛行機の「お尻」から飛び出し、そのまま車は「お尻」とつながった状態で宙吊りになる。一気に重心が後ろに傾いたその飛行機はバランスを崩すのだ。

ここまでは良かった。ここでは、「いま、そこにある些細なものを使って敵を倒す」の「伝統」がちゃんと受け継がれている。

しかし、ここから先がダメだった。そのままバランスを崩した飛行機は、なぜかジャックめがけて体当たりしてきたのである。ジャックにやられた敵・コマロフ(セバスチャン・コッホ)の「敵討ち」と称して。

べつにバランスを崩した段階では、まだ飛行機は致命傷を負ったわけではなかったのに、なぜか「意図的」にジャックのいる建物へと突っ込んでいくのだ。正直、理由がわからなかった。

いくら「敵討ち」とはいえ、「自分の命をみすみす捨ててまでこんなことするかぁ?」という疑問のほうが、映像のインパクトよりも、わたしには強く残った。なんか非現実的というか、「リアリティ」が欠けているような気がして



以上の2つが、わたしとしては残念だった。

ただ、どの戦闘シーンも迫力が凄まじかったので、十二分に惹き込まれる。ブッ飛んだカーチェイスや、弾丸のフッ飛ばし方、物やガラスが砕けてその破片が飛び散っていく演出などは、シリーズのなかでは今作がもっとも良かったと思う(明らかにCGだな、とわかってしまう部分も少なくなかったが)。



で、今作でシリーズ最後、ということらしいが、「もしかしたら続編があったりして」ともわたしは思っている。

というのも、今回はじめて「マクレーンとその息子・ジャック」が「一緒に戦う」という設定になっているので、ブルース・ウィリス引退後(彼はもう年だろう)、ジャック役を演じたジェイ・コートニーが、新たに「ダイ・ハード」シリーズを引き継ぐのではないか、と考えられなくもないからだ。

しかし、「ダイ・ハード」=ブルース・ウィルス、という等式の魅力があまりにも強いから、やはりこれで最後、ということになるのかもしれない。仮に続編があったとしたら、「ダイ・ハード・リターン」とか、「ダイ・ハード・アゲイン」とか、「ダイ・ハード・ザ・レジェンド」とか、そんな感じになりそうである。

ところで番宣で、マクレーンは「世界で最もツイてない男」などという不名誉な異名を与えられていたが、25年もの間、超ハイパー危険な戦闘に何度も巻き込まれ、何度も殺されそうになりながら、それでもなお死ななかった(文字どおり、「ダイ・ハード」=「なかなか死なない」である)のだから、ある意味「世界で最もツイてる男」でもあるじゃないのか、と思う。



ということで、ダイ・ハードファン必見の映画だった。ダイ・ハードファンじゃなくてもそこそこ楽しめます。

2013/02/13

散歩散歩散歩

2013年2月13日現在。

わたしはいま、事情あって働いていない。毎日がホリデーである。


毎日がホリデー、というと、きっと現役社会人の方たちから羨ましがられるだろう。ところが毎日を「日曜日」として過ごす、というのは、けっこうキツかったりもする。特にすることがないのだ。

つまるところ、暇である。おまけに金もないから旅行にも行けない。「さて、今日は何をしようか?」などと、途方に暮れることのほうが多い。エーリッヒ・フロム言うところの、「自由からの逃走」というヤツである。

そんな理由もあり、また、家にこもることが多いわたしは、なにかと運動不足になりがちだ。なので、少し前から「散歩」というものを始めてみた。

散歩――とはいっても、毎回毎回、同じコースを歩くだけである。「ウォーキング」といったほうがふさわしいかもしれない。



それはともかく、ここ最近は、この「散歩」というのがマイブームになっている。

出かけるときは、少し薄着をする。けっこう汗をかくからだ。靴は普段から使っているもの。そして欠かせないのが、「ウォークマン」である。いつもこのウォークマンで好きな曲を聞きながら、散歩する。ウォークマン――歩く人。文字どおり、わたしのことである。



歩くところは森林公園や植物公園である。

なぜ、そういったところを歩くのか?

静かだからだ。休日はともかく、平日は人がいない。あるのは、植物と土と砂利。ときどき、老人を見かける。それだけである。つまり、わずらわしさがないのだ。

そういったところをひたすら歩く。歩く。歩く。「パフューム」の曲“Hurly Burly”を聞きながら。わたしはパフュームが好きだ。ファンである。女の子3人とも美人である。かわいい。そんな彼女たちの歌声を聞きながら、ただただ、歩く。歩く。歩く。



歩きながら、どんなものを目にするか?

よく見かけるのがハトである。公園に行き着くまでの道、下り坂があるのだが、その坂の道路の端っこで、よく彼らを見かける。いつもなんか、ツンツン突っついている。餌を探しているのだろう。いつも夢中で、ツンツンしている。

こちらが彼らのそばを歩いてみても、あまり警戒しない。飛び去ることもない。どうやら人間に慣れているようだ。わたしだったら、そばに見知らぬ人が近づいてくるだけで「んんっ?」と落ち着かなくなるのに、彼らはそうならない。対人能力とかいうものを、きちんと持っている。えらい。


アヒルもよく見かける。いつも川にプカプカ浮かんでいる。眠そうな顔もしている。あせり、という概念がなさそうである。

すばらしいことだと思う。現代人がいつも抱えて生きているものを、アヒルはこれっぽっちも抱えていない。抱えていないどころか、いつも余裕そうな顔つきである。自分もいつもああであったらなあ、と感じる。


老人は、わりと見かける。老人。やや、ぶっきらぼうな言い方ではある。しかし、そうとしか呼びようがない。まさか「老いて去る者」とか、「人生の下り坂」とか、とは言えまい。「あっ、あんなところに“人生の下り坂”がいる!」なんて、失礼にも程があろう。

「(お)年寄り」というのはどうか?これは、いつも眉間にシワ寄せた人、というイメージしかない。だから、老人、がいい。老人。そう、老人。



歩くときは、腕を振るように意識している。散歩は、足だけでするものではない。腕でもするものだ。ぼくはそう思っている。だから、腕を振る。振るときは、いつもよりも、すこしだけオーバーな感じがいい。そうやって、歩く。すると、だんだん、体が温まってくる。汗も出はじめる。「全身運動」というヤツだ。

歩きはじめると、自然と考えごとをしてしまう。パフュームの曲を聞いているのに、である。「どんな記事を次は書こうか?」「あの映画、たしかこんな場面があったな」「お昼ごはんはどうしようか?」などなどなど。

歩いていると、こうやって黙々と、考えることが常である。歩きながら考える。考えながら歩く。どちらが主なのかわからなくなる。パフュームの曲を聞いているからかもしれない。



散歩というのは、孤独人や一匹狼には、もってこいの趣味だと最近気がついた。まず、仲間がいらない。テニスやサッカーのように、他人が必要でない。ひとりで、しかも好きな日に、好きな時に、できる。

それから、ランニングのように、苦しくない。ただひたすら、歩いていればいいのだから、足も故障しにくい。つまり、続けることができるのである。三日坊主にならない、ということだ。

「運動不足解消のため」という理由で始めた運動は、だいたい、三日坊主へ一直線である。それは、「苦しくて続かないから」「メンバーが集まらないから」の2つに尽きる。でも散歩には、その2つがない。



歩く時間はだいたい50分。50分と聞くと、長く感じる。しかし、案外すぐに終わる。パフュームの曲を聞いているからだと思う。そして終わる頃には汗もかいている。気分もスッキリする。いい運動をしたな、と感じる。

こんな感じで、わたしはここ毎日、散歩している。とはいっても、これは「何もすることがない」ということの、裏返しでもある。まさにわたしは、「自由」から「歩いて逃走」しているのである。



2013/02/11

「イケメン」は「捏造」されている ― 『イメージ』

イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)
(2013/01/09)
ジョン バージャー

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昨年の12月、出版された日にすぐこの本を買った。
いつか感想を書こうと思っていたのだが、ずっと後回しになってしまったので、今日書こうと思う。

翻訳者のあとがきと、ネットで調べた情報によると、この本は、その手の業界内ではかなり有名なものらしい。初版(原書)が1972年で、以来ずっと版を重ねているベストセラーだという。



ところで、どんなことを論じている本なのか?


一言でいうと「人間の“見る”という行為は、われわれの意識しない、いろいろなものから“制約”を受けているのだ」である。

われわれは、街中にある商品とか広告とか、テレビ番組で流されているもの、ネット上で見る動画など、そういったありとあらゆるものを、「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」のである、というのだ。このことを、著者は有名な美術絵画から、エロ、グロ、ナンセンスな広告までを例に挙げながら説明している。

ものを「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」例をひとつ挙げてみると、たとえば「美術館の中にある作品」がそれだ。

われわれは、「美術館に飾られている作品は、どれも“芸術”である」と無意識に思っている。いや、「信じ込まされている」といったほうが正しいかもしれない。



こんな思考実験をしてみよう。

仮に、わたしが「現代アート好きな一介の人間」だとする。そこで、新進気鋭の若手芸術家たちによる現代アートが、たくさん飾られた美術館に行ったとする。しかしそのなかに、何枚かはまったくのド素人の描いた絵が掲げられてある。

そして、わたしがそれらド素人の絵を見たとする。で、たぶん、わたしはこう感じるだろう――「おお、これが“現代アート”というものか、すごいなあ(でも、正直なんかよくわからないけど、でもきっとすごいんだろうなあ)」と。

ここでもし、そのときわたしが見た絵が、美術館でもなんでもない、「ふつうの場所」にあったら、今度はたぶん、こんなふうに感じるだろう――「えっ、なにこれ? 変な絵だ。ぜんぜん美しくないな」と。


つまり、である。

ものを「見る」という行為は、そのものがある「場所」であったり、そのものを見るために必要な「装置」(美術館も、ものを「美しく感じさせる」という意味では、一種の「装置」だ)であったりによって、カンタンに「変形」されてしまっている(あるいは、「歪められている」)、ということだ。しかも、われわれがまったく気づかぬうちに、である。



――なるほど。確かにそのとおりかもしれない。自分の「見る」という動作が、「場所」にかぎらず、「常識」だの「歴史」だの「知識」だのに「制約」されている、という意見は、的を射ていると思う。

ところで、この意見でピンと来たことがひとつある。近頃のテレビで頻繁に耳にする「イケメンの◯◯さん」とかいう宣伝だ。もしかしたらこれも、テレビという「装置」に、「見る」という動作を制約されて成り立っていることなんじゃないだろうか?

テレビやネットで頻繁に、「“イケメン俳優の”◯◯さん」とアナウンスされれば、それまではなんか「イケメン」に見えなかった人も、次第に「イケメン化」していく気がするのだ。べつに誰とは言わないが、わたしからしてみれば「う~ん、この人、本当に“イケメン”か?」と言いたくなる有名人が、イケメン扱いされていたりするのである。

これは、わたしがイケメンじゃないから嫉妬している、ということではなく、「どうがんばっても」「ひいき目に見ても」“イケメン”とは言いがたい人が、事実、「イケメン」ということになっているのだ。



これだけじゃない。ほかにもたとえば、メンズのヘアスタイルを紹介したムックを見ていると、「モデル」とは言いがたい容姿の人が、なぜかモデルをやっていたりするのである(どういう事情なのかは知らないが)。しかし、なんか見ているうちに、だんだんと「ああ、でもたしかに、イケメン(?)かもなあ……」とも思えてきたりする。

それはもしかすると、そのモデルさんの「整えられた髪型」や「ヘアスタイルのムック」、加えてそこに載っている人たちが、みな「読者“モデル”」であるという「前提」などによって、わたしの「見る」という行為が、無意識のうちに「歪め」られているから、かもしれない(きっとそうだ、きっとそうに違いない)。

これは逆に考えれば、「“見る”という行為は、カンタンに“歪める”ことが可能だ」ということでもある。事実、最近は「雰囲気イケメン」という言葉があって、顔はイマイチでも、その人の雰囲気を「イケメンな感じ」風にすれば、不思議と、しかもだんだんと「イケメン」に見えてくる、なんてことを説く記事があったりするくらいだ。それもお手軽な方法で実行できるのである。だから、ボクもその気になってガンバれば……



――それはともかくとして、「見る」という行為について考え直してみた本書には、一読の価値がある。多少難しいところもあるが、予備知識がないと読めない、というものではない。スラスラ読めてしまう本だ。

ちなみに、この本に出てくる「ものを見ること」について考え方というのは、いまや人文学では主流となっている。難しくいうと、「視覚表象論」とか「文化表象論」とか、そんなジャンルで確立している。で、わたしは本書の次に、『視覚論』(ハル・フォスター編/平凡社ライブラリー)を読んでみようと思っている。



2013/02/09

ブログにおける「自分語り」の素晴らしさ

「自分語り」というのは、おそらく「ネット上で嫌われる行為」ベスト5にランクインするのではないかと思う。べつにこちらから聞いてもいないのに、自分のことを語るというのは、確かにウザい面もあるだろう。

しかしそれは、「リアルにおいては」という条件付きだと思う。ネット上では、むしろ「自分語り」をしてくれるブログの方が、僕は好きだったりする。

「自分語り」というのは、「自分史」の一部分を語ることだ、と僕は思っている。自分のそれまでの体験、そしてそこから得られた、自分なりのものごとに対する考え方――

こういったものがなければ、「自分」を語ることはできない。つまり、「自分」を語るとは、自分の歴史(=自分史)を語ることと、ほとんど同じなのだ。

そういった「個人的な歴史」というのは、一見すると「その人だけの歴史」のように思えるが、実はけっこう、他の人にも当てはまるような、「普遍的」なことだったりする。

実際、僕の経験からの話だが、「自分語り」を積極的にしているブログを読んでいると、そのブログを書いた人のみならず、僕個人にも当てはまることを多々発見できるのだ。




話は若干変わるが、僕は新聞の書評欄やネット上の書評サイトをもとにして、本を買ったことがあまりない。このことに自分で気づいたのは、わりと最近である。しかし、僕自身、本が好きで、こうして本の感想を中心にしたブログを立ちあげている。

にもかかわらず、なぜ、他の書評から刺激を受けないのだろうか。その理由は、そういった書評には、書いた人の「自分」が表れていないことがほとんどで、読んでもおもしろくないからだ。つまり、取り上げた本をダシにして自分語りをするということが、ほとんどされていないのである。

その本を読んで、その人が思ったことや感じたことをそのまま書いてくれればいいのに、と思うところを、わざわざ衒学的に書かれてあったり、無理に小難しく言い回してあったり、というのが、新聞の書評や書評専門サイトには多い気がする。

もっと気楽に、本をダシにして「自分語り」をすればいいのではないか、と思うことがしばしばだ。それに、わざわざその本にどんなことが書かれてあるのか、詳しく説明しなくとも、その本の目次を見れば、何が言いたいのかはすぐに見当がつく。




ネット上で「自分語り」をすることは、必ずしもリアルの世界と同じように、マイナスに働くわけではない。なぜなら、そういった「自分語り」している人が嫌いな人は、そもそもそういったブログを見ないからである。

リアルの世界のように、ネット上では「人付き合いで仕方なく、その人の“自分語り”を聞かないといけない」といった状況になることはない。「嫌なら見なくていい/やらなくていい」が、ネット上では簡単に成り立つのだ。

つまり、ネット上での「自分語り」はマイナスに作用しないのである。むしろ、プラスに働くことのほうが多いと僕は思う。にもかかわらず、「自分語り」をためらう人が、わりと多いように見受けられる。

これは、日本流の「個を出さない」という教育のタマモノだろうが、それに加えて考えられるのが「客観的」というものに対する、ある種の「信仰」である。

学校の時の作文や論文を書くときなど、ぼくたちは「“客観的に”ものごとを述べなさい」とよく言われてきた。特に、高校生以降になると、こうしたことをよく言われるようになる。とにかく「客観的」であることが、なにか「良いこと」のように吹き込まれてきた感が、僕には強い。

一方、「自分語り」とは、そういった「客観的」なるものとは対極に位置するものだ。「自分」のことは、一見すると、どれも「主観的」なもののように感じるから、その人にしか当てはまらない、その人にしか役立たない――そういった見方というか信仰というか、そんな考えが「自分語り」という行為には向けられているように感じる。

しかし、さきほども言ったように、僕の経験からすると、ある人の「自分語り」にも、他の人に通じる「普遍性」があるのだ。決して、「その人のなかだけで終わる話」ではないのだ。そこに書かれてある「自分語り」は、読み方を変えれば、いくらでも「私個人」のものにすることができるのである。




僕が、「自分語り」のブログだけに限らず、身辺雑記的なエッセイが好きなのも、そういった理由からである。

特に好きなのは、中村うさぎさんのエッセイ(『愛という病』など)だが、彼女の個人的な話には、笑えるおもしろさも、「普遍性」も含まれている。決して、「中村うさぎ個人のなかだけで完結する話」ではない。うさぎさんの「自分語り」を、そのまま僕の「疑似体験」として、変化させることができるのである。

無論、彼女はプロの物書きだから、素人の書くブログと同列に語るのは無理があるだろうし、うさぎさんにも失礼なことだろう。しかし、プロのエッセイにせよ、素人のブログにせよ、「“自分語り”には“普遍性”がある」という点においてはどちらも共通している。違うのは、「自分」というものの「語り方」である。

そんなわけで、いま僕自身の、あらゆるブログに対する願望は、「みんなもっと、自分語りをしてくれたらいいのに」である。リアルではしづらいからこそ、ネット上ではやれるのだし、やる価値があるのではないかと思う。「自分語り」というものは。



2013/02/07

「みんな」という“暴力” ― 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]
(2009/02/27)
坂井真紀、ARATA 他

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レンタルショップで発見。

私は、あの有名な「あさま山荘事件」をリアルタイムで見ていた人間ではない。だから当時、世間を大きくにぎわせたこの事件が、どんなものだったかを知りたいという欲求から、レンタルしてみた。



映画はだいたい3時間。

最初の30分ぐらいまでは、「日本の学生運動とは何だったのか?」という説明。

そこからおおよそ2時間、いわゆる「連合赤軍」(あさま山荘事件を起こした学生主体による軍隊)がどのようにでき上がっていったのか、どんなことをしていたのかという描写が続く。ここがこの映画のメイン。

そして最後の30分。あさま山荘での連合赤軍と警察との攻防戦。学生たちは結局逮捕される。


そして感想は?というと、いつもどおり、問答無用ですごくおもしろかった

さっきいった2時間の部分で、あの事件を起こすまでに、連合赤軍がどんなことをしていたのかが、映画のなかに出てくるのだが、一言でその内容をいってしまえば「リンチ・オンリー」である。そしてそれがすごく「イヤらしい」のだ。

まず、連合赤軍のトップ2人(森恒夫と永田洋子)が、「共産主義化」というのができていない軍のメンバーを見つける。

共産主義化――かなり簡単にいうと、連合赤軍の「考え方」に染まることだ。この「共産主義化」が“徹底”されていないヤツは、トップにイジられたり、ほかのメンバーからトップに密告されたりするのだ。

そして、吊るし上げられた者は「総括」という名のもと、メンバー全員から殴られ、蹴られ、引っ叩かれる。そして、最後は死んでしまう(男女問わず、殴打されたあとの顔がグロかった)。

それで、こうしたリンチのなにが「イヤらしい」のかというと、リンチそのものが徐々に「自己目的化」していくところ。日本に「革命」を起こすという、軍の本来の目的がだんだんと遠のいていき、目的のための「手段」にすぎなかった「非・共産主義者」へのリンチが、「真の目的」のようになっていくのである。

そしてさらに「イヤらしい」のが、メンバー全員が互いに「非・共産主義者」でないか、監視しあっているということ。べつに誰からも「監視しろ」とは命令されていないにもかかわらず、だ。


ところで、こういう状況、つまり、


1:「恐怖政治」が組織内で自己目的化していくこと。

2:誰かから命令されたわけでもないのに、メンバー全員がお互いを怪しい者でないかどうか監視しあうこと。


というのは、なにかこう、日本社会において全体的に見られることなんじゃないのか、と私は思う。

こういう構造の「イヤらしさ」は、最初、「お上」に当たるような人が「恐怖政治」をやっていたのに、それをいつしか「みんな」が「みんな」にやるようになってしまっている点だ。

たぶんこうやって、いわゆる「みんないっしょじゃないといけない空気」みたいなものが蔓延し始めるのだろう。しかも不幸なことに、こうした「束縛感」をそもそも作ったのは「お上」なのだ、ということに、もうこうなってしまった時点で誰も「気づけない」のだ。

矢印を使って言い直すと、


「お上」が「恐怖政治」を始める。

「みんな」がそれを恐れる。

「お上」の怒りを買う者がでてこないか、「みんな」が「みんな」を相互に監視しはじめる(みんな恐怖を味わいたくないし、恐怖政治の現場にも立ちあいたくないから)。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が徐々につくられていく。

「みんな」が「みんな」を相互に監視しあっているから、この「みんないっしょじゃないといけない空気」を壊した者は、「みんな」から制裁される。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が、より「強化」される。

こうして「お上」による「恐怖政治」は、いつの間にか「みんな」による「恐怖政治」へとすりかわっていく。



だいたい、こんな感じだろうか。

そう考えると、この映画の中で連合赤軍がやったことというのは、僕たちの日常のなかにもそれと似たようなことが見られるのではないか、と感じる。つまり、こうした事例というのは、連合赤軍だけの問題ではないと思うのだ。

殴る蹴るの肉体的な暴力ではない、「恐怖」という精神的な暴力。そしてそれを引き起こしているのが「お上」だけではなく、「みんな」であるということ――つまり、「みんな」という存在も、「みんないっしょ」という「空気」も、ひとつの「暴力」たりえる、ということだ。

ちなみに映画では、こうしたリンチされるシーンが、ほかのシーンよりも圧倒的に多く描かれている。もしかしたら、若松孝二監督は、こういうシーンを多く撮ることで、「みんな」という「罠」がいかに根の深いものかを、表現しようとしたのかもしれない。

そういう意味で、すごく示唆に富む映画だった。
2013/02/04

モノ作りは、行き当たりばったりでいい ― 『映画道楽』

映画道楽 (角川文庫)映画道楽 (角川文庫)
(2012/11/22)
鈴木 敏夫

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ジブリ映画が大好きなので、手にとった一冊。

ジブリプロデューサーで著者の鈴木敏夫が、ジブリ映画の魅力と苦労話、企画の裏側、若いころに影響された作品、現代アニメ論、プロデューサーとしての哲学、「そもそも創作とは何か?」などを存分に語っている。

この中で特に気になったのは、日本と西欧のモノづくりの違い(太字は私)。

海外の場合、例えば教会を作るとして最初は空から見た視点で全体の形を考えるんです。教会だったら、十字架ですね。その全体を考えてから、部分を作っていく。ところが、日本では江戸時代の武家屋敷がいい例なんだけど、全体の設計図はないんです。まず、一つの部屋から考え始める。床の間を最初に作るとします。すると、その床柱をどうするか。棚はどう付けるかといった部分的な装飾やデザインから始めるんですよ。それを作っているときには、全体のことなんて何も考えていない。(中略)つまり、海外が「全体から部分へ」だとしたら、日本は「部分から全体へ」であると加藤さんは言っているんですね。(p.221-222)

注:「加藤さん」・・・加藤周一(評論家)のこと。

こうした違いは、アニメ制作の現場でも見られると鈴木はいう。

たとえば、まずはひとり、キャラクターを作る。男か女か。どんな服を着せるか。髪型やその色はどうなっているかetc etc etc……。そういった細かい部分から、まずは考えるらしい。物語の構成や仕掛けなどはそっちのけで。

そして、キャラクターが決まると、ようやく本題の物語はどうするか、という話に入っていくそうだ。一方、西欧はまったく逆で、最初はストーリー作りから始めるという。

いやいや、こんな違いがあったなんて知らなかった。僕はてっきり、ストーリーから練っていって、それからキャラクターとか配色とか、そういった細部へと進めていくものだと思っていた(とはいっても、そういう場合もあるのだろうけれど)。

でもこうした日本の作り方、なんとなくだが、読んでいて「確かにこっちのほうが作りやすそうだし、楽しそうだなあ」と感じた。日本流の「部分から全体へ」方式のほうが、僕はピンと来るのだ。

というのも、アニメや建築ではないけれど、自分が文章を書くときも、この「部分から全体へ」といった感じだからである。

僕は文章を書くとき、「いまからコレとコレとコレについて書こう、それで最後はこんな感じで締めよう」などと考えていない。むしろ、「なんか書きたい気持ちはあるんだけれど、なにをどんなふうに書こうか?」ぐらいの状態で始まるのがほとんどだ。

本の感想だったら、「この本のココが面白かった。だからココを取り上げて書くか」といった感じで書き始める。決して、「こうして、ああして、こうやって、ああやって・・・」というふうには頭は回らないし、やっても僕なら失敗する。だから、書くときは行き当たりばったりで、ただただ指にまかせてキーボードを叩くだけ。

映画の感想ならもっとテキトーで、「ああ、この映画、最高だった。さて、どんな感想書こうか。イマイチ思いつかないけど、パソコンの前に座ればなんか思いつくか・・・」ぐらいの気持ちで書いている。

そういえば、大学時代の卒論もそんな感じで書いていた。

とりあえず、かなり漠然と「◯◯について書きたい」という気持ちはあったけど、だからといって、きちんと「まずはアウトラインをしっかり決めて、次に××について調べて、それから・・・」などとはやらなかった。第1章から、ではなく、だいたい第3章あたりから始まりそうなこととかをいきなり書き始めた。とにかく全体像とか章立てとか、そんな「こまけえこたあいいんだよ!!」といわんばかりの感じだったなあ。

こんな超個人的事例から、無理やり日本人全体へと一般化させてもらうと、なぜ日本人の間で「合理精神」とか「論理的思考」とか、そういった概念が歴史的に見て乏しかったのか納得できる

要するに、みんな「フラフラっとやる」「チマチマとやる」のが好きというか、得意というか、そういう国民性なのだと思う。昔から「形から入る」という言葉があるように。

他方、きちんと計画を立ててから行動に移す人がよくいる。

最近見た何冊かの自己啓発書(ビジネス書?)の中で、「キャリアプランはしっかり作るべき」みたいなページがけっこうあった。「1年後には◯◯の資格を取得し、5年後までには××へ留学して、10年後までには独立して・・・」といった感じだった。

すごいな、熱心だなと感じる。でも、僕には疲れそうだ。なんかこう、ガッチリと予定や目標を組んでしまうと、自分だったら息が詰まってしまうからだ。

その都度その都度、部分的に対処していくっていうやり方でもいいのではないか。僕はそう思っている。そういう「手法」じゃマズイ場合や、通用しない分野ももちろんあるけれど、少なくとも「人生」という分野は、そういうやり方でやっていってもいいのではないだろうか。「人生像」とか「ライフプラン」とかいう「全体」から考えるのではなく、とりあえず「今日は何しようか?」とか「1ヶ月はこんな感じになってたらいいな」ぐらいの、「部分」的な発想で

と、気づいたら最後はどうでもいい人生論になってしまった。これも「部分から全体へ」方式を取ってこその仕上がり、というものだろう。

とにかく、この本は面白かった。



2013/02/02

「ひきこもり」で何が悪い ― 『ひきこもれ』

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)
(2006/12/10)
吉本 隆明

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僕はひきこもりがちな人間だ。遊ぶとなると、たいてい選択肢は、家で本を読むか、DVDを見るか、ネットをするかの3つである。

そんな性分だから、タイトルに惹かれて本書を買ってしまった。世間は一般的に「ひきこもりは良くない」とか、「ひきこもりは社会不適合者だ」とか、そういった見方をする。が、吉本隆明はそうではない。

吉本によると、ひきこもることは、自分の中に「価値」をつくることだという。誰とも会わない。誰とも話さない。ただひたすら孤独になっているだけだが、そうすることで色々なことを、ひとりで黙々と考えるようになるのだという。

ひとりで黙々と考えるようになると、人とは違った価値観を持つようになる。人とは違った物の考え方をするようになる。それが、その人の「価値」になるのだと吉本は言う。

みんなといると、どうしてもその場の、目には見えない「みんなの論理」に従いがちだ。みんながそうするから自分もそうする。というか、せざるをえない。みんながそう思っているから自分もそう思う。というか、思わざるをえない。これでは、僕の思考が「みんな」の“奴隷”になってしまう。こういうのが僕は本当に嫌で、だから大学にいた時はほとんど毎日ひとりで過ごしていた。

そのせいで、さみしい思いもした。周囲を見渡せば、美人な彼女をつれて歩くカッコイイ男がいる。別の方向に目を向ければ、5~6人の男女が集まって楽しそうにワイワイと話をしている。しばしば、そういう光景を目にしてはヤキモチを焼いたりもした。時には、「俺は孤独なんじゃない。“孤高”なんだ」などと屁理屈めいたことを自分に言い聞かせることもした。

今の言葉で言えば、いわゆる「リア充」というヤツではなかったと思う。しかし、それは傍から見ての話だ。つまり、僕の「外面」が「リア充」には見えなかった、というだけである。しかし、嫉妬やさみしい気持ちになることもあったけれども、「内面」は「リア充」であったことは今でも自負している。

ひとりの時間、僕は図書館と本屋にしかいなかった。そういうところで「ひきこもり」をしていた。サークルには入っていなかったし、バイトもまじめにやっていなかった。

授業には出た。出ないと欠席で落とされるし、試験の連絡も入ってこないからだ。けれど、所詮、大学の授業なんて教師の「趣味」みたいなものだし、僕はまじめに聞くというより、テレビ番組を暇つぶしに見ているぐらいの「娯楽」にしか考えていなかった。だから、授業がなくなったら、とにかく本屋と図書館に足を運んだ。そこで、色々なことを感じたり、考えたりしていた。そういった形の「ひきこもり」をやっていた。

この本にすごくシンパシーを抱いた理由は、おそらくこうした経験が僕の中には多かったからだと思う。だから、畏れ多くも「僕と吉本は似ている点が多いな」とも思った。どちらも、内に引きこもりがちな性格は共通している。

それから、吉本はこの本の中で「物書きを始めたのは、ひきこもりがちな性分だったからだと思う」と書いている。引きこもっていて、社交的ではないから、人にうまく口で伝えられない。だから、物を書いてそれを人に読んでもらえばいい――そう思って、物書き屋になったのだという。

彼の場合、職業として物書きをやっていたわけで、そのところ僕は趣味として物を書いているから違うのだけれど、それでも「物を書く」という点は一緒だ。

僕は、よく物を書く人というのは、根本的に世の中や他人に対して、多少なりとも何らかの不満なり不快感なりといった、「欠如感」(何か満たされていない感覚)を抱いている人だと思っている。

かく言う僕もそうである。とにかく何か書いて、言いたいことを言う。そうやって憂さを晴らさないと気が済まない。僕は大学時代、文学部にいたが、文学者は気難しい人が多かった。その理由は、文学をする(=広い意味で、色々と物を書く)人は、そもそもこうした「欠如感」を抱きがちだからなんだと思う。

そういう点で、僕はやはり物を書くという行為は「格好悪い」と感じる。見た目が地味でパッとしないから、という外面的な理由もあるけれど、さっき言ったような「欠如感」を抱いているから、という内面的な理由からそう感じる。できれば書かない方がいい。しかし、書かずにいられない、そんな自分が嫌いじゃなかったりもする。

話がだいぶ逸れてしまったが、とにかくそうやって物を書いたり、図書館にいたり、本屋にいたり、という生活を大学生の時に送った。

ここから何を得たか。それはよくわからない。はっきりとわかるのはまだ先になってからかもしれない。ただ現時点で、漠然とした感覚からではあるが、あの頃そうした生活をしていたことが、就職活動の時だったり、悩みの切り抜け方としてだったり、また今はブログを書くことだったりに生きている(生きた)なあと感じる。

「だからなんだ」と言われればそれまでかもしれないが、少なくとも、ひとりでいることをあまり苦に感じなくなった。「他人に物を考えてもらう」のではなく、「自分で物を考える」ようになった。長い文章を気軽に書けるようになった。本を読むにせよ、映画を観るにせよ、またどうということもないテレビ番組を見るにせよ、そこに隠れている「構造」というか「仕組み」というか、そういったものを読み解いて、それを何かに応用したくなる、そんな人間になった。

こうしたことがすべて、僕の「価値」になったのだと思う。無論、失ったものも少なくない(そのぶん、女ウケが悪くなったとか、外見が格好良くなれなかったとか)。しかし、それはそれでよかったかもしれないと今は思っている。

ひきこもれるのなら、ずっとひきこもっていたい。僕は本当にそう思う。でも生きていくためには働かないといけない。だからとりあえず外に出るのだけれども、それでも最低限度でいいと思う。いつもいつもコミュニケーション上手で、社交的である必要はまったくないだろう。そんなことよりも、自分の中に「価値」を醸成することのほうがずっと大事なのだから。

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