2013/03/16

「それは価値観の押しつけだ」という押しつけ

最近(でもないかもしれないが)、ネット上であるテーマや問題について意見を言うと(たとえば、ブログのコメント欄で)、「それは価値観の押しつけだ」といった反論が返ってくることがある。

こうした反論にまた反論するということに対して、以前からわたしはなんとなく「やりづらさ」を感じていた。しかし、「なぜ反論しにくいのか?」というのが、自分でもいまいちよくわかなかった。それで先日、ようやくわかった(?)ので、今日はそのことを書こうと思う。


●「それは価値観の押しつけだ」と言われた途端、感じる「後ろめたさ」


ネット上でなにかについて意見――「◯◯はするべき」とか「◯◯はやめるべき」とか――を言う。すると、それを見た人から「それは価値観の押しつけだ」という意見が返ってきたりする。

そういう意見が来るときというのは、概して当初述べた意見が、(多かれ少なかれ)「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったり、ということが多い。

だからだと思うのだが、それに異を唱えようとする一部の人にとっては、そういった意見を、意見人からの「価値観の押しつけ」と捉えるのだろう。

すると、「押しつけだ」と言われた意見人は、どことなく「後ろめたさ」のようなものを感じてしまうのではないかと思う。

無論、そんなことなど微塵も感じないという人もいるだろうが、わたしも含めて、「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という気持ちが、程度に差はあれ、生まれてしまう人もいるのではないだろうか(なので、これからする話は、どちらかというと、そのように感じる人向けになる)。

しかし、なぜ、後ろめたさや気が引けるような思いになるのだろう? わたしとしては、意見を述べた際、ほとんど(あるいは、まったく)と言っていいほど、「自分の意見でもって、他人を従わせよう」などという気持ちはこれっぽっちもなかったのに、ということがほとんどである。

なぜなら、ネット上で「不特定多数の人々」に対して意見を述べたのであり、誰か「特定の個人」に対して述べたわけではないからである。つまり、単なる「意見表明」としか、わたしは考えていなかったのだ。

でも、相手が「押しつけ」と感じるのは、やはり自分の意見が良くなかった、間違っていたからではないか、だから相手はそれを「押しつけ」という言葉で表現したのではないか?――ということを後になってグルグルと頭のなかで考えてしまう。


●「それは価値観の押しつけだ」論の構造


しかしどうも、この「押しつけ」という言葉は、ネット上では「したたか」な言葉になりやすい傾向があるように思う。

というのも、意見人に対して「それは価値観の押しつけだ」と言った瞬間、反論者は「善悪の二項対立」という形に持っていけるからだ。つまり、「価値観を押しつけた悪い人(=意見人)」VS「価値観を押しつけられた悪くない人(≒善人)」という形に、である。

しかし、当の意見人には、そもそも「押しつける」つもりなどなかった(あるいは、ない場合がほとんど)のだ。なので、意見人には、「善か悪か?」という概念など初めから存在しないのである。

しかし、「押しつけだ」と言われた瞬間、意見人のほうにも、さっきの「善悪の二項対立」という構図が心のなかに生じる。だから、彼(女)は「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という罪悪感に陥るのだと思う。

すると、なんとなくこれ以上、意見人は意見を言いづらい感じになる。意見人の「意見内容」が吟味・批評されるべきところを、それが「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったりというせいで、意見内容そのものよりも、むしろ「そういったたぐいの意見を述べた」という事実ばかりが批判対象にされるからである。


●ネット上で、価値観を「押しつけ」ることはできない


しかし、である。リアルの世界で、特定の個人に対して「べき論」を述べ、それを「価値観の押しつけだ」と反論されるならまだしも、意見を述べた場所はネット上なのである。

つまり、不特定多数の人々に対して述べたのだ(もちろん、ネット上でも特定の個人に対して述べる場合もあるが、それはリアルの世界の場合と同じになるので、ここでは考慮しない)。

ということは、そもそも「押しつけ」ようがないのである。なぜなら「押しつけ」られる「明確な対象」としての個人が存在しないからだ。なので、ネット上でなにか意見を言うことに対し、「それは価値観の押しつけだ」と反論するのは、筋違いなのだと思う。

この「それは価値観の押しつけだ」という反論の仕方は、ブログのコメント欄などでよく観察される。たとえそれが、「つぶやき」のような些細な主張であっても、である。

こういう反論をしてくる人というのは、おそらく「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった思いがあるのだろう。現に、そういうコメントをしてくる人もしばしば見受けられる。確かに、それはそのとおりだと思う。

しかし、「価値観というのは人それぞれだ」とか「誰にも人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった考えもまた、ひとつの価値観にすぎない。そのことを、この手の意見を強調してくる人たちはあまり認識していないように感じる。

にもかかわらず、そうした価値観を意見人に対して「強く」言い立てる(見方を変えれば、これも「押しつけ」である)というのは、さっきの「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」→「だから価値観の押しつけは良くない」とする論理と矛盾しているのではないか?


●己の価値観を自由に言えるのがネットのメリット


もしかしたら、「押しつけ」批判論者は、「強気」な意見やネガティブな意見、「一般ウケしない(しそうにない)」意見を見たときに感じた個人的な不快感や不満を、「それは価値観の押しつけだ」というセリフに変えることで、ある種の「自己防衛」をしようとしているのかもしれない。

しかし、今まで述べてきた通り、こうした反論は、ネット上という不特定多数の人間が自由にページからページを行き来する空間においては、無意味だと思う。

そして、意見人もたとえ「押しつけだ」と言われても、自分の意見を再考する必要は特段ない。なぜならさっきも言ったように、当人は「押しつけ」るつもりなんてないだろうし、そもそも「押しつけ」ようがないからである。

だから、ブログでは堂々と「自分語り」をしたり、己の価値観や信条をズバズバと主張すればいいのだ。そもそもネットとは、リアルではなかなかできないようなことを、させてくれる「場」なのだから。


――とはいってもまあ、これもひとつの「価値観」ではありますが。。。


2013/03/06

『イエスマン』 ― 「イエス」と言ってはいけない

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(2010/04/21)
ジム・キャリー、ゾーイ・デシャネル 他

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内容紹介(Amazonより引用)

もしも、全てに“YES”と答えたら?
ジム・キャリー最新作
実話に基づく愛と笑いのポジティブ・ストーリー

仕事にもプライベートにも「ノー」「嫌だ」「パス」と答える極めて後ろ向きの男、カール・アレン(ジム・キャリー)。 親友の婚約パーティーまですっぽかし、「生き方を変えない限り、お前はひとりぼっちになる」と脅されたカールは、勇気を振り絞り、とあるセミナーに参加。“意味のある人生を送るための、唯一のルール”は、全てのことに、それがどんな事であっても「イエス」と言うだけ。何事も否定せず「イエス」を連発、偶然知り合ったアリソン(ゾーイ・デシャネル)は、彼の積極的でユーモアのある人柄に惚れ込む。人が変わったように運気をどんどん上げていくカール。 だが全てが好転し始めたとき、思わぬどんでん返しが待っていた・・・?

全てに“YES”と言ったらどうなるか、を実際に試してみたBBCラジオディレクターの体験実話が原作の『イエスマン “YES”は人生のパスワード』。

こんな時代だからこそ・・・笑って、ぐっと来て、とことん前向きに。

コメディー映画はあまり見ないタチなのだが、ゲオで本作が何本も置いてあったので、気になって借りてみた。

おもしろかった。思わず、なんども笑ってしまった。あらためて、ジム・キャリー(主人公)は、こういったコメディーものにはメッポウ強いな、ということを感じさせられた。


で、どんなストーリーかというと、上にも引用したように、とある冴えない銀行マンが、有名な自己啓発家に出会い、自分の人生を変えていく、というもの。変えていくやり方というのが、ただひたすら、あらゆることに対して肯定する(“Yes”と言っていく)、という簡単なものだ。


ところで、この映画のタイトルは「イエスマン」(原題も“Yes Man”)だが、周知のとおり、この言葉は、

人の言うことに何でも「はい、はい」と言って、無批判に従う人。「―ばかり登用するワンマン社長」(『大辞泉』)

という、あの「イエスマン」を思い起こさせる。で、これは和製英語ではなく、

a person who always agrees with people in authority in order to gain their approval (Oxford ADVANCED LEARNER’S Dictionary 7th edition)

と、本家本元の英語にも、この“yes-man”という言葉(概念)はあるのだ。


それで、わたしは映画を見終わったあとに、ふと気づいたのだが、この映画に隠された「本当」のメッセージとは、「イエスと言う(=現状を肯定する)ことで、人は人生を幸せに送れる」ということではなく、むしろ「“イエスマン”をやめることで、人は人生を幸せに送れる」ということだったのではないだろうか?

つまり、タイトルの「イエスマン」は、本当は「皮肉」であり「逆説」なのではないか? というのがわたしの考えである。


こんなふうに考えられる根拠というのが、映画の最後のほうに出てくる、ワン・シーンだ。

主人公はそれまで、あらゆるコトや人に対し、「イエス」と言ってきたのだが、それが裏目に出てしまう「事件」(=主人公が恋人と喧嘩してしまう)に遭遇する。主人公は「イエス」と言い続ける人生において、はじめて「挫折」を味わったのだ。

そんなとき、彼は、例の自己啓発家にまた出会う。自己啓発家は、「たしかに、わたしは“イエス”を言いなさいとは言ったが、それはあくまでも“自分が心の底から納得したものや、肯定したいものに対して”という条件付きだ。だから君は、勘違いしていたのだ」と、主人公の誤解を指摘する。


このことに気付かされた彼は考えを改め、ふたたび元気を取り戻し、みごとに恋人との仲直りに成功するのである。


ここで、物語の筋をもう少し簡潔に書き直すと、


ネガティブ思考だった主人公は、仕事も恋愛も失敗続き。

自己啓発家に出会い、あらゆることに「イエス」と言い続けることを決意。

これにより、一時のあいだは、順調な人生を歩む。

ところが、「イエスマン」になったことで、それまでうまくいっていた彼女と、ひょんなことから喧嘩してしまう。

「“イエス”と言うときは、本当に、心の底から納得したものや、信用できるものに対して、するべきだ」と考えを改める。

みごとに、恋人との仲を復活させる。


つまるところ、恋人との喧嘩をきっかけに、主人公は、それまでの「イエスマン」としての自分を「やめた」のだ(だからといって、もとのネガティブ思考に戻った、というわけではないが)。それによって、彼がもっとも望んでいた本当の恋を、成就させることができたのである。

そんなわけで、この映画は、単なる「ポジティブ・シンキングを始めた男のサクセスストーリー」などではなく、実は「ポジティブ・シンキングを“やめた”男のサクセスストーリー」だった、とも読めるのだ。

要するに、前者と後者、どちらの「読み」を取るかで、この映画は「意味」がまったく変わってしまうのである。なので、わたしは見終わって少しした後、「あっ、なるほど。これはうまいな~」と、改めて本作の「意味」に気付かされ、その「秀逸さ」に舌を巻いた次第だ。


ところで、この映画の主人公にかぎらず、現代日本においても、こうした「ポジティブ・シンキング神話」は根強いように感じる。なにかこう、「常に前向きに生きることこそ絶対善」であるかのような「信仰」が強いのではないか。

わたしは、どちらかと言うと、ポジティブ・シンキングをする人間ではない。というか、できないといったほうが正確だ。先のことには、なにかと不安になって、後向きに考えてしまうことが少なくない。そんなものだから、以前、知人から「お前はどんだけネガティブなんだよっ!」とツッコまれたことがある。

でも、わたしはそのほうがストレスが溜まらないので、むしろ「気楽」だ。「ポジティブに考えよう」→「ポジティブに考えなければ」という、無自覚的な「強制」がないからである。


それに、「ポジティブ・シンキング」というのは、見方によっては「現実逃避」のようにも思える

ポジティブ・シンキングは、本当は納得できないし、肯定もできないような現実を、なかば無理やりに「良く」捉えようとする考え方だ。だから、「『良く』捉えることで、本当は『良くはない』現実から、目を背ける」という思惑が、少なからず見え隠れしているように感じる。

イヤなものは、やっぱりイヤだ、ツライものは、やっぱりツライ、というのが生物感情の「原則」ではないだろうか? イヤなものは、はっきりイヤだと、ツライものははっきりツライと認めることのほうが、イヤなもの、ツライものをポジティブに捉えようとする態度より、よほど「負担」がないように思う。(このことについては、心理学的にも事実なようである。詳しくはこちら


このことは、この映画についても言える。

「イエスマン」という偽りの仮面を取り去ることで、主人公は、己が「本当に」望んでいた恋愛を実らせることができたのだ。おそらく、あのままずっと「イエスマン」を続けていたら、他人に「イエス」を言うことはできても、自分、そして自分が本当に愛する人に対しては、真の「イエス」を言うことはできなかったのではないか。だから、この映画の副題「“YES”は人生のパスワード」は、正確には、「本当の“YES”は人生のパスワード」なのだと思う。

ということで、この映画、けっこう「意味深」な、自己啓発映画だった。


2013/03/05

『最高の人生の見つけ方』 ― 最後/最期は、しんみりと終える方が、ぼくは好きです。

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ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン 他

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内容(「Oricon」データベースより)

勤勉実直な自動車整備工と大金持ちの豪腕実業家。病院で出逢い人生の期限を言い渡された二人の男性が、棺おけに入る前にしておきたいこととして“バケット・リスト”に書き出したことを叶えるため旅行に出かける様を描いたハートフル・ストーリー。ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンほか出演。


それなりに有名な映画だったらしいので、鑑賞。

Amazonのレビューを見ると、かなり絶賛されていたが、わたしには正直なところ、あまり印象に残らなかった。が、アメリカ人の「死」に対する考え方には「ああ、なるほどなあ」と感じた

なにが「なるほど」なのかというと、この映画では、アメリカ人が「死」を、目には見えない「敵」と見なしているところだ。

そして、アメリカ人の大好きな「ファイティング・スピリット」(アメリカ映画はジャンルを問わず、「悪と徹底抗戦する」映画というのが非常に多い)でもって、主人公2人の老人(ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン)が、もうじき訪れる「死」に「抗し」ようするのである。



どんなふうに「抗する」のか? それが、「棺おけリスト」だ。これは、「自分が死ぬまでにやっておきたいこと」のリストである。2人はこれを作って、そこに書かれた「やりたいこと」を一個一個、一緒にこなしていく。

つまるところ2人は、「生」を思いっきり、まっとうする(=遊びつくす)ことで、きたるべき「死」に「反抗する」のだ。これが、わたしにはいかにもアメリカ人らしくて、「ああ、なるほどなあ」と思えたのである。



日本人だったら、たぶんこうはしないと思う。日本人なら、最初はただただ死への恐怖に耐えるも、ある日突然、ふと、

「これはもう宿命なのだ。どうしようもないことなのだ。死とはそういうものなのだ」

などと悟り、死を「敵」とは考えず、「天からの遣い」かなにかのように考えるのではないか(事実、「お迎え」という言葉がまさにそれである)。

つまり、「死」に対して「徹底抗戦」しようなどとは思わないし、死ぬまでのあいだの「To doリスト」なんてものは作らないだろうし、ましてやそれを一個一個こなして、遊びつくそうなどとも、考えつかないだろう。



要は、「あがく」ということを悪く捉える、ということだ。「悪あがき」という熟語があるように(「あがく」も、どちらかと言えばネガティブな言葉だが)。

それから、「往生際が悪い」なんて言い方もあるが、これも「日本的」ではないか。「往生」は死ぬことだが、要するに、いつまでも死なないでいる(=過ぎ去らないでいる)ことは見苦しいことだ、といった価値観が、この言葉には見え隠れしている。

昔から日本人は、死に対して、そういう見方をしてきたような気がする。

なんというか、「かげり」のあるものを愛でたり、さっと過ぎ去っていくようなもの、またはそういった様子を良しとする――そんな感性が根強いように思う。しばしば、「日本人のこころ」として引用される『徒然草』も、まさにそういった感性ゆえの産物である。



それに、映画のなかで、2人がやっていた遊びというのも、これまたアメリカ人らしい奢侈贅沢なものばかりである。

まるで、「生きるとは、贅沢しつくすこと」とでも言わんばかりに。そして、そういった贅沢を奪い去っていくものこそが「死」なのだ、だからわれわれは遊びつくすことで、死に対し「徹底抗戦」するのだ、とでも言わんばかりに。

そんなメッセージが、この映画から垣間見える。



もちろん、こんな「冷めた」見方をしなくとも、たとえば「ある日突然出会った男2人の友情物語」だとか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とか、そういった見方もできよう。現に、わたしもそう感じられるシーンがいくつかあった。

ただ、それらは映画の「表層」に流れるメッセージであって、わたしには、それらが「深層」にあるもののようには思えなかった。「深層」――すなわち、アメリカ人が「生」と「死」とを、それぞれどのように捉えているのか、ということである。



アメリカ人にとって、生きることも死ぬことも、どちらも「必死」なことのようである。生きる以上は、徹底的に生きる。というか、遊ぶ/遊びつくす。

一方、死ぬときは、徹底的に死に「反抗」する。無論、死は誰にでもやってくるものだから、結局は受け入れざるをえないわけだが、それでも生きているうちは、なにがなんでも生き続けようとする。こうした精神が、さっきわたしが言った「ファイティングスピリット」である。



一方、日本人には、生へのこうした「執着心」や、死に対し、なにがなんでも抗しようという気持ちは、ない(あるいは、希薄な)ように感じられる。サッと生きて、サッと死んでいくことに美を見出しているように思う。

生や死に「ガツガツしない」「ガッつかない」と言い換えればいいだろうか。要するに、さっきの意味での「ファイティングスピリット」が乏しいのである。



だからだろうか? わたしが、この映画にピンと来なかったのは。わたしは、こういった、生のみに「執着」しないことに美を見出す「日本的な価値観」のほうがなんとなく惹かれるのである。

この映画がAmazonでは高評価だった理由というのは、もしかしたら多くの人が、この映画を、さっきの「ある日突然出会った男2人の友情物語」とか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とかいったふうに捉えたから、かもしれない。

つまり、わたしのように、この2人の生き方を、生への「執着」=死への「抵抗」とは捉えずに、「友情で最期を生ききる」とか「家族のありがたみを感じながら生きる」とか、そのように捉える人が多かったのかもしれない。



もし、わたしが大金持ちでも、あと余命半年などと宣告されたら、おそらく2人のような「余生」を過ごしはしないと思う。それなりに体力があったとしても、である。

たぶん、毎日毎日、不安にはなるのだろうけれど、同時に、きっと、

「ああ、もうこれで最期なのか……」

という、どこかポツンとしたさみしさや、しんみりした感じを、なんとなく味わい、でもそんな気持ちになるのも一方では悪くないなぁ、などと思いつつ……といった、非常に複雑な心境で毎日を過ごすのではないかと思う。



たぶん、2人のように奢侈贅沢を極めようとすればするほど、それに増して悲しさと寂しさが募っていくような気がするのだ。

嫌なことがあって、ツライことがあって、それを忘れよう忘れようと思い、遊びに夢中になろうとすればするほど、逆に、嫌なこと、ツライことが吹き出てきて、どうしようもなくなるといったような、そんな感覚と似ている。そんな感覚が、死ぬときにも、自分には起きるのではないかと思うのだ。

そういう感覚が心のどこかにあるせいでもあるのか、だからわたしはこの2人の「余生」の過ごし方に共感できなかったのかもしれない。

もうじき死ぬとわかっているのに、なにかこう、

「オレは遊び尽くしてやるぞ!」
「死なんか怖くないぞ!」

みたいに振る舞ってしまっているように見えて、それが強がっているように見えて(つまり「悪あがき」「往生際の悪さ」に見えて)、逆に彼らのことが切なく思えてしまうのだ。



無論、そういったものも嫌いではない。元気があって、それはそれでいいと思う。しかし、たぶん自分は、そうはなれないと思う。憧れのような気持ちもあるにはあるが、だからといって、彼らのような「不屈の精神」を真似ようとは思っても、自分だったら所詮は猿真似で終わってしまうのではないか。

そんなわけで、わたしは、ものごとの最後/最後というは、しんみりした気持ちで終える、というのが好きだったりする。なにかそういった感覚に、「美しさ」があるような気がして


2013/03/02

『14歳からの社会学』 ― 「コイツすげえ!」な人に、「感染」せよ

14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)
(2013/01/09)
宮台 真司

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以前、母校の大学で、宮台真司(著者/社会学者)の特別講義(?)に参加したことがある。事前に「誰でも参加可」と知らされていたので、興味本位で彼の講義に出てみた。

いや~、とにかくスゴかった。「なんでも」知っている、という言葉がピッタリな人だった。

とにかくまあ、彼は色々な本を読んでおり、講義中は「◯◯(欧米の学者)によれば――」「××という本には、――とあったがウンヌン」「その学説は、すでに□□(欧米の学者)によって証明されていて――」という感じで、話がアッチコッチに進んでいった(で、わたしには、結局彼がなにをいいたかったのか、よくわからなかったのだけども)。

ただ、「宮台自身のことば(意見)」というものは、あまり感じられなかった。そこがかなり残念だったという印象がある。「学者の◯◯が~っていうのはいいからさ、宮台先生、『あなた』はどう考えるのかを教えてくれよっ!」と、心の中でツッコミながら、わたしは彼の話を聞いていた。

で、本書はうれしい(?)ことに、きちんと「宮台真司のことば」が記されている。しかも、とりあえず子供向けという設定で書かれた本なので、わかりやすい。


本書は子どもに「社会学とはなにか?」を説くという点に主眼がおかれているわけだが、個人的には「社会学のカタチをとった宮台真司の人生論(自己啓発本?)」だと思っている。

で、「人生論」というと、いかにもゾクっぽくてオジサンたちの愛読書、といったイメージがあるのだが、もちろんそうではない。社会学という学問を基盤に、彼は論を組み立てているので、無根拠に読者(とくに若者に対して)を肯定して、甘い幻想を抱かせるような、そのへんのアヤシイ人生論とは違う

この本には一貫したテーマというのがなく、章ごとにそれぞれのテーマが設けられている。だから、「この本は何が言いたいのか?」というのは、一言では言えない。なので、例によって、わたし個人が気になった点を書くことにしたい。


いいなあと思ったのは、5章「〈本物〉と〈ニセ物〉」だ。で、宮台は、そのなかで「感染動機」の大切さを説いている。

ぼくたちがものを学ぼうとするときに、どういう理由があるだろう。(中略)それが「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思う「感染動機」だ。直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばに行くと「感染」してしまい、身ぶりや手ぶりやしゃべり方までまねしてしまう――そうやって学んだことが一番身になるとぼくは思う。(p.136)

ちなみに、宮台を「感染」させた人というのは、廣松渉(哲学者)、小室直樹(社会学者)、チョムスキー(言語学者・哲学者)、カント(哲学者)などだと言っている。

廣松渉は、わたしもちょっとだけだが、著書をかじったことがある。『もの・こと・ことば』(絶版)という本で、これは日本語を哲学した本なのだが、正直、中身はあまり覚えていない。

それから廣松は、言い方にかなりのクセがあり(漢語や難語を多用している)、そこが好きだという人もいれば、嫌いだという人もいるようで、わたしはあまり気にならなかったが、まあちょっと変わった人だな、くらいには思っていた。

チョムスキーは、言わずと知れたアメリカの学者で、最近は政治へ積極的に発言をしていて有名だが、もともとは生成文法理論を提唱した言語学者である。

いま、ちょうどわたしも『新・自然科学としての言語学』(福井直樹/ちくま学芸文庫)という、生成文法理論を概説した本を読んでいるところだが、この本に書かれてあることのベースを築いたのが、チョムスキーその人である。


それで、宮台はこういった人たちに影響されたのだという(たしかに、宮台の書いたものを見ていると、そのことがなんとなくだが伝わってくる)。

彼らの知識ひとつひとつは、問題じゃない。書かれた書物をふくめた「たたずまい」を見ていると、突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる。それが訪れてからは、「その人だったら世界をどう見るのか」をひたすらシミュレーションするだけだ。(中略)感染動機だけが知識を本当に血肉化できる。(p.141)

う~ん、この気持はよくわかる。とくに、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる」という部分は非常に納得できる

わたしも「この人、すげえな......」「コイツはいったい何者なんだ?」といった感覚を持った人がいる。それが、丸山眞男(政治学者)だった。そして「丸山眞男の視点」というのは、いまのわたしにとって、ひとつの「思考軸」となっている。

わたしが丸山に「感染」したきっかけは、『日本の思想』(岩波新書)を読んでだった。この本はたしかに難解で、色々と批判の的ともなったのだが、それでもここに書かれてあることは、いまでも色あせていない。

彼に「感染」してからというもの、わたしのなかで「丸山眞男ブーム」が起きた。『日本の思想』の次に、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)、『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫)、『戦中と戦後の間』(みすず書房)を買っていった。

「積ん読」もあって、全部は読んでいないが、とりわけ『忠誠と反逆』に収められている「歴史意識の古層」という論考を読んでいたときは、「この人はいったい何者なんだろう?」という思いでいっぱいになった。同時に、「自分にはよくわからない部分が多いけど、でもなんかスゴイな......」という感覚にもなった。

丸山からは、自分の知の卑小さというものを、ガツンと思い知らされた。「オレは一生、この人には知的な面で勝てない……」と感じ、暗くミジメな気持ちにもなった。

そんなわけで、よくも悪くも(?)、わたしは丸山眞男という、ひとりの男に魅せられた。だから宮台のいう、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間」というのがよくわかるし、共感できる。


ところが、彼によると、最近はこの「感染」する機会というのが、(とくに若者の間で)失われているそうだ。

大学では授業開始から30分たって教員がこなかったら自然休講ということになっている。それでもぼくの学生時代、30分以上おくれてくる先生がザラにいた。廣松渉もそうだし、小室直樹もアルコールのにおいがぷんぷんすることがあった。だからどうだってんだ。
 実際、授業はどんな先生よりもおもしろくて深かった。そこで学んだことがいまのぼくの血となり肉となっている。いまはそんな「名物教員」がいなくなった。(中略)「形だけちゃんとしていればいい」というセンスが広がる中、「名物教員」と呼ばれる「中身がつまった人間」がどんどん減ってきている。
(p.149-150)

いやいや、「形」も大事でしょう? いくらカッコイイこと言ったって、「形」が悪ければ、そりゃ説得力もなくなるしなぁ。正直、この手の「中身さえよければすべて良し」的な考えは、いただけない。わたしは「形」も含めての「中身」だと思っているので。

それはさておき、大学の先生にかぎらず(中学や高校の先生とか)、「中身がつまった名物教員」が減ってきているというのは、そのとおりかもしれない。書物のなかで「この人すげえ!」と感動するのも悪くないが、やはりリアルタイムにはリアルタイムなりの「感動」が詰まっている。だから、「授業がおもしろい名物教員」が減ってきているというのは、かなり危ない傾向だ。

しかしながら、リアルタイムで「この人すげえ!」と心底、知的に感服した人というのは、わたしもほとんど会ったことがない。

大学生のときも、手元のレジュメとニラメッコしながらずっとボソボソしゃべり続ける教師や、教科書に書いてあることをなぜかそのまま板書する教師、概説書を読めばすぐにわかるようなことを延々とつぶやく教師など、ゴマンといた。

今後もこういう教師は一定数、居続けるのだろうけど、これは、かなり危惧すべきことなんじゃなかろうか?


で、宮台はこうした知的現場の現況を嘆きつつ、こう述べる。

「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ。そんな人はどこにいるか。公教育じゃなくて予備校の現場に多くいる。(p.151)

ここも納得。とりわけ「予備校の現場に多くいる」という意見は的を射ている。実際、予備校の先生というのは、大学教師よりもずっと「スゴイ」人が多いと思う。教え方はもちろん、冴えたトークに、おもしろい人生経験を持っている人がたくさんいる。

いま、巷で話題の「いつやるか? 今でしょ!」の先生も、東進予備校の先生だ。わたしも高校生のとき、代ゼミの授業に参加していたが、学校の先生の授業よりもずっとおもしろかった(いまでも、当時教わっていた先生の授業を受けたいと思えるくらいだ)。

そしてわたし個人のことを振り返ってみても感じることは、「子ども」(若者も含む)というのは、案外すぐに「コイツは本物かニセ物か?」を見分けられるものだということ。これは、とくにオトナに対して、という意味で。

だから、「子ども」から知的な面でバカにされるというのは、その「子ども」から「コイツは本物じゃない」という烙印を押されてしまったことと同義だ。

オトナになると、どうしても周りの人の様子で、理屈的にものごとを決めてしまうことが増えてくる。「誰々が◯◯は良いと言っていたから」「彼は××で有名だから」といったふうに。しかし、「子ども」は素直だ。わからない、ピンと来ない、つまらないと思ったら、すぐにそれを態度に表す。それはそれでたしかに幼い。

しかし、だからとて、それが必ずしも「真贋を見ぬくことができない」ことにはならないと思う。オトナは理性で真贋を見抜こうとするが、「子ども」は直感で見抜こうとする傾向がある。

直感は、時として無根拠であり、自分の知的レベルを棚に上げた「勝手な判断」である場合もあるが、また時として理性以上にモノを言うこともある。そしてそれは、「なんかよくわからないけどすごい!」と言いたくなるときの、この「なんかよくわからないけど」という形に集約されている。

いまは、小説にしても映画にしても「わかる」ものばかりが世の中に受け入れられる。「よくわからないけどスゴイ」という感じ方がすたれてしまっている。(p.136)

宮台は、「「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ」と言う。

しかし、「そう見える」とあるが、それは「子ども」の直感が、「子ども」に「そうさせている」ということでもある。いくら教える側が「そう見える」ように装っても、教わる側が「そう感じ」なかったら、そこに「コイツすげえ!」の感動は生まれないはずだからだ。


そんなわけで、「子ども」特有の直感ってのは、大事なのだろうし、オトナにとっては、その直感を維持していくこともまた大事なのだろう。そして、そういった直感こそが、自分を「感染」させてくれる動力となるのだろうなあ。