2013/08/18

仕事よりも大事なものがある、と思いたい ― 『超思考』

超思考 (幻冬舎文庫)超思考 (幻冬舎文庫)
(2013/08/01)
北野 武

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仕事に「やりがい」を求めようとする人は多いと思う。こうした態度は至極「自然な態度」であろう。

仕事とは本来、金を得るためにするものだが、人が人から金を得ようとする時、そこには必ず、当人たちの金に対する「必死さ」がにじみ出る。それは何とも言えない「殺伐とした雰囲気」だ。

仕事に「やりがい」を求めようとする人、求めたがる人は、言い換えれば、この「殺伐とした雰囲気」をなんとか打ち破りたいと願う人である。この、嫌悪すべき「悪臭」をどうにかして「やりがい」という名の気持ちよい「香り」に変えたいと思う人である。こうした感情は、誰にでも芽生えるのではないか。

しかし、タケシはそんな甘ったるい考えを一蹴する。

けれど、昔も今も変わらないことがある。苦労をしなければ、仕事にやりがいなんて見つけられるわけがないのだ。(中略)
仕事の本当の面白さとか、やりがいというものは、何年も辛抱して続けて、ようやく見つかるかどうかというものだろう。(中略)
その仕事のやりがいを金で買おうとしてはいけない。自分に合った仕事を探すというのがそもそもの間違いだ。そんなものはない。(中略)仕事を自分に合わせるのではなく、自分を仕事に合わせるのだ。(p.78-79)

これは真実である。皮肉なことだが、結局のところ、「殺伐とした雰囲気」という「悪臭」の中にしか「やりがい」という名の「香り」は存在しないのだ。そしてそれは、その中でもがいて、苦しんで、ようやく見つけ出せるかどうか、という「代物」なのである。

今、就職活動する学生たちを見ていると、みな一様に、就職希望先の仕事に対して「やりがい」を見つけようとしている。まだ、「殺伐とした雰囲気」の中にすら入り込んでもいないのに、である。

わたしはそういう彼らを見て、多少の哀れみを感じるが、他方、それがある意味で人として「自然な態度」なのではないか、とも思っている。誰も、好き好んで「悪臭」の中に身を寄せたいなどと思うはずはないだろうし、できることなら気持ちよい「香り」に浸っていたいだろうから。

そうであってもしかし、タケシの言はどこまで行ってもマコトなのである。それが真実であり、現実なのだ。

――と、かく言う当方も現在、おのれの仕事に「やりがい」など微塵も感じない。無論、これからそういったものが見えてくるのかもしれない。もし、「やりがい」なるものを見つけ出したいと切に願うのならば、このまま辛抱して仕事を続ける以外に術はない(それでも見つかるかどうか、保証はまったくどこにもないが)。

しかしわたしは、仕事に「やりがい」があるかどうかが、「充実した人生」を送れるかどうかの指標となる、などと考えるのはやめたい。そうではなく、仕事に「豊かな人生を送りたい」とか「生きがいのある毎日を送りたい」などといった願望を託すのではなく、趣味に託してはどうか、ということである。

人生、仕事よりも大事なものがある、と思いたい。

無論、仕事の出来不出来がその人の生活の質を決め、また社会的地位も決めるのだから、仕事をおろそかにすることなどできない。しかし、それはあくまでも「パンのために働く」ことを前提とした考えである。

だがある先人は、「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉を残した。これをわたしは、「人生、楽しく生きよ」と解釈してみたい。

仕事よりも大事なもの――ここでは、「楽しく生きる」ための何か、とでも定義しておこう。それは、ある人にとっては趣味であり、またある人にとっては家族であり、恋人であり・・・と多様である。そうした「楽しく生きる」という想いを、仕事に託すのは間違いだと思う。なぜなら、仕事はどこまで行っても「楽しく生きる」ということからは程遠い概念として存在するものだからである(「労働」「勤労」「労務」「職労」――「働く」を意味する「労」の別の意味を考えてみれば、おのずとそれが分かる)。

長く頑張ってみない限り、「やりがい」なるものが見つかるどうかわからない仕事とかというものに、自分の人生の多くをかけてしまうという生き方――そこに「楽しく生きる」という想いは少しもないような気がしてならない。

もう一度言う。

人生、仕事よりも大事なものがある、と思いたい。
2013/08/10

病は「治らない」 ―― 『養生の実技』

養生の実技―つよいカラダでなく (角川oneテーマ21)養生の実技―つよいカラダでなく (角川oneテーマ21)
(2004/12/17)
五木 寛之

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ひどい腰痛になった。

4月からの新生活、なれない環境で仕事を始めたせいか、それらが5月にどっと出て腰を痛めてしまったのだと思う。腰痛は、初めてぎっくり腰になった15の時以来だ。

腰は「体(肉月)の要」と書くが、まったくその通りで、腰が痛いと何のやる気も起きなくなる。そのせいもあって、しばらくの間、ほとんどブログを書く気になれなかったのだ。

そして8月現在、3ヶ月間続いた腰痛もいまではだいぶ痛みが引いてくれた。まだ完全に、ではないが、以前と比べたらグッと楽になった。



ところで、なぜこの本を取り上げたのかというと、五木が腰痛についてのエッセイを書いているからだ。

五木は14の時に腰を痛めて以来、ずっと腰痛と付き合ってきたらしい。40~50代の頃は、腰が痛くなかったときはなかったと思うと述べている。

そんな彼が腰痛について悩み抜いた結果、「腰痛は治らない」という結論に至ったそうである。彼によると、たとえ腰の痛みが引いたとしても、それは「治った」のではなく「治まった」だけなのであり、またいつか必ずぶり返すときが来ると言う。だから、腰痛に「完治」はない、が五木の持論だそうだ。

腰痛にひどく苦しめられていた間、わたしはこれを読んでかなり落ち込んだ。俺の腰はもう治らないのか、と落胆した。おまけに、接骨院に通っていたとき、そこの先生に「あなたの骨は腰に負担をかけやすい形になっている」「このままではまた腰痛に苦しむだろう」などと「脅され」た。

そのせいだと思うのだが、変なときに腰が変に痛む「心因性腰痛」にも、私はなってしまった。これは、痛む場所が一定ではない(痛む場所が移動する)、痛みや痛み方が時間帯によって変わるといった特徴があるのだが、これにも患わされたのだ。おまけに、足がチクチク痛んだり、歯茎がジリジリしたりと、腰以外の場所にも痛みが出てしまった。

五木も本書の中で言っているが、腰痛は気持ちでなる、というのは確かである。「病は気から」ということわざはまさにその通りだと、今回の腰痛で改めて思い知らされた。



しかし、である。わたしはどうも、五木の考えや整骨院の先生の言を、あまりにも真に受けすぎてしまったのではないか、とも今は思っている。

彼らの言い分は、「腰痛は治らない」という点において共通している(少なくとも、わたしにとっては)。だが、それを言ったら腰痛に限らず、ありとあらゆる病が「治らない」ということになりはしないだろうか。

ひとつ例を挙げれば、風邪がそうである。風邪は五木の言う通り、「治る」のではなく「治まる」ものだろう。なぜなら、結局風邪も、またあるとき(たいていの場合、体調に対して油断しているとき)になって、ひょっこりと顔を出すからである。

ガンもそうだ。ガンの摘出手術に成功したといっても、またあるときになって、ガンが再発、そのまま死亡したという話は当たり前のように耳にする。

ちょっとした風邪から、ガンという大きな病気まで、ありとあらゆる病は「治ら」ずに「治まる」だけなのだという五木の考えは、なるほど、確かにその通りだろう。



問題は、こうした考えをどう受け止めるか、である。

わたしは当初、五木のこの考えを知ってひどく悩んだ。特に、なんとかこの腰痛の苦しみから逃れたい一心だったため、気持ちのへこみ具合は本当にひどかった。

しかし、痛みと格闘する日々が続いていくうちに、「でも、べつにそれでいいのではないか」「というよりも、それはそれでしかたないのではないか」と開き直れるようになった。

べつに、なにか怪しいポジティブシンキングを実行したわけではない。なんというか、腰痛以外の病気について自分なりに考えてみた結果、「決して腰痛だけが『治らない』わけではない」ということに改めて気づいたからである。

そう考えられるようになってから、自分なりに自分の腰痛を「研究」し、行き着いた先が「マッケンジー体操」という腰痛体操だった。この体操は、ただ腰を反らせるだけの簡単な体操なのだが、これを自分なりにアレンジし、毎日朝晩実行した。「腰痛なのに腰を反らせるだけで腰がよくなるなんて考えられないけど、どうせこのままでいても腰は痛いままだし、いまさら腰の痛みがひとつやふたつ増えたところで、どうってことないや」――こんなふうに考えられるようになったのもつい2週間ほど前である。

そしていま、しつこかった痛みがだいぶ改善された。とはいってもまだちょっと痛みは出るものの、これもあとは時間の問題だろうといまは考えている。



――と、ここまであまりまとまりのない文章を書いてきたが、要は腰痛に限らず、病についてはある程度、「覚悟を決める」しかない、というのがいまわたしの思うところである。病は、それにかかるにせよ、治るにせよ、「なるようになる」ものでしかないのではないか。

老化は、この世に生まれた時に初めてかかる「病」である。アンチエイジングブームが続いて久しいが、老化こそ「治る」のではなく「治まる」ものだろう。問題は、老化することに対して「覚悟を決める」ことではないか。わたしは、これが最大のアンチエイジングだと思う(とはいっても、正確には「アンチ」(対抗する)ではない)。

とにもかくにも、「究極の健康法」とか「これをやっていればずっと健康でいられる」なんてものは、わたしに言わせれば、存在しない。人間は、生まれたときからすでに「不健康」と永遠の伴侶の関係にあるのだ。何度でもいうが、問題はそれを覚悟すること、そして「そもそも人間なんて不健康から逃れられないのだから・・・」と開き直れるかどうか、にあるのだ。