2013/12/30

大金をはたいて、高額な「体験」を買う ― 『カネ遣いという教養』

カネ遣いという教養 (新潮新書)カネ遣いという教養 (新潮新書)
(2013/10/17)
藤原 敬之

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お金の貯め方とか、節約の仕方などを説いた本というのは実に多い。が、お金の使い方、殊に趣味や娯楽といった分野でのお金の使い方を語った本は非常に少ない。本書はその非常に少ない本のひとつである。

わたしは、お金というのは貯めるよりも、むしろ使うことのほうが難しいのではないかと思っている。なぜなら、貯めるのは「貯めるしくみ」を自分で作ってしまえば、あとはほぼ自動的に貯まっていくからだ(銀行がやっている定期積立預金サービスなどがその最たる例である)。

しかし、お金を使うことは、「しくみ」化できない。当たり前の話だが、「どうやって使うか?」「何に使うか?」を考えなければ、お金を使うことはできないのだ。わたしが難しいと感じるのは、この、お金を「どうやって使うか?」「何に使うか?」を考えることである。

著者は、お金を使うには「教養」が不可欠であるという。まったく同感だ。しかし、本書で著者が語っているのは、お金の使い方に関する「教養」ではなく、著者自身の「俺はこんなことに金を使った」という自慢であり、それで終わってしまっている。そこが非常に残念だった。

著者は、箸置きに20万円、メガネに80万円、文房具・オーディオ機器に高級車一台分の金額を費やしたそうである。だからこそ、庶民には得られない「体験」と、そこから得られたお金の使い方に関する「教養」を得ているはずなのだが、いかんせん、それがほとんど語られていなかった。

しかし、本書を注意深く俯瞰してみると、あることに気がつく。それは、この著者が高価なモノを買っていると同時に、高価な「体験」も買っているという点だ。

実は、この「体験」こそが、著者が言いたい「教養」なのではないか、とわたしは思っている。つまり、この世の中には、大金をはたいて所有することで初めてわかることが存在するのであり、その「わかること」を「体験」することが、「教養」ある(≒有意義な)金遣いなのではないか、ということである。

たとえば、いつもは800円ほどのとんかつ定食で昼飯をすましていた人が、2000円以上するとんかつ定食を食べてみたとき、両者のとんかつの味の違いに気づかされるに違いない。高いほうは、肉が柔らかい、とろけるような感触をしている、ソースをかけたら逆にそのとんかつ本来の味を殺してしまう……などといったことに気づくかもしれない。

つまり、その人は2000円以上するとんかつ定食を買ったと同時に、「2000円以上するとんかつとはどのようなものか?(=味、感触、あるいはそれを提供する店の雰囲気など)」という体験も買っているのだ。そして、こうした非日常的な「体験」こそが、「教養」(=その人の中身を充実させるもの)となっていくのである。

最近は、なんでも「コスパ」(コストパフォーマンスの略)を重視する人が増えているように感じる。しかし、低額の金で得られるモノや「体験」など、やはりたかがしれている。高額な金を払うからこそわかること、得られる「体験」がこの世には厳然としてあるのだ。それを知ることは、お金というものに対する立派な「教養」である。
2013/12/22

読書した後は、「考え」なくていい

読書術本とか自己啓発本を読んでいると、ほとんど必ずと言っていいほど「読書した後は、考えるという行為が大事だ」「本を読んだら、その内容について考えなければならない」といったことが書かれてある。

しかし、「考える」という行為は、そんなさらっと簡単に言えるほど簡単にできる行為だろうか? わたしは前からこのことに疑問を感じていた。

わたしは、読書をした後、改まって何かを考えるということはしない。読んでいる最中でさえ、考えるということをしていない。というよりも、読書中に何かを考えていられるほどの余裕は、わたしの頭にはない。

わたしが何かについて考えるときというのは、だいだいの場合、その何かについて不満や不快感をもっているときである。そのことに納得がいかないから、そのことを考えるのだ。

読書をしている最中、あるいは読書をした後というのは、ほとんどの場合、不満も不快感もない。なぜなら読書をしている最中はその本の中身に夢中だし、読書をした後は充実感で満たされるからだ。

無論、本を読んでいて納得がいかないことが出てくると「これはそういうことではなく、○○ということではないのか?」と思うことはある。が、それはあくまでも「思う」程度のものであって、おおまじめにそれについて「考える」などといったことはしない。

何かについて「考える」という行為は、その何かが「切実に」自分と関わってくる場合においてのみ、なされる行為だと思う。逆に言えば、その何かが「切実に」自分と関わってこないのであれば、いちいちその何かについて考えたりなどしない、ということだ。つまり、われわれはそんなに「暇」ではないのである。

たかだか読書をして、そこに書かれてあることが「切実に」自分と関わってくることなど、そうそうあるものではない。自分と「切実に」関わってくるものは、いつでも自分の目の前に立ちはだかる「現実」である。仕事という現実、人間関係という現実、経済事情という現実……その「現実」にぶち当たった時、それを乗り越える「術」として、われわれは初めて「考える」という行為をするのである。

だから、「読書した後は、考えることが大事だ」という言葉を、その通りに、真に受けないほうがいい。まじめな人ほど、読書術本や自己啓発本の著者が言うそのセリフにこだわってしまうかもしれないが、そんなものは無用である。読書をしたあとに、いちいち「考える」などという、大変にエネルギーを使う行動をしていたら、自分の身がもたない。

同様に、「読書をしたら、そこで得たものをアウトプットせよ」などという言葉も無用である。アウトプットなど、所詮は読書後に起きる、「偶然の副産物」程度の存在にすぎない。アウトプットは二の次、三の次なのであり、本来重視しなければならないのは「読書をすること」そのものではないか。

読書後は考えろだの、アウトプットしろだの、最近の読書術本、自己啓発本は特にうるさく言うようになったが、そのせいで読書そのものを楽しめなくなってしまえば本末転倒である。