2014/01/29

「形」が大好きな日本人

日本人というのは、とにかく「形」というものが好きなのだと思う。


例えば、

1、「ホンネとタテマエ」の「タテマエ」

「ホンネ」とは、自分が本当に思っていること、つまり「中身」である。一方、「タテマエ」とは、本当はそんなことなど思ってもいないが、相手のことを考慮して言う「仮の言葉」のことである。つまり「中身」(=内容)の反対、「形」(=形式)である。

「日本人って、本当にタテマエが多い」なんぞと外国人は言うらしいが、それはなぜかというと結局、その場その場の、言葉という「形」でもって人間関係を円滑にしてしまえるからである。

日本人にとって言葉というのは、良い「形」になっていればいいのだ。なんかもう、意味とか中身とか、定義とか真意とか、そんな小難しいものはどうだっていいのだ。大事なのは、いかにその言葉の「形」が、相手にとって良く見えるか、なのである。

国会の答弁も、首相の演説も、校長先生の朝のスピーチも、卒業式の式辞も、社長の年頭挨拶も、みんなみんな、意味とか中身の面白さとか豊かさなんて、これっぽっちも求めていないのだ。なんかもう、言葉の「形」が「それっぽく」見えていればいいのである。


2、会議用資料

会議用資料は、いまやエクセルで作るのが当たり前だが、このソフトが登場したことにより、「会議用資料の見た目は、キレイでなくてはならん!」という考えがより強くなったように思う。無論、キタナイよりもキレイであるに越したことはない。しかし、キレイさに拘るあまり、大して意味もないグラフだの表だの、あるいは文字の書体だのフォントサイズだのが賑わい、でも肝心の中身が薄っぺらかったり、という会議用資料が少なくない。これはプレゼン用のパワポについても当てはまる。

そう、つまりみんな、見た目のキレイさという「形」が大好きなのだ。中身よりも、「形」のほうが好きなのだ。なぜなら、「キレイ」というのは目に見えて「わかりやすい」からであり、「中身」というのは目には見えづらく「わかりにくい」からである。「形良ければ、すべてよし」ということなのだ。


3、アイドル

ネット上で、ポップミュージックについてのブログ記事を見ていると、「所詮、◯ャニーズなんて顔だけのアイドルじゃん」とか、「◯KB48の歌なんて、素人同然だ」なんて批判をよく見かける。これについては賛否両論あるだろうが、わたしも確かに「昔の歌手のほうが歌唱力は高かったと思うけどなあ~」と感じている。ぶっちゃけ、彼/彼女らの歌声など、「カラオケで、周りから歌がうまいねとよく言われる人」レベルな気がしないでもない。

それでも彼/彼女らがテレビに出続けられるのはどうしてなのだろう?

そう、これも結局、彼/彼女らが歌唱力という「中身」で高い評価を得ているからではなく、顔とかスタイルとか、ステージ上での演出といった「形」が、視聴者にウケているからなのだ。正直なところ、歌なんて「そこそこ良ければいい」のである。重要なのは、彼/彼女らが、目に見える形で視聴者を虜にさせる「形」になっているかどうか、なのだから。


4、歌舞伎


歌舞伎など、もう「キング・オブ・形の文化」と言っても差し支えないのではないか。役者の放つ派手な見得は、もう完全に「形」重視だし、正義の人は赤い隈取を、悪人は青い隈取をするというのも、「形」で物語を理解させようという意図である。「女形」に至っては、字のごとく「女の形」をした男の役者が現れて演じる、ということだから、これもやはり「形」の重視と言える。


5、「かわいい」という言葉

「日本人は、かわいいものが大好きだ」と、よく言われる。わたしもその通りだと思う。

最近のテレビを見ていると、なんかもう「かわいい」という要素がないと、番組が成り立たないのかな?と思えてしまう。かわいいタレント、かわいい女子アナ、かわいい男子(=フェミニンな感じなんだけど、でもイケメンな男子)、番組内のかわいらしい演出(ピンク色を多用したり、テロップの文字を丸文字気味にしたり)等々等々等々等々。

「かわいい」というのは、どこまでいっても、「形」への賞賛の言葉である。決して「中身」への賞賛の言葉ではない(「あの子、かわいいところあるよね~」の「かわいい」すらも、それは「動作」という「目に見える形」のかわいさのことを言っているのである)。

つまり、「かわいい」という言葉が多用されるということは、それだけ「形」というものへの興味・関心が強いということなのだ。


最後になるが、もし外国人に「日本ってどんな国? 一言で言い表してみて」と言われたら、わたしはこう答えるだろう。「“形”ってものが、大好きな国だよ」と。
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2014/01/29

「人それぞれ」という言葉は、ずるいと思う。

こちらが何か意見や考えを言うと、すぐに「でも、それって人それぞれじゃん」と反論してくる人がいる。

この「人それぞれ」という反論の仕方、一見すると筋が通っているような気がするが、実はそうではなく、「わたしはあなたの意見など聞きたくありません」と遠回しに言い換えているだけのようにわたしは思える。特に、なにかにつけて“すぐに”そう言ってくる人は、その可能性が高い。

彼らは要するに、「人それぞれ……」の「人」という言葉を「隠れ蓑」にしているだけなのではないか? 本当は、「自分はそんな意見や考え、聞きたくない」という言い分があるのに、「自分は……」を主語にはせず(できず)、「人」などという漠然とした言葉を使うことで、あたかも「自分以外の大勢の人たちも、そんなふうには思っていませんよ」という“ことにしたい”のだと思う。そうやることで、相手の意見や考えを寄せ付けないようにしているのだ。同時に、「自分」というものも守れるのだから、彼らからしてみれば、これは「一石二鳥」な手である。

なにかにつけて“すぐに”「人それぞれ」と言い出す人には、注意したほうがいいと思う。第一、言葉遊びのようだが、「それって人それぞれじゃん」という考えや言い分だって、「人それぞれ」である。

また、自分から“すぐに”そう言い出すことにも気をつけたほうがいい。なぜなら、もしかしたら、相手の意見や考えが「良薬、口に苦し」ということもあるからだ。なんでもかんでも、ちょっと気に食わないことを言われて「そんなの、人それぞれじゃん」と言い返していたら、言われた側は、たとえ有益な情報があったとしても、当人には言わなくなるだろう。まあ、「人それぞれ」至上主義者は結局のところ、「人それぞれ」と言いつつ、「自分」至上主義者なのだから、別に困ることはないのだろうが。

「人それぞれ」――いろいろな意味で非常に「便利な」言葉だが、同時に非常に「ずるい」言葉でもある。
2014/01/18

ブログは、続けていると、やめづらくなるらしい

タイトルでもうこの記事の結論を言ってしまった。しかし、これ以上のタイトルはつけようがないし、考えられないので、以下は詳論である。


わたしがこのブログを始めたのは2011年の1月。このブログ以前にも、似たようなテーマのブログを2~3回立ち上げたことがあったが、そのいずれも今はない。全部閉鎖させてしまった。理由は、思うような記事が書けなかったことと、ほとんどアクセスされなかったことの2点だ。

しかし、数回の失敗を経たせいか(?)、このブログはわたしが今まで立ち上げたものの中で、ものすごく続いている。今年で3歳(?)になったのだ。もちろん、10年以上ブログを書いている人たちからすれば、まだまだ若いブログではある。が、それでもブログの世界というのは、半年でも寿命が持てばいいほうで、ひどい場合、立ち上げたその日に息を引き取るブログもあると聞く。

では、なぜこのブログはこんなにも続いているのだろう? 正直なところ、自分でも不思議なのだが、思いつくままに、その理由を以下に書いてみたい。


①ブログを書けない間は、書けない自分を不快に思うのではなく、「いまはブログをお休みしているんだ」と考えるようになったから。

「マジメ」な人で、ブログを始めた人というのは、ブログを書けない日が続くと、なんとなく罪悪感に苛まれるのではないだろうか? そしてブログを続けられない自分を不快に思い、「いっそブログなどやめてしまえ!」などと考えて、そのままブログ閉鎖へ……なんてことになりやすいと思う。

かつてのわたしもそんな感じだった。ブログを書くネタがない→書けない日が続く→書けない自分を不快に思う→「もうブログなんかやめよう」→ブログ閉鎖、といったパターンで、過去につくったブログは潰れていった。

しかし、あるときから考えが変わった。ブログを書けない間は、「いまはブログをお休みしているんだ」と思うようになったのだ。「お休み」なのだから、これは決してブログを「やめた」ことにはならないし、記事を書けない間は、ブログ以外の趣味を存分に楽しめばいい。そして、書いていない間は、とりあえず「自分の充電期間」と考えれば、書けない自分を不快に思うこともなくなる。

言い方を変えれば、ブログを書くということに対して、もっと「フマジメ」になってみよう、ということだ。


② 書くテーマを「徐々に」増やしていったから。

このブログは当初、書評ブログのつもりで立ち上げた。しかし、ブログをやっていくうちに、だんだんと他にも書きたい(書いてみたい)テーマが増えていった。たとえば、映画のこととか、歌舞伎のこととか、ネット論、ブログ論、その他日常生活で思ったこととかを書きたくなったのだ。

もし、「このブログは、書評ブログなんだから書評以外のことは書かない(書けない)!」と決めてしまえば、その人は「マジメ」な人だと思う。しかし、ブログを続ける上では、そういう「マジメさ」こそが実は命取りになりやすい、ということをわたしは過去の経験で得ている。

だから、そういうときほどブログを書くということに対して、もっと「フマジメ」になろうよ、と思う。

ほとんどの個人ブログは趣味である。仕事ではないのだ。そして、われわれは「専業の作家」ではない。書くテーマなど、出版社から決め「られ」ていない。

犯罪自慢と誹謗中傷以外であれば、基本的にブログには何を書いてもいいのだ。それこそ、「こんなくだらない自分語り書いちゃっていいのか?」というようなものだってアリである。そう、なんでもいいのだ。

ブログは自由である。書くテーマを限定させてしまってはもったいない。書きたいことは、なんでも書いたほうがいい。そのうち、発信していくテーマの中身が深まっていけばベストだ。


③ アクセスカウンターを外したから。

アクセス数がすごく気になってしまう人も、「マジメ」な人である。無論、やはりアクセス数というのはどうしても気になってしまいがちものだから、仕方ないと言えば仕方ない。が、このアクセス数、もっと正確に言えば、アクセスカウンターというのは、ブロガーにとって大きな励みにもなれば、大いに落胆させる装置にもなるということだ。そういう意味で、カウンターは、いわば「諸刃の剣」なのである。

だから、ブログを始めて間もなく、かつ「マジメ」な人には、当分の間、あえてブログにカウンターを設置しないことをおすすめする。そう、純粋に「ブログを書く」ことだけに自分を専念させるため、である。

いま、このブログにはカウンターを設置しているが(まあ、ほっとんどアクセス数など増えないが)、一時期、意図的に設置しなかったことがあった。その理由は上記の通り。結果、設置しなかったことで、「気になっていたもの」がなくなったわけだから、「気にならなくなった」のだ(当たり前の話だが)。

ということで、アクセスカウンターは、ブログ上級者or「フマジメ」人間向け、と考えたほうがいいかもしれない。


○最後に:ブログは、続けていると、やめづらくなるらしい。

ブログというのはおもしろいもので、続けていると、ある時期から「なんかここまで続いていると、なんだかもう、やめようにもやめられないなあ~」とか、「こんなにたくさん記事がたまったんだから、ここでやめちゃうなんてもったいなさすぎる!」といった気持ちになってくるのだ。かく言うわたしは今まさに、そういう気持ちだ。

こうなれば、シメたものだと思う。おそらく、これから先ずっと、死ぬまでブログを続けられるのではないか。ここまで来るともう、アクセス数が少ないとか、書けない日が続いて不快だとか、そういったことが実にどうでもよくなってしまうのだ。ただただ、「自分で立ち上げたブログが今も生きている」という、それだけの事実(奇跡?)に感動してしまうのである。

以上。あまりいい感じの終わり方にはならなかったが、言いたいことは全部言えたから、今日はこの辺で。
2014/01/17

人は結局、遊ぶために生きるのだと思う ― 『男の品格』

男の品格 (PHP文庫)男の品格 (PHP文庫)
(2009/05/02)
川北 義則

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午後22時30分。いま、この記事を書いている時間だ。なんだか急にブログを書きたくなったのだ。

何について書こうかなあと考えている最中、そういえば先週買った本、なかなか良かったっけということを思い出した。

タイトルはずばり『男の品格』である。一時期はやった「品格本」の類だ。そして著者が川北義則ときている。この時点で、なんだかもう内容に察しがついてしまう。だから、こういう「人生論本」は、正直にいうと感想を書きたくない。

しかし、それでも書こうと思ったのは、「そう、そう。そうなんだよなあ~」とうなづける箇所が多かったからだ(無論、人生論本は他の本と比べ、読者を共感させるための様々な「しかけ」がほどこされている点には、十分気をつけなければならないのだが)。

本書のテーマを一言でいうなら、「男子たるもの、よく遊べ」である。よく遊ぶことこそが、その人を充実させ、魅力的にし、幸福にさせるのだと著者は言うのだ。そして、それこそがタイトルにある通り、「男の品格」なのである。

ちなみにわたしは、ある時から「人間が生きる(あるいは、生きようとする)最大の理由は、遊ぶためなんだ」と思うようになった。

もちろん人によっては、そんな陳腐な理由で人は生きるのではない、と反論されるかもしれない。しかし、わたしにはどうしても、「遊ぶ」以外に人が生きる理由は見当たらないのだ。一生懸命に仕事をすることは当然ながら大切だが、しかしそれは所詮、よく遊ぶための「踏み台」にすぎないと思っている。人生はどこまでいっても、遊んでナンボなのだ。

本書の目次から気に入った章を取り出してみよう。


・「一人遊びできる趣味をつくっておく」

完全御意。ちなみにわたしは、遊ぶとなると基本的に一人遊びをするタチである。読書、映画、歌舞伎、ブログ書き、本屋のハシゴ、ファッション、美術鑑賞、大学図書館に引きこもり……思いつくままに挙げれば、このくらいだろうか? なかには人に自慢できる趣味でないものもあるだろうが、それでもわたしはこのいずれをも、自分のなかでは「遊び」だと思っている。

一人遊びの最大の良さは、「他人がいなくてもできる」という点につきる。この点はすごく重要で、なぜなら趣味を楽しもうと思ったときにいつも他人がいないとできないのでは、趣味になりづらいからだ。他人は、常に自分のそばにいてくれはしないのだから。


・「趣味は実践しなければ意味がない」
・「趣味は論じるより味わうものだ」


これも完全御意。趣味を実践せずして、論じるのは本末転倒である。


・「「余裕ができたら……」というのはやめよう」

これまた御意。じゃ、いつやるか? いまでしょ!


・「会社は自分の夢を追う格好の場所だ」

「夢」というと、なんだか仰々しく聞こえるかもしれないが、べつにそんなふうに考える必要などない。それこそ「わたしの夢は、よく遊ぶことです」というのだってアリだ。なにも社会人の夢は、起業や独立といったものだけではないはずである。いずれにせよ、会社で仕事をすることだけが人生ではない。

最後に、気に入った文言を紹介してこのエントリーを閉じよう。

「会社の役に立たない、自分の役にも立たない何かに、熱っぽく取り組む姿勢をもつことが大切である。どんなに忙しくてもだ。「そんなムダなことを……」と思う人は、すでに守りの姿勢に入っている。守りに入った人に、もう上がり目はない」(p.48)

こう言われて気がついた。「そうか。よく遊ぶっていうのは、自分の人生に対して、攻めの姿勢で臨むってことなんだな~」と。


そういう生き方、わたしは大好きだ。
2014/01/12

【新橋演舞場】壽三升景清

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歌舞伎座のすぐ近くに新橋演舞場がある。歌舞伎座と比べたら、外観はすごく地味だ。かといって国立劇場のような上品さが漂うわけではないし、おしゃれなたたずまいでもない。しかし、劇場内のつくりと雰囲気は新橋演舞場が一番だと思っている。あの劇場内、歌舞伎座と国立劇場では醸し出されない、「大人の色気」が広がっているのだ。

だからこそ、なのだが、海老蔵の新春大歌舞伎は新橋演舞場でやるのが最もサマになる。個人的には、どうしても歌舞伎座や国立劇場では頂けないのだ。

演舞場、新春一発目の演目は『壽三枡景清』である。舞台上は、始まる前からすでに定式幕があけられており、そこにあるのはもうひとつの「舞台」とその舞台の幕、しかも大きな伊勢海老が描かれた幕だ。そしてその上には、市川団十郎家の家紋「三升」の描かれた提灯と、演舞場の座紋が描かれた提灯が掲げられている。団十郎家は、明らかに別格である。

演出といい、立ち廻りといい、どれも盛大だった。圧倒される。「こんな演劇、ほかにあるか?」と思わずにはいられない。無論、劇団四季も派手だが、わたしの場合、目が釘付けになったり、圧倒されたりはしない(歌舞伎と劇団四季を比較してウンヌン言うのもおかしな話ではあるが)。

初春大歌舞伎となると、やはり客も一段違ってくる。わたしの隣に座っていた貴婦人(老婦人だったが)は、前日の夜に盛岡から新幹線で駆けつけてきたと言っていた。この演目(『景清』のこと)を観終わったらすぐに浅草公会堂のほうへ移るのだと言い、実に熱心な方だった。

幕間の昼食時、その貴婦人と色々歌舞伎のことについて喋ったのだが、こういう愉しみが味わえるのも歌舞伎のいいところである。歌舞伎は決して、その演目だけで完結するものではないのだ。ウンチクとか逸話とか、あるいは弁当とか劇場内のつくりとか、ふとした歌舞伎漫談だとか、そういった歌舞伎「周辺」に目を向けるのも実に愉しいのである。

演目終了後、席を立つと同時にその貴婦人と別れの挨拶を交わした。「またいつか、どこかで」だったろうか。そんな言葉をかけられた。ああ、こういうのを人は一期一会というのかね。
2014/01/11

【国立劇場】三千両初春駒曳

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国立劇場は、他の劇場に比べて観劇料が安くて良心的だ。金のない若者が歌舞伎を楽しもうと思ったら、まずは国立劇場に行くのがいいと思う。何せ、1等席での観劇料が他の劇場のものと比べてほぼ半額なのだから。

さて、今回の演目、話の筋がわかりづらく、ボーっとしていると、一気にわけがわからなくなる。だから、正月ボケした1月早々に観る歌舞伎としては不適な気がしてしまう。かといって、筋が複雑だから筋書を買ってでも理解したい話かと言えば、そうでもない。

それでもこの歌舞伎の感想を書こうと思った理由は至って単純で、演出が派手でわたし好みだったからだ。特に、釣天井が落下するシーンは本当に迫力があった。天井が落下して罠にかかった者たちが皆、重石をのせた天井の下敷きになってしまうのだ。しかも畳からは何本もの槍が現れる。舞台上は大混乱。観ているこっちも釘付けになってしまう。

ということで、わたしはこの歌舞伎、いつものごとく演出で満足させてもらった。

無論、演出以外にも気に入ったことがあって、それはイヤホンガイドで序幕と二幕目の解説をしてくれた佳山泉氏の声だ。若くて可愛らしい(でも、どこか大人らしい)声で説明してくれたのが印象に残った。演目よりも、むしろ彼女の声のほうが気になってしまったくらいだ。非常に聞き取りやすく、聞き心地のよい声をしている女性である。歌舞伎は、演目だけでなく、イヤホンガイド解説員の声を愉しむという面白さもあったりするのだ。

歌舞伎は、決して演目だけを楽しむものではない、というのが私の持論である。それこそ、劇場内の作りや提灯、座席の配列のされ方などをシゲシゲと観察してみるのも楽しいし(ちなみに東京都内に限っていうと、わたしは新橋演舞場の劇場内が一番好きだ)、イヤホンガイドの人の声を味わうのも楽しい。もちろん、劇場内の売店でグッズを買うのもいいだろう。幕の内弁当を堪能するのも当然アリだ。

そこが歌舞伎と他の演劇の決定的な違いだと思う。劇団四季では、こんな楽しみ方はできないのだから。
2014/01/03

【歌舞伎座】壽初春大歌舞伎《昼の部》

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本日、初春大歌舞伎2日目の観劇。昨日と変わらず、東銀座駅内と3番出口周辺には警察も何名か出動していた。たかが演劇鑑賞とはいえ、わざわざ警察が出てくるのは、歌舞伎くらいなものだろう。明らかに他の演劇とは扱われ方が違う、ということか。

さて、今回の昼の部最大の見ものは、最後の演目『鴛鴦襖恋睦』(おしのふすまこいのむつごと)だと思う。染五郎と橋之助の相撲を、長唄囃子連中の奏でる音――三味線、鼓、横笛の音――とともに見るのは本当に最高だった。日本人なら誰もがその音とともに、相撲中、役者の見せる見得に惹きこまれるに違いない。

3番目の演目「松浦の太鼓」――これはもうセリフばかりの話で、どうにもこうにもピンと来ない。うたた寝すること、何度かあり。というのも、『鴛鴦』のように役者や鳴物に魅せられないからなのだ。その一方、話にボケが多く、会場全体が笑いに包まれることが幾度かあったが、それでもやはりわたしにはおもしろくない。歌舞伎に「笑い」は求めていないのだ。

『鴛鴦』のインパクトがあまりにも強かったせいか、2番目の演目「梶原平三誉石切」(かじわらへいぞうほまれのいしきり)は、見終わった直後は後味が良かったものの、『鴛鴦』終了後には、何も感じなくなってしまった。登場人物に対する感情移入も、いつのまにかなくなってしまっている。ましてや「時平の七笑」(最初の演目)なぞ、もはや内容が頭の中から吹っ飛んでしまっている。

当たり前の話、歌舞伎はストーリーも重要な要素だが、それ以上に重要なのは、役者の話し方や衣装、舞台セットや装置、そして鳴物やツケといったBGMや効果音などだと思う。つまるところ、一見なんということもなさそうなものや、ストーリーに直接影響してこないようなものが、歌舞伎最大の魅力だったりするのである。

おそらく、このことが感情的に(理性的に、ではなく)わかるかどうかが、歌舞伎好きになれるかどうかの大きな分かれ目である気がする。無論、ストーリーがおもしろいものもあるだろう。しかし、テレビドラマなどの現代劇にどっぷり浸った人間が、どうして歌舞伎のような、単調なストーリーに満足できようか。

そんなわけで、これから気が向き次第、歌舞伎のこともこのブログに書いていこうと思う。(とはいっても、歌舞伎の学術的な話やごくごく専門的な話などできないし、ほとんど興味もないので、純粋に劇場内で感じたこと、思ったことをつらつら書いていきたい。)
2014/01/03

【歌舞伎座】壽初春大歌舞伎《夜の部》

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去年の間に行こう行こうとは思っていた新装・歌舞伎座だったが、結局、腰痛とその他もろもろの事情で行けなかった。なので、年明け早々の2日と3日、さっそく足を運んだ次第だ。

2日は昼の部から見るか、夜の部から見るか迷ったが、どうせ1日はぐうたら過ごすのが世の常。そのダラダラは2日の午前ぐらいまで続くだろう。ならば午後から見るか、という戦略(?)でいたので、2日は夜の部から観劇した。続く本日3日、昼の部を見る。


東銀座駅構内で幕の内弁当を買い、出店をプラプラと見物し、いざ本陣・歌舞伎座へ。夜の部は、16時5分からの開場だったが、その前に昼の部を見終えた先客たちがゾロゾロ出てきた。と、そこに現れるは、黒縁メガネをかけた俳優の川原和久。ドラマ『相棒』の伊丹刑事だ。彼の嫁の父親が松本幸四郎なものだから、初日の舞台を見に来たのだろう。


さて、夜の部最初の演目は、『仮名手本忠臣蔵』の九段目「山科閑居」である。一応、名作の誉れ高い一幕ということになっているらしいが、個人的にはどうもピンと来ない。いわゆる、あの「歌舞伎らしさ」がこの演目は乏しいと思うからだ。

しかし、非常にどうでもいいことなのだが、「山科閑居」上演中、イヤホンガイドを務めていた小山觀翁(こやまかんおう)氏の淡く渋~い声が、妙に「山科」の冬景色(セット)と合っていて、いい気分に浸れた。幸せ者だ。夜の部は、小山氏の声とともに「山科」を観劇するだけでも、イヤホンガイドの元手は十分取れるはずだ。


「歌舞伎らしさ」をよしとするなら、次の「乗合船恵方万歳」のほうがまだいいだろう。山なし、落ちなし、意味なし、と言ったら「やおい」になってしまうが、この演目はまさに「やおい」そのものだ(無論、男色なし)。が、それがいいのである。役者はただただ踊り舞い、鳴物は音を劇場内に響びかせる――それでこそ「歌」「舞」伎なんじゃないか、と思う。

「歌」と「舞」こそが歌舞伎の醍醐味だが、それでいくと最後の演目『東慶寺花だより』はつまらない。これは井上ひさし作の新作歌舞伎だが、セリフもほとんど現代語だし、役者の動きにはまったくと言っていいほど「歌舞伎らしさ」がない。これじゃあ、舞台上で演じる時代劇となんら変わりないじゃないかと思うのだが。

無論、歌舞伎業界も古典だけにこだわらずに、新奇性を持ち込もうという画策なのだろうが、それでもわたしはこの新作歌舞伎、どうも好きになれないなあ。


以上、非常に簡単ながら今年の壽初春大歌舞伎夜の部の感想を書いてみた。昼の部のほうはまた、後ほど。
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