2014/02/23

「事実」は、「信じる」ことからしか生まれない

最近、書店に行くと統計学の本をよく見かける。

そういった本をパラパラめくってみると、「いままでの○○の通説を統計学で覆す」とか「統計学を会社経営に生かす」などといった文言をよく見かける。

まるで、統計学は「万能な学問」のように思える。これさえあれば、物事の真偽や善悪の判断が簡単にできるかのようだ。

しかし、である。統計学にできることは、結局、統計データ(それも、まったくの「事実」とまでは言えない、「事実」に近いと思われるデータ)の提示だけだ。そしてその統計データは、われわれ人間が「信じる」ことをしなければ、まったく生きないのである。

つまり、万能なように思える統計学という科学は、皮肉なことに、人間の「信じたい」という「感情」がなければ、無力なのだ。いくら、相手に「統計データでは○○という結果が出ている」と言っても、その人がそれを信じようとしなければ、たとえデータが「事実」を提示できていたとしても、その人にとっては「事実」になりえていないのである。

そんなバカな話があるか、と思われるかもしれない。しかし、「事実」とは、どこまでいってもそのことを「信じる」行為からしか生まれない。少し堅い言い方をすれば、「事実」はそれを信じるという「感情」を担保に存在できているのである。

無論、わたしは書籍などに掲載される統計データは、きちんと出典が明示されているのであれば、基本的にはそのデータは(完全に、とまでは言えなくとも)「事実」を示していると思っている。しかし(賢明な方ならすでに気づいたと思うが)、この「思っている」というは、まぎれもなく「信じている」の言い換えにすぎない。そしてなぜ、それを「信じる」のかというと、それは結局「統計学を使って出したデータだから」という、トートロジー(循環論)に陥ってしまうのである。

しかし早い話、そんなことはどうだっていいのだ。要するに、「信じ“たい”から信じる」のである。結局、どこまでいっても「信じる」とか「信じたい」とか、そういった「感情」でわれわれは物事の判断や決定を下すのだ。

統計学ブームというと、いかにもわれわれ人間がより理性的/科学的に物事を判断・決定するようになったと見える。だが実際は、理性とか科学とかそんな「高等」な話ではなく、「信じる」だの「信じたい」だのといった、「感情」のレベルにとどまる話なのではないだろうか。
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2014/02/19

勉強は必要だと思うよ? ― 『資格を取ると貧乏になります』

資格を取ると貧乏になります (新潮新書)資格を取ると貧乏になります (新潮新書)
(2014/02/15)
佐藤 留美

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個人的にだが、近頃、この本に代表されるような「資格・スキル無意味」論をよく耳にするようになった。「巷にあふれる民間資格・スキルの勉強なんかやってもムダ。結局は実務が一番大切で、それは目の間にある仕事をこなすことなのだ」といった主張だ。

「実務が重要」というのは確かにその通りである。しかし、わたしは巷にある民間資格やスキルは「実務をサポートするための補助知識」あるいは「今こなしている実務をより広い視野で眺めるための“道具”」といったように考えている。だから、「資格・スキルの勉強などやってもムダだし、無意味」といった言い分には賛成しかねる。

もちろん、本業の実務に支障が出るくらい、資格・スキルの勉強をやるのは本末転倒だ。だが、時間と体力が許す限り、こうした勉強はむしろ多いにやるべきではないか?

矛盾するようだが、実はこの著者も前著『なぜ、勉強しても出世できないのか?』で、こう書いている。

ここまで、資格取得に対して否定的な意見ばかり書いてきたが、もちろんすべての資格取得、スキルアップを否定しているわけではない。自分の専門性をより深く追求するための資格取得やスキルアップなら、仕事に差し障りのない範囲であれば、むしろトライすべきだろう。(p.222)

弁護するつもりはないが、彼女も資格・スキルの勉強はまったくダメだとは言っていないのだ(本書を読んでいると誤解しやすいが)。それに、なにも特定の資格・スキルの勉強に限らず、仕事の「幅」や仕事に対する「考え方」を広げたいのなら、勉強はむしろ推奨されて然りだと思う。

よく、なにかにつけて「勉強よりも実務が大事だから~」などと言ってくる人は、一見すると仕事熱心のように見える。だが、実は「実務さえこなしていればそれでいい(=仕事(実務)外のところで、仕事に関係することなど考えなくてよい)」と思っている場合が少なくない。そういう人に限って、実務はできても物の見方には乏しかったり、実務外のこととなると、著しく教養が欠けていたり、思い込みが激しかったりする(以上はわたし個人の経験談)。

実務ばかりこなすということは、その実務「しか」見えなくなる、ということでもある。つまり、視野がせまくなる、ということだ。視野のせまい人に、革新的なアイデアや仕組みなど生めるはずもない。他人とは違った視点で物事を見ることもできない。「もっと効率的に、無駄なくこなす方法はないか?」と探ることもしないだろう(なぜなら、探ることよりも実務をこなすことのほうが「効率的だ」としか思っていないから)。実務ばかりこなすこと/重視することの弊害は、まさにこうした点にあるのである。

そういう弊害が「実務こそすべて」といった考えにあるのなら、それを払拭するために資格やスキル、あるいは読書といった、自分を高める勉強をすることは、むしろ立派なことだ。本業ですぐ「ガス欠」にならない程度に頑張ってみることは大いに必要だと思う。

ということで、本書のタイトルに付け足しするとしたらこうなるだろうか――『資格を取る(勉強ばかりしている)と、(本業で体力がもたずに失敗し、失業して)貧乏になります』――う~ん、ちょっと長過ぎる。。。
2014/02/15

【2月】これから読む予定の本

2月も読みたい本がいっぱいだ。以下、簡単なコメントとともに列挙してみる。


政治の世界 他十篇 (岩波文庫)政治の世界 他十篇 (岩波文庫)
(2014/02/15)
丸山 眞男

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本日発売の本で、いま一番楽しみにしているのがこれだ。わたしは丸山眞男の大ファンで、3月から岩波書店で再発売される『丸山眞男集』(全16巻)も買う予定だ。

ただし、この本、表紙が残念すぎる。丸山ファンからしてみれば、「このダサくて地味な表紙、なんなの?」と首を傾げたくなる。岩波文庫のいつもの表紙スタイルで、写真は丸山本人という構成を期待していたのだが、予想が大きく外れてしまった。




日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)
(2014/02/15)
石破 茂

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これはもう買った本だが、まだ読んではいない。著者が石破茂だから買ったのだ。前作『国防』を読んで面白かったので、また氏の本を読もうと思ったのがきっかけだ。




(021)ブラック企業VSモンスター消費者 (ポプラ新書)(021)ブラック企業VSモンスター消費者 (ポプラ新書)
(2014/02/06)
今野 晴貴、坂倉 昇平 他

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これも買ったが未読である。ブラック企業系の本はいくつも出されているので、基本的にどの本を読んでもいいのだが、一読書人として、また一労働者として、新刊のこういう本は読みたくなってしまうのだ。




経済学大図鑑経済学大図鑑
(2014/01/21)
ナイアル・キシテイニー

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これも購入&ほとんど未読状態の本である。とはいえこの本、本当に素晴らしい。時代順に、経済思想を図とともに理解できるスグレモノだ。そもそも、「経済学」を図鑑にしてしまおう、という発想がすごい。さすがは外国人。日本ではこういう企画、起きないからな~。




絶望の裁判所 (現代新書)絶望の裁判所 (現代新書)
(2014/02/19)
瀬木 比呂志

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最近、司法系の新書や文庫を読むことが多くなった。今月はこの本を読むつもりだ(目次に惹かれれば、だが)。「裁判所というのは、“とりあえず”有罪か無罪かを決める所」というセリフが、映画『それでも僕はやってない』(加瀬亮主演)に出てくるが、これはおそらくこの本の主張とも一致するだろう。
2014/02/09

【国立劇場】2月文楽公演

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文楽観劇日だった昨日、あいにくの大雪とぶつかってしまった。

事前に予約してあるとはいえ、こんな日にわざわざ文楽を観に行く人というのは、相当の物好きと言えるのではないか。

足元は積もった雪でグチャグチャ。空からは粉のような吹雪。国立劇場に行くまでが一苦労である。とはいえ、雪舞い散る中の国立劇場というのは、なんとなく妙な趣と落ち着きがあった。



さて、昨夜鑑賞したのは、第三部(18:15~)の「御所桜堀川夜討」(弁慶上使の段)と「本朝廿四孝」(十種香の段/奥庭狐火の段)だ。上に掲げた宣伝ポスターに写っている八重垣姫の後ろ姿が、非常にいじらしくてかわいい。そして「廿四孝」のイヤホンガイド解説員は、安定の小山観翁氏。しんしんと積もる雪の日の、仄暗い場内で、この渋く淡い翁の声を聞きながら文楽を観るというのは、なかなかの贅沢である。

ところで、文楽を観ていて面白いと思うのが、人形を動かす人たちが、舞台上で堂々と姿を見せているという点だ。もっというと、義太夫や三味線の人たち、黒子も自身の姿を観客に見せているのも面白い。

無論、これは文楽に限ったことではない。歌舞伎や能でも同様である。なぜ、日本の古典芸能は、こういった「裏の人たち」(「表の人たち」は、人形や役者)も、観客に見えるようにしているのだろう?

これが、西洋モノの演劇だと違う。西洋モノの演劇は、こういう「裏の人たち」は、あくまでも「裏」に徹しており、「表」には出てこない。たとえば、劇団四季だと、音楽を奏でる人たちは、舞台上には決して姿を現さないし、黒子のような人たちもいない。それから、昔NHKでやっていた「ざわざわ森のがんこちゃん」とか「ひょっこりひょうたん島」とかは、どちらかというと西洋風の人形劇だが、やはり文楽のように人形遣いの人たちは姿を見せない。



わたしはどちらかというと、こうした日本的な劇の演出方法が好きだ。理由は、西洋劇やその流れを継いだ現代劇にはない、こういった演出が新鮮だからだ。しかしその理由以上の理由があって、それは「裏の人たち」を決して「裏の人たち」のままで“終わらせない”ところ、「裏の人たち」も、劇の立派な“出演者”であり“役者”なのだ、と考えているところ――こうした古の日本の演劇哲学に好感が持てるからなのだ。

もっと言えば、「仲間はずれ」にしない、「差別」をしない、とでも言い換えられるだろうか。

「あなたは役者ですよ。だから、表舞台に出て演じてください」
「あなたは音楽を奏でる人ですよ。だから表舞台には出てこないでください」
「あなたは人形を操る人ですよ。だから舞台上で姿を見せないでください」

こういう考え――いじわるな言い方をすれば、「仲間はずれ」や「差別」――がない、というのが日本の演劇の良いところだと思う。



そういえば、民放のテレビドラマなどで、最後に(あるいは最初に)番組制作に携わったプロデューサーやディレクターの名前(=クレジット)が画面下に流れるが、これが海外ドラマだと、ドラマが終わったあとにクレジット用の場面に移る。もちろん、日本の場合だと番組の尺の都合とか色々理由があってドラマ中にクレジットを流すのだろうが、それでもドラマ中にもうクレジットを流してしまうというのは、よく考えてみると変(?)というか、面白い感じがしないでもない。

これも、大元はやはり、「裏の人たち」に対する敬意の表れ――「裏の人たち」を「仲間はずれ」にしないという考え――から来ているのかもしれない。「ドラマは表舞台で活躍した人たちだけのものじゃない。みんなの力があってこそのものじゃないか」――そういう思いが、古から今に至るまで受け継がれているのだろうか。


――と、いつものごとく話が寄り道ばかりになってしまったが、今日はこのへんで。
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