2014/04/29

【観世能楽堂】『古典への誘い』を鑑賞した。

120701_1.jpg

おおよそ一ヶ月前であるが、観世能楽堂で海老蔵の「古典への誘い」を見た。

能楽堂というのは、会場内がすごく小さいので、ちょっとの人ですぐいっぱいになる。今回も例に違わず、観世能楽堂に海老蔵が来るということで満員だった。

始めに、場内が急に暗くなったと思ったら、会場後方の入り口から海老蔵がグレーのスーツ姿で入ってきた。衣裳も化粧も身につけていない、「生の」海老蔵を見たのはその日が初めてである。

格好良かった。ただ、その一言だけだ。それ以上の言葉はもう、いらない人だった。会場内は、女性で7割くらい占めていたように思うが、女性が多く集まるのは当然のように思えた。こんな粋で格好いい男が、能楽堂という厳かな場所で舞踊を披露してくれるのだから。女性も負けじ劣らず、着物姿で美しかった。

始めるにあたってのオープニングトークということで、海老蔵は能と歌舞伎の魅力、歴史を語った。このあたりのことは、能楽堂に集う者たちにとって、もはや不要ではないかとさえ思えるような内容だったが、それでも海老蔵の口から語られると、改めて「何か高尚なものを勉強した」という気分に浸れてしまった。よく「何を語るか、ではなく、誰が語るかが、人を魅了するときに大事な点である」などといったことを耳にするが、まさにその通りだった。

今回の演目は、半能「石橋」と歌舞伎「連獅子」である。なぜ、数ある演目の中からこの2つが選ばれたのだろう? 思うに、どちらも役者の動きに明確な緩急があって人を惹きつけ、鳴物も素晴らしいからではないか。それに、どちらも獅子が出てくる。獅子の面をつけた能楽師と、獅子の隈取をした歌舞伎役者。両者ともにその迫力が凄まじい。歌舞伎はともかく、能というと「ゆったりと静かな動きをする芝居」というイメージを持っている者にとって、「能にも、こんな激しい芝居があるのか!」と驚かされるに違いない。

しかし、この企画、実に贅沢だ。いや、贅沢過ぎるといっても過言ではない。なぜなら、能楽堂で能と歌舞伎を一気にやってしまおうという試みなのだから。海老蔵も言っていたが、これが安土桃山の時代ならばありえない。当時、能は貴族階級の芝居であり、歌舞伎は庶民のための芝居だった。そこには、今とは異なる「聖俗」の線引がはっきりとなされていたのである。それを現代の、平成の渋谷で、両方をまとめてやってしまうというのだから、当時の貴族・庶民からしてみれば、まさに「夢の組み合わせ」なのだ。

歌舞伎「連獅子」というと、あの豪快な「毛振り」が有名である。無論、今回もそれが観られたわけだが、能楽堂という舞台と、あの小さな会場のせいなのだろうか、ものすごく盛大な光景として今でも僕の目に焼き付いている。何せ、親獅子(海老蔵)が真っ赤な毛を、そして子獅子(福太郎)が真っ白な毛を、力強く振り回しながら、能楽堂の橋懸かりを渡っていくのだ。

橋懸かりの脇にある松と、舞台後方にある鏡板、そして紅白の牡丹の花――それらを背景に毛を回しながら、魅惑に満ちた獅子がそこに現れる。実に異様ではあったが、同時にそれに目を奪われて恍惚としている自分が座席にいたのである。

舞踊というのは、瞬間の芸術だ。絵画や骨董品のような、「常にそこにあるもの」ではない。一瞬一瞬ですぐに消え去っていく芸術である。しかし、それが何とも言えない、舞踊という芸術の魅力なのだ。決して、ビデオカメラで捉えて収まりきれるような代物ではない。

この日は、本当に優雅な気分に浸れた最高に一日だった。帰りに、渋谷のジュンク堂で『風姿花伝』を買ったくらいだ。終わった頃にはますます、「もっと歌舞伎と能を観なければ損だ」とさえ思うようなっていた。

(※画像は前回公演時のもの)
スポンサーサイト
2014/04/27

「人間臭さ」がないと、何も残らない。

「はてなブックマーク」というサイトがある。私はそこで、いま注目されている記事をパラパラと見るのだが、そこで人気になる記事というのがほとんど、実利的な記事(「~する時に役立つ◯◯トップ5」とか「知らないと損する☓☓の裏ワザ10」とか)である。エッセイとか「◯◯を見た感想」とか、そういう記事はあまり見かけない。

無論、はてなブックマークを使う人たちは実利志向が強いから、というふうにも考えられるだろう。また記事を書く方としても、実利的な記事のほうがウケがよく、PV数も稼げるから結果的にみんな実利的な記事ばかり書き、エッセイ系の記事は書かない(書きたくない)のかもしれない。

こういった傾向というか趣向を見ていると、多くの人が「すぐ役立つ情報(役立ちそうな情報)」をネット記事に求めているのだなと感じる。しかし、私個人の経験からすると、そういう記事(あるいは、そういう記事を提供している側)というのは、その記事を観られた瞬間、もうすでにその記事は「用無し」になってしまっている。その記事が載っているブログやサイトも、次に来る「役立つ記事」が提供されるまでは「用無し」だ。つまり、「役立つ記事」がなければ、何も頭や心に残らない。残るのは、ただ「役立つ情報」とその情報が「自分に提供されたという事実」だけだ。

僕はこういう実利的な記事を読むのがあまり好きではない。エッセイや意見文のような記事のほうが好きだ。実利的な記事が多いはてなブックマークに訪れるのは、わずかな期待を持ちながら、そういったエッセイや意見文のような掲載数の少ない記事を読みたいからである。

しかし、なぜ僕はそういう記事が好きなのだろう? こういうことを書いていてふと頭の中に思い浮かんできたことなのだが、それは、少しカッコ悪い言い方になるが、そういう記事に「人間臭さ」が表れているからなのだと思う。

なんというか、「今日、外でこんなことがあったんだけど、オレはそのときこう感じた」とか、「世間では◯◯は良く言われてるようだけど、でもそれって違うと思う」とか、そういう個人の思いや考えというのは、すごく「人間臭さ」が出ていて、興味が湧いてしまう。そういうものを読んでいるとき、もはやその人の言い分やモノの見方に共感する/しないなんていうのは、すごくどうでもいい瑣末なことなのだ。「ああ、世の中にはこういうふうに考える人がいるんだ」「こんな感じ方をする人がいるんだ」という、ただそれだけのことが知れるだけで僕はすごく楽しいし、おもしろい

いま、ネット上のあらゆるところで「感情論」というものが毛嫌いされているように思う。ちょっとばかり、主張したいことに情が混じると、すぐに相手から「そんなの、ただの感情論だ」という批判に晒される。なんだか、「エビデンス(証拠)がなければ、何を言ってもムダである/信用してはならない」みたいな雰囲気が、どこもかしこにも横たわっている気がする。最近流行りの「統計学で◯◯をウソを見破る」とか「ビッグデータ解析で、本当の☓☓を探る」といった記事や本や企画も、そういった空気が蔓延する中だからこそ、こんなにも支持されているのではないだろうか。

だが、最後に人の頭や心の中に残るもの、残り続けるものというのは、結局、さっき言ったような「人間臭い」ものだと僕は思う。例えば、ありとあらゆる「芸術」と呼ばれるものが、時代を超えて保護され大事にされるのは、そこに遥か昔から変わっていない「人間臭さの極北」があるからではないか。その「人間臭さの極北」に、その時代その時代の人たちが魅了されてきたからこそ、それは「芸術」と呼ばれるまでになり得たのではないか。

僕が、ある人やあるモノに関心を寄せる時というのは、その人やモノから漂う「人間臭さ」感じ取った時である。その人が偉業を成し得た時に、ということもあるが、それはほんの一時的なものにすぎない。その「一時」が「常時」に変わる時というのは、必ずその人の「人間臭さ」に触れた時である。

振り返ってみると、僕が面白いと思った本、そして手元に置いておきたいと感じる本は、やはり「人間臭さ」が滲み出ている本である。くだらないかなあと感じつつも、でも買って読んでしまう「人生論」的な本は、本当に「人間」の「匂い」がする。だからついつい、「人生論なんか読んでもねえ」とは感じつつも買ってしまうのだろう。

読書、ということでさらに言わせてもらうと、僕は本に実利的な情報を求めることがほとんどない。「◯◯ができるようになる方法」とか「すぐに☓☓がわかる本」といったものを買うことはすごく少ない。理由は、やはり頭や心に何も残らないことが多いからだ。◯◯や☓☓ができたり、わかったりしても、ただそれ「だけ」ということで終わってしまう。それ以上の、たとえば自分の中でそれを反芻したり思い返したり、といった「読んだその後に来るもの」がない。

もちろん、実利的な記事や本が悪いなどとは思わない。それを求めている人たちがいる以上、それは確かなニーズを満たしているのだから、これから先も生まれ続けるだろう。しかし、ニーズを満たし得た時点で、それ以上のものは何も生まれない。発展することもない。それが実利というものだ。実利を志向するというのは大変シビアなもので、そのものに明確な「対価」や「効果」がなければ、それはゴミクズ同然の扱い受けてしまうのだ。

「すぐに役立つというのは、すぐに役立たなくなる、ということだ」という逆説的な言葉の意味するところはすなわち、「すぐに役立つ情報を得た時点で、その役立つ情報を提供した側はすぐに用無しとなり、また“すぐに”役立つことが実証されなければ、もはやその情報自体も用無しであり、“すぐに”役立ったとしても、“すぐに”は、すぐ過ぎ去るのだから、すぐに役立たなくなる」ということなのだと思う(以上は、個人的な解釈である)。

もし、読み継がれるに値する記事を作りたいと思うのなら、どこまでも自分の書くものに対して「人間臭さ」を求めたほうがいいのではないか――いま、私はそういう気分である。
2014/04/25

歌舞伎案内のスゴ本――『歌舞伎の愉しみ方』

歌舞伎の愉しみ方 (岩波新書)歌舞伎の愉しみ方 (岩波新書)
(2008/11/20)
山川 静夫

商品詳細を見る


もうすぐでゴールデンウィーク――ということで、わたしは歌舞伎座と明治座、観世能楽堂でこの連休を過ごそうと考えている。伝統芸能にどっぷりと体を浸らせてもらう予定である。

ところで、伝統芸能というのはよく「敷居が高い」とか「難しそう」といった印象を持たれがちである。実際、その通りだ。敷居は高いし、すぐ観てすぐ楽しめるといったものではない。ある程度は「勉強」が必要だし、イヤホンガイドなしで十分に作品を味わうにはそれこそ歴史の知識、古語の知識、当時の風習・風俗の知識も必要になってくる。決してお気楽に観られるものではない。

とはいっても、歌舞伎、能、文楽など日本には色々な伝統芸能があるが、とりあえずこの3つに絞った上で話をさせてもらうと、この中でもっとも親しみやすいのは歌舞伎だ。なぜなら、歌舞伎が一番具体的で使われる言葉も現代に近いからだ。一方、能は抽象度が高いし、文楽は誰がしゃべっているのかわかりづらく、言葉もほとんどが古語。おまけに東京だとチケットがすごく取りづらい。

というわけで、「だったら、まずは歌舞伎を楽しんでみたい」という人にオススメなのがズバリ本書『歌舞伎の愉しみ方』である。著者は元NHKアナウンサーの山川静夫氏だ。

氏の文章からは、歌舞伎への愛と情熱が本当に滲み出ている。しかし、難しい話などはほとんど出てこない。「まあ、とりあえず歌舞伎、観てみようよ」といった、ゆるくやさしい感じだ。岩波新書だから一見小難しい印象を受けるかもしれないが、まったく小難しくない。

ここで本書から、気になった言葉を一部抜き出しておこう。

最初にこんなことを申し上げたのは、「歌舞伎をこう観なければならない」というきまりは一切ないのを強調したかったからです。(中略)他人の意見に左右されない自分なりの感性の尺度を持つことが、歌舞伎を愉しむ第一のコツかもしれません。(p.2)

よく、「歌舞伎はもともと庶民の娯楽だったのだから・・・」などといって、「だから歌舞伎は高尚でもないし、難しくないのだ」と言う人がいるが、それは昔の話であって、さすがに今の時代は当てはまらない。初対面の人に「趣味は、歌舞伎を見ることです」と言えば、たいていは「すごいですね」とか「高尚な趣味をお持ちなんですね」などと言われることがほとんどだろう。

しかし、氏の言うとおり、そんな歌舞伎だからといって、決して構えて観る必要はない。というのも、なにか「正しい見方」があるわけではないからだ。「歌舞伎のこういう部分は好きだけど、ここはあまり好きじゃない」というのだってアリだし、「この演目は自分にはわからないけど、あまり人気のない◯◯という演目は面白かった」と感じるのもアリだ。要は、「正直」であることが大事なのだと思う。

と、ここまで色々と述べてきたが、やはり最終的には「たくさん歌舞伎を観る」ことこそが、歌舞伎を大いに楽しめるようになる一番の近道だと私は思っている。本で勉強するのは、初めのうちは「ある程度」までに留めておいて、その後はひたすら見まくるのがいい。それも2、3階席ではなく1階席で、である。その方が、よく見えるし、よく「感動できる」のだ。不思議なもので、歌舞伎というのは、行くと毎回なにかしらの新しい「発見」があったりするのである。
2014/04/24

会社という名の「承認欲求地獄」で生き延びる方法

以前、映画『ユダ』の感想を書いた時、私はキャバ嬢の世界を「承認欲求地獄」と表現した。が、キャバ嬢よりももっと身近なところに「承認欲求地獄」は存在している。それが、会社という組織である。

会社では、そこでどのような立場であろうと、自分よりも後に入社してきた者に対しては、「自分はアイツよりも立場が上だ」と思う人がほとんどだ。実際のところ、大した仕事もしておらず、輝かしい業績があるわけでもないのに、である。

このような人たちは、「自分は下の者から敬われて当然である」と考えている。だが、それは何ら「当然」なことではない。仮に「敬われている」のが事実だとしても、それは当人が「魅力的だから」とか「すごいから」ではなく、単に「とりあえず、下から敬って“もらえる”立場にあるから」という場合がほとんどではないだろうか?

しかし、上に行けば行くほど、上の者は自分がもしかしたら「とりあえず、下から敬って“もらえる”立場にあるから」敬われているのではないか、と考えようとしなくなるようだ。本当にひどい場合だと、会社の外でも「大御所ヅラ」する者もいる(いい年した大の大人が店員に横柄な態度を取る、というのはその典型ではないか)。所詮、会社から一歩でも出れば、単なる「中年」や「オジさん」に成り下がるだけなのに、そのことが自覚できないというのは恐ろしい。

結局、会社という組織自体も「承認欲求地獄」で成り立っているのだ。「認められたい」「敬われたい」と思っている人たちが会社には大勢いる。無論、それが競争につながり、結果的にプラスに働くのなら悪くないかもしれない。が、だいたいの場合、そのように思われたいのは自分よりも下の者からなので、大して競争心も生まれなかったりする(というのも現状、日本はまだまだ年功序列の社会だからだ)。

こんな世知辛い「承認欲求地獄」をどうやって、うまく生き延びればよいのだろうか?

もっとも安全かつ効率的かつ効果的な方法がある。それは自分から進んで、相手を「敬って“あげる”側に回ってしまう」というものだ。もちろん、「本当に」敬うのではなく、あくまでも「敬って“あげる”」という上から目線な考えで十分である。もっと簡潔に言えば、「持ち上げて“やる”」のだ。

そういうフリをしていれば、大した努力をせずとも自然と相手からの好感度も評価も上がる。うまく行けば、トントン拍子で出世できるかもしれない。なんら新鮮味のない方法ではあるが、これが一番賢いやり方だと私は思う。

間違っても、「敬われたい」などという「承認欲求地獄」の中に己を沈めさせないことだ。そして、「自分は下の者から敬われて当然である」などとも思わないことだ。下の立場になってみればすぐにわかることだろう。

誰も、あなた(自分)のことなど敬いたくて敬っているわけではないのだから。
2014/04/20

「真面目」は、最強である。

今日のお昼ごろ、たまたまテレビを見ていたら、「驚きの真実!ビッグデータSHOW ~ホントの日本が見えてくる~」(日本テレビ)というのが放送されていた。

「ビッグデータか~。そういえば今話題のワードだよな~」と思い、途中まで見ることにしたのだが、その中で一つ、興味深いデータが出ていた。それが、日本人がツイッター上でよくつぶやく言葉があるらしく、それが「明日こそ本気を出す」である、というもの。

その番組で、ツイッターのつぶやきを分析していた人によると、日本人は、毎日反省し、毎日決意し、でも挫折して、それがこのように、「明日こそ本気を出す」という言葉としてつぶやかれるのだろう、というコメントをしていた。

これを聞いて、「やっぱり日本人はどこまでも真面目なんだなあ」という当たり前の感想が持てたのだが、しかし、おもしろいことに、当の日本人たちは「真面目」に対して、嫌悪感があるのだ。

その証拠は、グーグル先生に尋ねてみると、すぐに出てくる。

試しにグーグルで「真面目」と入力してみると・・・

3.jpg

「真面目」との組み合わせが、「つまらない」「やめたい」「損」「短所」「うつ病」といったネガティブな言葉ばかりだ。

一方、今度は「不真面目」で調べてみると、さらに面白い事実が見えてくる。


5.jpg

「不真面目」だと、なぜか「不真面目を目指す」「不真面目のすすめ」「不真面目になる」「不真面目 頭いい」といった肯定的な捉え方をされている場合が多い。

こうして見ると、毎日反省し、毎日決意し、でも挫折して、「明日こそ本気を出す」という言葉をつぶやく「真面目」さが根っこにはあるのに、でも真面目に見られたくない、あるいは真面目でいたくない、というのが日本人というものなのだろうか?と思いたくなる。

気持ちは真面目である、が、見た目や生き方は真面目でいたくない、不真面目でありたいという矛盾――なぜこんな矛盾が生じるのか、その理由は色々あるだろう。

その一つが、ドラマやアニメに出てくる登場人物(キャラ)の影響があったりするのでは?と、わたしは思っている。

最近のドラマやアニメ(特に戦闘モノ)に出てくる登場人物の中には、「出で立ちがカッコよく、飄々としていて、いつもなんとなく気だるそうにしているが(つまるところ、不真面目)、何かと主人公や主人公の周りの人たちのことを考えてくれていて(つまるところ、真面目。しかし、あまり態度には出さない)、窮地のときに、主人公の力になってくれるが、それが終わるとまたいつも通りに戻る」というタイプのキャラがよくいる(そして物語の、わりと重要な位置にいることが多い)。

みんな密かに、そういうキャラや位置に憧れているんじゃないか?とわたしは思っているのだが、まあ、そんな根拠のない分析はどうでもいい。

しかし、である。本題にまた戻るが、真面目であるというのは、本当は得であり「強い」のだ(これまた明確な根拠を挙げられずに申し上げるが)。

就活を例にとるとわかりやすいかもしれない。業界や社風によるところもあろうが、基本的に新卒は真面目な人や真面目な感じの子が採用されやすい。なぜか? それは自分が会社にいるおじさんの側に回ってみればわかる。真面目な子のほうが扱いやすいし、仕事をまかせるにしても安心できるからである。

この点、やはり不真面目な感じの子(言い方を変えれば、ちょっとチャラい感じの子や、ワルっぽい感じの子)はウケが悪い。ほとんどのおじさんたちは、若かったころと比べてかなり保守的になっている。その企業のカラーに完全に染まりきっているおじさんたちは、自分とは毛色の違う若いヤツを見ると、なにかと警戒しやすい(どの企業も、採用活動に慎重になっている昨今の流れからすれば、この傾向は今後もますます強くなるだろう)。

採用活動時に「人材の多様性」だの「個性の尊重」だのという企業もあるが、所詮はタテマエだ。結局、一緒に仕事をしていて安心でき、且つ扱いやすそうな「真面目な人」を、おじさんたちは好むのである。

これは別に企業に限った話ではない。恋愛でも同じだ。

女性だって、真剣に結婚のことを考え始める時期になると、やはり真面目な男性が一番だと思うだろう。なぜかといえば結局、安定した結婚生活を送るには、相手のこと、家族のこと、仕事のことに真面目である人がパートナーでないと、生活が破綻するからである。「おもしろい」「顔がイケメン」といった要素は、(重要かもしれないが)所詮二の次三の次であり、「あわよくば」程度のものにすぎない。

この点、男性も同じである。異性の容姿を重視するという点では、女性と異なるかもしれないが、結婚相手の条件としては、結婚生活を真面目に考えてくれる女性(つまるところ、真面目な女性)を、やはり男性は好むのだ。

その他、真面目であると、いろいろな面で得をする。たとえば、

・他人から軽く扱われない(真面目な感じの人は、イジられキャラにされにくい)。
・初対面の人には、(少なくとも)悪い印象は与えない。
・仕事人として、「真面目」は最強の武器。なぜなら、真面目であることは、人からの信頼を得やすいから。
・安定した生活を送ることができやすい(真面目に働くというのは、安定した生活を送るために必要な条件だ)。


他にも色々あるだろう。

つまり、真面目とは本来、いいことずくめなのだ。

それがいつからか、この国では「真面目」=「損」という考え方を持つ人が多くなった。

しかし、これは間違いだ。真面目だから損なのではなく、損をする(した)原因を、十把一絡げに「真面目」のせいにしてしまうから、おかしなことになるのである。損する(した)原因が「真面目」さ以外の何かにあるのではないか?――そういった考え方をしてみようとしない己の「不真面目さ」にこそ、損する本当の原因があるのではないだろうか?

いずれにせよ、真面目であるというのは、最強なのだ。
2014/04/09

【歌舞伎座】鳳凰祭四月大歌舞伎(夜の部)

kabukiza_201404f.jpg


初めて歌舞伎座の1等席(18000円)に座った。
いままでは、ずっと3階席(6000円)から芝居を見ていたのだが、今回は奮発してみた。

で、気づいたのだが、1等席の舞台正面・花道付近の席というのは、予想以上にものすごい感動と興奮を与えてくれるのだ、ということ。もうこの事実を知ってしまった以上、これからは3階席で見ようなどとは思えなくなってしまった。

まず、今月の夜の部を舞台正面付近の1等席で見れば、1幕目『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』で、吉右衛門の「バカ殿」っぷりが楽しめる。そうかといって、おマヌケな顔した吉右衛門が出てきたと思ったら、彼の横では芝雀の美しい舞踊が披露される。それに狂喜する、ニンマリ顔の吉右衛門。「?」と思ったら、ぜひ歌舞伎座の1等席に座るべし。この演目、コメディーチックな部分があるものの、非常に奥の深い芝居なのである。

ちなみにイヤホンガイドの解説は、おくだ健太郎氏が務めている。個人的に思っていることだが、解説員の中では、氏の解説が一番わかりやすい。解説を入れるタイミングも実に見事で、解説を聞くことにとらわれて演目に集中できなくなる、といったことがまずないのだ。声も聞き取りやすく、この解説を聞くためだけにイヤホンガイドをレンタルするのもアリだと思う。

2幕目は『女伊達(おんなだて)』だ。主役は、萬屋を代表する女形の巨匠・中村時蔵である。この演目は、まさに「歌舞」伎で、文字通り、「歌」と「舞」しかなく、物語の要素はない。しかもすぐに終わる(20分程度?)。が、わたしはこういうのが大好きだ。歌舞伎の醍醐味は、物語の面白さとか理屈よりも、まずは見た目や様式美だと思う。

この2幕目ではイヤホンガイドを聞かないことをオススメしたい。全然耳に入ってこないし、そもそも解説自体いらない気がする。己がいま持っている感性で、素直に、理屈抜きで愉しむほうが健全だ。

3幕目『梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)』(髪結新三)は、正直に言うと、あまり面白くない。それでも見どころがあって、それがお熊役の中村児太郎である。素直に告白すると、彼の女形にはグッと来てしまった。思わず抱きたくなってしまうくらいに色っぽくていじらしかった。理想の女像である。

しかし、如何せん、出番が少ない。そのため、話題の中心的存在であるにもかかわらず、あまり舞台に出てこないのだ。そこが残念すぎた。


それにしても、歌舞伎というのは不思議なもので、見るたびに何かしらの面白い発見や感動が得られたりする。別に、日本の伝統芸能だから歌舞伎を特別視しているつもりはないが、これは本当に正直な感想だ。だから、高い金を払ってでも歌舞伎を見たくなるのだろう(第一、本当につまらなかったら何回も歌舞伎を見に行くわけがない)。

ちなみに、歌舞伎を見ていると、能も見たくなってくる。というのも、歌舞伎には能に対するオマージュがあり、例えばそれは「松羽目物」などに顕著に表れている。この2つは切っても切れない関係なのだ。

もし、日本の伝統芸能や文化に興味があるのなら、まずは歌舞伎から見るのがいいだろう。歌舞伎から徐々に能や文楽、日本舞踊や落語といった方面を開拓していくと、どれもこれも横のつながりがあるのだ、ということに気付かされる。こういうことが楽しめるようになるためにも、やはり歌舞伎を見ておくことは大変重宝するのだ。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。