2014/05/18

私の愛する「古典」

日本の思想 (岩波新書)日本の思想 (岩波新書)
(1961/11/20)
丸山 真男

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『日本の思想』――この本だけは、私にとってどうしても手放せない本だ。

大学生だった当時、この本を扱って授業をしていた先生がいた。実に面白い授業だった。社会人の今でも、またもう一度、あの授業を受けたいと思っているくらいだ。

授業もさることながら、わたしは本書の著者である丸山眞男に惹かれた。彼の強靭かつ鋭利な知性と知識量、秀逸な言語表現、「なるほど、そういう見方があるのか」と舌を巻いてしまうユニークな視座――わたしにとって、唯一尊敬、いや崇拝に値する「日本の」大学教授である。

「なんともオーバーな言い方だ」と思われるかもしれない。事実、オーバーな表現できる人だったので、賞賛と同時に多くの反感と非難を浴びた人でもあった。おそらく、「日本の」大学教授で、ここまで多数の賛否両論のある人は後にも先にも丸山眞男だけなのではないかとさえ、わたしは思っている。

彼をあまねく天下に知らしめたのは、おそらく本書だろう。とはいっても、丸山の本来の仕事は、日本の政治思想史の研究だった。しかし皮肉なことに、本書には、その「片鱗」程度の論文と講演録しか入っていない。それでも、「丸山眞男」といったら『日本の思想』だよね、と彷彿させる――そんな本なのだ、本書は。

新刊書に飽きてきた今日この頃、わたしはいま再び、この『日本の思想』を読んでいる。相変わらず文章表現が難解に感じる。再読なのに、「一読」ではなかなか文意が取れない箇所が多々ある。それでもゆっくりと、そしてじっくりと読み解いていけば、「なるほど、そういうことか」と理解できる。

わたしが社会人になって会社員生活を送る傍ら、日々実感するのが、「人間はイメージを頼りにして物事を判断する」という丸山の考えだ。

会社(というか、あらゆる組織や集団すべてに言えることだろうが)では、一度でも「アイツって◯◯だからな~」とか「あの人って☓☓な感じだよね~」といったイメージができ上がると、人は皆、そのイメージをもとにその人に接するようになる。別に、本当に当人がそのイメージ通りなのかどうかに関わらず、である。

「そんなの当たり前だ」と思われるかもしれない。しかし、「当たり前だ」と言いつつ、こうした事実を受け入れたくない人は、少なくないはずだ。「オレ、本当はそういう人間じゃないんだけどな」とか「わたしって実はそんなことないんだけど」といった、周囲のイメージと自分の認識とのズレに、程度に差こそあれ、思い悩んだり考えこんでしまったり、という人が多いのではないか。

わたしはあるときから、この丸山の考えを「応用」してみたらどうか、と思うようになった。つまり、人がイメージで物事や人を判断する、というのであれば、自らを自らが作った「イメージ」でまとわせ、そのイメージを、うまく周囲が持つ自分のイメージと合致させ、会社という世知辛い場を凌いでいく、ということをやってみたのである。メディアでよく耳にする、「なりたい自分になる」というアレだ。結果、自己評価ではあるが、「なかなかうまくいっている」と思っている。わたしは、丸山からヒントをもらい、イメージとしての「なりたい自分」とやらに「なってみた」のだ!

と、そんなことはさておき、こうした「当たり前」とされていることを、改めて「きちんと厳密に言葉にする」というのは実はすごく難しい。なぜなら、「当たり前」であるがゆえに、それを「当たり前」として片付けてしまうことで、その「当たり前」を「きちんと」認識しようとしなくなるからである。丸山眞男の魅力の一つは、こうした「当たり前」を「きちんと厳密に言葉にする」ところなのだ。

本書は今日、もう「古典」と呼んで差し支えないだろう。岩波新書の名著ベスト5に、確実にランクインする一冊だと思う。佐藤優が『人間の叡智』(文春新書)で、「自分の中に、最低でも2つの古典を持て」と言っているが、幸いにも私は本書によって、ひとつ「古典」が持てたのである。
2014/05/05

能を、見た。

能と歌舞伎には、共通点がたくさんある。が、豪華絢爛で熱気ある歌舞伎と比べ、能は本当に「冷静」だ。共通点は多いものの、両者最大の違いは、この「温度差」ではないだろうか。

まず、能楽師たちの登場の仕方が異様である。彼らは摺り足で、ものすごくゆっくり歩く。本当に、本当にゆっくりだ。まるで足腰悪そうな老人のようである。しかし、歌舞伎役者が花道から颯爽と登場してきた時の、胸躍る感じが、わたしにはこの、能楽師たちの登場の仕方にも同様に感じるのである。

なぜだろう? これが能という「芝居」(否、わたしには一種の「儀式」のようにも見えるのだが)のおもしろいところだ。理由を考えてみるに、それはこの登場の仕方が現代人にとっては「異様」に見えるからではないか。何せ、舞台への「登場」である。普通ならば、どこかわっと出てみたい、そして喝采を浴びたいという気持ちが、何かを演じる者の気持ちにはあると思う。また、彼らを見る観客たちも、無意識にそういう登場の仕方をするのではないか、と期待していたりもする。

しかし、能はそんな気持ちを押し殺すかのように、わっとは出ず、むしろ正反対の登場の仕方をするのだ。揚幕がゆっくりと上がり、そこから無表情な男たちが、摺り足でぬっと現われるその光景――テレビドラマを始めとした現代劇にどっぷりと浸った今の人間たちにとって、これがどうして異様に映らないことがあろうか。

だが、この「異様」も一度慣れてしまうと、今度はとたんに「退屈」へと変わってしまいやすい。能は、そのあらゆる所作やセリフがどれもこれも「異様」である。が、この「異様」は「退屈」と隣合わせなのだ。事実、わたしは慣れてしまい、今回の芝居でもウトウトすることがあった。

能は、能自身が現代人へ「すり寄ってくれる」ような芝居ではない。われわれ現代人が、能を理解してみようという気持ちがない限り、おそらく一向に理解不能なものなのだ。その点、歌舞伎はまだ「親身」だ。ミュージカルな要素が強い分、こちらが特段の知識がなくても、なんとか楽しめる(それでも所詮は「なんとか」という程度のものだが)。しかし、能にその理屈は通用しない。能は「親身」ではないのだ。こちらから、能に対してアプローチしない限り、能はわからないのである。

とはいうものの、では本を読んで、ちょっと話のあらすじを知った程度で楽しめるものか、といったら、実はそうではない。歌舞伎はそれで十分楽しめるが、能はそうはいかない。これはまあ歌舞伎にも言えることではあるが、能は何度も「根気強く」見て、ようやく「ああ、そういうことか」となれるのだ。関連の書籍を読んでおくのは当然として、それにプラス「何度も何度も、根気強く見る」という態度が、能を楽しむためには必要なのだ。

なんとも、まあ「面倒な」芝居だろう――そう思われるだろうが、そういう感覚になって当然である。実際のところ、「面倒」な芝居である。それもそのはず、なんだかよくわからない登場の仕方をして、なんだかよくわからにセリフを口にして、なんだかよくわからない舞をして、なんだかよくわからないストーリーで・・・というのが、能の事実なのだから。

しかし、だ。では、なぜこんな「面倒」なものが、600年以上も続いているのだろうか?

それは、遥か昔に成立した能の「権威」のおかげだろうか? いや、違う。いくら権威があろうとも、所詮そこに「含蓄」がなければ、どこかの時点で滅んでいるはずだ。長きにわたって支持されている以上、そこにはなにか人を惹きつけるものがある、と考えるほうが自然ではないか。

実は昨日、わたしはその「含蓄」とやらに、ちょっと触れることができたような気がするのである。それは、観世能楽堂で「海士」を見ていたときのことだ。正直なところ、話の筋はもうほとんど覚えていない。だが、龍女となったシテが、舞を舞っていたとき、その姿を見て、ピンと来るものがあったのである。そのときのことをうまく言葉にすることができないのだが、それでもなぜか、彼女の姿を見て「ああ、そういうことか」となったのだ。

能の魅力、だったのだろうか、それと思しきものに邂逅できた瞬間だった。
2014/05/03

【歌舞伎座】團菊祭五月大歌舞伎(夜の部)

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團菊祭とあってか、それとも父・團十郎の後を受け継ぐ海老蔵が出演ということあってか、今月の昼の部のチケットはどうやらもう、売り切れのようだ。とはいっても、夜の部は不人気(?)らしく、まだチケットも残っている。

今回、私は夜の部を観に行った。一番楽しみにしていたのが、「春興鏡獅子」だ。

しかし、である。前半の小姓・弥生こと菊之助の舞踊は、色っぽくてものすごく魅了されてしまったのだが、胡蝶がなんとも興醒めな演出だった。というのも、魅惑に満ちた二匹の蝶が、なんと「成人」(成虫?)なのである。

DVD「鏡獅子」(主演・5代目坂東玉三郎)に親しんでいた私からすると、胡蝶は「成人」ではなく、子供(子役)こそが似つかわしいと感じる。シネマ歌舞伎「春興鏡獅子」でも、亡き18代目勘三郎が演じた時は、胡蝶は子供だったのだ。

第一、あんな真っ赤な着物を「成人」(「女形」というべきだろうが、果たしてあれが「女形」と言い切れるかどうかも怪しかった)が着ても、野暮にしか見えない。「鏡獅子」ファンからすると、これはなかなかショッキングな「事件」である。

ちなみに、この「鏡獅子」という芝居、なぜ私は好きなのかというと、演出上のコントラストが素晴らしいからである。まず、勇猛な獅子と、可憐な胡蝶という登場人物のコントラスト。そして、手弱女たる弥生の舞い(前半)と、益荒男のような獅子の踊り(後半)という舞踊のコントラスト。こうしたコントラストが良いのだ。そしてあの胡蝶が、小さくて、かわいくて、子供らしさが溢れているからこそ、後半の獅子の踊り(特に毛振り)が大きく映えて見えるのである。

それが今回、「成人」での演出ということなのだが、どうにもこうにも違和感があって、見ていて「なんだかなぁ」という感じだった。

ところで実はもう一つ、残念な演出があって、それが最後の見せ場の「毛振り」だ。この芝居最大のポイントなのだが、菊之助は疲れていたのか(?)、豪快であるはずの毛振りが、どうも豪快ではなかった。毛振りがだんだんと速くなっていって、最後はもう全身全霊で、体を吹っ飛ばすくらいの勢いで振りきって幕を閉じる、という「はず」なのだが、今回の菊之助の毛振り、それがなかったのだ。振りがだんだん速くなる、ということがなく、「常速」のまま幕となってしまった。ここは「安全運転」などやめて、「危険運転」を貫いてほしかった、というのがファンとして想いだ。

さて、批判ばかり書いてしまったが、夜の部にももちろん見どころはある。なんといっても、今回は團菊祭ということで、海老蔵が久々に歌舞伎座に戻ってきた。期待大なのは、やはり海老蔵なのだ。

夜の部が不人気なのは、海老蔵が「幡随長兵衛」に出るからなのかもしれない。が、あの侠客・長兵衛は、海老蔵の「ちょいワル」な雰囲気と本当にピッタリでサマだ。煙管の吸い方も、目を瞑りながら、なにか悟ったのような感じが粋で美しい。そして、これから敵陣に単身で乗り込もうとするところを、女房と息子にとめられるも、それを冷静に、かつ哀愁漂わせながら説得する姿も、思わず男のわたしも見惚れてしまったくらいだ。

「幡随長兵衛」を見ていたのか、それとも「幡随海老蔵」を見ていたのか――そんな心地だった。30代という若さで、あれだけの貫録が出せるからこそ、海老蔵はやっぱり魅力的なのである。