2014/07/22

それを「仕事にする」ということ

なにかを「仕事にする」というのは、その「なにか」とそのなにかの「周辺」に対して、色々と気にしたり配慮したり「しなければならなくなる」ということだと思う。そして、それをきちんと「こなす」ことによって、その対価である金がもらえる、というのが仕事の基本的な「仕組み」である。

この、「しなければならならなくなる」というのが仕事のミソである。「してもいいし、しなくてもいい」あるいは、「~する自由がある」ということではない。つまり、「義務」になる、ということだ。

好きなこと、あるいは趣味を仕事にする(したい)という考えは、誰しも最低一度は持つと思う。かく言うわたしもそうだった。しかし、わたしはそうしなかった。なぜなら、自分の好きなこと、あるいは趣味という領域に、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくなかったからだ。そして持ち込んだら最後、そうした義務が原因で、それを嫌いになってしまうのではないか、と思ったからである。

無論、好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人もたくさんいる。そうなれば理想だし、幸せなことだ。しかし残念ながら、わたしにはそれを実行してみるための具体的なプランというか明確な考えというか、そういうものを持ち合わせていなかった。

だが、それよりも気にしていたのは、さきほども言った通り、「しなければならなくなる」という義務を持ち込みたくない、という点だった。それによって、自分の中の「好きだ」という気持ちを失いたくなかったのである。

早い話、「趣味は趣味、仕事は仕事」と分けて考えよう、と思ったのだ。

趣味である利点は、それに対する自分のスタンスを好き勝手に設定できる、というところである。その出来不出来や巧拙はどうだっていいし、対象である趣味に対して好き勝手な理想や妄想を抱いたっていい。とにかく自由だ。「思う存分、好きなだけ」というスタンスを取れるのが、趣味のいいところである。

一方、「仕事にする」というのは、要するに、こうした利点を手放すということだ。手放す、すなわち「自分の自由にはいかなくなる」という状態を引き受ける。その代わり、その価値を認めた人から対価として金をもらう。それが、なにかを「仕事にする」ということだ。

好きなことや趣味だったことを仕事にして、且つそれで安定した生計を立てている人たちというのは、こうした暗黙の事実に対して覚悟を決めた人たちである。他方(情けないが)、わたしにはそうした覚悟がなかった。というか、ハナから「そんなことになるくらいなら・・・」と思っていた。

こういうことを学校で教えたら、それはそれでひとつの「職業訓練」になるかもしれない。

なにかを「仕事にする」というのは、本当に重たいことだ。ある意味で、それと今後(ほぼ)ずっと「寝食を共にする」ようなことになるのだから。
2014/07/19

【歌舞伎座】七月大歌舞伎(昼の部)

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今月の歌舞伎座はメンツとコンテンツが超豪華だ。海老蔵に、玉三郎に、中車(香川照之)。そして『浪花鑑』の通し狂言である。

というわけで、わたしは2階東の桟敷席でたっぷりと鑑賞させてもらった。できることなら、大向こうもやっちゃいたいくらいの気分だったが、それはよろしくない。だから、我慢して拍手。声援ならぬ“手援”である。

さて感想だが、個人的に見どころだなぁと感じたのは、玉三郎のお辰だ。追っ手から追われ身の磯之丞を守りたい一心で、焼けた鉄弓を顔面に押し付けて、わざと顔を醜くするという場面は、観ていて思わずジーンと来てしまった。他人のために、自らの身体を犠牲にしたのである。しかもその時の義太夫の語りがまた、なんとも味があって、たまらない。

そんなお辰っつぁん、舞台から立ち去ろうと花道を駆けていこうとすると、心配したお梶さん(団七こと海老蔵の奥さん役の人)が、サっと寄ってきて、「でもお辰さん、そんな顔になってしまって、徳兵衛さんに嫌われますまいな?」徳兵衛とは、お辰っつぁんの旦那さまのこと。それに対しお辰っつぁん、「こちの人が好くのはここじゃない。(心臓のあたりをポンと叩いて)ここでござんす!」と言い返す。

かっけえ・・・。ただそれだけだった。そのまま、花道をパァーと駆け足で駆けて行ってしまったお辰さん。かっこよすぎだった。もう、ただただ拍手した。拍手せずにはいられなかった。

お次は、本日一番期待していた市川中車こと香川照之。だが残念なことに、どう頑張っても、彼は「市川中車」ではなく「香川照之」になっていた。海老蔵との絡みの時も、完全に、あの「俳優・香川照之」となってしまっていたように思う。「あれ、これって歌舞伎だよね?」と言いたくなるくらい、中車は「中車」でなくて「香川照之」であった。

このとき感じたのは、テレビで大活躍している人気俳優だからといって、その人が「歌舞伎役者」として歌舞伎を「やれる」かというと、必ずしもそうではないのだな、ということ。無論、香川は「中車」を襲名している以上、「歌舞伎役者」であることは事実だ。しかし、歌舞伎を「やれる」から「歌舞伎役者」として客から認識されるわけで、「歌舞伎役者」として名乗りを上げたから、「歌舞伎役者」として客から認識されるわけではない。わたしには、どうしても彼が「俳優・香川照之」にしか見えなかった。

最後に、気付いたことをひとつ。歌舞伎をきちんと鑑賞するには、相応の体力と精神力が必要だ、ということ。これは毎度実感していたことではあったが、今日の帰り際、近くにいたおばちゃんたちが「歌舞伎って見る方にも体力が必要よね」などと話していたのが、いまでも頭の中に残っている。
2014/07/19

おもしろい人

(他人から見て)おもしろい人、というのは、(他人から見て)おもしろい生き方をしている人のことだと思う。おもしろい生き方をしているから、その人自身がおもしろいのだと思う。

では、おもしろい生き方をする、とはどういうことだろうか?

ここでは、「おもしろい生き方とは、◯◯する生き方だ!」という肯定形で事例を挙げることはせず、あえて否定形を用いて話を進めてみることとする。

「ベタなこと」をしない。

おもしろい生き方をしている人は、いわゆる「ベタなこと」をしていない人だ。つまり、「普通」ではないのである。たとえば、の話であるが(あくまでも「たとえば」である)、「趣味は何ですか?」と聞かれた時に、相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味を言ってきたら、その人はおもしろくない。「ああ、“ベタ”だな」と思ってしまう。

別に、「それ」を趣味に持つことが「悪い」「いけない」とは決して思わない。だが、「おもしろいな」とも思わない。

それはなぜだろうか? 理由は至って単純で、「趣味は何ですか?」と聞いてきた相手の心を“グサリ”と刺さない回答だからである。言い換えれば、極めて“安全な”答えだからである。

無論、何を趣味にしようが、それはその人の自由である。他人がああだこうだと、とやかく言えることではない。そんなものは、とうに分かりきったことだ。しかし、他人から「この人、おもしろいな」と思われる人、別の表現をするならば、他人が「気になってしまう」人、さらに言い方を変えるならば、他人の心に「後味」として残り続ける人、というのは、例外なく「ベタ」でない人であり、「ベタなこと」をしていない人である。

相応の年齢、相応の立場、相応の容姿をした人が、それ相応(そう)な趣味をしているのは、「ベタ」である。「ベタ」は、どこまでいっても「ベタ」でしかない。どこまでいっても「ベタ」でしかないから、その人に「おもしろさ」が感じられないのだ。

「他の人と同じでいようとする」のは、自分で自分を「ベタ」化させることである。それは、自分で自分を「おもしろくなく」させていることと同義である。

「イケメン」になろうとしない。

「イケメン」になっている人は、つまらない。なぜなら、「イケメン」になっている時点で、人を意識してしまっているからだ。

人は、人を意識し始めると、「安全な人」になりやすい。「安全な人」とは、他人を気にするばかり、いちいち自身の行動を自身でチェックして評価し、自らの「カッコ悪いところ」を紡いでおこうとする人のことだ。

つまり、「テイの良い」人になってしまっている、ということだ。「テイの良い」人ということで、それを(カギカッコ付きで)「イケメン」と表現したわけである。

「イケメン」というのは、「見てくれ」が良い。それは、人を意識しているからだ。意識しているから、「見てくれ」を良くなるのは当然である。

が、しかし、そういう人を見ていて「おもしろい生き方をしているな~」と思うことはない。「テイが良い」から、逆に「掴みどころ」(その人を、その人たらしめている“なにか”)がないのだ。一方、「イケメン」の反対に位置する人というのは、「テイ」を気にしていないから、色々なことに手を出す。もちろん、色々やって失敗もしているからカッコ悪いのだが、決して「安全な人」であろうとはしない。「安全な人」でないから、「掴みどころ」がいっぱいあるのだ。だから、「おもしろい」のである。

満足していない。

もちろん、いい意味で「満足していない」ということだ。いい意味で「満足していない」から、常に「おもしろい」ものを探し続けているのである。それも、懲りずにずっとだ。そうやってずっと探し続けているからこそ、というよりも、探している過程で「おもしろい」ものと遭遇するからこそ、その人はほぼ自動的に「おもしろい生き方をしている」ことになるのである。

逆に言えば、「満足している」のは、「おもしろくない」人なのだ。「満足している」というのは、「現状で足を留めている」ということだ。動かない人で、おもしろい人などひとりもいない。

「おもしろい」ものが、自分の元へ自ら足を運んできてくれる、なんてことはない。自分から「ヤツら」を探しに行かない限り、「ヤツら」は決して見つからない。「おもしろい」とは、そういう性質のものである。

以上、「おもしろい人」についての小論である。
2014/07/16

「分析」されることが大好きな日本人 ― 『日本辺境論』

日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
(2009/11)
内田 樹

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とりあえず、手近にある新刊で読みたい思う本がなくなった。ということで、いつものごとく、既刊を振り返ることにしよう。

前から気にはなっていたが、読んでいなかった本のひとつ――それが、この『日本辺境論』だ。なぜこれを読もうと思ったのかというと、なんでも、丸山眞男の論考が本書と絡んでいるとのことだからである。それで興味をもった次第。

さて、読んでいて早々、気になる箇所にぶつかったのでそこを引用する。

ご存じのように、「日本文化論」は大量に書かれています。世界的に観ても、自国文化論の類がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的でしょう。「こんなに日本文化論が好きなのは日本人だけである」とよく言われます。それは本当です。その理由は実は簡単なんです。私たちはどれほどすぐれた日本文化論を読んでも、すぐに忘れて、次の日本文化論に飛びついてしまうからです。(p.22)

たしかに、我が国では掃いて捨てるほどの「日本文化論」がある。表現されるメディアは問わず、学術的考察をした本から、一般人の書くブログまで。もちろん、当ブログも例外ではない(過去にその類の記事は結構書いてきた)。

これと形が似た現象がある。それが、「占い」だ。我が国では、様々な形の占いが、様々なメディアに登場している。性格占い、血液型占い、運勢占い、恋愛占い、姓名占い、などなど。そういえば、昨今は就活時にも「自己分析」とかいう(一歩間違えれば)占いくさいことをやっているではないか。

我が国でいう「占い」とは、だいたいの場合、「分析」と言い換えても差支えがないように思う。日本文化論も、結局は日本という国の「分析」である。この国(の人たち)は、自らを「分析」することが大好きなのだ。では、なぜ大好きなのか。それは、分析された時の、あの「あっ、それ、当たってるかも」という、“あの感覚”が快感なのではないだろうか。とりあえず、他者から「あなたは、◯◯なところがあるのではないですか?」と言われ、それに対して思い当たるフシがあった時、その「合致した」という感覚が、楽しいからではないだろうか。

こんなことを考えつつ、さらに本書を読み進めていくと、また気になる箇所に遭遇する。

私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません(あら、いきなり結論を書いてしまいました)。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。(p.23)

これはおもしろい考えだ。「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰する」ことが、われわれの「宿命」なのだそうである。そしてそれは、「「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在し」ないのだという。

ところで、これもさっきの「占い」の話と形が似ていないだろうか。「占い」も結局は、「問い」から始まる。「自分ってどんな性格なんだろう?」とか「自分ってどんな人生を歩むことになりそうなのか?」とか、そんな「問い」から「占い」が始まることが多い。

だが、そんな問いから始まった占いも、時間が経つと、われわれはすぐに占われた結果を忘れる。忘れるからこそ、また占いに目が行く。そしてまた忘れる――我が国における「占い」とは、この繰り返しであり、だからこんなにも、ありとあらゆるところで「占い」が何度も何度も登場する、いや、「回帰」するのではないか。それも「組織的」に、である。

わたしが思うに、要は日本文化論というのは、ある種の「占い」なのだ。日本文化論というのは、おかしなことに、「日本文化とはなにか?」という問いに対して、きっちりとした裏付けのある回答を出すことに主眼が置かれるのではない。ただただ「日本文化とはなにか?」という問いに対し、日本(あるいは日本人)に対する「印象」を、ただただ言葉にしてみて、「ああ、合ってる合ってる」とか「たしかに、そうかも」とか「それ、すごく言えてる」といったような、その日本文化論とその読者との間に起きた、「合致感」を楽しむために、存在しているようなものなのだと思う。

だから当然、日本文化論というジャンルにおいて、論考の「堆積」という現象は起こりにくい。その代わり、日本文化論という空間において、いくつもの論が、ただただ同一平面上に並んでいるだけなのではないか。「堆積」したものは、その性質上、「下から上へ」と「登っていく」ことで、当該の現象を把握され得るが、同一平面上に併存している場合、それはただAという論に行ったり、Bという論に行ったり、Cという論に行ったり、はたまた戻ってAに行ったり・・・という「回帰性」が拭い去れないのである。

上記、引用した2箇所は、「日本人はきょろきょろする」という項から引っ張ってきたものだが、そう、この「回帰」という言葉は、言い換えるなら「きょろきょろする」というのとほとんど同義なのである。

最近、「リア充」とは別に、「キョロ充」なる言葉も人口に膾炙していて、そういう人をバカにするのが、ネット上(特に2ch)では通例になっているが、いままで述べてきたとおり、日本人からこうした「回帰性」が取り除かれない以上、われわれは(ほとんど)みな「キョロ充」であると言っていい。要するに、きょろきょろと辺りを見回して、自分と近しい者と一緒になろうとするのは、「日本人」である以上、もはや「そんなの、当たり前じゃないか」程度の行動だと思う。

では、なぜ「キョロ充」が蔑視の言葉として、こんなにも広まっているのか? それはおそらく、「キョロ充」を蔑視する者の中にある「キョロ充的側面」を、他者にも見出した時、いわゆる「同族嫌悪」なるものに襲われるからではないだろうか。「オレ、こんなヤツと同じところがあるなんてイヤだ」という強い思いは、その他人を否定することで、その他人と同じものを持つ自分の「嫌いなところ」を、「とりあえず」解消したことになるからではないだろうか(だが、実際は解消できていないのだが)。

さて、この「回帰」という言葉、これをもっと「言い得て妙」に仕立てているのが、次の箇所だ。

(日本文化論は)数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文々が別のより新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある。より、正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある。(p.23-24)

「変化の仕方が変化しない」――これは本当にすごい見方だ。何せ、何百年もこの国において支配的な「無常観」という一思想が、唯一(といっていいほど)見落としていた「変化の仕方が変化しない」という事実を、本書が「変化しないものもあるんだよ」と、こんなにも分かりやすい言葉で指摘してしまっているのだから。

「変化の仕方が変化しない」というと、私の中ですぐに思い起こされるのが、「◯◯ブーム」なる現象である。我が国では、本当にまあ、ありとあらゆるところで「ブーム」が起きる。なんだかよくわからない、47都道府県それぞれのオリジナルキャラクターブームとか、「理系の女性(山登りする女性、森に出かける女性、歴史好きの女性、でもなんでもいい)が、いま熱い!」的なブーム、そしてちょっと前には、「漢字ブーム」がどうのこうのとか(そもそも、「漢字」が「ブーム」っていうのがよくわかないが)、もはや「ブーム」という一過性ではなくなった「黒縁メガネ」ブームとか、とにかく色々と「ブーム」が起きる。この国では。

しかし、唐突に起きたように見えるこれらのブームも、よくよく観察してみれば、「変化の仕方が変化しない」ことに気がつく。たとえば、さっき述べたキャラクターブームも、もとをただせば「アニメ的」なものを愛でる文化というか国柄というか、そういうものが以前から長く続いていて、それがただ「都道府県のオリジナルキャラクター」という「別の形」として現れただけであって、「アニメ的」なものから「アニメ的じゃない」ものを愛でるようになった、というような変化はしていない。つまり、「変化の仕方は変化し」ていないのである。

「◯◯な女性」ブームについても、そもそも「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」という前提みたいなものがまずあって(というか作って)、そこから「「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」からブームになる」という論理を導き出すことで、変化(ブーム)を起こすという「仕方」も、「◯◯な女性」ブームの「変化」の「仕方」としては、ずっと変化していない。

誤解をおそれずに要約するならば、我が国での「ブーム」の起こり方とは、まず「◯◯というのは今までになかった!」といったような論理を(真偽の程などいざ知らず)、あたかも「(新)事実」であるかのように、それも唐突に大衆の前に持ち出し、その後に「だからすごい!」「乗り遅れると損をする!」「だからみんなで◯◯しよう!」といった結論を唱える、といったものなのだ。で、こうした「変化」(ブーム)の「仕方」(起こり方)は、もうずっと「変化」していない。というか、本当にブームかどうかなんて別にどうでもよくて、まず「◯◯はブームである」という宣言を(大きなメディアが)すること自体が、ひとつの「ブーム」であるといったところだろうか。

こうした「変化の仕方が変化しない」という「回帰性」そのものについて、良い・悪いを言うのは簡単なことだが、それらを抜きにして、こうした現象が今までにほとんど省みられることがなかったという事実があるのは、(さきほども述べたように)「分析」好きな国民性であるだけに、なんとも「皮肉」なことだったと思う。結局のところ、「分析」した“結果”や“方法”がどれだけ秀逸であるかを確認することよりも、「分析」することそのものや、「分析」した結果をみんなで楽しみ、共感することの方に、どうやら重きが置かれたらしい。

――話が長くなったので、ここまで。
2014/07/15

「逃げる」ことは、悪いことではない。

「嫌なことから逃げてはいけない」とは、幼いころからよく言われ、またよく聞く言葉だ。世間では、逃げないこと=善、逃げること=悪、という等式が普遍的価値観のように流通している。某アニメの主人公が幾度も放つ「逃げちゃダメだ」という有名なセリフは、われわれのそんな一般的価値観を映し出しているように思える。

しかし、冷静に考えると、嫌なこと、つらいことから「逃げてはいけない」「逃げられない」状況に自分を置いておく、というのは必ずしも当人にとって精神的成長につながるといったプラスに働くことばかりではない。いざというときに、「逃げられる場所」=安心できる場所や拠り所がないというのは、本当のところ、かなり危険なのではないかと思う。

よく、「日本人は真面目で勤勉だ」などというセリフを聞くが、これは見方を変えれば「“逃げる”のがヘタだ」とも受け取れるのではないか。一般的に、真面目で勤勉なタイプの人ほど、禁欲的でキツいことを「修行」などと無理に肯定的に捉えてしまいがちで、そういう人は「逃げる」ことを無条件で指弾する。だから、「逃げる」ことがヘタになるのは、言うまでもない。

いまや当たり前のように耳にするようになった、社会人のうつ病は、こうした「逃げ方の不得手」から、だったり、「逃げられる場所」の確保不能という状況から来ていたりすることが大いに考えられる。

仕事を抱え込みすぎて(振られすぎて)、納期の呪縛から逃げられず、うつ病になる。あるいは、周囲の人間が、ろくに仕事のサポートをしてくれず、頼れる人がいなくてうつ病になる、といった状況だ。いずれの場合も、自分自身や周囲において「嫌になったら、逃げていい」という考え方が成り立っていないことによっていたりする。

原則として、心身に危険(例えば、病気になりそうな予感がしたり、病気の状態がずっと続いている、など)を感じたら、堂々と逃げていい。あるいは、少しでもいいから自分の悩みを聞いてくれそうな上司に、こっそりと心の内を打ち明ける、などの対処が必要だ。こうした、心身にかかる過度の負荷から「逃げる」というのは、今の時代、ひとつの「教養」である。

「連日残業で疲れたので、今日はすぐに上がる」というのも、見方を変えれば、自分の体を危険から「逃してやる」行為だと取れるだろう。こういう、ちょっとした「逃げ」でもいい。とにかく「逃げる」ことを悪と決め込んだり、避けたりしないことだ。

そういう意味で、会社を休んで趣味にひたすら没頭する、あるいは(他人に迷惑をかけない程度で)一人で楽しい妄想に浸る、というのも、いい意味で「現実逃避」となるから、もっと推奨されてよいと思う。常に向き合っていなければならない「現実」に対し、何らかの「危険」を感じるからこそ、われわれはそれから「逃避」するのだ。なにかと悪い意味で使われることの多い「現実逃避」という言葉も、捉え方を変えれば、自分の身を守る「対処法」ともなるのである。

なにかと病みやすい現代において、「逃げる」ことの優位性はもっと考慮されていいのではないだろうか。
2014/07/11

「深夜ラジオ」的な個人ブログ

ここ最近、何も書いていなかったので、以前からなんとなく「ブログ」というものに対して感じていたことを書こうと思う(とはいっても、これからする話は、正直なところ「わかる人には本当によくわかるが、分からない人にはまったくピンと来ない話」になると思う)。

いい感じの「個人ブログ」(全然有名でもなんでもない、ごく普通の一般人が書いたブログ)というのは、どことなく「深夜ラジオ」的なものを感じる。

なにかこう、ダラダラと話をするのだが、決してつまらなくない。むしろ、それを聞き終わった後、妙にその後も話の中身が頭の片隅にあったりする――いい感じの「個人ブログ」には、そんな香りが、僕にはするのだ。

無論、すべての個人ブログに対してそう感じるわけではない。むしろ、そう感じる個人ブログは多くないだろう。だが、個人ブログの中で、なにか独特の「味」があるようなブログというのは、漏れなく「深夜ラジオ」感を漂わせている。

「深夜ラジオ」感を漂わせているためか、そういうブログは、どうも、しんとした雰囲気の中で一人静かに読んでみたくなる気がする。決して、喧騒な街中とか賑やかなカフェとかで読もうとは思わない。そう、夜も更けてきた頃、部屋でひとりになったとき、読みたくなる。

僕は最近、このブログをそんな雰囲気のブログにしたいと感じている。決して目立つことなく、人入りが少ないものの、このブログになんとなく気が惹かれる人たちだけが、個々人で僕の文章をひっそりと読んでもらって、お互い、感想とか意見とかも共有しない、ただただ己が感じたこと、思ったことだけを、己の中だけにとどめておいて、ふとした時に、まあちょっと他人に話してみようかなぐらいの、そんなものを提供できるような「深夜ラジオ」的なブログにしたいと思っている。

というのも、よくゴールデンタイムのテレビとかで耳にする「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」的なノリが、なんか嫌なのだ。偽善臭さと胡散臭さを感じるのは言うまでもなく、なぜ「みんな」で「共」にしなければならないのか、という点が、よくわからないし、納得できないからだ。

何かを観たり読んだりして、それに対しどんな感想を持とうが、それはその人の勝手である。「感想」というのは、安易に他人と「共」にしてしまうと、「感想」ではなくなると思う。それはもう、「みんながそう感じているのだから、そう感じない人がおかしい」みたいな、アホらしくて意味のない一体感ではないか。

話は逸れるが(もうすでに逸れてはいるが)、いまの若い人たちがすごく恐れているもののひとつに「ひとりぼっちになること」あるいは「浮くこと」が挙げられる。これは、突き詰めて考えれば、「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」という「ゴールデンタイムのテレビ」的なノリに合わせられないヤツは存在を認めない、許さないという暗黙の雰囲気が横たわっているからだろう。

一方、「深夜ラジオ」的なノリは、その正反対を行く。「勝手に個々人で楽しめばいい」「ワイワイ騒がず、ひっそりと」「大勢で、よりも、むしろひとりで、を推奨」が「深夜ラジオ」的なノリだ。私は好きだ、こういうの。なんというか、「いい大人な感じ」がしてたまらない。

新規にブログを立ち上げると、どうしてもアクセス数が気になって、なんかこう、意味もなくハイな感じの文体で、意味のない記事を乱発したりしてしまうかもしれないが、どうせそんなの、後でボロが出るのだ。後で読み返してみたとき、「あれ、なんか違うな」という感じに襲われるだろう。

そういう人には、無理せず、「深夜ラジオ」的なブログを目指してみたらどうだろう、と言いたい。人入りは少ないし、パッとしないから一見つまらなく見えてしまうが、やっていく内にだんだん楽しくなると思う。

いい感じの個人ブログと、深夜ラジオの共通点は、どちらも「ローカル感、マイナー感の“積み重ね”がある」という点に尽きる。大衆受けは決してせずとも、でもネタをちょっとずつちょっとずつ積み重ねてきたから、それがいい感じに醸しだされている、といった感じだろうか。だから、どちらも何とも言えない「魅力」があるのだ。

「深夜ラジオ」的なブログ――これが、個人ブログの理想だと思う。