2014/12/28

大いに「無駄遣い」をしよう ― 『迷ったら、二つとも買え! 』

迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)迷ったら、二つとも買え! シマジ流 無駄遣いのススメ (朝日新書)
(2013/06/13)
島地勝彦

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お金の貯め方、稼ぎ方の本はゴマンとあるが、お金の「遣い方」の本というのは、ほとんど見かけない。本書は、その数少ない「お金の遣い方」本の一つだ。

とはいっても、本書は具体的なテクニックを伝授してくれるわけではない。いわば、「心得帖」のようなものだ。

まず、目次が面白い。第1章「「無駄遣い」のススメ」、第2章「「無駄遣い」はセンスを磨く」、第3章「「無駄遣い」は教養を高める」等々。ちなみに、ここでいう「無駄遣い」とは、一見すると「何でそんな物に?」と思えるようなことに大金をはたくことを指している。それは、「人生の肥やしとなる無駄遣い」のことである。パチンコやギャンブルなどに金を費やす「無駄遣い」とは違うのだ。

では、「人生の肥やしとなる無駄遣い」とは何だろうか?

著者はその点について、明確な定義付けはしていないようだが、本書を読み進めていくと、ひとつの傾向が見えてくる。それは「大金をはたいて心に残る体験を買うこと」のようだ。

「ある物やあるサービスを受ける時、それが高くても、後々までその余韻に浸れる体験ができるのであれば、それは絶対金を惜しむな」が、著者のモットーなのだろう。そして、こうしたモットーをもとに金を遣って生きていくことが、己の心を豊かにしてくれる――私も大賛成である。仮に買って失敗したとしても、それは「次につなげるための“授業料”を払ったんだ」と考えてしまえば良いのだ。

その一方で、吝嗇な人間というのも存在する。金が懐に入ったとたん、すぐにその大部分を貯金に回し、後はなるべく出費を抑えた生活をする者のことだ。本当に必要な時でさえも、金を出し惜しみする。

私の周りにもそのような人種がいるが、見ていて内心、「コイツには近づきたくないな」と思ってしまう。ひたすら金を得たら貯めこむ人間に、私はどうも魅力を感じない。

なぜだろう? 一つは、いわゆる「金の亡者」に見えるからだが、もう一つは「この人の中には、“面白い話の引き出し”が少ないのでは?」と感じるからだ。金を遣えば、様々な面白い体験ができるというのに、それを放棄してひたすら金ばかり集める姿は、醜悪にしか映らない。

無論、使う額は自分の身の丈に合った額を使うというのが大前提である。これは著者も同じことを本書で述べていた。しかし、吝嗇家はそれすらもしない。「金を遣う」ことは、「金を手放す」ことだと考えているのだろうが、それは違う。「人生の肥やしとなる無駄遣い」は、むしろ「金に命を吹き込んであげる」ことに等しい。いわゆる「生きた金の遣い方」というヤツだ。生きた金は必ず、それを使った自分のもとに「生きた形」で返ってくる。

今は「節約することが当たり前」のような時代だ。だが、節約ばかりしたところで、何が面白いのだろうか? 節約のし過ぎは、生きる活力も、自分の心の糧も節約してしまうハメになる。それでは、何のために金を貯めているのか分からない。「老後のため」などという漠然とした思いから貯めているようなら、それは金を「飼い殺し」にしているようなものではないか。そのような人は、その「老後」が来たとしても、「老後のため」などといって金を貯め続けそうで怖い。

特に若い内は、どんどん金を使った方が良い。老人と違って、金で買った素晴らしい体験をグッと吸収しやすいし、何よりも生きた金の遣い方を身につけることができる。これが年を取ってからだと、何かと億劫になるし、新しいことに対して保守的になっている可能性も高い。これだけならまだしも、最悪、「何に」遣ったらいいのか分からないなどという状態に至っているかもしれないのだ。

ちなみに以前、『カネ遣いという教養』という本を紹介したが、こちらよりも本書の方が読んでいて納得できることが多かったし、面白かった。
2014/12/21

むしろ「ありのままでない」を大事にしたい ― 『アナと雪の女王』

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(2014/07/16)
クリステン・ベル、イディナ・メンゼル 他

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これだけブームになったのだから、やはり見てみたい気持ちがあって、手にとった。

この映画のテーマは、ずばり「ありのまま」だそうなので、私もそれに倣い、「ありのまま」の感想を言おう。面白かった。

実はありのままに言うと、私はディズニー全般が好きではない。何というか、あのワチャワチャ感がどうもダメなのだ。それでもこの映画を手にとったのは、世間がこの映画でこれだけ盛り上がったからだ。最盛期、その動向を横目で見ながらも、「いや、きっと面白いのだろう。ここはひとつ、私もありのままで行こう」と思い立ち、(特段好きでもない)ディズニーワールドに浸ってみたのだ。

それはさておき、この映画には先程の「ありのまま」以外にも、これと似たワードがチラついている。例えば、「真実の◯◯」とか「本当の◯◯」とか、である。「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」etc etc。こういう言葉を耳にすると、どうも私はボリボリ頭や背中を掻きたくなる。何というか、こう、ボリボリボリボリしたくなっちゃうのだ。

なぜ、ボリボリしたくなっちゃうのかというと、なんか胡散臭いからである。「ん~、なんだかなぁ~」という気分になり、気が付くと体をボリボリしている、というわけだ。

「真実の愛」「本当の気持ち」「ありのままの自分」といった言葉は、ややもすれば、ただただその言葉だけで終わるような代物だったりするのではないだろうか?

そして、「真実の~」「本当の~」「ありのままの~」と感じているものは案外、自分の「後付け」で、「とりあえず」「そのように認識した」ものではないか?とも思う。

私が映画を見ていて気になったのが以下の展開だ。王女・アナが、最初に出会ったイケメン王子・ハンスを好きになり、彼女はその気持ちを「真実の愛」と思い込む。ところが、物語が進んでいくにつれ、彼女の姉のエルサを一緒に探してくれたフツメン・クリストフのことを好きになり、最後は彼とキスをする。最初出会った時は、別に何とも思われてはいなかったであろう(むしろ、どこか煙たがられていたような)男を、である。そして物語の最後の方で、クリストフとの関係が「真実の愛」ということになっているのだ。

結局、アナにとって「真実の愛」は、「最初から」どこかに「あった」ものではなく、「これが真実の愛“だった”」という、いわば「後付け」のような認識によって、出てきたものだったのである。

――という解釈をしてみて、そこから直ちに教訓めいたものを引き出そうとするのは、野暮ったい。それでもあえて引き出してみるとするならば、それは「「本当の~」とか「ありのままの~」とかいうのにこだわっちゃうのは、危ないんじゃないの?」といったところだろうか。それが特に、「本当の私」とか「ありのままの自分」などといった、モヤモヤ感たっぷりなものになればなるほど、である。

そう考えると、「本当」とか「真実」とか「ありのまま」というのは、「後付け」のような認識から出てきたりするから、案外いい加減なものなのかもしれない。それは、「天職」(=「本当にやりたい仕事」とでも言い換えられるだろうか)とやらを探していた人が、最初は好きでもなかった仕事を色々やっていく内に、その中から「そうか、これが自分の天職だったんだ!」などという感覚を「勝手に」感じ取るのに似ている。これだって要は「後付け」である。

でも、別にいい加減でいいのだと思う。誰だって、最初は「本当」というものが、「本当でないもの」に先行していると考えたくなるのだ。そしてその内、「本当」というものは、「本当でないもの」に先行しているのではなく、実は「本当でない」と考えていたものの中に、自分の思う「本当」があったと「思い込む」ようになるのだ。「思い込む」、すなわち「後付けでそのように解釈する」のである。

だから、「ありのままの自分」とやらも、案外、「ありのままでない自分」の中にあったりするんじゃないか。そう考えると、「ありのままでない自分」こそ大事にしてやらないと、「ありのままの自分」を探していた人は、「ありのままの自分」を見つけられないかもしれない。