2013/02/07

「みんな」という“暴力” ― 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 [DVD]
(2009/02/27)
坂井真紀、ARATA 他

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レンタルショップで発見。

私は、あの有名な「あさま山荘事件」をリアルタイムで見ていた人間ではない。だから当時、世間を大きくにぎわせたこの事件が、どんなものだったかを知りたいという欲求から、レンタルしてみた。



映画はだいたい3時間。

最初の30分ぐらいまでは、「日本の学生運動とは何だったのか?」という説明。

そこからおおよそ2時間、いわゆる「連合赤軍」(あさま山荘事件を起こした学生主体による軍隊)がどのようにでき上がっていったのか、どんなことをしていたのかという描写が続く。ここがこの映画のメイン。

そして最後の30分。あさま山荘での連合赤軍と警察との攻防戦。学生たちは結局逮捕される。


そして感想は?というと、いつもどおり、問答無用ですごくおもしろかった

さっきいった2時間の部分で、あの事件を起こすまでに、連合赤軍がどんなことをしていたのかが、映画のなかに出てくるのだが、一言でその内容をいってしまえば「リンチ・オンリー」である。そしてそれがすごく「イヤらしい」のだ。

まず、連合赤軍のトップ2人(森恒夫と永田洋子)が、「共産主義化」というのができていない軍のメンバーを見つける。

共産主義化――かなり簡単にいうと、連合赤軍の「考え方」に染まることだ。この「共産主義化」が“徹底”されていないヤツは、トップにイジられたり、ほかのメンバーからトップに密告されたりするのだ。

そして、吊るし上げられた者は「総括」という名のもと、メンバー全員から殴られ、蹴られ、引っ叩かれる。そして、最後は死んでしまう(男女問わず、殴打されたあとの顔がグロかった)。

それで、こうしたリンチのなにが「イヤらしい」のかというと、リンチそのものが徐々に「自己目的化」していくところ。日本に「革命」を起こすという、軍の本来の目的がだんだんと遠のいていき、目的のための「手段」にすぎなかった「非・共産主義者」へのリンチが、「真の目的」のようになっていくのである。

そしてさらに「イヤらしい」のが、メンバー全員が互いに「非・共産主義者」でないか、監視しあっているということ。べつに誰からも「監視しろ」とは命令されていないにもかかわらず、だ。


ところで、こういう状況、つまり、


1:「恐怖政治」が組織内で自己目的化していくこと。

2:誰かから命令されたわけでもないのに、メンバー全員がお互いを怪しい者でないかどうか監視しあうこと。


というのは、なにかこう、日本社会において全体的に見られることなんじゃないのか、と私は思う。

こういう構造の「イヤらしさ」は、最初、「お上」に当たるような人が「恐怖政治」をやっていたのに、それをいつしか「みんな」が「みんな」にやるようになってしまっている点だ。

たぶんこうやって、いわゆる「みんないっしょじゃないといけない空気」みたいなものが蔓延し始めるのだろう。しかも不幸なことに、こうした「束縛感」をそもそも作ったのは「お上」なのだ、ということに、もうこうなってしまった時点で誰も「気づけない」のだ。

矢印を使って言い直すと、


「お上」が「恐怖政治」を始める。

「みんな」がそれを恐れる。

「お上」の怒りを買う者がでてこないか、「みんな」が「みんな」を相互に監視しはじめる(みんな恐怖を味わいたくないし、恐怖政治の現場にも立ちあいたくないから)。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が徐々につくられていく。

「みんな」が「みんな」を相互に監視しあっているから、この「みんないっしょじゃないといけない空気」を壊した者は、「みんな」から制裁される。

「みんないっしょじゃないといけない空気」が、より「強化」される。

こうして「お上」による「恐怖政治」は、いつの間にか「みんな」による「恐怖政治」へとすりかわっていく。



だいたい、こんな感じだろうか。

そう考えると、この映画の中で連合赤軍がやったことというのは、僕たちの日常のなかにもそれと似たようなことが見られるのではないか、と感じる。つまり、こうした事例というのは、連合赤軍だけの問題ではないと思うのだ。

殴る蹴るの肉体的な暴力ではない、「恐怖」という精神的な暴力。そしてそれを引き起こしているのが「お上」だけではなく、「みんな」であるということ――つまり、「みんな」という存在も、「みんないっしょ」という「空気」も、ひとつの「暴力」たりえる、ということだ。

ちなみに映画では、こうしたリンチされるシーンが、ほかのシーンよりも圧倒的に多く描かれている。もしかしたら、若松孝二監督は、こういうシーンを多く撮ることで、「みんな」という「罠」がいかに根の深いものかを、表現しようとしたのかもしれない。

そういう意味で、すごく示唆に富む映画だった。
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