2013/02/11

「イケメン」は「捏造」されている ― 『イメージ』

イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)イメージ: 視覚とメディア (ちくま学芸文庫)
(2013/01/09)
ジョン バージャー

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昨年の12月、出版された日にすぐこの本を買った。
いつか感想を書こうと思っていたのだが、ずっと後回しになってしまったので、今日書こうと思う。

翻訳者のあとがきと、ネットで調べた情報によると、この本は、その手の業界内ではかなり有名なものらしい。初版(原書)が1972年で、以来ずっと版を重ねているベストセラーだという。



ところで、どんなことを論じている本なのか?


一言でいうと「人間の“見る”という行為は、われわれの意識しない、いろいろなものから“制約”を受けているのだ」である。

われわれは、街中にある商品とか広告とか、テレビ番組で流されているもの、ネット上で見る動画など、そういったありとあらゆるものを、「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」のである、というのだ。このことを、著者は有名な美術絵画から、エロ、グロ、ナンセンスな広告までを例に挙げながら説明している。

ものを「自由に見ている」ようで、実は「自由に見ていない」例をひとつ挙げてみると、たとえば「美術館の中にある作品」がそれだ。

われわれは、「美術館に飾られている作品は、どれも“芸術”である」と無意識に思っている。いや、「信じ込まされている」といったほうが正しいかもしれない。



こんな思考実験をしてみよう。

仮に、わたしが「現代アート好きな一介の人間」だとする。そこで、新進気鋭の若手芸術家たちによる現代アートが、たくさん飾られた美術館に行ったとする。しかしそのなかに、何枚かはまったくのド素人の描いた絵が掲げられてある。

そして、わたしがそれらド素人の絵を見たとする。で、たぶん、わたしはこう感じるだろう――「おお、これが“現代アート”というものか、すごいなあ(でも、正直なんかよくわからないけど、でもきっとすごいんだろうなあ)」と。

ここでもし、そのときわたしが見た絵が、美術館でもなんでもない、「ふつうの場所」にあったら、今度はたぶん、こんなふうに感じるだろう――「えっ、なにこれ? 変な絵だ。ぜんぜん美しくないな」と。


つまり、である。

ものを「見る」という行為は、そのものがある「場所」であったり、そのものを見るために必要な「装置」(美術館も、ものを「美しく感じさせる」という意味では、一種の「装置」だ)であったりによって、カンタンに「変形」されてしまっている(あるいは、「歪められている」)、ということだ。しかも、われわれがまったく気づかぬうちに、である。



――なるほど。確かにそのとおりかもしれない。自分の「見る」という動作が、「場所」にかぎらず、「常識」だの「歴史」だの「知識」だのに「制約」されている、という意見は、的を射ていると思う。

ところで、この意見でピンと来たことがひとつある。近頃のテレビで頻繁に耳にする「イケメンの◯◯さん」とかいう宣伝だ。もしかしたらこれも、テレビという「装置」に、「見る」という動作を制約されて成り立っていることなんじゃないだろうか?

テレビやネットで頻繁に、「“イケメン俳優の”◯◯さん」とアナウンスされれば、それまではなんか「イケメン」に見えなかった人も、次第に「イケメン化」していく気がするのだ。べつに誰とは言わないが、わたしからしてみれば「う~ん、この人、本当に“イケメン”か?」と言いたくなる有名人が、イケメン扱いされていたりするのである。

これは、わたしがイケメンじゃないから嫉妬している、ということではなく、「どうがんばっても」「ひいき目に見ても」“イケメン”とは言いがたい人が、事実、「イケメン」ということになっているのだ。



これだけじゃない。ほかにもたとえば、メンズのヘアスタイルを紹介したムックを見ていると、「モデル」とは言いがたい容姿の人が、なぜかモデルをやっていたりするのである(どういう事情なのかは知らないが)。しかし、なんか見ているうちに、だんだんと「ああ、でもたしかに、イケメン(?)かもなあ……」とも思えてきたりする。

それはもしかすると、そのモデルさんの「整えられた髪型」や「ヘアスタイルのムック」、加えてそこに載っている人たちが、みな「読者“モデル”」であるという「前提」などによって、わたしの「見る」という行為が、無意識のうちに「歪め」られているから、かもしれない(きっとそうだ、きっとそうに違いない)。

これは逆に考えれば、「“見る”という行為は、カンタンに“歪める”ことが可能だ」ということでもある。事実、最近は「雰囲気イケメン」という言葉があって、顔はイマイチでも、その人の雰囲気を「イケメンな感じ」風にすれば、不思議と、しかもだんだんと「イケメン」に見えてくる、なんてことを説く記事があったりするくらいだ。それもお手軽な方法で実行できるのである。だから、ボクもその気になってガンバれば……



――それはともかくとして、「見る」という行為について考え直してみた本書には、一読の価値がある。多少難しいところもあるが、予備知識がないと読めない、というものではない。スラスラ読めてしまう本だ。

ちなみに、この本に出てくる「ものを見ること」について考え方というのは、いまや人文学では主流となっている。難しくいうと、「視覚表象論」とか「文化表象論」とか、そんなジャンルで確立している。で、わたしは本書の次に、『視覚論』(ハル・フォスター編/平凡社ライブラリー)を読んでみようと思っている。



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