2013/02/16

「ヌード写真」を哲学する ― 『ヌード写真』

ヌード写真 (岩波新書)ヌード写真 (岩波新書)
(1992/01/21)
多木 浩二

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少々、いかがわしいタイトルの新書だが、中身はべつにいかがわしくない。岩波が出版しているから、内容は学術的論考である。



著者の多木浩二は、ヌード写真に、まずこんな問いを投げかける。


「なぜ、ヌード写真はこんなにも過剰に氾濫しているのか?」
「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」



この2つの問いを考えるため、多木ははじめに、ヌード写真の成立過程を振り返っている。



ヌード写真が成立するためには、当たり前だが、まずは写真機がなくてはならない。その先陣を切ったのが、ダゲレオタイプの写真だという。ダゲレオタイプの写真というのは、いまの写真と違い、粗悪で現像にも時間がかかる。

しかし、それまで「写真」というものを知らなかった人たちは、写真のもつリアリティや精巧さに大きく魅了された。しかも、現像に時間がかかるとはいえ、絵画とは比較にならないくらい、大量に複写することが可能である。これにより、秘密裏にではあるが、ヌード写真が徐々に出回るようになった

ところで、ヌード写真に写っているのは、その大半が女である。なぜ、男ではなく女なのか?それは多くの女たちが、「性的な身体」を売春でもって「売り物」としてきた、という長い性愛の歴史や、それによってでき上がった社会制度に由来する。

「売り物」としての身体は、主体にはなりえない。常に客体的な存在だ。このことが、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造をつくる結果となった。そしてこの対立構造は、そのまま「ヌード写真」という領域にも及んだのである。ここに、それまで延々と続いてきた、男女間の支配/被支配の関係が色濃く反映されている。



しかし、当初は秘密裏に出回っていたヌード写真が、なぜ現代では大量に出回るようになったのか?その謎を解くカギが「女というイメージ」にあると多木は言う。

ただの「女」ではない。そうではなく、「女というイメージ」である。つまり、実体ではなく虚構や妄想、ファンタジーとでもいうべきもの――そういった「魔力」が、ヌード写真が大量に出回るためのキッカケをつくったのである。

「女というイメージ」は、必ずしも現実を忠実に反映したものではない。むしろ、しばしば「誤解」に富んだものでさえある。それは、男たちの「理想の女像」とでも言えるものだ。20世紀は、様々なメディアが発達した時代だった。

こうしたメディア(その中心が成人男性向けの雑誌『ペントハウス』や『プレイボーイ』など)を通して、「女というイメージ」が大量に出回るようになったのである。

つまり、男たちは実体としての「女」に欲望を抱いたのではなく、イメージとしての「女」に欲望を抱いたのである。この「女というイメージ」は、あまりにも強烈なものであったから、男たちからしてみれば実体以上に「現実」的なもののように感じられた。

こうした実感を支えることができたのは「写真」だからであって、「絵画」だからではない。絵画は、誰もがそれを虚構であると見抜ける。しかし、「写真」は違う。「実体」であるかのように思える。しかし、そこに写された女は、あくまでも男の理想像にそって意図的につくられた、イメージとしての「女」である。必ずしも実体としての「女」ではないのだ。



多木はこう述べる(太字はわたし)。

こうしてイメージの上で性的な現象がよくもあしくも生起してしまうのである。このイメージの世界こそ、性の政治学が現に実践されている場であり、それが現実の人間の存在の仕方にも影響してくるのである。ヌード写真を性の政治学のテクストとして読むことができる理由でもある。(p.116)

ここにおいて、多木の当初の問い、すなわち「この、ヌード写真の過剰な氾濫をどのように考えたらよいのか?」という問いは、「実体」というものに対しての再考をせまるものなのではないか。

イメージは実体から発するものである。だから、実体がなければ、そのイメージもうまれない。しかし、ヌード写真の例でわかるように、われわれ(男)は実体ではなく、イメージを見ていたのである。

そして皮肉なことに、そうしたイメージが氾濫していくにつれ、イメージは実体以上に「実体化」していくのである。つまり、イメージを「実体」だと思い込むようになるのだ。



ここでわたしは、政治学者・丸山眞男の、ある講演会でのこんなセリフを思い出した(太字はわたし)。

いわんや今日のように、世界のコミュニケーションというものが非常に発展してきた時代にありましては、大小無数の原物は、とうてい自分についてのイメージが、自分から離れてひとり歩きし、現物よりもずっとリアリティーを具えるようになる現象を阻止することができないわけであります。むしろ或る場合には、原物の方であきらめて、あるいは都合がいいということからして、自分についてのイメージに逆に自分の言動を合わせていくという事態がおこる。こうして何が本物だか何が化けものだかますます分からなくなります。(丸山眞男『日本の思想』「思想のあり方について」p.128)


さきほどの性についての話に戻ろう。

イメージであったものが、実体以上に「実体化」していく、という現象は、ヌード写真において顕著に見られることだ。しかし、実はこうやってヌード写真によってつくり上げられてきた「女というイメージ」は、今では「ヌード写真」だけから発せられるものではなくなってきているのではないか、というのがわたしの考えである。

言い換えれば、「女というイメージ」が生産される場所は、そこが「ヌード写真」であるかどうかは、もはや問われない、ということだ。「ヌード写真」であるから「女というイメージ」が生まれる、のではなく、「ヌード写真」から“も”「女というイメージ」が生産される、と言ったほうが、いまは正しいように思える。

その最たる例が、エロ漫画や二次元エロ画像などだ。これらは、「ヌード写真」から生まれ、一般に広まった「女というイメージ」を、より「虚構化」した(=男の欲望をもっと強力化した)ものではないだろうか。

エロ漫画や二次元エロ画像は、明らかに「ヌード写真」よりも強烈に、男の思う「理想の女像」を絵で体現化したものである。つまりそこは、より歪んだ「女というイメージ」が詰め合わさった場所なのだ。この時点で、もはや実体としての「女」は、完全にいなくなっているのがわかる。二次元画像については、「イメージのほうが、実体よりも完全に先行している(=男たちの頭を支配している)」といっても差し支えはないだろう。

ちなみに、昨今のAKBブームも、たぶんこれと同じ構造だ。AKBに大金を注ぐ一部のファン(というよりもオタク)は、AKBそのものが好きというよりも、メディアによって流布された「イメージとしてのAKB」

――それは、「自分に優しくしてくれるカワイイ女の子」とか、「自分のことはよくわかっているカワイイ女の子」とか、「自分が支持してあげなければ、生きていけない。そんな女の子なのだ、彼女は」とかいった、各人にとって都合のいい「イメージとしてのAKB」――

が好きなのではないだろうか。そして、こうした「イメージとしてのAKB」が他のアーティストたちのイメージ戦略よりも強く作用しているのは、「AKBとは気軽に握手ができる」という事実に由来しているように思われる。つまり、「握手する」という行為(そしてそこでの、彼女たちの「笑顔」)が、より「イメージとしてのAKB」を強化していっているのである。

話を戻そう。

そして、こうした現象に拍車をかけているのが、言うまでもなくネットである。『ペントハウス』や『プレイボーイ』といった雑誌媒体よりも、手軽に且つ気軽に、「女というイメージ」を入手することができるからだ。



こうした状況にいる今、何が起きているのか?

思うに、それは「現実(実体)へのショック」である。あまりにもイメージばかりが先行しすぎてしまったので、もはや現実に納得できないのである。イメージしか愛せなくなるのである。そういう男たちが現れてきた時代が、いまという時代なのだ。そのことはすべて、「◯◯(女性アニメキャラの名前)は俺の嫁」という、あの定型フレーズに集約されているのではないか。

よく、こういう女性アニメキャラに夢中になる男たちというのは、現実の女性たちにもてないからそうなるのだ、と言われる。それはそれで確かだろう。しかし、そうした見方は一面的なものでもある。

本当はそれだけではなく、イメージとしての「女」しか愛せなくなったから(=「女というイメージ」があまりにも「魅力的」になりすぎたから)、現実の女たちにもてなくなった、とも言えるのだ。この場合、因果関係は必ずしも明確ではないのである。



「女というイメージ」の氾濫は、なにもヌード写真と二次元画像だけではない。AVの浸透も一役買っている。それも二次元画像のときと同様、ネットというバックボーンを支えとして。

そういう意味で、ネットは「女というイメージ」をより「虚構化」(=強力化)し、それを普及させたという点で、かつてからあったメディアとは比較にもならないくらい、「強大」な存在なのだと言える。

多木の言う「性の政治学」はもはや、ヌード絵画やヌード写真だけで語り得るものではなくなっているのではないか。エロ漫画・二次元エロ画像、そしてAVと、「性の政治学」は以前にもまして広大な範囲を対象としなくてはならなくなっていると思う。

そして新たに加わったこれらの範囲は、「見る主体としての男」/「見られる客体としての女」という対立構造、そこから生じる男女間の支配/被支配の関係という視点だけでは論じられないはずである。

なぜなら、もはやその範囲では、実体としての「女」が、限りなく透明な存在へと変化していっているからである。以前までは、「見られる客体としての女」も、「被支配者としての女」も、どれも実体としての「女」を想定していたはずだ。

であるならば、これから「性の政治学」を語る際には、以前のこうした二項対立に、さらに第三項「イメージとしての女」を導入しなければならないのではないか、とわたしは考える。



最後になるが、本書はなかなか難しい読み物となっている。一読では少々理解しがたいところが多い。それは、「写真とは何か?」「イメージとは何か?」という哲学的な問いが、本書の根底にあるからだと思う。

本書は、以前に紹介した『イメージ』(ジョン・バージャー著/ちくま学芸文庫)とも通ずる、視覚文化論・視覚表象論である。

この次は、『フォト・リテラシー』(今橋映子著/中公新書)を読もうとわたしは考えている。というのも、いま、こうした視覚文化論・視覚表象論の本が自分のなかでブームになっているからだ。まだ読んでないので今度、感想を書こうと思う。



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