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2013/02/18

大学生は「勉強」するな ― 『ペーパー・チェイス』

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(2010/03/26)
ティモシー・ボトムズ、リンゼイ・ワグナー 他

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「日本の大学生は勉強しない」と言われて久しい。

具体的にいつ頃から言われ始めたのかはわからないが、インターネットが登場して、ブログやらツイッターやらが普及した近年、こうした批判をつとにたくさん聞くようになったと感じる。それだけ、多くの人が大学教育に興味関心があるということの証左なのだろう。



それで先日、映画『ペーパー・チェイス』(1973年)を観た。

主人公は、超一流の名門校ハーバード法科大学院に通う学生・ハート(ティモシー・ボトムズ)。優秀な成績で卒業すれば、アメリカの競争社会でエリート街道を歩めることが約束されているこの大学で、ハートは毎日、何時間も法律の勉強に時間を注いでいる。

そんなある日、彼はふとした機会に、美女スーザン(リンゼイ・ワグナー)に出会う。そのまま2人は付き合いはじめるも、ハートは毎日の勉強に追われることで、スーザンとはなかなか会えない日々が続く。

しだいに、自分のやっていることにむなしさを感じはじめてきたハート。スーザンと会っても、つまらないことで喧嘩をしてしまうことが続く。結局、彼は最終的に彼女との恋愛を取ることに決めたのである。



「ハーバード大学は超名門校」というのは誰もが知っていることだが、実際どのような授業をしているのか、学生はどんな感じなのかといったことは、あまり知られていないと思う。ちょっと前に話題になった『ハーバード白熱教室』のサンデル教授のような授業は例外として。

だからこの映画は、そういったアメリカの大学がどのようなものなのか、その雰囲気を教えてくれる。

今回観た映画は、ハーバード大学のなかでもとりわけ難しい学部を取り上げている。だから、それ以外の他学部の勉強風景や学生の様子は正直わからない。しかし、明らかに日本の大学よりはずっとずっと厳しいはずである。

映画に出てくる学生たちは、とにかくみんな、勉強、勉強、勉強である。講義に出る際は、しっかり予習をしなければ、教授から来る質問にまず答えられない。だからみんな、毎日毎日、徹夜で勉強する。試験前となると、缶詰め状態である(実際、主人公が友人とホテルの一室を借り上げ、三日間ずっとそのなかで勉強する、というシーンが出てくる)。

で、優秀な成績で卒業できれば、政府でも超有名大企業でもウォール街でも、好きなところに幹部候補生として就職できるのだが、そういったものを目指すことに、ハートはむなしさを感じて、最終的には恋愛をとる。

映画最後のシーンで、大学から来た成績通知の手紙を紙ひこうきにしてしまい、それを大海原へと飛ばすハートの後ろ姿は、なんとも言えない清々しさと哀愁とが、絶妙に溶け合っていた。「ペーパー」(教科書、ノート、参考書、試験用紙、成績通知書――つまり、ありとあらゆる「紙」)から「チェイス」(追っかけまわす)されていたのを、ついに最後は突き放すのだ。



それで、見ていて何度も感じたことは、「大学(教育)とは何だろうか?」ということ。

正直なところ、先生から課題を与えられる→それをこなす、というサイクルは、高校までで十分だとぼくは思っている。では、大学では何をするのか(するべきなのか)?

それは徹底的に「知的な遊び」にふけることなんじゃないのか、と思う。逆説的な言い方をすれば、「大学生は“勉強”するな」である。

ぼくの思う「勉強」とは、「決められた答えがすでにあって、それをきちんと提示する作業」のことだ。こうした「勉強」は、たしかに一定の「知識」は身につく。でも、その「知識」は、基本的に応用が利かない。その「学問業界」という箱庭のなかだけでしか通用しないことが多い。

また、こうした「勉強」にも「考える」という動作は必要になることはあるが、「決まりきったもの」であることがほとんどである。思考に、独自性とか着眼点とか発想性とか、そういった要素はない。というか、そもそも重視されない。

高校(長くとも大学1年生)までは、こうした「勉強」でいいと思う。しかし、大学でまで、これを続けるのはいかがなものだろう。大学は、問題もその答えも、自分で作って自分で解くところではないのか、というのがぼくの考えだ。

この「問題もその答えも、自分で作って自分で解く」サイクルにおいて、大学教員ができることは、学生への「手助け」程度のものでしかない。というのも、問題設定は、「コレコレこうすればよい」とか「こうしておけば間違いない」といった教授法のようなものはないからである。教員ができることは、学生へ「こんな学問分野がある」「こんな文献がある」くらいのものだ。



そこで必要になるのが、「知的な遊び」である。具体的には読書だ。もっと具体的に言えば、新書と文庫の読み漁りである。

このとき重要なのが、決して読書を「勉強」にしないことだと思う。「この本を読んで、◯◯を身につける」とか「これを読めば、××はマスターできる」などと意気込まないことだ。大事なのは「遊ぶ」ことであり、「おもしろがる」ことである。

おもしろそうなタイトルの本があったら、目次を見てみる。それで気になる項目がひとつでもあれば、そこだけ読んでみる。もうこれだけで、立派な読書である。もちろん、一冊まるまる読むのもアリだ。こんな調子で読書をする。それが「知的な遊び」だとぼくは思う。

いまはカンタンに映画やDVDが見られる時代になった。こうしたものを、同じように見てみることも「現代の読書」だろう。できれば、アクションものとかラブストーリーものではなく、社会派がいい。

こうしたことを続けていけば、おのずと興味関心も広がるし、自分で考えることも始めるだろう。またレポートや卒論を書くとき、こうした「雑食的な読書」が後々モノを言ったりするものだ。



映画のなかでは、学生たちのこうした「知的な遊び」がまったく見られない。みな、「勉強」ばかりしている。無論、「勉強」というものが必要な場であり、それをしてでも目指したいものがあるのだろう。が、なんというか、見ているこっちも息が詰まりそうだった。「ガリ勉」という言葉が、まさにピッタリな人たちばかりだった。

主人公のハートが、結局こうした「勉強」に疑問を持ったのも、それが自分を「支配」してしまっているからだろう。現に彼は、映画のなかで何度も「ぼくは教授に支配されている」というセリフを吐いていた。そして、「支配」されておかしくなってしまった友人のひとりが、自殺未遂までしてしまうのである。「支配」――イヤなことばだ。



こういうものを見ていると、「案外、日本の大学の“いい加減さ”も悪くないな」と思えてくる。アメリカの大学のように、「勉強」を押し付けてくることがない(あるいは、少ない)からだ。見方を変えれば、「知的な遊び」に思う存分ふけることができる、ということでもある。つまり、「支配」がないのだ。

ただひとつ、残念なことといえば、あまりにもユルい環境だから、かえって「知的な遊び」すらもしなくなる、ということだろうか。「本なんて、いつでも読めるじゃないか」という思いが、多くの日本の大学生の根底にあるのだろう。そして始めることというのが、「知的でない遊び」である。バイト、サークル、飲み会、etc……。「コミュ力」を磨き、「人脈」をつくり、「リア充」になるために。

もちろん、これらに意味がない、無駄だ、とはこれっぽっちも思わない。でも、うつつを抜かすのはマズい。うつつを抜かすのなら「知的な遊び」のほうが絶対にいい。ぼくの経験から、自信を持ってそう言える。就職はもちろん、生きる上で大いに役立つはずだ。それに、こんな「遊び」にたくさん浸っていられる時期なんて、大学時代以外ないだろう。「老後にでもやれるだろう」なんて、遅すぎる。



例によって、映画をダシに「自分語り」をしてみたが、そうしたものを抜きにしても、この映画は見ていて楽しかった。理想の青春時代と言える。ぼくも大学時代、美人な女の子とこんな生活をしてみたかったなあ。はあ~。

ところで、リンゼイ・ワグナーの美貌は見ものだ。いまでも、昔の面影は消えていない。かなりどうでもいいが、ボク好みの白人女性だった。


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