2013/02/19

女でよかった? ―― ある広告に対する一考察

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先日だが、電車で(それから薬局で)上の広告を見かけた。資生堂「ザ・コラーゲン」(美容ドリンク剤)の広告である。



で、一見なんということもない広告だが、わたしはこの「女でよかった!」の部分が妙にひっかかった。

「女でよかった!」である。「女っていいね!」とか「女は最高!」ではない。つまり、現在形ではなく、過去形――「よかった」――なのである。

この言い方だと、「なにかもうすでに、女でいて得したことが起きた」かのように受け取れる。それが何なのかはわからないが、重要なのはそこではない。重要なのは、この広告(に写っている2人)が、見る人たち(とくに女性)に対し、あたかも「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」といった、「言外のメッセージ」を発している点だ。

この「わたしたち2人はもうすでに、“女でいて”良かったことが起きましたけど?」というメッセージは、さらに、

――この広告を見ている「あなたたち女性」は、女でいて良かったことって起きた(起きている)かしら?(え、まだ起きてないの?)――

というふうに解釈をすすめることができる。

つまり、何が言いたいのかというと、この広告は、それを見る女性たちに、多かれ少なかれ、ある種の「不満」を抱かせる「装置」となっているのでは?ということだ。



広告に写っている彼女たちは非常に「幸せそう」である。こちらを向き、そして笑顔に満ちている。光り輝いている。背景にある花も、咲き乱れている。

では、なぜ「幸せそう」なのか?それは、自分たちが「女でいた」からだ。だから、彼女たちは「女でよかった!」というメッセージを発しているのである。

しかし、である。これらのメッセージは、「女」になりきれていない女性たち(いわゆる「女らしくない」女性たち)への「自慢」でもある。


「わたしたちって、“女でいた”から、こんなに幸せになれたのよね~」
「やっぱり、“女でいる”ことって得するのね~」
「そう思うと、“女でいない(いられない)”女って、かわいそう~。だって、こんなに得することを、味わえないんだから」


そして、この広告は、彼女たち2人にここまで「言わせて」おいて、最後に「隠されたメッセージ」を、「女」になりきれていない女性たちに送る。

――このドリンク(「ザ・コラーゲン」)を飲めば、わたしたちみたいに「女」になれて、「幸せ」になれるけど?(さあ、どうする?)――

話は若干変わるが、こうやって「ジェンダー」というものが徐々に形成されていくのだと思う。



さて、わたしのこの広告に対する「読み方」は、「行きすぎ」であろうか?イジワルであろうか?

この広告の「読み方」は、ほかにも色々とあるだろう。わたしの「読み方」だけが、絶対、ということはない。

しかし、わたしにはどうしても「そう読めてしまう」のである。

ここで、美術評論家のジョン・バージャーの次のセリフを思い出す(太字はわたし)。

広告を見る人=購買者は、その商品を買えば変わるであろう自分自身の姿をうらやむように仕向けられている。購買者は、その商品によって変身し、他人の羨望の的となった自分の姿を夢見る。その羨望が自己愛を正当化するのだ。別の言い方をすれば、広告イメージは、ありのままの自分に対する自分の愛情を奪い、かわりに商品の値段でもって自分に返すのである。(ジョン・バージャー『イメージ』(ちくま学芸文庫)p.187)

本当にそう感じる。人はみな、他人が欲しがるものを欲しがるのだ。欲望は、人から人へと「感染」するのだ。広告の役目は、まさにこの「感染」装置として、にある

なので、この広告を見てしばらく考え込んでしまった。「あ~、なるほどね。この広告つくった人、頭いいな~」と。なんというか無意識のうちに、「美(=女らしさ)への欲望」が「感染」しそうだ。そういう「迫力」が、わたしには感じられる。べつにわたしは女じゃないけど、実際、この広告を見た女性たちはどう感じるのだろうか?


とはいってもまあ、広告なんて、あんまりじっと見るもんじゃないかもね。


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