2013/02/21

ジャッキー・チェンの映画も、これでもっと楽しめる ― 『批評理論入門』

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)
(2005/03)
廣野 由美子

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文学部にいた時、「文学講読」という授業があって、まあ、たいしておもしろくない古典的な小説を読まされた。わたしのいた学科では、この講読の授業が必修だったので、とりあえず色々と読んだ。

で、その時、きちんとではなかったが、本書のタイトルにある「批評理論」というのも多少やった。これはどういうものかというと、文学作品や映画、文化現象(広告、CM、テレビ番組など)を「それなりに」「違った角度で」読み解くための「道具」である。



たとえば、批評理論のひとつに、「フェミニズム批評」というものがある。これは簡単にいうと、フェミニズムという「思想の枠」から、ある小文学作品や文化現象を覗き込んでみたとき、そこにどんな女性差別だの、女性蔑視だの、女性に対する偏見だのがあるかを分析し論じる(=批評する)というものだ。



例をひとつ挙げよう。川端康成の小説に、『伊豆の踊り子』という作品がある。かつて、わたしが読んだ「フェミニズム批評」で、この作品を論じたものがあった。

その論者(女性)によると、『伊豆の踊り子』にあらわれる恋愛というのは、旧制一校のエリート高校生(男)が、たまたま旅先で出会った踊り子(芸者)に恋をするというものだが、川端のその恋愛描写は「男が上で、女は下」といった、いわゆる男性中心主義的な描写になっており、そこには女性に対する歪んだイメージや蔑視がある、と述べていた。要するに彼女は、この作品は「健全」な恋愛小説ではない、というのである。

詳しくは、こちらの本を読んでもらうとして、とりあえずフェミニズム批評というのは、こんな感じのものである。



それから、「ポストコロニアル批評」というものもある(略称「ポスコロ」)。「ポスト」は「―の後」、「コロニアル」は「コロニアリズム」すなわち「植民地主義」という意味である。

第二次大戦後、西欧の植民地主義によって被害を受けた国々の文化・文学作品を研究するというのが盛んになった。植民地主義を実行していたのは主に西欧だが、その西欧の、植民地国(主に東洋)に対する歪んだイメージや蔑視、偏見など(いわゆる「オリエンタリズム」)が、文学作品にどのようにあらわれているか、また逆に、被植民地国だった国の文学作品は、西欧や西欧人(に対するイメージ)をどのように描いたのか、などを分析して論じるのが、この「ポスコロ」である。



「ポスコロ」という「メガネ」を使って覗きこんでみると個人的に興味深く映るのが、ジャッキー・チェンのアクション映画だ



ジャッキーの映画には、敵役としての「西欧人(≒白人)」(あるいは、西欧人サイドにつく東洋人)がよく出てくる。で、アクションシーンが始まると、彼は(だいたい前半戦はやられがちだが)手足で、あるいは武器を使いこなして「西欧人」を倒す。

この「西欧人」というのは、ジャッキー・チェンのアクション映画において象徴的な存在である。身体的にも、文明的にも、そして外交的にも「勝てなかった」歴史をもつ中国人(≒東洋人)が、映画では「西欧人」に「勝つ」のだ。ここに、「ヒーローとしての中国人(東洋人)」/「悪者としての西欧人」という(やや単純だが)構図が垣間見える



本書では、他にも「精神分析批評」(フロイトやユングの唱えた理論をもとにして、文学作品を分析する批評)とか「マルクス主義批評」(文学作品を「歴史的産物」と見なし、その作品と現実における政治・経済・社会との関係を分析して論じる批評)など、色々な批評理論が出てくる。

で、本書は二部構成になっており、前半は小説が書かれる時の技法(「語り手」とは何かや、ストーリーのプロットはどうなっているか、など)の解説、後半が以上述べた批評理論の解説である。

わたしとしては、後半の批評理論のほうが特に気になっていたので、今回買ってみたという次第である。おそらく、類書のなかでは非常にコンパクトにまとまっていると思う。批評理論の書では、他にテリー・イーグルトンの『文学とは何か』(大橋洋一訳/岩波書店、残念ながら今は絶版)があるが、こちらはかなり本格的なので、批評理論を大ざっぱに知りたければ、まずは本書がオススメだ。



批評理論を知っておくと、小説だけでなく、ふつうのテレビ番組にせよ、映画にせよ、あるいは写真や何気ない広告にせよ、事物を(それなりに、ではあるが)おもしろく眺めることができる。前回、わたしは「女でよかった、とな?――ある広告に対する一考察」という記事を書いたが、これは批評理論でいうところの「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」にあたる(+「記号論」という視点も含む)。

ちなみに、色々ある批評理論のなかで個人的に「使いやすい」と思うのが、この「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」である。というのも、世の中にある文化現象には「性」という概念が、いたるところに見え隠れしているからだ。特に、テレビ番組やCM、広告などは、「性」の視点から観察してみると、意外なものが見えてきたりする。

たとえば、台所用品やトイレ用品、除菌剤などのCMを見ていると、それらを使っている人(使いこなしている人)は、女性であることが多い。もちろん、男性も出てこないわけではないが、明らかに女性のほうが多い印象を受ける。こうしたところに、いわゆる「男は仕事(=外)、女は家庭(=内)」といった、古くからある性役割の(無)意識がまだまだ残っていることを見て取れるのではないか。

一方、そうした旧来の価値観を覆そうという動きなのか、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重(綾瀬はるか)は、そういった古い「女性像」とはまったく異なる人物だ。敵に怖気づかず、戦場に出て銃を使いこなす「ハンサム・ウーマン」の姿は、いわゆる「やまとなでしこ」とは一線を画すものである。わたしはこうしたテレビ番組に、ジェンダーの「壁」を取り除こうとする意図を、うすうす感じている



ところで批評理論は学問の一ジャンルをなしているが、さっきも言ったように、わたし個人としては、こうした批評理論は、どれも世の中を「他とは違った角度」から見るための「道具」だと思っている。「道具」というと、あまりにも身も蓋もない「安っぽい」印象を与えてしまいそうだし、冷めた見方だが、わたしはそう考えている。

批評はあくまでも「批評」でしかない。批評理論を知った(あるいは「研究」した)からといって、べつに世の中が変わるわけではない。それに、「◯◯批評の視点から××を分析すると――」などと言ったところで、多少は知的な感じもするが、「ふつうの人」からは「なるほど、そうですか」「ちょっとおもしろい見方ですね」くらいの感想しか抱かれないだろう。

理論は「理論」であって、そこに「絶対性」はない。あまり「批評理論」にこだわると、理論という「型通りの見方」しかできなくなるし、いわゆる口だけの「批評家」になってしまうのがオチである(そう、つまり、わたしとこのブログのこと)。だから、批評理論はせいぜい「知的な娯楽」として「嗜む」のがいいのではないか



本書は、『フランケンシュタイン』を題材に、小説の技法と批評理論、そしてそれらが実際にどのように運用されているのかをセットで手軽に知ることができるが、決して「小説」にしか使えないものではない。文学作品、そして文化現象であれば、基本的に色々と「あてはめる」ことができる。それから、批評理論と批評理論との「組み合わせ」も可能である。

批評理論を小説以外に「応用」したものとして(「応用」している感じはあまりしないが)、他に『戦闘美少女の精神分析』(斎藤環/ちくま文庫)『フォト・リテラシー』(今橋映子/中公新書)『イメージ』(ジョン・バージャー/ちくま学芸文庫)、エッセイでは『愛という病』(中村うさぎ/新潮文庫)などがある。どれもオススメだ。

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