2013/02/23

『フォト・リテラシー』 ― 写真は現実を写さない

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)
(2008/05)
今橋 映子

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最近のわたしのなかでのブームは、ヴィジュアル文化についての本(写真論、映像論、ファッション論などの本)を読みあさることなので、今回も同様の本の感想を書こうと思う。

本書のタイトル「フォト・リテラシー」というのは、あんまり聞かない言葉だ。「メディア・リテラシー」ならよく聞く。もっとも、フォト・リテラシーはメディア・リテラシーのうちに入るのだが。




で、フォト・リテラシーとはなにか?

ずばり「写真を“きちんと”読む・分析する能力」のことだ。写真というのは、字のごとく「真実を写す(もの)」である、と考えられている。

が、それは果たして本当なのだろうか?むしろ、実はそうではなく、撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ているのではないか?――こういった問いが本書のテーマである。




よく、メディアなどで「決定的瞬間」と冠された写真が紹介されたりする。「決定的瞬間」というと、あたかも「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」という感じを受ける。

本書では、「決定的瞬間」という言葉が生まれるもととなった写真集が出てくるのだが、実はその写真集は、全然「“ヤラセ”も“加工”もしていない、その時その場の状態を、一瞬でカメラにおさめた写真」ではなかった、という事実を暴露することから始まっている。

この話から著者は、「世間的には“決定的瞬間”と思われている、ジャーナリズムに出てくる報道写真」も、雑誌や本に掲載されるまでの間、実は様々な「細工」が施されていることを指摘する。

ここでいう「細工」とは、決して写真画質の修正のことだけではない。撮影者の「意図」(これは写したい、これは写したくない、写すと報道者側の具合が悪くなるから「あえて」写さない、など)や、商業上の都合によってなされる(身勝手な)編集、場合によっては誤解を与えるような写真の見出しやキャプションなど、メディアに載るまでのありとあらゆる「行程」が、「細工」たりえるのだ。

著者は、そうした「細工」がいかに「巧妙」で、写真を見る者に気づかれないよう「編集」されてあるか、様々な写真を俎上にのせて論じている。




本書からひとつ、例を挙げよう。




上は、ロベール・ドアノーというフランスの写真家が撮った、「市庁舎前のキス」という写真である。この作品は1950年に、アメリカのある雑誌に載った。しかし、大した反響はなかった。

ところが80年代に入ると、フランスやパリ市は対外文化政策の一環として、自国を魅力的にPRするため、この写真を「利用」したのである。それは、あたかも「パリではいつも恋人たちがこのようにキスしています」と言わんばかりに。

キスシーンというのは、どの国においても魅惑に満ちたものである。甘い雰囲気が漂っている。すなわち、誰にとっても「好印象」に映ってしまう。

しかし、これを撮ったドアノーの当初の目的は、こんなロマンチックな想いからではなかった。むしろ、「パリ郊外のうらぶれた日常と人々のしたたかな明るさ」(p.74)を写真にしたかったからなのだ。

しかも、この写真は実は「ヤラセ」だったのである。いわゆる「決定的瞬間」というものではない。すべて作りこまれた「虚構の世界」だったのである。

だが、そんなことはつゆも知られず、ただただ「パリは魅力的」「フランスはオシャレな国」「ロマンあふれる場所」といった、ステレオタイプ化されたイメージだけが先行していった。その原因を作ったのが80年代の文化政策によって起きた、この写真の絵はがきやポスターの大量流通・大量消費だったのである。




これが、さきほど言った「撮る者(=写真をつくる者)とそれを見る者とが、(無)意識的に現実を「ゆがめ」ている」ということだ。

ヴィジュアルに訴えるものは、影響力が非常に強い。特に写真というと、無意識に「現実を写したもの」とか、「現実そのもの」などと思い込んでしまう。しかし、実はそうではないのだということを、著者は本書で数々の事例を挙げて説明しているのである。



話は若干変わるが、広告に出てくる写真というのも、そこに写っている商品が魅力的に見えるようになっている。

当たり前といえば当たり前だが、これも結局は「細工」なのだ。しかし、とりあえずでも「細工」だとわかっているのに、なぜこうも簡単に「ダマされ」てしまうのだろう?

いや、物の広告写真ならまだ良い。これがたとえば、美容系の広告写真となるとヤッカイである

なぜなら、たいていの場合、写真に写っているイケメンな/美人なモデルさんと、実際にそんなふうに装ってみたときの自分との間に、あまりにも大きな「落差」が生まれてしまい、自分がミジメに思えてくるからだ。

モデルの写真のキャプションに「※写真はイメージです」とかあっても、なかなかその「真意」を理解できず、理想と現実とのギャップに苦しまされる人が後を絶たないように思う。




いや、「頭」ではわかっているのだ、「頭」では。しかし、「体」ではわかっていないのである。というよりも、「わかってくれない」といったほうが正確だろうか?

要するに、写真というのは時として真実や現実を写さずに、「理想」を写してしまう、ということなのだろう。

そしてそれを見る者は、その「理想」を真実であり現実だと(無)意識的に解釈してしまうのだろう。ここに、「写真の悲劇」があるようにわたしは思う。




では、どうしたらその「悲劇」を見ずに済ませられるか?

それが、著者の言う「フォト・リテラシー」を身につけることにあるのだ。インターネットを使うのにリテラシーが必要なのと同様、写真を見ることにも「リテラシー」が必要なのである

いやいや、イメージの肥大化というのは実に恐ろしい。あるものに対していらぬイメージを持ってしまうことにより、そのイメージと乖離した現実に対して、いらぬ不満まで抱かねばならなくなってしまうのだから。

そう思うと、あの「※写真はイメージです」という注意書きは、けっこう意味深なんじゃなかろうか?

「いいですか?みなさん、“写真はイメージ”なんですよ?“写真は現実”ではないんですよ?」と、セツナイ声でつぶやいているみたいで。



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