2013/02/26

『ひとはなぜ服を着るのか』 ― ファッションも、イケメンも、美人も、みんな「制服」だ

ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)
(2012/10/10)
鷲田 清一

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この本の背表紙には、「ファッションやモードを素材として、アイデンティティや自分らしさの問題を現象学的視線から分析する」という本書の説明が付されている。

ずっと前からわたしは、この「現象学」というのがどういう哲学なのか知りたいと思っていた。が、いつも、辞書辞典で調べてみても、わかったような、わからないような、そんな感じになる。

で、本書を読んでみて、とりあえず「現象学」というのが、どんなことをする学問なのか、なんとなくだが伝わった(気がする)。「ある特定の現象を丹念に観察することによって、その現象の“背後”にあるもの(なぜそのような現象が起きるのか、どのような経緯で起きるのか、など)を考察する学問」といったところだろうか?

とはいっても上の説明は、わたし一個人の、かなり大ざっぱで暫定的な定義だから、「現象学とは何か?」という本格的な問いについては、後日また、ゆっくりと調べることにしたい。

さて、本書の中身だが、ファッション(服装はもちろん、化粧や髪型、ピアスなどのアクセサリーといった、広い意味での「ファッション」)についての興味深い考察がいたるところに散りばめられている。

とはいっても、べつに難しい学術用語が出てくるわけではない。著者(鷲田清一)が純粋に、巷にあふれる「ファッション」という「現象」の奥底にあるものはいったい何なのか? ということを問うていっていくだけだ。「ファッションの冒険」と見立てることもできよう。

いつもどおり、本書の中身すべてを取り上げることはできないので、わたし個人が特に気になったところを論じてみたい。


●身体とは、ある種の「自然」である


なんの手入れもされていない山や空き地というのは、地面が「汚れ」ている。草がボウボウだったり、落ち葉であふれていたり、泥ばかりで歩こうにも歩けなかったり、そんな状態になっていることが多い。

人の体も、これと似ている。身体も放っておけば、アカが出る。臭いが出る。ムダな毛も生えてくる。つまり、放っておけば「汚れ」てくるのだ。そういう意味で、身体はある種の「自然」だ

そんな「自然」を、日々われわれは「耕し」ている。顔や体を洗う。歯を磨く。毛を切ったり、剃ったりする――こうした行為は、身体という「自然」を「耕す」ことに他ならない。

しかし、それだけではない。服を着ること、化粧をすることも、その「自然」に変化を与える(=耕す)ことになるのではないか?

そしてそのなかでも、特にオシャレをすること――髪を染める、ピアスやイアリングをつける、かっこいい(かわいい)服を着る――は、なおさら身体を「耕す」ことを意味するのではないか?

つまるところ、これは「ファッションに身を包む」ということだ。「ファッションに身を包む」というのは、身体を「加工」する、ということなのである。ではなぜわれわれは、こうも身体を「加工」するのだろうか?


●なぜわれわれは、オシャレをするのか?


その理由のひとつが「不満だから」であると、鷲田は言う。単純な理屈だが、ここがオモシロイとわたしは思った。

不満――そう、不満だから「自然」を耕すのだ。体は放っておけば汚くなる。これは人にとって不快因子であり、不満の原因になる。だから、手入れをする――至極、当たり前なことである。

しかし、不満になる理由は、まだもうひとつある。人間にとって、こちらの不満のほうが深刻なのであり、これはさきほどの、オシャレをする理由の根本でもある。


●「不満」の背後にあるもの


では、不満になるもうひとつの理由とはなにか?

それは、なんの「加工」もされていない、そのままの身体だと、「他とは違う、自分という個がはっきりしていないから」、すなわち、「“わたし”が他の誰でもない、唯一の“わたし”になっていないから」である。つまり、ちょっと難しく言えば、アイデンティティを確立できない(できた気がしない)ために、不満を持つのだ。

――なるほど。自分という「自然」を、いわば「文化」(=手入れをした状態)にすることで、その他大勢の「自然」から抜け出したい。抜け出すことで「自分」が確立できる、という理屈か。

J=L・べドゥアンが『仮面の民俗学』(斎藤正二訳、白水社、1963年)のなかで述べているように、着衣は化粧は「存在のもっている像を変形させることによって、存在そのものを修正しようとする」試みにほかなりません。じぶんの存在の物理的な形態を変えることでじぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望で、わたしたちはいつも疼いているようです。(p.34)

わたしの観察するかぎり、べドゥアンの言う「じぶんの実質を変容させたい、じぶんの限界を超え出たいという欲望」というのは、とくに女の子(若い女性)たちに見受けられる。まあ、ネットを見ていると、男の子たちも昔と比べてその「欲望」は強まっているようだが。

ただ、「自分を変える」ことは、必ずしも「自分の身体をイジったり、なにかを体につけたりする」こととイコールにはならない、というのがわたしの考え。人と話し合ったり、読書したり、映画見たり、旅行に行ったりすることでも、「自分を変える」(=自分の中身を変える)ことはできるだろう。昔であれば、「教養主義」というのが、まさにそうすることを良しとしていたのだが(もっとも、もっぱら読書に限られていたようだが)。

しかし、なかなかそうならないのが、現代という時代なのだろう。現代は、中身を変えるのではなく、「外観」を変えることにこそ、高い価値が置かれるのだ。わたしが以前から、このブログでたびたび触れてきた「イケメン(美人)というイメージの氾濫」が、まさにそれを示している。


●ファッション、イケメン、美人という名の「制服」

こうやって、みんながファッションにこだわっていく。こだわることで、「その他大勢」とは違う「自分」を確立できる、と思うようになる。しかし、実はファッションという現象には「不文律」(目には見えないルール)が存在する

ひとりひとり違う格好をしているつもりでも、その現象を俯瞰してみれば、どれもこれも「なんとなく似通っている」ということに気がつく。つまり、部分ぶぶんは違っていようとも、ファッション現象全体として見れば、大した「違い」はないのだ。

ファッション雑誌を見てみれば、そのことがすぐにわかる。モデルの服装はそれぞれ違ってはいる。が、何人も観察していると「なんかどこかで見たことがある」ような格好をしている。

要するに、「なんかどこかで見たことがあるような格好をすること」こそが、実はファッションに潜む「不文律」なのだ。この「掟」を破った者、それがすなわち「奇抜」だとか「派手」とか「浮いた格好」などと言われるのである。

こう見ると、ファッションというのはある種の「制服」なのだ、と思えてくる。「個を出したい」「他とは違う自分になりたい」と思ってしていたはずのファッションが、実はファッション現象全体を見たとき、個を出さない、他とは違わない「制服」へと変貌しているのである。

これは、服装だけにかぎった話ではない。顔もそうだ。

このように、ひとびとを本質的に個性化し、多様化するはずのコスメティックという装置は、逆説的にもひとびとの存在を同質化し、平準化してしまうのです。近代社会では、顔もまたまるで制服のように標準化されてきたわけです。(p.65-66)

最近のテレビを見ていると、「アイドルの大安売り」とでもいうべきような状況が起きている。昔は、アイドルというと「なんだかんだ言っても、やっぱり“この人”!」というような、そんな「特別な地位にいる人」といった感じがしたが、いまはまったくしない。「ネコも杓子も」感がハンパじゃない。

そしてみんな(特に若い人たち)、「なんかどこかで見たような」顔をしている。いわゆる「イケメン」も「美人」も。

そして、インターネットが普及し、ファッション雑誌も昔とは比にならないくらい充実した情報を提供してくれるようになった結果、みんなが同じことをするようになり、芸能人ではない一般人(特に若い人たち)までもが、「イケメン」になり、「美人」になれるようになった。

しかし、それらは「なんかどこかで見たような」感が強いのも確かである。つまり、現代においては、顔もまた、ある種の「制服」と化している、と言えるのである。


●ファッションで個性は出せない

こう考えると、外見をかっこよくして「個性」を出す、という作戦は、残念ながら頓挫しそうだ。というのも、もうすでに、みんなが同じようなことをしているからだ。みんなと同じなのであれば、それは「個性」ではない。

べつにわたしは、だからファッションにこだわることは無意味だ、などとは少しも思っていない。むしろ、みんながファッションにこだわるようになれば、街を歩いていて、それを見ることにワクワクできるから、みんなそうしてくれたらなあ、と思っているくらいだ。現に、そうなっている自分がいる(美人ならなおさらワクワクだ)。

それに「見てくれ」は大事だ。他人に好印象を与えてくれる。相手からの、自分への待遇も良くなるという「特典」も期待できるだろう。そういう意味で、ボクはファッションが好きだ。しかし、である。たぶん、「個性を出す」ことは期待できない。ファッション現象という「波」に乗ることはできても、その波を超えることはできない。

もし、「個性を出したい」とか「自分を変えたい」といった欲が、強くて強くてしょうがない人がいれば、まずは、「ファッションでは個性を出せない」ということ、と、「ファッションにこだわることで自分が変わったような気がしても、それはむしろ“みんなと同じになっただけ”であって(つまり、ファッションという「制服」を着るようになっただけであって)、実際のところ、“自分”は何ひとつ変わっていない」ということを、知ったほうがいいのではないか?――ボクは本書を読んで、そして感想を書いていて、そう考えるようになった。


●「個性」は幻想なのか?

では、「個性」は幻想なのだろうか?いや、幻想ではないと思う。「個性」というのは、そのひとの、その振る舞い、考え方、生き方、ふだんの有り様などなど、そういったものすべてを含んだ概念である。つまり、「そのまま」でいることこそが、実はもうすでに「個性」を体現しているのだと思う。

少なくとも、ヘンに自分という「自然」をイジくって、結果的にみんなと同じ「制服」を着るよりも、そっちのほうがずっと「個性」と呼べるにふさわしい状態ではないだろうか?

「自分探し」についても、同じことが言える。自分探しの「自分」とは、要するに「個性」のことだ。つまり、自分探しとは、「個性探し」なのである。であるならば、話は早い。「そのまま」でいることが「個性」なのだ。「個性」は探さずとも「もうすでに、そこにある」のである。
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