2013/03/02

『14歳からの社会学』 ― 「コイツすげえ!」な人に、「感染」せよ

14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)14歳からの社会学: これからの社会を生きる君に (ちくま文庫)
(2013/01/09)
宮台 真司

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以前、母校の大学で、宮台真司(著者/社会学者)の特別講義(?)に参加したことがある。事前に「誰でも参加可」と知らされていたので、興味本位で彼の講義に出てみた。

いや~、とにかくスゴかった。「なんでも」知っている、という言葉がピッタリな人だった。

とにかくまあ、彼は色々な本を読んでおり、講義中は「◯◯(欧米の学者)によれば――」「××という本には、――とあったがウンヌン」「その学説は、すでに□□(欧米の学者)によって証明されていて――」という感じで、話がアッチコッチに進んでいった(で、わたしには、結局彼がなにをいいたかったのか、よくわからなかったのだけども)。

ただ、「宮台自身のことば(意見)」というものは、あまり感じられなかった。そこがかなり残念だったという印象がある。「学者の◯◯が~っていうのはいいからさ、宮台先生、『あなた』はどう考えるのかを教えてくれよっ!」と、心の中でツッコミながら、わたしは彼の話を聞いていた。

で、本書はうれしい(?)ことに、きちんと「宮台真司のことば」が記されている。しかも、とりあえず子供向けという設定で書かれた本なので、わかりやすい。


本書は子どもに「社会学とはなにか?」を説くという点に主眼がおかれているわけだが、個人的には「社会学のカタチをとった宮台真司の人生論(自己啓発本?)」だと思っている。

で、「人生論」というと、いかにもゾクっぽくてオジサンたちの愛読書、といったイメージがあるのだが、もちろんそうではない。社会学という学問を基盤に、彼は論を組み立てているので、無根拠に読者(とくに若者に対して)を肯定して、甘い幻想を抱かせるような、そのへんのアヤシイ人生論とは違う

この本には一貫したテーマというのがなく、章ごとにそれぞれのテーマが設けられている。だから、「この本は何が言いたいのか?」というのは、一言では言えない。なので、例によって、わたし個人が気になった点を書くことにしたい。


いいなあと思ったのは、5章「〈本物〉と〈ニセ物〉」だ。で、宮台は、そのなかで「感染動機」の大切さを説いている。

ぼくたちがものを学ぼうとするときに、どういう理由があるだろう。(中略)それが「自分もこういうスゴイ人になってみたい」と思う「感染動機」だ。直感で「スゴイ」と思う人がいて、その人のそばに行くと「感染」してしまい、身ぶりや手ぶりやしゃべり方までまねしてしまう――そうやって学んだことが一番身になるとぼくは思う。(p.136)

ちなみに、宮台を「感染」させた人というのは、廣松渉(哲学者)、小室直樹(社会学者)、チョムスキー(言語学者・哲学者)、カント(哲学者)などだと言っている。

廣松渉は、わたしもちょっとだけだが、著書をかじったことがある。『もの・こと・ことば』(絶版)という本で、これは日本語を哲学した本なのだが、正直、中身はあまり覚えていない。

それから廣松は、言い方にかなりのクセがあり(漢語や難語を多用している)、そこが好きだという人もいれば、嫌いだという人もいるようで、わたしはあまり気にならなかったが、まあちょっと変わった人だな、くらいには思っていた。

チョムスキーは、言わずと知れたアメリカの学者で、最近は政治へ積極的に発言をしていて有名だが、もともとは生成文法理論を提唱した言語学者である。

いま、ちょうどわたしも『新・自然科学としての言語学』(福井直樹/ちくま学芸文庫)という、生成文法理論を概説した本を読んでいるところだが、この本に書かれてあることのベースを築いたのが、チョムスキーその人である。


それで、宮台はこういった人たちに影響されたのだという(たしかに、宮台の書いたものを見ていると、そのことがなんとなくだが伝わってくる)。

彼らの知識ひとつひとつは、問題じゃない。書かれた書物をふくめた「たたずまい」を見ていると、突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる。それが訪れてからは、「その人だったら世界をどう見るのか」をひたすらシミュレーションするだけだ。(中略)感染動機だけが知識を本当に血肉化できる。(p.141)

う~ん、この気持はよくわかる。とくに、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間が訪れる」という部分は非常に納得できる

わたしも「この人、すげえな......」「コイツはいったい何者なんだ?」といった感覚を持った人がいる。それが、丸山眞男(政治学者)だった。そして「丸山眞男の視点」というのは、いまのわたしにとって、ひとつの「思考軸」となっている。

わたしが丸山に「感染」したきっかけは、『日本の思想』(岩波新書)を読んでだった。この本はたしかに難解で、色々と批判の的ともなったのだが、それでもここに書かれてあることは、いまでも色あせていない。

彼に「感染」してからというもの、わたしのなかで「丸山眞男ブーム」が起きた。『日本の思想』の次に、『日本政治思想史研究』(東京大学出版会)、『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫)、『戦中と戦後の間』(みすず書房)を買っていった。

「積ん読」もあって、全部は読んでいないが、とりわけ『忠誠と反逆』に収められている「歴史意識の古層」という論考を読んでいたときは、「この人はいったい何者なんだろう?」という思いでいっぱいになった。同時に、「自分にはよくわからない部分が多いけど、でもなんかスゴイな......」という感覚にもなった。

丸山からは、自分の知の卑小さというものを、ガツンと思い知らされた。「オレは一生、この人には知的な面で勝てない……」と感じ、暗くミジメな気持ちにもなった。

そんなわけで、よくも悪くも(?)、わたしは丸山眞男という、ひとりの男に魅せられた。だから宮台のいう、「突如「この人は絶対にスゴイ」としびれる瞬間」というのがよくわかるし、共感できる。


ところが、彼によると、最近はこの「感染」する機会というのが、(とくに若者の間で)失われているそうだ。

大学では授業開始から30分たって教員がこなかったら自然休講ということになっている。それでもぼくの学生時代、30分以上おくれてくる先生がザラにいた。廣松渉もそうだし、小室直樹もアルコールのにおいがぷんぷんすることがあった。だからどうだってんだ。
 実際、授業はどんな先生よりもおもしろくて深かった。そこで学んだことがいまのぼくの血となり肉となっている。いまはそんな「名物教員」がいなくなった。(中略)「形だけちゃんとしていればいい」というセンスが広がる中、「名物教員」と呼ばれる「中身がつまった人間」がどんどん減ってきている。
(p.149-150)

いやいや、「形」も大事でしょう? いくらカッコイイこと言ったって、「形」が悪ければ、そりゃ説得力もなくなるしなぁ。正直、この手の「中身さえよければすべて良し」的な考えは、いただけない。わたしは「形」も含めての「中身」だと思っているので。

それはさておき、大学の先生にかぎらず(中学や高校の先生とか)、「中身がつまった名物教員」が減ってきているというのは、そのとおりかもしれない。書物のなかで「この人すげえ!」と感動するのも悪くないが、やはりリアルタイムにはリアルタイムなりの「感動」が詰まっている。だから、「授業がおもしろい名物教員」が減ってきているというのは、かなり危ない傾向だ。

しかしながら、リアルタイムで「この人すげえ!」と心底、知的に感服した人というのは、わたしもほとんど会ったことがない。

大学生のときも、手元のレジュメとニラメッコしながらずっとボソボソしゃべり続ける教師や、教科書に書いてあることをなぜかそのまま板書する教師、概説書を読めばすぐにわかるようなことを延々とつぶやく教師など、ゴマンといた。

今後もこういう教師は一定数、居続けるのだろうけど、これは、かなり危惧すべきことなんじゃなかろうか?


で、宮台はこうした知的現場の現況を嘆きつつ、こう述べる。

「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ。そんな人はどこにいるか。公教育じゃなくて予備校の現場に多くいる。(p.151)

ここも納得。とりわけ「予備校の現場に多くいる」という意見は的を射ている。実際、予備校の先生というのは、大学教師よりもずっと「スゴイ」人が多いと思う。教え方はもちろん、冴えたトークに、おもしろい人生経験を持っている人がたくさんいる。

いま、巷で話題の「いつやるか? 今でしょ!」の先生も、東進予備校の先生だ。わたしも高校生のとき、代ゼミの授業に参加していたが、学校の先生の授業よりもずっとおもしろかった(いまでも、当時教わっていた先生の授業を受けたいと思えるくらいだ)。

そしてわたし個人のことを振り返ってみても感じることは、「子ども」(若者も含む)というのは、案外すぐに「コイツは本物かニセ物か?」を見分けられるものだということ。これは、とくにオトナに対して、という意味で。

だから、「子ども」から知的な面でバカにされるというのは、その「子ども」から「コイツは本物じゃない」という烙印を押されてしまったことと同義だ。

オトナになると、どうしても周りの人の様子で、理屈的にものごとを決めてしまうことが増えてくる。「誰々が◯◯は良いと言っていたから」「彼は××で有名だから」といったふうに。しかし、「子ども」は素直だ。わからない、ピンと来ない、つまらないと思ったら、すぐにそれを態度に表す。それはそれでたしかに幼い。

しかし、だからとて、それが必ずしも「真贋を見ぬくことができない」ことにはならないと思う。オトナは理性で真贋を見抜こうとするが、「子ども」は直感で見抜こうとする傾向がある。

直感は、時として無根拠であり、自分の知的レベルを棚に上げた「勝手な判断」である場合もあるが、また時として理性以上にモノを言うこともある。そしてそれは、「なんかよくわからないけどすごい!」と言いたくなるときの、この「なんかよくわからないけど」という形に集約されている。

いまは、小説にしても映画にしても「わかる」ものばかりが世の中に受け入れられる。「よくわからないけどスゴイ」という感じ方がすたれてしまっている。(p.136)

宮台は、「「感染動機」が大切なら、教える側が「スゴイ」人間じゃないといけない。少なくとも子どもから「そう見える」ことが大事だ」と言う。

しかし、「そう見える」とあるが、それは「子ども」の直感が、「子ども」に「そうさせている」ということでもある。いくら教える側が「そう見える」ように装っても、教わる側が「そう感じ」なかったら、そこに「コイツすげえ!」の感動は生まれないはずだからだ。


そんなわけで、「子ども」特有の直感ってのは、大事なのだろうし、オトナにとっては、その直感を維持していくこともまた大事なのだろう。そして、そういった直感こそが、自分を「感染」させてくれる動力となるのだろうなあ。



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