2013/03/05

『最高の人生の見つけ方』 ― 最後/最期は、しんみりと終える方が、ぼくは好きです。

最高の人生の見つけ方 [DVD]最高の人生の見つけ方 [DVD]
(2010/04/21)
ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン 他

商品詳細を見る


内容(「Oricon」データベースより)

勤勉実直な自動車整備工と大金持ちの豪腕実業家。病院で出逢い人生の期限を言い渡された二人の男性が、棺おけに入る前にしておきたいこととして“バケット・リスト”に書き出したことを叶えるため旅行に出かける様を描いたハートフル・ストーリー。ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンほか出演。


それなりに有名な映画だったらしいので、鑑賞。

Amazonのレビューを見ると、かなり絶賛されていたが、わたしには正直なところ、あまり印象に残らなかった。が、アメリカ人の「死」に対する考え方には「ああ、なるほどなあ」と感じた

なにが「なるほど」なのかというと、この映画では、アメリカ人が「死」を、目には見えない「敵」と見なしているところだ。

そして、アメリカ人の大好きな「ファイティング・スピリット」(アメリカ映画はジャンルを問わず、「悪と徹底抗戦する」映画というのが非常に多い)でもって、主人公2人の老人(ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマン)が、もうじき訪れる「死」に「抗し」ようするのである。



どんなふうに「抗する」のか? それが、「棺おけリスト」だ。これは、「自分が死ぬまでにやっておきたいこと」のリストである。2人はこれを作って、そこに書かれた「やりたいこと」を一個一個、一緒にこなしていく。

つまるところ2人は、「生」を思いっきり、まっとうする(=遊びつくす)ことで、きたるべき「死」に「反抗する」のだ。これが、わたしにはいかにもアメリカ人らしくて、「ああ、なるほどなあ」と思えたのである。



日本人だったら、たぶんこうはしないと思う。日本人なら、最初はただただ死への恐怖に耐えるも、ある日突然、ふと、

「これはもう宿命なのだ。どうしようもないことなのだ。死とはそういうものなのだ」

などと悟り、死を「敵」とは考えず、「天からの遣い」かなにかのように考えるのではないか(事実、「お迎え」という言葉がまさにそれである)。

つまり、「死」に対して「徹底抗戦」しようなどとは思わないし、死ぬまでのあいだの「To doリスト」なんてものは作らないだろうし、ましてやそれを一個一個こなして、遊びつくそうなどとも、考えつかないだろう。



要は、「あがく」ということを悪く捉える、ということだ。「悪あがき」という熟語があるように(「あがく」も、どちらかと言えばネガティブな言葉だが)。

それから、「往生際が悪い」なんて言い方もあるが、これも「日本的」ではないか。「往生」は死ぬことだが、要するに、いつまでも死なないでいる(=過ぎ去らないでいる)ことは見苦しいことだ、といった価値観が、この言葉には見え隠れしている。

昔から日本人は、死に対して、そういう見方をしてきたような気がする。

なんというか、「かげり」のあるものを愛でたり、さっと過ぎ去っていくようなもの、またはそういった様子を良しとする――そんな感性が根強いように思う。しばしば、「日本人のこころ」として引用される『徒然草』も、まさにそういった感性ゆえの産物である。



それに、映画のなかで、2人がやっていた遊びというのも、これまたアメリカ人らしい奢侈贅沢なものばかりである。

まるで、「生きるとは、贅沢しつくすこと」とでも言わんばかりに。そして、そういった贅沢を奪い去っていくものこそが「死」なのだ、だからわれわれは遊びつくすことで、死に対し「徹底抗戦」するのだ、とでも言わんばかりに。

そんなメッセージが、この映画から垣間見える。



もちろん、こんな「冷めた」見方をしなくとも、たとえば「ある日突然出会った男2人の友情物語」だとか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とか、そういった見方もできよう。現に、わたしもそう感じられるシーンがいくつかあった。

ただ、それらは映画の「表層」に流れるメッセージであって、わたしには、それらが「深層」にあるもののようには思えなかった。「深層」――すなわち、アメリカ人が「生」と「死」とを、それぞれどのように捉えているのか、ということである。



アメリカ人にとって、生きることも死ぬことも、どちらも「必死」なことのようである。生きる以上は、徹底的に生きる。というか、遊ぶ/遊びつくす。

一方、死ぬときは、徹底的に死に「反抗」する。無論、死は誰にでもやってくるものだから、結局は受け入れざるをえないわけだが、それでも生きているうちは、なにがなんでも生き続けようとする。こうした精神が、さっきわたしが言った「ファイティングスピリット」である。



一方、日本人には、生へのこうした「執着心」や、死に対し、なにがなんでも抗しようという気持ちは、ない(あるいは、希薄な)ように感じられる。サッと生きて、サッと死んでいくことに美を見出しているように思う。

生や死に「ガツガツしない」「ガッつかない」と言い換えればいいだろうか。要するに、さっきの意味での「ファイティングスピリット」が乏しいのである。



だからだろうか? わたしが、この映画にピンと来なかったのは。わたしは、こういった、生のみに「執着」しないことに美を見出す「日本的な価値観」のほうがなんとなく惹かれるのである。

この映画がAmazonでは高評価だった理由というのは、もしかしたら多くの人が、この映画を、さっきの「ある日突然出会った男2人の友情物語」とか「家族がいるということの大切さを伝えてくれる物語」とかいったふうに捉えたから、かもしれない。

つまり、わたしのように、この2人の生き方を、生への「執着」=死への「抵抗」とは捉えずに、「友情で最期を生ききる」とか「家族のありがたみを感じながら生きる」とか、そのように捉える人が多かったのかもしれない。



もし、わたしが大金持ちでも、あと余命半年などと宣告されたら、おそらく2人のような「余生」を過ごしはしないと思う。それなりに体力があったとしても、である。

たぶん、毎日毎日、不安にはなるのだろうけれど、同時に、きっと、

「ああ、もうこれで最期なのか……」

という、どこかポツンとしたさみしさや、しんみりした感じを、なんとなく味わい、でもそんな気持ちになるのも一方では悪くないなぁ、などと思いつつ……といった、非常に複雑な心境で毎日を過ごすのではないかと思う。



たぶん、2人のように奢侈贅沢を極めようとすればするほど、それに増して悲しさと寂しさが募っていくような気がするのだ。

嫌なことがあって、ツライことがあって、それを忘れよう忘れようと思い、遊びに夢中になろうとすればするほど、逆に、嫌なこと、ツライことが吹き出てきて、どうしようもなくなるといったような、そんな感覚と似ている。そんな感覚が、死ぬときにも、自分には起きるのではないかと思うのだ。

そういう感覚が心のどこかにあるせいでもあるのか、だからわたしはこの2人の「余生」の過ごし方に共感できなかったのかもしれない。

もうじき死ぬとわかっているのに、なにかこう、

「オレは遊び尽くしてやるぞ!」
「死なんか怖くないぞ!」

みたいに振る舞ってしまっているように見えて、それが強がっているように見えて(つまり「悪あがき」「往生際の悪さ」に見えて)、逆に彼らのことが切なく思えてしまうのだ。



無論、そういったものも嫌いではない。元気があって、それはそれでいいと思う。しかし、たぶん自分は、そうはなれないと思う。憧れのような気持ちもあるにはあるが、だからといって、彼らのような「不屈の精神」を真似ようとは思っても、自分だったら所詮は猿真似で終わってしまうのではないか。

そんなわけで、わたしは、ものごとの最後/最後というは、しんみりした気持ちで終える、というのが好きだったりする。なにかそういった感覚に、「美しさ」があるような気がして


関連記事