2013/03/16

「それは価値観の押しつけだ」という押しつけ

最近(でもないかもしれないが)、ネット上であるテーマや問題について意見を言うと(たとえば、ブログのコメント欄で)、「それは価値観の押しつけだ」といった反論が返ってくることがある。

こうした反論にまた反論するということに対して、以前からわたしはなんとなく「やりづらさ」を感じていた。しかし、「なぜ反論しにくいのか?」というのが、自分でもいまいちよくわかなかった。それで先日、ようやくわかった(?)ので、今日はそのことを書こうと思う。


●「それは価値観の押しつけだ」と言われた途端、感じる「後ろめたさ」


ネット上でなにかについて意見――「◯◯はするべき」とか「◯◯はやめるべき」とか――を言う。すると、それを見た人から「それは価値観の押しつけだ」という意見が返ってきたりする。

そういう意見が来るときというのは、概して当初述べた意見が、(多かれ少なかれ)「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったり、ということが多い。

だからだと思うのだが、それに異を唱えようとする一部の人にとっては、そういった意見を、意見人からの「価値観の押しつけ」と捉えるのだろう。

すると、「押しつけだ」と言われた意見人は、どことなく「後ろめたさ」のようなものを感じてしまうのではないかと思う。

無論、そんなことなど微塵も感じないという人もいるだろうが、わたしも含めて、「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という気持ちが、程度に差はあれ、生まれてしまう人もいるのではないだろうか(なので、これからする話は、どちらかというと、そのように感じる人向けになる)。

しかし、なぜ、後ろめたさや気が引けるような思いになるのだろう? わたしとしては、意見を述べた際、ほとんど(あるいは、まったく)と言っていいほど、「自分の意見でもって、他人を従わせよう」などという気持ちはこれっぽっちもなかったのに、ということがほとんどである。

なぜなら、ネット上で「不特定多数の人々」に対して意見を述べたのであり、誰か「特定の個人」に対して述べたわけではないからである。つまり、単なる「意見表明」としか、わたしは考えていなかったのだ。

でも、相手が「押しつけ」と感じるのは、やはり自分の意見が良くなかった、間違っていたからではないか、だから相手はそれを「押しつけ」という言葉で表現したのではないか?――ということを後になってグルグルと頭のなかで考えてしまう。


●「それは価値観の押しつけだ」論の構造


しかしどうも、この「押しつけ」という言葉は、ネット上では「したたか」な言葉になりやすい傾向があるように思う。

というのも、意見人に対して「それは価値観の押しつけだ」と言った瞬間、反論者は「善悪の二項対立」という形に持っていけるからだ。つまり、「価値観を押しつけた悪い人(=意見人)」VS「価値観を押しつけられた悪くない人(≒善人)」という形に、である。

しかし、当の意見人には、そもそも「押しつける」つもりなどなかった(あるいは、ない場合がほとんど)のだ。なので、意見人には、「善か悪か?」という概念など初めから存在しないのである。

しかし、「押しつけだ」と言われた瞬間、意見人のほうにも、さっきの「善悪の二項対立」という構図が心のなかに生じる。だから、彼(女)は「ああ、なにかまずいことを言ってしまったかなぁ」という罪悪感に陥るのだと思う。

すると、なんとなくこれ以上、意見人は意見を言いづらい感じになる。意見人の「意見内容」が吟味・批評されるべきところを、それが「強気」な意見だったり、ネガティブなニュアンスを含んだ意見だったり、あるいは、「一般ウケしない(しそうにない)」意見だったりというせいで、意見内容そのものよりも、むしろ「そういったたぐいの意見を述べた」という事実ばかりが批判対象にされるからである。


●ネット上で、価値観を「押しつけ」ることはできない


しかし、である。リアルの世界で、特定の個人に対して「べき論」を述べ、それを「価値観の押しつけだ」と反論されるならまだしも、意見を述べた場所はネット上なのである。

つまり、不特定多数の人々に対して述べたのだ(もちろん、ネット上でも特定の個人に対して述べる場合もあるが、それはリアルの世界の場合と同じになるので、ここでは考慮しない)。

ということは、そもそも「押しつけ」ようがないのである。なぜなら「押しつけ」られる「明確な対象」としての個人が存在しないからだ。なので、ネット上でなにか意見を言うことに対し、「それは価値観の押しつけだ」と反論するのは、筋違いなのだと思う。

この「それは価値観の押しつけだ」という反論の仕方は、ブログのコメント欄などでよく観察される。たとえそれが、「つぶやき」のような些細な主張であっても、である。

こういう反論をしてくる人というのは、おそらく「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった思いがあるのだろう。現に、そういうコメントをしてくる人もしばしば見受けられる。確かに、それはそのとおりだと思う。

しかし、「価値観というのは人それぞれだ」とか「誰にも人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」といった考えもまた、ひとつの価値観にすぎない。そのことを、この手の意見を強調してくる人たちはあまり認識していないように感じる。

にもかかわらず、そうした価値観を意見人に対して「強く」言い立てる(見方を変えれば、これも「押しつけ」である)というのは、さっきの「価値観というのは人それぞれだ」「誰にも他人の価値観を『正しい』とか『間違っている』などとは決められない」→「だから価値観の押しつけは良くない」とする論理と矛盾しているのではないか?


●己の価値観を自由に言えるのがネットのメリット


もしかしたら、「押しつけ」批判論者は、「強気」な意見やネガティブな意見、「一般ウケしない(しそうにない)」意見を見たときに感じた個人的な不快感や不満を、「それは価値観の押しつけだ」というセリフに変えることで、ある種の「自己防衛」をしようとしているのかもしれない。

しかし、今まで述べてきた通り、こうした反論は、ネット上という不特定多数の人間が自由にページからページを行き来する空間においては、無意味だと思う。

そして、意見人もたとえ「押しつけだ」と言われても、自分の意見を再考する必要は特段ない。なぜならさっきも言ったように、当人は「押しつけ」るつもりなんてないだろうし、そもそも「押しつけ」ようがないからである。

だから、ブログでは堂々と「自分語り」をしたり、己の価値観や信条をズバズバと主張すればいいのだ。そもそもネットとは、リアルではなかなかできないようなことを、させてくれる「場」なのだから。


――とはいってもまあ、これもひとつの「価値観」ではありますが。。。


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