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2013/04/13

ブログを書くことも、立派な「贈与」だ ― 『評価と贈与の経済学』

評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)評価と贈与の経済学 (徳間ポケット)
(2013/02/23)
内田樹、岡田斗司夫 FREEex 他

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話題になっているようなので購入。

不遜ながら、対談形式の本なので中身は薄っぺらいかなあ~なんて思っていたが、いらぬ心配だった。それどころか、わたしは普段二度読みをしない人間なのだが、今回は珍しく二度読みしたくなり、いま再読中である。



で、どんな本なのかというと、タイトルにもあるように、“これからは「評価」と「贈与」が、その人の所有する貨幣や地位よりもモノを言う(=大切になる)時代となり、またそれが理想の経済を築いていくじゃないか?”ということを、内田樹と岡田斗司夫が対談を通して確認し合っていく、というものだ。

昔は(といっても、いまもそういう部分はあるが)、「年収がどれだけあるか?」「職業はなにか?」「どんな会社の、どんな地位にいるのか?」などといったような、貨幣や地位が、その人間の社会的な「出来不出来」や「良し悪し」を決めていた、という側面があった。



ところが、これからはそうじゃないんだよ、と二人は言う。これ以上、著しい経済発展など期待できない日本において、生きていく上で大事になるのは、金銭の有無でも地位の高低でもない。

そうではなく大事なのは、他者からのその人自身の「評価」(=人間としての良し悪し、好かれやすいか嫌われやすいか)なのだ。そして、もし他者から良い「評価」を得たいと思うのなら、他者に何かを「贈与」しなさい、と二人はこの対談を通して唱え続けている。



ここでいう「贈与」とは、べつに特別な意味を持った言葉ではない。要するに、「人に何かをしてあげる」ということなのだ。文字どおり、なにかを無償で提供することは「贈与」だし、他人に親切なことをするのも「贈与」だ。ポイントは、「自分から」「他者へ」「無償で」「働きかける」ということである。そして、こうした「贈与」こそが、その人の真の「評価」(=良い評価)へつながるのだと言う。



実は、二人の言う「贈与」の大切さというのが、わたしには身に染みいるようにわかるのだ。「その通り! ほんと、そうなんだよなあ~」などと、本書を読んでいて何度も心のなかで首肯していた。

大学4年生のとき、就職活動が大変だった最中、とある会社がわたしを拾ってくれた。自分は文学部出身だし、もしかしたら就職できないかなあ~なんてうっすらと思っていたので、まさか内定がもらえるなんて思ってもいなかったのだ。

本当に運が良かったんだなあと今になって思う。で、その会社が、社員同士の懇親を目的としたパーティーを開くというので、新入社員となるわたしを招待してくれた。

そのとき、すごく嬉しかったのが、年上の先輩たちがみんな、わたしを親切にしてくれたことだった。その日に会ったばかりの、見ず知らずの人間に、「ここまで丁寧に接してくれるのか!」と、非常に感動した。

「これから、ビンゴゲームやるんだけど、このビンゴカード君にあげるよ」「これから若手だけで二次会やるんだけど、君も来ない?」――その晩は、至れり尽くせりといった感じで、わたしは「いい会社から内定をもらった」と強く思った。

ここまでしてもらえれば、当然ながらわたしは「この会社のために頑張ろう」という気持ちになっていった。



で、本書を読んで気づかされたのは、こういう「◯◯のために頑張りたい」という気持ちに、自然になれるときというのは、◯◯から自分へ何かが「贈与」されたときなのだ、ということだった。

わたしは、その会社から「優しさ」を「贈与」されたことによって、その会社に対する「評価」が大きく変わった。嬉しくてしかたなかったので、「この会社で一生懸命働こう」と思えた。まさしく、内田と岡田の言う「評価」と「贈与」の相互関係がいかに強いものかを、このときすでにわたしは体験できたのだ。



内田は言う。
「オレはおまえのためにこれだけの贈与をしてやる。オレに感謝しろよな」って言って渡すような贈り物はあんまりうまく回らないような気がする。あっちからパスが来たから、次の人にパスする、そうするとまた次のパスが来る。そういうふうに流れているんですよ。パス出さないで持っていると、次のパスが来ない。来たらすぐにワンタッチでパスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる。そういうものなんですよ。(p.149)

わたしのさっきの例で話をさせてもらうと、会社はわたしに「優しさ」という「パス」を出してくれたのであり、そういう「パス」を受けたわたしは、その「パス」に対し「一生懸命働こう」という気持ちで会社に対し「パス」を返そうとしたのである。

もしこれが、会社がなにも「パス」しなければ、わたしも会社に「パス」しなかっただろう。内田の言う、「パスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる」というのは、要するに「情けは人のためならず」ということであり、親切にした分(=親切という「パス」を出した分)、今度は親切にされる(=「パス」を返される)可能性がグッと高まるんだよ、ということを意味しているのだ。



そして、こうした「パス」は、もっと言うと貨幣に対しても当てはまると、内田は言う。
貨幣の本質は運動だから、貨幣は運動に惹きつけられるんです。だから、どんどんパスを出していると、「あそこはパスがよく通るところだ」って貨幣のほうから進んでやってくるんです。(p.149-150)

言い換えれば、「金は天下の回りもの」ということだ。逆説的だが、結局お金というのも使うことでしか増えないのである。それもほとんどの場合、人のために使う、ということによって。これも、理屈はさっきと一緒だ。



不思議だなあ、と思う。普通、「パス」なんかせずに、ひたすら何かを溜め込んでいさえすれば、価値のあるものは自分の手元に増えていくように考えるが、そうではないのだ。

ためこむのではなく、むしろ外へ「出す」。それも、自分のためにではなく、他人のために、である。他人のために、なにかを「出す」ことによって、そのなにかはめぐりめぐって自分のところへ返ってくるのだ。



ちなみに、ブログでものを書く、という行為も内田は「贈与」だと本書の中で言っている。というのも、ブログは普通の日記と違って他者指向の文章であり、それはその文章を読みたいと思っている人(=自分から見ての他人)への「価値」の「贈与」となるからだろう。

ということは、ブログは何らかの情報(=「価値」)を提供する(=「贈与」する)メディアだから、先の論理で考えれば、また別の何らかの情報(しかも、価値ある情報)が自分に返ってくる、ということになるではないか。

で、これは本当なのかというと、本当だと思う。少なくとも、いまブログをやっているわたしは、「そう言われてみれば、確かにそうかも」と思いあたるフシがある。



たとえば、

「ブログを書く(=他者へ「贈与」する)」



「思いの外、読者から好反響があった」



「もっともっと、おもしろいブログを書こうと思うようになる」



「そのためには、色々な情報や知識や知恵が必要だ」



「さらに色々な本やネット記事を読み漁る(=こうした行動をとるようになったのは、「読者からの好反響」という他者からの「贈与」があったため)」


といった、一連の流れがそうだと思う。


一見すると、ブログではこちらが書くだけだから、読者からの「贈与」なんて考えられないだろうが、そうではなく、読者がわたしを「色々な本を読みたい」「知識を身につけたい」という気持ちにさせてくれた、ということが、もうすでに、立派な他者(=読者)からの「贈与」となっているのだと思う。(無論、これ以外の形の「贈与」もあるだろう)



というわけで、他者への「贈与」って、想像以上に自分への恩恵として返ってくる、と考えてよい。

こういうと、「贈与への見返りを求めようとする下心がるから、それは良くない」とか「ちょっとでも見返りを期待している時点で、偽善じゃん」などと思われそうだが、重要なのは、「贈与」する動機ではなく、「贈与」するという行為そのものにある。そして、内田と岡田は「理屈は後回しでいいから、とにかく『贈与』とやらをやってみてはどうだろう?」という提案をしているだけなのだ。

「やらない善より、やる偽善」とはよく言ったもので、「まあ何でもいいから、人のために行動してみるということは、後々になって思わぬ効用が返ってくるよ」ということなのだろう。


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