2013/04/20

ネット記事の読みすぎは、自分の思考や感性を麻痺させる

暇な時間に、ネットの記事をよく読むという人は少なくないと思う。

そういう人は、そもそもなぜ、ネットの記事をよく読むのだろうか? いろいろな理由が考えられるだろう。たとえば、「タダでいろいろな情報が入手できるから」とか「スマホをいつも持ち歩いていて、いつでもネットができるから」などなど。

実はわたしも、最近まではよくネットの記事を読んでいた。が、いまはもう、ほとんど読まなくなった。理由は、以前と違って、いまはあまり読む時間がないからだ。それに、スマホも持っていないから、仕事の合間の空き時間や休み時間で、ネットの記事を読むということが、そもそもできないのである。



結果的に、わたしは「ネット記事をよく読む人間」から「ネット記事をほとんど読まない人間」へと変わってしまったわけだが、そうした行動の変化にともない、自分自身も変化したようにこのごろ感じている。

何が変わったのかというと、「大量に情報を吸収“しなくなった”ことで、(ある程度ではあるが)「自分で」さまざまな情報を吟味したり、考えたりするようになった」ところである。少々、陳腐な言葉ではあるが、このように感じている。



世間では、さまざまな情報をたくさん得ることは「絶対善」であるかのように見なす傾向があるように思う。それはそれでたしかに正しい面はある。しかし、情報をたくさん得るということは、そのぶん、たくさん得た情報について「じっくり」と吟味したり、考えたりする時間が奪われる、ということでもあるのだ。なぜなら、多すぎる情報はいちいち丁寧に検討することができないからである。

「じっくり」と吟味したり、考えたりすることができなかった情報というのは、たとえ一時的に頭のなかに入れておいても、その大半はすぐに頭から消え去る運命にある(学生のとき、一夜漬けして叩き込んだ知識の多くが、一週間もしないうちに忘れ去られるのと同じように)。つまり、皮肉かつ逆説的ではあるが、多くの情報を入手しようとすることで、結果的に多くの情報が頭から消える(=入手できなくなる)ことになるのである。



この点を踏まえたうえで、ネット記事というものを観察すると、そこにはある種の「落とし穴」があるように感じる。どんな「落とし穴」かというと、それは「手軽にたくさんの情報を仕入れることができるような仕組みに“なってしまっている”」ということだ。

そういう仕組みに「なってしまっている」以上、多くの人が多くの情報をネット記事から仕入れようとするのは当然である。というよりも、それが現状だ。だから、みんなせっせと記事を読みあさったり、記事から記事へと「サーフィング」したりするわけだが、さっきも言った通り、それは実は「自分の中に蓄えようとした多くの情報を、自分で消し去っている」にすぎないのである。



こんなことを言うと、こんな反論が来るかもしれない。「いや、そんなことはない。たとえ頭のなかに情報を蓄積できなくとも、はてなブックマークのようなサービスを使えばそれは克服できる。忘れても必要なときに情報を閲覧することができる」と。

しかし、なにかの記事をブックマークするという行為、それによって必要なときに再びその情報をいつでも見られる状態にしておくという行為は、その情報を「じっくり」と吟味したり、考えたりする行為とは別物である。



後者は、たとえるなら「濾過」である。ここに、大事な成分も不純物もいっしょに混ざり合った液体(=情報)があるとしよう。その液体を、濾紙が貼られたコップ(=自分自身)に流しこむ。すると、濾紙には不純物だけが残ったが、コップのほうには大事な成分だけがきちんと入っている。

ここでいう「濾紙」は、いわば「ある情報についてじっくりと吟味したり、考えたりするための時間」である。そうした時間という「濾紙」を、自分という「コップ」に貼りつけておき、そこへ情報という「液体」を流し入れる。こうすることで、「大事な成分」が自分のなかに残るわけだ。

一方、ブックマークするという行為、それによって必要なときに再びその情報をいつでも見られる状態にしておく行為というのは、大事な成分も不純物もいっしょに混ざり合った「液体」をそのまま「コップ」へ流し込む(あるいは、混ざり合ったまま放置しておく)感覚に近い。

その情報の真贋は定かでなくとも、とりあえずおもしろそうであれば、ひたすらブックマークしておく。そして気になったときに見る(見返す)――これでは、「たくさんの情報」を自分の外へストックできても、本当に自分の中へストックできるか(できたか)は怪しい。わたし個人の体験や感覚から言わせてもらうと、ネットの記事は9割は「読み捨て」で終わっている



「現代は情報社会だ」と言われるようになって、だいぶ経つ。しかし、いくら情報社会になっても、すなわち、いくら人間の外部に情報がたくさん出回るようになっても、ひとりの人間が情報を「じっくり」と吟味し、それについて考える時間というのは、当たり前だが昔と変わっていない

昔はいまと違い、出回る情報が少なかったため、必然的に少数の情報を「じっくり」と考察「せざるをえな」かった。しかし、そうした状態こそが結果的に多くの情報(いな、それはもはや「情報」というよりも「知識」や「知恵」や「思考の鋳型」と言えるものに近い)を頭に残すことにつながったのである。

しかし、いまは逆である。たくさんの情報があふれているため、たくさんの情報にササッと「触れる」程度の感覚になってしまったように思う。

「触れる」である。情報という代物を、「ガシっと手でつかみ、いろいろな角度から観察する」といった、そういう感覚ではない。

だから、結果的にたくさんの情報に接しているにもかかわらず、個々の情報はどうであったか、その情報から何が得られ、最終的に自分がどう変わったのか、といったことの検討については非常に希薄だったりするのである。



ということで、ネット記事は、タダで簡単にたくさん読める仕組みになっているが「ゆえに」、読みすぎてしまえば、それは自分の感性を麻痺させていく危険性がある、ということを十分に注意したほうがいいのではないか、と思う今日このごろである。

それよりもむしろ、自分がネット記事を書く側に回ってしまえば、自分のなかにある既存の情報の再確認や整理につながると思うので、ネットでなにかをするのなら、「読む」ではなく「書く」ほうがいいかもしれない。


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