2013/05/14

文章を「書ける人」になるには?

こんな記事を読んだ。いま話題らしい。

文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい - デマこいてんじゃねえ!

↑の記事によると、文章を「書ける人」は、


1、毎日少しずつでもいいから「知識」を蓄えていく。

2、どんなふうに言葉を「配列」していくかを考える。どんな「知識」を取捨選択していくかを考える。

3、文章を論理的に書く。しかし論理的でさえあればよいかというと、そうではない。情緒ゆたかな文章になるよう意識する(ここで言う「情緒」については、上記リンク参照)。



の3点を実行できている人のことらしい。


ふ~ん。なるほど。そうかもしれない。でもなんかちょっと、引っかかる。


まず、1番目の「知識」ウンヌンだけど、確かにその通り。やっぱり、どんなことを書くにせよ、これから書こうとすることへの「知識」がないと、なかなか書けないよね。当たり前だけど。

しかし、である。じゃあ、「実際に」文章を書こうとする段になると、もう「知識」がどうのこうの、なんて言ってられないのだ。

人を引きつける文章、誰かの心に響く文章。そういう文章を書くためには、たくさんのひきだしから多彩な知識を取り出さなければいけない。そして、そういう知識は短期間では身につかないのだ。(リンク先から引用)

↑はまったくその通り。しかし、じゃあ文章が「書ける」ために必要な「知識量」とは、いったいどのくらいなのだろう? 

そりゃあ、多ければ多いに越したことはないけれど、「実際は」そんなに「知識集め」をしてられないのだ。なぜなら、「知識集め」をすることと「文章が書けるようになること」との間には、ほとんど関係性がないから。「文章を書けるようになる」ためには、「知識集め」ではなく「文章を実際に(しかもたくさん)書く」以外、よい方法はないのである。

だから、「オレはこれから文章を書くぞ!」と決めたからには、もう「知識集め」をしてもムダ。おのれがいま持っている知識の量で、「作文」という「知的バトル」に挑むしかないのである。

無論、言うまでもなく「知識集め」はすごく大事だ。しかし、「文章を書く」段階にもなって、未だに「知識集め」をしているようでは話にならない、ということである。



そんで2番目について。どんなふうに言葉を配列していくか、どんな情報を取捨選択していくか、か。

こういった意識も大事だなあ~とは思う。少なくとも、意識しないより、したほうがいいに決まっている。

でも、である。「文章を書く」とは、「脳内で起こる戦争」なのだ。ものすごくめまぐるしく、頭の中が回転しているのだ。そしてその勢いでもって文章を書くのだ。

そんなとき、一々「ええっと、ここにはこんな言葉を持ってきて、最後はこんなふうに締めて・・・あっ、ここには読点があったほうがいいかな」なんて考えていたら、まず、死ぬ。何が死ぬかって、文章を書いていくときに起きる「勢い」や「躍動」が、である。

で、こういったものは絶対に殺してはならない。なぜなら、良い文章、おもしろい文章はこうした「勢い」や「躍動」と表裏一体の関係だからだ。

わたしは小説家ではないから、多くの作家先生がどのように小説をお書きになっていらっしゃるのか、存じ上げていない。なかには一字一句、ものすごく計算して紙面上に「配列」することによって、文章を練り上げている方もいるのかもしれない。

しかし、わたしはそんなことはしない。というか、できない。とにかくサッササッサと自分のオツムの中から言葉を紡ぎ出して、文章をつくっている。そうやって文章を書くのに必要な「勢い」を殺さないようにしている。いちいち、「ええっと、ええっと」なんてやってたら、文章書きという「知的バトル」を制することは到底できない。

これは、どんな情報を取捨選択するかについても同じ。いや、というよりも、勢いでもって文章を書いていると、勝手に頭が情報を取捨選択してくれる、といったほうが正確だろうか。自分が意識的に取捨選択するのではなく、もう自分から「離れた」状態で頭が自動的に「はい、次に必要な情報はこれ」といった感じで、ポンポンと蓄えていたものが出てくるのだ。

だから当然(さっきの話とかぶるが)、「知識集め」なんてものはやってられない。やってるヒマがない。そんなことをしていたら、「勢いでもって文章を書く」ということができなくなってしまう。チンタラチンタラと文章を書くハメになる。だから、「とりあえず」現時点で頭に叩き込んだ知識でもって、作文という「知的バトル」に挑むことになる(というか、そうせざるをえない)。



最後に3番目について。「文章は論理的に書け」は、もう中学生でも言われるようなことだね。だから「いまさら?」感はあるのだけど、でも大事なことだから、わたしはこれは「ちょっとだけ」意識している程度かな。

一方、「情緒的に」のほうがあんまり言われない。これもこれで大事かもしれない。しかし、論理の重要性と比べたら、こちらの重要度は低い。というのも、「言葉の情緒面を大切に」ウンヌンなんて言われても、ほとんどの読者は「言葉の情緒面」なんか気にもとめないからだ。

でも、ロジックは気にする。なぜなら、これがズレれてしまえば、「ほこたて」な文章になってしまうから。「ほこたて」な文章というのは、当然相手に信用されません。だから、ロジックのほうが大事なのだ。

それに、である。普段わたしは大量に文章を読んでいるのだけど、言葉の「配置」だの「情緒面」だのを気にすることっていうのは、ほとんどない。気にするのは、筆者の「言い分」(文章内容)と論理だけだ(当たり前すぎるくらい当たり前だけど)。

それ以外、大して気にしない。仮に気にしたとしても、すぐに忘れる。つまり、わたしにとっては「配置」だの「情緒面」だのといった要素は、「その程度」の存在でしかない。

いや、もちろん、「言葉は大切に扱うべきだ」という意見には大いに賛成する。言葉は、鋭利な「武器」だ。言葉は、人の肉体は殺めることはできなくとも、人の精神を殺めることはいとも簡単にできてしまうからだ。その反面、些細な一言で他人を大いに元気づけることだってできる。言葉とは、そんな不思議な、そして鋭利な「武器」だとわたしは思っている。

しかし、だ。大量を文章を書いていると、そんなことなどすぐに忘れてしまう。とにかく言葉を紡ぎだすことに夢中になってしまうからだ。「そんないい加減な状態で、ほんとうに文章が書けるのか?」と言われそうだが、答えは「書ける」である。実際に、文章を「すばやく」「たくさん」書くことだけを意識してみれば、それがわかると思う。



――ということで、上記の記事の言っていることはもちろん大事なことが少なくないのだけれども、あんまりこれらに意識を囚われすぎると逆に文章が書きづらくなるんじゃないかなあとは思う。

「とにかく、書け。もし文章をうまく書きたいのであれば」――これに尽きるんじゃないかな?
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