2013/12/22

読書した後は、「考え」なくていい

読書術本とか自己啓発本を読んでいると、ほとんど必ずと言っていいほど「読書した後は、考えるという行為が大事だ」「本を読んだら、その内容について考えなければならない」といったことが書かれてある。

しかし、「考える」という行為は、そんなさらっと簡単に言えるほど簡単にできる行為だろうか? わたしは前からこのことに疑問を感じていた。

わたしは、読書をした後、改まって何かを考えるということはしない。読んでいる最中でさえ、考えるということをしていない。というよりも、読書中に何かを考えていられるほどの余裕は、わたしの頭にはない。

わたしが何かについて考えるときというのは、だいだいの場合、その何かについて不満や不快感をもっているときである。そのことに納得がいかないから、そのことを考えるのだ。

読書をしている最中、あるいは読書をした後というのは、ほとんどの場合、不満も不快感もない。なぜなら読書をしている最中はその本の中身に夢中だし、読書をした後は充実感で満たされるからだ。

無論、本を読んでいて納得がいかないことが出てくると「これはそういうことではなく、○○ということではないのか?」と思うことはある。が、それはあくまでも「思う」程度のものであって、おおまじめにそれについて「考える」などといったことはしない。

何かについて「考える」という行為は、その何かが「切実に」自分と関わってくる場合においてのみ、なされる行為だと思う。逆に言えば、その何かが「切実に」自分と関わってこないのであれば、いちいちその何かについて考えたりなどしない、ということだ。つまり、われわれはそんなに「暇」ではないのである。

たかだか読書をして、そこに書かれてあることが「切実に」自分と関わってくることなど、そうそうあるものではない。自分と「切実に」関わってくるものは、いつでも自分の目の前に立ちはだかる「現実」である。仕事という現実、人間関係という現実、経済事情という現実……その「現実」にぶち当たった時、それを乗り越える「術」として、われわれは初めて「考える」という行為をするのである。

だから、「読書した後は、考えることが大事だ」という言葉を、その通りに、真に受けないほうがいい。まじめな人ほど、読書術本や自己啓発本の著者が言うそのセリフにこだわってしまうかもしれないが、そんなものは無用である。読書をしたあとに、いちいち「考える」などという、大変にエネルギーを使う行動をしていたら、自分の身がもたない。

同様に、「読書をしたら、そこで得たものをアウトプットせよ」などという言葉も無用である。アウトプットなど、所詮は読書後に起きる、「偶然の副産物」程度の存在にすぎない。アウトプットは二の次、三の次なのであり、本来重視しなければならないのは「読書をすること」そのものではないか。

読書後は考えろだの、アウトプットしろだの、最近の読書術本、自己啓発本は特にうるさく言うようになったが、そのせいで読書そのものを楽しめなくなってしまえば本末転倒である。
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