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2014/02/09

【国立劇場】2月文楽公演

H26-2honchira-omote[1]

文楽観劇日だった昨日、あいにくの大雪とぶつかってしまった。

事前に予約してあるとはいえ、こんな日にわざわざ文楽を観に行く人というのは、相当の物好きと言えるのではないか。

足元は積もった雪でグチャグチャ。空からは粉のような吹雪。国立劇場に行くまでが一苦労である。とはいえ、雪舞い散る中の国立劇場というのは、なんとなく妙な趣と落ち着きがあった。



さて、昨夜鑑賞したのは、第三部(18:15~)の「御所桜堀川夜討」(弁慶上使の段)と「本朝廿四孝」(十種香の段/奥庭狐火の段)だ。上に掲げた宣伝ポスターに写っている八重垣姫の後ろ姿が、非常にいじらしくてかわいい。そして「廿四孝」のイヤホンガイド解説員は、安定の小山観翁氏。しんしんと積もる雪の日の、仄暗い場内で、この渋く淡い翁の声を聞きながら文楽を観るというのは、なかなかの贅沢である。

ところで、文楽を観ていて面白いと思うのが、人形を動かす人たちが、舞台上で堂々と姿を見せているという点だ。もっというと、義太夫や三味線の人たち、黒子も自身の姿を観客に見せているのも面白い。

無論、これは文楽に限ったことではない。歌舞伎や能でも同様である。なぜ、日本の古典芸能は、こういった「裏の人たち」(「表の人たち」は、人形や役者)も、観客に見えるようにしているのだろう?

これが、西洋モノの演劇だと違う。西洋モノの演劇は、こういう「裏の人たち」は、あくまでも「裏」に徹しており、「表」には出てこない。たとえば、劇団四季だと、音楽を奏でる人たちは、舞台上には決して姿を現さないし、黒子のような人たちもいない。それから、昔NHKでやっていた「ざわざわ森のがんこちゃん」とか「ひょっこりひょうたん島」とかは、どちらかというと西洋風の人形劇だが、やはり文楽のように人形遣いの人たちは姿を見せない。



わたしはどちらかというと、こうした日本的な劇の演出方法が好きだ。理由は、西洋劇やその流れを継いだ現代劇にはない、こういった演出が新鮮だからだ。しかしその理由以上の理由があって、それは「裏の人たち」を決して「裏の人たち」のままで“終わらせない”ところ、「裏の人たち」も、劇の立派な“出演者”であり“役者”なのだ、と考えているところ――こうした古の日本の演劇哲学に好感が持てるからなのだ。

もっと言えば、「仲間はずれ」にしない、「差別」をしない、とでも言い換えられるだろうか。

「あなたは役者ですよ。だから、表舞台に出て演じてください」
「あなたは音楽を奏でる人ですよ。だから表舞台には出てこないでください」
「あなたは人形を操る人ですよ。だから舞台上で姿を見せないでください」

こういう考え――いじわるな言い方をすれば、「仲間はずれ」や「差別」――がない、というのが日本の演劇の良いところだと思う。



そういえば、民放のテレビドラマなどで、最後に(あるいは最初に)番組制作に携わったプロデューサーやディレクターの名前(=クレジット)が画面下に流れるが、これが海外ドラマだと、ドラマが終わったあとにクレジット用の場面に移る。もちろん、日本の場合だと番組の尺の都合とか色々理由があってドラマ中にクレジットを流すのだろうが、それでもドラマ中にもうクレジットを流してしまうというのは、よく考えてみると変(?)というか、面白い感じがしないでもない。

これも、大元はやはり、「裏の人たち」に対する敬意の表れ――「裏の人たち」を「仲間はずれ」にしないという考え――から来ているのかもしれない。「ドラマは表舞台で活躍した人たちだけのものじゃない。みんなの力があってこそのものじゃないか」――そういう思いが、古から今に至るまで受け継がれているのだろうか。


――と、いつものごとく話が寄り道ばかりになってしまったが、今日はこのへんで。
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