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2014/04/27

「人間臭さ」がないと、何も残らない。

「はてなブックマーク」というサイトがある。私はそこで、いま注目されている記事をパラパラと見るのだが、そこで人気になる記事というのがほとんど、実利的な記事(「~する時に役立つ◯◯トップ5」とか「知らないと損する☓☓の裏ワザ10」とか)である。エッセイとか「◯◯を見た感想」とか、そういう記事はあまり見かけない。

無論、はてなブックマークを使う人たちは実利志向が強いから、というふうにも考えられるだろう。また記事を書く方としても、実利的な記事のほうがウケがよく、PV数も稼げるから結果的にみんな実利的な記事ばかり書き、エッセイ系の記事は書かない(書きたくない)のかもしれない。

こういった傾向というか趣向を見ていると、多くの人が「すぐ役立つ情報(役立ちそうな情報)」をネット記事に求めているのだなと感じる。しかし、私個人の経験からすると、そういう記事(あるいは、そういう記事を提供している側)というのは、その記事を観られた瞬間、もうすでにその記事は「用無し」になってしまっている。その記事が載っているブログやサイトも、次に来る「役立つ記事」が提供されるまでは「用無し」だ。つまり、「役立つ記事」がなければ、何も頭や心に残らない。残るのは、ただ「役立つ情報」とその情報が「自分に提供されたという事実」だけだ。

僕はこういう実利的な記事を読むのがあまり好きではない。エッセイや意見文のような記事のほうが好きだ。実利的な記事が多いはてなブックマークに訪れるのは、わずかな期待を持ちながら、そういったエッセイや意見文のような掲載数の少ない記事を読みたいからである。

しかし、なぜ僕はそういう記事が好きなのだろう? こういうことを書いていてふと頭の中に思い浮かんできたことなのだが、それは、少しカッコ悪い言い方になるが、そういう記事に「人間臭さ」が表れているからなのだと思う。

なんというか、「今日、外でこんなことがあったんだけど、オレはそのときこう感じた」とか、「世間では◯◯は良く言われてるようだけど、でもそれって違うと思う」とか、そういう個人の思いや考えというのは、すごく「人間臭さ」が出ていて、興味が湧いてしまう。そういうものを読んでいるとき、もはやその人の言い分やモノの見方に共感する/しないなんていうのは、すごくどうでもいい瑣末なことなのだ。「ああ、世の中にはこういうふうに考える人がいるんだ」「こんな感じ方をする人がいるんだ」という、ただそれだけのことが知れるだけで僕はすごく楽しいし、おもしろい

いま、ネット上のあらゆるところで「感情論」というものが毛嫌いされているように思う。ちょっとばかり、主張したいことに情が混じると、すぐに相手から「そんなの、ただの感情論だ」という批判に晒される。なんだか、「エビデンス(証拠)がなければ、何を言ってもムダである/信用してはならない」みたいな雰囲気が、どこもかしこにも横たわっている気がする。最近流行りの「統計学で◯◯をウソを見破る」とか「ビッグデータ解析で、本当の☓☓を探る」といった記事や本や企画も、そういった空気が蔓延する中だからこそ、こんなにも支持されているのではないだろうか。

だが、最後に人の頭や心の中に残るもの、残り続けるものというのは、結局、さっき言ったような「人間臭い」ものだと僕は思う。例えば、ありとあらゆる「芸術」と呼ばれるものが、時代を超えて保護され大事にされるのは、そこに遥か昔から変わっていない「人間臭さの極北」があるからではないか。その「人間臭さの極北」に、その時代その時代の人たちが魅了されてきたからこそ、それは「芸術」と呼ばれるまでになり得たのではないか。

僕が、ある人やあるモノに関心を寄せる時というのは、その人やモノから漂う「人間臭さ」感じ取った時である。その人が偉業を成し得た時に、ということもあるが、それはほんの一時的なものにすぎない。その「一時」が「常時」に変わる時というのは、必ずその人の「人間臭さ」に触れた時である。

振り返ってみると、僕が面白いと思った本、そして手元に置いておきたいと感じる本は、やはり「人間臭さ」が滲み出ている本である。くだらないかなあと感じつつも、でも買って読んでしまう「人生論」的な本は、本当に「人間」の「匂い」がする。だからついつい、「人生論なんか読んでもねえ」とは感じつつも買ってしまうのだろう。

読書、ということでさらに言わせてもらうと、僕は本に実利的な情報を求めることがほとんどない。「◯◯ができるようになる方法」とか「すぐに☓☓がわかる本」といったものを買うことはすごく少ない。理由は、やはり頭や心に何も残らないことが多いからだ。◯◯や☓☓ができたり、わかったりしても、ただそれ「だけ」ということで終わってしまう。それ以上の、たとえば自分の中でそれを反芻したり思い返したり、といった「読んだその後に来るもの」がない。

もちろん、実利的な記事や本が悪いなどとは思わない。それを求めている人たちがいる以上、それは確かなニーズを満たしているのだから、これから先も生まれ続けるだろう。しかし、ニーズを満たし得た時点で、それ以上のものは何も生まれない。発展することもない。それが実利というものだ。実利を志向するというのは大変シビアなもので、そのものに明確な「対価」や「効果」がなければ、それはゴミクズ同然の扱い受けてしまうのだ。

「すぐに役立つというのは、すぐに役立たなくなる、ということだ」という逆説的な言葉の意味するところはすなわち、「すぐに役立つ情報を得た時点で、その役立つ情報を提供した側はすぐに用無しとなり、また“すぐに”役立つことが実証されなければ、もはやその情報自体も用無しであり、“すぐに”役立ったとしても、“すぐに”は、すぐ過ぎ去るのだから、すぐに役立たなくなる」ということなのだと思う(以上は、個人的な解釈である)。

もし、読み継がれるに値する記事を作りたいと思うのなら、どこまでも自分の書くものに対して「人間臭さ」を求めたほうがいいのではないか――いま、私はそういう気分である。
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