2014/04/29

【観世能楽堂】『古典への誘い』を鑑賞した。

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おおよそ一ヶ月前であるが、観世能楽堂で海老蔵の「古典への誘い」を見た。

能楽堂というのは、会場内がすごく小さいので、ちょっとの人ですぐいっぱいになる。今回も例に違わず、観世能楽堂に海老蔵が来るということで満員だった。

始めに、場内が急に暗くなったと思ったら、会場後方の入り口から海老蔵がグレーのスーツ姿で入ってきた。衣裳も化粧も身につけていない、「生の」海老蔵を見たのはその日が初めてである。

格好良かった。ただ、その一言だけだ。それ以上の言葉はもう、いらない人だった。会場内は、女性で7割くらい占めていたように思うが、女性が多く集まるのは当然のように思えた。こんな粋で格好いい男が、能楽堂という厳かな場所で舞踊を披露してくれるのだから。女性も負けじ劣らず、着物姿で美しかった。

始めるにあたってのオープニングトークということで、海老蔵は能と歌舞伎の魅力、歴史を語った。このあたりのことは、能楽堂に集う者たちにとって、もはや不要ではないかとさえ思えるような内容だったが、それでも海老蔵の口から語られると、改めて「何か高尚なものを勉強した」という気分に浸れてしまった。よく「何を語るか、ではなく、誰が語るかが、人を魅了するときに大事な点である」などといったことを耳にするが、まさにその通りだった。

今回の演目は、半能「石橋」と歌舞伎「連獅子」である。なぜ、数ある演目の中からこの2つが選ばれたのだろう? 思うに、どちらも役者の動きに明確な緩急があって人を惹きつけ、鳴物も素晴らしいからではないか。それに、どちらも獅子が出てくる。獅子の面をつけた能楽師と、獅子の隈取をした歌舞伎役者。両者ともにその迫力が凄まじい。歌舞伎はともかく、能というと「ゆったりと静かな動きをする芝居」というイメージを持っている者にとって、「能にも、こんな激しい芝居があるのか!」と驚かされるに違いない。

しかし、この企画、実に贅沢だ。いや、贅沢過ぎるといっても過言ではない。なぜなら、能楽堂で能と歌舞伎を一気にやってしまおうという試みなのだから。海老蔵も言っていたが、これが安土桃山の時代ならばありえない。当時、能は貴族階級の芝居であり、歌舞伎は庶民のための芝居だった。そこには、今とは異なる「聖俗」の線引がはっきりとなされていたのである。それを現代の、平成の渋谷で、両方をまとめてやってしまうというのだから、当時の貴族・庶民からしてみれば、まさに「夢の組み合わせ」なのだ。

歌舞伎「連獅子」というと、あの豪快な「毛振り」が有名である。無論、今回もそれが観られたわけだが、能楽堂という舞台と、あの小さな会場のせいなのだろうか、ものすごく盛大な光景として今でも僕の目に焼き付いている。何せ、親獅子(海老蔵)が真っ赤な毛を、そして子獅子(福太郎)が真っ白な毛を、力強く振り回しながら、能楽堂の橋懸かりを渡っていくのだ。

橋懸かりの脇にある松と、舞台後方にある鏡板、そして紅白の牡丹の花――それらを背景に毛を回しながら、魅惑に満ちた獅子がそこに現れる。実に異様ではあったが、同時にそれに目を奪われて恍惚としている自分が座席にいたのである。

舞踊というのは、瞬間の芸術だ。絵画や骨董品のような、「常にそこにあるもの」ではない。一瞬一瞬ですぐに消え去っていく芸術である。しかし、それが何とも言えない、舞踊という芸術の魅力なのだ。決して、ビデオカメラで捉えて収まりきれるような代物ではない。

この日は、本当に優雅な気分に浸れた最高に一日だった。帰りに、渋谷のジュンク堂で『風姿花伝』を買ったくらいだ。終わった頃にはますます、「もっと歌舞伎と能を観なければ損だ」とさえ思うようなっていた。

(※画像は前回公演時のもの)
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