2014/05/05

能を、見た。

能と歌舞伎には、共通点がたくさんある。が、豪華絢爛で熱気ある歌舞伎と比べ、能は本当に「冷静」だ。共通点は多いものの、両者最大の違いは、この「温度差」ではないだろうか。

まず、能楽師たちの登場の仕方が異様である。彼らは摺り足で、ものすごくゆっくり歩く。本当に、本当にゆっくりだ。まるで足腰悪そうな老人のようである。しかし、歌舞伎役者が花道から颯爽と登場してきた時の、胸躍る感じが、わたしにはこの、能楽師たちの登場の仕方にも同様に感じるのである。

なぜだろう? これが能という「芝居」(否、わたしには一種の「儀式」のようにも見えるのだが)のおもしろいところだ。理由を考えてみるに、それはこの登場の仕方が現代人にとっては「異様」に見えるからではないか。何せ、舞台への「登場」である。普通ならば、どこかわっと出てみたい、そして喝采を浴びたいという気持ちが、何かを演じる者の気持ちにはあると思う。また、彼らを見る観客たちも、無意識にそういう登場の仕方をするのではないか、と期待していたりもする。

しかし、能はそんな気持ちを押し殺すかのように、わっとは出ず、むしろ正反対の登場の仕方をするのだ。揚幕がゆっくりと上がり、そこから無表情な男たちが、摺り足でぬっと現われるその光景――テレビドラマを始めとした現代劇にどっぷりと浸った今の人間たちにとって、これがどうして異様に映らないことがあろうか。

だが、この「異様」も一度慣れてしまうと、今度はとたんに「退屈」へと変わってしまいやすい。能は、そのあらゆる所作やセリフがどれもこれも「異様」である。が、この「異様」は「退屈」と隣合わせなのだ。事実、わたしは慣れてしまい、今回の芝居でもウトウトすることがあった。

能は、能自身が現代人へ「すり寄ってくれる」ような芝居ではない。われわれ現代人が、能を理解してみようという気持ちがない限り、おそらく一向に理解不能なものなのだ。その点、歌舞伎はまだ「親身」だ。ミュージカルな要素が強い分、こちらが特段の知識がなくても、なんとか楽しめる(それでも所詮は「なんとか」という程度のものだが)。しかし、能にその理屈は通用しない。能は「親身」ではないのだ。こちらから、能に対してアプローチしない限り、能はわからないのである。

とはいうものの、では本を読んで、ちょっと話のあらすじを知った程度で楽しめるものか、といったら、実はそうではない。歌舞伎はそれで十分楽しめるが、能はそうはいかない。これはまあ歌舞伎にも言えることではあるが、能は何度も「根気強く」見て、ようやく「ああ、そういうことか」となれるのだ。関連の書籍を読んでおくのは当然として、それにプラス「何度も何度も、根気強く見る」という態度が、能を楽しむためには必要なのだ。

なんとも、まあ「面倒な」芝居だろう――そう思われるだろうが、そういう感覚になって当然である。実際のところ、「面倒」な芝居である。それもそのはず、なんだかよくわからない登場の仕方をして、なんだかよくわからにセリフを口にして、なんだかよくわからない舞をして、なんだかよくわからないストーリーで・・・というのが、能の事実なのだから。

しかし、だ。では、なぜこんな「面倒」なものが、600年以上も続いているのだろうか?

それは、遥か昔に成立した能の「権威」のおかげだろうか? いや、違う。いくら権威があろうとも、所詮そこに「含蓄」がなければ、どこかの時点で滅んでいるはずだ。長きにわたって支持されている以上、そこにはなにか人を惹きつけるものがある、と考えるほうが自然ではないか。

実は昨日、わたしはその「含蓄」とやらに、ちょっと触れることができたような気がするのである。それは、観世能楽堂で「海士」を見ていたときのことだ。正直なところ、話の筋はもうほとんど覚えていない。だが、龍女となったシテが、舞を舞っていたとき、その姿を見て、ピンと来るものがあったのである。そのときのことをうまく言葉にすることができないのだが、それでもなぜか、彼女の姿を見て「ああ、そういうことか」となったのだ。

能の魅力、だったのだろうか、それと思しきものに邂逅できた瞬間だった。
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