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2011/02/25

“文系型人間”が科学嫌いになる本当の理由 ― 『科学コミュニケーション』

2012.7.21追記:人文学そのもののあり方についてはこちらで論じてみた。



科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)科学コミュニケーション-理科の<考え方>をひらく (平凡社新書)
(2011/02/16)
岸田 一隆

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「読んでいてイマイチな科学書とハマってしまう科学書の最大の違いって何だろう?」


ようやく解決した。

単純に「数式が出てくるから」嫌いになるとか「専門用語が分かりやく解説してあるから」好きになるというワケではなかったのだ。著者の言葉を借りるなら「科学コミュニケーション」の欠如。これだ。サイエンスライターの方々、是非ともこの本を読んでいただきたい。




◎数式や専門用語の登場が科学書嫌いになる原因なのか?


まずこの本の一番スゴイところ。

それは「理系出身」の著者が、いわゆる“文系型人間”(ここでは“科学全般に関心のない人”という意味)の「理系嫌い」になる気持ちをきちんと理解している点。私は「文系出身」だから“文系型人間”が理系関連の書籍を嫌う理由を理解している「はずだった」。「科学書って数式やら小難しい専門用語が出てくるからウザいんだよなあ。だから文系は科学書なんか興味持たないんだよ、きっと。」そう思っていた。この本を読むまでは。で、7割方この考えは間違いだった。

一般向けの科学書に多少の数式や専門用語が出てくる、出てこないといった理由で、“文系型人間”は科学書や科学そのものへ興味が持てたり持てなかったり、好き嫌いが分れたり、ということはあまりないのだ。私が過去に読んだ科学書の中でハマったものを振り返ってみると、普通に数式やら専門用語やらがワンサカ出ているではないか。にもかかわらず、夢中で読んでいた自分。「数式や専門用語が出てこない科学書なら興味を持つし好きになる。そうでなければ興味は持てないし嫌いになる」この基準はおかしいのである。



◎「科学コミュニケーション」の有無


では、興味を持つ(もしくは好きになる)科学書と興味を持てない(もしくは嫌いな)科学書の二種類に分れてしまう、本当の理由は何なのか?そう、それが冒頭でも述べた「科学コミュニケーション」が科学書にあるかないかなのだ。ここで「科学コミュニケーション」とは何か、本書から引用しておこう。

おおまかに言って、文系と理系の間の溝、専門家と非専門家の間の溝、これらをつなぐためのコミュニケーションという目的意識と意味合いが含まれている言葉だと思って大筋では間違いではないでしょう(p25,26)

「コミュニケーション」とは、すなわち互いの「考え」や「気持ち」を共有することである。これを通して、理系の人間が何を考えて科学書を書いているのか、文系の人間が科学書に何を求めているのかが分かるのだ。さきほど述べた「数式や専門用語が出てこない科学書なら(科学に興味のない文系の人でも)興味を持つし好きになる(だろう)」というのはホントのところ、理系の発想なのだ。文系人間と「コミュニケーション」することもなく、理系視点で科学書を書いてしまっていたことに「文系型人間が科学書嫌いになる」という問題が起きていたのである。

では、文系型人間が科学書に求めているものとは何か。それは「科学書を読むことで得られる共感」なのだ。



◎科学書に必要な「共感」という要素


とある話を聞いて皆が笑っているのに、自分だけ笑えない。そんな経験はないだろうか?そういう時、誰でも普通は「つまらない」という気持ちになるだろう。みんなと「楽しい」「面白い」を共有したい(共感したい)のに、それができない。だから「つまらない」と感じてしまう。しかしだからといって話された内容を「解説してもらい」たいわけではない。あくまでも「楽しい」「面白い」を共有(共感)したいのである。

科学書の場合もこれと同じだ。科学書を読むことによって“その科学書を書いた著者の「楽しい」や「面白い」という気持ちを共有すること”を、文系型人間は(無意識に)望んでいる。書いてあることは理解できるけど、読んでいてつまらない本とは、例外なくこのタイプではないだろうか。

逆に多少難しい話ではあっても、そういった気持ちが著者と読者で共有できている場合は、例外なく「面白い本だ」という感想が持てる。べつに「楽しい」や「面白い」だけを共有する必要はない。「わくわくする」でも「不思議だ」でも「難しい」でもいい。大切なのは、著者と読者の気持ちが共有できるということである。

私の好きな科学書というのは、一人の科学者が主人公になって話が進んでいく本である。その科学者が何かに一生懸命であったり、悩んでいたり、喜んでいたり、また科学史の一部を作っている姿を、文字を通して想像するのが好きなのだ。 逆に自然現象の解説ばかり書いていてある本は飽きてしまう。「ふーん、そうなんだ」という「感想」は得られても「感動」は得られなかったり、というのがしばしばある。嫌いなわけではないが、解説がメインになってしまうと個人的にはその先も読みたいという気持ちが失せてしまう。

「追体験ができない」という表現がぴったりだろうか。現象の説明でも、それを頭の中で体験することができれば面白いと感じるのだが、それができないような内容が続くとダメなのかもしれない。著者がいくら「科学ってこんなに面白いんだよ」と思って書いてくれても、読み手とその「面白さ」が共有できなければ、結局は「つまらない」という感想を持ってしまう。



◎「共感」が必要なのは科学書だけではない


ここまで、エンエンと科学書のことについて書いてきたが、なにも科学書だけの話ではないだろう。どんなタイプの本(歴史系、政治系、経済系の本など)についても言えるはずだ。もちろん、「書評」もこのことは当てはまる。(と言ってしまうと、私は本当に恐縮である。)大切なのは、「自分語り」に陥ってしまわないことだろう。日常でも、自分の好きなことや得意なことを友人や知人にただ語りまくっていれば、「ウザイ」と思われるのと一緒だ。

そうならないためには、興味を持っていない相手にどうしたら興味を持ってもらえるかを考えて語るのがよいだろう。客観的に見て、「こうすれば相手も嫌がらないし、興味をもつかな」という感じで。しかし、万人ウケする本などありえない。だから7割ほどの人に興味をもってもらえるように配慮するのがベストではないかと思う。そして、こういった本や書評が増えればいいのに、と思う今日このごろ。
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