2014/07/11

「深夜ラジオ」的な個人ブログ

ここ最近、何も書いていなかったので、以前からなんとなく「ブログ」というものに対して感じていたことを書こうと思う(とはいっても、これからする話は、正直なところ「わかる人には本当によくわかるが、分からない人にはまったくピンと来ない話」になると思う)。

いい感じの「個人ブログ」(全然有名でもなんでもない、ごく普通の一般人が書いたブログ)というのは、どことなく「深夜ラジオ」的なものを感じる。

なにかこう、ダラダラと話をするのだが、決してつまらなくない。むしろ、それを聞き終わった後、妙にその後も話の中身が頭の片隅にあったりする――いい感じの「個人ブログ」には、そんな香りが、僕にはするのだ。

無論、すべての個人ブログに対してそう感じるわけではない。むしろ、そう感じる個人ブログは多くないだろう。だが、個人ブログの中で、なにか独特の「味」があるようなブログというのは、漏れなく「深夜ラジオ」感を漂わせている。

「深夜ラジオ」感を漂わせているためか、そういうブログは、どうも、しんとした雰囲気の中で一人静かに読んでみたくなる気がする。決して、喧騒な街中とか賑やかなカフェとかで読もうとは思わない。そう、夜も更けてきた頃、部屋でひとりになったとき、読みたくなる。

僕は最近、このブログをそんな雰囲気のブログにしたいと感じている。決して目立つことなく、人入りが少ないものの、このブログになんとなく気が惹かれる人たちだけが、個々人で僕の文章をひっそりと読んでもらって、お互い、感想とか意見とかも共有しない、ただただ己が感じたこと、思ったことだけを、己の中だけにとどめておいて、ふとした時に、まあちょっと他人に話してみようかなぐらいの、そんなものを提供できるような「深夜ラジオ」的なブログにしたいと思っている。

というのも、よくゴールデンタイムのテレビとかで耳にする「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」的なノリが、なんか嫌なのだ。偽善臭さと胡散臭さを感じるのは言うまでもなく、なぜ「みんな」で「共」にしなければならないのか、という点が、よくわからないし、納得できないからだ。

何かを観たり読んだりして、それに対しどんな感想を持とうが、それはその人の勝手である。「感想」というのは、安易に他人と「共」にしてしまうと、「感想」ではなくなると思う。それはもう、「みんながそう感じているのだから、そう感じない人がおかしい」みたいな、アホらしくて意味のない一体感ではないか。

話は逸れるが(もうすでに逸れてはいるが)、いまの若い人たちがすごく恐れているもののひとつに「ひとりぼっちになること」あるいは「浮くこと」が挙げられる。これは、突き詰めて考えれば、「みんなで共感し合おう」「感動や楽しさを共有しよう」という「ゴールデンタイムのテレビ」的なノリに合わせられないヤツは存在を認めない、許さないという暗黙の雰囲気が横たわっているからだろう。

一方、「深夜ラジオ」的なノリは、その正反対を行く。「勝手に個々人で楽しめばいい」「ワイワイ騒がず、ひっそりと」「大勢で、よりも、むしろひとりで、を推奨」が「深夜ラジオ」的なノリだ。私は好きだ、こういうの。なんというか、「いい大人な感じ」がしてたまらない。

新規にブログを立ち上げると、どうしてもアクセス数が気になって、なんかこう、意味もなくハイな感じの文体で、意味のない記事を乱発したりしてしまうかもしれないが、どうせそんなの、後でボロが出るのだ。後で読み返してみたとき、「あれ、なんか違うな」という感じに襲われるだろう。

そういう人には、無理せず、「深夜ラジオ」的なブログを目指してみたらどうだろう、と言いたい。人入りは少ないし、パッとしないから一見つまらなく見えてしまうが、やっていく内にだんだん楽しくなると思う。

いい感じの個人ブログと、深夜ラジオの共通点は、どちらも「ローカル感、マイナー感の“積み重ね”がある」という点に尽きる。大衆受けは決してせずとも、でもネタをちょっとずつちょっとずつ積み重ねてきたから、それがいい感じに醸しだされている、といった感じだろうか。だから、どちらも何とも言えない「魅力」があるのだ。

「深夜ラジオ」的なブログ――これが、個人ブログの理想だと思う。
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