2014/07/16

「分析」されることが大好きな日本人 ― 『日本辺境論』

日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)
(2009/11)
内田 樹

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とりあえず、手近にある新刊で読みたい思う本がなくなった。ということで、いつものごとく、既刊を振り返ることにしよう。

前から気にはなっていたが、読んでいなかった本のひとつ――それが、この『日本辺境論』だ。なぜこれを読もうと思ったのかというと、なんでも、丸山眞男の論考が本書と絡んでいるとのことだからである。それで興味をもった次第。

さて、読んでいて早々、気になる箇所にぶつかったのでそこを引用する。

ご存じのように、「日本文化論」は大量に書かれています。世界的に観ても、自国文化論の類がこれほど大量に書かれ、読まれている国は例外的でしょう。「こんなに日本文化論が好きなのは日本人だけである」とよく言われます。それは本当です。その理由は実は簡単なんです。私たちはどれほどすぐれた日本文化論を読んでも、すぐに忘れて、次の日本文化論に飛びついてしまうからです。(p.22)

たしかに、我が国では掃いて捨てるほどの「日本文化論」がある。表現されるメディアは問わず、学術的考察をした本から、一般人の書くブログまで。もちろん、当ブログも例外ではない(過去にその類の記事は結構書いてきた)。

これと形が似た現象がある。それが、「占い」だ。我が国では、様々な形の占いが、様々なメディアに登場している。性格占い、血液型占い、運勢占い、恋愛占い、姓名占い、などなど。そういえば、昨今は就活時にも「自己分析」とかいう(一歩間違えれば)占いくさいことをやっているではないか。

我が国でいう「占い」とは、だいたいの場合、「分析」と言い換えても差支えがないように思う。日本文化論も、結局は日本という国の「分析」である。この国(の人たち)は、自らを「分析」することが大好きなのだ。では、なぜ大好きなのか。それは、分析された時の、あの「あっ、それ、当たってるかも」という、“あの感覚”が快感なのではないだろうか。とりあえず、他者から「あなたは、◯◯なところがあるのではないですか?」と言われ、それに対して思い当たるフシがあった時、その「合致した」という感覚が、楽しいからではないだろうか。

こんなことを考えつつ、さらに本書を読み進めていくと、また気になる箇所に遭遇する。

私たちが日本文化とは何か、日本人とはどういう集団なのかについての洞察を組織的に失念するのは、日本文化論に「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰することこそが日本人の宿命だからです。
日本文化というはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません(あら、いきなり結論を書いてしまいました)。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。(p.23)

これはおもしろい考えだ。「決定版」を与えず、同一の主題に繰り返し回帰する」ことが、われわれの「宿命」なのだそうである。そしてそれは、「「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在し」ないのだという。

ところで、これもさっきの「占い」の話と形が似ていないだろうか。「占い」も結局は、「問い」から始まる。「自分ってどんな性格なんだろう?」とか「自分ってどんな人生を歩むことになりそうなのか?」とか、そんな「問い」から「占い」が始まることが多い。

だが、そんな問いから始まった占いも、時間が経つと、われわれはすぐに占われた結果を忘れる。忘れるからこそ、また占いに目が行く。そしてまた忘れる――我が国における「占い」とは、この繰り返しであり、だからこんなにも、ありとあらゆるところで「占い」が何度も何度も登場する、いや、「回帰」するのではないか。それも「組織的」に、である。

わたしが思うに、要は日本文化論というのは、ある種の「占い」なのだ。日本文化論というのは、おかしなことに、「日本文化とはなにか?」という問いに対して、きっちりとした裏付けのある回答を出すことに主眼が置かれるのではない。ただただ「日本文化とはなにか?」という問いに対し、日本(あるいは日本人)に対する「印象」を、ただただ言葉にしてみて、「ああ、合ってる合ってる」とか「たしかに、そうかも」とか「それ、すごく言えてる」といったような、その日本文化論とその読者との間に起きた、「合致感」を楽しむために、存在しているようなものなのだと思う。

だから当然、日本文化論というジャンルにおいて、論考の「堆積」という現象は起こりにくい。その代わり、日本文化論という空間において、いくつもの論が、ただただ同一平面上に並んでいるだけなのではないか。「堆積」したものは、その性質上、「下から上へ」と「登っていく」ことで、当該の現象を把握され得るが、同一平面上に併存している場合、それはただAという論に行ったり、Bという論に行ったり、Cという論に行ったり、はたまた戻ってAに行ったり・・・という「回帰性」が拭い去れないのである。

上記、引用した2箇所は、「日本人はきょろきょろする」という項から引っ張ってきたものだが、そう、この「回帰」という言葉は、言い換えるなら「きょろきょろする」というのとほとんど同義なのである。

最近、「リア充」とは別に、「キョロ充」なる言葉も人口に膾炙していて、そういう人をバカにするのが、ネット上(特に2ch)では通例になっているが、いままで述べてきたとおり、日本人からこうした「回帰性」が取り除かれない以上、われわれは(ほとんど)みな「キョロ充」であると言っていい。要するに、きょろきょろと辺りを見回して、自分と近しい者と一緒になろうとするのは、「日本人」である以上、もはや「そんなの、当たり前じゃないか」程度の行動だと思う。

では、なぜ「キョロ充」が蔑視の言葉として、こんなにも広まっているのか? それはおそらく、「キョロ充」を蔑視する者の中にある「キョロ充的側面」を、他者にも見出した時、いわゆる「同族嫌悪」なるものに襲われるからではないだろうか。「オレ、こんなヤツと同じところがあるなんてイヤだ」という強い思いは、その他人を否定することで、その他人と同じものを持つ自分の「嫌いなところ」を、「とりあえず」解消したことになるからではないだろうか(だが、実際は解消できていないのだが)。

さて、この「回帰」という言葉、これをもっと「言い得て妙」に仕立てているのが、次の箇所だ。

(日本文化論は)数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文々が別のより新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある。より、正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある。(p.23-24)

「変化の仕方が変化しない」――これは本当にすごい見方だ。何せ、何百年もこの国において支配的な「無常観」という一思想が、唯一(といっていいほど)見落としていた「変化の仕方が変化しない」という事実を、本書が「変化しないものもあるんだよ」と、こんなにも分かりやすい言葉で指摘してしまっているのだから。

「変化の仕方が変化しない」というと、私の中ですぐに思い起こされるのが、「◯◯ブーム」なる現象である。我が国では、本当にまあ、ありとあらゆるところで「ブーム」が起きる。なんだかよくわからない、47都道府県それぞれのオリジナルキャラクターブームとか、「理系の女性(山登りする女性、森に出かける女性、歴史好きの女性、でもなんでもいい)が、いま熱い!」的なブーム、そしてちょっと前には、「漢字ブーム」がどうのこうのとか(そもそも、「漢字」が「ブーム」っていうのがよくわかないが)、もはや「ブーム」という一過性ではなくなった「黒縁メガネ」ブームとか、とにかく色々と「ブーム」が起きる。この国では。

しかし、唐突に起きたように見えるこれらのブームも、よくよく観察してみれば、「変化の仕方が変化しない」ことに気がつく。たとえば、さっき述べたキャラクターブームも、もとをただせば「アニメ的」なものを愛でる文化というか国柄というか、そういうものが以前から長く続いていて、それがただ「都道府県のオリジナルキャラクター」という「別の形」として現れただけであって、「アニメ的」なものから「アニメ的じゃない」ものを愛でるようになった、というような変化はしていない。つまり、「変化の仕方は変化し」ていないのである。

「◯◯な女性」ブームについても、そもそも「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」という前提みたいなものがまずあって(というか作って)、そこから「「女性が◯◯するなんて珍しいorすごい」からブームになる」という論理を導き出すことで、変化(ブーム)を起こすという「仕方」も、「◯◯な女性」ブームの「変化」の「仕方」としては、ずっと変化していない。

誤解をおそれずに要約するならば、我が国での「ブーム」の起こり方とは、まず「◯◯というのは今までになかった!」といったような論理を(真偽の程などいざ知らず)、あたかも「(新)事実」であるかのように、それも唐突に大衆の前に持ち出し、その後に「だからすごい!」「乗り遅れると損をする!」「だからみんなで◯◯しよう!」といった結論を唱える、といったものなのだ。で、こうした「変化」(ブーム)の「仕方」(起こり方)は、もうずっと「変化」していない。というか、本当にブームかどうかなんて別にどうでもよくて、まず「◯◯はブームである」という宣言を(大きなメディアが)すること自体が、ひとつの「ブーム」であるといったところだろうか。

こうした「変化の仕方が変化しない」という「回帰性」そのものについて、良い・悪いを言うのは簡単なことだが、それらを抜きにして、こうした現象が今までにほとんど省みられることがなかったという事実があるのは、(さきほども述べたように)「分析」好きな国民性であるだけに、なんとも「皮肉」なことだったと思う。結局のところ、「分析」した“結果”や“方法”がどれだけ秀逸であるかを確認することよりも、「分析」することそのものや、「分析」した結果をみんなで楽しみ、共感することの方に、どうやら重きが置かれたらしい。

――話が長くなったので、ここまで。
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